45号(2000年12月)

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 亡命チベット人音楽学者の母、中国の刑務所で息子に面会

TIN News Update, 09 August 2000
Exile Tibetan musicologist's mother visits son in Chinese prison

亡命チベット人音楽学者の母、中国の刑務所で息子に面会

ンガワン・チューペルは伝統音楽と舞踊のビデオ撮影をするためにチベットを旅行した後「スパイ活動」の罪で18年の刑を宣告された。先週、以来5年目にしてはじめて、その母が息子との面会を許された。母ソナム・デキとその弟ツェリン・ワンドゥは先週、四川省の省都成都で、現在32歳の元フルブライト奨学生ンガワン・チューペルに面会した。2度にわたる1時間の面会は厳しい監視のもとで行なわれた。彼らは金属の格子で隔たれ、いかなる物理的な接触も許されなかった。また、警備要員がいたために会話も限定され、ンガワン・チューペルと母親は、もし泣きやまないのなら面会は終わりにすると告げられた。

ンガワン・チューペルは、およそ1月前に、チベット自治区第二刑務所(ポウォ・タモとしても知られる)から成都の刑務所に移送され、そこで母親との面会がかなった。成都に移送された理由は、治療が必要とされているからだと、ソナム・デキとツェリン・ワンドゥは聞かされた。ンガワン・チューペルは、ポウォ・タモの職員らが治療や検査を怠ったためにハンガーストライキを行なったことがある。成都の医療設備は、ラサから650km東の遠隔地コンポ地区ポメ県にあるポウォ・タモよりは洗練されている。ンガワン・チューペルがチベット自治区から中国内地へ移送されたことは、彼の中国当局にとっての政治的な重要性を示すとともに、チベット人政治囚たちからは隔離させようという当局の意図を示し、母親とおじの面会に際して、可能な限り高度な警備を保証しようというものだったのだろう。成都への移送が恒久的なものかどうかは不明である。

インドへの帰途、昨日(8月8日)カトマンドゥに到着した母とおじによると、ンガワン・チューペルは身体が衰弱しているようで、精神的にも健康には見えなかったという。おじツェリン・ワンドゥは「彼は骨と皮だけになっていた。病気にかかっており、成都の病院で治療を受けていると言っていた」とTINに語った。ンガワン・チューペルによると、彼は肝臓と肺と胃を悪くしており、おそらく尿道の感染症にもかかっていると医師に言われたという。以前あった報告によると、彼は結核を患っている可能性がある。

面会は監視されていたため、ソナム・デキは、刑務所で行なわれているらしき虐待について息子と大っぴらには話すことができなかった。しかし、ある刑務所幹部が面会のときにソナム・デキに語ったところによると、ンガワン・チューペルはまったく「罪を自白」しない「難しい」受刑者だったという。この説明は、ンガワン・チューペルの拘留についての当局による以前の説明と食い違っている。1997年2月、ンガワン・チューペルの18年の刑の判決を伝えた国営新華社通信は、彼が「自分の罪を自白した」と述べていた。1996年12月26日のラジオ・チベット放送は、ンガワン・チューペルは「ダライ集団の亡命政府および、ある特定の外国(米国のことに言及。彼はバーモントのミドルベリー・カレッジで学んだ)の組織のために情報を収集する」ことを目的に「スパイ活動を行なった」などの行動について「自白した」と伝えていた。刑務所当局は受刑者に対して、自白を繰り返し「罪を受け入れる」よう常に要求する。さもないと罰を受けることになり、それは政治囚の場合特に困難なものとなりうる。尋問に際しては自白を得るために、また刑罰に服している期間中は罰則として、暴力が使用されることが良くある。そして「自白した者に対しては寛容を、反抗する者には厳罰を」という政策が、すべての受刑者に適用されている。ンガワン・チューペルが、1995年に最初に拘留されたシガツェのニャリ拘置所では虐待を受けたかもしれないが、ポウォ・タモでは状況が改善されたようだ。

中国当局は、ソナム・デキとおじに対し、成都滞在中に物理的接触をしないこと、厳しい警備、そして1時間の時間制限という点で、中国の刑務所での面会規則に従せた。しかし、通常のチベット自治区の政治囚への面会については、今や規則ではなく例外となっている。政治囚の家族は、1998年5月のダプチ刑務所内での独立支持抗議行動後の約1年間、親族への面会を許されなかったと伝えられている。そして、チベットからの信頼できる報告によると、ダプチ刑務所の政治囚の家族による面会は、一般に10分に満たない。

面会の間、ソナム・デキとツェリン・ワンドゥは、ンガワン・チューペルとヒンディ語で話すことを許されなかった。刑務所職員が会話を監視できるようにチベット語だけで会話するよう強いられたのだ。2人は、ンガワンは孤独感に苛まれているという印象を受けたという。成都の刑務所にはチベット人は少なく、ンガワンは中国語が喋れない。ンガワンと母は、最初の面会のとき、もし泣きやまないなら面会は終わりとなると看守に警告された。

世界的キャンペーンによってソナム・デキにビザが発給された

世界中の支持団体や米国の政治家たちによる世界的な大キャンペーンの結果、ニューデリーの中国大使館はソナム・デキに対し、中国とチベットを訪問する7日間のビザを発給した。米国の政治家のうち目立ったのは、今年、米中の通常貿易関係を恒久的にする(恒久NTR付与)ことに対し、ンガワン・チューペル投獄についての懸念を理由に反対していた、上院のジェイムス・ジェフォーズ(James Jeffords)議員だった。

ソナム・デキとツェリン・ワンドゥは当初ラサに7日間滞在することになると告げられており、ンガワン・チューペルとの面会が成都で行なわれることは、ラサに到着するまで知らされていなかった。2人はラサの空港を離れることなく直接成都に飛んだ。カトマンドゥに入る際、正しい書類をもっていなかったためネパールの出入国管理局に拘束されているうちに、ラサへの出発は数日遅れていた。

中国当局は1999年5月まで、ンガワン・チューペルの消息についての西側政府からの問い合わせに対し、いっさい確答しなかった。かつて米国のフルブライト奨学生だったンガワンは1995年7月、チベットの伝統的な舞踊についてのドキュメンタリー映画をつくるためにチベットに帰った。彼は1995年の夏、しばしばシガツェ刑務所と呼ばれるシガツェ地区のニャリ拘置所に初めて拘留された。その後、短期間ダプチ刑務所に移された後、ポウォ・タモに移送された。ニャリ拘置所の元囚人が1998年にTINに伝えたところによると、ンガワン・チューペルはニャリ拘置所にいた当時「あまり食べるものがなかったために、痩せて衰弱していた」ようだ。この元囚人はまた、ンガワン・チューペルはニャリで労働を強いられることはなく、一日中居房にいたと伝えている。

ンガワン・チューペルは母親との面会で「私のことは心配いらない。修行を続けてください」と語ったと言われている。おじのツェリン・ワンドゥは「彼との会話は自然なものだとは思えなかった。まるで、言うべきことをあらかじめ命じられていたかのようだった」と語っている。

以上

(翻訳者 長田幸康)
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 ラサで宗教弾圧が強化

TIN News Update, 25 August 2000
Religious crackdown intensifies in Lhasa

ラサで宗教弾圧が強化

チベットの都ラサのジョカン寺から、僧侶がさらに追放されている。政府職員や幹部たちは、子息を僧院・尼僧院から引き上げさせねばならないと命じられている。ラサからの新たな報告によると、チベット人幹部らは、もし宗教行事に参加したら、その子息が学校から追放されることになると警告されている。宗教とダライ・ラマに対する強硬路線キャンペーンがラサ市内や周辺地域で実行に移されており、ラサでは、仏画やダライ・ラマの写真の家宅捜索が目下進行中だ。ラサ市民への見せしめとして、宗教用品や写真がツァンポ川(ヤルン・ツァンポ川)に投げ込まれたこともあるという。

宗教弾圧は幹部や党員だけではなく、その家族全体にも及んでいる。子息を亡命させたままにしておくと職や給料が危なくなるぞという当局による警告があってから数週間のうちに、少なくとも17人の子どもが、ラサに住む家族によってインドの学校から引き上げさせられた。当局は、宗教行為に関わった者を通報するためのホットラインを設け、教師たちは無視論による教育を進めるように命じられている。

チベット自治区における、これまでになく厳しい宗教行為に対する措置は、特に1月のカルマパ17世亡命をはじめとする、チベットでの宗教・保安政策の失敗に対する、地域指導者や中央の党高級幹部らの懸念の結果であろう。チベットにおける宗教政策を正当化しようという企てのもと「愛国的」人物として党に育てられていた、15歳になったカルマパが亡命したことは、北京にとっての大恥であり、その結果、チベットの党書記である陳奎元の地位が問われていると伝えられている。陳奎元は、近年ラサでわずかな時間しか過ごしていないが、チベットにおける最高位の党指導者として、新たな強硬政策の責任者である。陳奎元は4月、四川省の省都・成都で重要な会議に出席したとされている。この会議では、宗教こそが「反中国感情」を象徴するがゆえに、チベット社会における第一の「破壊要因」であるとの表明がなされた。ダラムサラに拠点を置くチベット人権民主センター(TCHRD)によると、多くの地域指導者らが出席したこの会議では、カルマパの亡命がさらに議論された。

この成都での会議に出席した指導者らはまた、7月のダライ・ラマ誕生日を祝うことを禁ずる計画や、6月の15日間におよぶ仏教徒の祭日サカダワ祭をチベット人が祝わないようにする対策を固めた。チベット自治区当局者らは、「迷信」の信仰がチベットの経済発展を妨げていると主張して、自分たちの宗教に対する姿勢を正当化している。6月18日の「西蔵日報」一面の記事は、仏教がいかにチベットの農業生産に悪影響を及ぼしているかの例をあげている。これによると、かつてトゥルン・デチェン(堆龍徳慶)県の農民や牧畜民は、例えばサカダワ祭の期間には農作物や家畜の面倒をみなかったという。穀物を食い荒らす害虫を殺したり、家畜を屠殺したりしようとしないのだ。しかし、今年は「『無神論』と『唯物論』の集中キャンペーンのおかげで、農民や牧畜民らは自らの心を解放し、思想を改革した」と記事は書いている。

親たちは、無神論で子どもを教育するよう命じられた

6月4日付「西蔵日報」のもう一つの通達は、親や教師らに対し「無神論と唯物論」の観点での教育を推進するよう指導するものだった。記事は「宗教の悪影響を取り除くのを促すために、子どもたちは無神論で教育されるべきである」とし、さらに、もし党員や幹部や教師ら自身が「迷信[宗教]行為」に関わり続けるならば、「党の規則にもとづいて罰金が科せられることになる」と警告した。非公式の報告によると、ダライ・ラマの写真が自宅から見つかったいくつかのケースでは、最高数百元の罰金がすでに課せられているという。記事はこう続ける――「深刻なケースでは、子どもが学校に通う権利が剥奪されるであろう」。ラサ市教育体育局規律委員会が発表した「西蔵日報」の記事には、宗教行為に参加した者を通報するための電話番号が掲載されている。

非公式の報告によると、党員や「模範」幹部宅を対象にした仏壇やダライ・ラマの写真の家宅捜索は6月に始まり、ラサ市管轄の7県全域および農牧地帯でも実施されている。県や町村および地域政府役所の職員からなる特別チームによる手入れが行なわれるだろう、とチラシが人々に警告している。ある報告によると、数世帯から押収された宗教的な装飾品や写真が、捜査チームによってツァンポ川に廃棄されたという。ラサ出身のあるチベット人は「まるで第二の文革のようだ」とTINに語った。

ラサの僧院・尼僧院から僧・尼僧の数を減らそうという当局による新たな動きの証拠もある。市政府、民族宗教局、市公安局、寺院の管理委員会の認めた決定によって、7月には30人の僧侶がジョカン寺から追放されたと伝えられている。ジョカン寺の僧侶の公式の定員は120人に設定されているが、寺を去った僧侶の補充は禁止されている伝えられている。政府職員らは、ジョカン寺などの僧院・尼僧院から自分の子息を引き上げねばならない、さもなくば、職を失うことになるだろうと告げられている。

