33号(1999年2月)

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 チベットの教育事情に関する決定的な新書籍

TIN News Update, 8 January 1999
Definitive New Book on Education in Tibet

技術専門職や公職を急激に漢人が独占する中で、チベット自治区の教育政策はチベット人を教育のない下等市民に変えかねない危険な地点にまで達している。1月12日に、TIN及びゼド書店(Zed Books)から出版される、チベット自治区の教育に関する書籍によって、以上の点が明らかにされた。カトリオーナ・バス(Catriona Bass)著、『チベットの教育(Education in Tibet):1950年以降の政策と実践』は、中等教育以上になるとチベット人学校においても中国語での教育に重点が置かれること、また中等教育の出席率の低さ、さらに高等教育になるとチベット人の就学率が低下すること等から、この地域における経済発展にチベット人社会が参画をするのは困難になっていると、述べている。

『チベットの教育』は、チベット自治区の教育施設および教育政策に関して、総合的な考察を加えている最初の英文の書籍である。中国がこの地域を支配して以来、半世紀の間の中国の教育政策に考察を加えている。チベットの教育に関する西側の議論は、教育施設の不足に論点が集中しがちで、なぜ不足しているのかの背景にはほとんど触れられることはなかった。この本は、他の中国の地域の発展状況とチベット自治区の状況を比較することによって、どの点にチベット自治区の特殊性があり、また中国全体の教育戦略の結果とどのような関係があるのかを指摘しようとしている。

チベット自治区の教育レベルは、他のいかなる中国の地域よりも劣っている。公式統計数値によれば、文盲あるいは半文盲の人の率はまだ60パーセントを占めている。中等教育前期の就学率は67パーセントであるが、地方によっては10パーセントに達しない地域もある。さらに著者のバスが指摘しているように、「チベット自治区の教育に対する投資が全体的に不足していることによって、この地域の経済発展に貢献できるような、十分な教育を受けた人材を供給できない結果となっている。これが、多数の漢族を中国内地から移住させることにもつながっている」。

1980年代の初頭、チベット自治区の教育政策はかなり民主化されており、『民族自治』を再建するために、チベット人に対する教育と訓練に重点が置かれていた。バスが書いているように、この時期には文化的にももっと配慮の行き届いたカリキュラムと、初等教育のレベルではチベット語を使った教育が実践されていた。彼女はまた、どのようにして教育制度の中から文化的独自性重視の姿勢が失われて行ったのかも示している。チベット人指導層の中で『左派』が再び力を握り始めたこと、また経済・社会政策の故に多数の漢族がチベットに移住するようになったこと、そして移住して来た漢族の子供たちを学校に収容しなければならなくなったことを特に挙げている。現在のチベット自治区共産党書記陳奎元は、チベット人には専門教育よりも思想教育の方が重要だとの指示を出している。

バスはまた、チベット語の使用が民族意識と非常に密接に結び付いているので、過去50年の間チベット文化は熾烈な攻撃を受けて来た、と指摘している。現在、チベット語をチベット自治区の公式言語にしようとの試みがなされているが、チベット語の言語政策は概して成功して来なかったという。これは、1987年に独立要求デモが再発した結果、政治的な状況が変化したことも、その一因となったのかも知れない。それ以来、チベット語は次第にチベット民族運動と関連があると見なされるようになり、専門的知識を持ったチベット人労働力を供給するために、チベット語を使おうという経済中心の論理は、治安維持を最優先する自治区政府によって退けられて行った。

カトリオーナ・バスは、中国およびチベット自治区で教えた経験のある、チベット学者である。彼女の著書には、彼女自身の観察結果、そしてチベット人亡命者のインタビュー、また中国とチベットの教育学者との対話、および中国語とチベット語の公式資料も採り上げられている。その中には、中国の外では全く手に入らなかったものもある。

カトリオーナ・バス著:『チベットの教育:1950年以来の政策と実践』(Education in Tibet : Policy and Practice since 1950 by Catriona Bass)は、チベット・インフォメーション・ネットワークとゼド書店(Zed Books)の協力により出版された。全320ページで、ハードカバーは45ポンド又は65ドル、新書版は15.95ポンド又は25ドルである。包装郵送費として6ポンドを添えて、チベット・インフォメーション・ネットワーク宛の小切手を同封して注文して下さい。小切手は英国の銀行又は国際銀行の英国支店で支払い可能の、ポンド建てのものでであること。またチベット・インフォメーション・ネットワークのホームページからでも注文できる。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 人権侵害を訴える手紙で僧侶ら逮捕さる

