34号(1999年3月)

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 チベット人少年、国境警備隊に射殺さる

TIN News Update 1 February 1999
Tibetan Boy Shot by Boder Police

チベット人少年、国境警備隊に射殺さる

チベットを脱出しようとした15才のチベット人少年が、ネパールとの国境付近で中国国境警備隊に銃撃され、病院収容後に死亡した。銃撃事件は2カ月以上も前(1998年11月)に発生していたが、少年が銃撃された時に一緒にいた親戚が、最近亡命して来たことでようやく判明した。少年の遺族は、公安当局から補償金として4万元(4819ドル、57万8千円)を支払われたとのことである。

15才の少年イェシェ・ドゥンドゥプは、亡命して僧侶になりたいとの希望を持っており、チベットを脱出しようとしたが、1998年11月21日深夜、シガツェ地区サガ県で中国警察に銃撃された。銃撃後彼は地元の病院に収容されたが、翌朝9時頃に死亡した。もう一人の15才の少年も足を銃撃されたが、彼は生存しており現在もチベットに留まっていると思われる。この10代の少年2人は、およそ40人のチベット人グループと一緒に旅をしていた。ネパールとの国境付近で、彼らは30人から40人位の国境警備隊の一団に発見された。チベット人らは立ち止まるように命令され威嚇射撃を受けたと、現在は亡命を果したこのグループの内の数人が語った。チベット人らは逮捕されるのを恐れて、四方八方に逃げたが、国境警備隊は彼らに銃撃を加えた。

銃撃の後このグループの大多数は逮捕されが、数人は国境を越えてネパールに脱出することができ、現在はカトマンズにいる。イェシェ・ドゥンドプの親戚は弁護士を雇い、この殺人事件でシガツェ公安当局を告訴した。彼らは勝訴して4万元の補償金を獲得したが、この事実は国境警備隊が過ちを犯したことを、公安当局が認めたものと思われる。このような裁判が行われることは、極めて異例なことである。殆どの家族は警察を告訴しようにも、弁護士を雇うだけの経済力を持たず、警察の報復を恐れて泣寝入りをするのが普通である。中国警察が亡命しようとするチベット人を銃撃するのは稀なことであり、最近はこのような事件は起きていなかった。ネパールに脱出しようとするチベット人は逮捕され、しばらく投獄されることになるのが普通である。

イェシェ・ドゥンドプが加わっていたチベット人のグループは、シガツェ地区のサガ県を通り、国境の町ダムの北西に出るルートを選んだようである。このルート沿いは、国境警備隊の数が少ないと言われている。ティンリからダムに出るルートは、通常は警備が厳しいという。

イェシェ・ドゥンドプは、カム(東チベット)のカンゼ(甘孜)県の出身である。彼が銃撃された時に一緒にいた彼の兄弟は、2人とも亡命してチベットの教育を受け、インドの僧院で僧侶になりたかったと語っている。亡命して僧侶になりたいとの彼らの決意は、現在チベットには信仰の自由が存在していないことを証明している。彼らがチベットに留まっていたら、彼らが18才以下であるとの理由で、僧侶になることは許されなかったであろう。

過去5カ月間に国境の銃撃事件で死亡したのは、彼で2人目である。昨年9月、アムドのラギャ僧院の27才の僧侶ナムチェン・ギャッツォが、カトマンズの東方100kmのインドとの国境近くのカタリで、ネパール警察に銃撃された。彼は数時間後、病院に向かう途中で死亡した。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 チベット人少女ら警官に乱暴さる

TIN News Update, 16 February 1999
Tibetan Girls Raped by Police

チベット人少女ら警官に乱暴さる

2人のチベット人少女が、国境を越えてネパールに脱出しようとして捕まり、5人の中国人警官とチベット人警官によって乱暴された。2人の少女は10代後半で、昨年の年末国境の町ブランで逮捕された。19才のラサ出身の少女は、電気ショック棒で殴られ意識を失っている間に乱暴された、と現在は亡命している目撃者は語った。3番目の少女も乱暴されたのではないかと言われており、逮捕された翌朝に大変に大きな精神的なショックを受けていたという。