亡命したあるチベット人はTINに「管理人をする最小限の数だけを残して、僧・尼僧を追放することによって僧院の人口激減をしようという政策は、すでに追放された僧侶らに影響を与えるだけではなく、残された僧らや、信心深い一般大衆にとっても深刻な懸念の材料となっている」と語った。

「敵性」欧米メディア報道と闘う新たなプロパガンダ運動

チベット自治区指導部は最近、チベットで宗教弾圧が続いてるという欧米メディアの報道にことさら敏感な様子をみせた。TINは7月7日、チベット自治区当局が、6月の仏教の祭日サカダワ祭を「リンコル」(聖地ラサの周りを巡る伝統的な巡礼路)を行なうことによって祝う者がいれば、政府職員に対しては解雇をちらつかせて脅し、学生に対しては追放で脅し、退職者は年金削減で脅迫したという事実を報じた。

7月24日付の香港の新聞「文匯報」(Wen Wei Po)はこの報告に食ってかかった。その記事は、チベット自治区の名無しの「重要で責任ある人物」の言葉を引用して「『サカダワ』祭が祝われた今年のラサは、お祭りムードでいっぱいだった。祭りの雰囲気は従来と変わらない。チベット人たちは伝統にのっとって、龍神池のまわりに大挙して集まった。マニ車を回して仏陀に礼拝する者もいたし、経文を唱える者もいた。香を焚いて礼拝をする者もいたし、池のほとりに絨毯を広げ、テントを張る者もいた。家族連れたちは歌い、おしゃべりをし、笑いころげて楽しい集いを満喫した。こうした状態を知らない者だけが、『妨害』や『制限』などという噂を信じるのだろう」と記した。

そのチベット自治区代表は「国家は、通常の宗教活動や主要な宗教的・民俗的な祝祭日に参加する[人民の]自由を尊重し保護している。しかし、他の国々や地域と同様に、宗教行事に参加する人々が、法にのっとって、市の交通管理や公衆衛生、社会秩序の妨害をしないよう、我々は求めている。我々は、民族的境界線に沿って国家を分裂させようという企てや、人民を分断し、国家を分裂させ、すべての民族間の団結を妨害するために宗教的狂信を利用することに反対する」とも述べている。

月曜日にニューヨークで開幕する国連ミレニアム平和サミットからダライ・ラマを排除することを巡る国際的な論争にも中国当局は反応している。世界中の1000人以上の宗教指導者が会するサミットからダライ・ラマを排除することは、安全保障理事会理事国としての中国の影響力の大きさによるものだと言われた。8月16日付の国営新華社通信の報道によると、サミットへの中国代表団の出発に先立つ先週、北京で召集された宗教問題に関する会議において、チベット人僧侶ジャムヤン・シェパ(ジャムヤン・ロサン・ジグメ・トゥプテン・チュキ・ニマ)は、チベットにおける信仰の自由に関する中国の主張を弁護した。中国仏教協会副会長をつとめ、甘粛省のラプラン僧院の僧院長であるジャムヤン・シェパは、チベットにおいて「民族的特色を保護し、宗教文化を保護するという口実のもとで」経済発展を妨げようと企てる者たちを非難した。彼は「チベットにおいて経済が発展し、人々の生活が向上することによってはじめてチベットの文化遺産はより良好に保護され、信仰の自由が保護されえるのである」と述べた(8月16日付新華社電)。

チベット自治区党書記の陳奎元は今月初め「敵対する分離主義勢力による根拠のない歪曲によって、国際社会の中でチベットについての誤解」があると述べたとき、チベットの宗教問題についての報道に言及した。ラサを訪問した趙啓正・国務院新聞弁公室主任との8月2日の会談において陳奎元は「社会主義の新チベットで起こっている発展と変化について、そして、チベット人民が全国の他の民族人民とともにいかに社会主義現代化の道を歩んできたかについて、適切なプロパガンダを遂行することは、困難ではあるが栄誉ある責務である」と述べた。趙啓正は「少数の欧米国家がダライ集団を支持し、何もないところに『チベット問題』をでっちあげているために生じている『誤解』と闘うためには、チベットについての海外でのプロパガンダを強化することが必要となる」と結論づけた(8月4日付中国新聞社)。

以上

(翻訳者 長田幸康)
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 チベット僧、ネパール警察の発砲で死亡

TIN News Update, 2 November 2000
Tibetan monk dies after Nepalese police shooting

チベット僧、ネパール警察の発砲で死亡

一人のチベット人僧侶が金曜(10月27日)、カトマンドゥの病院に向かう途中で亡くなった。国境を越えてネパールに逃げてきたところ、ネパール警察による発砲を受けた後のことだった。この僧と同じ甘粛省のラプラン寺の別の僧侶と、同じ22人の亡命グループの一員であるチベット人女性が同じ事件で重傷を負い、現在カトマンドゥで入院中である。同じグループにいた2人については目下行方不明であり、カトマンドゥに向かう途中で警察に拘束されているのか、あるいは存命かどうかさえわかっていない。

カトマンドゥの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が今日(11月2日)明らかにしたところによると、この事件に関してネパール内務省および警察による調査が行なわれるようだという。

亡くなった20歳前後のラプラン寺の僧侶クンチョク・ギャンツォは、10月27日金曜日に撃たれ、カトマンドゥ・ティーチング・ホスピタルに向かう途中で失血死したと伝えられている。カトマンドゥで入院中のもう一人のラプラン寺の僧の様態は「安定している」とされている。同じ病院に入院しているチベット人女性は脚を撃たれて骨を砕かれており、重体だと言われている。同じグループのチベット人のうち3人はさほどの重い傷を負っておらず、カトマンドゥの難民受け入れセンターで治療を受けている。

カトマンドゥのUNHCR事務所のローランド・ワイル氏はTINに次のように語った。「私たちはこの事件に関し、ネパール内務省と連絡をとっている。行方不明者がいる限り、消息を明らかにするために接触を続けていく。ネパール内務省は協力的であったし、当然ながら事件を遺憾に思っている。過剰な武力が行使されたことには、だれもが同意していると思うし、このような事件が再発しないことを保証するために警察当局に対して指導がなされている。調査によって、事件の正確な状況に光が当たることを望む」。

発砲があったのは、チベットからソロ・クムブ地方を通ってネパールに向かう越境ルート沿いにあるネパール側の町の一つジリと、カトマンドゥから東に車で5時間ほどにあるチャリコットの間だった。主に青海省から来た22人のチベット人グループは、ネパール警察に逮捕され、ジリの警察署に2日間拘留された。ネパールに到着したチベット人は、警察からネパール出入国管理局に引き渡され、出入国管理局はUNHCR事務所と協力して、難民たちが無事インドに行けるよう手配するのが常だ。2人のチベット人の証言によると、ジリ警察署に拘留されていた間、すべての難民たちが警官による暴行を受け、拘留2日目には、そのグループの2人の若いチベット人男性が外に連れ出されて警官にひどく殴られたという。グループの他の人々は、こういった扱いは自分たちがチベットに送り返されてしまうことを意味しているのだと感じたため、警察署を去って自力でカトマンドゥへ向かうことを決意した。

ジリ警察は難民たちが発つのをやめさせようとした。難民らによると、彼らが歩いたり走ったりして警察署から逃げようとしたとき、警官たちとの間でいさかいが起こった。警官らは難民たちに石をぶつけたりし、こん棒(長い棒)で殴られた難民もいた。チベット人2人がこん棒で頭を殴られて倒れ、仲間たちが彼らを助けようとした。難民らの証言によると、約10人の警官が彼らを追跡し、チベット人たちは、こん棒や銃をもった10人のネパール警官たちに先回りされて、自分たちがカトマンドゥまで連行すると告げられた。彼らはカトマンドゥには連れて行かれなかった。信頼できる報告によると、彼らは全員、バスあるいはトラックでチャリコット地方へ連行された。再びチベットへ送還されたり警官に殴られるのを恐れた難民たちは、警察署に入らず、逃げようとして町の路地裏を走り回った。彼らは警察に追い回された。ある難民の報告によると、警官が野次馬たちに対して、難民らに石を投げつけるようそそのかしたという。

警官は難民らに発砲しはじめ、3人が銃弾で重傷を負った。負傷した2人の難民の報告によると、発砲があった後ではじめて、難民たちは投石で反撃を始めたという。

現在カトマンドゥにいるある難民はTINに次のように語った。「警官が私たちを中国に送り返そうとしていると思っていた。なぜなら、1日警察に拘留された後は釈放されると聞いていたから。しかし、私たちは2日間捕らえられていた。だから、ジリにいたときに逃げ出すことにした。警官たちは私たちが去るのを止めようとして、小さなもめごとになった。警官は木の警棒を使っていたが、そのうち銃で私たちを撃ち始めた。私たちは彼らの言っていることが理解できず、ただ『お願い、お願い、ダライ・ラマ』とだけ言った。私たちはあちこち走り回り、それは大変恐ろしかった」。

発砲の後、12人のチベット人が捕らえられ、残りは逃走した。ある難民によると、警官は発砲の後も、クンチョク・ギャンツォや他11人のチベット人に暴力をふるい続けた。負傷したチベット人は警察によってカトマンドゥ・ティーチング・ホスピタルに運ばれた。難民の一人は次のように語る。「クンチョク・ギャンツォは友だちだ。チベットを出る旅の途中で会った。彼は耳の下を撃たれたんだ。銃弾はあごを貫通したと思う。警官は、私たちといっしょに彼を車に乗せた。彼は口を血だらけにしており、歯が折れていた。彼が他の者に比べてずっと重傷だと理解した警察は、彼を別の車に乗せた。彼は病院に向かう途中で死んだに違いない。なぜなら、私は彼に二度と会うことがなかったから」。

発砲のときに逃走した難民のうち5人が今日(11月2日)難民受け入れセンターに到着した。UNHCRは、さらに4人がカトマンドゥに向かっていることを確認した。22人のグループのうち2人のチベット難民はいまだ行方不明となっている。発砲の際に負傷したのかどうかもわかっていない。難民受け入れセンターで治療を受けている3人のチベット人は、青海省ゴロク(果洛)チベット族自治州の僧侶、青海省海東地区の俗人、そして青海省マロ(黄南)チベット族自治州の遊牧民である。これらの地域は伝統的にチベットのアムド地方に含まれる。

チベット国境付近での二度目の発砲事件だった

このチベット人僧侶の死は、およそ8日前にチベット国境付近で起こった別の発砲事件に続くものだ。越境してネパールに入った難民グループを引率したネパール人シェルパが、ネパール警察の武器で撃たれ負傷した。事件の状況や詳しい経緯はまだわかっていないし、そのシェルパがチベット人グループの亡命を助ける「仲介人」の任を負っていたのかどうかも確認されてはいない。

年間およそ2000〜3000人のチベット人がネパールを通って亡命している。その多くが、亡命先の僧院で修行や勉強を続けることを望む僧侶である。その他では、亡命先の学校、特に北インドのダラムサラで勉強するために亡命する者が多い。チャリコットでの発砲事件に巻き込まれたチベット人のほとんどは17歳から21歳であり、インドの亡命学校に入ることになるであろう。

以上

(翻訳者 長田幸康)
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 ラサで爆弾事件:けが人なし、混乱もわずか

TIN News Update, 8 November 2000
Bomb blast in Lhasa : no injuries, minor disruption

ラサで爆弾事件:けが人なし、混乱もわずか

10月26日木曜日、ラサのデキ・シャルラム通り(北京東路)北側の裁判所の建物の外で、爆弾によると伝えられる爆発があった。爆音は大きく、衝撃は近隣の建物で「地震のように」感じられたものの、けが人がいたことを示すものは何もない。

