43号(2000年6月)

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 平和的抗議行動で15年の刑に服していたチベット人農夫、死亡

TIN News Update, 12 April 2000
Tibetan Famer Serving 15 Years for Peaceful Protest Dies

平和的抗議行動で15年の刑に服していたチベット人農夫、死亡

1992年にチベット国旗を振り独立要求スローガンを叫んだ罪で、15年の刑を受けてダプチ刑務所に投獄されていた、29歳のチベット人農夫ソナム・リンチェンが死亡した。彼の死亡時の状況は判明していないが、チベット内部からの情報では、彼は1992年にラサの東方の辺鄙な村で発生した抗議行動の首謀者の一人と見なされていたので、刑務所内でも苛酷な扱いを受けていたと伝えられている。ソナム・リンチェンの義理の父親トゥプテン・イェシェも、彼が政治犯として逮捕されてから1週間後に拘束され、現在もダプチ刑務所で15年の刑に服している。

1月に死亡したソナム・リンチェンは、チベット自治区のメルド・グンカル県ギャマ町の出身である。ダラムサラに拠点を置く非政治組織チベット民主人権センターによれば、彼は1997年以来治療を受けていた、ということである。ソナム・リンチェンの死の状況に関する情報が乏しいのは、そのようなニュースが外部世界に漏れることを危惧したラサ政府によって、脅迫を伴った厳格な措置が取られているためであると思われる。

ソナム・リンチェンと3人の農夫たちによる抗議行動が発生したのは、ラサの東方60kmに位置するギャマ町の住民たちが、1992年6月30日に参加させられた政治集会の場においてであった。この集会は、社会主義への忠誠心を高め、地方における草の根レベルの基盤強化のために、中国全土で政府が音頭を取って展開されていた政治キャンペーンの一環として開かれたものであった。集会も終わりに近づいたころ、ソナム・リンチェンと同町出身の20歳代前半の他の3人の農夫、ソナム・ドルジェ、クンチョク・ロドゥそしてルンドゥプ・ドルジェが、大きなチベット国旗をかざし独立要求スローガンを叫びながら演壇に飛び出して来た。「集会の指導者たちはデモ隊が入って来たので、もう一方の方から逃げ出した。壇上ではデモの参加者たちが、真ん中にダライ・ラマ法王の写真を貼ってあるチベット国旗を背にして、聴衆と向かい合った。国旗の上部にはカタ(祝意を表す白い布)が縛りつけられ、、また右側には『チベット独立万歳』とも書かれていた」と、非公式情報筋はTINに対して語った。武装警察は国旗を奪い取り、デモ隊を引きづり出した。「彼らが村から連れ出されようとしたとき、群衆は興奮状態に陥って、およそ100人の村人が独立要求スローガンを叫んで、彼らの後を追いかけた」と、非公式情報筋は伝えている。村人たちは、線香を焚き、ツァンパ(炒った大麦の粉)を連れ去られようとしている若者たちに投げて、彼らへの支持を表明したという。

1992年10月20日、ソナム・リンチェンとルンドゥプ・ドルジェは、それぞれ15年の懲役刑とさらに5年の政治的な権利剥奪の刑をラサ中級人民裁判所で言い渡された。クンチョク・ロドゥとソナム・ドルジェは、それぞれ13年の懲役刑とさらに4年の政治的な権利剥奪の刑であった。TINが入手した判決文によれば、4人のチベット人は「社会に甚大な悪影響を与えた反革命犯罪を犯した」という。ソナム・リンチェンの義理の父親トゥプテン・イェシェは、現在50歳代前半であるが、事件の徹底的な調査を実施するために公安局の将校と政府の幹部が、村にやって来たその数日後に逮捕された。判決書によれば、トゥプテン・イェシェは1992年6月の抗議行動に先立って、樹木に3枚の独立要求ポスターを吊るし、ルンドゥプ・ドルジェの求めに応じてチベット国旗を製作した。トゥプテン・イェシェおよびソナム・リンチェンに課された刑期の長さが、人口の80パーセントをチベット人が占めている農村部における、一般チベット人の政治活動の取締りを強化しようという、政府の決意の強さを読み取ることができる。