チベットでの警官による婦女暴行の報告は稀であるが、刑務所の看守による電気ショック棒を用いた男女囚人に対する性的拷問の非公式な報告はある。

2人のチベット人少女は、旅行中に出会った3人のチベット人女性らと一緒に行動しており、彼女らは亡命をする途中であった。ラサ出身の19才の少女は、亡命チベット人の学校で勉強するために、インドを目指していた。(TINは、プライバシー保護のために彼女の氏名を伏せている。)この5人のチベット女性の一行は、ネパールの北西の国境から徒歩で2日の距離にある、ガリ地区のブランの宿に一泊していた。彼女たちは身分を明らかにする書類を携帯していなかったために、3人の中国人警官と2人のチベット人警官に逮捕された。警官たちは公安局の制服を着用していたと、亡命に成功した同グループの女性たちは語っている。

5人の女性たちは全員空っぽの建物に連行され、その内の2人は椅子に縛り付けられて猿轡をされた。この2人の女性は、他の2人の女性が乱暴されるのを目撃することになったと、現在は亡命をしたその内の1人の女性が語っている。5番目の女性も2階に連行され、乱暴されたと思われる。ラサ出身の19才の少女は、現在は亡命をしているが、彼女がTINに語ったところによれば、「彼らは電気ショック棒で私を殴ったので、私は目も見えなくなり、しゃべることもできなくなった。彼らは、私の腹部から下を殴った。私が意識を取り戻したのは、翌朝のことであった。そして私の下半身からは、出血をしていた。私の友達が、彼らが私に何をしたかを話してくれた。全員の警官が、暴行に加わったのだ」という。

彼女らの友人の17才の少女は2階に連行されたが、翌朝精神的に不安定な状態に陥っていた。「彼女に何が起きたかは判りません。私と同じように乱暴されたのでしょう。翌朝、彼女は完全に精神の安定を欠いており、両手で髪の毛をむしっていました」と、ラサ出身の19才の少女は語った。

逮捕された翌日、彼女たちは病院に行かせてくれるように警官に頼んだ。警官たちは、19才の少女を病院に連れて行くことに同意し、目撃者の女性の1人に同行することを許した。彼女らは病院に3日間滞在し、4日目に隙を見て脱出して、12月に亡命に成功した。

乱暴された19才の少女は、今でも悪夢にうなされることがあると語っている。「悪夢にうなされたり、呼吸困難に陥ったり、全てのことが夢であるかのように感じられたりするのです」と、彼女はTINに語った。病院に行けなかった3人の女性たちは、チベット国内の拘置所に移送されたものと思われる。

国境付近では、ネパール警察によるチベット女性の乱暴事件は多く報告されるものの、チベット国内で警官によってこのような乱暴事件が起きたことは余り例がない。1996年12月、22才のチベット人女性が、ネパール警官に率いられたネパール人の集団によって、12回も乱暴された事件が起きている。

今年1月には、シガツェの農家出身の17才のチベット人少女が、国境を越える際にネパール人運転手から乱暴された事件が起きている。この少女も、インドのチベット人学校で勉強するために亡命しようとしていた。彼女は、カトマンズからおよそ90km離れたネパール側の国境近くのバラビセで、トラックの運転手によって乱暴されたと語っている。TINはこの少女の氏名も伏せているが、彼女は尼僧になりたいのだから乱暴しないでくれと、運転手に懇願したという。チベット人社会では、性的な関係を持たないことが尼僧や僧侶の必要条件となっている。また俗人としても、乱暴されたことで社会的に爪弾きになることもある。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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 ダプチ刑務所の囚人に軍事訓練

TIN News Update, 23 February 1999
Military Discipline for Drapchi Prisoners

ダプチ刑務所の囚人に軍事訓練

中国の公式報道機関、新華社電が2月9日に報じているところによれば、ラサ市内のダプチ刑務所で囚人を服従させるために、軍事訓練が行われているという。この軍事訓練課程の総仕上げの式典が、自治区政府の役人や公安関係者が見守る中で挙行された。ダプチ刑務所では、5年前から軍事訓練が導入されていたが、囚人を管理するためにこのような訓練が課されていることを、政府が公言したのは初めてのことである。

新華社電が伝えているところでは、刑務所当局は「看守の監督能力の向上と囚人の規律および法律順守精神の向上」を目指して、看守と囚人に「疑似軍事訓練」を施しているという。2月8日は訓練の成果発表の日であったが、その模様を新華社電は次の様に伝えている。「ラサ北方郊外にある、高い塀と鉄条網に囲まれた広場は、通常とは異なった緊張した空気に包まれていた」

