42号(2000年3月)

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 チベットにおける産児制限、さらに強化

TIN News Update, 9 February 2000
Increased restrictions on birth of children in Tibet

チベットにおける産児制限、さらに強化

チベット自治区当局は、特に人口の85%以上が住む農牧地帯において、過去2年間にわたって産児制限政策の強制を強めてきている。TINが入手した非公式報告によると、チベット自治区のいくつかの県におけて、農民と遊牧民に対して初めて「2人っ子」政策が適用されている。このことは、農民や牧畜民には子どもは3〜4人までという1992年にチベット自治区人民政府が設けた産児制限以来、チベット自治区での家族計画政策における最も重要な変化があったことを示すものである。ある報告によると、産児制限に異議を唱える者は「中国政府への反抗」として批判されるという。そして、ある村では、不妊手術を受けなかった女性が「社会主義に反逆した罪をおかした」として家族計画集会で非難されたという。

官製新聞『西蔵日報』は昨年、人口増加率を管理して「人口資質」を向上させる、より厳格な産児制限を自治区に導入していることを報じた(1999年6月1日付、中国語版)。1998年のチベット自治区における出生率が1996〜2000年の第9期五カ年計画で設定された目標値を十分下回っていることを示す中国の公式統計からは、ここで表明されたような出産数を制限する必要性は裏付けられない。

チベット自治区の第9期五カ年計画は、2000年末の時点での自治区の人口を257万人以下に抑えることを目標と定めた。公式の数字によると、チベット自治区の総人口は243万人で、チベット人がその95%を占めていることになっている。公式統計によると、チベット自治区の1998年の出生数は50,700人であり、出生率は20.32‰を記録した。この数字は、1991年から8.43‰下回っている。自然人口増加率は14.82‰すなわち1.482%となり、第9期五カ年計画(1996〜2000年)で設定された目標値である16‰を十分下回っている。中国国家統計局の発表によると、中国の総人口の増加率は1998年、家族計画政策が実施されて以来はじめて1%を下回った。

1996年、当時のチベット自治区主席であったギャルツェン・ノルブは、第9期五カ年計画の期間中に自治区は緊迫した人口急増に直面すると警告した。1994年以来人口増加率が低減していることを中国の公式統計が示している事実にもかかわらず産児制限政策が強化されることを正当化するために、この「急増」予測が利用されたという可能性がある。公式の数字によると、チベット自治区の実質人口増加率は、1990〜1994年に年率1.82%だったが、1994〜1998年にはわずか年率0.73%と50%以上も低下した。これは中国全体の人口増加率である年率1.02%を十分下回っている。この人口増加率の低下が、チベット自治区における既存の産児制限政策の有効性を示すのか、あるいは、幼児死亡率の変化といった別の要因が絡むものなのかは明らかではない。

一般に入手できる中国の統計は、ラサやチベット自治区の都市や村、郊外地域などへの中国人移民の流入についての不正確なデータを採用しているために、人口増加率と産児制限政策の結果を決定するより重要な要因を反映できていない。公式統計に非居住者の人口が含まれていないように、正式な許可と「出生証明」(夫婦が子どもをもつことを許可する証明書)なしに子どもをもっているチベット人は公式の人口統計にはカウントされないこともまた十分ありえる。違法な手段で証明書を購入できるのでなければ、「計画外」に生まれた子どもは、ほとんど場合登録されることはなく、したがって十分な市民としての地位を得られないであろう。

公式統計によると、チベット自治区の人口におけるチベット人の割合は、都市部や町村への中国人への移住があった形跡が明らかなのにもかかわらず、1990年代を通して一貫して95%程度にとどまっている。中国の人口統計には、例えば、登記されていない移民労働者や軍人は含まれていない。チベットの首都ラサの急激な都市化は、過去40年の間に7倍の人口増加をもたらした。1959年の3万人から、今日では推定20万人となり、このうち50〜60%以上が中国人と推定されている。伝統的なチベット人地域は現在では都市部の5%に満たない。

「人口増加を抑える」ために必要な措置

1990年以前には、チベット自治区のチベット人に対する家族計画工作は、都市部住民と幹部たちに的を絞っていた。チベット自治区当局がチベット人農民・牧畜民家族の人数に対する規制を導入する準備をしているという初めての徴候は、1990年5月29日付の新華社電に現れた。当時の自治区家族計画事務所の副所長であるタシ・ナムギャルが、急速な人口増加率を抑え「人口資質」を管理するために、こうした規制が必要であると語った(1990年5月29日付、新華社)。中国においては、「人口資質」という言葉は優生学の概念であり、中国社会において精神的に欠陥のある児童の数を減らそうという当局の狙いを指している。過去において時に、政治的あるいは社会的に望ましくないと見なされる人々を特定することを正当化するために、この論拠が拡大されてきた。

1992年、チベット自治区は農民・牧畜民に適用される家族計画規制を導入した。この規制によると、「宣伝工作を試みることから始め、基礎に基づいて、それから徐々に[この運動の]範囲を広げていこう」という政策に従って「より少ない出産、良質な出産、間隔をおいた出産、そして、すでに3人子どもがいる夫婦はこれ以上子どもをもうけない」ことが農牧地帯において提唱されることになっている。

1996年5月23日の家族計画工作についてのチベット自治区の会議での演説で、ギャルツェン・ノルブは、特に「避妊」(当局の用語では、不妊手術のことを含む)を強調して、農牧地域での家族計画工作のさらなる強化を求めた。ギャルツェン・ノルブは、党、政府、そして家族計画局は「家族計画政策を包括的に実施し、有効な措置をとり、万人の避妊の選択の権利を満たすよう、農民・牧畜民に対して家族計画事業を実行するべきである」と語った(『西蔵日報』中国語版。1996年5月30日付)。同じ演説の中でギャルツェン・ノルブは次のように語った。「人口の88%を占める農業・牧畜地帯における家族計画工作は、プロパガンダと家族計画措置がまだ熱心に実施されていない段階にある」。彼は、「人口管理の目標が達成できるかどうかにとって、極めて重要である」ため、家族計画工作の焦点を農牧地帯に転じることを強調した。

人口の目標値は国家レベルで設定され、下レベルの行政単位に委ねられる。ギャルツェン・ノルブは同じ演説の中で、「地域によって条件はさまざまなのだから、人口発展について画一的なパターンを強制する必要はない。地域性を重視して、チベット自治区の総合的な目標の枠組みの下で、人口成長が地域の経済発展と資源環境に見合うように独自の人口発展目標を打ち出そう」と述べた。

産児制限政策の地方分権化の結果の一つとして、各地の当局が家族計画の必要を満たした政策を適切に実施していることを人口統計の中で示さなければいけないということがある。これによって、統計の数字の歪曲も起こりうる。各地の幹部たちは人口目標値の強制に成功したかどうかで評価されることとなり、したがって、彼らの課した目標値に関わる賞罰によって、極端な強制に結びつきがちである。TINの入手した報告によると、特に農牧地帯においては、これらの幹部が導入した罰金と行政機構によって、相当数の強制避妊が女性に課せられている。

中国当局は一般に、産児制限を課する際の強制避妊の実施を否定しているが、2年前、国家計画生育委員会の国際関係課の中国人幹部が珍しく認めたことがある。この課のツォン・ジュン課長は、1998年10月29日に開催された女性問題についての中国・ヨーロッパ研究会の演説の中で、国家計画生育委員会は、中絶や不妊手術を女性に強制することを全レベルの下部組織に対して禁止する通達を全国に発したと述べた。彼女は「巨大な草の根レベルでの家族計画組織において、産児制限を強制するケースがある」と認め、「これ以上起こることを阻止するために全力を尽くし、この問題における女性の権利の擁護を監視していく」と続けた。

