31号(1998年12月)

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 政治的抗議行動後にチベット人の刑期延長さる

TIN News Update, 7 October 1998,
Sentence Extensions for Tibetans after Plitical Protest

昨年10月に国連代表団がラサのダプチ刑務所を訪問した際およびその直後に、3人の
チベット人が政治的な抗議行動を取ったために刑期が延長された。ソナム・ツェワン
(あるいはツェリン)、ティガ(あるいはティンカル)そしてワンドゥらは全員が非政治
囚であるが、各自が少なくとも3年の刑期延長を受けた。彼らは、政府によって『演出
された』国連代表団の訪問形式に抗議をしたものであると、チベット内部の情報筋は伝
えている。


国連の恣意的拘束に関する調査団が刑務所を訪問した後に、囚人たちに何が起きたのか
TINが警告を発したことを受けて、調査団は中国政府との会談でこの問題を取り上げ
た。11月に開催される次回の会談でも、調査団はこの問題を議論する予定である。

昨年10月11日に専門家から成る調査団がダプチ刑務所を訪問した際に、刑務所当局
がこの中立な立場を採る専門家らの目を欺こうとしていると、3人の囚人らは感じて抗
議運動を計画したと言われている。チベット内部からの非公式情報が伝えているところ
では、国連調査団の訪問数日前に刑務所の施設は清掃され、食事の質は向上し、「調査
団に面接する人々の人選が行われ、あたかもそれは演劇の準備をしているようであっ
た」という。3人の囚人、ソナム・ツェワンそしてティガとワンドゥは、調査団の訪問を
前にして抗議運動をいかに展開するかについて、会って相談したと伝えられている。そ
して調査団が訪問した際に、ソナム・ツェワンが立ち上がって「ダライ・ラマ法王万
歳」と、調査団の面前で叫んだ。TINの情報筋によれば、調査団が刑務所を去った後
に、彼は独房に隔離されたという。訪問の翌日、ティガとワンドゥは当局に抗議するため
に囚人たちの間で集会を開いた。このことが判明すると、2人は殴打され、独房に入れ
られた。チベット内部からの情報が伝えるところでは、事件後に「(3人の囚人)はロ
ープで縛り上げられ、囚人の集会に引っ張り出されて、刑期延長の判決を受けた」とい
う。

3人の囚人に与えられた刑期の追加期間は、まだ確認されていない。また中国政府は、
調査団にも詳細を語ってはいない。非公式情報の1つは、ティガは10年の刑期延長、ソ
ナム・ツェワンは5年、ワンドゥは3年延長となったと伝えている。国連調査団の前で
叫んだのはソナム・ツェワンであったが、同情報筋はティガが抗議運動の中心人物だと伝
えている。彼の刑期の長さがそれを物語っているのかも知れない。3人の囚人の元々の
刑期は判明していない。

非公式情報によれば、ソナム・ツェワンはラサ近郊のメルド・ゴンカル出身で、ティガはナ
クチュ地区ソグ県の出身、ワンドゥはシガッツェの出身であるという。全員がチベット
自治区の出身となっている。調査団のメンバーたちは、ソナム・ツェワンが抗議運動を
した後で、彼に話しかけた。しかしティガとワンドゥもこの後の事件に関わっていたこと
をTINが伝えるまで、国連調査団はこのことを知らなかった。3人の囚人がまだ独房
に入れられているのかどうかは、不明である。

刑務所当局者が調査団に口頭で、彼らの訪問後に囚人がいかなる報復も受けることはな
いと保証したにもかかわらず、ティガとワンドゥは罰として激しく殴打されたと、チベッ
トからの非公式情報伝えている。同情報筋は、「顔を見ても彼らであることが確認でき
ない程であった」と伝えている。在ジュネーブ中国大使のウ・ジェンミンは、4月1日
付けの国連調査団宛の手紙の中で、暴行を受けた囚人はいないと否定している。「ソナ
ム・ツェワンであれ、また誰であれダプチ刑務所の囚人の中で、調査団の面接を受けた
報復として殴打や暴行を受けた者はいない。彼らは今も刑務所内で刑期を務めており、
通常の生活を送り、他の囚人たちと同じ待遇を受けている」と、ウ・ジェンミンは書い
ている。

ティガとワンドゥそれにソナム・ツェワンは、婦女暴行罪で投獄されていると伝えられて
おり、ダプチ刑務所の第2区域に収監されている。ここには、刑事犯のみが収監されて
いる。彼らの行動は、過去ダプチ刑務所で起こって来た事件と類型的な形を採ってい
る。つまり政治的な抗議運動に非政治囚が参加したのである。ダプチ刑務所の5月1日
と4日の非暴力抗議運動で、政治囚と非政治囚が団結をしたということが、刑務所当局
の特別な懸念を呼んでいる。刑務所当局は、良心の囚人たちが非政治囚たちに政治思想
を吹き込むことを恐れて、両者を分離する政策を実施して来た。非公式情報が伝えてい
るところでは、5月の抗議運動に対する刑務所当局の取り締まりの結果、僧侶4人と尼
僧5人および一般人1人が死亡したという。5月の抗議運動は、ダライ・ラマ法王とチ
ベット独立を支持するスローガンを1人の刑事犯が叫び始め、それに政治囚たちが加わ
ったことで始まった。

