39号(1999年8月)

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 世界銀行の開発計画地域を訪れた欧米研究家ら拘留される

TIN News Update, 19 August 1999
Western Researchers Detained during Visit to World Bank Project County

世界銀行の開発計画地域を訪れた欧米研究家ら拘留される

欧米の研究家2人が中国青海省で拘留された。これにより、世界銀行が推進し議論の的となっているドゥラン県における移住計画への融資に影響を及ぼすとみられる。オーストラリア人の学者、ガブリエル・ラフィット氏(50代前半)とアメリカ人のチベット専門家、ダジャ・メストン氏(29歳)、それに通訳が8月15日、移住計画の実施予定地である同県で拘留された。中国当局によれば、彼らは現在、「中国のどこか」に拘留されており、家族らは消息について全く知らされていない。世界銀行の調査委員会による見直しの結果待ちとの条件つきで融資を認めた後、北京は同行に対し、ジャーナリストやNGO代表者なども含む外国人の同県への訪問は許可されると述べていた。世界銀行はこの拘留について昨日、中国に対し抗議を行ったが、中国側は同問題は「内政問題」だとし、政府間で協議されていると答えた。

在中国オーストラリア大使館はラフィット氏の妻であるヘレン・ヴェラン博士に対し、彼女の夫が「身分を超越した行動を行った」ことにより拘留されていると述べた。また、世界銀行中国支店の中国人担当者は、ワシントンに拠点を置くNGO団体の代表者2人に対し、ラフィットとメストンは「いくつかの間違いを犯した」ために拘留されていると述べたが、どういう「間違い」を犯したのかは、当局によって明らかにされていない。

世界銀行東アジア・太平洋課の対外関係担当広報官、ピーター・スティーブンスは火曜日、「我々はラフィット氏とメストン氏が早急に釈放されることを望んでいる。中国政府が世界銀行側に対して行った説明によれば、中国側がドゥラン県における自由で開放された訪問を熱望していたことは明らかだ。だから、我々はこの開放政策を強く奨励する」と述べた。

同行の運営戦略委員会のジュリアン・シュバイツァー理事は6月、同氏が同月にドゥラン県を訪問したことについて、TINに対し次のように述べている。「中国はジャーナリストなどを含む個人訪問者を同地域に招くことを承知した」。中国外交部の章啓月広報官が6月15日、中国は外国の報道機関による青海省における調査を「いつでも」歓迎すると述べたという。この招待の対象については後日、NGO団体にまで広げられ、世界銀行とNGO団体の間で行われた会議で明言された。

今週前半、ワシントンの世界銀行担当官は米国の2団体の代表者らに対し、調査を行うには観光ビザで同地域を旅行するよう勧告した。国際環境法センターと世界銀行情報室の代表者らがTINに語ったところによれば、2団体の代表者らは中国の代表理事部門の世界銀行職員によって、ビザを要請するよう勧告されたという。

ガブリエル・ラフィットとダジャ・メストンは逮捕された当時、私的な個人観光ビザで青海省を訪問していた。チベット人女性と結婚しボストンに住む米国籍を持つダジャ・メストンは、米国ハーバード大学の国際開発学部が行う教育慈善事業の一員である。また、メストンは通訳として働いたこともあり、ボストンのブランデイス大学で社会学科を専攻する学生だった。メストンとラフィットは共に、チベットの文化、宗教、開発問題に長い間興味を持ってきた経緯があり、2人は5月にブランデイス大学で行われた「現代チベットにおける是認しうる開発に関するシンポジウム」で知り合った。

ガブリエル・ラフィットはメルボルン大学のアジア言語・社会研究所の研究協力員で、昨年、中国科学院が主催したチベットにおける環境的に是認しうる開発に関する会議に出席するため、青海省を訪れていた。研究者でもあり作家でもあるラフィットは、オーストラリア・チベット評議会やオーストラリア・モンゴル委員会など数多くのチベット関係団体や開発団体のコンサルタントを務めたことがあり、ワシントンの世界銀行担当官らと5月、6月に亘って、同行が青海省に計画している移住プロジェクトについての話し合いに参加している。計画中の中国西部貧困緩和計画とは、主に、約6万人もの貧農、主に漢人や回族(イスラム教徒の中国人)を青海省東部から同省西部のツァイダム盆地(中国名・柴達木)に移住させることによって貧困を緩和しようとする計画である。この人口移動により同地域における中国人の人口は増加し、同地域におけるチベット人・モンゴル人をさらに少数民族に追いやるとして、計画に反対する見方がある。

今日の早い時刻に、オーストラリア外務省のマイルス・クパ代表秘書が引率するオーストラリア人権代表団が、2人が拘留されているのではないかと言われている青海省西寧市に到着した。オーストラリアが双務形式により毎年行っている中国当局との話し合いの過程で、ラフィットの拘留が解かれたと報告されているが、オーストラリア外務省の広報官は話し合いの中でラフィットの釈放が可能かどうかの決定について何か進展があったかどうかは確認できていないとしている。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)

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 青海省で拘留中の米国人が転落して「重体」に

TIN News Update, 20 August 1999
American Detainee in Qinghai “ Seriously Injured " after Fall

青海省で拘留中の米国人が転落して「重体」に

中国政府は青海省で拘留中の米国人のチベット専門家が8月18日、「窓から落ちて」重体に陥り、緊急治療が必要だと発表した。在北京の米国大使館から青海省に飛んだ米国政府職員チームは数時間前、西寧の病院でダジャ・メストン(29歳)との面会を許された。メストンは依然として集中治療の状態にあり、多方面にわたる緊急医療を受けていると報告されている。新華社が今日(金曜日)発表したところによると、メストンは拘留から逃げようと試みたところ落ちてしまったという。