TIN News Update, 11 January 1999
Monks Arrested for Human Rights Letter

人権侵害を訴える手紙で僧侶ら逮捕さる

チベット自治区のデプン僧院の僧侶2人が、国連人権委員のメアリー・ロビンソンが昨年9月にチベットを訪問した際に、手紙を手渡す準備をしたとの嫌疑で逮捕された。現在亡命中のある僧侶が伝えるところでは、ロビンソンがチベットを離れた1998年9月12日の数日後、デプン僧院内のサンガ・ポタン堂の管理人ンガワン・キュンメが逮捕されたという。ペンポ出身で29才になるサムドゥルも、この手紙事件に関与したとの疑いで逮捕されたと、非公式情報は伝えている。この2人のデプン僧院の僧侶の所在は、現在のところ確認できていない。

ロビンソン国連人権委員の秘書は、彼女のチベット訪問中にそういった手紙は受け取らなかったと語り、2人の僧侶の逮捕に関して現在中国政府に問い合わせを行っていると述べた。

ンガワン・キュンメは30才代前半の僧侶で、ラサの北西6kmに位置するデプン僧院の中の、守護神を祭る小さなお堂の責任者であった。非公式情報が伝えるところでは、昨年9月の彼の逮捕後に、彼の居室からダライ・ラマ法王の写真が押収されたという。ンガワン・キュンメは、ラサの西方に位置するトゥールン・デチェン県の出身で、逮捕後に激しい殴打を受けて、グツェ拘置所に連れ去られたと、同情報筋は伝えている。現在恐らく彼は、どこかの刑務所に移送されたものと思われる。

2人の僧侶が準備を進めていた手紙には、ダライ・ラマ法王がパンチェン・ラマの転生化身として認めた、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年が拘束されていることに関する懸念が、表明されていたと伝えられている。また昨年5月1日と4日にダプチ刑務所で発生した抗議運動で、少なくとも10人のチベット人が死亡した事件に関する情報も含まれたいたという。昨年9月に10日間にわたって中国を訪問した際に、国連人権委員のメアリー・ロビンソンは、現在北京で軟禁状態にあると思われるゲンドゥン・チューキ・ニマに関する懸念も表明していた。江沢民国家主席は、少年も両親も秘密の場所に保護されており、中国は独自のパンチェン・ラマを選んだ、とロビンソン女史に語った。

彼女が訪問中には、固い警備に阻まれて、手紙を手渡すことは不可能であったと思われると、現在亡命中の僧侶は語っている。彼女がラサを訪問していた2日間は、特に警備が厳重であった。TINが入手した非公式情報によれば、制服警官以外にも僧侶の格好をした警官さえも、街路に配置していたという。ロビンソン国連人権委員は、彼女のチベット訪問は「この国においては多くの場合にそうであるように、極めて制限されたもので、非常に困難なものであった」と語っている。

デプン僧院は15世紀に設立された僧院で、政府が強制的な政策を実施した場合には、抵抗した歴史を有している。1987年9月27日には、およそ200人のチベット人を率いた21人のデプン僧院の僧侶が、ラサ市内で平和的なデモを実施して独立要求運動の先駆けとなった。そしてこの運動は、1989年3月に戒厳令が施行されるまで続いた。2年後デプン僧院の10人の僧侶たちは、民主主義および人権に関する小冊子を作った罪で最高19年の懲役刑を受けた。彼らが作った小冊子には、国連人権憲章のチベット語訳も含まれている。

デプン僧院の僧侶たちは、1996年8月に開始された『再教育キャンペーン』に抗議して、2年前には僧院を閉鎖したこともある。1996年9月7日付けの西蔵日報の記事によれば、中国政府はデプン、セラ、ガンデンの各僧院を、自治区全域の僧院の再構成の試験台と見なしていたようだ。同年、デプン僧院の18才未満の僧侶150人が僧院から追放され、少なくとも13人の僧侶がキャンペーンに抵抗して逮捕された。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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 キルティ寺での大規模な抗議行動により、僧侶が逮捕さる

