40号(1999年10月)

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 チベット人通訳、青海省の拘置所から釈放さる

TIN News Update, 20 September 1999
Tibetan Translator Released from Detention in Qinghai

チベット人通訳のツェテン・ドルジェは、先月来2人の外国人研究者と共に青海省で拘束されていたがようやく釈放されたと、信頼できる非公式情報筋は伝えている。彼が完全に釈放されたのか、あるいは再逮捕される可能性があるのかは判明していない。米国国務省およびオーストラリア政府は、釈放後の彼の立場について、中国政府に確認を取っている。

26才のツェテン・ドルジェは、青海省のマロ(黄南)チベット族自治州のレプコン県の出身であるが、8月15日に青海省のドゥラン県のシャンリド(香日徳)で、50才のオーストラリア人学者のガブリエル・ラフィットと、29才の米国人チベット専門家のダジャ・メストンと共に逮捕された。2人の外国人は、世界銀行が青海省ツォヌプ(海西)チベット族自治州のドゥラン県で計画している移住プロジェクトに関する調査を実施していたもので、ツェテン・ドルジェは英語を話せるために彼らの通訳として雇われていた。ラフィットとメストンは既に釈放されており、帰国するすることを認められている。彼らが最後にツェテン・ドルジェを見かけたのは拘束された翌日で、その後3人は別々の車で青海省の西寧まで移送された、

TINが入手した非公式情報によれば、ツェテン・ドルジェが青海省師範学院に帰って既に1週間が経過しているが、彼の立場は未だに不明確である。ツェテン・ドルジェは、マロ(黄南)チベット族自治州のレプコン県の中等学校で働いた後に、教員資格を昇格させるために師範学院に通っていたが、夏期休暇を利用してラフィットとメストンと共に働いていたものである。ツェテン・ドルジェは、青海省で活動している2つの外国組織のために、昨年も中国人通訳として働いた経験がある。ユシュ(玉樹)チベット族自治州で活動していた「国境なき医師団」と、ゴロク(果洛)チベット族自治州のダルラク県の牧畜プロジェクトに関与していた欧州連合のチームであった。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 チベット人が記念式典に無理やり参加させられていると語るなか、
中国政府は反政府活動を警戒

TIN News Update, 29 September 1999
Authorities Fear Dissent
as Tibetans Told They must Participate in Anniversary Celebrations

ラサ在住のチベット人たちは、10月1日に挙行される中華人民共和国成立50周年記念式典のリハーサルに参加しなければ、給料あるいは恩給を削られることになると言い渡された。過去数週間記念式典の予行練習が行われており、ラサの住民たちは学童から老人まで、愛国歌を覚えることを強制され、また舞踊の練習に参加することを強いられている。最上級の服を着て、歌を歌い、旗を振り、式典と行事に参加しなければならないと、彼らは言い渡されている。また公務員や会社員たちには、給料の昇給等の利益提供も行われているという。式典の内容については、まだ公開されていない。

過去半世紀に中国で行われた式典のテーマは『祖国統一』であり、9月13日の新華社通信によれば、北京で挙行される式典ではチベット人やモンゴル人またウイグル人たちが伝統的な舞踊を踊って、「中国人民であることの喜びと幸せを表現する」ことになっているという。新華社通信は、これらの民族を『祖国の息子や娘』と表現している。

ラサでは年間通して治安が強化されて来たが、民族主義者たちの反政府活動を遮ることはできなかった。8月18日から23日まで開催された少数民族体育大会の期間には、市内の通りを武装警察がパトロールし、ラサに通ずる道路には検問所が設けられていた。こうして監視や治安が強化されていたにも拘わらず、少なくとも5人のチベット人が政府に対する抗議とチベットの独立を支持する行動を起こし、その内の1件ではチベット人が中国国旗を引き降ろし、爆薬で自殺しようとした事件もあった。

長期の内戦の後に1949年に政権を握った共産党政府の優先政策の1つは、チベットの祖国復帰であった。共産党政府は、既にチベットを中国の領域であると見なし、チベット人を『少数民族』と見なしていた。1949年9月29日人民大会は、「革命戦争を貫徹し、台湾、彭湖諸島、海南島そしてチベットを含む全ての中国の領土を解放せよ」と呼びかけた、人民解放軍の最高司令官朱徳の命令を満場一致で承認した。この目標は、国民党政府の政策から大きく逸脱するものではなく、国民党政府もチベットの支配を目指していたのである。共産党政府は、この目標を達成する政治力と軍事力を持っていただけである。

半世紀後の現在、北京で今週発行された少数民族政策白書は、チベットや新彊等の『少数民族』地域において、まだ治安に重大な懸念が存在していることを認めている。これらの懸念は、北京で挙行される国慶節記念式典の治安対策にも反映されている。9月1日の新華社通信は、「あらゆる階級の幹部は、速やかに指揮官の立場に就いて、治安維持の仕事に全力を尽くさなければならない」と報じている。(9月27日に新華社通信を通じて公開された)白書では、政府が「国家を分裂させようとする策略に対決して、国家の統一を守り」続けている、と述べられている。ここで言う策略の中には、「国際侵略組織の支援を受けた少数の民族分離主義者による『チベット独立』を目指す策略も、また新彊での『東トルキスタン』設立を目指す策略(新華社通信、9月27日)」も含まれているという。白書は、『少数民族』と中国統一の重要性を強調して、「統一の長いプロセスの過程で、中国の全ての民族の経済的・文化的な交流が進み、各民族は互いに密接に結び付けられた。相互依存と相互の進歩・発展が形成され、中華文明の創成と発展に貢献している」と述べている。

少数民族政策白書は、50周年記念に時期を合わせた、中国政府の宣伝攻勢の一環である。引退したチベット人高官のンガポ・ンガワン・ジグメは、政治協商会議の一員で現在北京に暮らしているが、「もし古い制度が存続していたら、チベットの『民族』は完全に消滅していただろう」と語った、と9月20日付けの新華社通信は伝えている。ンガポ・ンガワン・ジグメは、カム地方チャムド(チャムドは現在チベット自治区に含まれている)の元知事で、中国にチベット支配の正当性を与えたと中国人が見なしている、『17条協定』の署名者であった。チベットが好ましい方向に変化したのは、中国共産党の指導のお陰であると、彼は語っている。中国の通信社・中国新聞社は、8月25日にチベット人高官のインタビュー記事を掲載し、中国による『平和解放』まではチベット人は『農奴制度の下で悲惨な生活』を送っていたと、彼は思い出を語っている。

チベットの元の領域であるアムドの殆どを取り込んだ青海省では、チベット人たちはチベットの歴史を描いた巨大なタンカ(チベットの伝統的な仏画)を飾って、国慶節を祝った。8月18日付けの青海日報によれば、『中華人民共和国成立50周年とマカオの祖国復帰を祝って』、100人以上の仏画師たちが協力して618メートルの長さのタンカを完成したという。同新聞は、タンカのテーマについて詳細を伝えていない。したがって、1959年にチベットを脱出した現在のダライ・ラマ法王が、この伝統的な仏画の中ではどのように描かれているかは分からない。

中国人の作家グループとチベット人の小説家のタシ・ダワは、1950年以降に中国人が建設した道路を、ラサまで徒歩で旅して記念日を祝うという。作家たちは、10月までにこの徒歩旅行を終わらせて、ネパールや新彊ウィグル自治区、四川省、青海省からチベット自治区に至るルート沿いで、彼らが経験したことを本に書くことになっている。

政府は国慶節に反体制運動が起きることを警戒

チベットではこれまで、国慶節に抗議運動が集中的に起きている。1987年10月1日には、ラサの幾つかの僧院の僧侶たちがラサの旧市街で、チベット国旗を掲げて独立要求のスローガンを叫んでデモを実施した。僧侶たちが逮捕されると、約2千人の群衆が警察署を取り囲み、中には放置された警察車両に放火する者もいた。警察署に拘束されていた僧侶の内、数人は建物が放火された際に脱出したが、逃げる際に3人が射殺された。

今年は、国慶節やラサ決起の40周年等の幾つかの記念日が重なるために、ラサ市内の緊張はいやがうえにも高まっている。中国が選んだパンチェン・ラマ、9才のギャルツェン・ノルブが6月にシガツェを訪問した際にも、また8月の少数民族体育大会の期間中も、市内には緊張した空気が流れていた。