中国外交部の朱邦造は今日、このように述べた。「メストンはその日の午後、逃げようと試みて建物から飛び降りた際に重症を負ったが、緊急治療の後、危険を脱した」(新華社8月20日)。メストンの妻でチベット人のプンツォク(30歳)は、この外務省の発表があるまで、自分の夫が危険な状態にあることを知らなかったと述べている。彼女は、夫が怪我した状況に関する中国当局の説明は納得できるものではないと述べた。「私は夫のことをよく知っている。彼がそのような行動をとるとは到底想像できない」と述べ、さらに「彼は普段はとても静かで強い人間だ。もし彼がそのような行動をとらざるを得なかったとしたら、その時の彼の精神状態を想像するのは私にとって大変辛いことだ」と語った。

中国当局によると、ダジャ・メストンと50代前半のオーストラリア人の学者、ガブリエル・ラフィットは8月15日、海西州ドゥランで逮捕された。観光ビザで同地に入っていた2人は共に、チベットの文化や宗教、環境問題に長い間興味を持ってきた。メストンの亡命チベット人の妻によれば、夫はネパールのチベット仏教寺院で、静かで知的で哀れみ深い人間に育ち、チベット文化と精神世界に打ち込んできたという。

メストンとラフィットは、世界銀行が進めている約6万人の貧農をドゥランに移住させる計画に関連し、同地域を調査していたという。同計画は、元々チベットであった同地域におけるチベット人・モンゴル人の人口比率をさらに下げるものだとして批判されている。

8月20日付けの新華社電によれば、中国外交部の報道官、朱邦造は、中国当局は今日、この2人が「同省における貧困緩和計画について調査していた」ために拘留されたことを確認した、と述べた。中国当局は世界銀行に対し、外国人が同計画を調査するために同地域を訪問することを歓迎すると述べていた。しかしこれらの公式表明にもかかわらず、新華社はある地域は外国人には開放されていないと主張している。ラフィットとメストンは「申し立てによれば、制限のサインがはっきりと掲げられていた非開放地域を違法に通過、写真撮影を行った」と、朱邦造が語ったとして新華社が今日報じた。それらのサインが、被拘留者らが理解できない中国語で書かれてあったのかどうかについては不明。中国外務省は2人が世界銀行の主催によって調査を行っていなかったとし、2人が「中国側の関係部署に調査してもよいとして招かれていたのではない」と述べた。新華社の報道は、2人についての取り調べがすでに終わっていることを示唆するものだが、メストンが建物から落ちたとされる前に取り調べが終わっていたのかは不明。

オーストラリア人権代表団の一行は今日、元々の訪問予定地でもあった西寧市を離れた。一行は、オーストラリア人の研究家、ガブリエル・ラフィット並びにダジャ・メストンの両氏に会うことができないまま。代表団は「少なくともスタッフ1人」が事態が解決するのを見届けるまで、西寧市に残ることを表明した。代表団はラフィットが書いたものだと中国当局が主張する手紙を渡されている。手紙には、ラフィットが「役人と協力して」おり、「オーストラリア大使館がわざわざ自分に会うために西寧まで来る必要はない」旨が書かれている。ラフィットの妻、ヘレン・ヴェラン博士によれば、拘留中のラフィットと電話での会話を許された在北京オーストラリア大使館の議員使節団代表のペニー・リチャーズは、ラフィットは「拘束されているが穏やかな」様子だったと語ったという。

メルボルン大学の研究協力員であるガブリエル・ラフィットからの手紙は、彼が役人たちと「協力」し合っていること、事件が「無事に終結」することを「確信」していると書かれており、事務的な決まり文句で書かれたものだった。代表団に渡された手紙は以下の通り。「私、ガブリエル・ラフィットは8月15日から21日の拘留期間中、青海公安局において当局役人に協力しました。この協力をもって、いかなる誤解も全て明瞭になり、満足できる結果が差し迫っていることを確信しています。幹部役人も私が間もなく釈放されるであろうと私に告げており、したがって、オーストラリア大使館員が私に会うために、わざわざ西寧まで赴いていただく必要はありません。この件については既に解決済みであり、オーストラリア大使館が私と直接連絡を取る必要は全くありません」大使館の訪問の可能性について言及しているのは、ラフィット本人が自分の拘留について外交上の助力が必要であると感じていないと提言することによって、訪問を思いとどまらせようとの中国当局の目論みを反映しているのかもしれない。

これまでに釈放されたチベットでの拘留経験がある者(外国人を含む)は、似たような書式で、自分の罪を認め悔い改める内容の「自己批判」の手紙を書くよう当局役人に要求されたと報告している。チベット及び中国における拘留者には、自分の感情を表現する自由などは全くなく、また、自分の本当の状態について、訪問者らに消息を伝えることはできない。メストンの病院収容の件も、ラフィットが現在、監禁状態にあることを意味する。

現在中国に滞在しているオーストラリア外務省のマイルス・クパ代表秘書が引率するオーストラリア人権代表団は、ガブリエル・ラフィット及びダジャ・メストンの両氏のどちらにもまだ面会できていない。在北京オーストラリア大使館の議員使節団代表のペニー・リチャーズは、ラフィットの件についての決定が間もなく出されること、ラフィットが「協力的」で彼の「違法行為の数々」について告白し「謝罪し後悔している」ことを告げられている。また、新華社は今日、2人の拘留者が「率直に彼らの違法行為を告白した」と報じた。中国公安当局は「告白による情状酌量」の規定に基づき、現在行われている尋問の後、この協力的な拘留者への扱いを良くさせるか、または、拘留期間を短くするかするという。

中国当局はオーストラリア大使館に対し、ラフィットが8月15日にドゥランで初めて拘留されたのに続いて、8月17日に西寧に到着したことを明らかにした。中国の役人は同大使館に対し、ラフィットが8月18日から「居住監督下に置かれている」ことを告げているが、これはラフィットとメストンが8月18日にホテルか住宅地に移されるまでの間、警察の監房に入れられていた可能性を示唆する。