TIN News Update / 18 January 1999
Monks arrested at Kirti after major protest

キルティ寺での大規模な抗議行動により、僧侶が逮捕さる

アムド地方(東チベット)のキルティ僧院出身の僧侶少なくとも5人が、この僧院で行なわれている「愛国教育」キャンペーンに抵抗したために、2人の俗人とともに逮捕された。現在は亡命している元僧侶によると、当局が新たに僧侶の登録を求めたこと、そして、ダライ・ラマおよび、現在インドに亡命中のキルティ寺の座主キルティ・リンポチェの写真を禁止しようと企てた結果、この逮捕が行なわれた。僧侶の1人ロサン・シェラプは、国家の治安にかかわり政府転覆を企てた罪に関連して取り調べ中と伝えられている。

逮捕されたキルティ寺の僧侶らは、1998年を通じて発生した抗議行動の首謀者とみられているようだ。別の機会に少なくとも3度にわたって短期間拘留されたことのある23歳のロサン・シェラプは、1998年12月初旬に逮捕され、ンガバ州の州都バルカム(中国語で馬爾康[マーアルカン]として知られる)の刑務所に移送されたと伝えられている。彼が州都に移送されたということは、彼の事件があまりに重大で、現地ンガバ県レベルで扱えないとみなされたということである。別の非公式情報によると、ロサン・シェラプは、あきらかに彼の事件が国家治安に関わっていることが原因で、来客や食物・衣類の差し入れを許されていないという。

非公式情報によると、キルティ寺の他の4人の僧侶は、1998年11月下旬から12月初旬にかけて拘留された。彼らはすべて、キルティ寺での愛国教育キャンペーンへの抵抗運動を組織した疑いで逮捕されたと伝えられている。この中には、ダライ・ラマの写真を組織的に掲示したり、キャンペーンのボイコットをよびかけるポスターを張り出したことなどがある。非公式情報によると、この逮捕は、ダライ・ラマの著作や法話を現地で広めたことに関係があるようだ。同じ情報源が伝えるところによると、27歳のロサン・テンジンもまたバルカムの刑務所に投獄されており、一方、27歳のチューペルは、成都の北東100kmにあるンガバ県のミェンヤン刑務所にいるらしい。チューペルは3年の刑を受けたと伝えられている。逮捕された他の2人の僧侶、34歳のティンジンと29歳のパンデンの現在の行方は明らかではないが、そのうち1人はバルカム刑務所にいるらしい。他に2人の僧侶、ロペルとペルコ(ともに24歳)が逮捕されたが、今月釈放された。この2人は拘置されている間にひどく殴打されたと伝えられている。

僧侶たちが逮捕されたのとほぼ時を同じくして、50代のチベット人実業家ウツェがンガバで捕らえられた。元僧侶で、結婚して、キルティ寺の僧侶を含む4人の子どもをもつタクパ・カコも逮捕され、ひどく殴打されたといわれている。タクパ・カコが刑務所で殴打されて死亡したとの未確認の報告があったが、その後の亡命者からの報告によると、彼は存命中ではあるが、健康と安全は懸念されるとのことである。

キルティ寺での愛国教育への抵抗運動

現在四川省の一部となっているンガバ自治州(中国語でアバ)にあるキルティ寺での不穏な動きは、1998年5月に当局の工作班の役人が寺を訪れたときに始まった。TINの情報源によると、僧侶たちのダライ・ラマへの忠誠を打ち砕こうと企てる役人らは集会の中で、僧侶らは6つの要点を受け入れねばならないと述べた。その中には、ダライ・ラマは分裂主義活動の権化であり、ダライ・ラマの法話や文書は当局に引き渡さねばならないということを僧侶らは受け入れるべきだというものがあった。このことは、チベットでは違法であるダライ・ラマの自伝『My Land and My People』(訳注:邦題は『チベット わが祖国』)などの著作が現地で出回っていたらしいという事実に当局が関心をもっていたことを示している。多くの僧侶は、6つの要点を告知するこの集会から退場し、役人が寺の周囲に貼ったポスターを破く者もいた。同じ情報源によると、役人らが滞在していた部屋に投石した僧もいたという。愛国教育工作班が訪れた別のときには、愛国教育キャンペーンに抗議するポスターが僧院の壁に掲示されていた。