過去2カ月間に、ラサでは幾つかの反体制運動が起こったとの報告が、TINに届いている。その中には、チベット人がポタラ宮殿前広場の中国国旗を引きずり降ろした、という事件もあった。このチベット人は20才代後半か30才代前半の農民で、名をタシ・ツェリンと言い、中国共産党の党員であるという。信頼できる非公式情報筋によれば、この事件は8月31日に起き、タシ・ツェリンは爆発物を体に巻き付けており、抗議運動の後に自殺する積もりであったという。彼はチベット国旗を掲げて、爆薬を爆発させる前に、逮捕されてしまった。タシ・ツェリンは、警察車両に連れ込まれる前に、治安警察によって激しく殴打された。複数の情報が伝えるところでは、彼は殴打によって怪我をしていると思われる。彼の肩が外れていたと、伝える非公式情報もある。

少数民族体育大会を祝う余興演技の際に、2人の僧侶と2人の尼僧がスローガンを叫んだとの報告もある。治安警察は、スローガンを叫び続けているこの僧侶と尼僧を逮捕するために、観客を掻き分けて突進した。この事件は、各地域の指導者や数人の高官のいる前で起こったという。

8月にはラサ市政府が主催する集会が開かれ、ラサ市の治安維持に邁進する公安局と治安警察を励まし、7月のダライ・ラマ法王の誕生日を禁止したことを再確認した。この集会は、分離主義と対決する政府の強硬政策を強化するために開かれたものであり、「祖国の統一を守り、民族の連帯を強化する」と同時に、「ラサの経済的な繁栄と社会的な安定」を目指すとしている。ラサ市共産党書記のジャンパ・プンツォク(中国語ではシャンパ・ピンツォ)は、集会を締めくくる演説の中で、分離主義に対決する党中央の政策に基づいて『戦略闘争』を継続すると共に、『草の根』組織網によって個人的な監視をすることの重要性を強調した。

以上

●年表●

1949年6月:インド、チベットに対して防衛のための武器供給をすることに同意。

1949年7月:

  7月8日:チベットの内閣は、1940年に国民党によって設立されたラサ駐在中
  国代表部を追放。これは代表部が、共産党のチベット支配の足掛かりになることを
  恐れてのことであった。

  共産党のシンパも、またチベットから追放された。この中には、カム(東チベット
  、現在は四川省に併合されている)のパタン出身のチベット知識人である、プンツ
  ォク・ワンゲルも含まれていた。

1949年9月:

  9月29日:人民大会は全会一致で、人民解放軍総参謀長・朱徳の一般計画を承認
  した。その内容は、「革命戦争を完遂し、台湾、彭湖諸島、海南島、そしてチベッ
  トを含む中国全土を解放する」というものであった。

1949年10月:

  10月1日:毛沢東は、北京の天安門において中華人民共和国の成立を宣言。  

  チベットの摂政・タクラは、チベット国民会議の勧告を承認し、内閣の再編を行っ
  た。内閣はまた、国民会議の諮問を経ずして行動する権威を付与された。

1949年11月:

  11月2日:チベット政府は毛沢東に書簡を送り、チベットが独立した地位保持し
  ていることを表明し、領土不可侵の保証を求めた。

  チベット外務省は、英国外務大臣のアーネスト・ベービンに書簡を送り、英国の支
  援を求めた。同ような書簡は、米国にも送られた。

1949年12月:

  12月3日:内閣は英国政府に電報を打ち、チベットの国連加盟への支援を求めた

1950年1月:

  1月12日:米国国務省長官のディーン・アーキソンは、駐インド大使のロイ・ヘ
  ンダーソンに指示を出し、チベット政府が米国に特使を送ることを思い留まらせた

  1月31日:中華人民共和国からの脅威を受けて設立されたラサ・ラジオは、チベ
  ットが中国の一部であるとの北京の主張を否定した。同放送は、チベットが「19
  12年に清帝国が駆逐されてから、ずっと独立国であった」と主張した。

1950年4月:海南島が中国共産党政府によって占領された。

1950年5月:

  5月6日:青海省出身の高名なゲシェ(仏教学博士)であるシェラップ・ギャッツ
  ォは、ラジオ放送を通じてチベット国民とダライ・ラマ法王に語り掛けた。チベッ
  トを『解放』するのに必要とあれば、中国は武力を使うであろうことをほのめかす
  内容であった。

  5月末には、人民解放軍とチベット人の間で最初の武力衝突が起こり、戦略的な拠
  点であるカム地方の町デンゴは中国の手に落ちた。

1950年10月:人民解放軍は、チベットに対して全面的な軍事侵攻を開始し、カム
  地方の戦略拠点都市チャムドを目指した。ここは現在は、チベット自治区に入って
  いる。

  10月10日:中国政府は、チベットに関する最初の重要な声明を発表。これが後
  に、1951年5月23日に調印された17条協定の基盤となった。この協定は、
  それ以来中国のチベット支配を正当化するために、北京によって利用されることに
  なる。

  10月19日:チャムド陥落。チャムド知事のンガポ・ンガワン・ジグメが、人民
  解放軍に降伏。

1951年11月:

  11月3日:チベット政府の支援を求める緊急アピールが、ニューヨークの国連本
  部に届いた。

  11月17日:ラサに緊張が高まる中で、ダライ・ラマ法王が16才で宗教および
  政治両面の主権を掌握。

以上

1949年から50年に中国およびチベットで発生した事件の詳細を知るには、『The Dragon in the Land of Snows: A History of Modern Tibet Since 1947』(ツェリン・シャカパ著、PimlicoおよびColumbia University Press刊)を参照。

(翻訳者 小林秀英)
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 中国国旗を引きずり降ろしたチベット人、暴行を受けて死亡

TIN News Update, 13 October 1999
Tibetan Who Lowered Chinese Flag Dies after Torture

中国国旗を引きずり降ろしたチベット人、暴行を受けて死亡

8月にラサで開催された少数民族体育大会の期間中に、ポタラ宮殿前広場の中国国旗を引きずり降ろしたチベット人が、逮捕された際に激しい殴打を受けて、病院に収容された後に死亡した。30才代の建設業者であるタシ・ツェリンは、3、4日前にラサの警察病院で死亡したと、信頼できる非公式情報筋が伝えている。彼は中国国旗を引きずり降ろし、チベットでは禁止されているチベット国旗を掲げようとして逮捕されたものである。タシ・ツェリンは、治安要員に拘束される前に、体に巻き付けた爆薬に点火して自殺しようとしたが失敗した。

タシ・ツェリンは、4、5人の治安警察官によって拘束されたが、その際激しい殴打を受けて、両手両足および腕も骨折した。信頼できる情報筋によれば、頭を車の後部に打ち付けられていたともいう。治安要員によって警察車両に引き立てられる時には、彼は歩くこともできなかった。頭部の怪我が原因で、彼は病院で死亡したと思われる。タシ・ツェリンの行動に最初に気がついた交通警官は、治安対策に貢献した功によって、政府から表彰された。

タシ・ツェリンの妻のラロンも、夫が逮捕された後に拘束されて取り調べを受けたという、複数の未確認情報もある。『分離主義』活動の証拠を握るために、彼の家は警察によって徹底した家宅捜索を受け、近所の家も警察の監視下に置かれた。

非公式情報によれば、タシ・ツェリンの複数の親戚も、8月末の彼の抗議行動の後に拘束されて取り調べを受けたという。タシ・ツェリンは、チベット自治区のロカ地区(中国語では山南地区)に生まれ、ラサに出て来て最初は大工として働いた。5年程前から建築請け負いの仕事を始め、個人の家を建築していた。タシ・ツェリンには2人の子供があり、1人は身体障害者である。彼は、セラ僧院の近くの学校のために校舎と備品を製作して、地域社会から表彰されたこともあった。ラサ市の異なった地区から選抜されて表彰された10人の中の1人で、小学校を復興した功績によるものであった。