爆弾事件の後、警官や役人らが、事件のあった午後8時頃すぐ近所にいたすべて外国人に対し、現場を離れてホテルへ帰るよう命じた。バナクショー・ホテルのほぼ真向かいにある爆発現場の周りに、地元の見物人らが集まるのが妨げられることはなかった。警察の対応は、この爆弾事件が政治的事件と考えられていることを示している。ラサの公安要員は、チベットにおける騒動のニュースが欧米に伝わるのを防ぐため、外国人が政治的な出来事を目撃することがないよう努めている。ある地元の目撃者は、危険だからと言って、事件について外国人と話すのを拒んだ。

この事件による混乱はわずかなものだったと伝えられている。警察が通りを部分的に通行止めにしたために、交通が15〜20分ほど止まった程度だ。欧米人旅行者の報告によると、警官が爆発現場の撮影をしている以外は、8時半までにはふだんの通りに戻っていたという。事件から3〜4日の間、ラサに出入りする車両に対して、警官によって簡単な検問が行なわれていた。これらの車両検問は事件の2日前に始まったことがあきらかになっており、事件が起こる可能性があった、もしくは、疑わしいことがあったことを示している。

ある外国人旅行者がTINに語ったところによると、爆発の直後、自転車に乗っている人たちやリキシャのドライバーらは、路上に瓦礫が散乱したあたりから遠く被害はないと思われるその地帯から即座に離れた。この旅行者はまた、ラサ城関区裁判所のすぐ外で起こったこの爆発の衝撃によって、少なくとも一つの近隣の建物が「地震のように」揺れたとも語った。裁判所の建物は通りからは奥まったところにあり、商店に囲まれている。オフィスタイムをはずした爆発のタイミングは、従業員や商人らを傷つける危険を最小限におさえようという配慮かもしれない。

この爆弾事件以来、政治活動への関与を疑われているチベット人への圧力が強まる傾向にある。ラサで爆弾事件や騒動や反体制活動があったとき、真っ先に取り調べの対象に選ばれる者の中には釈放された政治囚がいる。過去5年間で、ラサでは少なくとも8件の爆弾事件があった。これらの事件による死者や重傷者は報告されていない。1996年1月、パンチェン・ラマ10世の転生問題で親中国側を率いた僧であり政治家であるセンチェン・ロプサン・ギャルツェンの自宅の外で爆弾が爆発した。1996年3月には、中国共産党ラサ本部の外側で爆弾が爆発し、これは、過去9ヶ月の間に報告された6番目の事件となった。この年の5月には、当局がはじめてこれらの事件が起こったことを認め、爆弾事件は亡命している「ダライ集団」の責任であり、チベット自治区の安全を脅かしていると主張した。1996年12月、ラサ城関区政府の役所の外側で爆弾が爆発、1998年6月には、ジョカン寺の北約1kmにある市公安局近くでも爆弾事件があった。

党当局は、チベット自治区の「安定」の重要性を繰り返し強調している。中国の公式報道によると10月16日に陳奎元にかわって任命された、チベットの新しい党書記・郭金龍は先週「安定は発展のために不可欠であり、発展はまた安定の礎となる」(11月2日付新華社)と語った。郭金龍は「長きにわたり」「欧米敵対勢力とダライ集団は、さまざまに形を変えながら、分離主義と妨害活動を展開してきた。チベット社会の安定を防衛することは、チベットがさまざまな試みにおける発展を続けられることを保証し、人々が生活水準を徐々に向上させていくことができることを保証するだけではなく、中国の改革、発展、安定に対しても、重要な影響を及ぼす」と警告した。

以上

TINによる12月8日付の補足:
TINが後に入手した報告によると、この爆発は、ラサの「草の根」組織を管理する部局の事務所の外で起こったものだった。中国やチベットでは「プロレタリアート独裁」が草の根組織すべてに強いられており、農村部でも都市部でも、草の根レベルの保安や管理が中国当局にとっての重点政策となる。ラサの居民委員会を監視し、草の根組織の責任を負っている部署が地元の人々に嫌われているという点を考えると、この爆弾事件のそれなりの政治的重要性がより明らかになる。

(翻訳者 長田幸康)
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 党の路線を反映した権力の移譲

TIN News Update, 8 December 2000
Handover of power reflects Party line

党の路線を反映した権力の移譲

中国政府もチベット自治区指導者らも「反分離主義」強硬路線を堅持すると強調してはいるものの、中国政府のチベット政策に焦点を合わせた微妙な変化のシグナルが北京から発せられている。陳奎元にかわってチベット最高位の指導者、チベット自治区党書記の座についたのは、中国の南京出身の郭金龍だ。郭は、経済発展と繁栄を築くことに注力する中国の朱鎔基首相に似た姿勢で評判である。

国際舞台における戦略にも明らかな変化が見られる。ダライ・ラマの兄ギャロ・トンドゥプによる2度にわたる最近の北京訪問に続いて、中国とダライ・ラマの間で「さまざまな接触ルート」が開かれたことを認めた中国の最近の発表は、双方の対話の当事者がなんらかの進展を得たことを示している。しかし、北京がチベット亡命政府当局との対話を本気で継続するつもりであることを示す証拠は、いまのところない。過去20年にわたる出来事からわかるのは、最近の積極的な姿勢は、国際的な地位を固めるための、そしてチベット問題について「柔軟」あるいは開放的になった印象を演出するための好機を狙った企てにすぎないかもしれない。■

党トップの異動で、ラサに緊張と疑心暗鬼

信頼できる非公式報告によると、ラサにおける宗教行為への規制は、北京からの命令によって、過去4ヶ月の間わずかに緩和されている。ラサからの報告によると、仏壇やダライ・ラマの写真を捜索する政府職員宅への手入れは、ここ数ヶ月減ってきており、ラサ市民が外の世界に連絡をとることは容易になってきている。しかし、幹部や政府職員、その家族らを対象にした宗教行為への制限は行なわれている。宗教行為に対する圧迫政策がいま和らいでいるからといって、これがある潮流の始まりではないかとか、郭金龍・新書記が当地で成功をおさめるのを前にした小康状態ではないかなどと判断するのは時期尚早である。郭金龍は、着任が発表された10月16日より数週間前に党書記の座を引き継いだと言われている。

去りゆく党書記・陳奎元は、「第二の文革」と称するチベット人がいるほどの最近のチベットの宗教・文化への弾圧実施のチベット自治区における責任者だった。この夏、中国当局は、チベットの都ラサや周辺地域での宗教行為への弾圧についての報道にとくに敏感になっていた。TINは今回の弾圧について、チベット人の私生活と伝統に与えた影響の大きさにおいて、ここ数年で最も厳しく広範なものであると報じた。その規制というのは、夏休みの間に学生たちが宗教的な式典に参加するのを禁じたり、タンカ(チベットの仏画)の家宅捜索をしたり、政府職員や幹部らに対し、僧院・尼僧院やインドの難民学校から子息を引き上げるよう警告したりといったものだ。TINが入手したさらなる情報によると、昨夏ラサ郊外の少なくとも一つの県で宗教的な祭りが禁止された。チベット大学の学生は僧院に参拝にでかけたり、自室に宗教的な物品を保有することが許されなくなった。そして、ペンポ・ルンドゥプ(林周)県とトゥルン・デチェン(堆龍徳慶)県では、ダライ・ラマの写真を探す家宅捜索が広範囲に行なわれた。こうした政策によってもたらされる不満や絶望について、役人や共産党員でさえも個人的に懸念を表明していると言われている。

ラサからの報告には、不安ムードと過渡期意識が感じられる。最近ラサから戻ったある欧米人はTINに次のように語った。「私たちはラパプ・ドゥチェン祭(4大祭の一つ。チベット人が公に祝うことを許されている仏教の祭日)に出かけた。多くの人々がおり、香炉からあふれる煙がたちこめていた。しかし、その人々のほとんどは明らかに地方からの巡礼者であり、ラサの人々はあえて行かなかったのだ。おそらく、彼らの多くはまだ暗い中、早朝に出かけたのだろう。祭りの静けさと見えない緊張が奇妙に入り交じっていた。特に、職場で働いている人々は姿が見られなかった」。

9月半ば、ダライ・ラマを批判する赤い横断幕が、チベット大学の外にこれみよがしに掲げられた(写真:http://www.tibetinfo.net/news-updates/nu081200_pic.htm)。この横断幕の存在はまた、別のところでわずかながら穏健な方針が示されているにもかかわらず、中央当局の強硬路線が変わってはいないことを示すものである。

新党書記、政策の継続を約束

郭金龍は、「分離主義に対する闘争」と、中国全体の計画と歩調を合わせた当地の経済発展について、陳奎元の政策をひきつづき継続していくことを誓った。着任が発表された2週間後、郭金龍は党幹部との会議において「経済建設を中心に据え、経済発展と政情安定という二大事業に焦点を当て、そして、チベットの急激な経済発展と広範な社会的進歩、継続的な政治的安定を保証し」(10月29日付新華社)、陳が打ち出した方針を継続していくことを目指すと表明した。

郭金龍は9月のある会議における重要講話において、江沢民が「思想工作と政治工作」を「経済工作などすべての工作における生命線であり、すべての党と国家の使命を全うするために党および中国の全民族人民を団結させる強い絆であり、我々の党と社会主義国家の強力な政治的優位性」(10月18日付「西蔵日報」ウェブサイト)であると位置づけて焦点を当てたことを再確認した。同じ演説は、チベットで現在行なわれている「長く強烈で、そして複雑な反分離主義闘争」にふれている。郭金龍は、チベットの政情不安は、歴史的には欧米の帝国主義と中国への侵略の結果であり、最も根源的な共産主義の概念の一つである階級闘争の名のもとに語られねばならない問題であるとする公式見解を繰り返し、反ダライ・ラマキャンペーンの思想的根拠を明らかにした。「階級闘争」という言葉が今日のチベット自治区指導者によって用いられることはまれである。しかし、陳奎元は1996年と1997年に、重要講話の中でこの概念に言及したし、ライディ(熱地)もまたこの言葉を1999年1月の論説の中で用いた。郭金龍は演説で次のように語った。「いわゆる『チベット独立』は、近代史における帝国主義者の中国侵略によってもたらされたものである。中華民族を分断しようという空しい試みに過ぎない。また国際レベルの階級闘争によってもたらされたものであり、ダライ一味との闘争は妥協なき階級闘争なのである。

郭はさらに、この闘争の「複雑さ」は「国内および外国の敵対勢力」が原因となっている部分があると説く。彼は同じ演説で次のように語った。「江沢民総書記は深遠にもこう述べた。社会主義と資本主義の間の基本的な矛盾は変化しないのであるから、欧米諸国は、中国共産党指導部と中国の社会主義を転覆させようと企てるにあたって思想的な浸透を主な手段とし、社会主義国家に対するあらゆる種類の攻撃を浴びせるためにどんな手でも使い、欧米化と分離主義の政治戦略を遂行しようとするのが常だ。彼らはいつも、我々を攻撃するために、いわゆる人権問題、民主主義、宗教問題、そしてダライ・ラマや台湾問題を利用する」。

郭は、経済発展を強化するとともに、政治的警戒も維持されねばならないと警告した。「我々は、改革と開放を実施するなかで常に現れる新たな条件や問題に直面している」。彼は、1959年3月のラサ蜂起や、1987年から89年のラサでの独立運動を例に出して、「ダライ集団」がチベットの発展を妨害し「人民の利益を侵害した」ことを示した。ダライ・ラマは1959年3月に亡命したが、チベット自治区当局は、1980年代後半のデモを「計画し扇動した」としてダライ・ラマを非難している。

53歳になる郭金龍は、中国のさまざまな党委員会の役職を歴任してきた。1980年代には、四川省の忠県党委員会副書記と省農業経済委員会副主任を務めた。1992〜1993年に四川省党委員会の副書記に昇進し、1993年にはチベット自治区党委員会の副書記になった。チベット自治区党委員会の常務副書記の地位を最初に託されたのは1994年12月であった。