キルティ寺の僧侶らは、僧院周辺に配布された書簡の中で6つの要点に対して詳細に反応したとも言われている。現在亡命中の僧侶はTINに次のように語った。「彼らは、ダライ・ラマ猊下はチベット人の宗教的・政治的指導者であり、猊下はチベット人民衆の現在の民主的な希望に沿った指導者である、と書いていた」。「彼らはまた、自分たちが認めるのはダライ・ラマの選定したパンチェン・ラマの転生であり、18歳未満の僧は寺を去らねばならないというようなことは、チベットの歴史上ありえなかったことなので受け入れられない、とも書いていた」。

元キルティ寺の僧によると、当局は、役人が僧侶の中に座り、それを警官が取り囲むという愛国教育集会のビデオを撮影しようともした。僧侶らが顔つきで非難を表明したため、役人はビデオ撮影を中止しなければならなかったという。

ロサン・シェラプの逮捕

 当局によって僧侶らの首謀者と目されているらしいロサン・シェラプは、現在亡命中の親類によると、1996年と1997年、ともに1ヶ月に満たない一時的な拘留を受けた。1997年11月10日、「グ・ニェルニ」と呼ばれるキルティ寺での宗教儀式の後、7日間捕らえられた。「グ・ニェルニ」は「9月22日」の意で、伝統的な討論が行なわれ、ダライ・ラマの長寿を祈る法要が営まれる。ロサン・シェラプは「キョル・プン」(クラスの首席学生)すなわちクラス委員であり、彼のクラスの僧侶らはこの儀式のとき、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ、そしてキルティ・リンポチェの写真を掲示していた。ロサン・シェラプが逮捕され、役人らはそれらの写真を掲示した意味を彼に問うたと伝えられている。

ロサン・シェラプは、ンガバとラサの双方において政治的活動で知られる一族の出身である。現在亡命中の兄弟のジグメはラサでの政治活動で知られ、1989年には4ヶ月投獄された。父ゴツゥン・ツゥンドゥは、1983年に僧院に巨大な「チョルテン」(仏塔)を建立したことでンガバ地方で知られている。ゴツゥン・ツゥンドゥは1998年8月、捕らえられるのを避けるためにチベットから逃れた6年後に亡くなった。彼が亡くなる前、ロサン・シェラプは短期間ネパールに父を訪ねたと伝えられている。ロサン・シェラプの家族のつながりも、クラス委員としての責任ある立場同様、この逮捕の要因であろう。

当局がロサン・シェラプはじめキルティ寺の僧侶らに提示した6つの要点は、インド北部にあるキルティ寺を指すと思われる「中国の外にある僧院」に触れていた。愛国教育工作班は「中国国内の宗教施設および僧院の僧侶が、中国外のそれらと接触することは許されない」と言った。当局は、1997年にロサン・シェラプが逮捕されたときに僧院に写真が掲示されていたキルティ・リンポチェの僧院内における影響力を懸念しているのだろう。キルティ・リンポチェは30年以上もインドで亡命の身にあり、インドのダラムサラにあるチベット亡命政府でちょっとした地位に就いている。キルティ寺でダライ・ラマとパンチェン・ラマの写真とともにキルティ・リンポチェの写真が掲げられていることは、僧侶らの間で彼が今も敬われている宗教者であることを示している。6つの要点は彼について名指しでは触れていないし、亡命中の元僧侶がTINに語った話によると、工作班はキルティ・リンポチェのことはあまり言わなかった。その僧侶は「キルティ寺は非常に大きく、もし当局がリンポチェについて触れたら、大きな問題になるだろう」と語った。

工作班の提示したその他の点は、ダライ・ラマに反対するのは不可欠であること、インドで認定されたいかなる転生活仏をも認めるのは許されないこと、18歳未満の僧侶は僧院に留まるのを許されないことである。TINの情報源によると、キルティ寺の僧侶らは、もし6つの要点を受け入れないのなら、僧院に留まることは許されないだろうと当局に言われた。

カリキュラムの変化で脅かされる仏教学習

2つの非公式報告によると、キルティ寺の学堂のカリキュラムが当局によって変えられた。学堂に入っている若い僧侶らは今や、チベットの歴史を学習することは許されない。教師は中国語を教えるよう強いられ、当局は学堂に対して、もっと中国人教師を雇うように指示を出した。学堂には600人以上の学生がいる。