不妊手術を受けない女性は「社会主義に反逆する罪」

チベット自治区シガツェ地区ンガムリン県出身のあるチベット人によると、同地区内の18県のうち4県において、農民・牧畜民がもつことのできる子どもの数に対して新たな規制が適用されている。これらの県において、すでに2人の子どもを産んだ女性は不妊手術を施されるというものだ。これは、チベット自治区の農民・牧畜民に対して2人っ子政策が適用された、TINに届いた初めての報告である。1995年以前には、ンガムリン県では、1992年に設定された農民・牧畜民の子どもは3人までというチベット自治区の規制を実施しようとした実質的な試みはなかったと報告されている。

30歳のチベット人がTINに語ったところによると、純遊牧地帯であるドンパ県で1997年にある不妊手術プログラムが開始され、後に隣接するサガ、キロン、ンガムリン県に広まった。最も人口密度の高いサガでも1平方あたり、たった10人。最も人口が希薄なキロンでは、大ざっぱに言って1平方キロあたり1人である。このチベット人情報提供者によると、1998年、このプログラムが農業・遊牧混合地帯であるンガムリンに到達した後、彼の村の約300世帯の約3分の2の女性が不妊処置を施された。不妊手術を受けなかった女性たちは、村の家族計画集会で「社会主義に反逆する罪を犯したとして批判された」。また、このチベット人がTINに語ったところによると、産児制限がチベット仏教徒としての信念に反すること、および「[農]作業を手伝う人手がもっと」必要だという理由で当局に意義を唱えた者は、「そのような不満を述べることは、中国政府の政策に反抗することにあたる」と告げられたという。チベット人による中国政府への反抗は当局に危険視され、厳しい反応を招く可能性がある。

チベット自治区チャムド地区チャムド県出身の元遊牧民であるチベット人がTINに語ったところによると、1998年に彼の村で始まった産児制限プログラムは、家族の人数に関係なく村のすべての女性を対象にしていた。この61歳のチベット人によると、プログラム開始にあたって、村の5つの職場それぞれから7人の貧しい女性が産児制限処置のために召集され、拒否すれば1000元(118米ドル)の罰金だと脅された。この金額は、チベット自治区の農牧畜民1人あたりの平均年収の3分の2に相当する。この情報提供者によると、彼女たちには「避妊リング(IUD)を入れるか、不妊手術をするか、注射をするか」という選択肢が与えられた。「彼女たちが罰金を払うために1000元を手に入れることなど不可能だった。だから、だれも拒否することはできなかった」。

TINが入手した別の報告によると、チベット自治区の女性たちは、使用される避妊用具や避妊手段について選択できないことも多いという。非公式の報告によると、「産児制限処置」のために病院に連れて行かれる女性たちが、例えば、避妊リングを入れられるのか、不妊手術を受けさせられるのかなど、どんな処置が施されるのかを知らないこともある。

チベット自治区では不妊手術は無料

シガツェ地区のラツェ県病院についての報告の中で、当局者が不妊手術の広がりに関する貴重な考察をしている(西蔵日報、1998年9月2日付)。このチベット語版新聞は、ラツェ県が1995年以来、家族計画工作を「強化」してきたことを伝えている。ラツェ県病院の婦人科は、不妊手術をすることを望む女性に手術を施すために、特に貧しい世帯の最も多い村を訪れる医療チームを組織した。この報告によると、1997年、ラツェ県の農牧畜業地域で計2267人の女性が不妊手術を施された。うち265人は、貧困世帯が最も多い2つの村「レウー」および「ラサ」村の女性であった。1995年のチベット自治区統計年鑑によると、ラツェ県の1994年の人口は43,500人であり、うち農牧畜地帯の人口は21,700人にのぼる。

チベット自治区の官製紙『西蔵日報』は、この病院の婦人科スタッフたちは、県下の貧しい農牧畜民に家族計画を提供することによって、彼らに支援の手を差しのべる「並々ならぬ」工作を成し遂げたと記している。この新聞記事は、無料の不妊手術と医療および物質的支援を提供することによって貧困から脱出する道を歩む手助けをしてくれた県病院と現地診療所に感謝の気持ちを表わしているという「貧しい世帯出身の」ある匿名の女性について報じている。この記事によると、県病院の院長ペンパは、これらの村で効果的な教育と宣伝を施した工作の結果として「家族計画政策の実行における主導権を握るというよき習慣を大衆が促進している」と述べた。

以上
(翻訳者 長田幸康)
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 『家族を豊かにする』ための新産児制限政策

TIN News Update, 9 February 2000
New Birth Control Policies to “Help Families Become Richer"

『家族を豊かにする』ための新産児制限政策

四川省のカンゼ(甘孜)蔵族自治州政府は、同自治州内でこれまでチベット人に認められて来た子供の数を減らすべく、現存する家族計画を変更する提案をした。同自治州内に居住するチベット人労働者および都市部のチベット人住民は、これまで2人まで許されていた子供の数が1人となり、農民や遊牧民に許されていた3人が2人となる。非公式情報筋が伝えているところでは、伝統的にはチベットのカム地方に属するカンゼ蔵族自治州では、この変更は既に実施されており、チベット人の間で非常に評判が悪いという。同様の子供の数削減計画は、チベット自治区やチベットの領域であるアムドに属する甘粛省および青海省でも、チベット人を対象にして実行されている。子供の数削減計画は、定数以上の子供を持っている親に、罰金を課することを可能とするものであり、地元政府の新たな歳入源ともなるであろう。

カンゼ(甘孜)蔵族自治州で提案されている家族計画は、「新たな産児制限の概念を導入し、家族が裕福になることを支援する」のが目的であると、1999年6月23日付けの新華社通信の記事は伝えている。これは、人口増加率が経済発展の障害になっていると言っていることになる。しかし中国の公式人口統計値からは、自治州で産児制限政策を実施しなければならない必要性を認めることはできない。1990年から1998年までの、カンゼ蔵族自治州の実際の人口増加率は0.6パーセントで、中国全体の増加率1.2パーセントに比べても半分に過ぎない。また人口密度は1平方km当たり5.7人で、四川省の『少数民族地域』に含まれていない他の地域の414人比べても極めて少数である。

チベット蔵族自治州の人口増加率を、経済的また社会的な発展を優先する政府の計画に適応させるというのが、政策変更を正当化する政府の公式見解である。1999年6月23日付けの新華社通信によれば、同自治州の宗教問題委員会のチョウ・リーチェン副主席は、政策の変更は経済発展に伴って『地元の人々の家族計画の考え方』に変化が生じていることに対応するためである、と語ったという。政策の見直しは、同地域に居住するチベット人の子供の少数化を求める自発的な「要求」あるいは「願い」を、政府が受け入れたものだと新華社通信は報道している。

新華社通信によれば、カンゼ蔵族自治州の人口は「50年間に」48万人から87万人に増加したという。新華社通信は、チベット人の家族計画に対する政策が寛容であったことと、同州の平均寿命が「新中国が設立される前(1949年)の」29才から1980年代初頭の55才に伸びたことが、この人口増加を引き起こした要因であると説明している。しかしながら同じ数値から判定できるのは、同期間のカンゼ蔵族自治州の人口増加率は、年率で1.33パーセントに過ぎず(注釈の1を参照)、中国全体の人口増加率1.71パーセントに比べても下回っているということである。同自治州の18の県の内の半分は、1990年から1994年の期間でも人口増加率は、ゼロかあるいはマイナスとなっている(注釈の2を参照)。公式統計資料に基づくカンゼ蔵族自治州のこの人口増加率の低さは、チベット人に対する産児制限強化の正当化するものとは思えない。