少数民族体育大会は、『祖国統一』を宣伝するため

少数民族体育大会は、8月18日から23日まで、ラサ市内で開催された。これは中華人民共和国成立を祝う10月1日の式典に向けて、中国の民族統一を宣伝するのが狙いであった。大会の期間中、治安警備は強化され、市内の数箇所は閉鎖された。ポタラ宮殿前広場に中国国旗を象徴的に掲げる記念式典によって祝われる、国慶節を数週間後に控えて、ラサ市内の緊張は高まっていた。10月1日付けの新華社通信によれば、3千人以上の人々が式典に参加し、中国国歌を歌ったという。

ラサ市民は、政府に対して忠誠心を示すことを、年間通して要求されている。9月には10月1日の国慶節のために、愛国歌を歌うリハーサルに参加することを要求される。3月には、1959年3月10日の民族蜂起40周年を記念して、『分離主義』に反対し『祖国統一』に忠誠を誓う文書に再度署名させられる。ラサのバルコル(八角街)の世帯に回覧されている文書には、次のように書かれている。「(ラサ市民は)断固として分離主義者に対決して、政治的な忠誠心を示さなければならない。(政治的な)騒乱に加わらず、(政治的な)騒乱を見物せず、分離主義者に哀れみを示すことなく、噂を広めてもならない」

通りに軍隊と私服警官の数を増やしても、タシ・ツェリンを含めて少なくとも5人のチベット人が、過去数カ月間にチベット独立を支持し、政府に反対する抗議運動を展開した。これらの抗議運動は、これまで繰り返して『祖国の統一』を強調して来た、中国政府にとっては衝撃的なものであったようだ。「民族分離主義者たちは、すべての民族の共通の敵である。法に基づいて、極めて少数の民族分離主義者を取り締まり、民族分離主義者たちに断固たる姿勢を貫かなければならない。そして外国の敵対勢力の侵入に備え、破壊活動に対抗しなければならない」と、中国共産党の指導者江沢民は、9月29日に北京の国務院会議の基調演説で語った。(9月29日、新華社通信)

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 釈放された老師並びに
 拷問で「負傷した」学生の囚人、ロブサン・テンジンに対する危惧

TIN News Update, 14 October
Fears for Elderly Teacher after Release from Custody:
Student Detainee Lobsang Tenzin “Injured”after Torture

釈放された年輩の老師並びに
拷問を受け「負傷している」学生の囚人、ロブサン・テンジンに対する危惧

年輩のチベット人教育者で尊敬される青海省出身の学者、ギャイェ・プンツォクは6年の刑務所服役を宣告されていたが、数カ月前に治療のため仮釈放されたと伝えられている。プンツォク氏は尋問の際、虐待を受けていたという。信頼できる非公式の情報によれば、青海省のチベット族自治州、ツォロ(中国語では海南で知られる)出身のこの68歳の僧侶は、1998年8月に拘留された後、1999年7月に「国家の安定を壊した」罪で判決を受けた。ギャイェ・プンツォクは、ユネスコからの部分的な寄付により、同地域の貧困家庭のために学校を設立し、チベット語の教育に力を注いでいた。プンツォクの持ち物からダライ・ラマに関する資料などが見つかった後に拘留されたといわれている。また、伝えられるところによれば、1992年にインド訪問から戻って以来、官憲の監視下に置かれていたという。

現在インドにいる複数のチベット人からTINに寄せられた情報によると、ギャイェ・プンツォクは7月か8月に拘留を解かれ、現在、ツォロ・チベット族自治州のチャブチャ(中国語名・共和)県立病院で治療を受けているという。ある未確認情報は、この年輩の僧侶は尋問の際、数日間もの間食糧を与えられず睡眠も取らせてもらえなかったと述べている。更に、長時間の間、直立を強要されていたのではないかとしている。彼の2本の足は腫れ上がっているといい、少なくとも2件の情報が、同氏は釈放後、杖の助けなしでは歩くことができなくなってしまったと述べている。ギャイェ・プンツォクは闘争集会や拘留期間中、文革の際に受けた尻の骨の古傷に苦しんでいた可能性があるとみられるが、複数の非公式情報によれば、以前は歩行の際に杖を必要としていなかったと証言している。

生まれ故郷のツォロ(海南)チベット族自治州チャプチャ(共和)の村ギャイェにちなみ、「ギャイェ・プンツォク」の名前で知られるプンツォクは1932年、遊牧民の家庭に生まれた。ギャイェ村は青海湖(チベット語でツォンゴン、モンゴル語名ココノールで知られる)の東南端にあり、西寧から徳令哈へ向かう湖の南岸を走る道路の脇にある。ギャイェ・プンツォクは1970年代の終わりに、地元の遊牧民家庭の子供たちのために基本的な「テント学校」をつくり、教育活動を始めた。その後間もなく政府の許可のもと、遠方の子供たちも教育を受けられるように寄宿学校を創設した。チベット語と中国語の両言語を教えるほか、同地域では初めて生徒に英語を学ぶ機会を与えた学校だった。
同校は、ユネスコが一部スポンサーをしている中国青年開発財団が1989年に始めた「希望プロジェクト」運動から寄付を受けていた。1997年12月6日の新華社の報道によれば、「貧困地域の子供たちを学校に通わせる助けとなると同時にこれらの分野の初歩的な教育を発展させる」狙いがあった。

ギャイェ・プンツォクの学校に通ったある亡命チベット人はTINに対し、多くの若者がギャイェ・プンツォクから教育の恩恵を受けたと語った。「今日、我々の住む地域で多くの者が読み書きができるのは、ギャイェ・プンツォクのおかげだ」「ギャイェ・プンツォクは地域の全ての家庭を廻って、年輩の者たちに家の子供たちを学校へ行かせてやる必要を説いた」とこのチベット人はTINに語った。このチベット人によれば、この地域では距離の遠さや地元の遊牧民の伝統的な生活様式などの原因により、大抵の子供たちは学校に送られることはなかったという。

1990年代の初め、ギャイェ・プンツォクはチャプチャの新しい中学校の校長に任命された。しかし、彼は彼の建てた小学校の将来について気掛かりになり、わずか数カ月の不在の後、その古い学校へ戻り、教員として生徒と教員両方の指導に当たった。1998年に拘留される迄、ギャイェ・プンツォクはそこで教員として人々に覚えられていた。彼の不在で、学校の教育水準に支障が出ているのではとの懸念が上がっている。

ギャイェ・プンツォクは地元で非宗教者、宗教者の両方として尊敬されており、政府に対して直接的に妨害するような反対活動を行ったことは一度もなく、地域社会に影響を及ぼすような事柄について必要であれば、高度な次元で抗議を行うような人物だったという。1980年代の初め、彼は地元住民と同地域に駐留していた軍人との間に起こった紛争を成功裏に解決したことに関与した。蘭州の軍部隊がギャイェ村の牧草地数百ヘクタールを部隊使用のために占有したため、地元住民の反発を買い紛争の雰囲気をつくってしまったのだった。ギャイェ・プンツォクは青海省の役人らと話し合ったが、何の進展も得られなかったという。そこで、ギャイェ・プンツォクは苦情を申し立てるため北京へ行った。「彼は4人の遊牧民を連れて北京に行き、なんとか軍の上官に会うことができた」とギャイェ・プンツォクの友人である亡命チベット人がTINに語った。「その上官はギャイェ・プンツォクから彼ら遊牧民の生活がどんなに困難であるか説明を受けて、非常に心を動かされた。そしてついに、土地の少なくとも半分は返されるという約束にまで漕ぎ着けた」。