新たな接触はあったものの、ダライ・ラマ非難は続く

郭金龍のダライ・ラマに対する思想的姿勢は、中国とダライ・ラマ双方のコミュニケーションに新たなルートが開かれる可能性があるにもかかわらず、ここ数日間の北京の姿勢を反映している。ダライ・ラマの兄ギャロ・トンドゥプは8月終わりに北京に滞在し、さらに、数週間前にもまた北京を訪れていた。彼はそこで中央統一戦線工作部(「少数民族」問題を扱う党の部局)の会合に出席した。彼は中国では、亡命政府の代表ではなく、個人としての立場であったと伝えられているが、彼はメッセージを持ち帰り、ダライ・ラマに伝えた。メッセージの中身は明らかにされていない。中国側は、従来の主張を繰り返した。すなわち、どんな対話を始めるにせよ、ダライ・ラマ側はまず、チベットは中国の不可分の一部であることを認め、「分離主義」活動を停止し、台湾は中国の一部であることを認めるという前提条件を受け入れねばならないというものだ。中国外交部の章啓月・広報官は昨日、対話の可能性について、北京側は「彼[ダライ・ラマ]の側からはいかなる誠意も見られなかった」と語った(12月7日付AFP電)。しかし、彼女は「ダライ・ラマはチベット独立を主張してはいない」ことを認めている。中国政府は近年、ダライ・ラマが「チベット独立を主張している」と繰り返して批判しているが、ダライ・ラマは1988年にチベット独立の要求を取り下げており、チベットの「完全な自治」を求めると主張してきた。

郭金龍は、10月18日付「西蔵日報」が報じた9月17日の演説において、「時代遅れ」の「ダライ集団」およびチベット人たちの望みについて、当局の見解をさらに強く打ち出した。「封建農奴制思想の澱(おり)と、さまざまな悪しき風俗習慣は互いに結びついており、新しい社会主義思想や新しい道徳観、新しい習慣とは相容れないものである。これはしばしば、時代錯誤対進歩の、保守主義対開放の、そして、保守主義対改革の思想闘争と捉えられる。レーニンが言ったように、旧社会は死んでも、その死体は棺桶に入れたり、墓に埋めたりすることはできない。それは腐敗し、悪臭を放ち、我々を毒そうとするのである」。

陳奎元:無神論と反分離主義を強調

チベット自治区指導者の序列という意味では、党の常務第一副書記であるライディ(熱地)が陳奎元党書記の座を継ぐべきであった。ライディは、文化大革命中に頭角をあらわしたチベットのトップレベル党員の一人で、従来陳奎元が長らくラサを不在にしている間、彼の責任のいくらかを引き受けていた。ライディはチベット自治区党委員会の常務副書記であるだけでなく、チベット自治区人民代表大会主任でもある。チベット自治区政府のチベット人主席レグチョクもまた党の常務副書記である。自治区政府の主席はその地の市民でなければならないことが憲法において要求されるが、党には、チベット自治区党書記としてチベット族を選ぶ法的義務はまったくなく、この最高ポストに座ったチベット人はこれまで一人もいない。

チベット自治区党書記としての8年の任期中、59歳の陳奎元はチベット自治区の都ラサですごしたことはほとんどなく、四川省の省都・成都に暮らすことを好んだ。チベットからの報告によると、陳奎元は中国の町のほうが安心できて快適だったという。チベット人の間での彼の不人気も、住む場所を選ぶにあたっての副次的な要因だったかもしれない。この不人気は、彼のチベットの宗教・文化に対する強硬姿勢によるところが大きい。1997年7月、陳は尋常ならぬ演説をぶった。仏教はチベット文化への「外からの輸入品」だと主張したのだ。仏教がはじめてチベットに導入されたのは7世紀半ば。そして、チベット文化を背景にしてさまざまなチベット仏教の宗派を形成し、独自の特徴ある発展を遂げた。中国人自身、独自の宗教的伝統として「チベット仏教」(蔵伝仏教)と呼んでいる。

中国当局がチベット人を常に「時代遅れ」と描写するのは、その文化と宗教のためである。そのどちらもチベット語が土台になっている。陳の論評は、ダライ・ラマなどのチベット人指導者たちが表現するようなチベット文化に対する見解を攻撃し、チベット文化に新たな思想的定義を与えるための状況を整えようというものだ。その新たな定義においては、第一に外来の中国文化による影響が、文化が発展するのを保証するのに不可欠だとされている。陳は同じ演説の中で次のように語った。「さまざまな民族間で文化の交流をするのは、絶対的に必要で有益なことだ」「ダライ集団による文化的隔離の主張は、政治的分離主義を実行に移すことを狙ったものだ」。陳はまた、中国語の使用がチベットの発展を強化するのであり、チベットは、芸術と文学の発展のために、毛、トウ、江沢民の文化観を取り入れるべきであるとも述べた。

党書記としての任期の間、陳は、1996年以来チベットにおける宗教・文化生活を支配している三大政治キャンペーンを率いた。すなわち「愛国教育」「厳打」「精神文明化」キャンペーンである。中国全土で展開されたこれらのキャンペーンはチベット圏ではさらに、ダライ・ラマの権威を脅かし、伝統的なチベット的な概念や習慣、宗教信仰を社会主義社会に適応させることに注力することによって「分離主義」を根絶する手段として用いられた。非協力的だったりダライ・ラマを批判しなかったりする者に対しては強制的な学習集会や罰が課せられる「愛国教育」キャンペーンは、1996年5月に僧院・尼僧院で開始され、1997年末からは、より広範に俗人社会にも拡張された。最も悪意に満ちた公式のダライ・ラマ批判の張本人である陳は、このキャンペーンの目的は「ダライ集団によって毒された封建的で馬鹿げた時代遅れの気風を浄化する」ことだと語った。愛国教育を実施する責務を負った工作隊が使用したテキストの一つには次のような記述がある。「ダライは陰謀家であり、チベット独立を煽る分離主義活動の首領であり、あきらかに中国に敵意をもつ欧米勢力の明白な飼い犬であり、チベット社会のあらゆる混乱の元凶であり、正常な宗教生活の確立を妨害する最大の障害である」(TIN訳“Patriotic Education Book One”1996年6月刊より)。陳は、政治家であり宗教家であるダライ・ラマの地位を攻撃する先頭に立った。1996年5月、彼は「我々は彼[ダライ・ラマ]を宗教的権威としてまったく認知していない」と語った。

陳奎元は1992年初頭から1996年までの、政治的抗議行動や拘留の増加でも大きな役割を果たした。その後、その増加に匹敵するほど急激に、政治的な投獄は減少した。これは、抑圧的な政治キャンペーンや、より洗練された警備や監視方法、そして、他の者の抑止力として役立つ、政治囚に対する過酷な虐待の多さに関係している。

1997年6月、陳奎元は香港の「祖国への」返還を、チベット独立が不可能であることを示すために使った。1997年6月はじめの党の会合で、ラサにおける香港関連演説のうち最も勝ち誇った様子で「あと30日で、我が国は、香港における主権の行使を回復する」と語った。1997年6月20日付「西蔵日報」によると、陳は「チベット人民を虐殺し、祖国の大家庭からチベットを切り離そうと企てた、過去の旧体制資本家の大英帝国は、中国人民を抑圧し、中国領を占領し、我ら中国人の夢を奪った歴史とともに、永久に姿を消すのである」と続けた。

陳奎元は、中国東北部の遼寧省康平に生まれ、内蒙古で政治的キャリアを歩み始めた。彼は1964年、内蒙古師範学院の政治教育学科を卒業した。彼は高等教育を担当し、内蒙古自治区党委員会常務委員および内蒙古自治区人民政府副主席にまで昇進した。チベット自治区への赴任の後、中国中部の河南省の党委員会書記へ異動となった。多分に影響力をもつ地位ではあるものの、彼が北京での権力、文化、特権の中枢からは外されるであろうことを示唆している。

ダライ・ラマが17世カルマパだと認定し、北京もそれを認めた15歳の少年ウーゲン・ティンレー・ドルジェが今年はじめに亡命して以来、中央当局からの陳奎元への圧力が増したと言われている。チベットからの報告によると、ラサには「カルマパが陳奎元を殺した」というジョークがあるという。つまり、この十代の宗教指導者の亡命が、陳奎元を党書記から追い落とすのに貢献したというのだ。今年ラサでささやかれている、もう一つのジョークは、江沢民主席が陳奎元に、次はパンチェン・ラマが亡命すると思うかと尋ねたというものだ。これらのジョークは、陳奎元のチベットの党最高幹部としての異動の理由よりも、党書記としての出発に寄与する要因のことを言っている。彼の解職は通常のローテーションの結果のように思える。さもなければ、彼の政策とその施策が、北京にとって厄介なものとなった事実を示すものだ。彼の思想路線の実現が、現在の党の姿勢にそぐわないということをも意味しているのかもしれない。

辺境の詩人?

陳奎元の政治姿勢はチベット人の間では有名だ。しかし、彼の詩人願望はあまり知られていない。1999年9月、彼のチベット自治区党書記としてのキャリアを詳細に綴った詩集が北京出版社から出版された。この本の付録で、陳奎元は「我が祖国の魅惑の美」を描く「古典的詩作」への思いを明かしている。彼は、「中国の辺境地域」に赴いていた間に詠んだ自分の詩を、1000年以上前に同じく辺境に赴いた軍人・高適の詩になぞらえている。陳はこう書く。「チベット史のこの時代に参与した者として私が思うのは、雪と泥の上に残された白鳥の足跡のように、いくつかの経歴と感慨を痕跡として残していくことだけだ。おそらく将来、望み高き人々は[これらの経験から]何らかの手がかりをくみ取ることができるだろう」。

彼の詩は古典的な作風で書かれており、ほとんどはチベットの風景の美しさについての叙情的な詩のようである。しかし、いくつかの詩は、現代チベットの問題を、あきらかに政治的な姿勢で扱っている。テーマの中には、中国が11世パンチェン・ラマとして選んだ少年の即位や、「ダライ集団」の「偽善」についてのものもある。

「搾取する専制君主のふるまいをやめたと思ったら
 偽善者ぶって我々を非難するために人権を利用する」

作品の中には、1993年5月、ゴンカル県のキムシ(克西)村の僧院に工作隊が到着したために起こった騒動についてよんだ特別のものもある。

「寺の質は劣り 僧はほしいままに振る舞い治安を乱し
 あらゆる悪逆が入り乱れるままになっている
 煉瓦やら瓦やらをわけもなく投げつける
 幹部と警官は規則を守って汚辱に耐えている
 戒律を守らず狡猾な尼僧たちは経幡を囲んで踊り狂う」(訳者注1)

いくつかの詩は、彼が宗教用語に精通していることを示しており、また次の詩のように陳奎元の無神論的な姿勢が反映されている。皮肉を込めて「14世ダライ・ラマ肖像画を讃える」と題された詩である。

「万事に思慮のないことこそ仏の心か
 五蘊[1]に縛られて困惑が生じている
 日々空を説きながら空を悟ることはなく
 偏ったものの見方で どうして悟りに入ることができようか
 仏法は広大といいながら 彼(ダライ・ラマ)は人に助けを求め
 欧米人の保護のもと 来る年も来る年も駆けまわる
 彼は常に情勢を見誤る
 『慧眼』とはいうが、俗人のほうが優れているのではないか」(訳者注1)
陳奎元による註[1]:
「五蘊」……仏教用語で「色、受、想、行、識」。

※訳者注1:原著『藍天白雪』より直接和訳
※TINによる補足:
陳奎元のチベット自治区党書記としてのキャリアやその他の指導部の問題については、来年はじめに出版される予定のTINの年間ニュースレビューの中で検討がなされる。本書では、前党書記の詩文の注釈つきの抜粋を掲載し、彼が権力を握って実行に移した主要な政策への考察がなされる。

以上

(翻訳者 長田幸康)