しかしながら新華社通信が言い落としているのは、公式統計数値に基づいても同蔵族自治州の人口のおよそ4分の1を、非チベット人が占めているという事実である。しかもその上に公式統計数値は、チベットの領域に住む非チベット人の数を過小に記録する傾向がある。1990年に実行された人口調査では、カンゼ蔵族自治州のチベット人の数を、62万7034人と記録している。これは、同自治州の人口総数の76パーセントに当たり、24パーセントに当たる19万8千人が非チベット人であることが判る。同自治州の人口統計数値は、1997年5月1日付けの公式英語新聞であるチャイナ・デイリー紙にも掲載されている。

カンゼ蔵族自治州の家族計画を変更しようとの提案は、承認を受けるために四川省政府に提出された。これにより『少数民族』が現在の法律下において享受している、より柔軟な産児制限政策は終わりを告げることになる。カンゼ蔵族自治州で現在実行されている産児制限政策は、チベット人の農民や遊牧民には2人の子供を持つことを認めており、「本当に困難な状況に置かれている」チベット人には、政府の指針に従って「承認を受けた後に」3人まで子供を持つことを認めている。

1989年に発行された極秘内部文書をTINが入手したが、それによれば漢民族の労働者や農民の中にも、同地域のチベット人と同数の子供を持つことを許された人々がいる。『カンゼ蔵族自治州の産児制限手順』と題されたこの文書によれば、漢民族で市場の庭師をしている者や、8年以上同自治州に居住している夫婦、また8年以上同自治州で働いている夫婦は、2番目の子供を持つことを許されている。中華人民共和国のどこでも、上記のような夫婦は子供1人に制限されているにも拘わらずである。同『手順』に記載されている別の条文によれば、同自治州に「分散して住んでいて」「真の問題を抱えている」漢民族の農民や遊牧民は、「承認を受けた後に」3番目の子供を持つことを許されるという。この特例は、僻地で快適でない土地と考えられている地域に、暮らしあるいは働く漢民族に対する報酬あるいは誘惑という意味を持っている。1999年6月23日付けの新華社通信は、同自治州に住むチベット人以外の民族に対する、いかなる優遇政策の変更も示唆してはいない。

『懲罰と褒賞』

昨年6月23日に発表された新華社通信の報告書には、一人っ子政策を受け入れた家族に対しては、「学校の入学、医療、就職」等の様々な分野で優遇策が与えられると述べられている。中華人民共和国全土の各政府は、産児制限政策を実行する上で、『懲罰と褒賞』政策をとり続けている。制限を越えて子供を持った人々に対しては、『産児制限超過税』を課する等の経済制裁を加えたり、制限以上の子供に対しては出生証明書を発行しない等の行政処分を加えたりする政策を実施している。これによって地元政府は、産児制限超過税を利用して税収の拡大を図ることが可能であり、『余分』な人口に対しては教育や医療を与える責任を回避することが可能になる。辺地、特に遊牧地に住むチベット人たちは、現在の家族計画で認められている子供3人という制限を越えて、それ以上の子供を持っていた。この地域で認められた子供の数が2人に減ることによって、『産児制限超過税』を課せられる例が急増することが予想される。

新家族計画を実施することによって生ずるもう一つの現象は、不妊手術の増加と避妊具や避妊薬を使った避妊法が増加することである。TINが入手した秘密内部文書には、「子供を3人持っている少数民族の農民や遊牧民は、夫婦のどちらかが不妊手術を受けなければならない」(カンゼ蔵族自治州の家族計画手順)と述べられている。カンゼ蔵族自治州家族計画委員会が、1989年7月20日に追加発表した文書には、不妊手術は「多産を抑制する方法としては重要であり効果的である」と述べられている。この文書ではまた、「避妊知識や家族計画意識の薄い農村地帯や遊牧地帯では、避妊薬や避妊具を継続的に提供することもできないため、不妊手術は不可欠である」と述べられている。

チベット自治区政府が1992年に公布した法律によると、『矯正手段を受け入れた』つまり不妊手術を受けたり、『妊娠中期に出産を誘発した」(公認された妊娠中絶を受けた)女性たちは、受けた手術に応じて休暇が与えられるべきことを指示している。手術を受けた女性たちは、『10斤(5kg)の小麦粉と2斤(1kg)のバター』が褒賞として支給されると、同法律には記載されている。

カンゼ(甘孜)蔵族自治州の家族計画は、1995年8月に発表された産児制限白書に基づいて中華人民共和国全土で実施されている一人っ子政策を、この地域の夫婦に「推奨し奨励する」ために立案されたものである。産児制限は、1982年以来、漢民族にとっては憲法にも記載された義務となっている。中華人民共和国で1954年と1975年に公布された最初の2つの憲法には、産児制限に関する記述は一切ない。1978年に施行された3番目の憲法には、「国は家族計画を推奨し奨励すべき」ことが盛り込まれているが、十分には実行されなかった。1982年に施行された現憲法では、「夫も妻も家族計画を実行する義務を負う」(第49条)と記載されている。

子供削減計画の実施

カンゼ蔵族自治州においてチベット人に奨励されている新家族計画が、既に少なくとも1つの県で自治州政府の指導の下に実施されているとの兆候がある。カンゼ(甘孜)県の都市部では、既に『二人っ子』政策が実施されている、との2つの別々の報告が同県に居住するチベット人からTINに届いている。カンゼ県出身の57才の女性は、亡命するまでは農民であったが、彼女の村では1995年に二人っ子政策が通達されたと語っている。これは新華社通信が伝えている1999年に先立つこと、およそ4年である。通達は、各家庭に配布された公式なポスターという形で知らされた、という。

もう1人の農民の女性もカンゼ県の別の村の出身であるが、彼女の『故郷』では子供の数を2人に制限する家族計画が実施されていたと、1998年にTINに対して語っている。このチベット人女性は、この政策が何時実施されるようになったのかを特定してはいないし、また彼女の『故郷』が純粋な農村であるのか、あるいは農業と牧畜の複合地域であるのかも説明してはいない。彼女が証言しているのは、子供2人の制限を破った両親には1千元(118ドル、12500円)の罰金が課されているということである。カンゼ県は、カンゼ蔵族自治州全域で産児制限を実施するための、予備実験場にされて来たのかも知れない。

カンゼ蔵族自治州出身の3番目のチベット人は、彼が1998年の中頃に故郷を去って亡命するまでは、カンゼ蔵族自治州全域ではまだ子供削減計画は実施されていなかったと語った。このチベット人は、カンゼ蔵族自治州のセルシュ(石渠)県の農家の出身であるが、彼の村では子供の数はまだ3人であったと語っている。セルシュ県はカンゼの9県の内の1県で、公式人口統計数値によれば1990年から1994年の間に、人口は僅かながら増加しているのが判る。

チベットの他の領域での産児制限

中華人民共和国の他のチベットの領域においても、少数民族の家族計画に政策の変更が起きているのが判明している。青海省ゴロク(果洛)蔵族自治州のマチェン県出身のチベット人農民が、1999年2月にTINに語ったところによれば、彼の県でも農民は2人以上の子供を持つことが許されていなかったが、遊牧民たちはまだ3人の子供を持つことが許されていたと語っている。

甘粛省カンロ(甘南)蔵族自治州のサンチュ(夏河)県では、農民や遊牧民であっても子供の数は2人に制限されており、都市部の居住者の子供の数は1人に制限されている。サンチュ県では、農民や遊牧民の子供を2人に制限する政策が実施されていることは、同県の異なった4カ所出身の4人のチベット人が、一様に報告していることである。