ラフィットとメストンは共に、青海省での彼らの行動について詳細にわたって質問されたとみられる。チベット及び中国における長い尋問は、外国人も含めて、通常、公安職員がシフト制を組んで行う。その手順は、履歴を調べあげることである。「承認と謝罪」という言い方で知られているが、自己批判をさせ、過ちと「罪」を承認させるという形をとるのである。外国人であれば大抵、過去最近のチベット訪問について詳述し、彼らが訪問中に会ったり話をした相手のリストをあげるよう要求される。この手続きは頻繁に、抑留者の陳述が当局が集めた情報と一致するまで執拗に続けられる。ラフィットとメストンへの尋問が一緒になされたのか、あるいは個別になされたのかは分かっていない。囚人を隔離することは、中国の公安職員がよく使う脅迫の一方法である。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)

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 チベット人通訳、青海省で逮捕される

TIN News Update, 25 August 1999
Tibetan translator detained in Qinghai

チベット人通訳、青海省で逮捕される

中国語通訳として働いていたチベット人が先週、青海州トゥラン(都蘭)県で、計画中の世界銀行の開発プロジェクトを調査するために同地を旅行していた2人のチベット専門家ガブリエル・ラフィットとダジャ・メストンとともに逮捕された。マロ(黄南チベット族自治州)レプコン(同仁)出身の26歳のツェリン・ドルジェの現在の消息は不明である。

8月15日に拘束された3人のうち唯一釈放されたガブリエル・ラフィットがオーストラリア・メルボルンの自宅からTINに語ったところによると、彼は他の2人、ダジャ・メストンとツェリン・ドルジェの安全と処遇について非常に心配しているという。29歳のダジャ・メストンは、8月18日の中国当局の発表によれば「窓から落ちた」という事故で重傷を負ったため西寧で入院して治療を受けている。8月21日に拘束から解放されたラフィットが最後にツェリン・ドルジェを見たのは、拘束された直後のこと。3人が別々の車でトゥラン県から青海省西寧に連行されているときだった。ラフィットはTINに「公安要員に囲まれている彼がちらりと見えた。肩を落とし、落胆してうなだれていた。彼がどこにいるのか、どんな状況で捕らえられているのか、私にはわからない。彼の処遇について大変懸念している。彼が拷問を受けているかどうかはわからない」と語った。

ツェリン・ドルジェは、レプコンの高級中学(訳注:日本でいう高校)での教育を終えた後、基礎的な教職教育を受け、1997年に初級中学(訳注:日本でいう中学校)の教師になった。彼は、中国語とチベット語、そして英語が話せた。昨夏、彼はジェクンド(青海省玉樹チベット族自治州)で、ブリュッセルを拠点とする非政府組織「国境なき医師団」の公式通訳として働いた。ツェリン・ドルジェは、現地のカムパ牧畜社会のための基礎的な衛生管理や衛生教育を中心としたプロジェクトの通訳業務を行なうために雇われた。彼はまた昨年、ゴロク(青海省果洛チベット族自治州)のダルラク県における欧州連合(EU)出資によるプロジェクトの公式通訳としても雇われていた。家畜の生産力を増進し、牧草地を改良して、ゴロクに収入をもたらすことを狙ったこのプロジェクトは、牧畜民らの活発な参加を促した。ゴロクや西寧の現地当局の幹部らが、プロジェクト実行チームの起ち上げた中心グループに参加した。EUは青海省畜産局と共同で取り組んでいたが、この畜産局はトゥラン県における懸案の世界銀行プロジェクトの実行機関の1つでもある。

国外の組織のために通訳をしたり、外国人となんらかの接触をもつ中国やチベット自治区のチベット人は、当地の政治的「安定」との関係で、特に微妙な立場に置かれる。外国人と一緒に働くチベット人、そして、旅行ガイドや通訳のように英語を話す者は特に、ある種の疑いの目で見られている。旅行ガイドは、外国人の訪問を管理・監視するため、そして、外国人が制限地域を旅行したり、好ましくないと思われる人々と話したりするのを避けるために、当局による厳密な管理下におかれている。通訳として働くチベット人にも同様の指導があるようだ。つまり、公式であれ非公式であれ、個人的な研究者と旅行をするチベット人は、だれであれ何らかのリスクを負うだろうということである。

現在は海外に住むある青海省出身のチベット人によると、青海を訪問する決まりとして、すべての外国人ジャーナリストと研究者は、外事弁公室の役人が随行することを要求される。チベット人がチベット語で書いて英訳されたある記事によると、「許可証をもつすべての翻訳家・通訳は、国家の名声と利益を守る義務と責任を負っている。通訳を通したことによって何らかの損害が生じたとしたら、そのときは通訳として働く適性を失い、免職される可能性さえある」。

3月にチベット自治区が発行した内部文書によると、外国人を扱う機関は「我々の国益に害をなす可能性のある活動に外国人が参加することを阻止する」助力とならねばならない。「我々の国境の外側からの人員に対する管理責任についての、外国人を迎えるラサの機関のための書簡」という形で発行されたこれらのガイドラインの背後にある治安原則は、青海省にも当てはまる。青海省のある州の1996年の公安文書は、次のように「海外の敵対勢力」に対する防備をはっきり強調している。「海外敵対勢力とダライ分離主義集団の潜入・破壊・扇動活動は、我が県における地下闘争の先鋭的で複雑な様相を、日に日にさらに悪化させている」。チュ・バンツァオ外交部スポークスマンは先週、ガブリエル・ラフィットとダジャ・メストンは「中国における彼らの地位にそぐわない活動にかかわり、中国の法律を侵害した」(8月20日・新華社)と語った。この発言では、ツェリン・ドルジェの拘束については、ふれられなかった。