ダプチ刑務所訪問に関する国連調査団の報告書、批判さる

恣意的拘束に関する国連調査団は、1997年10月に中国とチベットを訪問したが、
報告書に囚人たちの抗議運動に関する記述がなかったために、複数の非政治組織によっ
て批判を受けた。中国の人権問題を監視している団体は、調査団が訪問の1年以上も前
から中国で執行されている拘留事件の個々の事例を調査することを公式に止めていた、
と指摘している。中国人権監視団は、「国連人権委員会による中国の公式批判を、中国
との相互対話に置き換えたことよって、返って懸念が増大しているだけである。国際的
な人権基準の適用を支持している諸国は、実態に関心を払っているのであろうか。中国
の人権状況を把握することに留意しているだろうか。改革をさらに進めるように、励ま
しているのだろうか。それとも見かけ倒しの表面的な恰好だけで良しとしているのであ
ろうか」(国連人権調査団報告書『現実主義への原則:対話は中国の人権状況を改善さ
せることができるか』1998年6月23日発行から)と述べている。国連人権調査団
顧問の専門家らも、囚人仲間を通訳に使ったことで非難を浴びている。これでは、調査
団の『私的』な面談の信頼性が保証されていないことになり、また面談に参加した囚人
たちの安全を脅かす危険性もあるからである。

人権監視団は、代表団がチベットの刑務所を訪問すること自体を批判している。「これ
まで人権監視団はチベットを訪問する代表団に、刑務所訪問はそれが逆に囚人を窮地に
追い込みかねないから、刑務所を訪問しないように助言して来た。チベット人囚人らの
刑期が延長された最近の事件は、危惧が当を得ていることを示している」と、ニューヨ
ークに拠点を置く人権監視団の広報官は語った。

国連人権高等弁務官のメアリー・ロビンソンは、9月10日から12日までのチベット
訪問の際に、ダプチ刑務所の訪問を直前になって取り止めた。これは、彼女の訪問時に
政治的な抗議運動が勃発するかも知れず、それによって囚人たちが復讐される虞れがあ
るとの、非政府組織からの助言を受け入れたからであった。「メアリー・ロビンソン
は、ダプチ刑務所訪問に誘われても、刑務所を訪問しないことに決めた。これは非政府
組織の懸念に同意したからだ」と、広報官のジョーズ・ルイズ・ダイアズは語った。

ロビンソンの決定は、国連人権調査団と欧州連合の三頭代表団の5月の訪問の反省に基
づくものと思われる。最近ダプチ刑務所で発生した2件の抗議運動は、5月4日の欧州
連合代表団の刑務所訪問の当日に発生した。しかし現地にいた代表団は、抗議運動の形
跡を一切見てはいない。ダライ・ラマ法王の支持とチベット独立のスローガンを叫ん
だ、この抗議運動に加わった政治囚および一般囚は、激しい殴打を受けて、その後多く
の者が独房に入れられた。この抗議運動の結果10人の囚人が死亡したとの情報は、外
部に到達するまでに3カ月を要した。刑務所周辺および、負傷者が収容されたセラ僧院
近くの軍事病院周辺の治安が、強化されたためであった。

この事件に関して中国政府が言及したのは、わずかに8月にチベットを訪れたデンマー
クの代表団に対してだけであった。8月7日にダプチ刑務所を訪れた際に、刑務所の副
所長は「5月にあることが起きた」とデンマークの代表団に語った。しかしダプチ刑務
所の所長は、刑務所内でいかなる騒動も起きてはいないとこれを否定した。英国外交部
は、死者が出たとTINが報道して以来、ダプチ刑務所の抗議運動を『現在進行中の問
題』と扱っている。外交部の広報官は、「我々は、この報告に関する懸念を中国政府に
表明し、先月北京で開催された中国政府との人権対話でこの問題を取り上げた。オース
トリア政府は、中国にこの事件に関する詳細な情報を要求しており、欧州連合諸国と歩
調を合わせた措置を考えている」と語った。

メアリー・ロビンソンは、ラサにチベット人の通訳を同行しておらず、中国政府に覚書
を提出し、ダプチ刑務所の事件に関する詳細情報を要求したが、回答は全く無かった。
彼女は、国連調整官および国連調査団が懸念を抱いている項目を一覧表にして提出した
が、個々の政治囚が置かれている状況に対する問い合わせも含まれている。「彼女の意
図は、これらの事件に調査を入れようということではなく、この方面で確立している国
連の活動を支援しようということなのです」と、ジョーズ・ルイズ・ダイアズは語っ
た。メアリー・ロビンソンが取り上げた唯一の具体例は、ゲンドゥン・チューキ・ニマ
のことであった。ダライ・ラマ法王がパンチェン・ラマ(ダライ・ラマ法王に継ぐ宗教
的指導者)の転生化身として認定した、9才の少年のことである。メアリー・ロビンソ
ンは、北京にいると言われていながら所在が確認されていないこの少年のことを、チベ
ット自治区の指導者および光沢民国家主席との会談で取り上げた。「彼女は、満足が行
く回答も肯定的な回答も得ることができなかった」と、彼女の広報官は語った。