1980年、ギャイェ・プンツォクはチベットを訪問した中国共産党総書記の胡耀邦と面会した。胡耀邦は中国共産党がチベットで行った行動について、チベット人に対して公式に謝罪した唯一の中国人指導者として、チベット人の間で知られている。胡耀邦は地域の状況を視察するため青海省を訪れた。「ギャイェ・プンツォクは胡耀邦に対し、同地の遊牧民の生活の実情、彼らの生活が容易ではないことを述べた」と、前出のチベット人は語っている。「その他の役人たちは、状況は良好であると述べたのだが、ギャイェ・プンツォクだけが率直に意見を述べた。彼は非常に真っ正直な人物である」。ギャイェ・プンツォクが現在もまだ、中国政治協商会議の委員であるかどうか、もしくは拘留によって委員を剥奪されたかどうかについては分かっていない。ギャイェ・プンツォクはまた、パンチェン・ラマ10世の側近でもあり、幼い頃にツォシャル(海東)地区のバヤンカル(化隆)回族自治県のディツァ僧院にもいたことがある。1992年にインドを巡礼し、戻ってからは、青海湖の中にある島に巨大なチョルテン(ストゥーパ、聖なる遺品を納める建築物)を建立するのに尽力した。ギャイェ・プンツォクのインド訪問は、インド訪問から戻るチベット人らの行動を監視する当局の関心をひいたと伝えられる。彼は地元当局というよりは青海省公安局員によって逮捕されたと伝えられる。これは、この事件が深刻な政治的な性質であったことを明らかにしている。

青海省公安委員会は「非合法で出入国する」チベット人の数について、特に憂慮している。青海省のある県の1996年度の省公安局の記録によれば、僧侶はチベット人を代表して青海省を出て頻繁にインドへ旅行するのだという。TINが把握していることは、僧侶は通常、ダライ・ラマの法話会に参加するためや、青海省の宗教への制約から逃れて各々の宗教的修行を行うためにインドを訪れている。この省公安局の記録は、僧がチベットを出国するのは「ダライ一派」と協力して「諜報活動を行う」ためであると主張している。同記録はさらに、亡命したチベット人に対しても監視が続くことを確認している。

チベット人権民主センターによると、ギャイェ・プンツォクは服役の後に釈放されると、この老僧はチャブチャ・西寧にあるギャイェに引きこもっていた。複数の未確認情報によれば、彼の拘留中、家族らは面会を許されず、また彼の消息を知ることも禁止され、さらには食糧や衣服をあげることもできなかった。TINが得た非公式の情報によると、当局は地元民に対し、ギャイェ・プンツォクの所有物から爆発物が発見されたと述べ、彼がキリスト教を広めるために外国の伝道者を密かに手引きしていたと説明した。こうした噂は、同地域でのこの老師の人気を損ねようとの当局の狙いがあるのかもしれない。

ギャイェ・プンツォクを知るチベット人らは、彼は教育や宗教活動によってチベット文化の保護に精力を傾けた誠実で高貴な人物だという。同地域出身のある亡命チベット人は、この年輩の師が捕まって以来、多くのチベット人が「両親のいない子供のよう」になってしまったと述べている。「彼らはまるで、生命の水を与えられずにいる芽を出しかけの植物のようだ。将来、果実を実らせることも、できないだろう」と彼は付け加えた。

拷問がつづくロブサン・テンジンへの危惧

1988年4月に捕まった後、コンポ(中国語では林芝で知られる)にあるチベット自治区内でナンバー2の刑務所、ポウォ・タモ刑務所で終身刑に服役している西蔵大学の元学生、33歳のロブサン・テンジンの健康状態が、深刻に憂慮されている。ある信頼できる非公式の情報筋によれば、1991年3月に死刑から終身刑に減刑されたロブサン・テンジンは「真っ直ぐ立つことができない」といい、また、刑務所内で課せられた労働もできないという。彼の健康状態の劣化は、拷問や劣悪な刑務所の環境、医療手当の欠如などによるものだと、この情報筋は指摘し、ロブサン・テンジンが両足に受けた損傷に永久的に苦しまなくてはならないのではないか、あるいは身体障害者になってしまうのではないか、と危惧している。同筋は、ロブサン・テンジンは刑務所内であらゆる抗議活動に関与したことで被ったひどい拷問から回復することはなかったと指摘している。

ロブサン・テンジンは1988年3月にラサで行われた独立デモ中に人民解放軍の警官、Yuan Shishengを殺害した主犯の罪に問われた。ロブサン・テンジンと共に同事件の裁判にかけられた44歳の元囚人、ソナム・ワンドゥは拷問のために下半身が麻痺していたが、今年初頭に亡くなった。ロブサン・テンジンは拘留に続き、手と足に枷をはめられた状態で、小さなじめじめした独房に18カ月間監禁された。ロブサン・テンジンは、拘留中、刑務所内における政治的抗議に参加した後、ひどい殴打を受けた。その政治的抗議の中には、1991年にラサのダプチ刑務所を訪問したジェームズ・リリー米国駐中大使に手紙を渡そうとしたことも含まれている。彼はこの事件の後、ポウォ・タモ刑務所に移された。そこで彼は健康状態が良くないにも拘らず、苛酷な労働を強いられたと伝えられる。

ロブサン・テンジンは1988年に初めて拘留されて以来ずっと、当局に対して挑戦し続けてきた。1989年に彼は、独立デモを支持すると表明した手紙をラサの彼の大学の学生らに宛てて書いた。「私はずっと、私の身体の中で盛んに燃えさかる怒りの炎の煙を抑えようとしてきた」、ロブサン・テンジンは、刑務所内部から外へ持ち出されたその手紙の中でこのように書いている。「しかしあの時、中国人が私を逮捕するだろうということを知りながらも、何年もの間私が抱えてきた強い気持ちを表現する必要があった。これが、私が3月5日のデモに参加した理由だ」。若いチベット人の学生、ラクパ・ツェリンが、劣悪な扱いによって1990年にダプチ刑務所で死亡した時、ロブサン・テンジンはラクパ・ツェリンの死に関心を持つ政治囚たちが率いたデモに関与した。ある元政治囚によれば、僧侶のパルデン・ギャツオとロブサン・テンジンは刑務所の役人に対し、ラクパ・ツェリンの身に何が起こったのか、また、ラクパ・ツェリンが受けた殴打についての詳細な説明を求め立ち向かったという。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)

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 ラサの刑務所拡充 : 写真が示す囚人増加とダプチ刑務所内の新工場

TIN News Update, 27 October 1999
New Prison Capacity in Lhasa : Photographs Indicate Increase in Proisoners
and New Factory Inside Drapchi

ラサの刑務所拡充 : 写真が示す囚人増加とダプチ刑務所内の新工場

チベット自治区最大の刑務所は、ダプチ刑務所と呼ばれている。この刑務所を含めて、ラサ市内の2カ所の主要な刑務所が拡充された。これは収容能力の増大と、刑務所の経済的な利用価値を高めるためである。TINが入手した新施設の写真から判断すれば、2つの生産部門からなる新セメント工場がダプチ刑務所内に開業した。これは、1992年に国内外の資本投資を呼び込むために、ラサ市が経済特区に指定されてからのことである。チベットの経済発展のために囚人労働力を使うことは、チベット自治区で公式に発表されていることである。

TINのホームページで確認することのできる写真(http://www.tibetoinfo.net/news-updates)は、次に述べるようなチベットの刑務所拡充の証拠である。

☆ラサ北東の郊外に位置するサンイプ公安施設内にある、ウディトゥ(五治隊)刑務所
 に新たに独房棟が建設された。この独房棟が全室に囚人を収容するようになれば、収
 容人員は1997年度に比べても倍増すると推定される。

☆サンイプ公安施設の政治犯拘置所および取り調べ棟の隣接地に、今年新たに刑務所施
 設が建設された。この施設は、1997年夏に、完成間近となっていたものである。

☆サンイプ公安施設内に、人民武装警察隊の訓練施設が新たに建設された。兵舎と訓練
 用の広場が、これまで農業地として使われていた空き地に作られた。

☆ダプチ刑務所のコンクリート作りの巨大な複合ビルの正面に、新たに3階建の独房棟
 が建設された。

☆ダプチ刑務所内にある2カ所のセメント工場が拡充された。また新たに温室が建てら
 れ、政治囚たちがしばしばここで働かされている。

ダプチ刑務所の拡充

今年西洋人観光客によって撮影された写真に基づけば、ダプチ刑務所内に建設中であった新セメント工場は完成している。1993年の冬に、チベット自治区の法律学校の建物を取り壊し、そこに工場1棟の建設が始まっていた。その後もう1棟が、野菜畑として使われていた土地に建設された。また刑務所施設の北西区画に、新たに独房棟が建設された。ここに収容されている囚人たちが、2カ所の工場で働かされている。

