41号(2000年1月)

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 四川省で仏教指導者が逮捕され、デモが起こる

TIN News Update, 17 November 1999
Demonstration in Sichuan Follows Arrest of Religious Leader

2週間前に、四川省のカンゼ(甘孜)蔵族自治州のカンゼ県において、名声のある仏教教師と2人のチベット人僧侶が逮捕されたことで、数百人のチベット人が抗議のために通りに繰り出した。この逮捕は、10月初旬に近くの村で小さなチベット医院が爆破されたことに関連していると思われる。少なくとも300人が抗議に参加したと言われており、全く予想外のことで、1980年代の後半ラサでデモが起こり戒厳令が布かれて以来、最大規模のものとなった。武装警察は催涙ガスや銃を発射して、デモを解散させた。そして少なくとも50人のチベット人が逮捕された。

この地域の非公式情報によれば、宗教活動とダライ・ラマ法王に対する政府の強硬政策に対して、この抗議運動の前にも僧侶たちによる抗議運動が頻発していたという。カンゼ(甘孜)蔵族自治州のタルギェ僧院の11人の僧侶が、独立要求のスローガンを壁に張って、今年早くに逮捕されたとの報告もある。非公式情報が伝えるところでは、この地域の幾つかの僧院の僧侶らが、愛国教育運動に参加するよりも仏教の勉学を続けたいとの請願を提出したという。この地域は、伝統的にはチベットのカム地方(東チベット)に属しており、政治的には反抗的な土地柄であった。

カンゼ県の最近の事件は、地元の人々が教師ソナム・プンツォクに対して深い信頼を寄せていることを反映している。ソナム・プンツォクは40才代のチベット語の教師で、元タルギェ僧院の僧侶として勉学をしたことがある。10月24日にソナム・プンツォクが逮捕されたのは、この地域での彼の影響力およびダライ・ラマ法王に対する彼の忠誠心に、政府が懸念を抱いていたためであると思われる。ソナム・プンツォクは、一般的には『ゲシェ(仏教博士)』とか『ゲン(先生)』ソナム・プンツォクと呼ばれていた。彼が公式に僧院のゲシェの試験に通っていたかどうかは判らないが、今年の年頭にダライ・ラマ法王への祈願法要の導師を務めたと言われている。彼の補佐役のソナムともう一人の僧侶の、元政治囚のアギャル・ツェリンも逮捕された。3人の僧侶の所在は、現在の所判明していない。

非公式情報によれば、10月7日に甘孜近郊の村で発生した爆破事件に関連して、彼らは罪を追求されているのかも知れないという。この爆破事件は、『護法神』のシュクデン神を崇拝するチベット人医師によって、医院に改装中の小さな建物の一部を破壊したものであった。ダライ・ラマ法王は、1996年にこの問題のある『護法神』を崇拝しないように、チベット人に忠告を与えている。この地域では、シュクデン神の信仰者とそれに反対する人々の間で緊張が高まっていたと伝えられている。

デモは警察によって解散さる

カンゼ(甘孜)のデモは、3人の逮捕者の釈放を求めて10月31日に拘置所の周りに、チベット人たちが集まって始まった。次第に他のチベット人たちも集まって来て、建物の入り口には数百人の民衆が集まった。直ぐに治安要員が空に向けて銃を発射して、チベット人たちを解散させた。催涙ガスも使われたと伝えている情報もある。デモに対応した治安警察の措置によって、死者やケガ人がでたのかどうかは判っていない。

デモの発生に伴ってカンゼの治安は強化され、同県の他の地域から武装警官が増強された。また非公式情報が伝えている所では、カンゼを出入りする人々に、厳しい制限が課されているという。カンゼの人口は、およそ2万人である。僧侶や尼僧は、僧院内に釘付けになっており、武装警察はデモに参加したチベット人の捜索を続けている。

デモの対象となった拘置所は、カムでも最も悪名の高い施設で、僧侶を含む政治囚がここに拘束されている。1990年には、反体制運動に関与した3人のチベット人の親戚が、容疑者に関する情報を彼らから引き出すために拷問を受けた。町には公安局と拘置所の他に、武装警察の2部隊が駐屯している。

重要な教師の拘束

ソナム・プンツォクはカンゼ(甘孜)の生まれで、幼年期に修行僧としてタルギェ僧院に入った。逮捕された時には、タルギェ僧院で6年間にわたって、100人以上の僧侶を教えていた。1960年代には、ソナム・プンツォクは共産党が設立した人民公社で牛飼いの職に就いて、村の子供達に読み書きを教えていた。文化大革命後の1980年以降チベットでも開放政策が実施され、宗教に対する制約も緩和されたために、彼はカンゼ蔵族自治州の幾つかの僧院の復興を支援した。彼はまた、様々なチベット仏教の宗派に属する、地元の僧院30カ寺の僧侶たちにチベット語を教え、この地域の僧院の歴史に関して13冊の本を書き、その内の2冊が出版された。

「彼はカンゼ地区で、最も有名で最も尊敬された教師であった。彼の人気が高くなり、同地域の宗教や民族文化に、彼の影響力が強くなったことで、突然逮捕されたのだろう」と現在は四川省を離れているチベット人が語っている。1980年代に宗教に対する制約が緩和されて以来、チベット仏教と民族意識の関係に対して、政府の懸念は高まりつつある。チベットの領域においては、それこそが世情の安定と共産党の支配に対する脅威と受け止められている。

ソナム・プンツォクと共に逮捕された僧侶の1人は、カンゼ出身の40才代のアギャル・ツェリンである。彼は1990年代の初期に、独立要求のチラシを配布した容疑で、18カ月間投獄されたことがある。彼も幼年期に僧侶になっており、1980年代の始め開放政策が実施されているころは、2年間をラサで過ごし、完全に破壊されていたガンデン僧院の再建を助けたこともあった。

アギャル・ツェリンは、甘粛省のラブラン僧院で18カ月間、仏教問答を学んだ。また青海省では、パンチェン・ラマ10世の支援を受けて、僧院を開設するのに必要な資金を集めることに成功した。彼は1989年末に甘孜を訪れたが、1990年3月には政治活動に参加した容疑で、青海省で逮捕された。アギャル・ツェリンは、1990年に逮捕された際には、自白を引き出すために拷問を受けたと、信頼できる情報筋は伝えている。

