中国との交渉に関するチベット政府の立場


WTN News - Special Tue, 29 Apr 1997
The Tibetan Government's Position on Negotiations with China

中国との交渉に関するチベット政府の立場

ダラムサーラ発
1997年4月

1997年4月17日、新華社電は『分離主義者の意図を隠したダライ・ラマの提案は「陰謀 」だ』との表題をつけた記事を発表した。この記事は、国際世論を誤った方向に導こう とする意図をもって発表された、巨大な事実歪曲である。したがって、1978年から1997 年に至るまでのチベット人指導者と中国人指導者との交渉の経過を、我々は次のように 公表するものである。我々の努力が真剣であった否か、また真摯な交渉がなぜ成立しな かったのかは、国際世論の判断に任せたいと思う。

チベットが中国の一部であることをダライ・ラマ法王が認めることが、交渉を始める前 提条件だと中国は言っていた。これは歴史の歪曲を、法王に要求するに等しい行為であ る。

諸事実:共産中国は最近までチベットに対する主張の根拠を、7世紀にチベットのソン ツェン・ガンポ王と中国人の王女が結婚したことに置いていた。チベット王にはその他 にも、ネパールから嫁いだ王女ブリクティ・デヴィが既にいたことを、都合良く忘れ去 った主張であった。北京はこの主張を維持することができないと見るや、彼らの主張の 歴史的起源を、チベットに対するモンゴルの影響が確立した13世紀に移した。しかし ながらモンゴル人は中国人とは異なった民族であり、中国人は彼らを常に異国人と見な していた。1911年国民党が革命を起こし、清帝国を倒した。孫文はこの時、中国は2度 外国の勢力に占領された、と語っている。1度目はモンゴル人であり、2度目は満州皇 帝によってであった。

いずれにせよ、チベットに対するモンゴルの影響は1350年に終わりを告げた。中国がモ ンゴルを駆逐する18年前のことであった。

1949年、ネパールが国連に加盟申請をした時、自らを主権国家と主張する根拠としてチ ベットとの外交関係を挙げた。国連はこの主張を認め、その結果国連はチベットも主権 国家として認めたことになった。

チベットに関する国連総会の論議において、アイルランドの代表フランク・アイクテン は、「4000年間あるいは、どんなに少なく見ても2000年間、チベットは自由な国家であ った。またこの総会に参加しているいかなる国家に比べても遜色ない、完全なる自治を 実施していた。自らの政策を実施する自由に関しては、ここに参加している多くの国々 の1000倍もの自由を有していた程である」と述べている。

法律家国際委員会、米国議会、ドイツ連邦議会、また様々な独立機関の研究成果が、中 国によって侵略された時に、チベットが独立国家であったことを証明している。

ダライ・ラマ法王を含めてチベットの国民は、伝統的なチベットの社会が決して完璧で はなかったことを認めている。それでも、1949年に中国によって侵略されるまでの2000 年間、人々は満足できる生活を送っており、飢餓も存在しなかった。ダライ・ラマ法王 は暫定的に政権の座に着くや、即座にさらなる改革を指導し、チベットの社会および政 治制度の民主化を進めた。1960年、チベット国民議会(亡命チベット人議会)による、 最初の代表者制度の政府がインドの地で導入された。1963年、ダライ・ラマ法王は現代 民主主義の原則に基づいて、将来のチベットの憲法を公布した。

1992年2月、ダライ・ラマ法王は『将来のチベットの政策と憲法の基本的特色に関する ガイドライン』を発表した。その中で、チベットの将来の政府において、法王はいかな る役割も果さない、いわんやダライ・ラマの伝統的な政治的立場を求めることはないと 述べている。また将来のチベット政府は、成人の選挙権を基盤に選出されることになろ うと、ダライ・ラマ法王は述べている。チベット国民の闘いは、伝統的な制度の回復を 目指そうとするものでも、少数の個人の過去の立場を回復しようとするものでもない。