ラサから1000km以上東にあるキルティ寺は2000人以上の僧を擁する、チベットおよび中国で最大のチベット仏教施設であると言われている。キルティ寺の僧侶らは、これまで何度も当局への抵抗運動に関わってきた。1990年には抗議運動はラサから、現在中国統治下にあるチベットの東端に位置するンガバを含む郊外地域に広がった。1990年1月には、チベット暦正月期間中の抗議運動の機先を制するためにンガバで人民解放軍増強が行なわれた。1992年には現地当局は、ンガバを含む四川省チベット圏には「いまだに不安定要因」があると認めた。1992年には、キルティ寺の僧侶の行なった5月1日の抗議行進で8人の僧侶が逮捕された。現地出身のあるチベット人は当時TI Nに次のように語った。「中国人はいつもンガバを怖がっている」「そこでは1950年に戦闘が起こり、1960年代にも再び起こって大勢が殺された。彼らは我々の僧院の強さを恐れており、だからこそ、大勢の兵士がいるのだ」。

以上

(翻訳者 長田幸康)


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 チベット人信仰放棄を強制さる

TIN News Update, 22 January 1999
Tibetan Urged to Abandon Religion

チベット人信仰放棄を強制さる

チベット自治区政府は、チベット人に無神論の受け入れを迫る宣伝活動を開始した。1月8日にラサで開催された共産党宣伝部の会議で、自治区の経済を発展させるためとダライ・ラマの影響に対抗するために、無神論が必要であるとの宣言が採択された。この宣伝活動開始の宣言が出されたのは、北京政府が信仰の自由を保証する政策を改めて確約したのと同じ日であった。

無神論を推し進める宣伝活動からは、チベット人幹部にも個人的には根強いダライ・ラマ法王への忠誠心があり、チベット人からダライ・ラマ法王支持の気持ちを払拭できなかったことへの憂慮の念を窺い知ることができる。これはまた、チベットにおいて反ダライ・ラマ法王の運動が強化されていることを表しており、チベット人幹部ばかりでなくチベットの民衆全般を対象としている。「分離主義者への闘争を強化し、断固としてダライ一派の反動的な謀略に反撃し、農民や遊牧民が宗教の否定的な影響から自らを解放するのを助けるために、これは重要な対策である」と同会議で宣言されたと、1月10日にラサで放送された西蔵テレビは伝えている。これは、都市部だけでなく農村部でもこの運動が展開されることを示している。

この運動は3年間続けられる予定であり、メディアや様々な工作単位(職場)を動員して、無神論を広めるとの目標を掲げている。昨年ライディは、共産党の幹部は無神論者であるだけでは不十分であり、無神論を広めなければならない、と語っていた。「共産主義者として我々は、無神論者であることを表明したからそれで良いと言うことにはならない、共産主義的無神論を断固として広める必要があり、農民や遊牧民に共産主義者の宗教的姿勢を吹き込まなければならない」と、1998年11月15日に開催された自治区共産党委員会の演説で彼は語った。

中国共産党およびチベット自治区共産党の党員にとって、無神論者であることは長いこと義務であった。自治区共産党の書記、陳奎元は1994年に次のように語っている。「共産党の宗教政策は不変であるし、これからも不変であろう。共産党の党員が無神論者でなければならないという政策は、確固たるものである」。非共産党員の一般大衆が、信仰を持つことを共産党は尊重をするが、すべての共産党員は唯物論と無神論という労働者階級の世界観を保持しなければならない。

過去8年間に実施されてきた様々なキャンペーンは、共産党員が無神論者であることを確約すべきことを重視してきた。穏健な党員からは、無神論を強制することは共産党の基盤を揺るがせることになる、との警告にもかかわらず様々なキャンペーンが実施されてきた。1994年5月、チベット人政治家のロンウォ・ロプサン・ドゥンドゥプが中国政府に警告を発して、宗教に対するこのような取り締まりは逆効果であると述べた。「文化大革命の最中に無神論が大々的に喧伝されたが、結果は逆効果であったことを、我々は忘れるべきではない。無神論を受け入れる代わりに、大衆に残された後遺症は甚大なものであった。我々はこの教訓を思い出すべきだ」と、ロンウォ・ロプサン・ドゥンドゥプは政治協商会議チベット支部の会議で発言した。