ソナム・プンツォクの逮捕とその結果デモが発生したことは、1980年代の後半ラサで起こった2つの事件を思い起こさせる。1987年10月1日、中華人民共和国の国慶節の日に、2千人以上のチベット人民衆がバルコルの警察署を取り囲んで、そこに収容されている政治囚の釈放を要求した。1988年3月5日、バルコルでの宗教行事の最中に、僧侶たちがユーロ・ダワ・ツェリンの釈放を要求するスローガンを叫び始めた。ユーロ・ダワ・ツェリンは、仏教学者で教師でもあり、チベットで最も有名な政治囚である。彼は1987年に、イタリア人にチベット独立の話をして、逮捕されていた。(ユーロ・ダワ・ツェリンは、1994年11月に釈放された。)どちらの事件の場合にも、デモが過激化しそれに対応する形で治安部隊が群衆に銃撃を加えて、多くの犠牲者を生んだ。この時期ラサで発生したどのデモでも、後で多くのチベット人が逮捕され、最終的に1989年3月7日深夜の戒厳令布告に結び付いた。

カンゼの反政府運動

歴史的にはチベット仏教の中心地であったカンゼにおいて、最近反政府運動が発生している背景には、四川省において宗教弾圧が強化されていることが挙げられる。愛国教育キャンペーンは、1997年にカンゼ(甘孜)蔵族自治州の僧院に波及したようである。仏教修行に対する制約が強化され、この地域の僧院の規模縮小が試みられ、僧侶や尼僧はダライ・ラマ法王を非難するように強要された。これが最大の抗議運動を引き起こした原因であった。タルギェ僧院およびカンゼ市内にあるカンゼ・ゲペリン僧院は、両方ともゲルク派に属し、ダライ・ラマ法王支持意識の強い僧院として知られている。

愛国教育『工作班』は、1997年に甘孜の北西20kmに位置する、ロンバツァ近郊のタルギェ僧院に到着したと言われている。彼らの到着が、「通常の勉学と修行に明け暮れていた、僧院の宗教生活に重大な障害を与えた」と、現在は亡命している四川省出身の僧侶は語った。タルギェ僧院は300年以上の歴史を有し、文化大革命の時期に破壊されて、1980年代に再建された。1950年代後半には3700人の僧侶を要していたが、現在では200人の僧侶が住んでいるだけである。

この地域の僧侶も一般人も、独立要求運動に加わったことがある。1990年10月20日、カンゼ出身の商人ツェリン・ドルジェは、友人のプトゥク(別名ロプサン・テンジン)と共にラサで逮捕された。ブトゥは、カンゼ・ゲペリン僧院の僧侶であった。彼らは、カンゼ市内で独立要求のチラシを配り、カンゼ・ゲペリン僧院に隣接するデゴポ・ラカン寺にチベット国旗を掲げた容疑で、それぞれ懲役12年と14年の刑を受けた。もう一人の友人ロプサン・タシも、同事件に関与した容疑で4年の懲役刑を受けた。ツェリン・ドルジェは後に、逃亡してインドに亡命した。ブトゥは、マオウェン刑務所で刑期を務めていると思われる。この事件以後、カンゼではチベットの正月のモンラム・チェンモ祭は、開催されていないという。

1996年3月、カンゼ僧院の2人僧侶パサン・ノルブとノルブ・ダドゥルは、ダライ・ラマ法王が選んだパンチェン・ラマの候補者を、支持するポスターを僧院内に張り出した容疑で逮捕されて、それぞれ6年と3年の刑を受けた。別の未確認情報によれば、2人の僧侶は今年始めにカンゼ・ゲペリン僧院に警察の手入れがあった時に、独立要求のチラシを配った容疑で逮捕されたともいう。

カンゼ(甘孜)地区は、政治的に気まぐれな土地として知られている。カンゼは最初この地域の首府に選ばれたが、近代的な施設に欠けることと、辺地であることまた政治的に不安定であることから、1955年にカンゼ蔵族自治州が設立された際には、タルツェド(中国語では康定)が州都として選ばれた。1950年代には、カンゼはカンパ族ゲリラの拠点であった。そのために現在でも市内や周辺部には、大規模な治安部隊が駐屯している。

スティーブン・マーシャルとスセッテ・クックが制作したCDロム『Tibet Outside the TAR』(チベット自治区外のチベット)によれば、カンゼの地元民たちは政治的な過去と現在も続いている反政府活動の故に、町は公的な援助を与えられていないと考えているという。『チベット自治区外のチベット』の作者は、「カンゼは公的に無視され、また抑圧的な治安部隊の駐屯を受けることで、中国による占領に敵対した付けを払っている。反抗的な文化姿勢が最も強いが、現下の状況ではそれが唯一可能な反応であろう。漢民族の移住と経済発展が影響を及ぼしており、資源の収奪も続いている。しかしチベット人の抵抗は、他の多くの町よりも根強いものがあり、誇り高き精神性だけでなく、建築や衣服また宗教行事においても、それが具体的に現れている」と語っている。

TINが出版した『Hostile Elements: A Study of Political Imprisonment in Tibet 1987-1999』(敵対勢力:1987年から1999年までのチベットの政治囚の研究)によれば、1987年から1998年の間に逮捕された政治囚の36パーセントが、カンゼ蔵族自治州の甘孜県の居住者かまたは出身者であった。カンゼ蔵族自治州の18の県の内、政治囚の大きなパーセントを占めている他の2つの県は、セルタル県が22パーセント、リタン県が20パーセントとなっている。

以上

四川省甘孜蔵族自治州における中国政府の政策の詳細に関しては、TINの報告書『Relative Freedom? Tibetan Buddhism and Religious Policy in Kandze, Sichuan, 1987 -1999(TIN Briefing Paper No. 33)』(『比較的に自由か?:四川省甘孜の宗教政策』、100頁、1999年11月末に出版予定)を参照されたい。

(翻訳者 小林秀英)

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 ダプチでの刑期延長と発砲事件:
1998年5月抗議行動に対する報復を確認

TIN News Update, 15 December 1999
Sentence extensions and shooting incident at Drapchi:
confirmation of reprisals for May 1998 protests

1998年5月にラサのダプチ刑務所で起こった囚人による抗議行動によって、僧侶1人が撃たれ、6人の政治囚の刑期が延長されたという新たな情報がTINに届いた。ある目撃報告は、少なくとも10人が亡くなった平和的な抗議行動に参加した政治囚・刑事犯たちに下された過酷な報復措置を伝えている。チベット当局がこの抗議行動および当局側の対応についてのニュースが外の世界に出ることを阻止する措置をとっていたため、この情報がTINに到着するには19ヵ月を要した。当局は人権侵害についての情報の自由な流通を「国家の治安を脅かす」ものとみなしているのだ。