中国は歴史的にダライ・ラマの称号を授け、またダライ・ラマの選定を承認して来たと の、中国政府の主張は次の2つの例から過ちであることが立証される。ダライ・ラマの 称号を最初に贈与されたのは、第3世ダライ・ラマ、ソナム・ギャツォで、アルタン・ カンのモンゴル宮廷から贈られたものであった。また第14世ダライ・ラマの選定が中 国政府の承認の元に行われたとの、中国政府の主張の過りは、全国人民代表大会常任委 員会副議長のガポ・ガワン・ジグメが、1989年8月31日に中国の公式新聞西蔵日報に発 表した記事で、「写真を根拠にして即位式を主催したとのウー・ゾンシンの主張は、歴 史的事実の露骨な歪曲である」と暴かれている。ウー・ゾンシンは、英国や他の政府の 代表と一緒に即位式に参列した中国の代表団の団長であった。


中国政府は常に、ダライ・ラマ法王およびチベット亡命政府を、チベットの不安定さと 騒動の原因であると非難している。責任を転嫁するのは止めよう。故パンチェン・ラマ がチベットの真の状況について、1987年に北京で開催された全国人民代表大会のチベッ ト自治区常任委員会の委員らに対して、語らざるを得なかった言葉を振り返って見てみ よう。

漢民族のチベット移住

「チベットにおいて中国人1人を養うために要する費用は、中国で4人を養う額に相当 する。なぜチベットが彼らを養うために、お金を使わなければならないのか。現在で は、チベットにやって来る軍人は家族連れだ。彼らは、アメリカの雇い兵みたいなもの だ。お金のために戦い、お金のために死ぬ。これは馬鹿げている。チベット人は、チベ ットの正規の主人ではないか。チベット国民の願いや感情が尊重されなければならな い」

教育

「中央政府は、チベットにおいてチベット語を学び使用することの重要性を、繰り返し て語って来た。しかし、それを実行する方策には全く手が着けられなかった。チベット は、全くお粗末な翻訳能力しか持ち合わせていない。私は、チベット語−英語間の通訳 を見つけることができなかった。だから中国人の通訳を使って、中国語で話さなければ ならなかった。そのことが、外部の人々には非常に悪い印象を与えてしまったに違いな い。この事実が、チベットの教育レベルがいかに低いかを示している」

チベットにおける左派の行状

「チベットにおける左派の行状から、我々が得られるものは何だろうか。左派のイデオ ロギーを持っていた人々は、全てのことを弾圧した。近年胡耀邦同志が失脚したとき、 左派の役人たちは爆竹を鳴らし、祝いの酒を飲んだ。チベット人民の強力な支持者は失 脚したと、彼らは語り合っていた」

チベット人指導者たちは、『扇動』をしたのは彼らであるとの容疑を、繰り返し繰り返 しきっぱりと否定して来た。チベットにおけるデモの背後には彼らがいるとか、ある種 のテロ行為に彼らが関わっていると言われる度に、これらの重大な容疑の証拠を中国政 府に要求して来た。また国際的な独立機関がチベットを訪問し、問題の真の原因は何な のかを判定することを許可するように要求して来た。今日まで北京から何らの回答も得 てはいない。


1949年の中国によるチベット侵略以来、チベット政府およびダライ・ラマ法王は、チベ ット問題を平和的に解決するために継続的な努力を続けて来た。まず最初にダライ・ラ マ法王は、毛主席を含めた中国人の最高指導者たちに会うために、1954年北京を訪れ た。不幸にも中国は、法王に与えた全ての約束を破ったために、1959年3月10日のチベ ット国民の決起を迎えることとなった。そしてその結果、ダライ・ラマ法王は8万人の チベット人と共に、インドに逃れることとなった。

1959年から1979年まで、チベット亡命政府と中国政府は全く接触をしなかった。しかし ながらこの間に、ダライ・ラマ法王は希望を回復し、中国政府との交流と対話によって チベット問題を平和的に解決し得ると考えるようになった。インドに亡命した直後の19 59年6月20日に、ダライ・ラマ法王はムスーリで報道声明を発表した。その中で法王は 語る、「中国政府のチベットにおける最近の政策と行動が、中国政府に対する非常に強 い敵意と苦々しい思いとを我々の中に生み出した。しかし、我々チベット人は僧侶も一 般人も、偉大な中国の国民に対してはいかなる敵意も憎しみも抱いてはいない。我々は また、平和解決の前提条件として、即座に本質的な対策を講じることによって、好まし い環境作りをするように主張するものである」