軍事訓練が最初にダプチ刑務所に導入されたのは、1994年のことであり、以来時には1日に6時間以上も実施されることもあったと、元囚人は報告している。囚人たちは原則として、病気の時にもその訓練を免除されることはない。囚人たちは、労働よりも訓練の方が肉体的な疲労度は大きいと感じている。また訓練に加えて、さらに労働も強いられることもあるという。

1995年にダプチ刑務所に収監されていた女性の元囚人は、訓練の一環として囚人たちは隊列行進をさせられたと語っている。「看守たちは、行進している間も『分裂主義者反対』とか『我々の過ちを認めよう』とか叫ぶように、指示を出した」と、TINに語った。ガル尼僧院の25才の尼僧、ギャルツェン・ケルサンは、1994年の軍事訓練でこういったスローガンを叫ぶことを拒否したと伝えられている。彼女は激しい殴打を受け、それ以降は病気の時にも訓練を強制されたと、現在は亡命を果した元囚人は語っている。「彼女は、訓練の最中に何度も大地に倒れ、彼女を助け起こそうとした囚人は皆殴打された。とうとう彼女が病院に運ばれた時には、彼女は目さえも開けることができない状態であった。刑務所は即刻彼女を帰宅させたが、彼女はそれから3カ月後の1994年5月に亡くなった」と、このチベット人は語った。

人民武装警察は、ダプチ刑務所の囚人たちに別の形の軍事訓練も強制している。例えば、広場を何周も走り回ることである。男性の囚人も女性の囚人も、足から血が出て歩くことさえできなくなるまで、裸足で走らされたと語っている。もしその訓練の最中に囚人が気を失って倒れることがあれば、訓練が終わるまで放っておかれ、訓練終了と同時に仲間の囚人たちによって獄房に連れ戻される。そして翌日はまた、軍事訓練に引っ張り出されるのだと元囚人は語っている。「軍事訓練の最中に行われる暴力行為は、取り調べの際に行われる暴力よりもはるかにひどい」と、1992年に平和的なデモに参加して逮捕された尼僧は語っている。ダプチ刑務所に収監されたことのある別の尼僧は、彼女が経験した他の軍事訓練の中には、直射日光の中で長時間立ち尽くすこと、また頭の上に本を持ち上げたり両脇の間に本を挟んで、長時間寒気の中で立ち尽くすこと等があったという。もし本が落ちれば囚人は殴られた、と語っている。現在は亡命をしているこの尼僧は、「雹が降って来ると、看守は我々に顔を上に向けて立っているように命令を出した。そうすると我々は、ずっとそうやって立っていなければならなかった。もし誰かが気を失って倒れるようなことがあっても、誰も助けることは許されなかった」と語っている。

ダプチ刑務所の元囚人らが報告している事例の中には、軍事訓練の一環として囚人を班別にして、その間で『競争』をさせるというものがある。「競争は、異なった政治囚のグループの間で強いらる。刑務所当局は、これは囚人を『改革』するためであると語っている。競争の前に、班の指導者は集会を開いて競争心を煽り、またもし負ければ次は勝つように囚人たちに訴えている。競争は、一種の拷問であった」と、元囚人は語った。

新華社電が伝えている軍事訓練は、囚人の間の反抗心を押える目的であるという。昨年5月1日と4日には、刑事犯も政治犯もダライ・ラマ法王の支持とチベット独立のスローガンを叫んで、ダプチ刑務所で大規模な抗議運動が展開された。この抗議運動の後に激しい殴打を受けて、少なくとも10人のチベット人囚人が死亡し、他にも多くの囚人が殴打されたり独房に入れられた。5月の抗議運動の後に亡くなった尼僧の1人が、チュキ・ワンモで、強制的な軍事訓練の結果それ以前からひどく衰弱していたと伝えられている。彼女は、体調が悪いときにも軍事訓練を強制されており、医療を施されることはなかったという。5月の抗議運動の結果、彼女はさらに激しい殴打を受けて、6月7日に獄房で亡くなっているのが発見された。他にも尼僧のガワン・サンドルと少なくとも後2人の尼僧、ガワン・チュゾムとプンツォク・ニドルらは、5月の事件の後にダプチ刑務所内でさらなる抗議運動に参加して、現在は厳しい状況に置かれていると思われる。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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 40年間の中国の支配:チベット内部からの個人的な見解

TIN News Update, 10 March 1999
Forty Years of Chinese Rule: A Personal View from Tibet

