38号(1999年7月)

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 チベット人美術商、文化財の盗難防止のため逮捕さる

TIN News Update, 20 July 1999
Tibetan art dealer arrested in attempt to stop relics theft

チベット人美術商、文化財の盗難防止のため逮捕さる

チベットからの国際的な美術品密輸の取締りにともない、海外に広いコネクションをもつ著名なチベット人美術商がラサで逮捕され投獄された。ネパールのパスポートをもち、カトマンドゥに高級骨董品を扱うアートギャラリーをもつツェリン・タシの逮捕は、宗教文化財や仏教美術の国際的な不法取引への取締りを強化しようというチベット当局の決意を表わしている。


ツェリン・タシは、1959年のラサ蜂起記念日にともなう治安取締りの行なわれた3月に逮捕された。反体制の動きを封じようとして当局がとった方策には、ラサのビジネスマンおよびネパールのパスポートをもつチベット人に対する締めつけや拘束があった。これは、国外とつながりのあるチベット人はだれであろうと疑わしいという当局の疑念を反映している。カトマンドゥからの報告によると、ツェリン・タシの逮捕を指揮するために四川省の成都からハイレベルの幹部らが訪れた。彼は当初グツァ拘置所に入れられた後、セイトゥ刑務所に投獄されていると伝えられている。この逮捕はラサの公式メディアでも報道され、長期の刑を受けるだろうと広く信じられている。ネパールからの非公式の報告によると、この事件に関連して少なくとも他に5人のチベット人が投獄されたという。しかし、ツェリン・タシのスイス人とアメリカ人の仲間は逮捕されることなく、ラサを発つことができた。

これほど有力なコネクションをもったビジネスマンの逮捕には近年前例がなく、おそらく、国外やチベット人たちに対し、チベット当局が宗教芸術や文化を保護しているのだと印象づける狙いがあるのだろう。ネパールのパスポートをもつチベット人美術商を逮捕したということにはまた、ネパール・チベット間の美術品取引ルートを断とうというチベット自治区当局の企ての意味もあるのだろう。

ツェリン・タシは、ビジネスのため香港を頻繁に訪れ、世界の美術品業界と深いコネクションをもつ、教養ある洗練された中年起業家である。あるチベット人と組んで、カトマンドゥで最も栄える目抜き通りの1つであるダルバール・マルクにダワ・アーツという店を構えている。

ツェリン・タシの逮捕については、2月に起こった、チベット自治区ロカ地区のユンブラガン宮殿からの盗難に関係があるらしいというカトマンドゥからの報告がある。2月25日のチベット・テレビの報道によると、2月18日早朝、3人の男が宮殿に押し入り、貴重な観音菩薩の銅像などの文化遺産37点を持ち去った。ユムブラガンはチベットにおいて、大きな精神的・文化的重要性をもっている。それは、チベット最初の王ニャティ・ツェンポの宮殿であり、伝説によれば、かつて聖典が空からこの宮殿の屋根に降りてきたとされており、チベットに仏教が初めて到来したことを告げるものとなっている。このユムブラガンの盗難と同じ頃、チベット自治区ペンポのサキャ派の僧院ナーランダ寺からも、古い仏像やタンカ1巻が盗まれた。

チベット当局は、文化財消失は外国人のせいだと非難

チベット自治区当局は、ラサや自治区での美術品盗難の防止に成功していないことを認め、国際市場での値段の高騰が非難されるべきだと主張する。「公式な数字によれば、1994年以来、120の文化財絡みの事件がチベットで起こり、541のチベットの古代遺産が失われた」と4月7日の新華社報道は伝えた。「現在のところ、70件が解決され、314の文化財が戻ってきた」とのこと。4月7日の国営新華社電によると、チベット当局は、美術品盗難の増加は外国人に責任があるとしている。その報道は次のように伝えている。「昨今チベット自治区では、以前よりもずっと頻繁に旅行者たちが地方の寺院や遺跡などを訪れている。しかし、これらの特殊な“巡礼者”たちは、小型カメラを携え、人目を盗んで貴重な物品の写真を撮影し、書籍やディスクの形でカタログを出版し、地下ルートやインターネット経由で流通させている」「骨董品関連の犯罪の増加は、国際市場におけるチベットの骨董品価格の高騰のせいだとする担当当局者もいる。金銭が、現地の密売者たちを動かすのである。彼らの中には、国外の密輸人たちとつながりをもち、貴重なチベットの骨董品を盗むためにはどんな手段でも使う者たちもいる。

1980年代にチベット当局が経済の改革開放の方針を打ち出して以来、欧米の美術商たちがチベットにアクセスする機会は増え、チベットの骨董品は国際美術品市場で極めて貴重な商品となっている。3月にニューヨークのサザビーズが開催したインド・東南アジア美術品の競売でも、チベットの骨董品はひっぱりだこだった。このセールを取材した“Maine Antiques Digest”は「ヒマラヤ美術、とくにチベットの美術品は、最高値を獲得し続けた。この市場は非常に強力で、成長しつづけるだろう」という。

チベット美術の専門家であり、オクスフォードのピット・リバー博物館館長であるクレア・ハリスによると、中国当局は、チベット文化や宗教造形物を保護するよう、UNESCOなどの欧米機関から圧力を受けているという。「ツェリン・タシの逮捕は、国際美術品市場におけるチベットの骨董品取引に対して影響力を行使しようという試みだ」とハリスは語った。「彼の逮捕には政治的事件の側面もある。中国自身がチベット文化の提示を支配したがっている。つまり、中国は自分たちのやり方で、国外に対してチベットの中国的なビジョンを提示したいのだ。中国が最終的に狙っているのは、欧米のコレクターがオープンな市場で売りに出された美術品を買うことによって、特定のチベット観を促進してくれることなのだ」。

国家文物局が2月に発表したところによると、文物保護法が今年改正され(2月8日付新華社電)、海外に持ち出される文化財の管理に関する規制法が修正される。国家文物局長の張文彬は、中国では文化財の闇取引が珍しくなくなっており、多くの美術館のコレクションが「無能な管理」によって無許可で競売にかけられていると、腐敗の拡大を強調した。

愛国教育の際に僧院から持ち去られる仏教美術

最近の難民が伝える多くの報告によると、役人、とくに愛国教育の政治キャンペーンを展開する工作隊が、僧院や尼僧院から仏像や工芸品などを持ち去っているという。1997年にチベットを逃れた僧侶のグループによると、チベット南部のチョンギェの彼らの僧院で、当時僧院にいた工作隊が2つの貴重な工芸品を持ち去ったという。僧の1人はTINに次のように語った。「工作隊は、すべての神、女神、仏陀の像の寸法を測り、すべての仏像の写真を撮影した。」「彼らは、仏陀の小さな像と、古い香炉を持ち去った。北京で展示するために持っていくのだと言っていた」。またその僧侶らは3年前、役人たちがチベット最初の王ニャティ・ツェンポの墳墓を文化財を探すために発掘したと主張した。チョンギェ川の東、チョンギェの町の南に位置するその墳墓盗掘を村人らが届け出ると、現地当局者は、この事件を調査する警官を任命しなかったという。