1976年の毛主席の死去後の中国の政治的な変化を受けて、1978年3月10日のチベット国 民に向けた声明の中でダライ・ラマ法王は、「中国人は、チベットにいるチベット人 が、現在亡命中の両親や親戚を訪問することを許可すべきである。また同様な機会が、 亡命中のチベット人にも与えられるべきである。そういった配慮によって、チベット内 部の真の状況を知ることができるとの自信を、我々は持つことができるであろう」と語 った。

1978年の末、ダライ・ラマ法王の兄ギャロ・トゥンドゥプ氏は、共通の友人である香港 新華社の部長リー・ジェイシン氏を通じて接触を受けた。招待されたトゥンドゥプ氏は ダライ・ラマ法王の承認を得て、1979年2月個人的に北京を訪れた。

トゥンドゥプ氏は、北京で中国人指導者たちに会った。彼らは、『4人組』の下で中国 はひどく不安定に陥り、工業と農業の分野で発展が阻害された、と口々に語った。チベ ットも同じ被害にあったと彼らは語り、1959年のチベット人の決起も幾つかの要因によ るものであり、ダライ・ラマ法王にもチベット人も責められないと、付け加えた。

トゥンドゥプ氏との会談においてトウ小平氏は、チベットの完全独立以外の全ての問題に ついて、チベット人と協議をし解決する用意があると語った。

ダライ・ラマ法王とチベット政府は、1979年から1980年にかけて3度の実情視察団を派 遣して、これに応答した。

それ以来、ダライ・ラマ法王は中国政府とより密接な関係を築き、より良き理解を深め ようと、真剣な努力を続けて来た。我々は信頼関係を築くために幾つかのステップを踏 み、交渉の主導権を握った。

例えば、1980年7月21日、チベット内外の親戚を訪問したいというチベット人に対する 旅行制限を緩和するように、我々は提案した。しかし北京はこれを拒否した。

1980年9月、亡命政府はチベットの教育を手助けするために、およそ50人のチベット人 を指名して、派遣することを提案した。これに対して中国は、チベット人の若者はイン ドの恵まれた環境の下で育ち、教育を受けているので、チベットの劣悪な生活環境には 適応し切れないないだろうとの理由を挙げて、中国はこの問題を先送りにした。代わり に、先生たちに中国各地の民族学院で教えてもらおうと、提案をして来た。亡命政府 は、チベット人ボランティアたちはチベットの劣悪な環境を十分認識しいると回答し た。しかし、中国政府は許可をしない理由を十分に述べないだけでなく、チベット人教 師はまず中国国籍を取得しなければならないと、受け入れ難い条件を付けて来た。

同じ時期にチベット側は、より密接な交流を促進するために北京に代表部を開くことを 提案したが、これもまた拒絶された。

1980年12月14日、チベットに住む11人のチベット人学者がインドで開催されるチベット 学の学会に参加するのを許可するように、チベット亡命政府は中国政府に申し入れた。 これもまた簡単に拒否された。

1981年3月23日、ダライ・ラマ法王はトウ小平氏に手紙を出し、その中で法王が特に伝え たことは次の点であった。「忍耐と寛容の精神を持ち、お互いの知恵を出し合って、早 急にチベット人の真の幸福を実現すべき時が来た。私の側は、国籍による差別を一切せ ず全ての人類、特に貧しい者と弱い者の福祉のために、全力を傾けている。この点に関 するあなたの見解を是非聞かせて欲しいと願っている」

この手紙に対する応答は、全くなかった。その代わり1981年7月28日に、胡耀邦総書記 がギャロ・トゥンドゥプ氏に手渡した文書は、『ダライ・ラマに対する5項目』と題さ れたもので、チベット問題をダライ・ラマ法王個人の地位の問題に矮小化しようとする ものであった。