メアリー・ロビンソンのもう一つの要求、ラサ滞在中に元囚人のユーロ・ダワ・ツェリ
ンと面会したいという要求も、中国政府によって拒否された。彼の所在が「分からな
い」、というのがその理由であった。ユーロ・ダワ・ツェリンは、元僧院長で西蔵大学
の哲学講師であり、ラサを訪問中のイタリア人観光客と個人的に食事をした際に、ダラ
イ・ラマ法王のことを語ったとして、1987年に10年の懲役刑を受けた。メアリー
・ロビンソンはユーロ・ダワ・ツェリンとの面会を要求することで、1994年に非公
式に彼に面会した国連の宗教迫害に関する調整官アダルファタ・アモールの前例を踏襲
しようとしたのだ。ユーロ・ダワ・ツェリンは、1994年11月に国連の査察団が到
着する3週間前に、条件付きで釈放されたものである。彼は国連調整官に、刑務所内で
は宗教活動に関する禁止令が存在し、また政治犯としての刑期を終えた僧侶や尼僧たち
が自分の僧院に帰ることは禁止されている、と語ったと伝えられている。この2種類の
禁止令の存在は、後に国連の報告書にも記載された。

メアリー・ロビンソンの広報官は、彼女のチベット旅行は中国の他の地方への旅行に比
べると、遥かに厳しい制約を受けたものであったと語っている。ラサの自治区政府は、
一般のチベット人が国連調査団に直接話をしたりすることがないように、最大限の努力
を払ったようである。1例を挙げれば、ポタラ宮殿の近くでメアリー・ロビンソンに近
づこうとした僧侶は、治安警察によって追い払われた。

国連調査団の訪問は『肯定的な発展』

英国のトニー・ブレアー首相は、6日間の中国訪問のために昨日北京に到着した。彼の
広報官は、メアリー・ロビンソン、恣意的拘束に関する国連調査団および欧州連合の代
表団の訪問は、英国と中国の間で推進して来た対話の『肯定的な発展』を示すものだと
語った。ブレアーは、メアリー・ロビンソンの中国およびチベット訪問に言及して、中
国が人権面で進歩していると称賛した。昨日は朱鎔基首相と会談し、中国政府とダライ
・ラマ法王の間で対話が進むことを希望すると、ブレアーは述べている。朱鎔基首相
は、ダライ・ラマとの対話のパイプは既に開かれていると答えた。

過去7年間の間に、オーストリア、ドイツ、イタリア、ネパール、日本等の諸国から、
65団体以上の公式代表団がチベットを訪問している。高位の団体の殆どが、ダプチ刑
務所を訪問する機会を与えられている。1991年には、ダプチ刑務所を訪れたスイス
代表団の面前で、『チベットに自由を』と叫んだ教員のタナク・ジグメ・サンポが、8
年の刑期延長の判決を受けた。他にも同じ年に、少なくとも5人のチベット人囚人が、
当時の米国大使のジェームズ・リリーに請願書を手渡そうとして、激しい殴打を受け独
房に入れられた事件が起きている。

中国政府は、そのような訪問の機会を政治宣伝のチャンスとして使って来た。公式報道
機関である新華社は、度々チベットにおける中国の政策に対する代表団の好意的なコメ
ントを報道している。イタリア・中国友好協会を代表するイタリア上院議員の一行は、
わずか1カ月前にチベットを訪問したばかりであるが、新華社電が報じたところによれ
ば、チベット人は「完全な宗教的自由」と「他の省に比べれば多大な自治権」を享受し
ていると語ったという。新華社電によれば、イタリアの代表団は欧州諸国の中ではチベ
ットを訪問した最初の代表団いうことであるが、今年だけでも既に少なくとも8団体の
欧州の代表団がチベットを訪問している。昨年8月、ドイツ連邦議会の副議長アンジェ
・ボルマーは、ダプチ刑務所は「十分にして合理的」な管理が行われており、「またお
客として来ようと思う」と語ったと、新華社電は報じた。ボルマーは後にこれを否定
し、ボンの中国大使館は謝罪させられた。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 当局がダプチ刑務所の抗議行動の事実を認める;囚人の安全への脅威

TIN News Update, 21 October 1998
Officials Confirm Drapchi Protest; Fears for Safety of Prisoners

中国政府当局は、ダプチ刑務所でチベット人が平和的な抗議行動を行った後、刑
務所警備員が発砲したことを認めた。しかし、5月1日と4日の抗議行動の3ヶ月後
にして、問題を提起した西側政府への、この事件に関する実質的な回答はこれだけで
ある。囚人達は、5月1日に行われるはずであった欧州連合代表団の訪問のために、
抗議行動を計画したようである。


ラサ司法当局は、訪問中のヨーロッパ民主連合(以下EDU)代表使節団に以下のよう
に語った。5月1日、国旗掲揚の式典の際に、囚人が『チベット独立』、『ダライラマ
万歳』などを含むスローガンを叫んだ。司法当局によれば、警備員がこれにひどく驚
いて、「刑務所の外にいる警察官の注意を引くため」空中に発砲した、ということであ
る。声明は、警備員が銃で武装していたことを認めたが、この事件で、なぜ、彼らが
スローガンの叫び声に驚いたのかは説明していない。代表使節団の一員である、ノル
ウェーの議員ボージュ・ブレンドは以下のように述べている。「司法当局からの事件
に対する説明は大変奇妙であり、全く信じ難い。」