1997年11月11日付『西蔵日報』の記事によると、工作隊が僧院の会計を監査し、「盗難の問題があるため」宗教文化財の目録を作ったことを当局は認めている。

現在は亡命している、チベット自治区シガツェの北東にあるナムリン県出身の僧は、工作隊が、彼のいた僧院の所有する仏像や文化財の詳細な目録を作っていたとTINに語った。その僧院はゲルク派で、文化大革命後に再建されていた。僧はTINに次のように語った。「彼らは、私たちの僧院の仏像や工芸品はすべて政府のものだと私たちに言った。」「これらの文物は政府が僧院に貸していたものなのだ。そして、政府が返却させる必要がある場合に備えて目録を作るのだと言っていた。それらの工芸品は僧院の最も貴重な所有物だが、だれも何も言えなかった」。

最近ラサを離れた信頼できるチベット人がTINに語ったところによると、最近の美術品密輸の取締りは、チベット人僧侶へのさらに厳しい締めつけにつながりそうだという。最近カトマンドゥに到着したそのチベット人は次のように語った。「僧院は、貴重な仏像やタンカ(宗教絵画)を盗難から守る責任を僧侶が負うよう告げられた」「これによって、いかなる盗難についても僧侶が責任を負わねばならなくなる。当局はこれを、僧院をさらに頻繁に監視する口実に使おうとしているのだ」。

いくつかのケースでは、文化財の保護は政治的理由のために必要なのだと当局は述べている。チベット自治区シガツェのタシルンポ寺は、文化財保護を通して「祖国防衛と民族団結のために偉大な宣伝効果を備えている」として、1994年に自治区で開かれたある会議で賞賛された。この「愛国的遵法先進寺院および優秀寺院管理者を賞賛する全自治区会議」に提出されたある文書によると、タシルンポ寺の僧侶らは「チベットと中国中央政府内の歴代王朝との緊密な関係を実証する、すなわちチベットは中国の一部であることを実証する、多くの重要な文化財を保護してきた。彼らの真摯な働きを通して、この僧院は、歴史的見地から我々の国家統一の基礎証拠となったのだ」。

数千の僧院が破壊された文化大革命の時期、チベットの僧院・尼僧院から貴重なタンカや仏教工芸品が持ち去られたことは、多くの信頼できる資料が実証している。美術品・骨董品専門ディーラーであるニューヨークのサザビーズの9月に開かれる次回競売のハイライトの1つは、文化大革命のとき破壊されたラサ南東のある僧院の、金箔ブロンズ製の建築物の羽目板である。サザビーズによると、売価25万〜35万ドルと見積もられるその羽目板は、重要な宗教家や政治家の遺物を納める大きな遺物箱の基底部に並ぶものだろうという。こういった宗教工芸品は、高僧の祝福を受けた後、神聖なものとみなされる。儲けるために手に入れて売ることは、チベット仏教の信仰とは反する。

現在、1959年後のチベット芸術についての著書を書いているクレア・ハリスによると、文化大革命で破壊された僧院の文物が、国際美術品市場で流通し続けているのは驚きだという。クレア・ハリスはTINに次のように語った。「この時期にチベットから流出し、しかも溶かされなかったチベットの美術品は、すでに世界中にたっぷり行き渡っている」「問題は、これらの工芸品の起源についての書類などがめったにないことである。つまり、その骨董品が文化大革命のときにチベットから持ち出されたのかどうかを知るのは困難だ。しかし、この時期のチベットに由来する工芸品といったほうが、最近というより欧米のコレクターには受けがよいのである」。

以上

(翻訳者:長田幸康)

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 TIN特別報告
知的な抵抗者の伝統:青海省のチベット人政治囚たち

TIN Special Report, 30 July, 1999
A Tradition of Intellectual Dissent :
Tibetan Political Prisoners in Qinghai Province

TIN特別報告
知的な抵抗者の伝統:青海省のチベット人政治囚たち


伝統的にはアムドあるいはドメと呼ばれているチベットの北東一帯は、現在は中国の省に併合されて青海省と呼ばれている。この地域は、知的な抵抗者という伝統を今も強く保持している。チベット人の間では、アムドは宗教的に重要な人物が輩出する地として知られている。その一番良い例が、ダライ・ラマ法王である。また作家や詩人、芸術家や教育者も多く生まれている。彼らはペンの力を活用して、1980年代後半にラサ市街で多く見受けられたような抗議運動に参加する。

青海省に抵抗者が存在するという問題は、5万8千人の漢人をチベットの領域に移住させる世界銀行のプロジェクトでも、政府幹部を含むチベット人の間に反対勢力が存在しているというニュースとして取り上げられ、最近注目されるようになった。4000万ドル(42億円)の融資に対して米国や国際的な団体からの反対運動が高まるに連れて、それに対する中国の戦闘体制も強化されており、青海省政府や北京政府が懸念を抱いている治安要因にも見直しが行われ、この地域の特異な反体制運動家たちも注目され始めている。

この特別報告は、青海省のチベット人政治囚の一般的な型を明らかにすることになろう。また『敵対分子:1987年から1988年までのチベットの政治投獄の研究』("Hostile Elements: A Study of Political Imprisonment in Tibet 1987 - 1988"、スティーブン・D・マーシャル著、1999年3月、TIN発行)によって、提起された問題をさらに詳しく分析しようという試みでもある。愛国教育キャンペーンがこの地域の僧院に与えた衝撃は、来週(1999年8月3日)に発行される『苦海(A Sea ofBitterness)』と題された報告書に詳しく報じられている。後者の報告書には、この地域で拘束された僧侶らに関しても、詳しく報告がなされている。

『反中国』勢力との戦い

青海省は、1929年の初頭に国民党主導の中華民国によって設立された。この地域の伝統的な住民は、チベット人とモンゴル人であった。彼らは、何世紀もの間、牧畜と農業で生計を立てて来た。

風の吹きすさぶこの地域は中国の中で最も劣悪な環境の領土であるが、現在では7つの行政区画から構成されている。その内の5つはチベット人の自治州となっており、以下の通りである。ツォジャン(中国語では海北蔵族自治州)、ツォロ(中国語では海南蔵族自治州)、マロ(中国語では黄南蔵族自治州)、ゴロク(中国語では果洛蔵族自治州)、ユーシュ(中国語では玉樹蔵族自治州)。ツォヌプ(中国語では海西蒙古族蔵族自治州)は、モンゴル人とチベット人の自治州となっている。ツォシャル(中国語では海東地区)は自治州となってはいないが、一千年以上もチベット人が暮らして来た土地であり、現ダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマ10世が生まれた土地でもある。シーニン(西寧市)は海東地区と同じように、少数民族の自治地区となってはいない。総合すると、6つの自治州で青海省の98パーセントを占めており、西寧市および海東地区を合わせても2パーセントに過ぎない。

チベットの伝統的な地域に非チベット人を移住させることは、次第に敏感な問題となっている。特に1980年代の中頃から、チベットの領域で経済発展を目指すためと、チベット民族主義と目される行動に対応するために、人口調節を指向する中国の政策が採られるようになった。つい最近青海省で打ち出された『三つの重点』と称する政治運動は、中国人の間の『不分離性』と『複数少数民族の登用』と『出身地を問わない』ことが、この地域の発展の柱であることを、チベット人の共産党幹部が肝に銘じることだとしている。