ソナム・リンチェンの他の家族も政治活動に関与していたことが、獄中で彼が苛酷な待遇を受けた理由となったのかも知れない。ソナム・リンチェンの兄のタムディンは、1988年に政治活動に参加してダプチ刑務所に5年投獄されている。またソナム・リンチェンは、2007年にダプチ刑務所から出獄することになっていた。

以上

(翻訳者 小林秀英)
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 チベットからの様々な声が、世界報道自由記念日を祝う

TIN News Update, 28 April 2000
Different Voices form Tibet Mark World Press Freedom Day

チベットからの様々な声が、世界報道自由記念日を祝う

これまで公開されたことのない、チベット人の放送コメンテーターと新聞記者のインタビュー記事が、世界報道自由記念日を祝して2000年5月3日に出版されることとなった。

この報告書は『様々な声』という表題で、TINから出版されるもので、報道の自由と情報の自由が、チベット自治区および中華人民共和国内の他のチベットの領域において、どれだけに存在しているかを検証するものである。

『様々な声』は、地方記者が送って来た記事から取捨選択をする立場にいたことのある、ラジオ局の部長のインタビューやまた公文書の翻訳文を材料にして、報道機関に日々課されている検閲方法を検証しようという新たな試みである。

「85項目の政治的に微妙な問題には、言及することはできなかった。中国人とチベット人の間で生じた喧嘩やトラブルを、我々は直接的に取り上げることもできなかった。また中国人に対して嫌悪感を表明する、チベット人の言動も報道することはできなかった。こういったことについて、文書で書かれた規則も法律も存在していないが、この原則は常に我々の心を支配していた。我々がどのような情報を伝えようとしても、必ず数段階のチェックを受けなければならなかった。我々がある情報を取り上げても、上司がノーと言えばそれで全てが終わった」

この20ページに及ぶ報告書は、5月2日からEメールまたはファックスで入手可能となる。TINの電話番号は、44−20−7814−9011、ファックスは44−20−7814−9015、 Eメールのアドレスは、tin@tibetinfo.netである。

注釈
1 TIN(チベット・インフォメーション・ネットワーク)は、チベットで何が起きているのか情報を収集しまたその情報を提供する、独立情報研究センターである。ロンドンに本部を置き、またインドとネパールに情報収集センターを置いて、チベットにおける政治、社会、経済、環境、人権の状況を監視している。またニュースと報告書の形式で、情報を公開している。TINは登録された福祉財団である。

2 TINに登録した会員は、2000年5月1日(月)にニュースの形で情報を入手できる。

3 ホームページのアドレスは、www.tibetinfo.netである。

4 世界人権宣言の19条には、次のように謳われている。「すべての人間は、意見を持つ自由とそれを表明する自由を有する。」この権利には、干渉を受けずに意見を持つ自由も、また境界線を越えて情報や考えを探求し、これを享受しまたそれを発信する自由も含まれている。

以上

(翻訳者 小林秀英)
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 チベット人観光ガイドたちに新たな政治的抑圧

TIN News Update, 19 May 2000
Tibetan Tour Guides under New Political Pressure

チベット人観光ガイドたちに新たな政治的抑圧

チベット自治区政府は、100人以上の中国人のガイドを新たに雇用した。一般的に西洋人に人気のあるチベット人観光ガイドたちにとって、この政策は新たな脅威となっている。チベット人観光ガイドたちに対する、政治的圧力は次第に強められている。これはチベット人ガイドが外国人旅行者に、チベットの文化や歴史またダライ・ラマ法王について解説をすることが、『治安維持上の危険要因』となるのではないかという、政府の懸念を反映するものである。現在チベット自治区政府が課している観光ガイドの要件は、中級学校卒業ということである。これによってインドの亡命チベット人社会で、英語を学びまたチベット文化を学んで来たチベット人が、チベットに帰還しても観光ガイドの職に就くことは困難となっている。