唯一の真の問題は、チベット国民の将来の幸福であるからこそ、1982年4月ダライ・ラ マ法王は3人の高官から成る代表団を北京に送り、中国の指導者との対話の道を開こう とした。この代表団は、中国の指導者が考慮すべき広範な提案を持参していた。

両者は、秘密の接触を持続することで同意した。しかし、チベットの代表団が6月8日に インドに帰還するや否や、中国外務省のスポークスマンは会談の内容を歪曲して発表し た。あたかも我々の代表団が、台湾が統一を受け入れた場合に彼らに約束されたのと同 じ立場をチベットも要求したかのようにほのめかしたのだ。AP電が1982年6月18日に 伝えた中国のスポークスマンの発言は、以下の通りである。「台湾の場合と同じ9項目 の政策を、チベットにも適用するか否かというが、その問題そのものが存在してはいな い」また1982年12月には再び、中国の公式週刊誌『北京週報』が、我々の会談の内容を 別の形に歪曲して伝えた。

しかしながら、チベット側は秘密保持の申し合わせを守って、報道関係からの問い合わ せにも会談の内容を漏らしたりはしなかった。その結果、チベット亡命政府はチベット 人からもまた支援者からも激しい批判を被った。

1983年2月、ダライ・ラマ法王はチベット訪問の希望を表明した。

1984年10月、別の3人の高官から成る代表団が北京に派遣され、チベットにおける最近 の政治的弾圧を止めるように申し入れた。同時に、ダライ・ラマ法王のチベット訪問の 可能性を話し合い、将来的に会談を継続する可能性を探った。しかし、これらの提案に 対する中国側の反応は、好意的なものではなかった。

こういった働きかけをチベット側がして来たにも拘わらず、中国の指導者は真剣で実り のある交渉を通して、チベット問題を解決することに関心を示さなかった。実際、北京 の指導者は真剣でも真面目でもなく、時を稼いでいる内に様々な抑圧手段によって、チ ベットの支配をより強固なものにしようとしていた。

このような状況下にあって、ダライ・ラマ法王は1979年以来中国の指導者に直接提示し て来た提案を、国際社会の支援を求めて公開で呼び掛けなければならなくなった。

1987年9月21日、米国議会の人権小委員会でダライ・ラマ法王は演説し、5項目のチベ ット和平案を示した。5項目は以下の通りである。

※ チベット全土を平和地帯にする;
※ チベット人が民族として存在することさえ脅かしている、中国人の移住政策を放棄   する;
※ チベット人の基本的人権および民主的な自由を尊重する;
※ チベットの天然資源を復元し保護し、中国がチベットを核兵器の生産基地として使   用し、また核廃棄物の投棄場所として使用することを停止する;
※ チベットの将来の地位およびチベット国民と中国国民の関係に関する、誠実な協議   を開始する;

中国の指導者は1987年10月17日にこの提案を拒否し、中国政府との溝を拡大したと、ダ ライ・ラマ法王を非難した。この無礼な対応にも拘わらず、ダライ・ラマ法王は14項目 から成る詳細な覚書という形でチベットの立場を明らかにし、1987年12月17日に中国政 府に伝えた。

ダライ・ラマ法王は5項目の和平提案の第5番目に盛られた、交渉に関する点をさらに 詳細にして、もう一つの提案を1988年6月15日シュトゥラスブルクの欧州議会において行 った。

前以てこの演説の内容は、ニューデリーの中国大使館を通じて中国政府に知らせてい た。その後、ニューデリー在住のダライ・ラマ法王の代表は、8月22日と29日に中国の 代理大使に会い、中国政府が様々な報道声明を通じて表明していた幾つかの不安につい て話し合った。その中で代表が特に強調したのは、シュトゥラスブルクの提案はトウ小平 氏が1979年にギャロ・トゥンドゥプ氏に伝えた声明の枠に収まるものであった、という 点であった。つまり、それは完全独立以外のテーマについては、何についてでも議論を し解決を図るというものであった。シュトゥラスブルクの提案で、ダライ・ラマ法王は 中国との分離よりも、むしろ中国との関係に言及していた。