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 “ショル”・ダワ:ある政治活動家の死

TIN News Update, 14 December 2000
"Shol" Dawa: Obituary of a Political Activist

“ショル”・ダワ:ある政治活動家の死

チベットで最も高名かつ敬われた政治活動家、60歳の“ショル”・ダワ(写真:http://www.tibetinfo.net/news-updates/nu141200-pic.htm)が、チベット自治区第一刑務所であるダプチ刑務所で3度目の刑に服している間に亡くなった。11月19日の彼の死の状況は不明だが、腎臓病を患っていたと言われている。彼は健康状態が悪く、そのうえ過去数年間にわたって何度か虐待や暴行を受けていた。現在亡命しているある年輩の元政治囚はTINに次のように語った。「彼には子どもがたくさんいたが、3回も投獄されたにもかかわらず、自分の目標のために活動し続けた。最終的には、彼は[チベット人の]共通の目標のために自身の命を投げ出した。ショル・ダワは後悔したり、自責の念にかられたりした様子を見せなかった。そして、獄中にあっても、自らの政治的意見を変えなかった」。■

ラサの仕立屋であった“ショル”・ダワの名は、かつてポタラ宮の麓にあったショル村にちなんだニックネームだ。彼はチベットから持ち出すために政治囚の名簿を作成しようとして9年の刑に服していた。中国当局はこの罪を「スパイ罪」と分類した。これは彼にとって3度目の、そして最も長い刑期だった。彼は2004年8月に釈放されることになっていた。

ダワは、文化大革命が暴走した時期の後に来た1980年代初頭の「自由化」時代が始まってから最初に逮捕されたチベット人の一人だった。彼がはじめて投獄されたのは1981 年。「20年間の悲惨な経験」と題するチベットの歴史についてのガリ版刷りのパンフレット260枚をつくったために2年の刑を宣告された。これは、1987年に獄中死した高名な反体制学者ゲシェ・ロプサン・ワンチュクがダワの依頼で書いたものだ。1982年の裁判所の判決文は、彼が「さらにチラシの冒頭にチベット国旗の図柄を配した」としている。1985年、ダワは再び拘留され、後に4年に刑を宣告された。チベット亡命政府が入手した判決文のコピーによると、チベットにいるチベット人の「生活条件の悪化を非難するチラシ10枚ほどを自筆で書いた」ためである。これらのポスターやチラシは、ラサの伝統的なチベット人街であるバルコル街をはじめ、ルカン(ポタラ宮裏の公園)、チベット自治区歌舞団、政府第2招待所に張り出されたと報告されている。

ショル・ダワは、2回目の刑から釈放されたとき、再び逮捕されたら死刑になるだろうと警告されたと言われている。2回目の実刑判決から6年後の1995年が、彼の3度目の逮捕だった。ショル・ダワともう一人のチベット人トプギャルは、チベット人政治囚のリストをつくった疑いでラサで拘留された。二人はそれをインドに送るつもりだった。判決文によると、二人は、元政治囚である元運転手のトゥンドゥプ・ドルジェと元僧侶のラトゥ・ダワの二人に依頼して、記憶を頼りにリストを作成し、準備した。判決文は次のように告げている。「ラサ市人民検察院は、1993年と1994年以来、被告シュェ・ダワ[ショル・ダワの中国語表記]とドゥォプジェ[トプギャル]は、国外のダライ集団のもとに報告するために、我々の自治区の投獄中あるいは釈放された政治囚の名簿や、手書きの反動的な書簡などの物品を収集し、それらに手製の牛の頭の封印をしたことを告発する。1993年から1994年にかけての取り調べにおいて次のことが証明された。被告シュェ・ダワ[ショル・ダワ]は、ダンジュ・ドゥォジェ[トゥンドゥプ・ドルジェ]とレドゥォ・ダワ[ラトェ・ダワ]をして、投獄中あるいは釈放された政治囚の名簿を集め、被告シュェ・ダワに手渡した(1996年チベット自治区ラサ中級人民法院評決)」。判決文はまた、ショル・ダワが「ダライ集団のチベット女性連盟」と接触したことをも告発している。これは、ダラムサラに拠点を置くチベット亡命政府関連の研究・運動グループであるチベット女性協会を指していると思われる。ショル・ダワとトプギャルは「外国の敵性分子に特別に指定された任務を積極的に引き受け、我が国についてのさまざまな情報を積極的に収集し、国家の安全を害する犯罪活動に従事した」として告発された。

ショル・ダワの政治的見解は、ダライ・ラマがインドに亡命した1959年3月のラサ蜂起当時にラサに住んでいた若い頃に形成されたようだ。現在亡命しているダワの友人の元政治囚は「彼は1950年代終盤の状況について色々考えていた。そして、文化大革命のとき、中国への嫌悪感が強まった」とTINに語った。1970年代終盤の文化大革命当時、彼は、党に反感を抱く者を示す共産主義の用語で「黒帽」と分類された。匿名を希望するそのダワの友人によると、ダワの決意と愛国心は、他のチベット人への刺激になったという。1980年代初頭、ある村からラサに来たチベット人がパ・ダワ・ラ[ダワ父さんという意味の敬語]の仕立屋を訪れて、壁にあったダライ・ラマ猊下の写真を見た。彼は感激して涙を流し始めた。パ・ダワ・ラは彼にある文書を1枚渡してこう言った。「猊下はインドにいらっしゃってお元気であり、チベット人のために働いていらっしゃる」。この元政治囚もまた、ショル・ダワがラサ中に政治的なパンフレットを配布した事件について話した。「彼は、人が乗っていないと思った警察車両の中に窓越しにメモを落とすことさえした。その後、窓の中に警官の顔が見えることに気が付いたが、警官は後部座席で眠り込んでいた。数日後、ダワは二度目の逮捕をされた。

ダワは自分が投獄されていないとき、ラサの刑務所を頻繁に訪れて食料の包みを差し入れていた。彼の大いなる愛情は、このことを知る元政治囚たちの心に刻み込まれている。1980年代、彼は、豚肉の缶詰、バター、砂糖、ツァンパなどの食料を政治囚たちに差し入れることを始めた。現在亡命している若い元政治囚は次のようにTINに語った。「食料をもってきてくれるのが誰なのか知らない囚人もいた。だれか[ダワらしき人]が私たちといっしょに座って話をし、粉ミルクやバターや麺などをくれたんだ。こういった面会があったために、自分たちの政治的な活動が、私たちのデモが、より広い社会で意味をもったんだなと感じることができた。知られないまま忘れ去られてしまう個人的な行動ではなかったんだと」。

ショル・ダワの家族は、彼の政治的活動のために常に監視下にあった。彼の息子サムドゥプは一時的に拘留され、何度かにわたって暴行を受けたと伝えられている。サムドゥプは2年前チベットで亡くなった。ダワのもう一人の息子は職を失い、娘はダワの2度目の逮捕のとときに学校を退学となった。公安警察は家族の家を何度も家宅捜索している。ダワの妻ラクパ・ドルマは、彼の2度目の投獄中、1987年に亡くなった。

ショル・ダワは、2度目の投獄から釈放された後、健康状態が悪かったと言われている。体重は大幅に減り、頭痛などの病気を抱えていた。ある報告によると、彼はツァンパ(炒った大麦の粉)しか食べられず、他のものを食べると吐いてしまったという。1995年の3度目の逮捕の後、ダプチ刑務所に投獄されている間に何度も呼びだされて過酷な暴行を受けたと伝えられている。暴行を受けたのは、ショル・ダワが政治的に妥協しない姿勢を貫いた結果のようだ。中国当局がとっておきの最も過酷な扱いをするのは、「改心」しない受刑者に対してである。そして、ダワの友人らの報告によると、彼の政治的な姿勢は決して揺らがなかったのである。ショル・ダワとともにダプチ刑務所にいた、現在亡命しているラサ出身の若い元政治囚は「1998年5月4日のダプチ刑務所での独立支持行動の後、ダワはさらに暴行を受けるようになった」とTINに語った。この元政治囚はTINに次のように語った。「[5月の抗議行動の後]まず、軍隊[人民武装警察]が[暴動用の]防盾と銃を携えてやって来た。それから警官が何人かの受刑者を[罰するために]屋外に連れだした。何人かの高齢の囚人も含まれていたが、ショル・ダワはその時にはその中には入っていなかった。しかし後に6人の警官が監房をシラミ潰しに回って、囚人を殴打して回った。この時には、全員が殴打されたのがはっきりしているから、彼もこの時に殴打されたのは間違いがない」。

かつて僧侶だった、その20代の元政治囚によると、ショル・ダワは体調不良と腎臓病を理由に受刑者労働を免除されていた。インド在住の彼は「年輩の受刑者はダプチでは掃除をするよう要求されることが多いのだが、彼はきちんと屈むことができなかったため、掃除ができなかった」と語る。非公式の報告によると、当局がショル・ダワに施した医療措置は遅すぎたか不適切だったかどちらかだ。この元囚人はTINに「ショル・ダワ・ラは概して他の受刑者たちとあまり話をしなかった」と語る。「彼は普通[自分の居房で]読経をしたり修行をしていた。しかし、1998年5月の事件以前、一度私たちの居房にお茶に招いたときには、1959年当時起こったことをたくさん話してくれた」。

以上

(翻訳者 長田幸康)

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 ネパールへの圧力が高まり、チベット人が国境で送還される

TIN News Update, 20 December 2000
Tibetans sent back across the border as pressure increases on Nepal

ネパールへの圧力が高まり、チベット人が国境で送還される

今年のはじめ、17世カルマパがネパールを通ってインドに亡命して以来、チベット難民をめぐる中国からネパール政府への圧力が強まっているようだ。

TINが入手した非公式の報告によると、過去2ヶ月の間に、ヒマラヤ山脈を越えてネパールの国境地帯に到達したチベット難民のうち少なくとも60人が、中国側の警察の手に引き渡されている。ネパールの首都カトマンドゥのチベット人たちもまた、ダライ・ラマ即位50周年を記念するための文化行事・社会行事の組織にあたって、制約を受けている。インドからネパールに旅行するチベット人に影響を及ぼすネパール政府の国境協定が改訂されたということは、ネパール経由でチベットに帰国するチベット難民は将来的にますます困難を抱えるということである。ネパール・インド国境の警備を強化しようとする協定の改訂が実施された後、19人のチベット人が逮捕され、ネパールで投獄されている。

ラサ近郊のツルプ寺を脱出して1月にダライ・ラマに迎えられたカルマパ17世がネパール経由で亡命できた事実について、中国当局が激怒していることが知られている。以来、国境警備が強化され、チベット自治区当局は、ネパール国境地帯の情勢監視を含めて、この亡命事件の調査を実施している。

ネパール政府は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)との間で、新たに到着してネパール警察によって拘留されたチベット難民はカトマンドゥの出入国管理局まで送り届けられ、それからインドへ向かうことが許されるという点で合意している。UNHCRは最近まで、チベット難民が到着するネパールの国境地帯の警察署や現地事務所への公式視察を重ねて、国境地帯の現場の役人たちがこの手続きを認知していることを保証するようつとめてきた。しかし、カルマパ亡命以来、こういった視察がネパール政府によって中止させられており、UNHCRが国境地帯の状況を監視するのが困難になっている。ネパール内務省のスポークスマンはTINに対し、現時点でUNHCRに視察の再開を許可する予定はないと語った。彼はTINに「こうした国境地帯の視察に関して、UNHCRとネパール政府の間にはいかなる正式な合意もなかった」と話している。

過去2ヶ月の間に本国に送還されたチベット人は、いくつかの大きなグループで移動していたと言われている。送還されたあるグループは、20人のチベット人からなっていた。ほとんどは子どもで、チベットからソロ・クムブ地方を通ってネパールに向かうルート沿いにある最初のネパール側の町ジリで捕らえられた。ネパール内務省のスポークスマンはTINに次のように語った。「方針は何も変わっていない。チベットから国境に到着したチベット人で、適切な書類をもたない者は、ネパールに入国するのを許可されないというのが実状だ。これが中国からの圧力が強まったためなどと言うのは正しくない」。彼は次のように続けた。「ネパールは、難民の権利の保護についての条項を含む1951年のジュネーブ会議の調印国ではない。他の人道的協定の調印国ではあるが」。