6月24日に世界銀行の理事会は、『中国西部貧困緩和計画』に総額1億6千万ドル(168億円)を融資する決定をした。3本柱から成るこのプロジェクトの1つの柱は、主に漢人と回族から成る5万8千人を移住させることで、4000万ドル(42億円)の融資を受けることになっている。この人々は現在海東地区や西寧の住民であるが、海西蒙古族蔵族自治州のドゥラン県に移住することになっている。このプロジェクトは、青海省の人口分布、経済問題、環境問題、人権問題に、前例のない程の脚光を呼び寄せる結果となり、プロジェクトに反対するアピールは『査問委員会』に山積みとなった。この議論の論点を説き明かす鍵は、世界銀行の『運用規定、第4条20項』にある。同項目では、世界銀行のプロジェクトに地元民が影響を受ける場合には、地元民たちは彼らの見解と意向を表明できるとされている。従ってこのプロジェクトも、それを考慮に入れなければならないのである。

「西欧の反中国勢力に対する中国の戦いは、このプロジェクトに限るものではない。世界銀行の理事会が、少数の亡命分離主義者たちの意見を信じないこと祈る」と、財政部の金立群副部長は6月18日付けの新華社電で語っている。世界銀行の融資に対して議論が巻き起こっていることを反映して、最近北京は幾つかの声明を発し、中央政府および地方政府は青海省とチベット自治区から『分離主義者』を根絶して、安定を増進することを重視していると語っている。これらの北京政府の声明は、世界銀行のプロジェクトに反対することは、国家に対する反逆と見なすということを、青海省のチベット人たちに明確なシグナルとして送っているのである。この地域では、意見を述べることに制約があるということを明確には指摘できないということを、この報告書が示そうとしているのである。

青海省の反体制活動家の特徴

反体制活動家を排除し、チベット人のダライ・ラマ法王に対する忠誠心に楔を打ち込むことを目的とした政策が、逮捕と投獄という結果を伴って、ここ数年青海省では強化されて来た。政府に対する抗議運動に参加する一般人の比率は、他のチベット人居住地域に比べると、青海省の方が高くなっている。大局的に言えば、1987年以降のすべてのチベット人政治囚の内で、およそ69パーセントが僧侶や尼僧であった。TINの記録によれば、青海省のこの数値は少し低くて、およそ62パーセントである。青海省では教師や学生による抗議運動事件の比率が高く、16パーセントに達している。他の地域では、これが僅かに5パーセントに満たない。

TINの資料によれば、青海省のチベット人政治囚の内およそ57パーセントが、中国政府の政策を批判するポスターを貼ったり、あるいは独立を求める文書を書いたとの疑いで拘束されている。ポスターを書くのは、僧院や学校で行われている政治的な再教育キャンペーンに対する、反発であることが多い。青海省のチベット人たちが政府を批判する場合には、単に独立を求めるという形式に留まらず、様々な問題点を指摘する形となる。例えば、宗教的な自由が欠落していること、チベット語教育を除外した教育制度、漢人のチベット定住を促進しようとする政策、またこの地域の環境破壊等である。このような抗議姿勢に見られる文化的な意識の高さが、政府の大きな懸念要因となっている。これらはすべて、チベット人の民族意識とつながっているからである。

青海省で多数のチベット人が拘束されていることは、過去15年位の間、チベットの領域で文化的なルネッサンス(復興運動)が起こったことと関連がある。これは、高名なチベット人作家のドゥンドゥプ・ギャルによって起こされた運動であった。彼は、1985年海南蔵族自治州のチャプチャ(中国語では共和)県で、自殺をして果てた。1980年代には青海省のチベット人知識人たちは、民族文化や民族文学の発展を認めている中国の憲法を盾にとって活動した。またパンチェン・ラマ10世は、1989年に亡くなるまでこの運動を後援し続けた。青海省の知識人たちは、現存する法律と政治的な枠組みの中で、変化を生み出すために働き続けたのである。

昨年亡命したアギャ・リンポチェは、厳しい政治的な管理の中で、自分自身の役割を果たそうとした高僧の良い例である。アギャ・リンポチェは、海東地区クンブム(湟中)県のクンブム僧院の元管長であった。僧院が文化大革命の際に大規模な破壊をされており、それを修復するための資金を集め、また修復事業を監督する役に就いていた。彼はまた僧院に学校を設立し、チベット語の読み書きとチベット文学を、200人の修行僧に教えた。その内の半数は、公認されていない修行僧であった。

ささやかな抗議をしようとするチベット人や、またチベット文化や宗教を興隆させようとする者は、反ダライ・ラマ・キャンペーンや広範な治安対策が強化されるに連れて、次第に圧力に直面せざるを得なかった。アギャ・リンポチェは、共産党のスポークスマンの役割と宗教的な信念との板挟みになって、チベットから亡命せざるを得なかったのであろう。

現在の制度の中でチベット文化を守ろうとして、拘束された青海省のチベット人の最も最近の例は、海南蔵族自治州チャプチャ県生まれのプンツォクである。彼は、ギャイェ・プンツォクと呼ばれることが多い。彼は前のパンチェン・ラマの側近で、中国人民政治協商会議の委員を努めていたが、昨年6月に67才で拘束された。彼は政府の許可を得てギャイェに私立学校を設立し、3カ国語(チベット語、中国語、英語)の教育を近隣の遊牧民の子供たちに施していた。チベット文化とチベット語を普及させよう、との彼の意図に政府が疑いを抱き、彼は忽然と姿を消した。西寧のどこかに拘束されていると思われる。

サムドゥプ・ツェリンは、青海省少数民族学院の研究員で、チベット人社会のもう一人の指導的な立場にいた。彼は、西寧近郊にチベット語、モンゴル語、英語を教える学校を開校した1カ月後の、1993年7月に逮捕された。サムドゥプは5年の刑期を終えて、最近釈放された。彼もまた、学校を開くための正式な許可を取得していたが、インドにあるチベット亡命政府から資金援助を受けたとの疑いを持たれたのであった。彼はまた、中国政府のチベット政策を暗に批判する詩を書いたとも言われている。

ラサの生活が青海省の抗議運動に与える影響

1987年から89年のラサでは市街での抗議運動が盛んであったが、それに比べると青海省ではこういった抗議運動は稀であった。しかしラサの事件が、青海省の活発な政治活動に影響を与えたことは否定できない。地元のことわざに曰く、「ラサが風邪を引けば、アムドが咳をする」。これは一体感を共有していることを表している。黄南蔵族自治州の首都レプコンに、1987年のラサの独立要求デモのニュースが届くと、地元の専門学校の学生たちは自然に通りに集まった。しかしながらここで特徴的なことは、学生たちは独立問題に焦点を絞らず、文化的な問題特に言語問題をスローガンに採り上げたのであった。

抗議運動に参加しその後亡命をした、青海省出身のチベット人がTINに語ったところによれば、要求を制度内での変化を求める形にすることによって、拘束を逃れる方法を学生たちは採っているという。彼らは、スターリンやレーニンまた周恩来の言葉を使って、少数民族の自治権とチベット語の存続を保証する政策を、政府に要求している。彼らが政府の建物にデモを行ったときには、一切のスローガンを叫ばず、政府との対話だけを要求したという。