同県出身の21才の農民がTINに語ったところでは、産児制限政策は1997年に導入されたという。彼女はさらに語ったところによれば、都市部では一人っ子政策が実施されており、同地域に住むチベット人は漢民族と同じ産児制限が課されているという。1997年以前の産児制限政策は、「農村部および遊牧地では、子供の数は2人が望ましいけれども、3人までは許される。また都市部では1人が望ましいけれども、2人までは許される」というものであった、と同情報筋は語っている。

注釈:
1:この数値の根拠は、1953年に実施された最初の中国の人口調査であり、その調査に基づけば48万人であった。従って人口増加率を算出した期間は、1953年から1998年までの45年間ということになる。1999年6月23日付けの新華社通信の記事では、『50年』と書かれていた。

2:この事実は、チベット自治区以外の他のチベットの領域にも当てはまる。1990年から1994年までの公式統計数値によれば、チベット自治区以外のチベット人の自治地区では、40パーセントの県でチベット人の人口は減少かあるいは一定を保っている。

以上

(翻訳者 小林秀英)
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 カルマパの逃亡に関する調査;両親政府に拘束さる

TIN News Update, 29 February 2000
Investigation into Karmapa Escape ; Parents Detained by Authorites

カルマパの逃亡に関する調査;両親政府に拘束さる

カルマパ17世の両親、ウゲン・ティンレイ・ドルジェ夫妻は、1月にチベット仏教カギュー派の管長であるカルマパが亡命をして以来、治安摘発の一環として厳密な取り調べを受けている。カルマパ17世の年老いた両親、ドゥンドゥプとロガは政府の手によって、ラサの家から彼らがかつて遊牧民として暮らしていた、チベット自治区内のチャムドに連行されたと、信頼すべき情報筋は伝えている。

政府はカルマパ17世のチベット脱出に関して、広範な捜査を実施ている。これは、精神的な指導者の逃亡が、いかに政治的な大問題であるかを示すものである。伝えられるところによれば、この治安捜査はネパールにまで拡大されているという。チベットから役人のチームがカトマンズに派遣されて、カルマパの逃亡ルートを調査しているという。一方ツルプ僧院では、警備に従事していたチベット人の公安将校1人と僧侶1人が逮捕されたが、彼らの所在は判明していないと非公式情報筋は伝えている。トゥルン・デチェン県のカルマパの僧院であるツルプ僧院は、政府の手にによって捜査が行われている。僧院の管理委員会にいた人々は配置替えとなり、一般の僧侶たちは『政治姿勢』を改めるように警告され、従わなければさらなる愛国教育を受けなければならないと、言い渡されていると信頼すべき情報筋は伝えている。

チベットからの報告によれば、ツルプ僧院はラサの西方60kmに位置しているが、現在のところ観光客には閉鎖されていると言われている。1月初旬にツルプ僧院を訪れることのできたチベット人と西洋人たちは、僧院の周囲にもまた内部にも尋常ならざる膨大な数の治安部隊と、私服の公安将校が駐屯していたと伝えている。カルマパが逃亡した後の数週間、地元の役人たちはカルマパとダライ・ラマ法王の直接的な批判を避けて、僧院内の緊張を高めない方策を取ったと伝えている報告もある。ダライ・ラマ法王と北京の両方からカルマパ17世として認定された、ウゲン・ティンレイ・ドルジェはチベットに帰ってくると、中国政府は公式に主張し続けている。1月7日付けの新華社電は、「仏教儀式に使う楽器」と先代のカルマパが使っていた「黒帽」を、先代が亡命してその御座所となっていたシッキムのルムテク僧院から貰って来るために出発する、と置き手紙をしていたと報じている。新華社電はまた、彼の行動が決して「国家や国民や僧院や指導層を裏切る」ことを意図したものではない、とも言い残していると報じている。カルマパがツルプ僧院に手紙を残してきたことを、ダライ・ラマ法王も認めているが、今日発表された会見では次のように語っている。「彼は、僧院と自分の民族に敵対しないという手紙を残してきたのだ」と。

カルマパ17世は、共産党の要求に従いたくないという気持ちが強くなっていることを、行動で示したのであろうと思われる。1995年5月に中国政府によってパンチェン・ラマとして指名された、ギャルツェン・ノルブ少年を承認する声明を出すことを、彼は頑なに拒絶し続けていた。非公式情報が伝えるところによれば、昨年7月4日にギャルツェン・ノルブ少年に会ったカルマパ17世は、9才のギャルツェン・ノルブ少年の前で五体投地をすることをためらう姿勢を見せたという。公式発表によればこの会見は、パンチェン・ラマの歴史的な居城とも言うべき、シガツェのタシルンポ僧院で開かれ、カルマパと中国によって選出されたパンチェン・ラマは、「挨拶と贈り物を交換した」という(1999年7月4日付け、新華社電)。さらに信頼すべき情報によれば、カルマパは逃亡する前にツルプ僧院で開かれた政治会議において、ダライ・ラマ法王を非難することを拒否したという。

チベットでカルマパの暗殺未遂

カルマパがチベット脱出を決意した理由について、さらなる情報がTINに届いた。この情報によって、2人の正体不明の中国人が彼の命を狙った事実も明らかになった。この事件は、1998年夏に起こったもので、ツルプ僧院の図書室で毛布に包まって隠れている2人の中国人が発見された。図書室には、3階にあるカルマパの居室に通ずるドアもあった。2人の男はナイフで武装しており、彼らが爆発物を所持していた疑いもあるという。

カルマパはその時部屋にはおらず、僧侶らと一緒に僧院から2km離れたところで、ピクニックを楽しんでいた。雨が降り始めていたが、カルマパは危険を予知して僧院に帰るのを躊躇したという。2人の中国人は、図書室の中で僧侶らに発見されて逮捕された。信頼すべき情報筋によれば、彼らは短時間拘束されただけで、すぐに釈放されたという。彼らは、ラサの氏名不詳の人間にカルマパの命を狙うように依頼されたことを、認めたという。成功すれば、さらに多額の費用が払われることになっていた。この事件後、僧院内の僧侶の間で、カルマパの身の安全に関して懸念が高まっていたにもかかわらず、地元政府は僧侶らのこの事件に対する厳重調査の依頼を取り上げなかったという。そしてツルプ僧院内の警備を強化することもなかった。

カルマパのチベット脱出した別の重要な理由は、中国政府はカルマパがツルプ僧院にいる間に、限られた特権と利権を与えはしていたが、タイ・シトゥ・リンポチェやギェルツァプ・リンポチェといった主要な宗教指導者に教えを受けるために、彼らのチベット訪問を許すか、あるいはカルマパがインドを訪問することを認めるようにという要求を出していたが、そのどちらも頑なに拒絶されていたことである。

1992年6月にウゲン・ティンレイ・ドルジェがカルマパと認定されて以来、中国共産党はチベットの宗教活動を合法的に管理する手法として、カルマパを共産党に忠節を尽くす『愛国者』に仕立てようとの意図を持っていた。中国にパンチェン・ラマとして選ばれた9才の少年が、政府のさまざまな政策を承認する声明を出さざるを得ないように、カルマパ17世も早い時期からこの姿勢を採らざるを得なかった。1994年の国慶節に、11才で北京を公式訪問したカルマパが語った外交辞令が、中国の公式新聞に掲載された。彼は、共産党を支持し毛沢東のために祈っていると語った、と北京の新聞が彼の言葉を紹介している。