間もなく、チベットの交渉団の名簿が発表され、真剣な協議に入ろうとするチベット亡 命政府の期待と誠実さが示めされた。

1988年9月21日午前、ニューデリーの中国大使館はダライ・ラマ法王の高官に連絡を取り 、中国政府はダライ・ラマ法王の代表と交渉をする用意があることを伝えた。交渉は北 京か香港、あるいはそれ以外でも中国の大使館か公使館がある所でということであっ た。もしダライ・ラマ法王が、これらの場所が都合が悪いと言うのであれば、別の開催 地を選んでも良いという。その日の午後、中国大使館は上記の経過をニューデリーの報 道関係に公表した。彼らの立場を公表することを一方的に決定したのは中国政府であっ て、チベットの指導者にその容疑を掛けるのは全く反対のことである。

チベット人の指導者は、交渉に期待を示した中国政府の姿勢を評価し、1988年9月23日 次のように声明を発表した。「我々の提案に対する中国側の積極的な反応は、今度は彼ら もこの問題に真剣に取り組もうという姿勢を示すものだ」

1988年10月25日午前、中国政府はニューデリーの中国大使館を通じて、交渉の候補地は ジュネーブが最も便利でまた中立的であり、交渉の開始日は1989年1月にすべきであると の、報告を受けた。その日の午後、1988年9月21日に中国大使館がやったように、チベッ ト亡命政府もその情報をニューデリーの報道関係に流した。

1988年11月初旬、中国統一工作部の部長ヤン・ミンフ氏はギャロ・トゥンドゥプ氏に、 シュトゥラスブルクの提案は幾つかの点で考え方の違いがあるが、議論をし解決するこ とが可能であろうと語った。

しかしながら1988年11月18日、中国政府はニューデリーの大使館を通じて、次のような 交渉の前提条件を伝えて来た。

中国政府は、交渉の候補地と日程が公表されるようなやり方には賛成できない。交渉に 最適の地は、北京である。
ダライ・ラマ法王によって指名された6人の交渉団は、その全員が常に分離主義的活動 に参加しているものであり、受け入れることはできない。
この交渉は国内問題だけに関するものであるので、オランダ人の法律家も交渉団に入れ ることはできない。
中国政府はダライ・ラマとの直接的な交渉を望んでいるが、信頼するダライ・ラマの代 表例えばギャロ・トゥンドゥプ氏を交渉団に入ることを望む。
シュトゥラスブルクの提案は交渉の基盤にはならず、交渉の前提条件は祖国の統一を受 け入れ支持することである。

チベット政府は、この連絡がそれまでの声明や北京からの公式連絡と整合性がないこと で、当然の事ながら失望をした。

1988年12月4日、チベット政府は中国の連絡に対して応答し、次のように伝えた。
中国政府は、交渉の日程と候補地の選定をダライ・ラマ法王に任せていたので、候補地 としてジュネーブを選び、1989年1月から協議を開始すると、法王は迷う事なく回答し た。多くの場面で中国政府は公に述べただけでなく、事務連絡を通しても告げて来てい たのは、ダライ・ラマ法王に指名されたいかなる人間とも会い、交渉をする用意がある ということであった。したがって、ダライ・ラマ法王によって選定された代表団を中国 が拒否するとは、誰も予想していなかった。法王が彼の代理人として誰を指名するの も、それはダライ・ラマ法王の権利である。マイケル・ヴァン・ウォルト・ヴァン・プ ラーク氏は、交渉団の一員ではなく法律顧問に過ぎない。また中国政府の提案を受け て、ギャロ・トゥンドゥプ氏がチベット側の顧問として交渉に加わることになろう。チ ベットの将来に関する公平で実りのある交渉は、どちら側からも前提条件を付けないこ とでしか成立しない。シュトラスブルクの声明に盛り込まれた提案は、そのような議論 に最適の合理性と現実性を持っている。