死者が出ていることを中国当局は一貫して認めていないが、これは抗議行動の結果に
関する情報の流出をくい止めようという決定の一つの例でしかない。この抗議行動は、
1989年3月の戒厳令の発動以来、最も深刻な事件の一つである。チベットからの最新
情報によれば、事件の次の週に11人の死者が出た、ということである。チベットから
の非公式情報によると、6人の尼僧、4人の僧、1人の俗人が、取り締まり後に死亡
したと言われている。

EDUチベット訪問団のオーストリア人民党議員グループのリーダー、アンドリュー・
コールは、8月27―31日のラサ滞在中に、死亡したと言われている人々の名簿を司法
当局に提出した。当局は、事件で死者が出たことを否認した。

5月以降、チベットを訪問した代表使節団(8月のデンマーク使節団、1ヶ月前のイ
タリア上院議員グループを含めて)のどれもが、11 人の囚人の死亡に関する状況の
情報を得られないままである。ダプチ刑務所所長は、ラサを訪れたデンマークの使
節団に、5月1日と4日には「何も起こらなかった」と語った。しかし、刑務所副所長
は、「何かが起こった」と語った。

EUの使節団のダプチ刑務所訪問とまさに同じ5月4日に、イギリス政府がEUの閣僚
会議を開いた。司法当局に言及された国旗掲揚の式典は、EU訪問団到着のために準備
されたと言われている。その訪問団は、北京駐在のイギリス、オーストリア、ルクセ
ンブルク大使から構成されていた。イギリス政府が、ダプチ刑務所の死者について
問題を提起するのに3ヶ月かかり、今のところ、その議題に関する回答を得ていない
。イギリス人権委員会と中国との対話が、今日北京で始まった。

EDU代表使節団の一員である、ノルウェーの議員、ボージュ・ブレンドは、中国政府
の公式通信社新華社が、代表使節団のチベット訪問について間違った表現を用いた、
と批判した。8月30日の新華社通信は以下のように報道していた。「コール(代表使
節団のリーダー)はこう語った。使節団は多くの地域を訪問し、チベット人が信仰の
自由を楽しんでいる姿を見てうれしく思う」。しかしブレンドはTINにこう語った。
「これは、間違いである。なぜなら寺院で人々が礼拝しているのを見ると、表面的
には、まるでチベット人が宗教の自由を持っているかのように見える。しかし、同時
に、チベットの至る所で、ダライラマを公然と批判する愛国教育キャンペーンが僧侶
や尼僧に強制されており、もしそうしなければ、彼らは除名されるのだ。それは、
自由ではない。」

6人の尼僧、5月の抗議行動後に死亡

ダプチ事件後のチベット人囚人の死亡に関する、さらなる情報が、ラサ司法当局の
否認の後に、TINに届いた。チベット自治区からの最新の未確認情報によると、抗議
行動の後に、6人もの尼僧が死亡している。チベット自治区ルンドゥブのペンポ出身
で、26歳のンガワン・チューキは5年の刑で服役しているが、伝えられるところによる
と、7月7日、他の5人の尼僧とともに死亡している。非公式の情報によれば、他の
5人の名前は以下の通りである。ロプサン・ワンモ、26歳、ルンドゥブのペンポ出身、
5年の刑。 デキィ・ヤンゾム20歳、ニェモ出身、4年の刑。 チューキ・ワンモ23歳、
ペンポ出身、5年の刑。クンドゥプ(またはケドゥン)・ヨンテン25歳、ニェモ出身、5年
の刑。タシ・ラモ20 代前半、ニェモ出身。

事件後の尼僧、僧侶、一般人の死について、何の公式な説明も行われていない。非公
式情報によれば、刑務所当局は、尼僧達は自殺したと語ったようである。しかし、なぜ
、7月7日という同じ日に死亡したのか、という疑問の説明にはならない。伝えられ
るところによると、彼女らは、独房監禁中で、互いに接触することがなかった。もし
、彼女らが抗議行動の首謀者として選び出されたとしたら、尼僧達は特に、厳しい
待遇に置かれていたようである。

囚人ギェルツェン・チューペルの健康への懸念がある。信頼できる非公式情報によれ
ば、彼は、当局が6人の尼僧が自殺したと主張したことに抗議した後、ひどい暴行を
受けたのである。ある非公式情報によれば、彼は、最近、ダプチ刑務所から釈放さ
れている。これは、彼が病気による仮釈放中であり、彼の健康状態は、極めて深刻で
あることを示している。ギェルツェン・チューペルは、自営業を営んでいたが、98年
、投獄され、中国人警官殺害に関与したとして、15年の刑に服していた。

同じ非公式情報によれば、ギェルツェン・チューペルの母親、アマ・プルブは囚人に
食料を差し入れたため逮捕されたようである。彼女は、以前、ラサで死亡した独立
運動活動家のための追悼集会を組織した後、89年から3年間投獄された。彼女の逮捕
が、彼女の息子のダプチ刑務所からの釈放と関係があるかどうかはわからない。
ギェルツェン・チューペルの家族は、中国のチベット支配に対する抵抗運動の長い歴
史を持っている。彼の兄弟は、91年の活動家・容疑者の一斉検挙期間に拘留され、
彼の父親、アマ・プルブの夫も、政治犯として投獄された。ギェンツェン・チューペル
の姉妹、ツェラ、もしくはツェリンと呼ばれている尼僧は、セートゥ刑務所での拘留中、
ひどい暴行を受けた後、病気による仮釈放として釈放された。

