36号(1999年5月)

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 世界銀行、懸案の移住計画に資金提供

TIN News Update, 27 April 1999
World Bank Funds Controversial Population Transfer Scheme

世界銀行、懸案の移住計画に資金提供

世界銀行は、青海省の人口分布に劇的な影響を与え兼ねない、懸案の中国政府のプロジェクトに数億ドルの投資をするか否か2カ月の内に決定をする予定である。青海省のツァイダム盆地の西方に6万人以上の貧しい農民を移住させることによって、この地域の漢民族の人口を増加させることになり、チベット人やモンゴル人をさらに辺境の少数民族にしてしまうことになる。歴史的なチベットの領域に漢民族を移住させることは、チベット人が彼らの文明やアイデンティティや土地を守る等の、彼らの生存権を脅かされるという観点から、チベット人が最も警戒している問題である。

『中国西部における貧困緩和プロジェクト』、これが世界銀行の委員会が6月8日に最終的な承認を与えようとしている計画の名称だ。この計画は、青海省の幾つかの地域さらに甘粛省および内モンゴル自治区を含む地域の開発計画である。世界銀行は、この計画の重点地区である青海省のドゥラン県に61775人を新たに移住させるために、中国を支援しようというのだ。移住する農民の内に、この地域の地元民たるチベット人やモンゴル人は1人も含まれていない。

このプロジェクトは、世界銀行自身の指針すなわち、少数民族が「世界銀行の資金援助を受けた計画から被害を受けてはならない」という指針に抵触するのではないかと、チベット環境問題の専門家であるガブリエル・ラフィティ、オーストラリア・チベット委員会の開発援助担当理事は語っている。ラフィティ氏がTINに語ったところによれば、「このプロジェクトが実施されれば、この地域にさらに多くの漢民族と回族の移住者が入り込み、モンゴル人やチベット人の自治はさらに失われることになる」という。ツァイダム盆地に入植者を移住させる計画は、世界銀行から4千万ドルの支援を受け、潅漑農業に最も適した農地を活用しようとするものである。このプロジェクトは終始一貫、最初の企画から実行・見直しに至るまで、すべて中国政府の責任によるものである。

中国政府の主要な目的の1つは、チベットの領域を含めて西域の貧しい農民の収入を増大させることにある。しかし同時に他の開発目的は、この地域に埋蔵されている貴重なまた膨大な地下資源を十分に利用するために、社会基盤を整備しようということである。世界銀行は、この長期的な目標に関与しているとの疑惑を否定し、このプロジェクトは中国西域の辺鄙な山岳地帯に暮らす少数民族の貧困を撲滅することを特に狙った、以前の世界銀行のプロジェクトをモデルにしたものであると説明している。世界銀行はまた、このプロジェクトが適用され将来農耕地帯となる区域で、囚人が労働させられるのではないかという懸念を否定している。ドゥラン県は、1950年代を通じて広大な労働改造収容所の一部となっていた地域で、以来囚人労働力は土地開拓作業の主要な原動力となっている。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 青海省の開発と移住政策:ツァイダム盆地プロジェクト

A TIN Special Report, 27 April 1999
Development and Population Transfer in Qinghai : The Qaidam Basin Project
" A Loss of Autonomy " : Project Profile

TIN特別報告:1999年4月27日
青海省の開発と移住政策:ツァイダム盆地プロジェクト

『自治の喪失』:プロジェクトの概要

中国政府は、青海省の野心的な開発プロジェクトの陣頭指揮を採っている。甘粛省や内モンゴル自治区も含んだ地域で、貧しい農民をツァイダム盆地に移住させようというのだ。その費用は、3億3千4百万ドル(417億5千万円)を要する。プロジェクトは、この地域の人口分布と環境保全の両面で、劇的な影響を与え兼ねない虞れがある。最近、世界銀行は中国における最大の外国投資勢力となっているが、目ぼしい標的となった青海省のドゥラン県に61775人の入植者を移住させようという、中国政府の政策を支援しようとしている。入植者となる貧しい農民の60パーセント以上が、回族・トゥ族・サラール族の三民族であって、チベット民族は1人も含まれていない。残りの39パーセントが漢民族であると、TINが入手した1998年10月に世界銀行が出した内部文書は述べている。

ドゥラン県は7世紀以来、チベット人遊牧民の土地であった。中国政府の公式統計資料によれば、現在1万800人のチベット人と7千人のモンゴル人が暮らしている。これは青海省が出している社会経済統計年鑑1992年版に基づく、1990年度の数値である。ドゥラン県の公式人口は、1990年度の資料によれば5万6千90人であり、1平方km当たり1.3 人の人口密度である。 この人口密度は、中国を基準にすれば低いものであるが、チベットにとっては低いものではない。特に年間雨量150mmの地域で、極端な乾燥期があり、また広大な砂漠地帯の縁に当たる場所ではそうである。

チベットの環境問題の専門家であり、またオーストラリア・チベット委員会の開発援助担当理事でもあるガブリエル・ラフィティ氏は、もしもプロジェクトが実行されれば世界銀行自身の運用指針にも反することになるだろうと語った。その指針とは、地元の人々の利益を保護することになっているという。ラフィティ氏がTINに語ったところによれば、「このプロジェクトは、より多くの漢民族と回族をこの地域に送り込むことによって、モンゴル人とチベット人の自治権をさらに失わしめる結果とになる」という。1994年には既に、ドゥラン県の人口の60パーセントが漢民族であった。そして40パーセントの非漢民族の内、19パーセントがチベット人で13パーセントがモンゴル人、そして8パーセントが回族となっている。これには、労働改造収容所(ラオカイ)の囚人人口は含まれていないが、その大半は漢民族であって数千人に上る。もし新たな入植者を受け入れて、ドゥラン県の人口が11万7千865人に膨れ上がれば、チベット人の人口比率は9.2パーセントとなり、モンゴル人の比率は5.9パーセントとなる。

1991年に世界銀行が公表した運用規定によれば、少数民族地域においては土着の少数民族は「世界銀行が経済援助するプロジェクトから被害を被るようなことがあってはならず、文化的に共存し得るような社会的・経済的な利益を受けられなければならない」と明記されている。運用規定はまた次のようにも述べている、「地元民、部族、少数民族等が置かれている社会的また経済的な立場の故に、土地や他の生産資源に対する利益や権利を主張することが制限されている状況で、世界銀行の投資が彼らに影響を与える場合には、特別措置が講じられなければならない。世界銀行の政策では、地元民に関わりのある諸問題を討議する場合に、事情に明るい地元民の参加を求めることになっている。プロジェクトを企画する時に、借手(中国)は地元民に対する世界銀行の政策を知らされていなければならない筈である。そして地元民に対する開発計画を実行する際の、借手の関与義務も賃貸契約書の中に明記されている。法的な規定によれば、世界銀行の職員には監督権のある立場が与えられるべきだということになっている」。