1989年3月に戒厳令が施行されたときには、レプゴンの数百人の学生たちは、もっと感情的なデモを行った。「この時には、雰囲気がもっと高揚していた。18才から23才の民族中級学校の生徒たちが、通りをデモし始めた。そして次第に13才から16才位のもっと低学年の初級学校の生徒たちもそれに加わった。それでも我々は独立を要求したりはしなかった。こういった表現が使われるのは、街に貼られたポスターやチラシに限られていた」と、現在はレプゴンを去った、このチベット人は語った。政府は、学校の先生たちを取り調べたが、警察もデモの参加者を殴るようなことはなかったという。

青海省の治安政策と政治的投獄

青海省とチベット自治区において、政府が「草の根」治安政策を強化し、個人の監視を強めているとの証拠がある。そのためにここ数年で、正確で迅速なニュースを入手することが難しくなっている。ラサのような情報収集がし易い土地に比べれば、青海省との距離はとても遠く、人権監視機関への情報は限られている。したがって、この報告書に使われている青海省の政治囚の数も、実数よりは少なめに見積もっている。

1996年の青海省の或る州の国家公安部の資料によれば、この地域の治安政策の重要性は次の通りであるという。「外国敵対勢力とダライ民族分離一派は、活動家を潜入させ、破壊、扇動活動を行っており、我が州の目に見えぬ戦いはその痛烈さと複雑さにおいて、日に日に悪化の一途を辿っている。これは基本的にはダライ一派に対する戦いであり、政治的な対抗勢力との戦い、分離主義者と反分離主義者との戦いである」

TINが入手した資料によれば、政府は特に「不法に出入国する」チベット人の数が増加していることに、大きな懸念を抱いているという。青海省を離れるチベット人の大多数が僧侶であり、インドに旅していると資料は述べている。TINの調査によれば、青海省の宗教的な締め付けが強まったので、僧侶たちはインドに出てダライ・ラマ法王の教えを受け、さらに修行を続けようとしている。国家公安部の資料は、僧侶たちがチベットを離れるのは、『ダライ一派』の協力の下に『謀略活動』を行うためである、と決めつけている。チベット人が亡命している間も監視が行われていることを、同資料は裏付けている。同内部資料によれば、69人の『狙いをつけられた人物』の中には、「ダライ一派の亡命政府と接触をし、仕事を与えられて我が国に帰って来た」者もいるという。

TINの逮捕者の記録には、過去12年間に青海省で逮捕された96人の政治囚がいる。1987年以降のチベット人政治囚の記録では、彼らの占める割合は6パーセントに過ぎないが、TINが今年3月に『敵対分子(Hostile Elements)』を刊行した後に限れば、新たなる逮捕者の記録の中では青海省の政治囚は最大多数を占めている。現在のところチベット自治区からよりも、青海省および四川省のチベット人居住地区からの、政治的な投獄の報告が数が多くなっている。

他に青海省に居住する26人のチベット人政治囚が、逮捕されたか或いは逮捕されたと思われたのだが2人は逃亡し、残りの人々は釈放されたと思われる。政治囚の内60人が僧侶で、36人が一般人の男性である。一般人の内、学生または教師が15人で、研究員あるいは政府の役人が7人、チベット美術分野の芸術家が5人、農民または遊牧民が3人、商人が1人である。他に職業の判らない政治囚が、5人いる。以上がTINが掌握している青海省の政治囚の資料である。

概して言えば、チベット人政治囚の内およそ4分の1が女性である。その内、80パーセントが尼僧である。TINが把握している青海省の政治囚の記録においては、僅かに1人が女性である。彼女の名前はリンチェン・ドルマ、彼女が1996年4月拘束された時には、青海省少数民族学院予備課程の20才の学生であった。リンチェン・ドルマの現在の状況は、判明していない。

政治囚の記録に基づけば、青海省で最も政治的に活発な僧院は、ラプギャ僧院(果洛蔵族自治州のマチェン県の辺鄙な地にある)、ロンポ・ゴンチェン僧院(黄南蔵族自治州の首都、レブゴンにある)、クンブム僧院(海東地区湟中県)である。現在の資料に基づいてTINは、16人のラプギャ僧院の僧侶と、13人のロンポ僧院の僧侶、そして12人のクンブム僧院の僧侶が拘束されている、と判断している。(これらの僧院の騒動の詳細については、近々発行されるTINの報告書、『苦海:青海省僧院の愛国教育(A Sea of Bitterness : Patriotic Education in Qinghai Monasteries)』に報告されている)逮捕者の実数は、報告書に挙げられている数値よりは多いことがよくある。逮捕された時の年齢は、53人については判明している。平均年齢は28才で、最年少は19才最年長は67才である。

1987年には、TINによって記録されているチベット人政治囚は、わずかに2人であった。また1992年以前は、青海省で記録に残っている政治囚はいなかった。しかし1992年に、漢人がチベット人居住地区へ旅行する際の制限が撤廃され、漢人たちは職業や商売の機会を求めてチベットに流入し始めた。そして1992年には7人が逮捕された。さらに1993年には21人が逮捕された。1993年に投獄された者の内、3人がスパイ罪と反革命罪、『民族統一を分裂させ破壊する罪』、『各民族間で紛争を扇動する罪』で裁かれている。海西人民中級裁判所は、彼らに12年から17年の懲役刑を課した。ルカル・ジャムは、最長の刑期を言い渡されたが、1995年に医療のために仮釈放された際に逃亡し、亡命を果たした。ナム・ロヤクとツェゴン・タルの他の2人の刑期は、1997年末に減刑となった。これは極めて異例な事例で、青海省人民高級裁判所が2人の控訴に応じたもので、判決は有効であるが刑期が長すぎるという判定であった。教育関係の役人であったナム・ロヤクの刑期は、12年から4年半に減刑となった。彼も現在は、亡命をしている。ツェゴン・タルの刑期も、16年から6年に減刑となった。

政治的キャンペーンの衝撃

ダライ・ラマ法王批判を強制され、中国が指名したパンチェン・ラマの受け入れを強いられているチベット人の絶望感は、青海省においては強烈である。何故なら青海省は、現ダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマ10世の誕生の地である。これに対する反発心の強さは、入手可能な逮捕者の資料に如実に現れている。TINが入手している資料によれば、1996年以降に青海省で逮捕された政治囚の内、およそ60パーセントがダライ・ラマ法王批判を拒否したり、北京が選んだパンチェン・ラマの受け入れを拒絶したためである。報告書『敵対分子』に掲載されている証言によれば、僧侶や尼僧が僧院から追放され故郷に帰ったことが、青海省全体に広がった抗議運動の種となった

1994年と1995年の騒動で、逮捕された人々の数は明らかではない。1994年には2件の逮捕事件があり、1995年には7件あったことが、TINによって判明している。1994年以降には、記録されているよりも多くの逮捕事件があったことが推察されている。何故ならば、中国政府が彼らが認定したパンチェン・ラマに対する忠誠心を人々に要求したこと、また政治的な『厳打(Strike Hard)』キャンペーンの結果としてである。ギャルツェン・ノルブ少年をパンチェン・ラマとして即位させた結果、抗議運動が起こった例は、タシルンポ僧院に次いで2番目のパンチェン・ラマの御座所とされているクンブム僧院において、特に明白である。