メルボルン大学研究生のガブリエル・ラフィットとボストン在住のチベット専門家・言語学者であるダジャ・メストンは、トゥラン県において計画中の世界銀行の再定住プロジェクトについての観測調査を行なうため、観光ビザで旅行していた。中国当局は6月、世界銀行プロジェクトの実施地域を調査したい外国人には、海西州のトゥラン県へのアクセスが保証されるだろうと主張していた。

ツェリン・ドルジェ、ガブリエル・ラフィットおよびダジャ・メストンは、8月15日午前7時15分、ホテルの部屋に踏み込んだ12人の公安要員によって拘束された。2人の外国人は、ツェリン・ドルジェから即座に引き離され、道をはさんで向かい側の彼らが宿泊していたホテルへ連れて行かれた。ラフィットが次にツェリンを見たのは、西寧への道中であり、市内に到着して、どこで拘束されたかは、わからないという。ラフィットとダジャ・メストンは、市街中心部にある七一路の西寧賓館の別々の階の部屋に拘束された。ツェリン・ドルジェはおそらく、中国国民として、留置所か拘置所に投獄されたと思われる。

ダジャ・メストンの治療についての懸念

ダジャ・メストンは、8月18日に起こった事故によって「重体だが安定した」状態にあるという。中国政府の発表によると、その事故とは、3階の窓から落ちたということである。メストンは、背骨に傷害を負い、骨折している。また、彼は少なくとも1度手術をされたと言われている。専門家による治療のない状況で、彼は麻痺をも含む医療的リスクを負うであろう。彼らが金曜日(8月20日)に西寧に到着した際、アメリカ大使館の一団がメストンへの接触をすぐに許可された。

アメリカ国務省は、ダジャ・メストンは専門家による治療をただちに受けないと、医学的なリスクを負うことになるだろうと表明した。アメリカ国務省のスポークスマンはTINに次のように語った。「中国当局者は我々に、メストンの容態になんらかの回復がみられるまで、彼の活動についての取り調べを一時中断していると言った」「メストンが必要な医療処置を受けられるであろう場所に移らねばならないし、そうなるであろうことに彼らは同意していた」。

以上

(翻訳者:長田幸康)

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 3人の僧が拘留中の拷問により死亡

TIN News Update, 31 August 1999
Three monks die after torture in detention

3人の僧が拘留中の拷問により死亡

現在亡命している信頼できる複数の情報提供者の報告によると、チベット自治区のナーランダ僧院の20代初めの僧2人が、獄中から釈放された後、死亡した。21歳のレグシェ・ツォグラムは、愛国教育キャンペーンへの協力を拒否したために投獄され、4月12日に亡くなった。同月初めから投獄されていたラサのグツァ拘置所から釈放された数日後のことだった。22歳のナーランダ寺の僧侶ノルブは、1995年2月から1996年2月にかけてのグツァ拘置所での投獄の間、重度の傷害を受けて今年の初めに亡くなった。ノルブは、1995年のナーランダ僧院の反乱事件で捕らえられた34人の僧の1人である。

3人目は、ラサ近くのガンデン寺の20代の僧侶ンガワン・ジンパ。彼は、ラサのダプチ刑務所で4年の刑に服した後、釈放されて2ヵ月後、5月20日に亡くなった。チベット自治区ルンドゥプ県ペンポ地方出身のンガワン・ジンパは、幼い頃からガンデン寺の僧侶であった。

ナーランダ寺僧侶の死

22歳のノルブは、ラサ市ルンドゥプ県のランタン村出身で、地区レベルの公安局の拘置所であるグツァから釈放されて、ほぼ3年後に亡くなった。彼は、1995年2月25日、ナーランダ僧院への警察の手入れの際、逮捕された。ナーランダ僧院はチベット自治区ルンドゥプ県にあり、チベット仏教サキャ派の重要拠点である。

信頼できる報告によると、ノルブは、長年獄中でさらされた過酷な暴力の結果、腎臓に損傷を受けたという。彼の受けた扱いの過酷さは、数日前の、彼がナーランダ寺における師とみなしていたソナム・トンドゥプ(法名:ロサン・プンツォク)の逮捕に関連があるようだ。ある未確認の報告によると、ノルブは、1995年2月22日に独立支持活動に関わった疑いで逮捕されたソナム・トンドゥプを批判することを拒んだため、特にひどく扱われたのだという。未確認情報によると、ソナム・トンドゥプは後に12年の刑を宣告された。

彼は、はじめはペンポ県拘置所に、後にグツァに投獄されていたが、医療をまったく受けずに刑務所労働に従事させられていたと伝えられる。現在亡命している信頼できるチベット人の報告によると、ノルブは、獄中で受けた扱いから決して回復しなかったという。同じ報告によると、彼は働くことができず、当局によって自宅に帰されたときには、「もはや満足な人間ではなかった」。彼は僧院に戻ることは許されなかった。彼は、今年のチベット暦1月(2月もしくは3月)に亡くなった。

21歳のレグシェ・ツォグラムは、ラサから約25km北にあるナーランダ僧院での愛国教育キャンペーンに協力するのを拒んだため、4月初めにグツァ拘置所に投獄された。現在亡命している信頼できる情報提供者によると、レグシェ・ツォグラムは投獄されたときにひどく殴られ、「病気になり衰弱した」という。彼は4月12日、グツァから釈放されたわずか数日後に亡くなった。

ナーランダ寺僧侶への反体制者ゆえの過酷な扱い

レグシェ・ツォグラムがナーランダ寺での愛国教育キャンペーンに抵抗して亡くなったことは、1995年2月に独立支持活動に僧が関与して警察の手入れを受けたナーランダ寺での緊張が続いていることを示している。手入れによって34人の僧が逮捕され、うち少なくとも8人は4年から12年の刑に現在服役中。そして、64人の僧に追放命令が出された。64人の追放された僧は、別の僧院に入ること、あるいは「宗教生活を送る」ことを禁止された。