チベットの観光ガイドたちは、また政治的な試験にも通らなければならない。TINが入手した試験問題によれば、台湾についての中国の立場を是認し、チベットのすべての資源が中国に所属することを承認し、「国家の利益と民族の誇りを守る」ために「自主的な行動規範」を順守しなければならない。

新たに中国人観光ガイドを雇用した政策は、チベット人が外国人旅行者に接触することが、治安上の不安要因となるという懸念を、政府が抱き続けていることを示している。またチベットを訪問する中国人旅行者が次第に増加していることに、対応したいという願望も反映していると思われる。最近チベット旅行から帰ったばかりの西洋人旅行者が伝えているところでは、数百人の中国人がチベットの観光ガイドの仕事に応募した。彼らは教育レベルも高いく、チベットの歴史や文化についても良く知っているという。「彼らは英語も良く解り、チベットの歴史や仏教についても勉強している。彼らがチベット人観光ガイドに取って代わる可能性は高い。チベット人のガイドを連れて西洋人がチベットを旅することは、もっと困難なことになるかも知れない。」と、その西洋人旅行者はTINに語った。1980年代の後半にも、チベット自治区政府はラサにおける中国人ガイドの数を増やそうとしたことがある。しかし西洋人旅行団体には不人気で、計画を中止した経緯がある。

すべての観光ガイドが中国あるいはチベットで、中級学校の学歴を修めていなければならないという条件は、インドで教育を受けたチベット人たちを観光ガイドの職から締め出そうという政策を、さらに一歩推し進める形になる。1997年にチベット自治区政府は、60人以上のチベット人観光ガイドの資格更新を拒否した。彼らが無許可でインドを訪問したというのが、その理由であった。中国政府は長い間、チベット人ガイドが外国人旅行者の案内をすることを、治安上の不安要因として懸念を抱いていた。
1994年6月、中国政府は年間活動報告書を発表し、観光ガイドが「外国人旅行者と共謀して国家の安全を害すことがないように」監視をしなければならないと述べた。ラサ出身のチベット人がTINに語ったところでは、「チベット人観光ガイドたちは英語を話し、貿易にもまた観光産業にも必要なために容認されている。しかし彼らは疑われており、注意深く監視されている。」という。毎年3000人かそれ以上のチベット人たちが、チベット亡命政府の所在するインドに出て、英語やチベット文化を学んだ後に帰国している。英語やチベット文化を知っていることは、チベットの観光事業にとっては値打ちのある技能である。インドへの脱出は秘密裏に実行されているものの、過去4年の間に国境警備が強化され、ほとんど全ての帰還者が取り調べを受けるようになっている。その内の多数の者が拘束され、最高3カ月の取り調べを受けている。今年1月にカルマパ17世のウゲン・ティンレー・ドルジェ、14歳が亡命をしてからは、国境警備はさらに一層強化された。

最近TINが入手した観光ガイドの試験問題には、観光法や政治に関する設問が含まれている。最近の設問には次のような例もある。「資本主義と社会主義が、ここでは同時に存在している。これは正しいか誤りか。(正答は正しい。)「個人旅行ガイドとしての自主的な行動規範」も明確に答えなければならない。その行動規範とは、次のようなものである。「国家の利益を守り、民族の誇りを守る。国家の利益と民族の誇りを傷つけるような行為を避け、無責任な言動を慎む。」また次の文章の後半を完成しろという設問もある。「中華人民共和国の領土内で発見されたすべてのものは」という前半の文章に対して、「地上あるいは地下を問わず、存在するものは全て、森林、河川、大洋さえも、国家の財産である」と解答しなければならない。観光ガイドたちはまた、以下の設問の中で『一つの中国』政策に関する理解も披瀝しなければならない。「台湾に関する議論は、『一つの中国』政策という観点から結論を出すことが可能であろうか。」この設問に対する正答は、勿論ハイそうです、である。政府は1996年以来、観光ガイドに対して試験を課するようになった。公安当局と北京およびチベットの観光局の管轄下にある試験を、チベット人旅行ガイドたちは20日間に亙って受けなければならないのである。