最初のセメント工場は、ダプチ刑務所の隣に1992年に建設された。この年に、ラサ市は経済特区に指定された。これは経済改革の速度を上げ、観光開発を行い、外国の投資にこの地を開放せよというシグナルであった。この最初の工場は、元『チベット自治区車両修理センター』の跡地に建設された。工場の周囲を取り巻く塀の高さも低く、工場と刑務所をつなぐ通路もなかったことから、囚人労働力を使うために作られたものでなかったことが判る。しかしながら、他の2カ所の施設や刑務所と近接していることから、人民武装警察隊によって経営されていることが判る。刑務所産業あるいは刑務所生産施設というようなものである。車両修理工場は人民武装警察隊の公営企業であり、青海省の西寧市のナンシャン近くのラオカイ(労働改造収容所)では、車両修理の作業に囚人労働力が使われている。

100人以上の囚人が、ダプチ刑務所の北の区画に位置する、セメント第2工場の2つの区画で働かされている。信頼できる非公式情報筋によれば、これらの囚人のうち数人が政治囚である。また同情報筋は、工場内の作業は苛酷でケガをする危険性もあり、セメントの粉塵や生産過程で使われる化学物質を浴びることによって、健康障害を受ける危険性も高いと語っている。しかしながら、この作業に従事して入る囚人たちが与えられる食事は、他の作業に従事している囚人たちに比べると、概してましであるという。

工場は1日のノルマを課せられており、8時間交替制で24時間操業を続けているという。月末には、その月のノルマ以上の生産を達成した囚人には、62元(7.5ドル、787円)の褒賞金が与えられる。また早期釈放を願う囚人たちにとっても、温室内の労働等の他の作業よりも、このセメント工場の作業の方が生産得点を挙げ易い。

刑務所施設の写真を判読すると、ダプチ刑務所内の温室作業場は、北にあるセメント工場の方向へ増築されている。多くの元囚人たちが、ダプチ刑務所の温室作業場で働かされたことがある、と語っている。生産目標を与えられるが、通常それはとても高いという。温室内の温度は極端に高く、耐え難い環境である。「囚人たちが働けないと言うと、殴られて脅された」と、元囚人の1人がTINに語っている。別の元囚人も、多くの囚人が殺虫剤を吸い込んだり、長時間温室内で働いたために病気になった、と語っている。デプン僧院の29才の僧侶ンガワン・クンガは、1993年に身体マヒとなって、ダプチ刑務所から釈放された。彼は、ダプチ刑務所の温室作業場で過度の殺虫剤に曝されたために、病気になったものと思われる。

チベット自治区の労働改造局が、1988年10月に発行した『刑務所規則10カ条』の第8条は、労働は囚人にとって義務であると告げて、次のように言っている。「囚人労働者諸君は、労働と生産に積極的に取り組み、生産業務の達成を保証しなければならない」。チベット地域の経済発展には、囚人労働力を使うことが地方政府によって認められている。4月初旬ラサで、囚人労働に関する地域会議が開かれた。4月8日に放送された西蔵テレビによれば、チベット自治区副主席のロプサン・ドゥンドゥプは、チベット自治区の刑務所は「社会安定の維持と、チベットの経済発展を推進するという点で」多大な貢献をしていると語っている。副主席はさらに、「囚人労働者諸君は実直で、自信にあふれ、困難にも立ち向かい、使命を自覚し、その使命を効率的に果たして、社会と政治状況の安定と、この地域の経済発展に貢献しなければならない」と激励した。

ラサ経済特区は、建設とインフラ整備のためには、積極的に外国資本を勧誘している。ラサ市内のダプチ刑務所や他の拘置所は、基礎資材を生産するために囚人労働力を使っている。こうして生産された基礎資材は、インフラ整備に回され、それが巡り巡って地下資源や森林資源の開発と、都市部の企業の発展に寄与するのである。ダプチ刑務所内のセメント生産と、外国資本を基盤にして都市部で進められている様々なプロジェクトの間に、直接的なつながりがあるか否かは定かではないものの、ダプチ刑務所のセメント工場が、現在都市部で起こっている建設ブームに、積極的にセメントを提供していることは間違いがない。

囚人労働力と地元の経済市場の結び付きは、チベット自治区以外のチベット領域でも、地元経済にとって重要な意味を持っている。青海日報の記事が、青海省刑務所労働会議について報じているところによれば、青海省の刑務所全体で1998年には65万トンの穀物と植物油を採る作物を生産した。また「国内資金を注入し、外国との合弁事業を起こす方向で、(刑務所が)積極的な役割を果して行く」とも報じている。青海省刑務所管理局は、「囚人全員の協力と勤勉」のお陰で、1998年には「総額1千万元(1200万ドル、12億6千万円)の赤字を解消することができたと、2月24日付けの記事は報じている。現在青海省にはおよそ19カ所のラオカイ(労働改造収容所)が存在し、実質的な強制労働が行われている。その内の12カ所は、西寧市近郊にあると、ジェームズ・セイマールとリチャード・アンダーソンの共著『新幽霊と古幽霊:中国の刑務所と労働改造収容所(New Ghosts, Old Ghosts:Prisons and Labor Reform Camps in China)』は伝えている。この12カ所の労働改造収容所企業グループは、木材、鋼材、プラスチック製品、衣服、皮革製品、水力発電設備まで製作している。

新集会場が刑務所内の抗議運動の舞台に

写真から判読すると、ダプチ刑務所の中で平屋建の独房5棟が壊されて、新たに北向きの3階建の独房棟が建設された。その北端には、大きなコンクリート製の集会場がある。ダプチ刑務所の独房棟の正面に、コンクリート製の集会場があるということは、多数の囚人を一カ所に集合させる施設を持っているということである。これは1998年5月1日と4日に、集会場に数百人の囚人が集合させられたという説明と一致する。このとき政治囚も刑事囚も加わって、独立要求とダライ・ラマ法王支持のスローガンを叫んだという。この抗議運動に対する報復の結果、尼僧6人、僧侶4人、一般人1人が死亡した。チベット自治区政府は後に、看守がこの抗議運動の際に空に向けて発砲したことを認めた。非公式報告によれば、このとき少なくとも僧侶1人が射殺された。しかし3階建の建物が障害物となって、この騒音も刑務所の南側の通りまで届かなかった。TINが収集した情報では、この抗議運動の最中に銃の射撃音を聞いたとの報告はなかった。

独房棟の建設は、1998年初期に実施されたダプチ刑務所の名称変更と組織改編に関係があると思われる。TINが収集した情報では、男性と女性の政治囚を収容する2区画(第3区画と第5区画)は、それぞれ2つの部分に分割された。その結果、区画数は全部で5区画から9区画に増えている。これらの新区画の設立は、政治囚たちが刑務所の管理棟に近付かないようにするためで、彼らを管理し易くするための工夫である。また大規模な抗議運動が、発生し難くするためでもあると思われる。ある情報筋がTINに語ったところによれば、「これまでは女性の政治囚は、第3区画に収容されたいた。現在はこの区画は改装されて、女性の政治囚たちは第6区画と第7区画に収容されている。また第8区画と第9区画は、男性の政治囚の収容施設となっている」という。1990年初頭に第3区画と第5区画が設立されて以来、1998年初頭に第6区画、第7区画、第8区画、第9区画が設立されるまでに、収容されている囚人数は倍以上に増えている。

ウディトゥ(五治隊)刑務所の囚人数倍増、サンイプ公安施設内に新刑務所

観光客が撮影した写真からは、ラサの北東の郊外にあるサンイプ公安施設内のウディトゥ刑務所の中に、3区画から成る新独房棟が建設されているのが判る。新独房棟の外観から、2階建てだと思われる。これは1997年以降、ウディトゥ刑務所は『ラサ刑務所』と名称変更になったという情報とも符合する。この独房棟は、元々4棟あったウディトゥ刑務所の独房棟の隣接地に建てられている。その内の1棟は既に解体された。もし残った独房棟が全て使われているとすると、収容されている囚人数は1997年当時の倍となる。TINが過去において最新の写真として所有していたのは、1997年の当時のものである。