昨年この地域の開発に関して、青海省で開催された会議に参加したラフィティによれば、世界銀行が今までに公表した資料には、こういった手続きが順守された形跡は見られなかったという。「このプロジェクトは、少数民族が暮らす中国西域の貧しい高地地帯で、これまでに実施されて来た他のプロジェクトの実例に忠実に従っている、と世界銀行は語っている。その全てのプロジェクトを、中国政府は少数民族のためだと主張している」と、ラフィティは語った。

「ドゥラン県に居住する少数民族の利益は、入植者あるいは中国政府また世界銀行の利益とは一致しないという認識が、世界銀行にあるようには思えない」。世界銀行が契約義務を負っているのは、中国政府に対してである。世界銀行の融資を受けたプロジェクトの実行に責任を有している唯一の機関は、中国政府だけである。少数民族の利益と中国の国家的利益の間に齟齬があると、少数民族が言い立てることを、中国政府は認めることはない。またそのような利害の衝突に、少数民族が見解を発表することも許されてはいない。中国憲法の54条は、『祖国の利益』を損なう行為を禁止している。中国との提携において世界銀行は、少数民族の利益と中国の国家的利益が一致しているとの前提を受け入れなければならない訳だ。

ガブリエル・ラフィティアがTINに語ったところによれば、「このプロジェクトの利益を受けることになっている筈の人々、それには遥か東方の黄土の人口密集地帯に住む貧しい漢人農民も含めてであるが、そういった一切の人々がこのプロジェクトの企画に参画していたとの形跡が全く見られない。そればかりか、この地域がチベット族モンゴル族自治州と称されているにも拘わらず、地元のチベット人やモンゴル人たちがこのプロジェクトの企画および管理に実質的な関与をしている形跡がない」。

このプロジェクトの企画立案段階での世界銀行側の責任者ペトロス・アクリルは、今週TINに対して、この移住事業の際にチベット人やモンゴル人の農民は1人も移住させられることもなければ、また新入植者に対して農地を奪われることもない、と語った。彼が語るところによれば、ドゥラン県の63世帯の多くはモンゴル人の遊牧民で、彼らはこの土地を家畜の冬季放牧地として使用しているが、このプロジェクトが実行されても同様にこの土地を使うことができるという。

ロンドンに拠点を置くチベット支援団体の『チベット援助計画』(Aid to Tibet programme)は、教育、保健衛生そして経済開発プロジェクトをチベットにおいて実行しているが、同組織の理事長プンツォク・ワンゲル氏は、もしプロジェクトが地域の複雑な状況を考慮に入れて注意深く実行されれば世界銀行の開発融資をチベット人は歓迎するだろう、と語った。「チベット人は教育と経済開発の面で、進歩を遂げる必要がある。だから世界銀行のような組織からの実際的な融資を歓迎するだろう」と、プンツォク・ワンゲル氏は語った。彼の組織は、チベット自治区と四川省の甘孜蔵族自治州で、教育、保健衛生、経済開発に関連したプロジェクトに資金提供をしている。「外部の組織にとって、土着地元民の利益や必要性を考慮に入れて、契約書に適切で実行可能な安全対策を盛り込んで置くことが重要なことだ。また最終的な決定段階にも地元民が参加できることが、とても重要でまた有効なことだ。中国政府の政治的な動機に懸念があるからというだけで、外部資金が引き上げてしまうことを、決してチベット人が望んでいるわけではない」

入手可能な資料では、このプロジェクトの受益者の参加に関して、大まかな記述が見られる。それは主として、ドゥラン県に移住する回族、トゥ族、サラール族そして漢民族農民である。「プロジェクトの企画、準備、実行および確認に受益者が参加することは、プロジェクトの信頼性を高めることになる」と、同プロジェクトの案内書(1998年10月)は語っている。「村落の段階では、プロジェクトの受益者は村落実行単位(組織)に組み込まれ、プロジェクトのあらゆる段階で参加することになるだろう。この村落実行単位(組織)が、村落段階のプロジェクト実行に全責任を負っている。村落実行単位(組織)は、村人たちに相応しい投資も紹介する予定である。なぜならば、投資主体としての村人たちも、地元の社会基盤整備事業に動員されるべきだからである」

中国西域貧困撲滅計画は、荒涼地帯のオアシスの役を果たしているドゥラン県の26,500ヘクタールの土地に、移住者を入植させる計画である。潅漑設備や排水用の井戸も建設され、入植者たちには「穀物購入資金から運送費、住居手当、燃料費、入植当初の必要経費等」の資金が与えられる。義務教育施設および保健衛生施設も向上すると、世界銀行の資料は述べている。入植者の60パーセント以上が少数民族に分類されているが、その中にチベット人は1人もいない。新設校22校の内わずか10校だけが、少数民族向けのものである。これは『少数民族』学校の多くで使用される第一言語は、中国語であることを示している。世界銀行によれば、この地域の農業は、小麦や大麦それにジャガイモの栽培そして牧畜業であるという。投資総額の内、1億ドル(120億円)は世界銀行の補助金で、6千万ドル(72億円)が世界銀行の融資、そして残額が省や受益団体からの投資や労働奉仕によるものである。

入植者の『民族構成』の決定

現在、世界銀行の地域開発部門の責任者をしているペトロス・アクリル氏は、この地域の民族構成に関する社会的な意見聴取を、この開発計画を企画する前に実行したと、TINに対して語った。「この地域の民族分布は、我々の数値に反映されている」と、彼はTINに語っている。「我々が最も大事にした基準は、少数民族を保護することであった。だから最初に接触した多くの地域を、我々は候補から除外した。それには2つの大きな理由があった。第1は、収入が比較的高かったこと。第2は、そこには少数民族が少なかったことであった」。入手可能な資料が示すところによれば、世界銀行は全体的に貧しい地域を特定するだけでなく、特に貧しい家庭を選んでツァイダム盆地に移住させることを目指した。プロジェクトの実行計画書は、青海省東部から選出された幾つかの県の28万人の貧民の中から、特に貧しい農民を4分の1以下に絞った結果、政府は年収580元(68ドル、8160円)以下の、本当に貧しい家庭に制限することに成功したと述べている。入植する家庭の10パーセントは、580元以上の年収のある家庭も含まれる。これは企業家も、この地域に移住するように督励するためである。