40年間の中国の支配:チベット内部からの個人的な見解

1959年3月10日以来、40年間の絶望的な状況を耐えて来たチベット人の強固な決意を表明する手紙が、チベット内部からTINに届いた。この匿名の手紙は、チベット人の若い世代はまだチベットが中国とは別の国であることを信じており、ダライ・ラマ法王の非暴力路線を支持していると伝えている。

「我々は、心底では絶望している。しかし、我々はしっかりとした意識を持ち続けており、心を制御し続けている。なぜなら我々は正義の存在を信じており、世界の屋根チベットからはそれがどんなに見えなくなってしまっていようとも、いつの日かかならずチベットにも姿を現すことを信じているからである」。この手紙の著者は、数千人のチベット人が殺害されさらに数千人が逮捕された、1959年3月10日の決起にも言及している。「今日という日は、我々の若い世代が誇りにすべき日である。この日、独立を守るために自らの生命を犠牲にして立ち上がった数十万人の国家の英雄たちを、彼らは称えなければならない。40年間も中国の占領下で生きて来たが、チベット人特に若い世代のチベット人は、チベットが中国に占領される前と同様に、チベットは中国とは別の国であるとの確信を持ち続けている。水晶の光明に照らされるかのような明確さで、チベットと中国は、地理的にも、文化的にも、歴史的にも、精神的にも全く別の国であることを、彼らは理解している。真理は常に黄金のようなものであって、地中に埋蔵されていたにしても、ひとたび掘り出されれば輝き出すことは間違いない」。

このチベット人の著者はまた、ダライ・ラマ法王の非暴力路線にも同意を表明しており、中国政府と中国人の間にはっきりと区別をしようとしているように見える。「我々は、ダライ・ラマ法王と彼の非暴力路線を強く支持する。なぜならこれが、チベット人と中国人の双方にとって最善の解決策であるからだ。中国人もチベット人も戦争を望んではいない。我々チベット人は、独自の文化と独自の精神生活を持っている。たとえ中国政府がそれをどんなに否定し破壊しようとしても、それは完全に中国人のものとは異なっている。多くの一般の中国人もそうであるが、人間の顔を持ちまた責任感を持っている人々は、チベットにやって来ると、チベット人が中国人の占領下で苦しんでおり、チベット人が文化的な独自性を失いつつあり、またますます多くの中国人をチベットに送り込んでいることは、チベット人が何世代にも亙って暮らして来た僅かな生存領域さえも失わせることになるのだ、ということを理解する。

この著者はさらに、ダライ・ラマ法王に対するチベット人の忠誠心を、政府が根絶やしにすることに失敗したとも述べている。「チベット人の大多数は、農民であれ遊牧民であれ、中国の経済政策からは何の利益を受けておらず、崩れかけた泥の家に住んでおり、ヤクと共に暮らしている。チベット人は、大地と澄んだ空の外には、何一つとして所有しているものはない。心に残っているものと言えば、ダライ・ラマ法王の記憶と愛する宗教文化と伝統的なチベット人らしい暮らし振りだけだ。

このチベット人の著者は手紙の締めくくりとして、10月1日の国慶節に言及している。今年中国政府は、中華人民共和国成立50周年を祝おうとしている。「現在中国政府は、チベット占領の記念式典を挙行する準備をしている。これは何も特別なことではない。中国人が常にやっている政治宣伝の一部に過ぎない。チベットとチベット民族に残された時間は残り少なくなっている。だから、チベット民族の声を湛えた海の一滴に過ぎないこの声明の締めくくりとして、またチベット占領記念式典のささやかな贈り物として、中国の有名なことわざを引用したい。「ここには銀は埋まっていない」。盗っ人が銀を盗んでそれを隠しても、彼は銀など盗んだことはないと、常に言うものだ。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 ラサ決起40周年記念日にチベットは厳戒態勢

TIN News Update, 10 March 1999
Tight Security in Tibet to Mark 40th Anniversary of Lhasa Uprising

ラサ決起40周年記念日にチベットは厳戒態勢

1959年3月のラサ決起40周年記念日の今日、ラサ市内で少なくとも1つのデモが実行されたとの複数の証言があった。今朝バルコル広場で、2人の僧侶がスローガンを叫んで治安警察に逮捕された。事件の詳細はまだ判明していない。