中国政府がこれまでの提案を全て拒否したにも拘わらず、ダライ・ラマ法王は1989年4月 19日ニューデリーの中国大使館を通じて、別の提案を中国政府に伝えた。「交渉の手続 き上の問題を敬意を持って解決するために、何人かの代表を香港に派遣し」、「面と向 かって話し合うことによって交渉開始の障害を取り除こう」というものであった。この 提案もまた拒否された。

1989年1月、パンチェン・ラマがチベットで亡くなった。ダライ・ラマ法王は10人のチ ベット宗教代表団を、シガッツェのタシルンポ僧院またクンブン僧院、ラブラン・タシ キル僧院等のチベット内の幾つかの地域に派遣し、パンチェン・ラマのために祈りを捧 げ、カラチャクラの儀式を挙行しようとした。中国は、この規模の儀式の前例がないと の理由でこの申し出も拒否した。

パンチェン・ラマの葬儀への招待状がダライ・ラマ法王に届いたのは、チベットに戒厳 令が敷かれている時であった。当然のこと、訪問を実施できるような状況ではなかっ た。

1991年3月21日、中国政府はニューデリーの大使館を通じて、パンチェン・ラマの転生 化身探索のために手助けをしたいという、ダライ・ラマ法王の申し出を知らされた。法 王の願いは、ラサ近郊の聖なる湖ラモ・ラツォに宗教代表団を派遣し、祈願をして湖に 浮かび上がる予言的な幻影を観察したいというものであった。中国は、『外部の介入』 は必要ないという理由で、3カ月後にこの提案を断って来た。

これらの希望を打ち砕くような経験にも拘わらず、ダライ・ラマ法王は事態を手詰まり のままで放置したくなかった。1991年10月、法王は中国政府に対して新たな提案を行っ た。高位の中国人指導者を伴って、個人的なチベット訪問を行い、チベットの現状に直 接触れてみたいというものであった。

同じ精神に基づいてダライ・ラマ法王は、中国の李鵬首相が1991年12月にインドを訪問 した際に、首相に会見しようと思った。しかし、こういった積極的で建設的な働きかけ もまた拒否される結果となった。

こういった事実を踏まえて、チベット国民議会(亡命チベット人議会)は1992年1月23 日、これまで全ての働きかけはチベット政府の側からなされており、これに応答する責 任は中国にある、との決議を通過させた。この決議はさらにこう述べている。もし提案 が中国政府の側から、直接あるいは第三者経由で発せられても、チベット政府は交渉に 反対はしないであろうと。

1992年4月ニューデリー駐在の中国大使は、ギャロ・トゥンドゥプ氏(当時トゥンドゥ プ氏はチベットの閣僚であった)に接触をし、次のように伝えた。中国政府の立場は、 これまで常に『保守的』であった。しかしチベット人が『現実的』になるのなら、中国 政府も『柔軟』になるであろうと。そして大使は、トゥンドゥプ氏を中国に招待した。

中国大使の言葉にも拘わらず、トゥンドゥプ氏が6月に訪中しても、中国政府の姿勢に は柔軟さの兆しはなかった。実際の所、ダライ・ラマ法王個人に対して辛辣な批判がな されていた。

そこでダライ・ラマ法王は、トウ小平氏と江沢民氏に当てた私信と詳細な覚書を持たせ て、2人の代表団を1993年6月に中国に派遣した。中国政府が問題にしている点につい て、見解を表明し説明をするためであった。

その覚書の中でダライ・ラマ法王は述べている。「もしチベットに、中国と一緒にいて 欲しいと中国が望むのなら、その為に必要な条件を作らなければならない。チベットと 中国が仲良く暮らして行くためにはどうすれば良いのかを、中国人が示さなければなら ない時が来た。チベット人の基本的な立場に関する設計図を、次第に詳しく明らかにし なければならない。そういった明快な設計図が与えられれば、合意をする可能性がある か無いかは別問題にして、中国と一緒にやって行くか否かを我々チベット人は決定する ことができるであろう。我々チベット人が満足できる程の基本的権利を獲得できるので あれば、中国人と一緒に暮らして行くことに利点を見いだし得ない訳ではない」