これらの少数民族の内、ドゥラン県の土着の者は1人もいない。オーストラリアの研究者であり、またCDロム『自治区外のチベット』をスティーブン・D・マーシャルと共に製作したスセッテ・クック博士は、次のようにTINに語った。「この地域の土着の民族は、チベット人とモンゴル人だけです。回族もトゥ族もサラール族も、地元民ではありません。おそらく世界銀行は、中国の『少数民族』はそれが漢民族でなければ、置き換えても良いと考えているのでしょう。世界銀行は、入植者たちの民族分布には注意を払っているかも知れませんが、彼らが移住して行く地域の民族分布には注意を払っていません」

このプロジェクトに関する世界銀行の資料によれば、入植者たちは次の県から選抜されたという。民和回族・トゥ族自治県、化隆回族自治県、循化サラール族自治県、大通回族・トゥ族自治県、これらはすべて青海省東部の海東地区に位置している。513の村々がプロジェクト地域に移動し、また24の村々がこのプロジェクト地域に新設される。モングール族別名トゥ族は、他のモンゴル系民族とは区別され、中国北部一帯に分布している。サラール族は、中国政府による公式分類では、回教徒の10少数民族の1つである。その分類は主として、地域性によるものである。ドゥル・C・グラドニーの著書『中国人回教徒:人民共和国の民族主義』(ハーバード大学出版、1996年)によれば、サラール族はアルタイ語系の言語を話すトルコ系の民族である。

選出された諸県は、周辺地区に辛うじて生存している様々な民族の故郷である。この地域は急速に環境悪化が進んでおり、長い間季節的に利用される遊牧地帯であった。オーストラリア政府は、1990年代の始めに青海省東部で貧困緩和計画を実行したことがある。そしてこの地域の最貧困層に対して、同様なプロジェクトを実行することは不可能である、との結論を出した。彼らは、潅漑や道路また市場や様々なサービスの届かない、山間部の乾燥した寒冷地に住んでいるからである(オーストラリア援助局計画と再検討部局報告38号、1993年)。「中国内地の解決し難い貧困が、オーストラリアのプロジェクトの推進力となったが、数年後には貧困層を移住させることが新たな合理的解決法をなった」と、ガブリエル・ラフィティは語った。

近代化のための新たなる位置づけ

このプロジェクトに含まれているツァイダム盆地の開発計画は、青海省や近隣の甘粛省また内モンゴル自治区等の他の地域にも係わりのある、巨大開発計画である。世界銀行が提供する移住費用の4千万ドル(48億円)は、入植者たちが栽培する穀物の利益から回収される貸付金である。硬軟合わせた貸付け金制度は、選ばれた農民に彼らの任務を達成させるためのものである。「仕事の割り振り、建設計画への参加等によって、農民たちは彼らの故郷を立て直すための資金を手に入れることができ、生産性を高め、豊かになることができる」と、世界銀行の内部資料であるプロジェクト実行計画は述べている。貸付け金の総額は、さらに巨大な資金の一部に過ぎない。それには中国政府の省レベル、州レベル、県レベルの移住計画資金や、受益者自身による資金も含まれている。貧困農民を遠隔地に移住させて、集中的な農業に従事させようとする計画が、このプロジェクトに含まれているのは青海省においてだけである。甘粛省にはチベット自治州も存在しているが、そこでは貧しい高地民に山を降ろさせて町での就職を斡旋しようとするものもある。

青海省が伝統的なチベットの領域であるアムドを取り込んで、中国の省と宣言されたのは1928年に過ぎない。モンゴル人はこの地域の主要な歴史的入植者で、中国人や回族の入植者たちは1920年代に、この地域への帝国主義的な野望から、強制的に青海省に移住させられて来たのである。中国は、西安近郊のオアシス、ドゥラン県や海西州をチベットの一部と見なしてはいない。しかしながら、海西の全ての県も市部もオアシスも、法的にはモンゴル族チベット族自治州に所属している。チベットの伝統的な文化は、現在も小規模ながらもドゥラン県の中で生き残っている。1990年には、この地域に176人の僧侶がいた。ドゥラン県の複数の遊牧テント僧院と7ケ寺の固定的な僧院には、437人の僧侶が居住していたが1958年には閉鎖されたと、青海省の公刊書『青海省チベット仏教僧院の輝く鏡(青海省人民出版社、1990年)は述べている。

世界銀行の融資を受けた青海省プロジェクトは、貧困緩和指導班と青海省と甘粛省の暫定政府および、国務院の内モンゴル自治区貧困緩和指導班によって実行されており、そのプロジェクトの中でツァイダム盆地に関する部分は香日徳(註:チベット名=シャン)のオアシス地区と巴隆(註:チベット名=バルン)地区を対象としている。香日徳地区は、自然環境に対する適応性の故に、過去数世紀間もチベット人とモンゴル人によって耕作されて来た。ここは、標高5200mにも達する山脈に南面した山麓に位置し、そのために河川はかなりの流水量を誇っている、と中国科学院は報告している(青海・西蔵高原地図、1990年)。また大量の霜、雹、強風、激しい雷雨と極端な寒さに見舞われる土地でもある。

1920年代の移住政策では、貧しい漢民族である回族がこの地域に送り込まれた。「1980年代の後半に経済的入植者が送り込まれるようになったが、それまでに政府の移住政策によってあらゆる中国人がドゥランに送り込まれていた」と、スティーブン・D・マーシャルとサセッテ・クック博士は、彼らが作ったCDロム『チベット自治区外のチベット』の中で語っている。河岸段丘に住むチベット人を移住させる政策は、1920年代に始まった。そして、1949年に中国共産党が権力を握るとその政策は加速され、7年後の1956年にはドゥラン県に囚人たちを送り込み始めた。

ドゥラン県にある香日徳およびチャハンウスの町は、ツァイダム盆地にある中国有数の地下資源採掘地帯で必要とされる物品を生産する工業地帯となっている。石油やガス、岩塩や苛性カリや他の鉱物資源が採掘され、中国のエネルギー産業、プラスチック産業、石油化学産業や化学飼料産業に利用されるために、加工されては運び出されている。これらの産業の中には、石炭鉱山、製材産業、食肉産業、皮革産業の他にフェンスで囲まれた広大な小麦畑や機械で切断された干し草置き場もある。その他にも、カリウムやマグネシューム工場、鉱石研磨工場や宝石研磨工場もある。これらの巨大産業は、不毛な地に移住して来た労働者たちを維持するためにも、新鮮な食肉や穀物や他の日常品を大量に必要としている。ドゥラン県のオアシス地域は近隣の穀物生産地帯であるために、この地域の開発には遠隔地からトラックで必需品を運び混まなければならないことが予想される。