観光ガイド規則は『安定』を強調
 
1999年3月に発行された内部文書をTINが入手した。それによれば、外国人旅行者を扱うチベットの旅行代理店は、この地域の『安定』に懸念があるために厳密な規則を守らなければならないという。「国境外の人間を管理する部署から、外国人に応対するラサの単位(組織)に宛てた通達」と称する文書には、外国人を扱う旅行代理店は「我が国の国益を損するような活動に、外国人が参加することがないように」しなければならないと述べられている。「外国人が絡んだ事件が起きたら」旅行代理店あるいは観光ガイドが責任を取らなければならないと、この文書は警告しているのである。外国人をチベットのどこかの町や村落に案内した場合には、旅行代理店や観光ガイドは24時間以内に地元の公安局に届け出なければならないことになっている。「彼らの立場に相応しくない活動、例えば非合法的に文化財を買ったり、人民と複雑な関係を持ったり、といった活動」を行った外国人は、政府が特に懸念を抱いている人達である、と同文書は述べている。「人民と複雑な関係を持つ」という意味内容は、同文書の中では説明されていない。しかし推察するに、外国人がチベット人と政治的な話題、例えばチベットの独立問題とかダライ・ラマ法王について、会話を交わすことを意味するのであろうと思われる。

もし彼らのお客さんが法律を破れば、案内している観光ガイド自身が重大な困難に直面する。時にはお客さんが全く法律を破らなくても、それは起こり得る。現在は亡命をしている20歳のチベット人元観光ガイドが、TINに次のように語っている。ある観光客の一団を送り出した後で、彼は公安局の取り調べを受けたという。「私は数名の写真家を、写真撮影が許されている僧院に案内しました。国家公安局の人間が私たちの後を着いて来ているのに、気がつきました。そして写真家たちが出発した後で、公安局に呼び出され、取り調べを受けたのです。私が彼らを3日間どこに案内したか、また彼らに何を話したかを聞かれました。私の仲間のガイドのことまで聞かれたのです。とうとう僧院の民主管理委員会が、公安局を説得してくれて、ようやく釈放されたのです」と、彼は語っている。

中国国家観光部の統計によれば、1998年には87,039人の外国人と5,861人の華僑がチベットを訪れた(中国観光統計年鑑、1999年版)。その内、14,497人が米国からの観光客で、5,362人が英国であった。1998年にチベット自治区を訪れた外国人観光客の数は、前年度より17.9パーセント増加している

以上

(翻訳者 小林秀英)
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 法律強化でチベット・ネパール国境の拘留者増加

TIN News Update, 3 June 2000
Tighter Regulations, More Detentions on Tibet-Nepal Border

法律強化でチベット・ネパール国境の拘留者増加

チベット自治区政府は、「国家主権を守り、国境地帯での安定を確保する」ことを狙いとした、新国境警備法を公布し6月1日から施行した。5カ月前にカルマパ17世が亡命を果たしたことを受けて、チベットとネパールの国境では既に警備が強化されていた。インドからチベットに戻る途中で捕まったり、また亡命をしようとして捕まったチベット人とそのガイドたちは、数年間の懲役刑を受ける危険を冒しているのである。

今年2月ラサで、50人から60人位のチベット人たちが亡命しようとして逮捕され、その内少なくとも4人が2年から3年の懲役刑を受けた。またインドで亡命チベット人学校に通う10代の学生たちが少なくとも10人、親戚に会うためにチベットに帰る途中で拘束され、チベット自治区シガッツェ地区のニャリ拘置所に拘留されている。