国境地帯で当局に引き渡されたチベット人は、中国当局によって拘留されることが多く、結果として、数週間あるいは数ヶ月にわたって拘置所や刑務所に捕らえられる可能性がある。こういった拘留期間においては、暴行やさまざまな形の虐待が当たり前である。今年初頭にチベットから逃れようとしてネパール国境近くで捕らえられたあるチベット人がTINに語ったところによると、彼はシガツェの拘置所に1ヶ月近く拘留されたという。11月にカトマンドゥに到着したこのチベット人僧は「インド行きについて尋問された」と語る。「彼らは[金属棒で]体中、そして、口を殴りつけた。そして、これが二度目の亡命の企てだと知っているのだと言った」。

亡命するチベット人の数は、冬の数ヶ月の間、特に11月、12月と1月に増える。昨年は、11月と12月にネパールを通って亡命したチベット人の数は、春と夏の難民の平均2〜3倍にのぼった。毎年2000〜3000人のチベット人が、ネパールを通って亡命している。カトマンドゥの難民受け入れセンターでは、現在も500人以上のチベット人がインド行きを待っている。

カトマンドゥのチベット文化行事が縮小される

中国は近年、ネパールとの関係を着々と強化している。その中で、北京は、ネパールの地で催されるチベット文化行事およびチベット独立やダライ・ラマを支持する平和的な抗議行動など、あらゆる「反中国的活動」について不快感を表明している。ネパール政府における毛沢東主義政党の影響力拡大も、ネパールがチベット亡命政府に対してより強硬な路線をとるようになった要因となっている。

ネパールにおけるチベット亡命社会に対し、最近のダライ・ラマ最高指導者就任50周年の式典などのチベット関連の活動を制限しようという圧力が強まっている。カトマンドゥからの報告によると、チベット人たちは今のところ文化行事を開催することは許されているものの、ダライ・ラマと切り離すよう圧力を受けているという。その結果、最近のいくつかの行事では、ダライ・ラマの写真が飾られなかったと報告されている。

ネパールのチベット女性福祉グループのメンバーがTINに伝えたところによると、12月14日にカトマンドゥのネパール王室アカデミー・ホールでの文化公演において、チベット人の出演が禁じられたという。この公演は過去5年間にわたって資金集めのために開催されてきた例年の行事であり、学校グループをはじめ、さまざまな歌舞団から50人以上が参加していた。匿名を希望するそのチベット人はTINに次のように語った。「私がタクシーでそのホールに着いたとき、外に警察のバン3台と、18人ほどの警官がいた。私たちはホールの中に入ることさえ許されず、ただタクシーに戻って家に帰れと警官に告げられた。なぜかと尋ねると、彼らはこう言った。地区長官の命令だと。別の警官はこう言った。チベット人の公演はもう行なわせないようにという命令をトップから受けている。そしてホールに入るゲートは閉ざされてしまった」。

12月4日、ネパール警察は、ダライ・ラマ体制50周年を祝うための行事を粉砕するために、僧や尼僧、学童を含む多くのチベット人群衆に警棒を振るった。チベット人たちは12月10日にはボダナートのストゥーパで、人権デーと、ダライ・ラマへのノーベル平和賞受賞を記念する平和的な集会を催すのを許された。しかし、その行事には、圧倒的に警官が目立った。警棒をもち暴徒対応装備をした警官もいた。

ネパール当局は数年の間、いかなる種類のネパールでの「反中国」的活動も許可しないという姿勢をとってきた。1997年には、当時のサルヤ・バガドゥール・タパ首相が、この種の活動は政府が許さないと発表した。1998年3月には、5000人以上のチベット人によるラサ蜂起を記念してカトマンドゥの中国大使館へ向かう行進を妨害された。ネパールにおける政治的抗議行動に参加したチベット人が逮捕された事件は多い。今回の事件は、政治的行事のみならず文化行事までも標的にしているようだという点で例を見ないものだ。

カトマンドゥのダライ・ラマ事務所代表サムドゥプ・ラツェはTINに次のように語った。「私たちは、規制が突然変わったことに非常に驚いている。長年にわたって、私たちは自分たちの文化を讃える権利を享受してきたし、常にネパールの人々の感情を尊重してきたからだ。ネパール人やネパール政府による規制だとは思わない。しかし、ある外部の勢力が、ネパールにおけるチベット人の平和的共存を妨害しようとしているのだと思う。国民が完全な結社と集会の権利をもっている民主的な主権国家におけるこのような行為や干渉を、私たちは常に批判している」。

チベット人の中国への送還

ネパール政府は、1989年以降にチベットからやって来たチベット人について、合法的な難民としての地位を与えるのを停止した。ネパール政府、UNHCR、チベット亡命政府は、ネパールに到着したチベット人はカトマンドゥのUNHCR難民受け入れセンターに滞在した後、そのままインドへ抜けて行くことを期待している。インドに出たら、彼らは一般に、ダライ・ラマの拠点であるダラムサラに向かうか、南インドのチベット人居住区や僧院に向かう。

1995年、多くのチベット人が、ネパール国境からチベットへ送還された。そして、同じ年の4月から8月にかけて、約200人のチベット難民がカトマンドゥから送還された。当時のネパール政府はマルクス主義者同盟連合(United Marxist League)という政党が支配しており、カトマンドゥからの送還は、当時の首相が北京を訪問した直後に始まったようだ。議会党(Congress Party)主導の新政府が取ってかわったのとほぼ同時に、カトマンドゥからの難民送還は行なわれなくなった。1995年後半以来、事態は改善されたが、国境地帯では逮捕や追放がひきつづき起こっていた。米国難民委員会 (USCR) によると、ネパール国境警備隊は1997年に約55人のチベット人を中国に送還した。1999年、米国難民委員会は、1998年には11件の事件で41人のチベット人がネパール国境警備隊によって送還されたというUNHCRの報告を引用している。

最近のチベット難民の送還は、コダリ国境ポストに近い友誼橋のネパール側の国境地帯に到着した者たちが主だと伝えられている。チベットからネパールに入るには4つの主要な経路がある。フムラ、ムスタン、ダム(ネパール名=カサ、中国名=樟木)、そしてナンパ・ラである。後者2つが一般に最もよく使われるとされている。カトマンドゥから北へ車で約3時間ほどのカサからのルートは、コダリ、タトパニ、バラビサと続く。カトマンドゥから北東へ3週間歩いたところにあるナンパ・ラ経由のルートは、ナムチェ・バザールとカッタリを通る。現在中止されているUNHCRによる国境地帯の現地視察は、現地の警官や役人にチベット難民を扱う正しい手続きを確実に知らせることを目的としていた。例えば、国境地帯からカトマンドゥにチベット難民を送り届ける現地警官に支払う金銭はUNHCRから得られるといったことである。

いったんネパールから中国側に送還されたものの、その後脱出に成功したチベット人からの報告によると、ネパール国境警備隊たちは、国境の向こう側の相手としばしば友好的な関係をもっており、チベット難民を送還することによって手数料を得ることができるという。1995年、チベット難民が中国側の国境要員に引き渡されるのを目撃した欧米人旅行者グループがTINに語ったところによると、引き渡しに関わったネパール警察には、難民一人あたりの報酬として1000元(120米ドル)が支払われると聞いたという。特別報奨として、ヒンドゥー教徒と仏教徒にとっての有名巡礼地であるマナサロワル湖を訪れることも許される。中国当局に引き渡されたグループの11人のチベット人は、チベット国境ポストから100km南西のダルチュラ地区バスラでネパール警察に捕らえられていた。この欧米人旅行者らは後に、11人のチベット人たちは兵士らに暴行を受け、ラサに移送されたと聞いた。

1994年11月にネパールに脱出しようとして、国境の町ダム(樟木)で捕らえられたチベット人がTINに語ったところによると、亡命しようとして捕らえられたチベット人にとって、虐待や尋問はおきまりの手続きだという。最終的に1995年8月に二度目の脱出を試みてカトマンドゥにたどり着いたこのチベット人は次のように語る。「私たちはダムで国境警察に電気棒で殴られた。そして、ラサに連れていかれて、数ヶ月間投獄された」。このチベット人や同じグループにいた数人は、電気ショックをされたり殴られたりしながら、チベットから出ようとした理由を毎日尋問された。「私たちは、分離主義者でありダライ集団の信奉者だと攻められた」と彼はTINに語った。

最近カトマンドゥに到着した東チベット出身の僧侶は、ネパール国境地帯で約13人のグループといっしょに現地警官に捕らえられ、ダムまで移送されて、中国側の警察に引き渡された。後に拘留先から逃げ出したというこの僧侶は、ダムの警官は彼らの集合写真を撮影し、チベットから逃げようとした理由を尋ねたと語る。亡命先からチベットへ戻ろうとして捕らえられたチベット人も拘留され、インドへ行った動機について尋問を受けた。

「古来からの友好」を祝す

8月、ネパールは中華人民共和国との二国間関係の45周年を祝った。中国の朱鎔基首相はネパールのギリジャ・プラサド・コイララ首相にメッセージを送り、その中で、中国とネパールには「古来」にさかのぼる「伝統的な友好関係」があると述べた。8月1日付新華社電によると、朱鎔基は「我々は、21世紀に即した中国ネパールの子々孫々にわたる隣人としての協調を確立する自信に満ちている」と述べた。ネパールのギリジャ・プラサド・コイララ首相は、ネパールの中国の関係は「誠心誠意の友情、協調、そしてよき隣人であることによって特徴づけられている」と語った。チベット自治区政府は7月31日、チベット駐在ネパール総領事シャンカル・プラサド・パンディ出席のもと、この記念日を祝う祝宴を設けた。新華社電が伝えたところによると、シャンカル・プラサド・パンディは「我が国は自国領において反中国活動に従事するいかなる勢力をも許さず、『一つの中国』政策を守り、チベットは中国の不可分の領土であることを認め、台湾問題と人権問題において中国を支持することを繰り返した」(7月31日付新華社)。

シャンカル・プラサド・パンディは今月はじめに再度チベットを訪れ、二国間の国境貿易についての会談に参加した。チベット自治区の徐明陽副主席はネパール総領事に対し、ネパール企業や実業家がチベットに投資し、ビジネスを行なうのを歓迎すると語った。12月13日付新華社電によると、中国政府はネパールとの貿易関係にを非常に重視しており、相互貿易が増えることによって、友好関係と双方の経済発展が促進されるだろうと徐明陽は語った。中国は8月、ネパールとのさらなる強力のため、ネパールを中国人旅行客の行き先として定めることに同意したことを発表した。同じ月、中国とネパールは、国境地帯での税関管理を強化することに同意する覚え書きに調印した(8月23日付新華社)。

昨年末、カトマンドゥ発デリー行きのインドの航空機がテロリストによってインドでハイジャックされた事件の後、最近になってネパール政府が1950年のネパール・インド間国境協定を見直したことに続き、ネパールとインドの国境警備も厳重になっている。この国境協定は、ネパール人、インド人が両国間を自由に行き来できるとしていた。最近の協定の見直しによって、インド・ネパール国境の管理がさらに厳しくなり、増加しているインドからチベットへ帰ろうとするチベット人に影響を与えそうだ。チベットからインドに到着したチベット人はインドでは公式にはいかなる難民の身分も得られない。そして、一般に、亡命した彼らは中国の身分証明ももっていない。協定見直しによって影響を受けた最も最近の例として、インドからネパールへ入った、女性を含む19人のチベット人たちがいる。彼らは現在カトマンドゥの刑務所に捕らえられている。多額の罰金を科せられ、罰金が払うことができなければ、2年以上服役せざるをえなくなる。

以上

(翻訳者 長田幸康)