現在はチベットを離れているあるチベット人の報告は、政治囚や刑事犯が国旗掲揚の式典のために刑務所の中庭に召集された1998年5月1日に起こった第1回目のデモの後、ライフルと警棒で武装した人民武装警察部隊が刑務所に配備されたことを伝えている。欧州連合(EU)の人権実態調査代表団がダプチ刑務所を訪問した当日である5月4日に起こった第2回目の抗議行動は、敷地内に配備されていた看守と武装警察部隊によって速やかに鎮圧された。抗議行動に参加したすべての囚人、および参加しなかった多くの囚人が激しい暴行を受けて居房に監禁された。今回の報告で、昨年TINが伝えたガンデン寺の2人の僧侶ロプサン・ワンチュク(28歳)とケトゥプ(26歳)の死亡が確認された。また、カンマル寺の22歳の僧侶ロプサン・チューペルの死亡も確認された。報告によると、1995年に逮捕された彼は5年の刑に服しており、5月4日の抗議行動の1週間後に自殺したという。タクツェ県のロ寺のトゥプテン・ケルサン(25歳)は、特に激しい暴行の対象に選ばれ、後に「廃人」状態になったとされている。

ラサ市ルンドゥプ県出身の30代前半のデプン寺の僧ンガワン・スンラプは、公式には「チベット自治区第一監獄」として知られるこの刑務所の1998年5月4日の第2の抗議行動の後、撃たれた。5月4日、囚人たちが別の国旗掲揚の式典のために中庭に召集されたとき、カンマル寺の僧ロプサン・ゲレクが「チベットは独立国だ」「中国は国旗を我々の領土に揚げる権利はない」などとスローガンを叫び始めたという。別の囚人たちも続いてこのスローガンを叫んだ。彼らは、5月1日の抗議行動後に敷地内に配備されていた人民武装警察部隊による暴行を受けた後、居房に戻された。正午数分過ぎ、その式典から除外されて居房に閉じこめられていた長期受刑者たちが何が起こっているかを知り、刑務所のゲートの一つに殺到し、おそらくゲートを破ろうとした。そのとき看守が発砲した。俗名をダワ・ツェリンといい10年に刑に服していたンガワン・スンラプは腹部を撃たれた。囚人たちはゲートから退き、ネッカチーフでンガワン・スンラプの傷口に包帯をし始めたという。ある僧(匿名)はキルトの裏地を裂いて、弾丸の傷口に包帯をしようとした。その後、ンガワン・スンラプは人民武装警察によって病院に運ばれた。彼を助けた僧侶の刑期はデモの2ヵ月後に満了することになっていたが、彼が釈放されたかどうかは明らかではない。5月4日の抗議行動を始めたロプサン・ゲレクが暴行によって死亡したという報告は確認できていない。彼は今年4月に釈放されることになっていた。

ペンポ出身の2人の僧ンガワン・ドルジェとダワは、ンガワン・スンラプが撃たれてすぐ、ダプチ刑務所から連れ去られたという。ペンポ・ルンドゥプ地方のランタン寺(またはランダル寺)のダワとペンポ・ゴンサル寺のンガワン・ドルジェの現在の消息は不明である。

5月4日の夜、約12人の人民武装警察部隊が居房棟に入り、電気ショック棒やゴムパイプなど様々な武器を使った組織的な尋問や暴行を行なったとされている。抗議行動のわずか1週間少し後に6年の刑から釈放されるはずだったと言われる僧トゥプテン・ケルサンはとくに過酷な扱いを受けたという。「(彼は)その夜12人の暴漢どもに打ちのめされた。体を折り曲げて踏みつけ、30分近くにわたって警棒で繰り返し殴った」と報告されている。報告によると、トゥプテン・ケルサンは翌朝再び尋問を受けた。この尋問は刑務所の外の看守の事務所で、2時間にもわたって続く暴行をともなった。報告によれば「6人の看守が暴行を加えた。1人が彼にひざまづくよう命じ、別の1人が頭を抑えた。残りの4人(の看守)が、電気棒や鉄棒で彼が意識を失って倒れるまで殴り始めた。激しい暴行によって彼は失禁してしまった。居房に帰ろうとしたとき、壁を支えにして歩かねばならなかったし、たびたび倒れていた。看守は囚人たちに対して、彼を助けることを許さなかったため、自力で居房までたどり着かねばならなかった」。トゥプテン・ケルサンは1998年5月15日に釈放され、現在自宅在住とされている。彼の容態は釈放後も回復せず、タクツェの自宅で「廃人」状態のまま間近に迫った死を待っているのだという。

5月4日の2回目の国旗掲揚式典に召集された囚人の中には、ダプチ刑務所の新しい施設に投獄されている受刑者がいたようだ。この施設は、1998年初頭に、男女政治囚用の2つの施設(第3区画と第5区画)が4つの施設(第3区画が第6・第7区画に、第5区画が第8・第9区画に)に分割されてできたものである。最新の報告によると、施設の分割によって、「長期刑」の政治囚(政治活動に加わって長期の刑を受けた、つまり当局にとってより危険度の高い囚人たち)は、新しい施設に移されたそれ以外の囚人と分離された。1998年5月の抗議行動は、施設内での単一管理から政治囚を切り離して管理運営しようという当局の狙いが失敗したことを意味している。

5月の抗議行動による囚人の隔離と刑期延長

昨年5月1日の刑務所でのデモは、「労働者の日」を祝う国旗掲揚式典のために、政治囚や刑事犯が中庭に召集されたときに始まった。この式典では900人近い囚人たちが大運動場に整列して「社会主義はすばらしい!」という共産党歌を歌わされた。当局者が紅旗を掲揚し始めたとき、2人の刑事犯が、衣服に隠していたらしきスローガンを刷った印刷物をまきはじめた。この2人はカルマ・ダワとカルマ・ソナムと思われる。カルマ・ダワはこの抗議行動の直後に処刑されたと伝えられている。そして、式典に出席していた政治囚たちが独立を支持するスローガンを叫び始めた。刑務所当局は、式典の警備のために通常の看守部隊しか置いていなかったようだ。人民武装警察部隊が刑務所の外部から召集されて、囚人らに暴行を加えて彼らを居房に戻らせた。