中国の公式報道機関の新華社通信の報道は、この新国境警備法の内容を伝えてはいないが、この新法は「国境地帯の安定増進」に役立つであろうと伝えている。チベット自治区政府によって制定されている現存の国境警備法は、ネパールとの交易を促進することと国境地帯全般の警備を強化するという、2つの目的を合わせ持っている。TINが得た情報の示すところでは、国境警備の強化の狙いは、旅行許可証を持たずに旅するチベット人を取り締まることにある。特にインドで教育を受けたりあるいは働いたりした後で、チベットに帰ろうとする人々を対象としたものである。こういったチベット人たちは、亡命チベット人の『反中国』政治活動とつながりを持ち、ダライ・ラマ法王に対する忠誠心を持っていると疑われている。5月31日付けの西蔵日報は、ダライ・ラマ法王を「海外分離主義勢力の頭目で、西欧の反中国勢力の道具となって、祖国を分裂させようとする極悪人」だと述べている。国境地帯の警備強化は、過去5年間にラサで発生した8件以上の爆破事件が亡命中の「ダライ一派」による仕業であるとの、チベット自治区政府の主張にも関係するものである。昨年夏にさらにもう1件の爆破事件が、ラサで起こったとの報告があるが、TINはまだそれを確認できていない。

親戚を訪問するためにチベットに不法に帰った、多数のチベット人たちは一時的な拘束を受ける。チベット自治区のシガッツェ地区は、亡命の地からラサを目指す旅行者たちと、チベットを脱出しようとする人々が交錯する地点であり、国境付近で拘束された多くのチベット人たちは、シガッツェ近郊のウトゥ村にあるニャリ拘置所に拘留される。この拘置所に拘留されているチベット人の中には、正式な中国の旅行許可書を所持して出国しようとした人も、何人か含まれている。

インドのダラムサラとムスーリーにある亡命チベット人の学校の学生たち少なくとも10人が、現在もニャリ拘置所に拘束されている。信頼すべき情報筋によれば、彼らは親戚を訪問するために今年3月と4月にチベットに再入国しようとして、拘束されたのだという。この学生たちは全員が18歳前後である。他に3人の亡命チベット人学校の学生が、家族に会うためにチベットに帰ろうとして拘束されたが、現在は釈放されたという。過去にニャリ拘置所に拘束された経験を持っている人々によれば、ニャリ拘置所の待遇は劣悪であるとのことである。食事は不十分で、拘留者たちは強制労働をさせられ、虐待も日常茶飯事である。

今年3月にラサ近郊で、50人位の大集団が亡命をしようとして拘束された、と非公式情報は伝えている。その内少なくとも4人がダプチ刑務所に収監され、2年から3年の刑に服していると、信頼すべき情報筋は伝えている。 

「密に国境を越えて」国境警備法を犯したチベット人たちは、中国の法律(刑法322条)を破っており、多くの国でそうであるように投獄されることになる。密に国境を越えた人々を「組織した」者は、最長の刑を言い渡される。これには、国境を越えようとする人の手引きをして報酬を得たガイドたちも含まれている。

昨年数人のチベット人ガイドが逮捕され、懲役刑を受けた。青海省ツォシャル(海東)地区のバヤン(中国名・化隆)県出身の、30歳代のチョペルは昨年ラサで逮捕されて、現在は故郷で8年の刑に服している。青海省マロ(中国名・黄南)チベット人自治州のレプコン(中国名・同仁)出身のユンブム・ギャル32歳は、亡命する可能性のある旅行者とガイドの「仲介」をしたとの罪状で、ラサで8年の刑を受けた。また青海省ツォシャル地区のヤズィ県(中国名・循化)出身のツェワン22歳は、インドとつながりがありまたガイドをしたこともあるとの嫌疑で告発されて、現在も拘留されている。

国境警備隊に新戦力

5月24日に新華社通信が公表した中国の新国境警備法は、公安局国境警備隊に「独自の判断で法執行をする」ことを認めており、これにより国境警備隊の威力は高まったと言える。新華社通信が「国境警備隊の任務と機能の大規模な変更」と報じているこの新法によれば、「不法に国境を越える」ような犯罪に判決を下す権限を、国境警備隊が獲得したことになる。これまで国境警備隊は、公安局の法執行機関としての役割を果たしていたに過ぎなかった。この変更が意味するものは、国境地帯の警備をさらに強化しようということである。