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 中国、チベットに鉄道を敷設の予定

TIN News Update, 22 December 2000
China set to build railway to Tibet

中国、チベットに鉄道を敷設の予定

チベットの都ラサに向かう鉄道の建設は、1950年代以来の中国の野望だが、今になって現実味を帯びてきた。最近の北京の発表によると、海抜や地形による独特の問題にもかかわらず、中国はこの鉄道建設を進める計画である。チベットが中国の鉄道網と接続されることによって、この地域に劇的な影響を受けるだろう。すなわち、かつてはなかった鉱物資源や天然資源の開発が行なわれる可能性があり、結果としてチベット地域に多くの入植がおこなわれることにつながりそうである。中国当局は、鉄道建設の政治的な重要目的は、チベットの「母国」への同化を加速することであると明言している。

提案されている4つの路線案の実現可能性を探るための会議が、9月に北京で開かれた。鉄道部長は今のところ、雲南省、四川省、甘粛省を通るルートよりも、青海省ルートを「最高の選択」として推薦すると語っている。この有望とされる路線は、現在青海省中央部のゴルムドで終点となっている路線を延長するというもの。ラサ行き鉄道の建設は、ついに中国の第十期五カ年計画(2001〜2005年)の項目に盛り込まれることになりそうだ。ちなみに第九期五カ年計画の主要事業の一つとして「チベット行き鉄道の建設の準備を完了すること」があった。ルートについての最終決定は、2001年春、党中央委員会と国務院によってなされることになっている。

提案されているすべての路線の地域で広範囲な現地調査をしたチベット専門家は、この鉄道の建設は、チベットの未来に深く取り返しのつかない影響を与えるだろうと信じている。Susette Cooke博士とともにCD-ROM“Tibet Outside the TAR”(チベット自治区の外のチベット)の共著者であるスティーブン・マーシャルはTINに次のように語った。「青海を通ってチベット自治区へ、そして、もしかしたら雲南や四川へという鉄道路線のループを作ることほど劇的に文句なしにこの地域のチベットらしさの喪失を加速するものを、私は他に想像できない。だからこそ、国はこのプロジェクトを達成させるために必要なことは何でもするだろう。アメリカ中西部横断ほどの距離を延長するのであるから、経済的に高い利益が望める話ではない。しかし、費用はかかるものの、鉱物資源開発や、長期的・短期的な雇用の機会と企業をもたらす、かつて存在しなかった商業の可能性を生むであろう。そして、チベット地域への『人的資本』の流入を促し、人口統計上の変化を引き起こすだろう」。

中央当局は、鉄道建設の目的は、経済的なものであると同時に、戦略的なものであることを認めている。今月はじめの「西蔵日報」は次のように報じている。「特にチベットは、祖国の西南国境に位置し、4000kmにおよぶ国境線を有している。民族の団結と国家防衛の強化のために、チベットを祖国と結ぶ鉄道の建設は緊急に必要とされている」。この鉄道によって当局は、国境防衛のためにも、国内統治のためにも、軍隊や治安要員を移動させることがより容易になる。つまり、この鉄道は「安定を成し遂げる」手段として、チベット地域の中国国家への統合に向けたさらなるステップとなるだろう。

中国からチベットへ至る鉄道の建設はチベット自治区に住むチベット人に影響を与えるだけではない。チベット自治区以外の沿線に住むチベット人の生活にも多大な影響を及ぼすだろう。多くの場合、現在これらの地域は中国の他の地方からは比較的アクセスしづらいままである。したがって、チベット人たちは独自のライフスタイルや文化的伝統を維持することができている。鉄道建設によって、従来外界に目を引くことなどなかったような辺境の村での開発が加速されるだろう。過去の経験から推測されることは、多くの場合、より多くの利益を得るのはチベット人現地住民ではなく、こういった新たなビジネスチャンスに引き寄せられる移民たちだということである。鉱物資源開発の場合は、チベットの豊富な鉱物資源へのアクセスが改善されることによって主な受益者となるのは、中国および採掘会社である。しかし、これらの資源の開発は、江沢民の西部地域開発キャンペーンによって優先順位づけされており、必要なインフラ開発に依存している。

「団結と幸福と生命の路線」

チベット地域での改革開放政策によって利益を得たチベット人はもちろん多い。だから、この鉄道によって経済的に恩恵を受ける一般のチベット人もいるだろうという考え方もある。鉄道ができれば、中国各地により安く、より効率的に肉を輸出できるようになり、肉の需要が増えた結果としてチベット人の牧畜民が利益を得るかもしれない。しかし、市場の需要に応えて家畜を増やすことは、環境に深刻な影響を及ぼすだろう。すでにこれらの地域では、過剰な放牧や砂漠化の問題を経験しているのである。

しかし、チベット人の多くが真剣に懸念しているのは、チベット地域へのアクセスが便利になり、中国との結びつきがさらに緊密になると、資源開発および私企業における経済活動の成長に引き寄せられて、中国人のチベット移民が増えるということだ。

西寧−ゴルムド間鉄道の建設によって青海省のあちこちの町が変貌させられたように、提案されている青海鉄道ルート沿いにあるナクチュ、ダムシュン、アムドといった町は、もし鉄道がここに敷かれれば完全に変化させられてしまうだろう。ツォジャン(海北)チベット族自治州の州都・西海市とツォヌプ(海西)モンゴル族チベット族自治州の州都デリンハ(徳令哈)はともに青海省の西寧−ゴルムド鉄道の沿線にあり、公式の統計によると、中国のどのチベット族自治州よりもチベット族居住者の割合が低い。『チベット自治区の外のチベット』(Tibet Outside the TAR)によると、公式な居住権をもっていない者を除いても、西海市が20%、デリンハが10%である。これらの地域の人口バランスに影響している要素はいくつかあるが、鉄道の敷設がこの変化を加速し、また両地域の鉱物資源の大規模な開発を促進しているのである。

この路線の西寧−ゴルムド間の輸送能力を拡大するための工作は「8つの鉄道建設単位の1万人ほどの建築労働者」(2000年10月8日「人民日報」)を巻き込んで、今年すでに始まっている。1958年に敷設が始まり1984年5月に完成したこの路線は、資源が豊富なツァイダム盆地地帯を含む青海省の開発を促進してきた。この記事によると「チベットの開発に用いられる主な資材の大部分が、この鉄道路線を通ってチベットに運ばれてきた」であり、この鉄道路線は「したがって、全民族人民によって、団結と幸福と生命の路線と称されている」という。

待望の青海ルート鉄道は、チベット自治区ナクチュ(那曲)地区の金鉱採掘産業の開発を加速し、また、ナクチュ州北部と青海省キェグド(玉樹)チベット族自治州南部のチャンタン(大平原地帯。中国名=羌唐)地域のルンポラ油田で発見された最近の油層の開発を加速させるかもしれない。2020年までのチベット開発を描いた内部文書であるチベット自治区専門家計画書によると、「チベットは豊富な天然資源に恵まれており、すべては採掘に適した時期を迎えている。しかし、基本的な交通インフラの条件に制限されており、これらの天然資源の開発と利用はきわめて低いレベルなのが現状だ」。この計画書は、チベット自治区の発展と安定と防衛の必要性を考慮すると、将来道路のみに依存することは「チベットの経済的・社会的発展のニーズを満たすのに適切とはほど遠い」だろうと記している。この計画書は次のように続ける。「チベットへの鉄道建設は、チベット自治区経済の力強い発展に刺激を与えるのにきわめて重要な役割を果たすだろうという結論に、ますます多くの人々が達することだろう」。

新疆ウイグル自治区での鉄道網開発は、こうした大インフラ・プロジェクトが「少数民族」住民の生活にもたらす影響の例を鮮やかに示してくれている。1960年のウルムチまでの鉄道建設の後、多くの移民が西北部の新疆に定住し、現在では彼らが多数派となっている。1999年秋には、この鉄道が、新疆の西の果てにあるオアシスの町カシュガルまで延長された。これによって、カシュガルの現地ウイグル人住民たちは即座に大きな影響を受けた。現在亡命しているウイグル人学者はTINに次のように語った。「鉄道建設によって地場産業が破壊され、道路による物資輸送の職が失われ、多くのウイグル人が生活の糧を失った」「鉄道は新疆の経済発展を助けるだろうと政府は言うが、ゆくゆくは当地のウイグル人のイスラム教文化やアイデンティティを存亡の危機にさらすだろう。すでに当地に続々とやってくる中国人移民によってますます存亡を脅かされていたウイグル人たちは、自らの経済発展の場において、競合も参加もできないでいる」。

チベットへの鉄道は「最重要プロジェクト」

12月11日、「China Daily」紙は「チベットへの鉄道は、今後5年間にわたり政府が後援する重点プロジェクトの一つである」と記し、第十期五カ年計画のもと、実質的に中央政府からの資金提供を受けるであろうことを示した。中国西部は、この計画期間(2001年〜2005年)に、鉄道建設のために1000億元を中央政府から提供され、その一部はチベット自治区の鉄道の資金として使われるだろう。当局はまた、さらなる資金源を模索している。11月に発表されたチベット自治区優先土地利用政策は、この鉄道や鉄道駅の建設事業に投資する者は「投資した路線沿線の両側、あるいは、周辺地域の特定範囲内の土地と地下資源の開発における優先権を同条件のもとで享受できる」(11月23日付「人民日報」)と規定している。

青海、甘粛、四川、雲南各省からチベット自治区への4つのルート案について、実現可能性の研究がすでに完了し、再検討が行なわれている。2000年12月15日の「人民日報」において、任喜貴・鉄道部広報官は、鉄道部は青海ルートを「最適の選択」として推していることを明らかにした。しかし、12月12日の「西蔵日報」によると、最適ルートについては、鉄道部の下に位置する省レベルの鉄道局において意見の不一致があるという。蘭州鉄道局の第一調査設計院(甘粛省)は、より短距離で費用の安い青海ルート案に賛成している。成都鉄道局の第二調査設計院(四川省)は、比較的よい気候と、重点観光都市でもある雲南の各種資源を理由に、長距離で費用のかかる雲南案を主張している。そして、雲南ルートなら、天然資源の豊富なチベット自治区のより開発された地域に直接アクセスできるというのも理由である(12月12日付「西蔵日報」)。

それぞれの鉄道局の推薦においては、利権問題も絡んでおり(蘭州鉄道局は今年は西寧−ゴルムド路線事業に係わっている)、また、特に中国西北部と西南部の二つの軍区の覇権争いもあるようだ。人民解放軍の利益は、中国の国家防衛と軍事インフラの確立を決定づけるという点において最優先である。この2つこそ、鉄道建設の最重要の動機なのだ。青海省、甘粛省、そしてチベット自治区西端は蘭州軍区に属し、チベット自治区の残りと四川省、雲南省は成都軍区に属する。もし鉄道が西南地方から敷かれれば、ルート全域は成都軍区内にとなり、成都軍区司令部の重要性は大いに増すことになるだろう。国務院と党委員会が下す最終決定は、翌春に予定されている。

4つの路線案

青海ルートは、現在の西寧−ゴルムド路線の終端となっている、ゴルムドの南の南山口をスタート地点とする。現状の青海−チベット公路(青蔵公路)と同様のルートをとり、青海省キェグド(玉樹)チベット族自治州とチベット自治区ナクチュ地区を通る。「西蔵日報」(2000年12月12日)によると、この路線は「全長1080km。うち564kmが青海省、516kmがチベット自治区」である。1995年の試算によると、完成までに7〜8年の歳月が見込まれ、総投資額190億元(23.4億米ドル)を要する。

このルートでの大きな問題は高度である。この路線が通る土地の多くは海抜4,000m以上なのだ。ゴルムド(約2,800m)から徐々に高度を上げて、おそらくクヌ・ラ峠(4,722m )でクンルン山脈を横切る。それから、青海省とチベット自治区の境界となっている海抜5,000mを超すダン・ラ(唐古拉)峠に向けて長い上りが続く。それからアムド(安多)の町(4,600m)までは上ってきたよりも急な下りがあり、ナクチュ(4,300m)とダムシュン(当雄)の豊かな放牧地帯を通り、ラサ市管轄地域からラサ中心部(3,590m)に至る。「西蔵日報」の記事によると、このルートの2.8%がトンネルと橋からなるという。