1997年夏に殆ど完成していたサンイプ公安施設内の『政治犯拘留および取り調べセンター』の隣接地に、あるいはその増築施設として、もう少し小さい刑務所が最近完成した。前者の公安施設は、政治的な理由で拘束された人々を取り調べるための施設である。新たに完成した刑務所の南東の角に、少なくとも1棟、恐らくは2棟の独房棟が、取り調べセンターの北西の角と背中合わせに建っている。軍事教練場と思しき広場の近くには新しい門が、2つの刑務所をつなぐ通りに面して作られた。この通りはまた、兵舎とガレージを区分けしながら、2カ所の教練施設をつないでいる。
教練場の南側には、およそ15棟の建物が見受けられる。広場には、訓練に使用する模擬建物が見える。12棟の建物は4区画に分けられており、各区画にはそれぞれ3棟が配置されている。2階建の建物は、おそらく兵員用の建物だと思われ、教室や管理のために使用されている。1階建の建物には煙突があり、台所とユーティリティ・スペイスとして使われていると思われる。もう1つの2階建の建物の1階部分には、大きなガレージがある。写真から判定すれば、このガレージには32台の車両が収容可能で、入り口の形状から見て、車両がそれ程頻繁には出入りをしないようである。車両の形式まで判定するのは難しいが、一般的なトラックや消防車といったものではなさそうである。4区画の外れには大きな建物があるが、これは室内訓練施設として使われたり、車庫としても使われるのであろう。建物の大きさと外観は、講堂や集会場に近い。こういったことから、この施設全体の重要性が窺われる。この巨大な建物には、2階建の兵舎と1階建の台所・ユーティリティ部分が付属している。

この新たに開発された区域は、比較的辺鄙なところにあり、他の人民武装警察隊の施設や公安関係者の施設に取り囲まれている。車両があることや、軍事訓練用の模擬建物がありまた兵舎があることから、この施設は人民武装警察隊の訓練所か、暴動鎮圧用の特別部隊が駐屯しているのであろう。おそらくは、ラサ市に向けたものか、市内の刑務所に向けられた施設であろう。

人民武装警察隊の訓練学校が、新たに1996年5月に設立された。ラサ武装警察幹部学校という名称で、「チベットの社会安定を守り、分離主義者と戦う」ための訓練校であると西蔵日報が報じていると、1996年5月19日付けのサウス・チャイナ・モーニング・ポスト紙は伝えている。写真に写っている施設が、そのラサ武装警察幹部学校であるのか否かは、TINはまだ確認できていない。しかし、この施設の外観は武装警察隊の訓練施設と一致している。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 人口移転政策
  海東地区と海西州の民族学的・歴史的研究

TIN Special Report, 28 October 1999
The Politics of Population Transfer

人口移転政策
海東地区と海西州の民族学的・歴史的研究

世界銀行の調査パネルは先週、問題となっている中国西部貧困緩和プロジェクトについての現地調査を終えて青海省から帰国した。このプロジェクトは、58,000人近くの貧しい農民を海西(チベット語:ツォヌプ)モンゴル族チベット族自治州の都蘭県(トゥラン)へ移住させるというもの。パネルによる現地訪問の主な目的は、移住が実行された場合に影響を受ける現地の人々に会うことである。8月には、この世銀プロジェクトを調査した2人の欧米人とチベット人通訳が拘束され(後に釈放された)、このプロジェクトの意味あいに国際的な注目が集まった。このプロジェクトは、貸付総額1億6,000万ドルのうち4,000万ドルを、主に漢族と回族からなる農民を、青海省の伝統的にモンゴル族とチベット族の住む地域へ移住させるために融資しようというもの。世界銀行理事会は原則的にこの貸付を承認したものの、最終的な決定は、世銀理事3人で構成する現地調査組織である調査パネルの結論に従うことになった。調査パネルはその調査を12月に終えると見られている。

本TIN特別報告は、CD-ROM“Tibet Outside the TAR”の共著作者であるオーストラリア人研究者Susette Cooke博士によるもので、この世界銀行プロジェクト案が提起した問題についての一連の報告の第3部である。本報告は、中国西部貧困緩和プロジェクトが、現地の居住環境を組みかえよることを意図する中国の政策や開発パターンといかに緊密に結びついているかを探っている。また本報告は、もとはといえば満州皇帝が考案し、50年前に人民解放軍がこの地に到達するまで採用されなかった「青海」という地理的・文化的概念にさかのぼって、それらの政策の由来を探る。

西の海の地:青海の概観

青海省は、723,700平方キロにおよぶ平均海抜4,000m以上の青海チベット高原の北半分を占める。青海省は、東部を除いて山地に囲まれ山脈が連なるが、西部には広大な塩沢と半砂漠の放牧地、低地ツァイダム盆地がある。青海の名は当地で最も有名な地理的特徴に由来する。それは、しばしばモンゴル語名で「ココノール」とも称される(チベット語ではツォンゴン)、北東の隅にある巨大な塩湖、青海湖である。

省全土にわたって、その高い海抜と寒冷な放牧地で土着の住民に可能だったのは、現地における唯一の自然な経済形態である遊牧的牧畜のみである。青海のうち農業に適した地域は、湟水盆地の東部と西寧の南約70kmの黄河の大屈曲部に広がる土地である。したがって、青海のほとんどは中国式の農耕には適さない地理的環境からなっており、50年前までは、現地の中国人人口はほとんど青海の東の淵に限られていたのが特徴だった。

中国人が「青海」(「青い湖」を意味する)という呼び名を、この地を指す一般的な名称として使ったのは、遅くとも11世紀以来のことだ。それまで彼らはその湖を「西海」と呼んでいた。彼らの領土の西端にあるからである。チベット人はこの地域を、今も伝統的なチベット名でアムドと呼んでいる。モンゴル人は一般に、東部と西部を指して、ココノールとチャイダムという名前を使っている。

地理的にも文化的にも、そして、人口の民族構成という点からも、現在青海省と呼ばれている場所は、常に中国文明の本流からは外れたところにあった。この地域が自主的に一省になったのは、ようやく1929年のことだ。この時、歴史上はじめて、一政治体として組織されたのである。1929年以前、この地域の自己認識は多様で、場所によってまちまちであり、省の境界線には左右されない歴史的、民族的、文化的、政治的特徴によって生じていた。

清代末期の1911年、青海は2つに分けられた。東部、すなわち現在でいう湟水盆地の西寧・海東地域にほぼ相当する一帯は、直接中国政府に支配された。民族混住地域となったものの、漢族が適度に多数派を占めていた。この小さな地域は甘粛省管轄の一単位となり、その地位は、1929年に中国の国民党政府によって青海省が成立するまで続いた。それ以外の、中国が直接支配しなかった広大な地域では、チベット人とモンゴル人住民が、氏族や地縁、あるいは民族文化や宗教信仰、そして通常はそれらが組み合わさった特徴に、アイデンティティを見いだしていた。過去3,000年にわたって青海には遊牧民系の人々が暮らしていたが、7世紀にはチベット人が、13世紀以降は流入してきたモンゴル人が、ほとんどの地域において人口面、文化面で支配層となった。今世紀になるまで、西寧・海東地域以外に中国人の力が及んだことはなかった。西寧・海東地域では、紀元前111年に漢代の最初の軍の駐屯地が置かれて以来、8世紀から12世紀初頭にかけて400年間にわたるチベット人支配によって中断された以外は、中国が何らかの形の辺境管理を維持していた。

中国によって支配された青海東端での入植は、漢族と回族が人口的に多数派となる基盤をつくった明代(1368〜1644)に著しくなった。実際に多数派となったのは清代(1644〜1911)中期から後期にかけてであったが、当時はそれでもなおチベット人は現地人口の相当部分を占めてはいた。清政府の西寧府以外には、中国人居住地は存在しなかった。1723年にチベット人とモンゴル人による大規模な反清朝反乱が起こると、清朝は国境の安定を維持し、潜在的な敵対勢力を分断するために古典的な中国式の制度を導入した。すなわち、各地の族長を清朝の西寧駐在官僚である安班に従属させるというものだ。理屈の上では青海における清朝の保護領となったに等しいが、実際には、氏族長や遊牧民の族長といった土着の指導者による支配に実質的な影響を与えないという外交措置として機能したのである。しかし、この措置は、清朝にとって、彼らが必要と判断するのなら介入できるという仕組みであった。