青海省副省長の劉光和は、ドゥラン県の入植プロジェクトはさらなる発展のための模範となるだろうと語った。1998年4月22日付けの新華社電は、劉光和がツァイダム盆地は青海省の最も可能性を秘めた農業開発地帯であると語った、と伝えている。「ここは、開発可能な30万ヘクタールの耕地に恵まれている。省東部の労働力と省西部の資源が結び付くことは、青海省の発展に寄与することになるだろう」と、副省長は語ったと新華社電は伝えている。新華社電はまた、「1996年以来、不毛な東部山岳地帯の農民たちは、オアシス農業を発展させより良い生活をするためにツァイダム盆地に移住している」とも伝えている。

中国の公式情報筋によれば、ツァイダム盆地は来世紀における資源開発の主要な基地となることが予想される。「ツァイダム盆地が位置する青海省南西部の開発計画によれば、点在する塩水湖や石油・天然ガスまた他の鉱物資源は、15年から20年の間に開発されることになっている。来世紀になれば、ポリエステル・ビニール産業、苛性ソーダ産業、合成アンモニア産業、カーボン樹脂産業が設立される。ツァイダム盆地はまた、非鉄金属や非金属鉱物の巨大な産地となる可能性があり、中国全体の60パーセントを占める石綿の鉱床を有している」と、1998年3月17日の新華社電は伝えている。

農業の集約化および地域の都市化は、人口統計学的に、経済的に、政治的に社会的に、青海省西部を支配しようという、中国の意図を実現するための重要な要素である。産業や運送の地域的な中心地となることによって、ドゥランやゴルムド、デリンハといった町々は、入植者たちの町に変わってしまった。世界銀行の青海省開発プロジェクトは、この地域の豊かな鉱物資源の開発に便宜を供与し、さらにはこの地域を中国経済に組み込むことになろう。ガブリエル・ラフィティアはTINに対して、次のように語った。「青海省東部の人口密集地帯や中国内地の重工業地帯の繁栄は、ひとえに不毛なツァイダム盆地から石油や天然ガス、岩塩、苛性カリ、鉛、亜鉛、石綿や他の鉱物が、途切れる事なく流れて来ることに懸かっています。世界銀行の支援によって技術と資本の両方を取り揃えて、資源開発地帯のすぐ近くで食糧の増産を図るには、今をおいて他にはないのです」。

世界銀行の担当マネージャーのペトロス・アクリルは、このプロジェクトは貧困を撲滅することだけが狙いであって、この地域の鉱物資源や他の産業資源の開発を意図したものではないと、今週TINに対して次のように語った。「プロジェクトと資源開発に全く関係はないと、私は思う。このプロジェクトには産業用の電力開発は含まれておらず、2つのダムも潅漑施設のためのものだ。我々はまた新たな交通手段を建設することはなく、既に存在している道路やトラックを使うだけだ」

フリーのチベット研究家であるスティ−ヴン・マーシャルは、TINに対して「世界銀行は貧困に苦しむ地域に援助しようとしているのかも知れないが、青海省の中国政府の長期的な目標は明らかだ。青海省が中華人民共和国に初めて併合されたとき、最初にしたことは(強制労働力を使って)土地を開墾し、耕作して自給力を高めることであった。次に優先権が与えられたのは、経済活動を活発にし移住政策を強化して、鉱山開発や第2次産業を強化することであった。この地域に対する中国の主要な狙いは、鉱山資源の開発を強化することであって、農業の貧しさを払拭しようとするものではない。農業基盤の整備は、目的達成のための手段に過ぎない」と語った。

2番目の外国機関である世界食糧計画(World Food Programme)は、青海省のドゥラン県の隣に位置するウラン県で、1988年以来農業開発(プロジェクト中国3557)に資金提供をしている。このプロジェクトに関する公文書が結論として述べているのは、中国政府がこの地域の開発を続けるためには、外国の資金が必要であるということである。「東部の人口密集地帯から人口密度の低い西部に人口を移動する政策は、今までのところ成功しているように見える。高い標高と植物成長期間の短さにも拘わらず、潅漑施設は充分に農業生産高を向上させる成果を上げている」と、世界食糧計画(WFP)は1988年12月12日付けの『プロジェクト中国3357』の概要を説明する資料で報告している。「大きな制約は資金不足である。各省ができ得る限り自助努力をしなければならないとする、最近政府が公表した政策により、将来的にはもっと事態は深刻になる可能性が高い。青海省の場合には、予算の70パーセントを中央政府に依存しており、代わりの財源が確保されない限り、従来のペースで開発が進むとは考えられない」と、同文書は結んでいる。

世界食糧計画(WFP)によるウラン県の人口統計数値と、公式な中国政府の人口統計数値には大きな齟齬があり、世界銀行の中国西域貧困撲滅計画には中国政府の資料が使われたものと思われる。チベット自治区外のチベットに関する資料を収集し、チベット自治区の外に広がるチベット人の自治区域に関する研究者であるスセッテ・クック博士は、世界銀行が中国政府の公式数値を受け入れているのであれば、ウラン県に近隣する県の人口統計数値が全く違っていることが、青海省のプロジェクトに衝撃を与えるかも知れない、と語っている。クック博士がTINに語ったところによれば、「中国は最近様々な公式機関を通じて、ウラン県の人口について矛盾する数値を挙げている。世界食糧計画(WFP)は、1988年に中国が貧しい農民に対して援助を求めていると、伝えられた。そのときウラン県の人口は11万8千人で、その内の73パーセントが農村部に住んでいた。しかし最も信頼できると思われる1990年の公式人口統計では、ウラン県の人口をわずか3万6千人としている。そして1994年には10万2千人に急増し、わずか17パーセントが農村部に住んでいるだけであった。これは農村部以外に、人口の大部分が暮らしていることを意味している。おそらく鉱山開発か他の産業に従事しているのであろう。この齟齬は、それぞれの数値がある狙いを、あるいは特別な政策を反映しているためであって、実態に基づくものではないからなのであろう。政府の異なった部署が異なった統計数値像を描いており、世界銀行が中国の統計数値を信用する限り、世界銀行の資金提供を受けたプロジェクトはその影響を免れないのである」という。