最近の政治宣伝運動は、伝統的なチベット人の指導者層および高僧、すなわち宗教的な指導者を標的にしている。ライディは、11月の演説で次のような例を挙げている。「林周(チベット語ではルンドゥップとして知られている)の或る村で、麦の収穫を前にして、農民が或る僧侶に占いをしてくれるように頼んだ。その僧侶は、収穫を始めるべきではないと占ったが、収穫が遅れたお陰で作物は雹に襲われ、結果は悲劇的であった。そのような宗教による干渉が生産を妨げ、新技術の普及を遅らせてきたことは、チベット全土で極めてありふれたことであった。そのような迷信から大衆を解放し、魔術を止めさせ根こそぎにすることこそが、我々共産党員や役人のなすべきことである」とライディは語ったと、1998年11月24日付けの西蔵日報は伝えている。中国の憲法では、国家は『通常の宗教活動』のみを保護すると宣言されている。予言や占いは、『迷信的宗教活動』とずっと見なされており、通常は禁止されている。

ライディを含む共産党の幹部は、チベットには信仰の自由が存在すると繰り返し主張してきた。中国国務院宗教事務局の局長、葉小文は、北京を訪れた米国の役人と1月8日に会談し、信仰の自由を保護する政府の政策の概要を明らかにした。しかし同じ日に政治宣伝部は、無神論を喧伝するための会議を開いていた。葉小文は、「中国政府は中国人民の信仰の自由を、憲法と法律の範囲内で保証する」と語ったと、新華社電は伝えている。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 『愛国教育』の後に宗教施設閉鎖さる

TIN News Update, 27 January 1999
Closure of Religious Sites Following " Patriotic Education "

『愛国教育』の後に宗教施設閉鎖さる


愛国教育運動を推し進める工作班がやって来て、13世紀以来の伝統を誇る僧院から僧侶が退去させられた事件、およびチベット最古の尼僧院の1つが破壊された事件の詳細が、チベットから伝えられてきた。

シガツェのジョナン・クンブム僧院は、チベット仏教ジョナン派の中心的な僧院であり、歴史的にもまた宗教芸術的にも重要な宗教施設であるが、1997年7月に閉鎖され僧侶たちは帰宅させられた。僧院から持ち出された美術品は、ラサの古美術品の市場で販売されているのが目撃されている。またラサ近郊にあるラコル尼僧院は12世紀以来の伝統を持つ古刹であったが、現在は無人となり、本堂を除いてすべての建物は完全に破壊されてしまったと伝えられている。


愛国教育工作班が、シガツェ地区ラツェ県のプンツォリンにあるジョナン僧院に最初に到着したのは、1997年4月15日のことであった。ジョナン僧院の僧侶らは、ダライ・ラマ法王と法王が選んだパンチェン・ラマの転生者、9才のゲンドゥン・チューキ・ニマ少年を非難するように強制された。そして、中国が擁立したパンチェン・ラマを認めるように要求された。TINが入手した情報によれば、役人たちは僧侶らがこれらの条件を飲まなければ僧院を閉鎖すると脅したという。「僧侶たちは個別に面接され、条件を飲まなければ生命に関わると脅された」と、現在亡命中の匿名のチベット人は語っている。「工作班が僧院に滞在している間は、僧侶たちは奴隷同様の扱いを受けていた」とも伝えている。

ジョナン僧院の僧侶らが、愛国教育工作班の要求を受け入れることを拒んだ時に、見せしめとしてヨンテン・ギャンツォという名の僧侶が逮捕された。そして、ヨンテン・ギャンツォの所在は今も不明のままである。他の僧侶たちの中には僧院を逃れ出た者がおり、その内の何人かは現在は亡命している。1997年7月12日、2度目の工作班が僧院に派遣されて、僧侶らに愛国教育を受け入れるように説得した。役人たちは説得に失敗すると、ジョナン僧院の閉鎖を宣言し、僧侶たちは帰宅するように命令された。非公式情報によれば、僧院長のクンガ・イェシは迫害を受けたと伝えられている。彼は工作班が要求するダライ・ラマ法王の非難を拒絶したために、数カ月間投獄されさらに僧院から追放されたという。

クンガ・イェシは70才に近い高齢であり、文化大革命が始まる前に既に破壊されていたジョナン・クンブム僧院を再建するために、基金を募る役割を専ら果たしていたという。同じ非公式情報筋によれば、1980年代を通じて彼は地元の商業主や他の寄付者から寄付を募って、僧院の修復と法脈(仏教的な血脈)の再構築に力を注いでいた。10年以上を経過して、僧院も立派に修復され、仏教の教学も行われるようになった。僧侶や尼僧らも教えを受けるために、同僧院を訪れるようになっていた。