中華民国は青海を、住民が共通のアイデンティティをもつ、統合された、あるいは、機能的な政治単位としては受け継がなかった。ややこしいことに、ほとんどすぐに地元の回族の首長である馬(マー)一族が、西寧における清朝政府の実権を奪い、チベット人の領域にまで政治的・経済的支配を拡大しようとした。1929年に青海省が公式に成立したとき、中国の行政職が存在したことのなかった一部地域を支配する核として、いくつか新たな国がつくられたが、西寧・海東以外の地域は中華民国時代を通じて事実上混沌とした状態のままだった。チベット人とモンゴル人は、彼らの領地への馬政権の攻撃的な侵攻に対して武力による抵抗で応酬した。1936年以来青海の首長であった、徹底した反共主義者の馬歩芳は、国共内戦では自分の領地の権益を守ろうとして国民党と同盟を組んだ。しかし、彼の強大な軍隊も、人民解放軍が青海に進出し、1949年9月に西寧を制圧するのを妨げることはできなかった。

中華人民共和国下の青海

人民解放軍が到着すると、青海は一つの行政単位として機能しなければならなくなった。東部においてさえ民政はほとんど実施されず、青海は数年間にわたって実質的に西北軍事管理委員会の管理下にあった。現地の馬支持者たちは、チベット人もモンゴル人もカザフ人も1952年まで人民解放軍に対して武装抵抗を続けたが、1954年までには新しい中華人民共和国が青海における政治的管理のための主要な単位を確立した。これらの単位は、彼らなりに、現地の人口構成を反映していた。青海の98%は、海北(ツォチャン)、海南(ツォロ)、黄南(マロ)、果洛(ゴロク)、玉樹という5つのチベット族自治州と、海西(ツォヌプ)モンゴル族チベット族カザフ族自治州に分けられた。

残りの2%は、西寧市と、現在の海東地区にある各県からなる。この2%は、漢族、回族、チベット族、トゥ族、サラール族の混住地域である。西寧・海東以外の青海の北部・西部・南部では、チベット人とモンゴル人人口がまだ圧倒的に多かった。

中国による1950年以降の青海開発は、農業のために土地を開拓し、豊富な天然資源を採取するための中国内地からの人口導入に多くを依存している。特に1980年代以前には、労改(労働を通した教化)制度や人民解放軍がこれらの計画において中心的な役割を果たした。1949年の青海の推定人口は1,483,300人(1993年の青海省の統計年間による)だったのに対し、1996年の公式の人口は4,880,000人(1997年の中国の統計年鑑)に増加した。そのうち65%は、面積的には全省の2%である西寧・海東地区に集中している。

海東と海西:人口と地理

懸案の世界銀行の中国西部貧困緩和プロジェクトの青海部分は、青海省の2つの州レベルの行政単位に影響を与える。約58,000人の移住者の「転入」予定地域を有するのは、海西モンゴル族チベット族自治州にある、世界銀行によると52,669人の人口を擁するドゥラン(都蘭)県である。全員が極貧の農民とされている移住予定者が現在住む「転出」地域は6つの県。1つは西寧市下にあり、残りの5県は海東地区にある。移住することになる者のほとんどは漢族かイスラム教徒である回族である。

海東地区(チベット語でツォシャル=「湖の東」)と海西州(チベット語でツォヌプ=「湖の西」)は、青海省の北東の端に位置し、その名が示す通り、青海湖によって地理的に分けられている。面積でいうと、海東地区は全省の2%程度と州レベルでは最小の行政単位。一方、海西州は最大である。

海西州は、乾燥して荒れ果てたチャイダム盆地からなり、そこでは今日にいたるまで、モンゴル人とチベット人牧民が、唯一の土着の経済形態として遊牧的牧畜業を行なっている。海西モンゴル族チベット族自治州は青海省全土の45%もの面積を占めているが、公式の数字では7%の人口を占めるにすぎない。今世紀の人口比率の変化によって、現在は76%が漢族、10%がチベット族、7%がモンゴル族、5%が回族となっている。海東地区の人口密度は海西州の100倍以上である(海東では1平方キロあたり116人、海西では1人。1994年の統計による)。西寧市はさらに人口密度が高く、1994年には1平方キロあたり337人となっている。

海東地区は概ね湟水盆地に広がっており、その好立地は長年にわたって、小規模な町や村に定住する農耕民を支えてきた。しかし、現在では深刻な人口過密と土地の荒廃にみまわれている。海東地区は全省人口の42%を擁する。1990年の国勢調査(中国における直近10年の国勢調査)によると、人口の65%が漢族、17%が回族、8.5%がチベット族、5.5%がトゥ族、3.7%がサラール族となっている。

新たな政治単位:海東地区の位置

海東地区は青海省における唯一の非民族自治州である。しかし、8つの県のうち半数は民族自治県となっている。互助土族自治県、化隆回族自治県、民和回族土族自治県、循化サラール族自治県である。西寧市にも大通回族土族自治県がある。

海東地区が1,000年以上にわたってチベット文化圏であり、チベット人の住む範囲であり、そして、今なお175,000人のチベット人を擁するにもかかわらず、チベット族自治地域に指定されている県が1つもないことは注目に値する。海東地区は1987年、それまで西寧管轄下にあった各県によって成立した。1990年までに海東地区は200万人の公式人口を抱えるようになり、チベット人はその9%に満たない。1990年の中国人口統計によると、西寧市・海東地区を合わせた人口は300万人に上り、青海全省の65%を占める。

海東地区は、西寧市およびその下にある大通回族自治県とともに、長期間にわたって一貫して中国支配下にある唯一の地域であり、青海省において1949年以前に中国人人口が多数派であった唯一の地域である。2,000年前に湟水盆地に最初の中国の植民地が作られて以来、一時期中断したことはあったものの、遠く離れた、しかし、戦略的に重要な中国の国境政体として機能しているのだ。この地が民族混住地域となった基盤は羌族の時代につくられた。そのアイデンティティはその後消え去り、チベット族やトゥ族による歴史的な侵入や移住、そして、開拓兵を入植させて農地などの土地を守らせる中国式の計画的な植民地政策によって塗り替えられた。明代には、植民地化に支えられて当地の中国の国境防備が強化され、海東を中国の政治体制と、弱々しくはあったものの、かろうじて結びつけた。明代を通じて、西寧・海東は常に、広大な青海に住むチベット人やモンゴル人の攻撃にさらされていた。彼らは自分たちの領域へのそれ以上の中国の勢力拡大を恐れていたからである。西寧・海東以外に中国の管理が及んだ唯一の場所は、1380年に甘粛省出身の中国人200人が移住した海南州(ツォロ)の貴徳(ティカ)居留地だった。

清朝は1644年、チベット人やモンゴル人、そして西寧に定住しはじめていた回族からの抵抗はあったものの、明朝の地位を受け継いだ。満州族皇帝の下、清朝による西寧・海東の支配は、漢族と回族人口が増加するにつれて強化された。しかしそれでも、二重支配のシステムのままだった。先住チベット人たちは事実上彼ら自身の氏族長の指導の下で暮らしていた。清朝は、1723年の大規模な反清朝動乱の後、彼らを「土司」制度と呼ばれる現地族長の管理下に置いた。19世紀終盤に起こった破壊的なイスラム教徒による反乱は、西寧・海東を含む中国西北部全体に影響を及ぼし、多大な人口減少を招いたが、西寧・海東における民族分布をも変えた。反乱が鎮圧されると、もともと都市部に暮らしていた回族は、すでに漢族とチベット族が独自に形成していた、より貧しい農村に移住することを余儀なくされた。中国の歴史文献が指摘するところによると、これら西寧・海東の回族農民移住者や漢族たちは、貧しくはあったものの中華民国時代に人口を増やしつづけた。しかし、強制移住させられた数百人を除けば、漢族と回族が、経済的にも文化的にも、そして政治的にも異質である、青海のそれ以外の地域に移住した例は、わずかであった。