成都鉄道局が推す雲南ルートはかなり高くつき、635.9億元(1997年の試算。76.6億米ドル)の投資を要し、道のりは1594.4kmとなる。完成に10年かかると見積もられるこのルートは、雲南省の鉄道網の最西端である大理を始点とし、デチェン(迪慶)チベット族自治州を北上し、チベット自治区コンポ(工布)地区を西に向かってラサへと至る。

他の2案はさらに高価で長距離となる。甘粛省ルートは638億元で2,126km、四川省ルートは767.9億元で1,927kmである。甘粛ルートは、甘粛省カンロ(甘南)チベット族自治州、青海省ゴロク(果洛)チベット族自治州、四川省カンゼ(甘孜)チベット族自治州の北端、青海省キェグドチベット族自治州を通って、ナクチュでゴルムド路線と合流する。四川ルートは、四川省ンガバ(アバ)チベット族自治州、カンゼチベット族自治州、チベット自治区チャムド地区を通り、コンポのニャンティ(林芝)近くにあるジョンシャバの先で雲南ルートと合流する。

以上

(翻訳者 長田幸康)

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 私見:今日のラサについてのチベット人たちの見解

TIN News Update, 27 December 2000
Personal view: Tibetan perspectives on Lhasa today

私見:今日のラサについてのチベット人たちの見解

チベットの都ラサの社会は過渡期を迎えている。チベットの文化と宗教を管理することを狙う強硬路線の継続を伴う経済改革と現代化によって、腐敗と現実的な商業主義が共存し、かつて精神的な巡礼の地として知られた場所に売春がはびこり、人々はコンピューターや大画面テレビはもつことができるかもしれないが、トイレや水道は不十分という町になった。今日のラサは、開拓地であり、そして分裂した町の様相を呈している。これから紹介する報告は、この複雑な構図を反映したものだ。幹部や知識人や僧侶といった、現代ラサについての見識では右に出る者はいないというチベット人たちの見解にもとづいている。一つの声を代表したものではなく、過去数週間のさまざまな機会にTINが聞いた、いくつかの異なった声である。

この報告は、ラサに住むチベット人にとって目下最大の懸念となっている問題を反映している。それは特に信仰や文化の自由、売春、腐敗である。この報告の情報提供者たちは、ラサでのチベット文化の衰退や道徳的基準の低下と彼らが見るものを証言している。林業庁内での腐敗の証言は、上意下達で課せられる、現地の人々の望みを考慮に入れない政策がチベット人の生活に与えた影響を如実に示している。政府部局内に存在する腐敗の広範さも明らかになった。

興味深いのは、この報告書で意見を述べているチベット人たちが、チベット自治区党書記に郭金龍が任命されたことを、強硬派の陳奎元が転任した後の一休みの時期だと見ていることだ。といっても、この小康状態が一時的なものにすぎず、やはり同様の強攻策が実行に移されるということを彼らは知っている。インタビューに答えたチベット人の一人は、郭金龍は党幹部の給与アップを命じ、宗教的行為へのより柔軟な対応を要求したと言う。こうした動きはおそらく、夏の間の宗教弾圧によるチベット人幹部や党員らの不満を考慮に入れて計算された対応であろう。こうした方法はまた、目下の経済政策に促されてラサにやってくる中国人移民が増え続けることによるチベット人の地位の低下や、雇用をめぐる競争についてのチベット人の懸念を和らげることをも意図しているのだろう。

宗教行為への制限

「陳奎元が党書記だったとき、政府はチベット中で、政治面と宗教面への非常に厳格で制限のきつい管理策を採用した。宗教や文化といったチベット人が価値観を見いだして大切にしているすべてのものが、強い口調でけなされて非難された。彼は、チベット人党員や政府職員、そして退職者や職人にまで、信仰や宗教行為に関わるいかなる形のつきあいや関与も、規則として禁ずる命令を下した」。

「家族も個人も、家庭で宗教的な装飾やお供え物をすることがすべて禁じられた。お堂や寺院への参拝から、供養したり祝福を受けることまで。ラサの聖地を大きくまわる巡礼をすること、香を焚く儀式にに参加すること等々も禁じられた」。

「これらの規制は非常に厳密に適用された。規則を破ったのが見つかった者は、職場や教育機関など、所属する組織からただちに除名された。他にも、減俸処分になった者、年金受給資格が取り消された者などがいる」。

「その結果、多くの人々は人前で本当の宗教意識や感情を表現することが怖くてできなくなった。心の底では中国政府を憎んでいるにもかかわらず、前述したような制裁や処罰によって、チベット人幹部たちは生き残るために本当の感情を隠すようになった」。

「しかし、郭金龍が党書記に着任して以来、状況は変わった。まず、彼は政府幹部の給与を勤続年数に応じて引き上げるよう命令し、宿舎手当を増額し、労働者や職人たちが生活費に困らないようにし、退職者や職人たちがラサの周囲をまわる聖なる巡礼をしたり伝統的な宗教装飾をつくって供物を供えたりできるようにした。これらのことは多少なりとも人々の心を和らげ、ほっと一息つかせる効果をもっていた」。

「管理能力や仕事っぷりという点では、新しい党書記はあまり官僚的な意志決定をしない。彼は重点政策決定や中央政府の主導権に関しては、経済であれ、財政であれ、あるいは、この先計画する事柄であっても、意志決定や中央政策の施行に責任を負う関係部局に多くの権限を委ねている。彼は公の場で、各部局はもう許可を得るためにすべての主導権や問題を関係筋管理者に委ねる必要はなくなったと明言している。彼らの意志決定の権限が大きくなり、状況が必要とするところに応じて主導権を発揮することができるようになるだろう」。

「[しかし]、年輩のチベット人たちは、かつて享受していたような類の信仰の自由を享受してはいない。最近、彼らは自分たちの子どもの将来の展望に傷がつくのを恐れて、信仰心を表に出したり式典に参加したりするのを用心するようになった。ラサの聖地をめぐる伝統的なリンコル巡礼路を歩くのは別として、年輩のチベット人たちは、敬虔さを人目につくように示すことを恐れている。ガンデン寺、デプン寺、セラ寺などの近郊の僧院に巡礼や参拝にでかける年輩者の数は減ってきている」。

「ラサチベット人の若者たちは、もはやかつてのように興奮しやすかったり大胆ではない。ティーハウスや喫茶店やレストランなど公共の場所に集まって、昨今の社会情勢や海外放送で収集した国際ニュース、ダライ・ラマ猊下の歴訪や談話、さまざまな外国のニュースなどのその日の話題を大っぴらに自由に話している若者の姿は、いまや一人もみつけることはできない」。

「そのかわり、今日の若者たちの関心事は、職場の仕事、学校教育、雇用の展望あるいは職の少なさ、給料、そして、衣食住を満たそうという現実のようだ。チベット人と中国人の友好にとって妨害となり有害だと解釈されるような挑戦的だったり政治的だったりする話や、あまりに民族主義的すぎる話、ましてや中国政府指導部を批評・非難するような話など、いまや若者たちが人前で話している姿など見ることは非常にまれである」。

「チベット人の若者が酒屋で酔っぱらって、さまざまなチベットの歌を歌ったような孤立したケースでは、彼は公安局幹部に連れ去られ尋問される。チベット語の[ご禁制の]テープをもっていないか調べられ、ひどい乱暴を受けるのは常のことだ」。

ラサにおける売春

「売春婦として働いている無職の女性は、ラサだけで7,000人以上と伝えられている。15歳ぐらいから45歳ぐらいまでの女性たちが、伝統的なリンコル巡礼路や、普通はピクニックや家族連れの行楽に使われている公園で客をひいている姿がみられる」。

「こうした売春婦の大部分は、学校に行くことができなかったり、ちょっとした商売の類を手がけることもなく過酷な競争市場に立ち向かうことができなかったり、教育のない、手に職をもたない女性たちだ」。

「多くの尊敬すべき責任ある年輩のチベット人たちは、こうした売春婦たちの苦しみに同情し、ラサ社会の急激な道徳観低下を悲しんで、卑しむべき売春市場を一掃して道徳意識と社会意識、そして文化的威厳をラサの町に取り戻そうと、ラサ市政府当局に度々意見表明を行なっている」。

「しかし、犯人を調べて逮捕しようという、名ばかりの行動がとられたわずかなケースにおいて、負け組はいつもチベット人売春婦なのだ。チベット人売春婦は中国人売春婦より多い。売春取締班が手入れや奇襲をかけようというとき、中国人売春婦たちは政府機関とのコネによってリーク情報を得るのが常であり、一時的に町を離れてしまう。そのとき捕まって起訴されて罰金を科せられるのはチベット人売春婦なのだ。高位の中国人幹部が、捕まった中国人売春婦を釈放するよう命令したケースもある」。

「取締りが緩やかになると、中国人売春婦たちは戻ってきて、いつものように商売を再開する。実際のところ政府当局は、社会悪である売春がかつてなく広まっていることに対して多くの市民が苦言を呈しているのに耳を貸さず、むしろ大目に見て、売春を奨励してさえいるのだ。ラサ市税務局のある幹部が特別にアレンジされたテレビ演説で次のように語った。『ラサには多くの売春婦がいるけれども、彼女たちは政府の金庫に税金を通して多大な貢献をしている』。この演説によるとつまり彼は、売春をなくすのではなく、売春に反対する他のあらゆる政府主導の政策を無力化し、売春産業がより大がかりになるよう促してさえいる」。

林業庁における腐敗

「あらゆる種類の汚職、贈収賄、横領が広まっている今日だが、最も広範な例は林業で見られる。チベット自治区林業庁という役所は自治区のすべての森林を管理する責任を負っている」。

「長年にわたってチベットの多くの森林地帯を広範囲に伐採した末、チベットの残りの森林を管理して保護するために、この林業庁が作られた。この役所は林業と林業産品についての総合的な管理と権限を与えられている。どんな伐採作業や材木輸送にせよ、林業庁から事前の許可と認可証明書を得なければならない」。

「これによって、林業庁が賄賂を受け取る絶好の機会ができた。公式には、コンポ[工布]などチベットの森林地帯での伐採や取引は禁止されている。しかし、林業庁のしかるべき役人に5,000元から50,000元(600ドルから6,000ドル)の賄賂をなんとか払えば、トラック30〜100台分の材木を伐採・輸送できる許可証が手に入る。いったん許可証を手に入れれば、どこに材木を運んで莫大な利益をあげようが、だれも咎める者はいない。こうした材木のほとんどは中国へ向かう。また、こうして非合法的に得られた材木はラサでも売られている」。

「結果として、ラサだけでも多くの人々が賄賂でこうした許可証を入手して、違法な材木取引に手を染めている。したがって、林業庁の中国人およびチベット人幹部は、こうした違法だけれども儲かる取引から利益を得ている代表選手である」。

「その一方で、現地のチベット人たち、とくにかつて森林に頼って生計を立てていて、木材生産量を維持するために植林する方針をとっている人々は、今や職を奪われつつある。彼らは、家を建てたり家具を組み立てたりといった家庭で使う木を伐るだけでも、許可を得ることを要求される。申請は林業庁の現地事務所を通して行なわねばならず、彼らは政府の定めるさまざまな費用を支払わなければならない。さらに、伐ったのと正確に同じ数の木を植林することを要求される」。

「要するに、自分たちの地元の森林資源だからといってチベット人たちには何ら特別な権利も特権もない。別の所から来たやつらとまったく同じように許可を申請しなければならない。実際は、さまざまな点において、外から来た中国人たちのほうが現地チベット人住民よりも多くの特権や控除の恩恵に浴しているのだ」。

以上

(翻訳者 長田幸康)

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英語の原文はTibet Information Networkのホームページで読めます。

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