3月の記念日を前にしてここ数カ月、チベットでは不審者の一時拘束が繰り返され、警戒が厳しくなっていた。またネパールとの国境沿いに展開する人民解放軍も、増強されているとの複数の報告が届いていた。ネパール政府内務省の高官も、非常に稀なことではあるが声明を出し、独立運動を抑え込むために国境沿いの地域で、人民解放軍の数が増強されたと発表した。

ここ数カ月間で一時拘束された人々の数は、ラサ市内だけで少なくとも80人に上り、これは3月10日のラサ決起40周年記念日にいかなる反政府活動も許さないとする、政府の強硬な姿勢を表すものと思われる。3月10日は、チベットでも政治的に最も重要な記念日と長い間見なされている。昨年6月以来拘束されたチベット人の殆どは、数週間から6、7カ月間拘束されているとのことである。その多くの人々は、ラサの郊外に新たに建設された新ラサ拘置所に収容されているという。

今週人民解放軍の増援部隊が、シガツェ地区およびネパールとの国境地域に派遣されたとの報告が届いた。特にラサの南西700kmに位置する、ダム(中国語でジャンムー、ネパール語でカサ)地区であるという。カトマンズのネパール内務省は、増援部隊が反中国活動の機先を制するために国境沿いに駐屯していることを確認した。「中国は、国境のこちら側での自由チベット支援活動を、警戒しているのであろう」と、スリカント・レグミ内務省補佐官は語ったと、共同通信は3月8日に報じている。「我々の側でも、我々の土地でそのような活動を許さないように、同等の警戒態勢を敷いている」と付け加えた。

1989年3月の独立要求デモが14カ月に及ぶ戒厳令執行の原因となったが、それ以来ラサでは毎年政治的な理由で、チベット人が逮捕あるいは一時拘束されて来た。しかしチベットからTINに届いている報告では、ここ数カ月間に一時拘束された人々の数は、数年間に拘束された人々の数を上回っているとのことである。これは恐らく、ラサ決起記念日に関連した抗議運動を封ずるためであろうと思われる。被拘束者の多くは政治活動に全く関与しておらず、ただ見せしめのために逮捕されたものである。チベットからの或る報告によれば、チベット自治区国家公安局は公安要員に、3月10日までの数週間の間にある一定の数の逮捕者を出すように指示を出した。これはラサ決起記念日の前後に、人々が抗議運動に参加するのを防止するためであるという。この命令では、逮捕に当たって犯罪や反政府活動の証拠がなくても構わないと、述べられているという。

今日新たにデモが発生はしたものの、ラサ市民の統制は警備兵の数を増やすよりはむしろ、盗聴や監視によって実行されて来た。チベットを出て来たばかりの西洋人観光客は、ここ数日の間ラサ市の中心地であるバルコル近辺の通りには、殆ど制服警官の姿を見かけなかったと語った。「人々は脅えており、今ではラサ全体が監獄のようだ。夜間は完全武装の兵士が警備に就いており、また双眼鏡を手にした兵士らが屋上から通りを監視していた」と西洋人観光客は語ったと、ロンドンに拠点を置く議会圧力団体のフリー・チベット・キャンペーンは発表した。同団体は、チベットの現状を調査し続けているが、夜間に完全武装の兵士を配置することは通常はなく、この種の配置は日中に行われることが多いという。

ラサ市内の軍事力を誇示

先月、800人の兵士がチベット自治区内の人民武装警察の軍事力を誇示し、また『謀略』に対応する能力を示すために軍事力の実演を行った。2月25日付けの西蔵テレビは、チベット自治区人民政府主席のレグチョが『部隊動員会議』に出席し、800人から900人位のチベット武装警察部隊を閲兵した、と報じた。武装警察部隊は、盾や警棒、半自動小銃、軽機関銃、高圧放水銃、暴動鎮圧用装甲車、等の様々な武器の使用法を実演して見せた。西蔵テレビの画面には、警官が武器を持たずに戦う場面や、実弾射撃をする場面、また警察犬を使って容疑者を逮捕する場面が映し出された。このような形で警察犬を使用することは、これまでに公表されたことはなかったが、チベット人囚人に罰を加えるために犬が使われている、との非公式情報が届いていた。兵士の勇敢さや暴動鎮圧能力を誇示することは、これが3月10日の記念日の2週間前に発表されたこともあって、反政府運動は容認できないとの警告を、チベット人に直接的にまた普段よりも強い調子で与えるためであったことは明らかなことである。