1950年代の後半にジョナン・クンブム僧院が破壊されるまでは、そこには巨大な仏塔がチベットでも最も良い状態で保存されていた。チベット全土から巡礼者たちがやって来て、クンブム(十万仏塔の意味)にお参りしていた。八角形の七層の伽藍で、様々な逸話を表す仏画が描かれていた。この仏塔は、カギュー派の一派であるジョナン派の、精神的な中心を成していた。1682年に亡くなった第5世ダライ・ラマ法王は、すべてのジョナン派の僧院をゲルク派に転派させた。ジョナン僧院の壁画は、チベットでも非常に特色のあるものであり、14世紀から15世紀にチベット人の仏画師によって描かれたものであった。

非公式情報が伝えるところでは、政府は複数の仏像ばかりでなく建物修復のための建築資材さえも没収したという。この僧院は、チベット自治区西部ブラマプトラ河の南岸にある、ラツェから61km離れたところに位置している。「幾つかの美術品は、ラサの市場で売られているのが目撃された」と、同情報筋は伝えている。

ラコル尼僧院の破壊

ラサの北西に位置するトゥールン・デチェン県ラコル尼僧院の80人以上の尼僧たちは、1997年7月以来、愛国教育を強制的に受講させられた。工作班の指導に基づく質疑応答の時間にも、尼僧たちは沈黙を守り続け、試験に対しても解答用紙を白紙で提出した。

1997年11月に、高僧の2人の尼僧が逮捕された。これが引き金となって、地元社会でもラコル尼僧院の尼僧たちの問題で会議を開いた。TINが入手した情報では、人民武装警察の兵士らが尼僧院に派遣されたという。「その日、100人の武装警察の兵士らが、20台のトラックに分乗しやって来た。彼らは脅迫と暴力的手段によって、尼僧たちに愛国教育を受けるように迫った。恐怖のために尼僧たちは、愛国教育の試験を受けなければならなかった。他に選択の余地はなかった」と、この情報筋は伝えている。パルデンとケルサンという名の2人の尼僧が拘束されたが、その後彼女らが釈放されたか否かは確認されていない。

1997年11月20日、同尼僧院の82人の尼僧の内79人に、尼僧院を退去して帰宅するように命令が出された。わずか2人の若い尼僧と、当時入院中であった設立者のドンガ・チュゾムのみが残ることを許された。1998年1月には、ラコル尼僧院には1人の尼僧も残っていなかった。そして1998年8月、尼僧院は本堂を除いて完全に破壊された。現在は2人の一般人が本堂を管理していると、TINの情報筋は伝えている。仏像や美術品が、持ち出されたのかどうかは確認されていない。

ラコル尼僧院は12世紀に建立されたもので、チベットでも最古の尼僧院の1つであった。文化大革命以前は、チベット仏教のニンマ派に所属していた。文化大革命中に破壊されたラコル尼僧院の再建は、比較的開放的であった1986年に終了した。

チベット自治区政府の元副主席であったプチェン・ツェリンが語った所によれば、1959年にはチベット自治区に2700以上の僧院が存在していたが、1966年にはその数は550となり、文化大革命が終わったときにはわずか8ケ寺しか残っていなかったという。ジョナン僧院が閉鎖されてから1カ月も経っていない1997年8月8日、新華社電は「宗教は今やチベットで黄金時代を迎えている」と報じた。また、1951年の『チベット解放』以前と比べても、もっと多くの寺院が今やチベットには存在しているとも報じた。中国政府が1998年2月に発表したチベット自治区の人権白書によれば、現在チベット自治区には1787ケ所のチベット仏教施設が存在し、46、380人の僧侶や尼僧が暮らしているという。同白書は、3億元(3614万ドル、43億3680万円)の基金が、チベット自治区の僧院の維持、修復、保護に当てられたと報告している。

1980年代にチベット自治区で開放政策が実施された時期に、ジョナン僧院もラコル尼僧院も修復され、仏教教学も行われるようになった。TINの情報筋は、この2つの僧院および尼僧院が閉鎖された現在の情勢を、文化大革命当時の状況に似ているとして次のように語った。「限られた自由を満喫し、生存に期待を懸けることのできた時代は、1997年4月愛国教育が始まった時点で、消え去ったのだ」

以上

(翻訳者 小林秀英)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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