カルマパ17世は亡命を成し遂げた後に、チベットには宗教的な自由が欠けていることを認める言動をしている。「仏教教義で最も重要な慈悲を実践するためには、自由が必要である」と、彼は2月4日のダラムサラの公開説法で説いている。2月19日には、ダライ・ラマ法王の即位60周年記念式典において、インドに到着以来最も強硬で最も政治的な演説を行った。「ある地域においては、個人が自由を享受することができず、また知識や理解が欠けているが故に、紛争が起きている。我が祖国・雪の国チベットを例に採れば、かつて我が祖国は、神聖なる仏教信仰とあらゆる知的かつ文化的な文化が花開いた国であった。しかし過去20年から30年の間に、チベットは巨大な損害を被り、チベットの宗教的な伝統は今や消滅の危機に瀕している」と、彼は述べた。同じ演説の中で、カルマパはダライ・ラマ法王に対する忠誠と、チベット仏教各宗派間の互恵と統一を強調した。チベット仏教の四大宗派とは、ゲルク派、ニンマ派、サキャ派とカギュー派である。ドゥスム・ケンパ(1110〜1193)が、最初のカルマパと認定されたのであり、化身ラマの系譜としては最古のものである。

カルマパ17世の亡命は、1959年にダライ・ラマ法王が亡命をして以来、チベットで最も高位の精神的な指導者の亡命となった。1998年秋に、もう一人の高位の宗教的な指導者で、青海省のクンブン僧院の僧院長でアギャ・リンポチェ(49才)がチベットを脱出したことに継ぐものである。彼もまた、『ダライ一派』を非難し中国の政策を容認する演説を強要された。非公式情報によれば、中国が公式に指名したパンチェン・ラマ11世を、彼の伝統的な御座所であるチベット自治区のタシルンポ僧院から、青海省のクンブム僧院へ移動させようと、中国政府がしたことにアギャ・リンポチェが抵抗したために、アギャ・リンポチェに大変な圧力が加えられたというのである。ダライ・ラマ法王は今週、アギャ・リンポチェの事例が「カルマパの事例とそっくりである」と語っている。ニューズ・ウィーク誌(3月6日付け)のインタビュー記事の中で、ダライ・ラマ法王は「僧侶として、(アギャ・リンポチェは)祖国の中において仏陀の教えに従うことは難しいと判断を下した。ダライ・ラマ法王を批判し、ダライ・ラマ法王に不敬の姿勢を示すことは、とても難しいことであった、と彼は私に語った。彼にはそれができなかった。だから逃げるより他に選択はなかったのだ」と語っている。

カルマパの逃亡以降、国境の検問強化さる

カルマパがツルプ僧院から行方不明となったことが判明すると直ぐに、チベット自治区政府はネパールに通ずる国境の検問所で、全ての旅行者の検問を強化した。人民解放軍と公安局の兵士らが、検問を手助けするために配置され、旅行者の書類に目を通した。非公式情報によれば、カルマパを途中で発見した場合には逮捕しろとの内部通達が出されていた。

カルマパは、12月28日に車でツルプ僧院を離れた。そして4人の信頼できる随行員と共に、ムスタンを経てネパールに向かった。彼の姉の24才の尼僧は、この一行と一緒に旅をしなかったが、弟よりも早く亡命に成功していた。カルマパは逃亡に先立って、集中修行に入るので誰にも謁見しないと発表していた。カルマパの身近にいた2人のチベット人が、カルマパの逃亡について取り調べを受けるために、拘束されたらしいという話に関しては、それ以上の詳細をTINは入手していない。

逃走の途中で何度が、カルマパは車を降りて歩かなければならなかった。検問所を避けるためには、道なき道を歩き、難儀な山道をよじ登らなければならなかった。ムスタンのメナン地区からは、商用のヘリコプターを使って、ネパールのポカラに入った。1時間の飛行に、おそらく1000ドル(10万円)を支払ったものと思われる。ネパール共産党の政治家やその関係者は、ムスタンからネパールへのヘリコプター飛行は、ネパール政府やネパールの政治家の助けがあったと疑っているが、それは確認されてはいない。カルマパとその一行は、インド北部にあるダライ・ラマ法王の居住地、ダラムサラに1月5日に到着した。現在彼は、ダラムサラから数マイル離れた、シドプールのギュトゥ僧院に随行員と共に滞在している。

この逃亡事件に関する中国側の調査は、ネパールの外交部や他の情報源を通して、情報収集をすることまでが含まれているという。ネパールは中国との友好関係を維持したいと考えており、ネパール政府はこれまでも度々、ネパール国内では『反中国活動』を許さない、と語っている。昨年12月、ネパール軍の最高司令官であるプラジワラ・シャムシェル・ジュン・バハドゥール・ラーナは、人民解放軍司令官との会談で、ネパール国内での『中国分裂を画策する』活動を許さないと語った。1999年12月9日付けの新華社通信によれば、ネパール軍の最高司令官はネパールが『一つの中国』政策を堅持すると言明し、チベットと台湾が中国の一部であることを認めたという。

カルマパ、共産党が初めて認定した『活仏』

ウゲン・ティンレイ・ドルジェが、ダライ・ラマ法王と北京政府の両方から認定されたということは、中国とチベットの両者にとって彼が政治的に重要であることを示している。彼が、1992年6月27日に中華人民共和国によって承認された時、彼は中国共産党が初めて認定した転生ラマとなった。北京で発行されている『中国のチベット』の1992年冬号の記事が、カルマパの主たる師匠であるタイ・シトゥ・リンポチェの助けを得て、彼がいかに発見されたかを詳しく報じている。タイ・シトゥ・リンポチェは、現在はインドに亡命している。同誌の記事によれば、探索隊はチャムド県のラトク町に探索の焦点を絞っていた。チャムドは元々東チベット・カムの一部であったが、現在はチベット自治区に編入されている。記事は次のように伝えている、「雪嵐をくぐり、巨大な山脈を旅して、探索隊はとうとう天然の牧草地、バコルを発見した。ここには70数世帯の遊牧民が暮らしていた。その内の貧しい1世帯は、夫の名前をカルマ・トゥンドゥプと云い、妻の名前をロガと云った。夫婦には9人の子供があり、娘が6人で息子が3人であった。その内の1人、家族の中ではアポ・ガガ(チベット語で幸せな弟の意味)と呼ばれていた、ウゲン・ティンレイ・ドルジェが遺言に語られていた転生の魂であった。バコルの遊牧民たちは、熱狂した。」

カルマパの両親のドゥンドゥプとロガは遊牧民で、カルマパが子供の時にはおよそ70世帯の遊牧民と一緒に暮らしており、少なくとも80頭のヤクを飼っていた。彼らはツルプ僧院の近くで暮らすために、ラサに引っ越して来た。そして度々、ラサの中心地バルコルにあるジョカン寺を訪れていた。息子が逃亡する前ドゥンドゥプとロガは、息子が宗教上の先生に接することができないことを、大変に心配していたという。非公式情報の伝えるところでは、高位の役人たちがカルマパの両親を、チャムド県で監視下に置いている。カルマパの他の家族たち、つまり5人の娘と2人の息子も、チベットに残っており、政府によって注意深く監視されているという。

カルマパは、チベットに残っているチベット人からもまた亡命をしたチベット人からも、幅広く尊敬されている。多くの人々が尊敬をする理由は、中国が選んだパンチェン・ラマを承認する声明を出さなかったからである。ほとんどのチベット人が今も、ダライ・ラマ法王によって選ばれた10才のゲンドゥン・チュキ・ニマ少年を、本当のパンチェン・ラマだと信じている。彼は今も、中国政府によって拘束されている。