この5月の抗議行動の結果、囚人たちは1998年5月から1999年7月までの1年以上、居房に閉じこめられ、本やペン、紙などが没収されたという。囚人たちが持つことができたのは、寝具と衣類一式だけだった。「14ヵ月の間、囚人たちには着替えがなかったし、朝の洗顔などの基本的な道具もないままだった」という。別の報告では、5月の抗議行動の後、囚人たちは隔離され、面会者にも会うのを許されなかったことが確認されている。また、未確認の情報によると、1992年に逮捕されて7年または8年の刑に服していたガンデン寺の僧ロプサン・ルントクと5年の刑に服していたロカ地区チョンギェ県出身の学生プンツォク・ワンチュクという少なくとも2人の囚人が、チベット自治区第2刑務所として知られるコンポ地区ポメ県にあるポウォ・タモ刑務所に移送されたという。

1998年5月の抗議行動の結果、ダプチ刑務所に投獄されていた6人の僧に刑期延長が言い渡されたと伝えられている。1995年に投獄されて刑期5年だったルンドゥプ県ペンポ出身のゴンサル寺の僧ハプサン(23歳)は刑期を4年延長された。1995年2月に逮捕されたタクルン寺の22歳の僧パサン(法名はテンジン・ジグメ)とノルブ・プンツォク(法名はンガワン・ケルサン)は、もともとの刑期5年に3年を加算され、釈放されるのは2003年となっている。37歳のミクマル(法名はプンツォク・リグチョク)と23歳のケルサン・プンツォク(法名はンガワン・ナムギャル)は1994年5月に逮捕されて6年の刑を受けていたニェタン・タシガン寺の僧である。2人は刑期を4年延長され、釈放は2004年となった。

6番目の僧は、タクツェ県出身のサンガ寺のワンドゥ(法名はンガワン・ウーバル、24歳)。彼は1994年に逮捕されて4年の刑に服し、1998年12月に釈放されることになっていたが、刑期が倍になった。今回の新たな情報が伝える5月の抗議行動による死亡、重体もしくは刑期延長の16人のうち、少なくとも7人は、デモに参加したときから1年以内に釈放されることになっていた。

ラサの刑務所ではこれまでに多数の反逆行為が囚人の刑期延長によって罰せられてきた。1993年6月には、歌を録音したテープを刑務所から持ち出したために、14人の尼僧が3年から7年の刑期延長を受けた。1951年5月23日に中国とチベット代表が調印した「17条協定」の40回目の記念日を間近に控えた1991年5月20日、サンイプ刑務所で抗議行動を行なった11人またはそれ以上の男性受刑者のうち少なくとも6人が3年から5年または6年の刑期延長を言い渡された。現在合計21年の刑(チベット人女性政治囚として最長の刑期となった)に服しているンガワン・サンドルは、1998年10月に3回目の刑期延長を受けた。これは1998年5月のダプチ刑務所でのデモと、さらに同年彼女が刑務所内で行なった個人的な抗議行動に関係があると思われる。

抗議行動によるダプチ刑務所での死

今回の報告によって、さらに2名の僧の死亡が確認された。ガンデン寺のンガワン・テンキョン(俗名はロプサン・ワンチュク、28歳、メルド・ゴンカル出身)とカンマル寺のロプサン・チューペル(22歳)である。ロプサン・ワンチュクは1996年5月22日に逮捕され、12年の刑に服していた。やはりガンデン寺の僧であるケトゥプは1997年7月に投獄されて5年の刑に服していた。彼は1998年5月23日に死亡したとされている。ロプサン・チューペルは1995年2月に逮捕され、ダプチ刑務所で5年の刑に服していた。1998年5月12日、彼は居房で自殺したと伝えられている。

20代の尼僧6人もまた5月の抗議行動の後に亡くなったと言われている。1998年6月7日にダプチ刑務所の居房で遺体で発見された5人の尼僧の身元は、さまざまな情報によって、ニェモ県のケドゥン・ヨンテン、タシ・ラモ、デキ・ヤンゾム、そして、ルンドゥプ・ペンポ地方のロプサン・ワンモとチュキ・ワンモと確認されている。6人目の尼僧は、ンガワン・チュキという名だと思われるが、まだ確認されていない。6月7日に発見されたときには体が腫れ上がり、顔が傷だらけだったというこの尼僧らの死亡について、公式な説明は発表されていない。死因は自殺だと刑務所当局が言ったと伝えられている。

1998年5月4日朝、人権実態視察団がダプチ刑務所を訪れた時点で欧州連合の議長国だった英国政府は、中国と相互人権対話を継続中にもかかわらず、中国政府はダプチ刑務所で何らかの死亡事故が起こったことを認めなかったと語った。今日、英国外務省の報道官は「我々は反乱で殺された囚人についての詳細と、調査が行なわれているかどうかについて回答を迫った。中国当局は満足のいく回答を出すことができないでいる。反乱が鎮圧された方法について我々はひきつづき関心を提起していくつもりだ」と語った。1998年8月には、ラサの司法局が欧州民主連合の政治家の訪問団に対して、1998年5月1日の国家掲揚式典の際に囚人たちが「チベットに自由を!」「ダライ・ラマ万歳!」などのスローガンを叫び始めたことを認めた。司法局によると、看守は恐怖のあまり「刑務所の外側にいる警官の注意を引くために」空に向かって発砲したという。彼らは、抗議行動の結果、少なくとも10人のチベット人が死亡したというTINの報告を否定した。5月1日と4日に起きた抗議行動の3ヵ月後に中国当局に対して問題提起をした欧米各国に対して、中国政府が行なった実質的な反応はこれのみである。

以上

(翻訳者 長田幸康)
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 チベット人政治囚の減少と拘留中の死亡増加

TIN News Update, 27 December 1999
Fewer Tibetan Political Prisoners, More Deaths in Detention

TINが政治囚に関する記録に基づいて行った年度末調査で、ラサのダプチ監獄における政治囚の数が1995年と1996年のピーク時以来、刑期満了者の数が新しく収監される囚人の数を上回っているために、減少していることが分かった。だが、ダプチ監獄における囚人社会の規模が現在のところ縮小していると、これらの入手可能な資料が指摘する一方で、チベット自治区最大の同監獄内における虐待の度合が減少する兆候はみられない。1999年に刑期が満了することになっていた6人の囚人(いずれも僧侶と尼僧)が死亡したが、そのうちの5人は拘留中に死亡し1人は釈放後すぐに死亡した。拘留中に死亡した囚人は死亡した際、釈放まで24カ月以内だった。