独立要求ポスターやチラシが、僧院の中で見受けられるようになったのは、1995年10月のことであった。1996年5月には、クンブン僧院付属のンガリク・キェ・ツェリン学堂が、青海省政府と公安部の命令で閉鎖された。この際に、25人のクンブム僧院の僧侶が一時的に拘束された。

TINが入手した1996年の国家公安部の内部資料によれば、中国選出のパンチェン・ラマが即位したことが、この地域の治安の不安定要因となったとしている。『分離主義者勢力』とは、「ダライによって不法に認定されたパンチェン・ラマの転生者、ゲンドゥン・チュキ・ニマを喧伝し、彼の写真を秘密裏に配布している者たちのことだ」と、同資料は述べている。

愛国教育キャンペーンの主要な政治目標は、ダライ・ラマ法王に対する信用を失墜せしめ、彼を非難することを拒んだ者たちに刑罰を課すことにある。チベット自治区以外のチベット人の自治区域では、1997年の初頭から実施されている。TINの記録には、この件で青海省で逮捕されたチベット人の数は、1996年には19人、1997年には21人、1998年には17人となっている。

逮捕事件の報は、表面化するまで平均すると1年から3年かかっている。1999年に関しては、現在の所まだ到着してはいない。また1996年から1998年の数値も、今のところ不完全なものである。しかしながら1987年以降に、青海省で政治的な理由で逮捕されたチベット人の60パーセントは、過去3年以内に逮捕されたものである。この地域からの非公式な報告書は、中国政府の政策の評判が良くないこと、また様々なキャンペーンが抗議運動や逮捕事件増加の原因だ、と指摘している。

TINが1987年から現在までに報じている、政治的逮捕事件のおよそ77パーセントは、青海省の3つのチベット人自治州、黄南蔵族人自治州(30件)、海南蔵族自治州(26件)、果洛蔵族自治州(18件)で発生している。残り(22件)は、西寧市または海東地区で起こったものである。海西蒙古族蔵族自治州は、唯一チベット人逮捕者を、最近出していない地域である。ここはまた、チベット人の少数民族化が最も進んだ蒙古族蔵族自治州でもある。1950年代の中頃までは、海西蒙古族蔵族自治州の人口の大多数をチベット人とモンゴル人が占めていた。ところが1990年に公式な人口調査が行われたところ、彼らは人口のわずかに17パーセントに過ぎなかった。海西蒙古族蔵族自治州の南東の角に位置するドゥラン県は、3つのチベット人自治州(果洛蔵族自治州、海南蔵族自治州、玉樹蔵族自治州)に接している。この3つの自治州ともまだ、チベット人が多数を占めている。そして最近の政治的な逮捕事件は、すべてこの3つの自治州で発生している。こういった統計数値は、漢人の流入増加は地域の『安定』を向上させるとの、中国政府の公式見解を裏付けている。しかしながらこういった『進歩向上』は、民族のバランスという観点から見て、チベット文化やチベットの伝統が根絶されたと言えるような環境で起こっているように思えるのである。

犯罪と司法手続き

TINが把握している青海省の逮捕事件は96件であったがその内、57件が1996年から1998年の間に発生した。その内のわずか4件だけが、司法あるいは行政の裁定を受けて、1年半から5年の刑を言い渡されている。

逮捕されたり政治的な活動で取り調べを受けた人々が、司法上あるいは行政上の刑を言い渡される比率は、青海省においては他の地域に比べると遥かに低くなっている。TINの記録によれば、青海省のチベット人政治囚の僅かに21パーセントが懲役刑の判決を受けているだけである。これに比べて他の地域では、チベット人政治囚の58パーセントが懲役刑の判決を受けている。TINの資料によれば、青海省ではチベット人政治囚の79パーセントが、如何なる法的な手続きも受けてはいない。これも他の地域では、法的な手続きを受けていないチベット人の比率は、41パーセントである。

1996年以降、53人のチベット人政治囚の内16人が、司法や行政の手続きを経ずして拘束されている。彼らは将来、判決を受けるかも知れないのである。その内およそ半数が僧侶であり、半数が一般人となっている。1996年以降の政治的逮捕事件の内37件が、いかなる司法手続きも取らなかったが結果的に釈放された。しかし逮捕者その後、僧院や学校あるいは職場から追放となることもある。

拘束期間は、最短の者で1日、最長の者でおよそ7カ月となっている。何らの手続きを経ず拘束する事例は、37件中で34件(1996年以降で)に達している。14件が3日以内であった。10件が1週間から2週間で、10件が2カ月から7カ月であった。平均すると、1カ月を上回る程度(32日)である。

手続きなしの拘束は結果的に釈放となる確率が高いので、チベット自治区のようにチベット人政治囚の刑期が次第に加算されて行く事例はない。TINの記録によれば、およそ300人のチベット人政治囚が、ラサのダプチ刑務所に拘束されている。青海省では、現在政治囚として拘束されていることが判明しているチベット人26人の内、3人の刑期しか判明していない。その最長の者で、7年である。

脅迫戦術と拘束期間の短縮

長期的に見ると、青海省のチベット人たちはチベット自治区のチベット人たちに比べると、歓迎したくない漢人の進出に対する対応策という点で、経験が豊かである。清帝国の頃以来、あるいは人民解放軍が中央チベットに達する以前に、青海省のチベット人たちが赤軍と戦って以来、漢人と回族の帝国主義者たちは青海省で激しい反抗に遭遇している。しかしこういった歴史が存在しているにも拘わらず、入手可能な資料の示すところによれば、青海省政府はチベット自治区政府に比べれば、逮捕者に対して激しい殴打を加えたり、長期拘束に訴えたりすることは少ない。

青海省の政治的投獄の特徴は、いかなる司法手続きもなしに比較的短期間、拘束される者が圧倒的に多いことである。青海省からの最近の情報によれば、特に愛国教育キャンペーンが実施されて以来のことであるが、政府は彼らが言うところの『寛容』な手段を、投獄よりも多用しているのかも知れない。

この期間に青海省で逮捕された57人の内、僅かに4人だけが判決を受けたが、37人は釈放された。釈放された者の内、およそ4分の1が3日以内の拘束であった。しかし政府の政策を受け入れ、支持するようにという強い圧力を懸けられている。多くの場合、政府の政策を受け入れることを約束した誓約書に、署名するか、指紋を押すように要求された。もし逮捕者たちが態度や行動を改めなかったら、投獄あるいは他の罰を受けることを約束させられた。

確実に厳しい罰が下ることは、さらなる反抗を抑えるには十分であることが多い。人権問題で批判に直面している中国人にとって有利である点は、逮捕者たちがどのような処遇を受けているのか目撃することができず、また証拠の入手も困難である事である。最近の青海省の少なくも2件の事例では、チベットの領域の殆どの地域でそうであるような、拘置所での短期拘束は実施されなかった。逮捕者たち(果洛蔵族自治州のチェガル僧院とラプギャ僧院の僧侶たち)は拘置所に送られることもなく、村落内の施設に警察と他の役人たちによって拘束された。そして強い脅迫が繰り返し加えられた。しかし長期に亙る拘束ではなかったし、また殴打や拷問が加えられることもなかった。こういった場合の警察の訓戒は、「注意深く考え」、「正しい決断を下す」ことだという。