最近ラサを訪れたチベット人の1人が、次のように語っている。「私が話をしたチベット人たちは、カルマパが自由な国に出たことを喜んでいた。自由への闘いにおいて、彼はダライ・ラマ法王を助けることができるようになった、と言っていた。しかし、中にはとても悲しんで、泣いている人達もいた。高僧たちが皆、彼らを置き去りにしてしまったので、誰も尊敬できる人がいないというのだ」

以上

(翻訳者 小林秀英)
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 『偉大な学者で愛国者』の死
  故グンタン・リンポチェの経歴

TIN News Update, 3 March 2000
Death of a “Great Scholar and Patriot"
Obituary of Gungtahang Rinpoche

『偉大な学者で愛国者』の死
故グンタン・リンポチェの経歴

チベット内に留まる最高齢で最も尊敬されている宗教指導者のうちの1人で、甘粛省(かつてはチベットのアムド地方だった)にあるラブラン・タシキル僧院の僧院長のグンタン・リンポチェが2月29日火曜日に逝去した。癌の治療を受けていた病院から同僧院に戻った翌日だった。70代初頭のグンタン・リンポチェは、中国人が選定したパンチェン・ラマの承認を拒んだこと、ダライ・ラマ法王への忠誠心の強さ、チベット仏教の原則に拠っていたことによって、チベット人の間で絶大な人気があった。

1950年代に中国人がチベットを占領して直ぐに、彼は中国人当局者への協力を拒んだために20年以上もの間、刑務所で過ごすことになった。「彼の死は、チベットの宗教・政治両面に影響を与えるであろう大きな損失だ」とチベット亡命政府の元公安大臣で、グンタン・リンポチェの50年来の親しい友人であるアラク・ツァイェ・リンポチェが語っている。「グンタン・リンポチェは偉大なチベット仏教学者であり、誠実な愛国者だった。彼はいつも心の中でチベットの民衆のことを気に掛けていた」と。

グンタン・リンポチェは1926年2月、四川省のンガパ(中国名・アバ)チベット族自治州ソルゲ(中国名・若爾蓋)で生まれた。彼は伝統的にチベットの土地であるアムド地方における最も重要な寺のうちのひとつであるラブラン・タシキル僧院で2番目に高齢のラマだった。この数年は、彼は甘粛の省都、蘭州と北京で癌の治療を受ける合間のほんの少しの時間だけ同僧院を訪れていた。TINに寄せられた非公式の情報によると、当局の者が彼が国外で医療専門家を探すことを許さなかったのではないかと指摘されている。

クンチョク・テンペー・ドンメ(1762―1823)の6番目の化身であるグンタン・リンポチェは、ダライ・ラマ法王への帰依とチベット人の教育への貢献(同じくアムドの出身であるパンチェン・ラマ10世と深い憂慮を分かち合った)やその宗教的学識、また、中国が選定したパンチェン・ラマの認定を拒否したことなどによって、広く尊敬されていた。彼は中国政治協商会議の常任委員や中国仏教協会の副会長などの公務を担っていたが、1989年1月にパンチェン・ラマ10世が死去した数ヶ月後に北京で開かれた会合において、中国当局は彼の真実の忠誠心がどこに置かれているかということに完全に気が付いたのである。現在インドで亡命生活を送っているアラク・ツァイェ・リンポチェによると、グンタン・リンポチェは高位のラマたちが召集されたその会合の席上で、語気強くスピーチを行ったという。
「グンツァン・リンポチェは、ダライ・ラマ法王がチベット人民の歴史的慣習にのっとってパンチェン・ラマの生まれ変わりを認定するだろうと述べた」と、アラク・ツァイェ・リンポチェはTINに語った(アラクとは、アムド方言でリンポチェの意味。ツァイェは甘粛の彼の出身地の名前)。「彼はまた、もし、これ(ダライ・ラマによる認定)が行われなければ、チベット人民はパンチェン・ラマの生まれ変わりを受け入れないだろう、と言い、さらに、パンチェン・ラマの生まれ変わりが2人にならないことを望んでいる、とも会に対して述べた。この後、中国人は彼に対して否定的な態度を持つようになった」

アラク・ツァイェ・リンポチェは1950年代後半、グンタン・リンポチェと同時期に刑務所に収監され、1987年にチベットを逃れた。アラク・ツァイェ・リンポチェは、グンタン・リンポチェがその予知的な発言のために当局者らによって有罪を宣告されたと語っている。「グンタン・リンポチェは、しばらくの間北京市内のホテルに拘束され、面会を許されなかった。それから彼は蘭州に滞在せねばならず、彼の寺へ行くことは制限された」という。

ダライ・ラマ法王が1995年5月にゲンドゥン・チュキ・ニマをパンチェン・ラマに認定した後、当局が展開したダライ・ラマへの信用を傷つけるためのキャンペーンに対し、グンタン・リンポチェは、公的な支援を一切行わなかった。また、彼は中国が1995年11月にパンチェン・ラマに選定したギャルツェン・ノルブ少年(現在9歳)の認定を拒んだ。パンチェン・ラマの伝統的な拠点はシガツェのタシルンポ僧院だが、甘粛のラブラン僧院は、タシルンポ僧院の他にチベット自治区において、パンチェン・ラマと協力関係にある寺2つのうちの1つであるため、当局のグンタン・リンポチェへの圧力は相当なものだった。青海省にあるクンブム僧院(中国名:塔爾寺)はパンチェン・ラマの第2の伝統的拠点である。同僧院のアギャ・リンポチェ僧院長は1998年に米国へ亡命、最近は政治保護を受けている。

ラブラン・タシキル僧院で最も高齢の僧、52歳のジャムヤン・シェパは1709年にラブラン僧院を創建したラマの化身であるが、彼は1998年、意に反してギャルツェン・ノルブの教師として強制的に中国へ行かされたと報告されている。

「民主改革」期間中の収監

グンタン・リンポチェは1958年から20年以上の投獄期間中、拷問や飢え、重労働を耐え抜いた。1949年から1950年に中国人がチベットを占領した直後の時期、当局が、チベットの伝統的な土地であるアムドとカムで「民主改革」なる政策を押しつけていた時期に、ラブラン僧院の僧侶数百人が何年もの労働キャンプへの収容の判決を受けた。アムドとカムの全域が法的・政治的に北京政府の手中におちていくのをみた共産党は、これらの地域で当局や党組織の設立に抵抗するもの全てに対して、厳しく扱った。

幼少のころグンタン・リンポチェの友人で、現在70代の亡命者“ラブラン”ジグメはTINに対しこう語った。「私の故郷であるラブランの民衆は強固な心の持ち主で、地域のために身を捧げている。中国当局の管理を決して許さなかったラマと僧侶らは最も長い懲役刑を受けた。グンタン・リンポチェは、労働キャンプの中でも当局の要求を拒んだので、長い間刑務所内に留置された」。

1950年代にラブラン・タシキル僧院にいたというある高齢のチベット人(現在インドで亡命生活を送っている)は、1958年に何百人ものラマや僧侶が逮捕され投獄された日のことを回想する。「銃で武装した中国人が僧院に来て、全ての僧侶を逮捕した。私達は皆、平手で殴打され鎖で一緒に繋がれ、1〜2人の兵士が見張りについたトラックに詰め込まれた。私達は3カ所の刑務所に送られ、重労働を割り当てられた。1958年〜1960年迄に多くのチベット人の囚人が飢餓や過剰な労働や拷問のために死亡した」。