抗議行動後のジグメ・サンポへの脅威

また、72歳の囚人、タナク・ジグメ・サンポにも、健康と安全への懸念がある。
彼は、以前は教師で、伝えられるところによると、5月1日と4日の抗議行動に関係
した。ジグメ・サンポは刑務所で28年間過ごし、抗議行動の後暴力を受け、独房
に入れられた。中国当局は、先月、彼が高血圧症に苦しんでいることを認めた。ジグ
メ・サンポの刑は、、91年10月スイス大使がダプチ刑務所を訪れた際に、チベッ
ト語で「チベット独立」と叫んだ後、さらに8年延長された。もし、彼が、予定されて
いる2011年に釈放されたならば、合計で、41年間刑務所内で過ごすことになる。

スイス連邦外務省は、ジグメ・サンポのために、過去7年間、中国当局に数回抗議
を行ったことを認めた。スポークスマンは、彼が健康である、という以外、彼らの照
会に対してほとんど回答がなかったと語った。

スイス国防省のアドルフ・オギは、今月の中国訪問で、ジグメ・サンポの件を提起
することに失敗した。スイス大使ウリ・シッグスは、9月に、中国当局は、その囚人
は高血圧症であるが、概して健康であると伝えた、と語った。91年からの、スイスに
対する、ジグメ・サンポが病気に苦しんでいるという中国当局の了承にも関わらず
、である。中国当局は、ウリ・シッグスに、ドラプチ刑務所で、ジグメ・サンポは
労役義務を免除されている、とも語った。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)

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 僧侶の強制引退で脅かされる仏教伝統

TIN News Update, 27 October 1998
Forcible Retirement of Monks Threatens Buddhist Tradition

青海省の僧院で60歳以上の僧侶が強制的に引退させられている。これは、中国当
局がチベットにおける僧と尼僧の数を制限するための企ての一環として行っている
ものである。年輩の僧侶は宗教教義の伝達に重要な役割を担っており、彼らの引退
は、寺におけるチベット仏教の伝統の存続にとってかなりの脅威になっているとみ
られる。チベットの僧院にいる僧侶らが引退することは、一般的には例がない。



「青海日報」10月5日付によると、中国当局は、青海省互助県(チベット語で
はゴンルン県)五十郷(村)近くにある佑寧寺の60歳以上の僧侶52人のうち49
人に「引退を与えた」。引退した年輩の僧侶は、これからはおそらく家族に生活を
頼っていかなくてはならないだろうが、彼らに対して何らかの福祉・食糧の供給が
行われるかどうかは不明である。同紙によれば、老僧の排除は「寺の教育管理活動
を強化する」ために不可欠であるという。同地域の他の寺でも年輩の僧が追い出さ
れるかどうかは分からないが、役所は僧院と尼僧院の人数は厳しく制限される必要
があると発表している。

ガンデン寺の元僧侶で、現在ケンブリッジ大学ガートン学寮の研究生であるトゥプン
ン・ジンパ博士は「年輩の僧侶の強制引退は、寺にとって大きな損害である。宗教
の伝統に精通している老僧は、儀式を司る役目があり、チベット仏教について豊か
な口述の知識の管理人である」と語った。

過去40年間以上の間、僧院の建設は、チベットからどうにか脱出した少数の老僧
の知識によって、亡命社会においてのみ可能という状況になっている。ダライ・ラマ
法王の通訳を務めていたジンパ博士は、「当局が老僧の役割について全く無知であ
るためにこのような決定をしたのか、それとも、宗教を密かに侵害しようという、
もっと悪意のある動機によるものなのかは分からない。人道主義的な表現を使えば
、これらの僧は、今まで社会的に認証されて来た自尊心や、経済的な安定を失うで
あろう」と述べた。

「青海日報」によると、15歳以下の僧侶16人が「9年間の義務教育を受けるた
めにそれぞれの村に帰った」という。しかし同時に、16―17歳の僧侶12人が
、「労役のためにそれぞれの村に帰るよう駆り立てられた」という。こうした僧侶
の排除は、愛国教育キャンペーンの一環として近来、寺に配置された「教育管理工
作班」によって実施されたものである。同紙10月5日付は、工作班の活動は青海
省の宗教職管理規定に沿って行われていると報道した。同紙は、長い間管
理を怠ってきたつけとして、寺の内部管理はかなり「無秩序な状態」となっており
、新しい僧を審査し承認するためや、経済管理や警備を行うために「13の規定制
度」が設けられたと報じた。

工作班はまた、同寺が互助県五十郷政府によって管理されることになると表
明したと報道されている。同県は海東チベット族自治州(チベット
語ではツォシャル自治州として知られる)に属する。「青海日報」はまた、同寺
に代わり共産党幹部が「同寺における査察と指導活動を行い、大半の僧の思想と
行動を把握し統制する」責任を負うことになると報道した。同紙によれば、
同寺の定員は192人に規定された。