一時的な拘束が、重大な結果を生み出す例は他にもある。ジャムヤン・イェシェは、クンブム僧院で騒動を起こし逮捕された、25人の集団の1人であった。およそ2カ月間拘束されて、拷問を受け意識不明で釈放された。喜劇役者でありまた作家でもあるメンラ・キャプ(メンラ・チャとも綴られる)もまた、1993年に海南蔵族自治州で逮捕されて、虐待されたと言われている。彼は釈放されるとすぐに、病院に収容された。

メンラ・キャプの逮捕は、1993年の夏、中国共産党総書記の江沢民が海南蔵族自治州の州都チャプチャを訪問する直前に、実施された知識人や芸術家の一連の逮捕の一環であった。この時に逮捕された人々の中にはチベット人の役人や、チベット語の使用を促進するために設立された政府機関で働いている知識人たちも、数人含まれていた。

青海省政府が通常好んで使用する、司法手続きなしの短期拘束と脅迫して逮捕者の態度を改めさせる方策が、この弾圧作戦でも使用された。またこの地域で実施されている政治的なキャンペーンが、不人気であることに政府も気がついていたので、政府の側でも注意をしている様子があった。1980年代の後半に、政治的な抗議運動がラサ中心地の激しいデモに発展したチベット自治区では、もっと厳しい対応が普通であった。TINが現在リストに挙げている81人のチベット人政治囚は、10年以上の懲役刑の判決を受けている。65人が今も投獄されている。青海省には1人もいない(64人がチベット自治区、1人が四川省の甘孜蔵族自治州である)。

拘束されている間の虐待による死亡も、権威主義的な復讐の際立った特徴となっている。1987年以降に、33件のそういった事例がTINによって記録されているが、1995年以降に際立った増加を見せている。33件の内1件を除くと、残りのすべてはチベット自治区で発生している。また青海省においては、1件もない。

チベット人政治囚と労働改造収容所(ラオカイ)の制度

青海省には大ざっぱに言って、囚人が産業に従事する『労働改造収容所』が1ダースも存在している。そのすべてが、西寧あるいは海東地区に存在していると思われる。西寧市の行政区域内には、少なくとも9カ所の水力発電の部品製作所がある。そこでは、機械や工具、木製品や金属製品、プラスチック製品やレザー(鞣革)の外套が製作されている。ドゥラン県には、少なくとも2カ所の農業労改(ラオカイ)が存在している。シャンリードゥとノムホンである。そして恐らく第3の農業労改(ラオカイ)が、シァリーヘに存在している。他の労改(ラオカイ)は、海西蔵族自治州の州都デリンハと、産業と天然資源の採掘の基地となっているゴルムドに存在している。

農業労改(ラオカイ)として活発な活動を続けている施設は、海南蔵族自治州のチャプチャ県とマンラ県にも存在している。1980年代以降の青海省の地図は、内部資料に分類されており、青海省全体に多くの施設の存在を示している。これには1950年代以降、強制労働収容所として機能を果たして来た、海西蔵族自治州やドゥラン県も含まれている。しかしその殆どが現在では、刑務所施設としての役割を終えているか、または廃止されている。

『新幽霊と古幽霊(New Ghosts, Old Ghosts)』(James Seymour著、1998年、M.E.Sharpe出版)は、1995年には19カ所の「専ら囚人労働力に頼った巨大な施設(工場や農場)が青海省に存在していた」(153頁)と述べられており、これはTINの調査とも一致している。セイモール(James Seymour)の研究では、青海省全体の囚人数は2万2千人から2万4千人と推定されている(154頁)。しかもこれは、彼が内輪に見積もったという推定である。これには、あらゆる形態の拘置所(労働改造収容所、拘置所、麻薬常習者の厚生施設等)が含まれている。彼は、どのような理由であれ、またいかなる施設に拘束されている者であれ、青海省のすべてのチベット人囚人を推定して、その数は1995年に1200人から1500人であったろうと言う(168頁)。省レベルの労改(ラオカイ)に収容されているチベット人たちは、第五労働改造収容所に送られる。水力発電の部品製作工場で、西寧市のすぐ西にある。1991年には、234人のチベット人を収容所していた。その内の何人が政治囚であるかには、彼は言及していない。

シァンリドゥ労働改造収容所は穀物生産企業で、世界銀行の報告書によれば「入植地域から48km離れた所」にある。セイモールの判断によれば、1995年には2000人から2500人の囚人がいた(141頁)。ゴルムドに行く街道沿いで入植地の西に位置する、ノムホン労働改造収容所(ラオカイ)の囚人数は、シァンリドゥよりも数百人位少ないのであろう。ノムホン労働改造収容所は、成功した穀物生産企業であるだけでなく、付加価値製品を生み出す穀物精製工場を建設して、さらに利益を上げている。労働改造収容所は穀物を国家に納入するだけでは飽き足らず、利益率の高い穀物製品の精製工場に変身している(143頁)。この第2段階の精製能力は、自らの収容所で生産する穀物だけでなく、それ以上の穀物も精製する能力を持っている。

過去20年間に、ドゥラン県の労働改造収容所の数と囚人数は減って来ているが、セイモールの推定によればドゥラン県全体の人口の18パーセントは、囚人によって占められているという。「これは中国の中で1つの県としては、最大の囚人数を持った収容所である」(136頁)。数人のチベット人政治囚は、『西寧刑務所』に投獄されていると伝えられている。これも恐らくは省レベルの拘置所で、囚人たちはレンガを焼いているという。TINは、海西地区を除く青海省のすべての自治州にある、州レベルの拘置所に捕らわれている、チベット人政治囚たちを調査したことがある。

拘束と強制労働を広い意味の経済活動に取り込むという視点から言えば、労働改造収容所は青海省の最も際立った特徴を形成している。これらの施設に収容されているチベット人政治囚の数を、TINも厳密に挙げることができないことは残念である。青海省の労働改造収容所がチベット人に与えている最も大きな衝撃は、チベット人政治囚から労働力を奪っていることではなくて、恐らく地元の工業生産力や消費市場、また労働市場に強い影響力を持っていることである。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 ダライ・ラマの誕生日祝賀への弾圧を強化する、さらに過酷な措置

TIN News Update, 06 August 1999
Harsher measures to enforce ban on Dalai Lama birthday celebrations

ダライ・ラマの誕生日祝賀への弾圧を強化する、さらに過酷な措置

ラサ当局は今年、チベット人たちが7月6日のダライ・ラマの64歳の誕生日を祝うのを妨害するために過酷な措置を講じた。ハイレベルの会合が、祝賀行事を妨害する当局の「成果」を告げ、チベット自治区ではこの記念日は違法なのだとチベット人たちに明確に示した。TINが入手した政府の文書は、ダライ・ラマの誕生日祝賀が、国家の安定を脅かしており、観光業を妨げているとしている。