チベット人政治囚に関する情報は次第に流出し難くなっており、人権調査団体がチベット内のどこにおいても政治囚の規模を把握できなくなているのは事実である。入手可能な資料に基づくという条件付きながら、TINの政治囚に関する新しいデータベースを利用した年度末の分析によれば、司法判決や行政判決を受けた囚人の内、少なくとも110人の囚人が1999年中に釈放されることになっていた。そのうち3分の2ほどがダプチ監獄に収監されていた囚人で、残りのうちさらに半分の囚人はティサム労働収容所(地域ごとに設けられた労働による再教育センター。行政命令により3年以内の判決を受けた囚人が服役する)に収容されていた。この刑罰方法は、チベット自治区当局が裁判によって処罰を課す方向に変わってきているため、近年では少なくなってきている。旧年中の釈放が決まっていた囚人は、平均5年の判決を受けていた。1999年中の釈放が予定されていた囚人のうち、少なくとも2、3人の囚人が、病気治療のために予定より早く仮釈放されている。

1999年にダプチ監獄から釈放されるはずだった6人の囚人のうち最初に死亡したのは、タクツェのサンガ・カル僧院の僧侶、パサン・ダワである。パサン・ダワは1994年12月、18歳の時に拘留された。ダプチ監獄でパサン・ダワと同じ構内にいた経験がある元囚人の亡命僧はTINに対して、パサン・ダワが監獄でひどい殴打を受けたために病気になってしまったこと、また、治療を受けることを望んだが拒否されたことを語った。「当局が彼の容態が非常に悪いことにやった気が付き、病院に連れていくことを決めたが、彼は病院の入口の階段を上る途中で息絶えた」とTINに語った。もしパサン・ダワが生存していれば、今月釈放されるはずだった。

1998年5月のダプチ監獄デモの直後に死亡した僧侶2人と尼僧2人は、1999年中に釈放される囚人のなかに含まれていた。ニェモのジェウォ・テクチェリン尼僧院の尼僧タシ・ラモは、1995年1月に拘留された時、21歳位だった。また、タシ・ラモが逮捕された1カ月後にデモを行ったかどで投獄された、ルンドゥップのペンポ地域のランジュン尼僧院の尼僧デキ・ヤンゾムは、当時、19歳だった。この2人はともに4年の判決を受けたことが報告されており、今年初めに釈放されるはずだったが、ダプチ監獄で起きたデモの1カ月後の1998年6月にそれぞれの監房で死亡した。死因は首吊り自殺だったと非公式に伝えられているが、中国当局はこれまでのところ2人の死因について公式な説明を行っていない。

ガンデン僧院の僧侶ケドゥプは1994年3月に拘留された当時、20代半ばだった。後に、彼は5年の服役の判決を受けた。彼は、1998年3月にダプチ監獄で行われたデモに関する最初の犠牲者のうちの1人だが、死に至った状況は未だに不明。TINが先月入手した、デモを目撃した者による稀にみる詳細な証言によると、ケドゥプは1998年3月23日、「ダプチ監獄内の厳重警備区域」の中で死亡した。1995年4月に拘留されたダムシュンのカンマル僧院の僧侶ロプサン・チョペル(当時20代前半)に関してTINが最近入手した情報によると、彼は監獄デモによる最初の犠牲者に含まれていることを示している。チョペルは1998年3月12日に自殺したといわれている。

1999年中に釈放されるはずだった者のうち6人目の死亡者は、1995年3月に拘留されたガンデン僧院の僧侶ンガワン・ジンパである。拘留された当時25歳だったンガワン・ジンパは、4年の判決を受けていた。TINが今年の初めに入手した情報によれば、彼は1999年3月に刑期を終え、ダプチ監獄から釈放されて家に返されるはずだった。ある日、彼のところに数人の医者が訪れ、彼の脊髄液を抽出したという。これは、髄膜炎などの病気か或いは脳感染症や脳腫瘍と診断するためだったのではないかといわれている。それから2カ月後の3月中旬にンガワン・ジンパは死亡した。TINでは、彼の死が虐待と関係あるのか、或いは虐待とは無関係の健康上の問題によるものなのか、まだ確認できていない。

1999年に釈放予定の囚人のうちで最も長期間に亘って服役した政治囚は、ガンデン僧院の元僧侶ロプサン・イェシェ(俗名プンツォグ・ギャルツェン)である。当時29歳のロブサン・イェシェは、1998年3月5日にラサ中心部で起こった大規模なデモの2日後に逮捕された。公式の裁判資料によれば、ロプサン・イェシェは1989年1月19日に11年の投獄の判決を受けたとされているが、非公式の消息筋は判決は12年だったとしている。1996年後半に寄せられたある未確認の報告によれば、彼は病気治療のためダプチ刑務所から仮釈放されたが、暴行で受けた傷や肝臓への損傷のために車椅子にくくりつけられた状態だったという。彼の現在の状態については分かっていない。

さらに新しい情報が届いていた結果、1998年にダプチ監獄から釈放される予定であった囚人の数は、TINが今年3月に発行した1987年以来のチベットにおける政治囚の投獄に関する調査報告書「敵対分子」で報告された62人を上回ることとなった。TINが入手している最近のデータによると、1998年にダプチ監獄から釈放されたと推定される囚人の数は、1999年のそれを僅かに上回り、各年ともそれぞれ80人以上の政治囚が釈放される予定であったことが分かった。1997年にダプチ監獄から釈放されたと推定される囚人の数は、2000年度の釈放予想数に近く、60人以上と推定される。データはまた、釈放数のピークは1998年と1999年だと指摘する。さらに、1997、1998、1999の3年間でチベット内に服役する政治囚300人以上が釈放される予定だったことを示している。このうちの230人がダプチ監獄の囚人だった。こうした傾向をみると、新たな政治拘留や政治判決の波が起こらない限り、ダプチ監獄内の囚人人口は、1995年―1997年の時よりも減少し続けるだろうと予想される。

ダプチ監獄の囚人8人を含む少なくとも9人の政治囚が、この3年間の間に釈放されることが決まっていながら、死亡している。1998年に釈放が決まっていた囚人のうち、2人が死亡している。1人は拘留中に死亡し、1人は釈放後間もなく死亡している。シャル・ブンパ尼僧院のチュキ・ワンモは釈放される1週間前の、1998年6月7日に死亡した。彼女は監禁されていた独房で、首吊り自殺をしたといわれている。彼女は1998年にダプチ監獄で起きた抗議デモの直後に死亡した、と報告されている6人の尼僧のうちの1人である。22歳のガンデン僧院の僧侶イェシェ・サムテンは1998年5月6日、ティサム刑務所で2年間の服役を終了し釈放されたが、その6日後、拘留中に受けたひどい暴行や虐待のため、自宅で死亡したといわれている。TINは現在、1998年に釈放が予定されていたのに死亡したとされるさらに2人の政治囚(僧侶1人、尼僧1人)に関する情報を求めている。