1995年の一連の逮捕は、ニマ・ケルサンという僧侶が、チベット国旗をあしらったバッジをつけていたためにルンドゥプで捕まったのが始まりだと言われている。ノルブの師であるソナム・トンドゥプをはじめ3人のナーランダ寺の僧が、ニマ・ケルサンに毛布を差し入れるために拘置所を訪れた。ソナム・トンドゥプは、1992年以来、独立支持のポスターを掲示した疑いですぐに逮捕された。彼は殴られて、ポスターを掲示したことを認め、ポスターを印刷する版木は僧院に隠してあると語ったと伝えられている。非公式報告によると、彼の刑期が長いのは、他の僧の刑期が軽くなるように彼がポスターをつくった責任を負うことを決めた結果だという。ノルブの逮捕は、この師の逮捕の3日後に起こった。

信頼できる報告によると、2人の僧の逮捕の翌日、17人の公安局員が3台のジープで僧院を訪れ、ソナム・トンドゥプらの僧坊を捜索した。多くの僧が公安局員らに強く反発し、彼らの侵入を拒む僧もいた。現在亡命している複数の僧侶によると、公安局員は捜索によって独立支持のポスターを見つけようとした。そして、だれも逮捕されなかった。しかし、彼らが発とうとしたとき、僧侶らが車に投石すると、そこにいた公安局員らが発砲し、催涙ガスで応酬したという。

2日後の1995年2月25日、公安局員たちは人民武装警察隊員とルンドゥプ県役人を伴って戻ってきた。そして、公安に投石した件や、独立支持ポスターの作成あるいは掲示に関わった嫌疑などで、さらに僧侶を逮捕した。34人のナーランダの僧のうち10人が、チベット国旗をあしらったバッジをつけたなどの「独立支持」活動によってダプチ刑務所での3年から12年の服役を裁判で宣告された。公安局員に投石したことを自白した僧10人は、裁判でウティトゥ刑務所(当局に「ラサ刑務所」として知られる)での1年半から2年半の刑に処せられた。4人がティサム拘置所で3ヵ月から1年間の服役、6人はグツァ刑務所で1ヵ月から5ヵ月服役の行政処分となった。

現在亡命している数人の僧侶の報告によると、投獄中に激しい拷問を受けたナーランダ寺の僧はノルブだけではない。ウティトゥ刑務所に連行されたグループにいたある僧は、ルンドゥプ県公安局拘置所から彼らを護送した兵士らが、僧たちをひどく殴ったと述べた。その僧はTINに次のように語った。「私たち12人を護送するのに30人ほどの兵士がいた」「護送の間、後ろ手に縛られていた。ある僧侶は、後でロープを切るときにナイフを使わねばならなかったほどきつく手を縛られていた」。他のナーランダ寺の僧は、拘留されるとき、銃の台じりで殴られ、ワイヤでむち打たれた。

現在亡命している別のナーランダ寺の僧は、別の僧がルンドゥプ県公安局拘置所で最初の夜に受けた虐待の激しさを報告した。この僧はTINに次のように語った。「手が板に縛り付けられた。そして、板に付けられたロープが天井の梁に結ばれた。」「こうして私たちは代わる代わる宙づりにされた。そして、彼らがロープを緩めると、私たちは堅い床に落ちるのだ。苦痛は耐え難かった。死にそうなほどだった」。

1995年3月25日付『ラサ晩報』(チベット語版)の記事によると、1995年のナーランダ寺の手入れは、数年にわたるナーランダ寺での「分裂主義活動」についての当局の長期に及ぶ関心の結果の現れである。記事によると、1992年8月、僧侶らは付近で「反動的な」ポスターを掲示し、ルンドゥプ県の役所の門に「反動的スローガン」を貼り付けた。この新聞は「ナーランダ寺の再組織」という見出しの記事の中で「ナーランダ寺は、分裂主義者ネットワークの一大拠点と化した」と記している。記事によると、1995年の僧院での反動的な文書の発見と、僧院に立ち入った警官への投石事件の後、当局はナーランダを「再組織」する作業委員会を発足させた。記事によると、1995年3月15日の僧院での会合には、混乱後の僧院事情を「再組織」するため、ラサ城関区の指導者らが出席した。

ンガワン・ジンパの死

20代のガンデン寺の僧ンガワン・ジンパは今年3月16日、4年の刑期を終えてダプチ刑務所を釈放された後、亡くなった。彼は1995年3月17日、政治活動のために逮捕された。信頼できる非公式の情報によると、釈放後の彼の健康状態は思わしくなかった。そして、彼が自宅に戻った翌日、役人たちが骨髄液の採取を含む医療処置を施すために彼を訪れた。この処置は通常、伝染病のテストのためのものだ。ンガワン・ジンパがこの医療処置の理由を知っていたかどうかはわからない。骨髄液の採取は、腫瘍、脳膜炎(骨髄液中の血液がこの病気の徴候となる)あるいは脳や骨髄液に関係する伝染病のテストのためになされる可能性があるものだ。骨髄液の採取は、頭を殴られた結果起こりうる頭蓋の内圧上昇を意味するかもしれない。骨髄液を抜き去ることにより、割れるような頭痛や、激しい吐き気、記憶喪失、不眠症などさまざまな症状を患者に与えることがありえる。ルンドゥプ県ペンポのナンソ・ヌプマのルンシュ出身であるンガワン・ジンパの医学的状態の詳細については不明である。彼は獄中から釈放された後、当初病院に入れられたが、信頼できる報告によると、自宅で亡くなったという。