世界銀行は「囚人労働力を使わない」

世界銀行はTINに対して先週、囚人労働力はドゥラン県の移住プロジェクトでは使われない、と語った。1950年代からドゥラン県は、広大な労改(労働改造収容所)列島の一部に取り込まれており、強制労働は土地の耕作事業の労働力の主要なる供給源となっている。『悪階級』出身と分類された人々は、強制労働の刑を言い渡されて来た。こうして砂漠のオアシスは、一大穀物生産基地に変貌した。香日徳オアシスはドゥラン県第2の都市と言えるが、この町も巨大な労働改造収容所に変貌し、中国西域の辺境部に広がる労改列島の一部となってしまった。そして1980年代の後半には、香日徳オアシスは海西地区の穀物生産に絶大な貢献をしたと報告されている。

世界銀行のペトゥロス・アクリルは、中国西域貧困撲滅計画については土地の造作のために囚人労働力を使用しないことを、最優先条件としているとTINに対して語った。「我々はこのプロジェクトの確認に行った際に、近辺に刑務所があることに気がついた。我々も懸念を抱いたので、刑務所と囚人労働力および我々のプロジェクトの間には一切の関係を持たせないこと、を条件に付けた。この問題に関して政府が出してくれが保証に、我々はとても満足している」と、彼は語った。アクリルは、かつて世界銀行が新彊省のプロジェクトに投資した際には、強制労働が使われたことがあるので、特にこのことを条件とした、と付け加えた。

1991年に世界銀行は、中国政府の新彊ウイグル自治区のタリム盆地開発を援助するために、1億2千5百万ドル(150億円)を出した。この地域は少数民族の居住地域であり、綿の生産地である。この地域の国有農場の多くがタリム盆地開発のプロジェクトに参加したが、それらは全て囚人労働力に依存した刑務所施設であった。1997年、新彊生産建設公司(XPCC)の協賛で、世界銀行がさらに開発の援助をしようという提案に、人権擁護団体が猛反発をし、米国上院の外交委員会で公聴会が開かれることとなった。新彊生産建設公司の元職員アブラジアン・バレットは、公聴会で証言して次のように語った。「新彊省生産建設公司は、中国共産党政府が彼らの支配力を確実なものにするために設立された、政治的軍事的経済的な組織であって、新彊の少数民族を構成する数百万の人々を支配するためのものである。世界銀行の融資は、新彊の農民に利益を与えるためとされているが、実際は新彊生産建設公司が政治的な存在であり続けるために、資金援助をしているのだ」(1996年7月25日、米国上院外交委員会公聴会)。

世界銀行はここ数年で、中国に対する最大の外国投資機関となっており、1993年以来無償援助あるいは融資という形で毎年中国政府に対して、平均30億ドル(3600億円)を提供している。中国西部貧困緩和計画の趣意書の中で、「このプロジェクトが、世界銀行を信頼に足るパートナーであると中国人に確信させた」と、世界銀行は述べている。

1990年代には、中国の沿海部では発電所や鉄道、高速道路、港湾建設から、個人投資家が利益を上げられるようになっており、世界銀行は投資の重点地区を中国西部に移した。そこでは各省あるいは自治区政府が、開発に積極的に取り組んでいた。現在実行されている中国政府の5カ年計画では、投資を国家管理とするという制約を埋め合わせるために、外国投資家には内陸部や西域への投資を勧めている。ガブリエル・ラフィティは、「社会基盤整備と訓練・教育の両方の分野に投資をすることでは、世界銀行が重要な役割を演じている。この両分野とも、収益を上げる前提条件として不可欠なものとされている」と語っている。

移住プロジェクトの結果、砂漠化が進む虞れ

ドゥラン県の人口を、現在の5万6千人から11万7千人に倍増することによって、香日徳のオアシス周辺の丘陵地帯および下流の砂丘一帯の生態系に及ぼす影響は、測り知れない。この地域の生態系は脆弱であることは、よく知られている。中国の科学者たちは、この地域の砂漠化が急速に進んでいることで、『人的干渉』が特にその原因であると政府を批判している。

スセッテ・クック博士はTINに対して、「吐谷渾それからチベット人が、6世紀から9世紀にかけてドゥランから香日徳にかけて移住して来た。しかし砂漠に囲まれたオアシス地帯であるので、居住可能な人口は数千人であった。中国の科学者たちが口を揃えて言っているように、青海省の砂漠化が急速に進んだのは1950年代に入ってからのことである。しかし1950年から青海省の西部に建設された幾つかの農業基地は、大変に成功を収めているが、外部から食糧を運び込まない限り、ここの自然環境は増加する人口を支えることはできないであろう」と語った。

中国の科学者のファン・グァンミンもまた、ツァイダム盆地は中国でも最も荒れた土地であり、油田や苛性カリや他の鉱物資源採掘現場で働く、多数の中国人移住者を支えるためには、大量の食糧を輸入する必要があると述べている(ツァイダム開発の研究第1巻、ファン・グァンミン著、1998)。人的干渉と資金不足、経験不足、不十分な計測、また政府が実行した政策の故に、農業破壊や生態系の劣化、砂漠化が進む等の多大な損失が発生している、とファン・グァンミンは述べている。

他にも、ソン・シンユとヨウ・ジェンファという中国科学院の天然資源総合調査委員会の2人の中国人科学者が、「現在ツァイダム盆地の岩塩資源は、砂塵や干害・水害等の多くの災害に直面している。さらに人間生活が、塩湖や周辺の環境に多大な害を与えている。回復力を無視して無計画に塩を採掘すれば、価値ある塩が失われることになろう。さらに工業廃棄物による汚染が、塩の品質を劣化させている。無計画な開発によって、この地域の生態系は急激に悪化している」と報告している。(『継続的な開発を原則とするツァイダム盆地資源開発と保存』1998年7月24日、西寧で開催された青海・西蔵高原国際シンポジウムの資料から)

寒気が厳しく脆弱な土地に貧しい人々を移住させることには、環境破壊の懸念が伴うことを、世界銀行も認めている。「調理や暖房のための燃料を補給する必要があり、また建設資材としての木材が必要であることを、移住事業の前にはっきりと表明すべきである。十分な資材の補給がない場合には、地元特に近隣の脆弱な山岳地帯の木材資源に過剰な需要負担が懸かる可能性がある。また食糧が充分に補給されることが示されなければ、牧畜産業の発展もあり得ないであろう。青海省で生産される食糧はすべて移住地域でのみ生産可能であり、周辺の牧草地には期待をすることはできないからだ」と、同プロジェクトの趣意書は述べている。

世界銀行の資料は、ドゥラン県の移住プロジェクトが香日徳オアシスの環境に及ぼす影響について、他にも幾つかの懸念を表明し、注意深い計画を立てる必要があると述べている。「青海省で計画されている潅漑地域の多くは丘陵地帯であり、膨大な地ならしが必要である。しかも、春風が運んで来る砂の侵食に、犯されないようにしなければならない。そのためには、周囲に防風林を設けなければならない。また耕作の手抜きをすれば、土砂の流出は膨大なものになる虞れがある」と、同資料は述べている。