誤解を解き関係を密にするために真剣な努力を続けて、1993年8月、3人の高官から成 る別の代表団がニューデリーの中国大使と会見をした。この会談において代表団は、19 79年以来のダライ・ラマ法王の全ての演説の原稿を大使に手渡して、ダライ・ラマ法王 がどこでチベット独立を要求しているか、指摘するように要求した。また代表団は、信 頼関係を構築するためにも、月に1回定期的に中国大使館で会談し、意見交流をしよう ではないかとの提案を行った。

しかし、1993年8月に中国大使がロイターのデリー特派員のインタビューに答えて、こ れらの提案を拒否した。これもまた、北京との相互関係を築こうとするチベット人の真 摯な試みが、中国側によってはねつけられた1つの例であった。

1994年4月27日、ダライ・ラマ法王はニューヨークの世界安全保障同盟と外交委員会で 演説し、「関係を打開するために、共産党の常任委員会の誰とでも第三国で会いたい」 と述べたが、北京からの積極的な応答はなかった。

中国指導部の不透明な対応に直面して、ダライ・ラマ法王は1994年3月10日の声明 で、「私の努力が、実質的な交渉を進展させることにも、またチベットの状況を全般的 に向上させることにも失敗したことを認めなければならない。中国側との理解点に到達 するために、試みなかった手段はもう存在していない。実りのある交渉を実現するため には、国際社会の支持と支援とに期待を置くより他に道はなくなったので、このことに は私はまだ関わりを持っている。これも失敗したら、明らかなる良心を持ってこの政策 を持続させることはできなくなるだろう。だからこれまでも何度も発言して来たよう に、我々の自由のための闘いの方針を我が国民に相談することが、私の義務であろうと 強く感じている」と述べた。

国民投票の準備が全力を持って始まり、ダライ・ラマ法王は国民投票の最終的な結果が 出るまでは、現在行われている法王の中道の方針に全く変化はないことを言明した。中 国政府が疑っているように、法王が交渉の扉を閉じたと言うのは間違っている。

最近のダライ・ラマ法王の台湾訪問に関して、1997年2月24日、法王は声明を発表し た。「私の台湾訪問は当然宗教的なものになるだろうが、それを政治的に解釈したい人 たちはいるだろう。だからこの際、チベット人の闘いは中国人に反対するものでも中国 に反対するものでもないことを、繰り返して述べて置きたい。過去何年間も、北京の中 国人指導者との交渉によって、チベット問題を平和的に解決することを目指して来た。 また私はチベットの自治のために、交渉の枠組を提案して来た。こういった働きかけ は、真の和解と妥協の精神に基づいている。これまでのところ、中華人民共和国政府は 積極的な反応を示していない。しかしながら、トウ小平氏が亡くなったことが、チベット ・中国の両者に新たな切っ掛けと機会を提供するであろうと、私は信じている」

中国人の指導者は、ダライ・ラマ法王が1996年10月23日に欧州議会の演説で繰り返して 述べた、交渉に対する姿勢には全く変化がないことを知るべきである。「私は、今でも 中国との交渉に関わっている。両方が受容可能な解決策を見いだすために、私は『中道 の方針』を取って来た。これはまた、トウ小平氏が『独立以外のすべてのことを議論し解 決し得る』と語った言葉に応えることであり、氏が保証した枠組の中に収まるものであ る。トウ小平氏が彼が保証したことを実現できなかった、ということが残念でならない。 しかしながら彼の後継者たちが、交渉によって我々の問題を平和裏に解決する知恵を見 いだすであろうと、期待している。私が求めているものは、チベットの真の自治政府で ある。前提条件無しに、何時でも、何処でも中国と交渉を始める気持ちでいることを、 今日また繰り返して語って置きたい」

最後に、北京の新指導部ができるだけ早くチベット問題解決のために、真剣さと好意を 示してくれることを強く期待したい。

インド、ダラムサーラ
チベット中央政府、情報外交部秘書官


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