反ダライ・ラマのキャンペーンが強化されるにつれ、当局による厳しい警戒にもかかわらず、中国の選んだパンチェン・ラマが6月にラサとシガツェへ帰還することにともなって、いくつかの反体制的な動きがあった。9歳の少年ギャルツェン・ノルブは、1996年シガツェのタシルンポ寺での即位式以来初めてのチベット訪問のために、6月17日、軍に護衛されつつラサに連れてこられた。この幼い少年への支持を確保するため、当局はさまざまな措置を講じた。パンチェン・ラマの伝統的根拠地であるタシルンポ寺では、反体制的活動への恐れから特に厳しいものとなった。

政治的に微妙な記念日や、開催が予定されている少数民族スポーツ大会のため、ラサでは治安が強化され、軍車両と軍人がますます多く目につき、街の主な入口では、武装した兵士が配置された検問所が設けられた。


7月6日のダライ・ラマの誕生日を祝うことは、1989年12月以来公式に禁止されているが、近年、チベット人たちはラサの東郊外にある特定の場所に集まって、香を焚いたりツァンパ(炒った大麦粉)を投げたりして、この日を祝ってきた。先月、この集まりを妨害するためにラサで厳しい措置が講じられ、誕生日祝賀に使われる場所にある香炉を当局者が破壊したと伝えられる。ラサ東郊外にあるカルマ・ガルサルという場所は、ダライ・ラマ7世のときにお堂が建てられて以来、ダライ・ラマの誕生日を祝うために用いられてきた。現在、当局はこの場所を新しい小学校のための敷地とすることを計画しているという。

7月6日、チベット人がカルマ・ガルサルに入るのを妨害するために、公安局、旅行許可課、人民武装警察の要員が入り口に配置されたと伝えられる。非公式報告によると、誕生日当日、香を焚く儀式を行なうためにこの場所に近づこうとしたチベット人数人が、公安局部隊によって殴られたという。インドのダラムサラを拠点とする独立系非政府組織チベット人権民主センター(Tibetan Centre for Human Rights and Democracy)の報告によると、誕生日当日、60歳のある男性も、バッグの中に大麦の粉があるのを公安に見つかって、ひどく殴られた。伝統的にダライ・ラマの誕生日祝賀を組織することに関わってきたラサのナムギャル寺とクンデリン寺の僧侶らは、今年の誕生日祝賀の行事を組織することに少しでも関わったことが見つかったら投獄すると脅迫された。複数の信頼できる報告によると、ダライ・ラマの誕生日に伝統的に行なわれる「ラ・ソル」の儀式の一部として空中に投げるツァンパの販売が、ラサではこの誕生日と同じ頃中止もしくは制限されたという。

ラサ市当局は、今年のラサの「トゥン・ラ・ヤルソル」の儀式(ダライ・ラマ法王の誕生日祝賀)に対処するにあたって、幹部らを賞賛する会合を開催する異例の措置をとった。会議には、郭金龍=チベット自治区党委員会常務副書記やニマ・ツェリン=チベット自治区政府副主席など重要な指導者が出席し、その会合がハイレベルのものであることを示していた。政府各部局の指導者や「県レベル以上の」党員も参加した。8月2日にチベット・テレビで放映されたこの会合で、政府幹部らは、現地組織による「不法な『トゥン・ラ・ヤルソル活動』」に対処する「目立った成果」を称えた。特に賞賛を受けた組織の中には、チベット武装警察部隊と市の公安局があった。

郭金龍はこの会合で次のように語った。「ラサ市によるトゥン・ラ・ヤンソル不法活動への対処の成功は、ラサ市が強力な指導力を備えた党委員会と政府をもち、有効な草の根組織工作を指揮してきたことを示している」。ラサ城関区党委員会書記であるチャムパ・プンツォクは「不法活動」の非難をする中でさらに次のように言い及んだ。「反分裂主義闘争で勝利を得るために、我々は、ダライおよび不法な宗教の前で、厳正かつ大胆に振る舞わねばならない。すなわち、我々は、祖国再統一と国家安定を害し、社会に否定的影響を及ぼすすべての不法宗教活動に対して、断固として対処し徹底的に糾弾すべく大胆であるべきなのだ」。この会合では政府が直面している2つの「重要課題」、すなわち「情勢の安定と、経済の発展」が焦点となった。当局は、チベット人たちのダライ・ラマへの忠誠心が、チベットの安定に最も深刻な脅威となっていることを認めている。

7月14日付の当局による文書は、ダライ・ラマの誕生日祝賀を禁止する政治的な理由を確認している。TINが入手したこの文書によると、禁止令が敷かれたのは、この時期が「反動分子によって、チラシを配布したり、独立の旗を掲げたり、混乱や政治的な騒動を起こしたりする機会として利用されるようになった」からだという。

同じ文書の中で当局は、誕生日を祝う行為は、チベット自治区の反ダライ・ラマ・キャンペーンへの直接的な違反になると主張している。その文書は次のように述べている。「海外逃亡後、ダライ・ラマは過去40年一貫して、祖国分裂という政治的動機によって反動的活動を推進することを決して止めていない」「彼は、『聖俗』を両立させた政府を装った封建的統治による残酷な全体主義政権の復活という悪しき欲望を未だに抱いている。ダライのための祝賀や祈祷は、ダライの分裂主義一派に対する闘争の目下のキャンペーンに直接的に反するものだ。・・・特に、党委員会メンバー、大勢の党員、労働者、退役労働者らは、ダライに反対する明確・明瞭な立場をとるよう保証しなければならない」。

この政府文書は、誕生日の儀式はまた観光業を害するとまで述べている。「『トゥン・ラ・ヤルソル』(誕生日祝賀)の行事は、ラサの好ましいイメージを作るための大きな障害となっている」。そして、「この行事はまた、国外そして国内からの我々の客人がラサに到着し始める重要な観光シーズンと一致して行なわれる。通行人にツァンパを投げつけたり、旅行者の交通を妨げるような行為は、この街のイメージと評判を落とす反社会的な行動となる」。

1991年、ラサでこの誕生日を祝っていた群衆を治安部隊が襲ったとき、1人のチベット人が警官に刺殺された。事件はその年の7月6日、ラサのチベット人居住区のトムスィカン市場で、中国人のジープのドライバーが、彼にツァンパを投げつけたチベット人群衆めがけて車で突っ込むと脅したというもめごとの後で起こった。25人の人民武装警察部隊が到着し、2発の威嚇射撃があった。マルカム出身でラサに巡礼に来ていたパサン・ツェリンの刺殺は、警官が人垣の中で人々を追い回し始めたときに起こったと言われている。

チベット人は伝統的に、おめでたいできごとを祝うために、空にツァンパの粉を放り投げる。この儀式がラサで当局によって最初に禁止されたのは、1989年12月。中国当局が、チベット人たちがこの儀式をダライ・ラマへのノーベル平和賞授与を祝うために使っていることに気づいた後のことである。