このような厳しい僧院の取締りは、僧や尼僧による分離主義を一掃する狙いを持って、
現在チベットで進められている愛国教育キャンペーンの一環として行われている。チベット自治区人民代表大会常務委員会の熱地(ラディ)主任は、1994年9月5日に行ったスピー
チのなかで、寺の管理政策について言及している。熱地(ラディ)は、「ダライ一派
は『寺の統制を強化することは、共産党の地区統制の力を強めることに等しい』とし
ている。しかし我々の地区、市、県は、問題ある寺を真剣に再編成しなければならない。
既に僧の定員数が決まっている寺についても、さらに厳しく僧の数を限定する必要が
ある。寺は制限された定員を超えてはならない。過剰な僧は追い出し、僧・尼僧の定
員数が守られていない寺は早急に定員を調整しなけばならない」と述べている。今年
5月、熱地(ラディ)は愛国教育キャンペーンが成功していると表明している。熱地
(ラディ)は5月13日、ラサにおける会議で、「僧院とラマ教寺院における愛国教
育指導と秩序の確立は、チベットの安定促進に大きく貢献している」と述べた。

(翻訳者 TNDスタッフ)

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 ガワン・チューペル、ダプチ刑務所に移送さる

TIN News Update, 10 November 1998
Ngawang Choephel Transferred to Drapchi

『スパイ罪』で18年の刑を受けた亡命チベット人で音楽学者のガワン・チューペル
は、ラサのダプチ刑務所に移送されたと、最近亡命して来た元囚人は信頼できる情報と
して伝えている。ガワン・チューペルは、伝統的な音楽と舞踊の収集のためにチベット
各地を旅行していたものであった。移送は7月初旬に行われたとのことであるが、これ
は彼の上告が却下されたことを意味している。中国政府は、今年5月チベットを訪問し
た欧州連合の代表団に、ガワン・チューペルはシガッツェに拘留されていると語ってい
る。彼は1995年夏、そこで逮捕された。彼が移送されることになっているとは、欧
州連合の代表団は聞いていなかった。



ガワン・チューペルの母親ソナム・デキは、彼の釈放要求運動のために現在ロンドンに
滞在中であるが、彼がダプチ刑務所に移送されたことで、大変に心を痛めている。ダプ
チ刑務所はチベット最大の刑務所で、チベット自治区で長期刑を受けた政治囚の大半を
収容している。ニャリ刑務所(シガツェ)に収容されている囚人たちも、今年5月1
日と4日にダプチ刑務所で発生した抗議運動を知っていたと思われる。この抗議運動の
結果、刑務所当局による殴打と拷問によって、ダプチ刑務所の囚人少なくとも10人が
死亡した。

ニャリ刑務所の元囚人がTINに語ったことによれば、「中国政府は彼をラサに移送し
たいと考えているが、ガワン・チューペルは行きたくないと語っていた」という。この
元囚人は、ガワン・チューペルが神経質になっており、また抗議運動のことを心配して
いた、と語っている。彼はブリキの缶を叩いて、様々な音楽を奏でて気を紛らわそうと
しているようだったと、現在は亡命をしている元囚人は語った。ニャリ刑務所の当局者
は、彼がこういうことをするのを止めようとはせず、他の囚人たちが労働をしなければ
いけない時間にも、彼を無理に労働させることはなかったという。これは彼が労働に耐
え得ない程衰弱しているためか、あるいは彼を他の囚人から引き離したいためかは分か
っていない。元囚人はまた、「十分な食べ物がないので、ガワン・チューペルは痩せて
衰弱していた。刑務所当局は、彼のカメラやビデオ・カメラまた彼が書き写した古い芸
術作品や文学書を押収した」と語った。

ガワンは、彼が2才のときに母親に手を引かれてインドに亡命した。彼は、母親のソナ
ム・デキに会いたがっていると伝えられている。母親はシガツェにいる息子を訪問す
るためにビザを申請しているが、中国政府はこれまでのところ入国許可を出していな
い。ソナム・デキは、今週ロンドンで政治家や報道関係者と会い、息子の苦境を訴えい
る。

中国政府は、ガワン・チューペルが最初に拘留されてから3年も経っているのに、今年
5月まで彼の所在を明らかにしていなかった。ガワンは以前、米国のフルブライト奨学
金を受けたこともある学者で、1995年7月チベットの伝統的な舞踊や音楽を、ドキ
ュメンタリー映画に収録するためにチベットに帰ったのであった。

ガワンが今年7月まで拘留されていたニャリ地区の拘置所は、一般的にはシガツェ刑
務所と呼ばれている。TINが最近入手した、ニャリ拘置所を写したと言われる写真に
は、拘置所を三重の日干しレンガの塀が取り巻いており、一番外側の塀の上には電気の
通じた有刺鉄線が張り巡らされている。何枚かの写真は、外側の塀の内側から撮られた
もののように見えるが、刑務所の建物そのものは見えていない。ニャリ拘置所の12区
画の施設に収容されている囚人の数は不明であるが、ここに収容されたことのある元囚
人たちは、150人以上ともまた300人に達するとも報告している。

シガツェ地区のニャリ拘置所やラサのグツァ拘置所のような、拘置施設に収容された
政治囚たちは、判決を言い渡されると大抵ダプチ刑務所に移される。ガワン・チューペ
ルが1995年に拘留された直後に、なぜ移送されたなかったのかは不明であるが、チ
ベットからの報告が伝えるところでは、彼が上告の結果を待っていたからだという。
1997年2月の時点では、まだこの上告の結果は出ていなかった。今年9月に中国政
府が英国政府と人権問題について協議したときには、ガワンの上告は却下されたとのこ
とであったが、いつの時点で却下になったのかは特定できなかった。