文化大革命中、グンタン・リンポチェがまだ刑務所にいた時、中国人の紅衛兵がラブラン僧院を襲い、数え切れないほどの宗教的な文化財を破壊し、お堂や廟を傷つけた。グンタン・リンポチェの秘書だったンガワン・ギャツォはこの事件中、拷問され投獄された。アラク・ツァイェ・リンポチェは彼の著書『わが祖国の悲劇』でこう書いている。「1966年の7月、毛沢東の写真を掲げ赤い垂れ幕を頭上に振りかざした紅衛兵が、太鼓を叩きながら寺の中に入ってきた。この日一日だけで、彼らは5000以上のマニ車を破壊して行った。彼らはまた、聖なる経典を取り除いてそれらで靴を作ったり、品物を包んだりした。金や銅でつくられた多くの仏像や装飾がほどこされた天蓋、金で縁取られた旗、そして多くの装飾品や宝石が中国へ持ち去られた。また、彼らはチベット人を殴り『人民裁判』に参加させた」。

現代教育なしではチベット人の「進歩はなし」

グンタン・リンポチェは1979年に刑務所から釈放された。この年はチベットにおける宗教・文化の自由化の時代となった初めの年である。彼の魂は砕けることがなかった、と友人らは言う。彼はすぐさま甘粛省と青海省の各地方を旅して廻り、学校の設立を手伝い、文革やその前に破壊された寺を復建するために金銭を差し出した。1980年代にチベットを訪れた時に彼に会ったのが最後だというラブラン・ジグメはTINに語った。「彼は田舎の村々を旅して歩き、遊牧民や農民に話をした。至る所で、彼は人々に子供たちを学校へやらなければならない、さもないとチベット人は進歩できない、と語った」という。

現在亡命している青海省出身のある若いチベット人学生が語るところによると、グンタン・リンポチェはチベット人の若い学者たちに倫理的、財政的な支援を行っていたことでよく知られていた。グンタン・リンポチェは、チベットの文学や文化、歴史についての本や小冊子の出版のために絶えず寄付金を差し出した。「彼は私達に我々少数民族のために一所懸命働くよう助言し、我々のチベット文化が我々チベット人のみならず、全世界にとっても重要であると言っていた。そして、我々はそれを守るよう努力すべきだと言っていた」と、1996年にチベットから脱出する前にグンタン・リンポチェに会ったというこのチベット人学生は語った。「彼は私達に向かって、君達は大学生である、だから、他の者達にも我々の文化を守るよう助言しなければならない、と言った。また、しかし価値のない習慣にしがみついてもいけない、と言っていた。彼は、今は役にたつ近代的な教育を獲得することが必要不可欠であると語った。彼は、誰であろうと誰に対しても、等しい礼儀と等しい尊敬の作法をもって接した」。

グンタン・リンポチェは学生や教師の間で人気があったように、遊牧民や田舎の人々にも人気があった。彼は時折、遊牧民同士の土地を巡る争い事を調停したりした。その中には、昨年5月に起こり、5人のチベット人遊牧民の死亡者を出した牧草地での喧嘩も含まれている。「グンタン・リンポチェは1人でそういった喧嘩が行われている場所へ出掛け、彼らと話をした」と、アラク・ツァイェ・リンポチェがTINに語った。

グンタン・リンポチェは1958年に投獄される前と釈放された後、たくさんのカーラチャクラ(時輪タントラ)やその他の教えを伝授した。何千人ものチベット人が絶えず、グンタン・リンポチェの法話に参加したので、このリンポチェの同地域におけるチベット人への影響力に気が付いた多くの地元の役人の間に、多大な心配を引き起こした。

グンタン・リンポチェがラブラン・タシキル寺に戻ってきた近年、彼は警備員に付き添われていたと、複数のチベット人が報告している。彼は今週、死ぬために同僧院に戻ってきたかにみえる。彼が病院を去るとき、衰弱して歩くことが出来ず、健康状態は急激に悪化していた。

「説教の中でグンタン・リンポチェは、チベット人が哀れみの心を発達させること、カルマの法則を受けれいることの必要性を強調した」と、前出のチベット人の大学生がTINに語った。「彼の言葉にはまさに、我々の考え方や心を改めさせる包容力があった。グンタン・リンポチェはチベットの文化・宗教両面において、非常に熟達した方だった。私はグンタン・リンポチェの死は、パンチェン・ラマ10世が亡くなられたのとほとんど同じくらいの意味があると思う」。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)
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 ラサ刑務所の拡張と社会構造変化

TIN News Update, 22 March 2000
Lhasa Prison Expansion and Social Change

ラサ刑務所の拡張と社会構造変化

ラサ市内の複数の刑務所の写真が先月撮影されそれを分析した結果、ウティトゥ(五治隊)刑務所(一般的にはラサ刑務所と呼ばれている)の独房施設が拡張されたことと、チベット自治区最大の刑務所であるダプチ刑務所で大規模な工事が進んでいることが判明した。写真から判断すれば、チベットの首都における刑務所の収容能力は著しく増大している。これは、ラサ市内で犯罪が増加し社会問題が深刻になっていることに、政府が懸念を抱いていることの反映だと思われる。ラサ市は過去10年間に急速に膨張し、多数の漢人と回族の移住者が増え続けているが、これは中国政府の公式な統計には全く含まれてはいない。

ウティトゥ(五治隊)刑務所の拡張

1999年10月のTINの報告によれば、ウティトゥ(五治隊)刑務所に新たに独房が建設されたという。この刑務所は、ラサの北東郊外にあるサンイプ公安施設内にあり、1997年以来でもウティトゥ刑務所の収容能力は倍増している。西洋人観光客によって新たに撮られた写真は、TINのホームページ(http://www.tibetinfo.net/new-updates/im220300.htm)で見ることができる。この写真によれば、ウティトゥ刑務所の収容能力はさらに倍増したものと思われる。ウティトゥ刑務所の独房棟は二列に並んでおり、同施設の北側にほぼ全体的に配置されている。また南側にも、二階建の独房棟が一列で配置されている。今年1月から2月の時点では、少なくとも17棟、恐らく20棟の独房棟が存在している。この刑務所は1997年にラサ刑務所と改名されたが、元々は4室の独房しか存在していなかった。

ダプチ刑務所で新たな建設工事

ダプチ刑務所の最新写真が示すところによれば、主要な囚人収容施設と広場を取り囲む内側の塀の、南側部分が移動しているのが判る。この塀と囚人病院だと報告されている新築建物の間の空間に、新たな建物の建築が始まっている。新施設の建設は、穴掘りと基礎作りの段階であるために、この新施設が何のための施設なのかは不明である。しかし穴掘りの規模と内側の塀が移動していることから、刑務所の大規模な増築が進行中であることが確認できる。

ダプチ刑務所の最新写真には、他に2つの建物が写っている。TINが入手した最新情報によれば、この内の1つあるいはその両方の建物が、女囚の収容施設であるという。また上部の2階にバルコニーの付いた3階建ての新築の建物が写っている写真もあるが、この建物は看守の居住施設であると思われる。この使用目的に使われている他の建物と違って、この建物は外側の塀と内側の塀の間に設置されている。ダプチ刑務所に恒常的に駐在する看守や人民武装警察の兵士の数を増大させたのは、刑務所内部の騒乱やデモ行進に対する即応態勢を整えるためであろう。

1998年5月1日と4日に、ダプチ刑務所の政治囚が平和的な抗議運動を展開したために、刑務所管理当局は治安対策を考え直さざるを得なくなったと思われる。この時、政治囚も刑事囚も含む数百人の囚人が、公式な集会の場で、ダライ・ラマ法王支持とチベット独立を叫ぶ抗議運動に参加した。5人の尼僧と3人の僧侶を含む、少なくとも9人のチベット人囚人が、この抗議運動の後に死亡した。