中国版パンチェン・ラマ訪問にともなう反体制的な動き

ラサ当局はチベット人に対し、中国の選んだパンチェン・ラマ、ギャルツェン・ノルブ少年を支持するよう、6月の少年のチベット入り以降、圧力をかけ続けている。しかし、非公式の報告によると、ラサやシガツェでのこの少年の登場は大きな憤りを招いた。ある信頼できる情報によると、6月に少年がチベットで最も聖なるラサのジョカン寺を訪れた翌日、チベット人たちは、少年の写真や、彼が釈迦牟尼像の前に残した「メン・テル」(宗教的な供物)をひっくり返したという。

少年がシガツェに連れてこられる前、パンチェン・ラマの伝統的本拠地であるタシルンポ寺の僧侶らは、中国が認定したパンチェン・ラマだけを受け入れなければならないのみならず、彼を信じなければならないと告げられた。同じ非公式情報によると、「彼らがそうするかしないかが、政治的立場の指標となり、僧院に残れるかどうかを決定づけることになるだろうと告げられた」という。シガツェ現地政府のチベット人党員や市内の学校の生徒らは、その少年を支持していることを示すため、中国版パンチェン・ラマの祝福を受けるよう命じられた。

チベット当局は彼の訪問のために、普通ならロサル(チベット暦正月)にジョカン寺の外側に掲げる特別な垂れ幕と、礼拝場所の上にある法輪に掲げて重要なラマであることを示す特別の旗を用意した。6月17日の夕刻、2台の青いトラックがジョカン寺の外側に止まった。1台には、軍服に身を包み、自動小銃をコートの下に隠そうとする兵士約40人が、もう1台には、私服の約40人が積まれていた。そのトラックは、警察と軍の車両を従えていた。金属探知器とX線手荷物検査機がジョカン寺に運び込まれた。その夜、ジョカン寺前の露天は臨時に移動させられた。明らかに、アクセスを容易にするためだった。翌朝、ギャルツェン・ノルブが1996年の即位以来初めての訪問としてチベットに到着したとき、ゴンカル空港からラサへの道路には、警察と軍の車両がずらりと並んでいた。

彼のチベット訪問をめぐるこうした治安措置は、中国の選んだパンチェン・ラマがチベット人の間で不人気であり、そのことが自治区での「安定」への脅威となっているのだと、チベット自治区政府が知っていることを示している。ギャルツェン・ノルブの訪問は、チベット仏教が栄えているという印象を国外に対して与える意図もあったが、少年のシガツェ訪問のときチベットにいた欧米人ジャーナリストのグループは、ギャルツェン・ノルブに近づくことを拒否され、もっぱら、チベット人たちの、ダライ・ラマの選んだ転生への信仰を報道した。その転生ゲンドゥン・チュキ・ニマ少年は目下中国当局によって、未知の場所に捕らわれている。

街の封鎖と旅行への制限

3月からのチベット「民主改革」40周年記念行事、そして、10月1日の中華人民共和国建国50周年と8月25日からラサで開催される第6回少数民族スポーツ大会の準備のため、当局はチベット自治区における安定を固めようとしている。少数民族スポーツ大会は、1997年9月のギャルツェン・ノルブ=チベット自治区主席(当時)の声明によると、「民族の団結を強化し、兄弟各民族どうしの友好的交流を推進し、中国の全民族の一致した発展と反映を促進すること」を意図している。

チベット自治区の別の地区からのラサに入るビジネスマン、巡礼者、農民や遊牧民などラサ以外のチベット人たちが規制の対象になった。チベット人情報提供者はTINに次のように伝えた。「これらのイベントを祝うことは、共産党の指導のもと、チベット人は幸福に暮らしており、社会は安定しており、経済は発展しているのだ、ということを示すために計画される」「中国政府は、ラサに出入りするラサ以外のチベット人が、彼らの計画の大きな障害であり、中国政府とチベット人の間に壁を作る厄介者であるという疑いから、旅行を制限した。中国政府は特に、過去数年に国外にいたことのある多くのチベット人を、中国政府への潜在的な反抗分子として疑っている」。

ラサを訪れたいチベット人は現在、地元の当局からの許可証や書簡の形式の書類を持っていないと、ラサへの道中にある検問を通過できない。検問は、北のナクチュ地区からラサに入る道中のトゥルン・デチェンに1ヵ所、ラサ南西のロカとシガツェの間にあるチュシュルに1ヵ所ある。ある目撃者によると、後者の検問所は、道路がキチュ河を渡るところに位置し、川の両岸に半自動小銃をもった武装兵士が配置されている。

旅行規制の主な対象はチベット人だが、当局の関心を反映して、最近の「民主改革」40周年記念の祝賀行事の間、ラサを旅行する際に苦労させられている外国人もいる。7月14日から16日の3日間にわたってポタラ宮前で開催された中国中央電視台芸術団による祝賀行事の間は特に、ラサ市内および周辺地域での旅行者の動きは厳しく制限された。ある旅行者グループは旅行代理店から、この時期にガンデン寺を訪ねるのは「政治的に適当でないだろう」と告げられた。路上で大量の軍事車両を目撃したり、ポタラ宮の前で少なくとも4台の兵員輸送車を目撃した者もいる。オーストラリア緑の党のボブ・ブラウン上院議員は、7月15日にラサに向かう途中、ラサに向かう軍用トラック3隊を追い越したと述べた。ブラウン上院議員はTINに次のように語った。「ラサには大量の軍隊がいた。町中で非常に多くの軍用トラックを見た」「どんな形の抗議であれ、しようという危険を冒すチベット人がいれば、数秒で逮捕されただろう」。

3月10日の僧に判決

非公式報告によると、ラサ蜂起40周年の3月10日にデモをした2人の僧に、それぞれ3年と4年の刑が言い渡された。TINが入手した1枚の写真には、2人の若い僧侶が写っている。平服をまとい、坊主頭を覆う帽子をかぶった16歳のプンツォク・レグムン(俗名ツェテン・ノルブ)とナムドル(俗名ソナム・チュダク)が、デモの前のジョカン寺近くに立っている。プンツォクとナムドルは、ラサの街で疑われるのを避けるために、平服を着ていたのだろう。ラサ周辺のいくつかの主要僧院の僧侶は、祝賀の期間、ラサに入るのが禁止され、取締りが厳しくなっていた。前回の1980年代後半のラサの独立支持デモを率いたのは、僧や尼僧だった。

ラサの北西にあるトゥルン県のタクルン寺の2人の僧は、3月10日午後早く、ラサの伝統的なチベット人地区であるバルコルに入った。2人の僧は、拳を振り上げて「チベットに自由を。チベットは中国の一部ではない」そして「中国人は中国に帰れ」と叫んだという。数分のうちに、プンツォク・レグムンは捕らえられて、近くの派出所に連行された。ナムドルは当初逃げようとしたが、やがて捕まった。信頼できる報告によると、警官は2人を拘束するとき、警棒と拳を使って殴った。

ラサ中級人民法院のある役人は、プンツォクとナムドルが判決を言い渡されたことを今のところ否定している。裁判所の役人チャン・ジェは7月27日、AFPの電話インタビューに対して「最近数ヶ月の間、我々は、あなたが言うようないかなる判決も下していないのは確かだ」と答えた。

3月10日に捕らえられた2人の僧侶の写真は http://www.tibetinfo.net/images-new/2monks.jpgで見られる。

以上

(翻訳者:長田幸康)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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