ニャリ拘置所やラサのグツァ拘置所に拘留されたことのある元囚人たちは、虐待された
と頻繁に報告している。ある囚人は、全ての良いことは共産党と政府のお陰であると認
めなかったために、4日間の取り調べの間に激しい殴打を受け、睡眠も水も与えられな
かった。彼は非常に喉が渇いたために、最後には排水口の汚水を飲んで、消化器系の大
変な病気をした。別の囚人は、チベットから逃げ出そうとして1995年にニャリ拘置
所に拘留されたのであったが、「囚人の間で何かを共謀している気配があるとか、ある
いは祈りの言葉を囁いていたというだけで殴打され、2日間は部屋を出ることも許され
なかった」と語っている。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 中心的な宗教指導者、米国に去る

TIN News Update, 12 November 1998
Key Religious Leader Leaves for America

チベットの最高位の宗教的指導者の1人が祖国を立ち去り、現在米国に滞在している。
青海省のクンブム僧院(塔爾寺)の僧院長アギャ・リンポチェは、愛国教育キャンペー
ンが繰り広げられたことや、中国が選抜したパンチェン・ラマを即位させたことで、中
国政府の宗教政策に賛成できず国を去った模様である。

アギャ・リンポチェはまた、中国仏教協会の副主席や全国青年連合会の副主席、中国政
治協商会議の青海省委員会の副主席を努めている。彼は現在この件に関して、報道機関
に接触しようとはしていない。彼が米国に亡命を申請するかどうかも不明である。ダラ
イ・ラマ法王が1959年に亡命をして以来、彼がチベットを去った最高位の宗教指導
者である。


48才のアギャ・リンポチェは、チベットに居住するモンゴル人の遊牧民の家庭に生ま
れた。チベット仏教のゲルーク派(黄帽派)の開祖であるツォンカパの父親の転生化身
とされ、この故にアギャ・リンポチェは同派の八大高僧の1人に数えられている。国営
の中国仏教協会の副会長また中国政治協商会議の委員という立場から、彼はチベットに
おける中国の宗教政策を支持しなければならなかった。ダライ・ラマ法王に対する宗教
的な忠誠心と共産党に対する公の立場の相克、このために彼の心の葛藤は次第に増大し
て行ったのであろう。特に僧侶や尼僧の『洗脳教育』が、現在進行中の『愛国教育運
動』の公式政策として認められた時点で、彼の葛藤は極に達したのであろう。

アギャ・リンポチェは、パンチェン・ラマの転生化身探索の紛争で、中国政府から特別
な圧力を加えられていたようだ。中国政府は、ダライ・ラマ法王が選んだパンチェン・
ラマ11世を拒否し、彼ら自身が選んだギャルツェン・ノルブを即位させた。ダライ・ラ
マ法王によって認定された少年は、9才のゲンドゥン・チューキ・ニマで、1995年
5月に行方不明となって以来、中国政府によってどこかに囚われている。アギャ・リン
ポチェは、1989年にシガッツェのタシルンポ僧院で前パンチェン・ラマが死去する
までは、彼の熱烈な弟子であった。「彼こそは、チベット仏教の真の指導者であった。
彼のチベットに対する愛情、国家と宗教に対する愛情は、いまでも我々宗教界の中では
話題となっている」と、アギャ・リンポチェは語ったと1996年8月12日に新華社
電は伝えている。

非公式情報が伝えているところでは、公式に認定された11世パンチェン・ラマを、伝
統的な彼の御座所であるシガツェのタシルンポ僧院から、クンブム僧院(中国名塔爾
寺)に移そうという中国側の意図に、アギャ・リンポチェが抵抗したのではないかとも
いう。クンブン僧院は、青海省の省都西寧の南西26kmに位置し、湟中県に属してい
る。漢族と回族が多く居住している地域であって、シガツェから充分に離れているた
めに、少年にとって安全な地と見なされている。

クンブム僧院は、チベット自治区のガンデン僧院、デブン僧院、セラ僧院と並んで、仏
教の4本柱の1本に数えらえており、伝統的にパンチェン・ラマの第2の御座所であっ
た。もしアギャ・リンポチェが、中国が指名した少年にクンブム僧院で学ぶことを許し
たならば、中国側の候補者をダライ・ラマ法王の選定の上に置くことを意味することに
なる。

『ダライ一派』に対する声明

高位のチベット人たち、特に宗教指導者やチベット貴族社会に所属した人々は、しばし
ば政府当局者の来訪を受け、『ダライ一派』を非難し中国の政策を支持する声明を出し
て、中国共産党の権威を認めるように求められている。アギャ・リンポチェは、過去に
中国の宗教政策を公式に容認したことがあると、中国の公式機関紙は報じている。19
96年8月12日付けの人民日報は、彼が「国家を愛し、宗教を愛する人のみが本当の
指導者である」と語ったと、報じている。「国家を愛し、宗教を愛せ」というスローガ
ンは愛国教育キャンペーンのスローガンであり、これによってチベット全土の僧侶や尼
僧の多くが僧院を追われる結果となっている。