TINが入手した世界銀行の資料によれば、世界銀行の運用規定の4.01項に決められている、充分な環境調査が実行される可能性もない。しかしペトゥロス・アクリルは、総合的な公聴制度が設立され、6カ月毎に世界銀行が付した条件が実行されているか否かを審査をするために調査団が送られる、と語っている。中国西域貧困撲滅計画は、融資の決定権を有している世界銀行理事会に送られることになっている。審査は、4月12日に始まり1週間行われている。アクリルによれば、プロジェクトの推薦文は6月に理事会に提出された後で、一般公開されるという。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 高齢の哲学者がレジスタンス人生の末に死去
 故ロブサン・ツォンドゥの略歴

TIN News Update, 19 May 1999
Elderly Theologian Dies after Lifetime of Resistance
Obituary of Lobsang Tsondrue

高齢の哲学者がレジスタンス人生の末に死去
故ロブサン・ツォンドゥの略歴

最も高齢で最も尊敬されていたチベットの元政治囚の一人で、30年以上もの間、中国統治に抗議し続けてきた88歳のデプン寺僧侶、ロブサン・ツォンドゥが今年初めに亡くなった。ゲシェ(博士)であったロブサン・ツォンドゥ師は約20年間監獄で過ごし、その勇気においてラサのチベット人に大変尊敬されていた。

一般には「ホル・ラ・ゲン」として知られるロブザン・ツォンドゥは、ある政治的抗議に関係した後、警察に名前と年齢を聞かれた。その時、彼は、名前をテンジン・ギャツオ(ダライ・ラマ法王の名前)、年齢を1万歳だと答え、これは「ダライ・ラマ法王万歳!」という意味だと説明した。彼を知るチベット人は、監獄にいた時でさえロブサン・ツォンドゥが警備員の肩に腕を回して「お前達は若いから教えてやらねばなるまい。チベットは本当に独立していたのだ」と言っていたことを思い出す。「この後、彼らは皆、彼を避けたものだった。彼のことをけっこう怖がっていた」とあるチベット人がTINに語った。


ロブサン・ツォンドゥは監獄生活中、「改心」することを拒否し続けたためにひどい拷問を受けた。彼はダライ・ラマとパンチェン・ラマを非難することを拒否したためにひどく殴られ、1971年に片方の目の視力を失った。20年後の1991年、ロブサン・ツォンドゥが70代の時には、刑務所内での小規模な抗議に関係したとして警備員に意識不明になるまで殴られ、その後、数ヶ月ダプチ刑務所の独房に入れられ、監禁された。

この事件はロブサン・ツォンドゥを含む20名以上の囚人グループが、1991年3月初めに米国大使がダプチ刑務所を訪れた際、大使に嘆願書を渡そうとした5人の囚人の身に何が起こったのかを1人の看守に聞いた後に起こった。看守は刑務所への軍隊派遣を要請した。同刑務所に近いある情報筋がTINに語ったところによると、「各囚人はロープで縛られ、人民解放軍の4〜5人の兵士が各囚人を蹴ったりパンチしたり、マシンガンの台尻で殴ったりした。政治囚21人全員が何度か気を失った。人民解放軍の兵士は囚人の頭と顔を壁に打ち付けたりもした」という。この情報源によると、報告によれば、ロブサン・ツォンドゥは兵士らを批判し続けたので特にひどく殴られたという。「彼は鼻、口、耳から血を流していた。彼は自分の血を右手に集めて、兵士と看守に投げつけた。このために数回殴られたが、意識が回復する度に彼は兵士と刑務所員に怒鳴り返した」。ロブサン・ツォンドゥは兵士に、時が彼等の行いに裁きを下すだろうと叫んだと言われている。

ロブサン・ツォンドゥは1911年、チベット自治区ナチュ県に生まれた。1960年に亡命を企てたかどで初めて逮捕され15日間拘留された。5年後、ダライ・ラマとパンチェン・ラマ10世を非難せよとの当局の命令に従わなかったため、5年間の懲役判決を受けた。そのような弾劾に協力し行うことを拒否したため、少なくとも7回、手かせ、足かせをはめられた。彼の懲役期間は増やされ、1980年にデプン寺に戻るまで全部で15年も服役した。

1988年、ロブサン・ツォンドゥはラサで開かれる大祈願祭(モンラム・チェンモ)にデプン寺の僧侶が参加するのをやめさせようとしたため再び逮捕され、サンイプ拘置所で9年間を送った。彼や多くの僧は、中国当局はこの祭りをチベットにおける宗教の自由の例として利用する企みがあると信じていた。1年後、この祭りの最終日に大規模なデモが発生し、当局は様々な僧院から集まった僧による巨大な政治抗議を防ぐため、ラサではなく各僧院で祈願祭を執り行うよう決定した。祭りの最中に党とチベット自治区政府の役人が出席してデプン寺で行った討議で、ロブサン・ツォンドゥは立ち上がってこう言った。「今この瞬間にダライ・ラマ法王猊下がこの雪の国に恩寵を与えて下さいますように!今この瞬間にチベットの独立が実現いたしますように!」。彼は逮捕され、6年間に亘るダプチ刑務所での服役に移されるまでグツァに拘留された。彼を知るチベット人の報告によれば、ロブサン・ツォンドゥはダプチ刑務所に彼を連行した刑務所の警備員に向かって、「ありがとう。あそこには私の同志がいる。我々は後悔などしていない」と言って感謝を表したという。

ロブサン・ツォンドゥはダプチ刑務所での最後の服役期間中も抵抗運動に関わり続けた。1996年に釈放された彼は、デプン寺から公的には免職されたにも拘らず、同僧院の高齢僧用の建物の中にある一室に留まることが許された。高齢僧の生活環境は大変悪く、同僧院や他の僧らからの援助はあるが、政府からは何の生活保護も受けていない。ロブサン・ツォンドゥとその他の居住者はツァンパ(炒った大麦)と何も入ってないお茶が1日3回、ご飯と野菜の料理が月に1度かそれ以下の割合で配給されただけだった。年齢も高くしばしば良くない健康状態にありながら、デプン僧院の高齢僧は政治教育の講習会に参加することを義務づけられた。伝えられるところによれば、この講習会で正しく質問に答えない僧たちは当局によって尋問され批判されるという。