チベット自治区政府が1992年に公布した国境警備法は、「国境地帯のいくつかの問題を考慮して、最終的に結論が出された政策の詳細を実行することに関するチベット自治区政府の通達」と題されているが、この法律によれば、チベット自治区の国境は4000km以上に及び、中国全土の5分の1に達する。同法律は(カシミールとシッキムをインドから切り離していると思われるが)、チベット自治区はビルマ、インド、ブータン、シッキム、ネパールそしてカシミールと国境を接していると述べている。

1992年の国境警備法は、「第3国(隣接する国々以外の国)の新聞記者、学者および他の人々が、紛争のある国境地帯に近寄ることを」禁止している。(第14条)中国人の報道関係者であっても、これらの地域を訪問するには特別な許可を得なければならないと、同警備法は述べている。また彼らが帰った後で、政府は彼らが取材した人々全員を調査しなければならない。「チベット自治区外交部は取材を受けた地域を綿密に調査し、また軍事部門の司令官は、取材が行われた部隊を綿密に調査しなければならない」と、同警備法は述べている。1992年の警備法は、国境地帯に居住するチベット人がネパール人やインド人に出会った場合に、どうすべきかも規定している。最初は友好的な態度で接し、彼らから情報を得よという。「我が人民が商売やあるいは他の用事で、近隣の国々の人々に接触する場合は、即座に友好的な態度で手を振って親しくならなければならない。そしてもし重要なニュースを耳にしたら、それを報告しなければならない」と、13条には述べられている。

ここ数年間、亡命をしたチベット人の数は年間2000人から3000人に達していた。昨年の亡命者の数は2000人を少し越えた程度で、一昨年よりおよそ1000人少なくなっている。昨年は中華人民共和国の成立50周年記念日や3月10日のラサ決起40周年記念日があり、チベット内部と国境地帯の警戒が強化されていた結果であろうと思われる。

合法的にチベットに帰郷したチベット人たちは、厳しい監視下に置かれている。ラサ市は、いくつかの地区委員会が分割して管理しており、インドからの帰還者や訪問者でラサ市内の個人宅に滞在しているチベット人たちは、地元の委員会に届け出をすることになっている。外国から誰かが訪ねて来たら、必ず地区委員会に届け出をしなければならず、委員会はラサ市内に滞在する許可証を発行する。訪問者は一人残こらず事情聴取を受けなければならず、警察からも許可証を貰わなければならない。地区委員会の任務は広範囲に及んでおり、各家庭を回ってダライ・ラマ法王の写真の存在を確認することもその中に含まれている。またチベット人が、ラサ市内中心部のポタラ宮殿付近を通行する場合には、観光客に好印象を与えるために最上の服を着るようにと指示を与えることも、彼らの仕事であると、非公式情報は伝えている。

以上

(翻訳者 小林秀英)
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 抗議運動後に、僧院閉鎖の脅迫

TIN News Update, 12 June 2000
Monastery Threatened with Closure following Protests

抗議運動後に、僧院閉鎖の脅迫

ラサ市トゥルン・デチェン県タクルン・ダク僧院が、閉鎖の脅迫にさらされている。昨年発生した抗議行動に、同僧院内の僧侶たちが少なくとも4回参加したためである。22歳の僧侶ンガワン・ツェドゥップは、昨年8月に開催された少数民族運動大会の開会式に、政府の役人や一般市民が集まっているその席で、『チベットは自由だ』と叫んで逮捕されたと伝えられている。この僧侶の身元は、これまで全く判明していなかった。タクルン・ダク僧院の16歳のもう一人の僧侶ンガワン・トグメも、ンガワン・ツェドゥップの抗議運動に加わった疑いで逮捕された。そして、2年間の労働改造収容所送りの判決を受けた、と信頼できる情報筋は伝えている。同僧院の他の2名の僧侶も、それぞれ3年と4年の懲役刑の判決を受けた。ラサ決起記念日である1999年3月10日に、独立要求スローガンを叫んだためであった。