TINの報告『適性分子:1987〜1999年のチベットにおける政治的投獄の研究』("Hostile Elements: A Study of Political Imprisonment in Tibet 1987-1999")は、1987年9月から1999年1月までの獄中での虐待の結果亡くなったと思われる政治囚たちのケース32件を収録している。この報告によると、ダライ・ラマを非難することを拒否したり、ダライ・ラマへの支持を積極的に表明するチベット人は、1970年代終盤に中国が「改革開放」に乗り出して以来、いかなる時期よりも深刻な危険に直面させられている。

以上

(翻訳者:長田幸康)

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 少数民族競技会の最中に、ラサで抗議運動

TIN News Update, 10 September 1999
Protests in Lhasa during National Minority Games

少数民族競技会の最中に、ラサで抗議運動

過去3週間の間にラサで、数件の反体制運動が発生した。第6回少数民族競技会が開催されている時期であり、少なくとも2人が逮捕された。

ポタラ宮殿前広場に掲げられていた中国国旗を、若いチベット人が引きずり下ろし、それをチベット国旗に取り替えようとしたと、信頼できる情報筋はチベットの首都から伝えてきた。彼は警察に逮捕され、連行された。反体制運動の2件目は、文化的な演技のリハーサルをしている最中に、10代の僧侶が突然舞台に上って、独立要求のスローガンを叫んだのであった。少数民族競技会の間にはまた市街でも、僧侶の一団が抗議運動を繰り広げたと伝えられている。少数民族競技会は、ラサで8月18日から23日までの間開催されていた。


8月最後の週に、ポタラ宮殿前広場の中国国旗を引きずり下ろした、チベット人の消息は今も判明していない。複数の情報が伝えているところでは、彼は禁止されているチベット国旗を掲げるために、国旗掲揚の柱によじ登ったという。また複数の証言によれば、彼はダイナマイトか可燃性の物質を体に巻き付けていて、逮捕される直前にそれに火を着けようとしたが、雨が降っていたために着火しなかったという。彼の身元は、まだ判明していないが、ある信頼できる情報筋によれば、彼はラサの公職に就いていたとも言われている。

また8月20日に、翌日の競技会で披露する予定の舞踏演技のリハーサルを行っていたところ、突然1人の僧侶が抗議行動を行った。彼は一般人の服装をしており、14才か15才であったと伝えられている。最近チベットを脱出して来た複数の証言者によれば、ポタラ宮殿前広場でリハーサルが行われている時に、その少年はステージに上って、独立要求スローガンを叫んだという。ステージにいた踊り子たちは逃げ去って、少年1人がステージに取り残され、そして彼は逮捕されたという。現在彼は、グツァ拘置所に拘束されていると言われている。

少数民族競技会の期間に僧侶らによるデモが行われたという、信頼すべき複数の情報もTINに届いている。少なくとも10人の僧侶から成る一団が、8月21日にポタラ宮殿前広場で15分間の抗議運動を行ったと、ある情報は伝えている。また別の情報によれば、同じ日に2人の僧侶が紙切れを大地に撒いているのを目撃したという。紙切れには、『フリー・チベット』と書かれたいた。彼らが逮捕されたか否かは、判っていない。

ラサの治安強化

少数民族競技会の前とその期間中は、ラサの治安は非常に強化されていた。ラサを訪れた観光客たちは、西洋人もチベット人も、ラサ市内の治安要員が増強されていたと報告している。今年が1959年3月10日の決起から40周年に当たることと、また10月1日が中華人民共和国成立の50周年に当たることから、反体制運動を警戒してラサの全体的な治安は既に強化されていた。

少数民族競技会の期間中、ラサに通ずる道路は午後5時から真夜中まで数箇所に検問所が置かれていた。またある期間には周辺の人々は屋外に出ることを許されず、僧侶たちも僧院に留まることが強制された。ある信頼できる情報筋によれば、競技会の式典に参加しようとしたチベット人たちは、入場前に徹底的な検査を受けたという。チベット人たちは、ライターや傘を所持したまま入場することが許されず、それらは没収された。一方、漢人たちは検査されることもなく、所有物を没収されることもなかった。別の情報筋はTINに対して次のように語った。「そこの空気は緊迫していた。決して楽しいという雰囲気ではなかった」。ラサを訪れた観光客の1人によれば、チベット人たちは明らかに徹底的に監視されていた。「チベット人たちは、競技会で問題を起こし、破壊行為を働く可能性が高いと見なされていた」と、その観光客は語った。

ラサの市民たちの間には、少数民族競技会の主要な文化的演技種目のチケットが、入場禁止を意味するほど高価であるか、あるいは漢人かチベット人の役人に振り当てられていて、一般のチベット人には手に入らなかったという不満が噴出していた。亡命チベット人がTINに寄せた報告によれば、彼は少数民族競技会の期間中にラサを訪れ、市内の緊張した雰囲気を感じたという。「入場できなかったチベット人たちの間で喧嘩が起きた。また警備員と口論をし、喧嘩をする者もいた。そして数人のチベット人が逮捕され、拘留された」と、彼は付け加えた。「少数民族競技会は、ラサの市民に困惑と不快な思いを残しただけだ」と、別の情報筋は伝えている。市街をもっときらびやかに見せるために、家を飾り立て、伝統的な窓飾りを付けさせ、窓枠の黒い色を塗り替えるように、チベット人たちには命令が出されたと、複数の証言が伝えている。

少数民族競技会がラサで開催されたのは、今回が初めてであると、8月23日付けの青海日報が伝えている。中華人民共和国第6回少数民族競技会は、チベット自治区の『民主改革』40周年を記念して、8月18日にラサ市内の人民競技場で開会された。競技会は4種目の運動競技と40種目の演技から成っていた。8月21日と22日の晩には、ポタラ宮殿前広場において、中国政府舞踏団による演舞会も開かれた。8月18日付けの新華社電が伝えているところでは、「チベット人たちは競技会を、さらなる発展の吉兆だと受け止めた」という。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 ンガワン・サンドル、平和的な抗議運動により3度目の刑期延長
  彼女の父親の安全に懸念生じる