ロブサン・ツォンドゥは今年初め、同僧院の彼の部屋で亡くなる直前の1週間ひどく病んでいた。ある非公式筋は、「多くの愛国的な鑑識眼を持ったチベット人が彼の生命維持のために供物を捧げ尽力したが、老齢と身体の健康のためにとうとう病気にかかってしまった」と述べた。ロブサン・ツォンドゥに存命の親戚がいるか知られていない。彼をよく知るある亡命チベット人は、彼はその勇敢さだけではなくその哀れみ深さでも忘れられることはないだろうと語った。「中国人がどんなに苛烈な政治教育講習を行おうとも、ホル・ラ・ゲンはチベットが独立国ではないということを決して認めようとしなかった」とその元囚人は語った。「彼はいつも、『チベットはチベットの歴史に基づいて独立国なのだ』と言っていた。非常に強固な意思を持った人だった。そして囚人に対する虐待が起きたことを知るといつも彼はひどく悲しみ、虐待を受けた者たちを大変心配するのだった。彼はあの刑務所の中で最も勇敢な男だったろう」。

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 身障者の元政治囚の死 故ソナム・ワンドゥの略歴

TIN News Update, 19 May 1999
Death of a Paralysed Ex-political Prisoner
Obituary of Sonam Wangdu

身障者の元政治囚の死
故ソナム・ワンドゥの略歴

拷問で下半身麻痺になった44歳の元囚人ソナム・ワンドゥが3月、ラサの自宅で亡くなった。ソナム・ワンドゥは1993年にダプチ刑務所から病気療養のために仮釈放されたが、1988年に中国人警官を殺害したとして尋問・拘留を受けていた期間中、ひどい傷害を被った。▼写真

刑務所から釈放された後にソナム・ワンドゥの頭部、腎臓、肺臓が深刻なダメージを受けていることが分かった。彼は永久に身体が二つに曲がった状態となり、車椅子の助けなしでは動くことも出来なくなった。彼は亡くなるまでその勇気と愛国心において尊敬され、ラサではとてもよく知られた人物だった。ラサ市民は彼が寺の階段を上り下りするのを手伝ったり、車椅子に手を貸した。彼はラサの中心部で凧の糸車や凧糸のワックスなどごく細かいものを売ったり、ガス・ランプや灯油ストーブ、木製家具などの修理を請け負うなどして貧しい生計をたてた。ガス・ランプや灯油ストーブ、木製家具などを直したりした。訓練された大工だったソナム・ワンドゥは1980年に起こった抗議運動に関わるまで、トムスィカン市場に自分の店を持つラサの商人だった。

ソナム・ワンドゥは1988年3月の独立を求める抗議運動に参加し、当初、無期懲役の判決を受けたが後に19年間に減刑された。彼は、この抗議運動中に死亡した中国人警官の殺害犯として告発された6人の男たちのうちの1人で、1987年に始まり1989年の戦争法の施行によって終わったチベットの社会不穏時代に行われた一連の有名な公開裁判の犠牲になった被告たちの中の1人だった。

ソナム・ワンドゥは1988年3月17日に拘留されてから約1年後に行われた裁判までに、数日間天井から縄で吊されたり電気棒で叩かれたり、食糧を与えられなかったりなどのひどい拷問を受けた。現在亡命しているある元囚人によると、ソナム・ワンドゥはあるチベット人官憲に踏みつけられたことによって、まず足の自由がきかなくなり、腎臓にダメージを受けたという。

裁判は1989年1月に人民解放軍のチベットの司令部キャンプで行われた。ソナム・ワンドゥ、ロブサン・テンジン、ギャルツェン・チョペル、ツェリン・ドンドゥプ、タムディンとガンデン寺の20歳(当時)の僧侶バグドらは皆、1988年3月5日に中国人警察官ユエン・シーションが死亡したことに関わったとして告訴され、「殺人と反革命活動」の罪に問われた。「我々が裁判所に着いたとき、外は一面兵士で埋め尽くされ、3輌の巨大な軍のトラックは銃撃態勢にあった」とバグドはTINに語った。「裁判は軍の基地の中にある大講堂で行われた。基地の外では人々の群が、我々に食べ物や飲み物を与えようとしてくれた。彼らが我々に食べ物と水を与えなければデモをするぞと叫んでいるのが聞こえた。しかし、彼らは追い払われてしまった。講堂の中は銃を構えた数百人の兵士によって完全に囲まれていた」。

1991年にチベットから亡命したバグドは、彼らが皆、裁判の前にグツァ留置場にいたときに受けた拷問について話すことを禁じられていたことを回想する。「我々は皆、拷問の下で我々の自供がなされたことを何とか言おうとした」とバグドは言う。「ソナム・ワンドゥが、引きずり出されるまでこのことを言おうとしたのを覚えている」。裁判の後、この6人のチベット人は横の入口から法廷を退去させられ、それぞれ約20人ほどの兵士によってライフルの柄や金属棒で激しく殴られた。ソナム・ワンドゥは終身刑を言い渡され、評決により、6人全員がさらにひどく殴られた。「この時までに我々は皆死人のように見えたし、また、自分たち自身もそのように感じた」とバグドが言う。「ソナム・ワンドゥは腎臓が位置する肋骨と背中を殴られ、口からは泡をふき血を流していた」。

判決は1989年1月14日、チベット自治区のラサ市中級裁判所から発布された。判決はソナム・ワンドゥは警官ユエン・シーションと、抗議者の群を見張っていた建物の3階バルコニーから逃げ出した警官チャン・ユーションに石を投げつけたというものだった。信頼できるある非公式の報告によれば、この2人の警官は独立を求めるデモに参加したチベット人を撮影していたようである。これは、ビデオの撮影フィルムが身元の確認やその後の逮捕に続くことを知っているチベット人にとっては、特に神経をつかわせる微妙な行為である。判決はソナム・ワンドゥ、ロブサン・テンジン、ギャルツェン・チョペル、ツェリン・ドンドゥプ、タムディンが建物の内部に入って、この2人の警官を殴りつけ、2人目の警官が逃げ延びた間にユエン・シーションを窓から落としたとした。

判決はソナム・ワンドゥ、ロブサン・テンジン、ギャルツェン・チョペル、ツェリン・ドンドゥプ、タムディンを、同警官殺害の「主要な扇動者」だとした。「扇動者」というよりは「共犯者」だとされたバグドは3年間の懲役を受けた。当時22歳の学生だったロブサン・テンジンには死刑の判決が課せられたが、後に終身刑に減刑された。彼は最近ではその筋ではチベット自治区内の刑務所ではナンバー2として知られるポウォ・タモ刑務所に収容されている。