1999年3月にタクルン・ダク僧院の2人の僧侶、プンツォク・レグモン(俗名ツェテン・ノルブ)とナムドル(俗名ソナム・チュダク)が抗議運動に加わった直後は、1カ月の間僧院全体が監禁状態となり、宗教行事を実施するために外出することは許されなかった。同僧院では1998年に愛国教育運動が発動されていたが、それがされに強化され、僧侶たちは個々に取り調べを受けた。昨年8月の少数民族運動大会の時には、さらに2人の僧侶が逮捕され、タクルン・ダク僧院の僧侶たちは追放の脅迫を受けた。もし彼らがダライ・ラマ法王を非難し「分離主義者の行動を批判」しなければ、僧院を閉鎖するとの脅迫も受けたと、信頼すべき情報筋は伝えている。その結果1999年9月には、16人の僧侶たちが僧院から追放された。僧院に残っている8人の僧侶の内5人は修行僧で、2人は典座(料理人)、1人は用務員である。同僧院はラサから15km離れたところに位置している。

昨年は、単発的に数件の抗議行動がラサで発生した。3月のラサ決起記念日、中華人民共和国の成立記念日(国慶節)、チベット自治区『民主改革』40周年を祝うために8月18日から23日まで開催された第6回少数民族運動大会、などの問題を孕んだ記念日に絡んでのことであった。TINが入手した情報によれば、ラサ市ニェモ県出身で22歳になる、タクルン・ダク僧院の僧侶ンガワン・ツェドップ(俗名ノルゲ)は、少数民族運動大会の開会式の演壇に立ち、『チベットは自由だ』等の独立要求スローガンを叫んで拘束された。現在彼は、シトゥ拘置所に拘留されている。

タクルン・ダク僧院の僧侶ンガワン・トグメ(俗名ジグメ、ニェモ県出身)も、ンガワン・ツェドゥップの抗議運動に関与した疑いで、数日後に逮捕された。他の複数の情報によれば、彼もまたンガワン・ツェドゥップの数日後に、同じような抗議運動を行ったとも言われている。彼はテルン・デチェン拘置所に2カ月間拘留された後に、現在はティザム労働改造収容所に移送され2年間の刑期を努めている、とTINの情報筋は伝えている。彼が苛酷なダプチ刑務所送りの司法懲罰とならずに、短期のティザム労働改造収容所送りの行政懲罰となった理由は、少年であることと、警察が彼を抗議運動の中心人物とは見なかったためと思われる。

TINは、さらに2人の僧侶逮捕の詳細を入手した。トゥルン・デチェン県のネチュン町出身で18歳のプンツォク・レグモンと、ペンポのルンドゥプ県出身で24歳のナムドルが、昨年3月10日にデモを行って逮捕されたのである。彼らはデモの後に治安警察から激しく殴打された、と現在は亡命を果たしたチベット人がTINに語った。「ナムドルの口は裂け歯が折れて、余りにも恐ろしい形相だったので、近くにいた人達も彼の顔を見ることができなかった」と、この情報筋は伝えている。この2人の僧侶は、最初グツァ拘置所に拘留され、現在はダプチ刑務所に移送されている。ナムドルは4年の懲役刑、プンツォク・レグモンは3年の懲役刑を受けている。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 レティン僧院の僧侶ら転生化身問題で抗議行動、逮捕さる

TIN News Update, 13 June 2000
Reting Monks Detained following Protest over Reincarnation

レティン僧院の僧侶ら転生化身問題で抗議行動、逮捕さる

先月(2000年5月)にルンドゥップ県のレティン僧院で、8人の僧侶が逮捕され、その後警備が強化された。TINが入手した信頼できる情報によれば、第6世レティン・リンポチェの転生化身としてソナム・プンツォクが選ばれた件で、僧侶たちが抗議行動を取ったために、彼らは現在ルンドゥップ県の拘置所に拘留されている。未確認情報によれば、今年1月に同僧院で即位した2歳のソナム・プンツォクを暗殺しようと企てて、告発されたのかも知れないという。