TIN News Update, 15 September
Ngawang Sangdrol Has Sentence Extended for Third Time Following Peaceful
Protest ; Concerns for The Safety of Her Father

ンガワン・サンドル、平和的な抗議運動により3度目の刑期延長
彼女の父親の安全に懸念生じる


ンガワン・サンドルは、23才のガル尼僧院の尼僧である。彼女は13才のときに初めて逮捕されたが、刑務所内で平和的な抗議運動に加わったために、3度目の刑期延長をされ全部で21年の刑となった。

ンガワン・サンドルの父親ナムギャル・タシは64才になるが、彼の8年の刑期は6月に満了となったにも拘わらず、まだラサ市内の刑務所内から釈放されていないという。チベットからの報告が伝えているところでは、昨年5月ダプチ刑務所内で抗議運動が発生し、6人の尼僧を含めて11人が死亡した事件が起きているが、それ以来彼は娘に会うことが許されていない。父親も娘も、意志の堅い、強固な精神の持ち主として知られている。中国政府は、ンガワン・サンドルが「教導に従わず、刑務所内でも繰り返して分離主義者の活動に加わった」と説明をしている。


ンガワン・サンドルの3度目の刑期延長は、1998年10月にラサ市中級人民裁判所から言い渡されたもので、これで刑期は全部で21年となり、2013年まで釈放されることはない。今回の刑期延長は、1998年5月に欧州連合の外交代表団がダプチ刑務所を訪問した際に、彼女が抗議運動に加わったこと、さらに加えて同年中に個人的な抗議運動を行った結果であると推定される。彼女は、7月に独立要求とダライ・ラマ法王支持のスローガンを叫び、激しく殴打されたと伝えられている。また1ヵ月か2ヵ月後にも、同じことを繰り返したと、現在はチベットを脱出した信頼すべき情報提供者は語っている。ンガワン・サンドルは、昨年末にもダプチ刑務所内でスローガンを叫んで、「看守らによって蹴られ、殴られ、頭部を踏み付けられた」と、同情報提供者は語った。他にも2人の尼僧、チュプサン尼僧院のンガワン・チュゾムとミチュンリ尼僧院のプンツォク・ニドル31才は、共に激しい殴打を受けたという。プンツォク・ニドルに関しては、現在彼女の健康状態に大変な懸念が生じている。彼女は1989年にラサで平和的なデモに加わって、17年の刑に服役中であったが、ンガワン・サンドルが殴打される際に彼女を庇おうとしたと伝えられている。

昨年5月にダプチ刑務所内で発生した抗議運動の後は、友人も親戚もンガワン・サンドルに面会することは許されていない。この抗議運動は、1998年5月1日と4日の2度にわたって発生した事件で、欧州連合の『三国』代表団が刑務所を訪れて集会が開かれた際に、刑事囚も政治囚も一緒にダライ・ラマ法王支持とチベット独立要求のスローガンを叫んだものである。5月4日の抗議運動は、欧州連合の大使らが刑務所を訪れたことに呼応しているが、訪問の前に事件が起きたのか後に起きたのか、詳細は判明していない。看守たちは、異なった獄房から囚人代表者を選抜し、この日の集会に参加させた。その中には60人の僧侶も含まれていた。すると突然囚人たちが、『フリー・チベット』と叫び始めたのである。未確認情報によると、近くの独房に隔離されていた政治囚たちも、これに呼応したと伝えられている。看守たちは、報復するために政治囚たちを殴打し、抗議運動に参加した囚人たちはすべて独房に移された。尼僧6人と僧侶3人それに一般人1人が、殴打と拷問によって死亡したとの事である。

信頼できる情報筋によれば、ンガワン・サンドルと他の数人の政治囚たちは、特にひどく殴られたという。彼女がこの抗議運動の指導者だと見なされたのであろう。1998年7月、他の囚人たちが面会を許された後にも、ンガワン・サンドルと数人の政治囚たちは、親戚の面会も食物や衣服の差し入れも許されていなかったと、現在は亡命している元政治囚は語っている。

ンガワン・サンドルは、1992年6月に逮捕され、同年秋に懲役3年の最初の刑を受けた。1年後、彼女とプンツォク・ニドルやンガワン・チュゾムら14人の尼僧たちは、ダプチ刑務所内で家族や故郷を想う歌を歌った。この歌はテープ吹き込まれ、刑務所の外にひそかに持ち出された。この結果、ンガワン・サンドルの刑期は6年延長された。他の尼僧たちも、それぞれ刑期を延長され、罰として全員が激しい殴打を受けた。

ンガワン・サンドルは、1996年ダプチ刑務所内の幾つかの抗議運動に参加して、2度目の刑期延長をされた。現在亡命している元囚人によれば、1996年春にダプチ刑務所当局が招集した集会で、中国がパンチェン・ラマの候補者を指名したことに、一団の尼僧たちが抗議した。彼女もその中に入っていたという。ンガワン・サンドルはまた、看守が彼女の獄房に入って来た際に、立ち上がるのを拒否した。さらに獄房を清掃するのを拒否した罰に、雨の中に立たされた際に、仲間の尼僧たちと一緒に『フリー・チベット』と叫んだ。彼女は2度目の刑期延長となったが、これが8年であるのか9年であるのか、TINはまだ確認できていない。

チベット人権民主センターが初めて公表した情報によれば、ンガワン・サンドルが公式に釈放される年は2013年になるという。これは最新の刑期延長が、3年か4年であることを示している。ンガワン・サンドルの刑期は、チベットの女性政治囚の中で最長である。中国政府は、彼女の事例に懸念を表明している各国政府や国際的な人権団体に対しても、判決の詳細を発表してはいない。