1988年4月14日、ソナム・ワンドゥとバグドとその他の4人はダプチ刑務所に移送された。ソナム・ワンドゥは政治囚の区画(第4区画)に収容され、その時に受けたひどい仕打ちのために日に日に弱っていき歩くことさえ難しくなった。「彼は動き回るのに杖を使わなければならなかった」とバグドはTINに語った。

「私はある日、看守たちが彼からその杖を取り上げて料理中の火の中にくべてしまったのを見た。彼らは15分ほど彼のことを殴ったり蹴ったりしていた。彼らは彼が病気の振りをしていると言っていた。ある朝、彼はりんご畑に連れて行かれ、殴られて電気棒を受けた。我々は彼が母親を呼びながら、殺してくれるよう頼んでいるのを聞いた。我々は皆深く怒り、泣いた」。

ソナム・ワンドゥは1992年の初めまで、効果的な治療を受けることは許されず、病院に行くことを許された時には、彼の健康は回復不可能までに悪化していた。彼は1年後、判決内容には変更がないまま治療のために仮釈放された。バグドが「人権と民主主義のためのチベットセンター」のインタビューに答えたところによると、バグドが1991年に亡命する前に最後に会ったソナム・ワンドゥは「まるで放心状態に見えた」という。頭部と顔面を殴打されたためにソナム・ワンドゥの耳は損傷を受け、聴力と喋る力が損なわれていた。また、彼は失禁もしていた。ソナム・ワンドゥは妻のドルマ・チェゾムと3人の子どもたち(一番下の娘は13歳)を後に残して亡くなった。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)

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 新しいキャンペーンは幹部の「質」の改善を目指している

TIN News Update, 20 May 1999
New Campaign Aims to Improve Cadre " Quality "

新しいキャンペーンは幹部の「質」の改善を目指している

 
チベットで始まっている新しいキャンペーンは、共産党と政府の幹部の当局に対する忠誠心を高めることにある。このキャンペーンの開始が示していることは、多くのチベット人幹部が、現在の改革開放政策の一部として行われている中国人の入植に関して、党の政策に反抗しているとの疑いをかけられているということである。3月13日付け西蔵日報の論説によれば、「学習の強調、理論の強調、健全傾向の強調」と言われている「3つの強調」キャンペ−ンは、チベット人幹部の間に広く行き渡っているイデオロギー的な「問題」にスポットを当ている。人民日報によれば、チベット自治区の多くの党と政府の指導者は「新しい環境と新しい任務」の必要性に向かい合うことができず、開放改革政策を話題にする事はチベット自治区でも続けられている。チベット自治区では、「3つの強調」キャンペーンが地方以上のレベルで続けられている。2月13日付け西蔵日報に掲載されているチベット自治区政府主席、チベット自治区共産党副書記のレグチョの演説によれば、それは「(幹部)全体の質の向上、特にイデオロギー的政治的な質の向上」を目指している。キャンペーンは中国全土で実施されており、一般に、その目的は「健全傾向」の育成による汚職の撲滅を意図している。しかし、チベット自治区では、他の政治的なキャンペーンとともに、分離主義的傾向とダライラマへの信仰を攻撃することにも使われている。3月13日付け西蔵日報は、この地域がダライ勢力による「妨害と破壊」によって長い間苦しんできたため、キャンペーンが特別な意義を持っている、としている。

西蔵日報の記事は「かなり多くの」幹部が国家と宗教、文化問題に関するマルクス主義の見解を受け入れていないと警告している。「かなり多くの」幹部に言及している点は重大である。過去の共産党による幹部批判は、たいてい「わずかな」党や政府の幹部の問題とされて来たからである。1998年7月29日の演説の中で、チベット自治区共産党副書記レグチョは「故郷で寺院に寄付したり、ダライラマの写真を飾るわずかな、一握りの党幹部」に言及している。さらに、「反分裂主義闘争」に焦点を絞った上で、西蔵日報は、「3つの強調」キャンペーンはチベット自治区の開発と開放の支援を意図している、としている。記事は、幹部が党の見解である中国人とチベット人も含めた「少数民族」の経済と社会の連帯、「相互の非分離」主義を支持していない、と言っている。これらの幹部は、差別なく異なる地域に一緒に住んで働いている人々を指す公的な言葉、「国の全ての地方出身」主義の重要性を理解していないと批判されている。これらの批判は、チベット自治区共産党と政府の高級幹部が、中国人のチベット地域入植の増加を懸念していることと、当局の経済政策への完全な支持表明を怠っていることを示唆している。

チベット自治区政府主席レグチョは、4月6日付け西蔵日報に掲載されている演説の中で、チベット自治区と中国内地の社会的経済的結びつきは政策の上で優先事項である、また、「チベットにいる他民族の人々の未来と運命は、祖国というつながりで以前から親密になってきている。」と述べている。チベット自治区共産党と政府のチベット人幹部は「相互非分離」と「国の全ての地方出身」という二つの主義を支持しているが、彼らは外の地域からの経済移民のチベット自治区入植を歓迎する必要に迫られている。この二つの主義を支持しないチベット自治区の幹部は、この問題について「間違っていた」という姿勢をとることを党によって宣告されるだろう。

チベット自治区経済開放移行と中国人の経済進出を許可する政策は、1984年のチベット第2回工作会議で導入され、これらの政策は、急速な経済開発を目標とした1992年の「雪解け」キャンペーンによって促進された。行政の手続きを簡単にする手段が、中国人の事業家のチベット自治区への動きに刺激を与え、何百もの小売商や個人事業所ができた。チベット亡命政府指導者、ダライ・ラマ法王はチベットに入った中国人の影響は、チベットの文化、民族アイデンティティの保持にとって、最も重大な脅威であると述べている。

チベット当局によって出される見解は、チベットの中国人幹部の存在が「安定」を促進する要因となっている。3月11日付け新華社通信は以下のように述べている。「チベット少数民族幹部の増加と地位向上は、少数民族の進歩した生産的な力を代表するものである。加えて、彼らは現代精神文明の指導者であり、民族結合の架け橋である。彼らはチベットの開発と安定に非常に大きな役割を果たしている。」4月6日付けのレグチョの演説では、チベット自治区は1999年の経済の対外開放によってより多くの利益を見出すであろう、とされている。

3月13日付け西蔵日報は、「3つの強調」におけるチベット自治区共産党、政府内の幹部地位の「問題」は、イデオロギー教育で解決されるべきであると警告している。記事は「労働体制と規律の自覚において、幹部はイデオロギー的に、政治的に著しく自己批判をすることになるだろう。そして、かれらは全てのチベットにいる民族を、効果的に、チベットの偉大なる世紀の経済社会開発のゴールに導くであろう。」としている。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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