チベット人政治囚の虐待による死亡率を調査しようと、TINはこれらのグループに含まれる囚人が拘留中に受けた虐待が直接的な原因となって死亡したことを確認するためあらゆる努力を注いでいる。チベット内部から寄せられる情報は、全ての囚人の死因が虐待による結果だと推測する傾向にあり、矛盾しているため、評価や確認を行うことが難しい。ダプチ監獄はチベットで最も危険な監禁場所とされているが、ダプチ監獄で死亡した囚人がまず初めに暴行や拷問を受けたのは、グツァ警察拘留所やシトゥ警察拘留所などである。

1987年以来過去12年間について取りあげたTINの最近の記録によると、ダプチ監獄で女性の政治囚が拘留中に虐待が原因で死亡する確率は、現在22分の1であるという。また、ダプチ監獄の男性の政治囚に関する統計による見解は、昨年中でさらに悪化し、現在では37分の1以下である見込みはないとしているが、その他の未確認の情報によれば、この確率よりもやや低い可能性もある。これらの情報を総合すると、1987年以降に収監されているダプチ監獄の政治囚が、同監獄内で拘留期間を生き残れない確率は、今のところ32分の1ということになる。しかし、囚人の釈放が集中した1998年と1999年の期間中に社会生活に戻ることが決まっていたダプチ監獄の政治囚にとっては、死亡率は約24分の1ということで、この数は厳しいものである。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)

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 カルマパ、チベットを去る

TIN News Update, 7 January 2000
Karmapa Leaves Tibet

チベットの高位の宗教的人物のうちの1人であるカルマパ17世、ウゲン・ティンレー・ドルジェがチベットを去り、2日前にインド・ダラムサラに到着した。チベット亡命政府の公式報道官が明らかにした。チベット仏教4大宗派のうちの1派のリーダーで、初めてダライ・ラマと中国政府の双方によって認められたチベット仏教の活仏であるこの14歳の少年は、1月5日午前10時半、ダライ・ラマの住宅がある亡命政府の所在地に辿り着いたという。西側にいるカルマパの信者らによれば、カルマパはチベットの彼の僧院から徒歩による7日間に亘る旅の末に到着したという。

新華社はカルマパがチベットの彼の僧院を去ったことを認める一方、カルマパが「宗教儀式に使用する楽器」と先代カルマパが使用した「黒い帽子」を手に入れるために外国へ行ったことを述べる手紙が僧院に残されていたと報道した。1月7日付の同報道はさらに、カルマパが手紙の中で、自分の行動は「自治区や国、僧院、または指導部を裏切る」ものではないことを述べていたとしている。

チベット仏教カギュ派の最高指導者であるこの年若いカルマパは、最も位が高く、深く尊敬されているチベットの宗教的人物のうちの1人である。だからこそ、カルマパが事実上当局の許可なしでチベットを去る決心をしたことは、チベット人亡命社会と中国当局の双方にとって、非常に重大な意味を持っている。1992年に先代のカルマパ16世の生まれ変わりに認定されて以来、ラサ近くの彼の拠点寺院であるツルプ寺でウゲン・ティンレー・ドルジェを取り巻く警備は非常に厳しかった。カルマパのインドへの旅に関する全容と詳細は、ラサ行政区トゥールン・デチェン県にあるツルプ寺の現在の状況に関する情報などを含め、明らかになっていない。

カルマパのインド到着のニュースに対する中国政府の慎重な対応ぶりや、同政府がまだカルマパを非難していない事実をみると、中国政府はカルマパが近い将来チベットに戻ってくるかもしれないとして、選択肢を広げておきたい考えがあるとみえる。西欧のカルマパ信者らが、カルマパが先代カルマパ16世が亡命中に拠点としたルンテク寺に向かう前に、彼の師であるシトゥ・リンポチェのシェラブリン寺で時間を過ごす予定だと発表しているが、この少年の将来の計画について、チベット亡命政府はまだ公式な発表は行っていない。

もしカルマパがこのままインドに滞在し亡命ということになれば、中国人にとって大きな恥となるだろう。中国人は常に、チベット人は宗教の自由を含む権利と自由を享受していると主張してきたからだ。チベットを最後に去った主な宗教指導者は、1998年に亡命した青海省のクンブム僧院の元院長、アギャ・リンポチェ。中国当局はカルマパが認定された際、カルマパの生まれ変わりの選定作業で中心的役割を果たしたカギュ派の高僧、シトゥ・リンポチェを含む宗教指導者にカルマパが会うことを認めていたのにも拘らず、カルマパが1992年に即位して以来これまで一度も、インドにいる彼の師らを訪ねることは許されなかった。これらの年輩の高僧らは、若いカルマパの宗教教育にとって重要な人物であるが、彼らもまたツルプ寺にこの少年を訪ねる許しは得られなかった。

TINの情報が示すところによると、チベット人は、中国人がカルマパを操ってダライ・ラマに対する支援を損ねさせるなど、カルマパを政治的な目的に利用しようと目論見んでいるとして懸念していた。カルマパは2度の中国遠征をしており、江沢民を含む様々な中国人指導者らと面会している。この1年以内にも、李瑞環・全国政治協商会議主席などの中国人の政府要人らと北京で面会した。北京の発行する雑誌「中国のチベット」が報道したカルマパが中国語で行ったスピーチでは、カルマパがこの訪問を通して「愛国教育を受けた」こと、またカルマパが江沢民の指導に従い「祖国の統一と国民の団結に向けて努力する」ことを述べている。面会した李瑞環はカルマパについて「健康的に成長した」と述べ、カルマパの「進歩」は「チベットの開発と安定に多大な効果をもたらすだろう」と語った(新華社1999年1月27日付)。

カルマパが1994年に初めて中国に遠征し、北京で10月1日に行われた国慶節の祝賀式典に来賓として出席した。このことは、ツルプ寺での抗議運動を引き起こした。亡命チベット人からの情報によると、1994年後半に同寺で、カルマパのインド訪問を認めないとして中国政府を非難し、同寺の民主運営委員会を批判する内容のポスターが張り出され、僧侶らが同委員会の所有車に石を投げつける事件も発生したという。1995年初めには、少なくとも6人の同寺の僧侶がこれらの事件に関連して拘留された。ニマ・テンジン、クンチョク・ティンレー、同寺の唱師ドゥンゲ・チョペルの3人が2年間の労働改造、カルマ・リンチェン、ダドゥルは6カ月の労働改造の判決を受け、ダワは2週間拘留された。