ンガワン・サンドルの父親への懸念

ンガワン・サンドルの年老いた父親、ナムギャル・タシの消息は判明していない。ナムギャル・タシは、8年の刑期を勤め上げて、3ヵ月前に釈放されることになっていた。しかしTINが入手した情報では、彼はまだ拘束されているようである。未確認情報によれば、昨年末、彼は病気で治療を受けていたという。

ナムギャル・タシは、1935年にチベット自治区のロカ(中国語で山南地区)のゴンカル県(中国語でゴンカー)のチデショル町の生まれである。彼は1991年6月、息子のテンジン・シェラップと一緒に逮捕された。サムイェ寺にチベット国旗が掲げられた事件に関連してのことであった。テンジン・シェラップは30代半ばの僧侶であるが、2年程投獄されていた。ナムギャル・タシの兄弟のロプサン・トゥンドゥプも、同時期に逮捕された。現在は亡命しているチベット人によれば、ロプサン・トゥンドゥプは獄中の虐待によって、現在は車椅子に乗っているという。ナムギャル・タシの少なくとも4人の親戚は、チラシを配ったり、平和的な独立要求運動に加わった疑いで、逮捕されたと伝えられている。

ナムギャル・タシは地主階級の出身で、1959年3月の決起の後に、ほとんどの財産を失った。1980年代には、中国全土で改革開放の政策が実施されたために、財産を没収された人々に政府が補償をするように、ナムギャル・タシの家族も要求する立場に立てた。しかし彼は、中国政府の政策を支持する書面への署名を断り、彼の財産を返還するように要求した。しかし彼は政府から何も獲得することができず、そのために彼の家族は経済的な困難に陥った。

ナムギャル・タシは、1959年のラサ決起に関与して以来その後の文化大革命中も、壮年期を獄中、主にラオカイ(労働改造収容所)で過ごした。1970年代の政治闘争集会では、彼は頻繁に激しく殴打された。時には余りにも激しく殴られて、気絶したまま家に運ばれて来ることもあった。1980年代になると、彼と家族たちは建設業で働いて生計を立てられるようになった。

ナムギャル・タシの妻ジャンパ・チュゾムは、彼と1957年に結婚していたが、52才の時に心臓発作で亡くなった。1991年にナムギャル・タシが逮捕された直後であった。ンガワン・サンドルは、男の子4人と女の子4人の8人の子供たちの下から2番目である。ナムギャル・タシとジャンパ・チュゾムの最初の子供は、文化大革命の最中に12才の年で射殺された。この少年は、ポタラ宮殿の近くのチャクポリの建設現場で働いていた父親に、お弁当を届けようとして射殺されたのであった。

1991年にナムギャル・タシが逮捕され、1年後にはンガワン・サンドルが逮捕された。父親と娘は、定期的に刑務所を訪問し合うことが許されていたが、昨年5月の抗議運動の後には面会が禁止された。ナムギャル・タシの親類の1人は現在は亡命しているが、彼によれば1998年のある時期に、それまでは届いていた彼からの手紙が全く届かなくなったという。彼が今もなお拘束され、家族から隔離されているのは、娘が刑務所内で抗議行動を取ったことと、関係があるのか否かは判っていない。

ンガワン・サンドルは、わずか11才の時に初めて政治活動に参加した。1987年と88年に、ラサで起きた独立要求デモに加わったのである。この家族と非常に親しい関係にあって現在は亡命している、あるチベット人からの信頼できる情報によれば、ンガワン・サンドルは13才の時にある晩家を出て行って、それきり帰らなかったという。数ヵ月間は彼女がどこにいるのか、家族にも判らなかった。しかしその後、彼女が他の尼僧たちと一緒に政治的な抗議運動に参加して、グツァ拘置所に投獄されていることが判った。彼女の母親のジャンパ・チュゾムは、死ぬ前に一度だけンガワン・サンドルに面会することができた。同情報筋がTINに語ったところによれば、ンガワン・サンドルは年少であるにも拘わらず、母親と面会をしている間は涙を少しもこぼさなかったという。自分が元気でいることを、母親に見せるためであった。母親と別れると、彼女は自分の獄房に帰って、声を上げて泣いたと同情報筋は語った。

ンガワン・サンドルは、1991年末に一時的に釈放された。おそらく彼女が余りにも年少であったためであろう。彼女は最初に逮捕されたときに、激しい殴打を受けた。ある元囚人によれば、彼女の両手はこの時受けた傷が元で、不自由になっていたという。ンガワン・サンドルが家に帰った時には、母親は既に亡くなり、父親も逮捕されていた。そして家族の内の数人は亡命していた。彼女は元政治囚であるために、尼僧院に帰ることは許されなかった。彼女は1992年に、他の3人の僧侶と1人の尼僧と一緒に、ラサでデモをしようとして再び逮捕された。亡命チベット人たちの情報によれば、彼女はさまざまな拷問を受けた。長い間飲み水与えられないこともあった。獄房の窓から湯飲みを突き出して、雨水を受けようとしたが、背が低すぎて手が届かなかったという。

現在の獄中の様子についても、TINには幾つかの情報が届いており、ンガワン・サンドルは虐待を受け続けていることは間違いない。1996年には少なくとも2ヵ月間、食事を制限されて独房に入れられていた。そしておそらく現在もまだ独房に入れられているのであろう。昨年の政治的な抗議運動に参加したことによって、彼女は激しい報復に会っており、健康状態と身の安全に重大な懸念が生じている。中国政府は、ンガワン・サンドルが『分離主義活動』に加わり、処罰されたにも拘わらず『通常の健康状態』にいると語っている。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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