レティン僧院の抗議行動の詳細は今もって確認できないが、この抗議行動が発生して以来、ラサの北方100kmに位置する同僧院を、外来者が訪れることはできなくなっている。抗議行動の翌日、検問所がキチュ川に架かるタクツェ橋に設けられた。ここはラサとルンドゥップ県を結ぶ主要道路に当たる。

ラサ市長代理のダルゲは、1999年12月30日に記者会見を行い、第7世レティン・リンポチェを発表した。カルマパ17世がツルプ僧院を脱出した2日後のことであり、彼はまだインドへの旅の途中であった。今年1月に発表された少年の名前は、ソナム・プンツォクであった。公式報道によれば、探索は「歴史的な伝統と宗教儀式」に則って行われたという。レティン僧院の探索隊が少年を発見した後に、その知らせは国務院宗教事務局に伝えられた。そして同事務局は、チベット自治区政府がソナム・プンツォクを転生化身と公式に認定したことを承認した。これは中華人民共和国によって認定された、3番目の転生化身ということになる(新華社通信、2000年1月19日)。ソナム・プンツォクは、中国によって選ばれたパンチェン・ラマ同様に、ダライ・ラマ法王の承認を得てはいない。

無神論者の中国共産党政府が、チベット人の最も重要な宗教伝統の一つである転生化身の制度に介入することに、多くのチベット人たちは不満と苛立ちを感じている。中国政府は『愛国的』な宗教人を養成する手段として、この制度を公式に統制しようとしている。1995年にタシルンポ僧院の僧侶たちが、中国政府がパンチェン・ラマ11世認定に介入しようとしたことに抗議して逮捕されて以来、チベットではこれは特に敏感な問題となっている。ダライ・ラマ法王は、1995年にパンチェン・ラマ10世の転生化身として、ゲンドゥン・チュキ・ニマ少年を認定した。少年と家族は中国政府によって拉致され、別の候補者ギャルツェン・ノルブが即位した。探索委員会の委員長で、当時タシルンポ僧院の僧院長をしていた、チャデル・リンポチェは「国家を分裂させ、国家秘密を」外国の分離主義者勢力に提供した罪により、6年の懲役刑の判決を受けた。

レティン僧院は、公式報道機関から模範的な『愛国』僧院として称賛されて来たが、1995年には愛国教育工作班と僧侶たちの間で衝突が起こり、6人が逮捕された。チベット自治区共産党書記の陳奎元は、1995年末に僧院に招待され、愛国教育運動の勝利宣言を行うことになっていた。しかし彼が到着する前日に、工作班のジープが引っくり返され、火を着けられた。彼の訪問は中止となり、6人の僧侶が逮捕され、1年から8年の懲役刑を受けた。これらの僧侶の内の3人、ロプサン・ツォンドゥ、ティンレー・ツォンドゥ、ティンレー・ツルティムは、チベット自治区随一の刑務所であるラサのダプチ刑務所に収監されている。

第5世レティン・リンポチェは、ダライ・ラマ13世の逝去に伴って、1934年1月にチベットの摂政に選出された。ダライ・ラマ14世の探索に重要な役割を果たした後に、宗教的な師匠の役割も果たした。彼は後に、中国政府と共謀してチベット政府に対抗した容疑で告発され、1947年に原因不明で亡くなった。中国がチベットの支配権を確立した後に、彼の転生化身(1948−1997)は8歳で公式な地位を与えられた。文化大革命中は投獄されていたが、1970年代の末に釈放され、再度いくつかの公式な地位を与えられた。パンチェン・ラマ10世と同様に、彼も世俗の生活を受け入れ、結婚もしていた。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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英語の原文(画像つき)はTibet Information Networkのホームページで読めます。

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