人民武装警察の政治委員であるジャン・ジュー大将は、『部隊動員会議』において、動乱の鎮圧は武装警察の主要な任務であることを強調した。「軍区の直接の指揮下で動員された部隊は、謀略に対抗する我々の拳となりまた警棒となるものである。拳をより強固なものにし、警棒をより強力なものにするために、我々は通常の科学的な訓練を実施するだけでなく、また効果的な政治活動を実施しなければならない」。

同会議において、チベット自治区政府主席のレグチョは、ダライ・ラマの活動をチベット不安定の主要な原因であると語った。「チベット自治区の現在の社会的な状況は、概して良好と言える。しかしながら、主としてダライ分離主義者一派らの活動によって引き起こされた、不安定な状況が存在している。外国敵対勢力の支援を受けて、ダライ一派は和平交渉という旗を掲げているが、実際は新たなる政治謀略と攻撃戦略に従事している」と、彼は自治区の共産党、政府、軍隊の指導者らを前にして語った。ここで言う『敵対勢力』とは、昨年ダライ・ラマ法王が米国のクリントン大統領と会談を持ったことを指していると思われる。またダライ・ラマ法王とチベット亡命政府が「新たなる政治謀略に従事している」と言う意味は、チベット政府が引き続きダライ・ラマ法王と北京の対話に対して厳しい姿勢を崩さないでいることを指しているのであろう。レグチョはさらに、人民武装警察部隊の幹部らに対して、「軍隊に対する共産党の絶対的な指導的立場を、迷う事なく支持するように」促した。

チベット自治区政府の主席は、3月の記念日の頃には社会的な安定を維持する必要性がある、と既に2カ月前に語っていた。「我々は、分離主義者らの破壊活動を、いかなる土地においてもまたいかなる状況においても、未然に防がなければならない。今年は、非常に重要な記念日やまた微妙な時期がやって来る。社会や政治の安定を維持する仕事は、極めて骨の折れる仕事だ」と、1月24日に自治区の政治司法工作会議において語ったと、1月25日付けの西蔵テレビは報じた。レグチョは、「我々は分離主義者らの、国内また海外での活動を正確に見極め、その傾向をはっきりと認識して置かなければならない」と語り、チベット人亡命政府の活動を監視していることをほのめかした。

1959年3月のラサ決起では、ダライ・ラマ法王が中国人に拉致されるかも知れないという恐怖から、チベット人たちは中国政府に対してそれまで見せたことのない意志の統一を示して行動し、数千人が殺害されさらに数千人が投獄された。チベット人の決起はおよそ2週間続いたが、中国中央政府がチベットの支配階級を打ち破り、段階的な社会主義的改革を実行し始めたことで終焉を遂げた。人民解放軍がラサの支配を確立する前に、ダライ・ラマ法王とその側近らはどうにか脱出することでできた。それに先立つこと9年前に中国はチベットを併合していたが、中国はその時まで首都における存在感を示すことができないでいた。人民解放軍の赤旗が初めてポタラ宮殿の屋上に翻ったのは、1959年3月23日のことであった。

先週中国の公式報道機関の新華社は、ラサ決起40周年記念日に対する中国政府の公式見解を発表した。「チベットの民主改革は1959年3月に開始された。人民解放軍が、チベットの地方反動上層階級による武装反乱を鎮圧した後のことであった。民主改革は、政治的また宗教的な支配体制によって成り立っていた、僧侶と貴族による独裁政治の息の根を止めることができた。彼らの独裁政治はチベットを困窮させていたが、民主改革によって人口の95パーセントを占めていた農奴と奴隷は自由を与えられたのだ」と、3月1日付けの新華社電は報じている。

2日前に新華社電はまた、『中華人民共和国成立後最大のチベット展』が、『民主改革』40周年を記念して、北京の展覧会場で封を切られたと報じた。新華社電によれば、展覧会はチベット自治区の輝かしい躍進振りに焦点が絞られており、「歴代のダライ・ラマとパンチェン・ラマに対して中央政府が与えた贈り物や、何世代にもおよぶ歴史的な公文書」も展示されているという。国務院広報室長のジャオ・チージョンは、「世界にチベットのことをもっと良く知ってもらい、世界の文化遺産としてのチベット文化の貴重な価値を認識してもらうために」、世界各地でこの展覧会を開催する積もりであると語った。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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