ダプチ刑務所の以前の写真は、TINのホームページ(http://www.tibetinfo.net/news-updates/im271099.htm)で確認することができるが、ここには新築の3階建の建物が写っている。この建物には囚人を教育するための教室が入っていると、元囚人が報告している。正面にはコンクリートを打った大きな広場が配置されており、1998年5月にはここで国旗掲揚の式典に参列していた、政治囚と刑事囚が抗議運動を繰り広げたことがあった。最新写真に写っている刑務所の拡張は、それが刑務所内部であろうとまた外部であろうと、政治的な抗議運動の勃発に備えようとの治安当局の意図を反映したものであろう。

TINが入手した資料を分析した結果、ラサ市内の刑務所の収容能力は増大しているが、ダプチ刑務所の政治囚の数は1995年と1996年をピークに減少している。これは刑期の満了数が、新着の囚人数を上回っているためと考えられる。しかし、ラサ刑務所における虐待の頻度は減ってはいない。1998年5月にダプチ刑務所で平和的なデモ行進が発生した後に、囚人たちが受けた処罰の厳しさは、この事件が1989年3月にラサ市に戒厳令が敷かれて以来の重大な事件であったことを物語っている。

刑務所拡張に反映しているラサ市の社会構造変化

ラサ市の刑務所収容力を大規模に増強している事実は、市内の犯罪者を収容し尽くしてしまおうとの、政府の意図を反映しているのであろう。さらに政府は、ラサ市の人口増加に対応する準備を進めていると仄めかしている。ラサ市は急速に都市化が進んでおり、過去40年間に人口は7倍になり、1959年には3万人であった人口が今日では20万人に達していると思われる。その内の60パーセント以上が、中国人であると推定されている。しかし公式な人口統計数値からは、現在のラサ市の居住者の実態を伺い知ることはできない。 例えば、軍人はその統計数値からは除外をされており、また中国社会を変化させている急速な経済改革に伴って、職を求めて流入して来る未登録の中国人労働者もそこには含まれていないからである。過去10年以上も、多くの入植者を受け入れ可能にするために住民登録の手続きを簡素化したり、給料を高額にする等の経済的な誘惑を提供する政策を実施して、中国人入植者のチベット流入を促進して来た。

特に過去15年間のラサ市の急激な拡張は、チベット人たちに威圧感を与えており、世界の通常の常識から言えば、もっと大規模な都会に発生するような、賭博とか売春、アルコール中毒、暴力事件等の様々な社会問題を引き起こし来た。現在のラサの社会は、新たな社会・経済構造に作り替えることによって、伝統的な基盤が急激に弱体化されて来ている。しかもそれは1990年代からではなく、1950年代から既にそうであった。1990年代初頭に実施されたラサの経済開放は、売春や賭博といった社会問題を増大させる触媒の役を果たしたに過ぎない。このような社会問題の増大をせき止めようとの試みが、幹部や指導者によって為されようとしたことはあるが、いずれも孤立無援で不成功に終わった。チベット自治区共産党の副書記のテンジンは、何度が他の共産党指導者たちに警告を発し、無規制の経済発展は取り返しの付かない結果を招くと語っている。1966年12月に開催された会議を収録したビデオの中で、彼は次のように発言している。「全ての政府機関と地方行政機関は、ポルノや賭博、麻薬中毒が我々の社会に及ぼす重大な悪影響について、明確な認識を持たなければならない。我々の同志や我が政府機関が、ポルノや賭博、麻薬中毒が、我々の社会に及ぼす悪影響について、十分な認識を持っていないことを自覚すべきである。社会主義的市場経済を確立する初期段階においては、社会的な混乱は不可欠であるとの誤った認識を持っている者もある。また現在最も重要なことは、経済発展を推進することであると、信じ込んでいる人もいるようだ。こういった誤った認識を克服しなければならない。」(1999年7月にTINが発表した報告書31号『ラサの売春とポルノ』を参照)

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 国旗を引きずり下ろしたチベット人、拘置所で自殺

TIN News Update, 23 March 2000
Tibetan Who Made Flag Protest Committed Suicide in Custody

国旗を引きずり下ろしたチベット人、拘置所で自殺

タシ・ツェリンは、昨年8月ポタラ宮殿前広場に掲げられていた中国国旗を引きずり下ろして、抗議行動を取ったチベット人であるが、2月10日警察の拘置所においてカミソリで頸動脈を切って自殺した、との情報を今週TINは入手した。彼の妻のラドンも、夫の抗議行動に協力したとの容疑で、現在拘留されている。タシ・ツェリンを監視していた、チベット人と中国人の数人の治安関係者が、どのようにしてカミソリが手に入ったのかを調査するために、取り調べを受けている。

タシ・ツェリンは30才代の建設労働者で、抗議行動を取ったとき逮捕される前に、体に巻き付けた爆薬に点火して自殺をしようとしたが失敗した。拘束される前に、彼は激しい殴打を受けて、もう歩くこともできなかったという。

昨年10月にTINが発表したタシ・ツェリン死亡のニュースは、間違いであることが判明したが、最新の情報によれば彼の抗議行動は、ラサで開催されていた少数民族体育大会終了した3日後の、8月26日に発生したものである。中華人民共和国の成立を祝う10月1日の国慶節に向けて、中国の国家統一をアピールする場として中国政府は少数民族体育大会に力を入れており、この期間ラサ市内の警戒は強化されていた。タシ・ツェリンは、ポタラ宮殿前広場の中国国旗を引きずり下ろし、チベットでは禁止されているチベット国旗を掲げようとして、逮捕された。TINが入手した情報によれば、タシ・ツェリンは1999年10月に告訴され、数回自殺未遂を繰り返して、2月10日に自殺したものである。彼の妻のラドンは、夫が8月26日に逮捕されると直ぐに、取り調べを受けるために拘留された。彼女の容疑は、夫と共謀し、夫の抗議行動に協力したというものである。ラサ出身のラドンは、11月に告訴され、現在は獄中にある。タシ・ツェリンの親戚も数人、8月末に取り調べを受けるために拘束されたということであるが、現在も拘留されているか否かは不明である。

タシ・ツェリンは、チベット自治区ロカ地方(中国語で山南地方)の出身で、大工の仕事をするためにラサに出て来て、5年前に請負師の仕事を始めた。彼は、セラ僧院近くの小学校の校舎や家具を自費で建築し、地元社会から表彰されたこともある。彼には2人の子供がおり、内1人は身体障害者である。

昨年の8月26日に、ポタラ宮殿前広場でタシ・ツェリンが逮捕された時の目撃者が語るところによれば、彼は4人か5人の治安警察によって拘束され、激しい殴打を受けたために、両手両足は折れてしまったようだという。頭部も、車両の後部にぶっつけられていたという。タシ・ツェリンの行動に最初に気がついた交通警官は、『治安活動に貢献した』ということで、政府から正式に表彰された。

1999年10月21日付けの新華社電の報ずるところによれば、チベット自治区政府の副主席は「外国の報道機関が、爆破を企てたこの男が拘置所内で自殺した、と報じているが、これは間違いである。この犯罪者はラサ近郊の農民で、現在も生存しており、全ての犯罪行為を認め、更生の意志を表明している」と語っている。新華社通信の報道は、タシ・ツェリンの健康状態に関しては触れておらず、彼が判決を受けたか否かも明らかにしていない。本当に彼がその時生きていたとしたら、政治的に微妙な時期に彼が行った抗議行動の性質から言って、既に厳しい判決を受けていたと思われる。34才になる彼の妻のラドンが、判決を受けたか否か、また獄中での彼女の状況は不明である。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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英語の原文(画像つき)はTibet Information Networkのホームページで読めます。

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