カルマパは少なくとも2回、中国政府が選定したパンチェン・ラマ、ギャルツェン・ノルブと会っている。カルマパは1995年のパンチェン・ラマの即位式に参列した際、当時6歳のその少年の前にひれ伏さざるを得なかったと報告されている。また、中国が認定したそのパンチェン・ラマが1999年の6月にシガツェを訪問した際、カルマパはそのギャルツェン・ノルブと面会するために同地へ連れて行かれている。新華社は1999年8月25日、カルマパが仏教の基礎学問を修得したと報道し、カルマパが1日の殆どの時間を勉強に費やしていること、毎日1時間の謁見を行っていることを報道した。

カルマパ17世の認定

1981年11月にカルマパ16世が亡くなった後、カルマパ17世探しが始まった。シトゥ・リンポチェ、シャマル・リンポチェ、ジャムゴン・コントゥル、ギェルツァブ・リンポチェのカルマ・カギュ派の4人の高僧が評議員を務め、カルマパの生まれ変わりを総合的に判断する責任を担った。1992年3月、シトゥ・リンポチェがカルマパ16世の予言が書かれた手紙を発見したことを明らかにし、その手紙によって東チベットのある少年の所在が判明した。この候補者を探しにチベットへ旅行する任務を課せられていたジャムゴン・コントゥルがインドで自動車事故により死亡した際、シャマル・リンポチェはシトゥ・リンポチェとその候補者への支持を取り下げ、これが現在まで続く論争の発端となった。

評議委員の間で論争が起こった後、ダライ・ラマは1992年6月7日、シトゥ・リンポチェが調査した候補者への支持を公に表明した。シトゥ・リンポチェはさらに、彼が選定した候補者である遊牧民の息子、ウゲン・ティンレー・ドルジェが住む東チベットに調査団を派遣することを許可した中国当局の役人達にも働きかけ、この少年をカルマパ17世として正式に認定した。少年は1992年6月13日、ラサまで護衛され、少年が初めての宗教儀式を執り行った6月27日、中国当局は、初めて公式に支持を表明した。1992年9月27日、中国人の役人らが出席する中、カルマパが代々拠点としてきたツルプ寺で即位式が行われた。中国人の役人はこの機会を、彼らにチベットの宗教的指導者を任命する歴史的かつ法的な権利があると主張する場として利用した。

シャマル・リンポチェが、シトゥ・リンポチェが示した手紙には正当性がないとして受けれ入れを拒否する表明を行ったのを契機に、この生まれ変わりを巡る論争が始まり、1994年、シャマル・リンポチェは別の候補者を指名した。タイェ・ドルジェという少年で、この少年とその信者らは今も、真のカルマパだと主張し続けている。タイェ・ドルジェは現在ヨーロッパを訪問しているが、シャマル・リンポチェはインドに滞在している。

(翻訳者、TNDスタッフ)

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 チベット自治区のカルマパの僧院で警備強化さる;
チベット自治区政府、レティン・リンポチェの転生者を承認

TIN News Update, 14 January 2000
Security Tightened at Karmapa's Monastery in Tibet ;
Reincarnation of Reting Rinpoche Confirmed by TAR Authorities

ラサ近郊のツルプ僧院で、警備強化のための一斉手入れが実施されたとの情報が、TINに届いた。1999年12月28日に、カルマパ17世が同僧院を脱出して以来、少なくとも2人の僧侶が逮捕されたとのことである。未確認情報ながら、中国政府は彼の失踪によって1月1日よりももっと前に、警戒態勢を敷いていたようである。

その週の内に、中国政府がチベット内部の宗教活動に対する締め付けを強化するために、ある決断を下していたことを示す別の事件が起こった。もう1人の高僧、レティン・リンポチェの転生者を発見した、との発表を行ったことである。西蔵日報の記事によれば、1999年12月30日にラサで開かれた記者会見の席上で、政府の役人が次のように発表した。レティン・リンポチェ7世の探索が、「中央政府およびチベット自治区政府の適切な規則、および歴史的な制度と宗教規則」に従って、実施されて来た。

カルマパが失踪すると直ぐに中国政府は警戒態勢を取り、カルマパがどのようにしてツルプ僧院の警戒を免れたのかを調査し始めた。またラサ行政区のトゥルン・デチェン県に位置する、ツルプ僧院の警戒態勢は即座に強化された。ある情報筋がTINに語ったところによれば、ラサ市トゥルン・デチェン県にある人民武装警察隊の司令部から、即座に部隊が派遣されたという。同情報筋によれば、ツルプ僧院の僧侶たちは僧院内に缶詰となり、さらに取り調べを受けて、少なくも2人の僧侶が逮捕されて町に連行されたという。またチベット南部の国境地帯に通ずる道路は、警戒が強化されたとも伝えている。

香港の新聞『民報』の1月9日付けの記事によれば、中国共産党の最高指導者たちの求めに応じて、国務院とチベット自治区政府の『緊急会議』が招集されたのは明らかであるという。同記事は、「チベット自治区とラサ市の公安部は、事件調査をするように政府上層部から命ぜられた」とも伝えている。民報によれば、中国政府はカルマパが「ある人々に利用され、離反するようにけしかけられた」と信じており、事件には「インドに亡命しているダライ・ラマの特別部隊が関係している」とさえ主張している。北京は「様々なチャンネルを通じて」、インドにいるカルマパと接触しようと努力を続け、「状況をより良く理解しようと努め、彼に帰国を促そうとしている」、と同記事は続けている。

インドのプレス・トラスト紙の報道によれば、カルマパの叔父さんのナムゲル・ゴンプが1月12日にダラムサラに到着し、チベットに残っている家族のためにもチベットに帰るように説得する、2通の手紙を手渡したという。