西寧・海東は、1929年に青海省が成立すると、甘粛から切り離され、続いて新しい政治単位の一部となった。しかし、省政府の、正確には事実上、馬政権の直接的かつ実質的な支配下にあった新たな青海省の地域は、西寧と海東だけであった。1931年、西寧・海東地域での土司制度が廃止され、数世紀におよぶ二重支配体制とそのあいまいさが終わりを迎えた。青海の他の地域では、馬麒とその後裔である馬歩芳がいくつかの新しい国や駐屯地をつくり、兵士や商人をこうした出先機関に派遣したものの、永住する者はごくわずかだった。

中国的特徴をもった開発

1949年9月、西寧に到達した共産党は、最も中国化されていた西寧・海東各県の支配権をたいした問題もなく手中に納めることができた。いまだチベット人が多数派だった海東周辺部と他の青海地域では、共産党は数年間は支配を確立することができなかった。しかし、西寧・海東のほとんどで、彼らは人口増加と農工業拡大のための開発計画を速やかに実行に移した。

中国東部からの強制的あるいは自発的な移民は、1950年代に25万人の新たな人口を青海にもたらしたであろう。その多くは西寧・海東の、特に都市部に居を構えた。James D SeymourとRichard Andersonが著書『New Ghosts, Old Ghosts: Prisons and Labour Reform』(M.E. Sharpe, New York)で明らかにした調査によると、新たな政府は西寧の大きさを5倍にするよう計画した。こういった開発は都市部の資源を急速に浪費し、その結果として都市居住者を、現存する、または開拓した農耕地帯に再移住させることになり、農村部の人口を膨張させることになった。1949年から1990年の間に、西寧・海東地区を合わせた人口は、100人弱から300万人に増加した。これは、同じ時期の中国の人口増加率を上回っている。

1959年から61年の「大躍進」によって起こった飢餓は青海では破壊的なものとなった。1993年の青海省の統計年鑑によると、青海省の人口は2,600,100人から2,114,200人に減少した。海東では特に破壊的であった。しかし、Nan Wenyuan氏が『イスラム教徒と西北ムスリム社会生活』(1994年、青海人民出版社刊)で明らかにした研究によると、1960年代と1970年代に入って農業が復興し、新たな移民政策が取られると、この地域は1980年代までに深刻な人口増加と土地問題を経験し始めることになる。

1980年代中盤、改革時代の大らかな政策が勢いづくと、経済移民の波が、さらに多く中国全土からの移民を現在過密状態の西寧・海東地域にもたらした。特に農村部での回族人口は、産児制限によっても安定する様子がない。産児制限は特に彼らの間では失敗している。

西寧・海東における人口過密と土地の荒廃は、中華人民共和国建国の時点では問題となる水準までは達していなかった。その後、強制的なものや奨励されたり自発的なものを含む移民などの開発政策によって問題が深刻になった。したがって、西寧・海東は、1949 年以来すでにある程度の人口統計的な再構成を経験している。さらに深刻な再構成が起こったのは、特に海西など西寧・海東以外の地域である。

海西州における転換

中華人民共和国政府は海西を手に入れると、ただちに開発計画を導入した。西北軍事管理委員会が青海で取った最初の行動は、農地となりうる場所を求めて、人口が希薄で過酷なツァイダム盆地を調査するために人民解放軍の遠征隊を派遣することだった。これらは、続いてツァイダムに期待される鉱物資源の開発のための支援基地として必要とされることになっていた。1950年代には、中国東部からの政治囚が多く送られた青海西部の強制労働キャンプが、この地域での入植の核となった。1949年に共産党が省都西寧から馬・国民党勢力を駆逐したとき、現在の海西州にあたる地域にあった唯一の政府の居留地が、海西の東端にあるウラン(後にトゥランと呼ばれる)にあった。中国東部からの何万人もの囚人と兵士、都市部からの若い移民を受け容れることによって、新しい中国政府は青海西部に、かつて前例のない新しい町の管理機構と通信網を建設し始めた。

1960年までに、当時「海西モンゴル族チベット族カザフ族自治州」と呼ばれた行政単位が確立された。この州は烏蘭(ウラン)、都蘭(トゥラン)、徳令哈(デリンハ)、そして天峻(チベット語でテムチェン)の4県から構成され、ずっと西には茫崖特別行政区があった。行政機構は続く数十年の間に変化しつづけた。1985年にはカザフ族が新疆に移住させられて、現在と同じ「海西モンゴル族チベット族自治州」という単位になった。このことは、状況に応じて名称が簡単に変えられるということを示している。ゴルムドとデリンハは、もともとは、ほとんど囚人労働者によって農業基地として開発されたが、規模の拡大や経済的な成功によって、西寧市と並んで、青海省に3つ制定されている行政区分「市」の2つとなった。州都デリンハはゴルムドほど大きくもないし経済的にも重要というわけではない。ゴルムドは、天然資源採掘の州中心地であるとともに青海省第2の軍事基地である。

「転入」県の人口統計史

世界銀行融資「プロジェクトC」による転入候補地である香日徳と巴隆のある都蘭県の、文献に記された歴史は、古代中国に記録されている羌族に始まり、吐谷渾とチベット帝国のもとに入った時期を経て、チベット人とモンゴル人の混住する数世紀へと至る。1918年まで、海西州東南部の45,000平方キロを占めるこの県には中国人は1人も住んでいなかった。この年、馬政権が、おそらく現在ウランと呼ばれている場所である「ドゥラン」に入植者を送り込んだ。チベット人とモンゴル人がすでに農耕と放牧のために使っていたにもかかわらず、土地の領有を主張するためである。1923年、馬政権は現在のウランに地域行政事務所を設置した。史上初めて、ドゥランに青海東部からの人口が流入し、現地行政が確立された。

この強制的な人口移転は、馬一族による植民計画の一環ではあったが、人口統計的にも経済的にも文化的にも異なった青海東部と西部の間に自然な結びつきを作りはしなかった。

1950年にドゥランに人民解放軍が入ってきたとき、ほんの一握りの商人がそこで活動していたにすぎないと記録されている。他はチベット人とモンゴル人が占めていた。この比率は1950年以来まったく変わってしまう。1950年代にドゥランに建設された労働改造キャンプへの軍人と囚人の移転によって、ドゥランの約1万人のチベット人とモンゴル人は、10年もたたないうちに自らの故郷において少数派になってしまったのだ。刑期を終えても帰宅を許されなかった元囚人たちは、労働改造キャンプ周辺に作られた町に家族とともに住み着いて、民間人口を構成した。1980年代の経済移民が流入するまでは、ドゥランに来る漢族と回族は、何らかの形の政府による人口移転によってここにやって来たのだ。

ドゥラン県の最も重要な町、すなわち県庁所在地(公式には察汗烏蘇)と香日徳そして諾木洪は、すべてもともと強制労働によって農業用に開発されたもの。労働改造を受ける囚人たちは諾木洪と香日徳などの場所で付近で働いていた。しかし、ほとんどの労働改造キャンプは1985年以来国営農場に転換されている。今日、ドゥランは西寧、ゴルムド、デリンハと良好な道路で結ばれており、西寧・ゴルムド鉄道という選択肢もある。ドゥランは青海省の主要な行政的、人口的、生産的中枢に容易に手が届く範囲にあるのだ。

中国当局は、世界銀行が提案した都蘭県移住プロジェクトは、青海省の将来の開発にふさわしいモデルとなることを強調している。省政府の狙いは、農業基盤を開発し、そして、石油、天然ガス、石綿、塩、炭酸カリウム、鉛、亜鉛などの豊富な天然資源を採取するためのインフラをこの地に開発することである。ツァイダム盆地は、青海省の経済発展にとって、最も有望な土地だとされている。青海省の劉光和副省長は1998年4月22日、新華社に「耕作に適した土地が豊富で、30万ヘクタールが開発できる。省東部で得られる労働力と、西部の天然資源を組み合わせることが、青海省の発展に貢献するにちがいない」と語った。新華社は同じ記事の中で「1996年以来、乾燥した東部山地の農民たちが、オアシス農業を開発して、よりよい生活を送るため、ツァイダム盆地に移民している」と伝えた。ほとんどがチベット人でもモンゴル人でもない農民58,000人を少数民族自治地域に移住させる世界銀行の融資案は、これら中国政府による開発政策と人口構成の組み替えと密接に結びついている。

以上
(翻訳 長田幸康)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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