カルマパがインドに脱出したのがつい最近のことであり、また彼がインドに滞在することが、政治的にも非常に微妙な問題であることを考えれば、彼の将来がまだはっきりしないのは驚くには当たらない。インド政府は、カルマパが政治亡命を求めてはいないとする、公式な立場を崩してはいない。ダラムサラの情報筋によれば、インド政府はカルマパに他の多くのチベット人難民と同じ立場を認めることで、妥協的な解決を図ろうとしているのであろうという。カルマパに居住の権利と旅行許可証を与えることで、彼の政治亡命を認めるか否かという、微妙な立場にインド政府が陥ることを避けようとしているのだという。もし彼がインドに滞在するとすれば、カルマパ16世の御座所であったシッキムのルムテク僧院に直ぐに向かうこともないと思われる。この背景には、カルマパ17世の候補者問題で今もまだ論争が継続していることもあり、またこの地域が政治的にも微妙な位置に置かれていることも影響しているのであろう。1975年にインドがシッキムを併合したことを、中国は今でも認めておらずシッキムは独立国であると見なしている。

レティン・リンポチェの認定

レティン・リンポチェ7世の公式発表が、カルマパがツルプ僧院を脱出した2日後に、ラサで行われた。ラサ市長代理のダルゲは、1999年12月30日の記者会見で、レティン僧院の民主管理委員会から出されていた、レティン・リンポチェ6世の転生者認定の申請が、チベット自治区政府によって裁可されたと発表した。レティン・リンポチェ6世は1997年2月に亡くなっており、チベット自治区政府は「レティン・リンポチェ6世が、国を愛しまた宗教を愛しておられ、多くの僧侶および一般の人々に影響力を持っておられたという生前の特徴を考慮に入れて」、また政府の規則に基づいて、判定したと彼は語った。

ダルゲの演説を報じている西蔵日報は、「自治区内の高徳の僧侶によって占いが行われ、さらに湖に浮かぶ幻の透視が行われた」と、レティン・リンポチェ7世の認定が伝統的な方法に厳密に従って、行われたということを強調している。12月31日付けの記事もまた、探索チームのメンバーたちは2300kmを旅し、8つの県の31町村にまたがった670人の子供たちを調査して20数人の子供たちに絞った、と伝えている。候補者が『上部の権威』によって受容されたことを認めた上で、ダルゲは次の段階は「子供を剃髪し、法名を選び、即位式を実施して、この素晴らしい仏教行事を成功させることだ」と明言した。

チベットの転生化身の探索は中国政府の支配を受けており、これが多くのチベット人を怒らせている。彼らの最も重要な宗教伝統に、無神論国家の中国が介入することは受け入れられないというのである。ダラムサラに拠点を置くチベット亡命政府の広報官トゥプテン・サンペルが、今日語ったところによれば「伝統的には、ダライ・ラマ法王が認定する」という。彼はまた転生化身の選定は、「統治上の決定であってはならず、民衆の信仰の問題である」とも語っている。別の亡命チベット人が今週TINに語ったろころによれば、チベット自治区政府は「本当の転生化身を捜そうとは思っていない。普通のどんな子供でも、その子を指名して、彼に肩書を与え、彼らの政治的な狙いに適ったように教育することが、転生化身の選定であると考えている」という。

伝統的には転生化身の高僧が亡くなると、その僧院の高僧たちが生まれ変わりの探索を行い、ダライ・ラマ法王に相談して承認を受ける。特に候補者の選定で対立があった場合には、それが重要である。ダライ・ラマ法王の関与の程度は、問題となっている転生化身の地位によって決まって来る。トゥプテン・サンペルがTINに語ったところによれば、レティン・リンポチェ7世の場合には、ダライ・ラマ法王の承認は『不可欠』であるという。なぜならばダライ・ラマ14世とレティン・リンポチェ5世(1913年から1947年)の間には、『師匠と弟子』の関係があったからである。

転生化身認定の根本問題は、1995年にパンチェン・ラマ11世の認定を巡って、伝統的な信仰実践と中国政府の支配との間に衝突が起こったことにある。ダライ・ラマ法王は、1995年5月にゲンドゥン・チュキ・ニマ少年を、パンチェン・ラマの転生者として認定した。この少年と家族は中国政府によって拘束され、別の候補者ギャルツェン・ノルブが、パンチェン・ラマとして即位した。この紛争は多くの僧侶の逮捕投獄に結び付き、パンチェン・ラマの御座所であるタシルンポ僧院の当時の僧院長であり、また探索チームの責任者であったチャデル・リンポチェも、6年間の懲役刑を受けて投獄された。

中国政府がチベットの転生化身の探索に権威を主張しようとするのは、過去10年間中国の国内で、宗教家とその宗教活動に対する締め付けが強化されていることの側面に過ぎない。1996年5月にはチベット自治区で愛国教育運動が発動され、以来チベット自治区の内でも外でも、僧院の中でこれが実施されて来た。ツルプ僧院やレティン僧院(ラサ市のルンドゥプ県)でもこれが実施された。これはチベットの僧院の管理を強化し、僧院内の反政府運動を抑圧するために、政府が採用した最も抜本的な対策であった。愛国教育運動の力点は、僧侶たちにダライ・ラマ法王を非難させることに置かれていたために、愛国教育工作班が各僧院を訪れることによって、抗議運動がチベット全土に広がる結果となった。

ツルプ僧院もレティン僧院も過去数年間、模範的な『愛国』僧院として政府の公式新聞によって称賛されて来た。また両方の僧院の僧院長は、それぞれカルマパと故レティン6世で、中国の報道機関によって模範的な愛国者として称えられて来た。その『愛国的』な地位にも拘わらず、最近は両方の僧院で抗議運動が起きていることが報告されており、僧侶たちが逮捕される結果となっている。

レティン・リンポチェのプロフィール

レティン・リンポチェ5世は、チベットの近代史においても重要で、また評価の分かれる人物であった。ダライ・ラマ13世の逝去後の1934年1月に、神聖籖によって摂政に選ばれた。レティン・リンポチェは、現在のダライ・ラマ法王の探索でも中心的な役割を果した。彼は摂政として、ダライ・ラマ14世の公式な教師役も務めた。1941年に引退すると、中国政府と共謀してチベット政府に敵対したとして、1947年に逮捕された。1カ月後、原因不明で獄中で死亡した。

レティン・リンポチェ6世は、歴史的にはあまり重要な人物ではなかった。中国共産党の下で育てられ、1956年にチベット自治区仏教協会の常任委員として、最初の公式な地位を与えられた。この時、彼は8才であった。文化大革命時には人民裁判に掛けられ、1年間を獄中で過ごした。1970年代の後半に公式な復帰が許され、再び幾つかの役職に就いた。パンチェン・ラマ10世と同じように、彼は俗人の生活を送り、投獄後は結婚もしていた。レティン・リンポチェ6世は、1997年2月13日に亡くなった。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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英語の原文(画像つき)はTibet Information Networkのホームページで読めます。

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