共産党とその政策に対する忠誠心を公式に表明したことによって、アギャ・リンポチェ
はチベット文化とチベット語を発展させるだけの自由を与えられた。文化大革命の最中
は、彼は僧院近くの山中で畑を耕作することを強制されていたが、文化大革命後にはク
ンブム僧院に帰り勉学を再開した。1960年代の後半から1970年代にかけて彼
は、甚大な被害を被った僧院の再建計画を監督する地位に就いた。新華社電の伝えると
ころでは、再建のために国は3700万元(280万ドル、3億3千600万円)をつ
ぎ込み、さらにアギャ・リンポチェが信徒から300万香港ドル(25万ドル、300
0万円)を集めたという。その信徒の中には、香港の映画王のラン・ラン・シャウ(邵逸夫)も含
まれている。

1990年アギャ・リンポチェは、修行僧たちにチベット語の読み書きおよびチベット
文学を教育するために、僧院内に『ガ・リ・ケツェル・リン(五明の栄える庭)』とい
う名の学校を設立した。1996年8月、クンブム僧院内に独立要求のポスターが張り
出されチラシが配られたことで、200人の学生がいたこの学校は閉鎖され、25人も
の学生たちが6週間拘留された。チベット文化を保存するためにアギャ・リンポチェが
試みたことの中には、僧院が所有する希少価値のある膨大な古文書と版木を収容するた
めに、5万5千平方メートルの図書館を建設しようとした計画もある。この計画を実現
するために、彼自身で独立した基金を設立していた。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 反ダライ・ラマ キャンペーン、チベットで強化さる

TIN News Update, 13 November 1998,
Campaign against Dalai Lama strengthened in Tibet,

チベットからの報告が示すところによると、チベット人の間でのダライ・ラマへの支
持を根こそぎにすることを目指した従来からの主要政策がさらに強化されている。新
たなキャンペーンは、ラサのチベット人公務員家庭での仏壇や宗教用品の捜索や、チ
ベット人幹部に対して子息をインドの亡命社会の学校から引き上げさせる要請の再開
という形で導入されている。ダライ・ラマと江沢民主席の対話の可能性についての昨
今の国際的な推測とは裏腹に、この新たな命令を課す指示は、北京の最高レベルから
直接来ている。

TINが入手した、あるラサの党委員会の文書によると、このキャンペーンは、ダライ
・ラマ支持者への攻撃を反腐敗の闘いと結びつけるものだ。どちらもチベット人幹部
を狙ったものと思われる。反ダライ・ラマ政策は、党員のみではなく低レベルの非党
員幹部をも狙ったものであり、すなわち、このキャンペーンをチベット自治区支配層
の全レベルに適用しようと意図している。


TINの情報源によると、捜索隊は幹部や政府職員宅で仏壇やダライ・ラマの写真、バ
ター灯明などの宗教用品を調査するよう指示されている。現在は亡命しているあるチ
ベット人は次のように語った。「私の友人が帰宅すると、彼の妹(あるいは姉)が泣
いていたそうだ。部屋の大きな戸棚から仏像が持ち去られてしまったのだ。それらの
ものを置いておくと職を解かれる、と彼女は言われた」。このチベット人は、いくつ
かの家の壁からタンカ(仏画)が外されたとも聞いたという。

この裁定は、チベット人のダライ・ラマへの忠誠を根こそぎにすることに失敗してき
たという当局の懸念を示している。チベット自治区人民代表大会常務委員会主任のラ
イディは、7月29日付『西蔵日報』が報じた7月に開催された第3回チベット工作中央
会議の第4回目の記念集会で「ダライ・ラマのグループはチベットにおける分裂活動
をあきらめていないのは確かだ」と認めた。彼はまた、僧院における「愛国教育」キ
ャンペーンは「チベットの精神文明領域における明白な問題を直接的な方法で解決」
していると語った。ライディは愛国教育キャンペーンの意図を、普通は「修正」と表
現するところを、「教化」と言明した。このキャンペーンを表わすのにこれまで用い
られた最も強い表現である。

この強硬路線はまた、インドの学校からの幹部子弟の引き上げになぜこうもこだわる
のかを明らかにしている。これらの学校は亡命政府の指導のもとで伝統的なチベット
式教育を進めている。これらの子弟のインドからの引き上げの命令は1994年にはじめ
てなされた。最も新しい命令は、インドの学校にまだ子弟がいる職員たちに対し、も
し子どもたちをチベットに連れもどさないと職を解く、と脅迫するものだ。ダラムサ
ラに拠点を置くチベット人権民主センター(TCHRD)によると、3月にラサ中学の校
長が3人の父兄に対し、子弟を6ヶ月以内にインドから連れ戻してその中学校に入れ
るように要請した。TCHRDは10月23日、次のように伝えた。「親たちは旅行許可をす
みやかに取得することが難しかったために、すぐに発つことができなかった。」「6
ヵ月後の9月、彼らは学校当局から、なぜインドに子どもを迎えに行かなかったのか
説明するよう求められた。彼らはその命令に応じるまで停職となった」。

TINが入手したラサ党委員会の指示によると、党員である部課レベルの幹部もまた汚
職について調査されている。彼らは目下「許される表面積を超えた自宅を建ててるこ
と」および「公費を使って自宅建設にあてること」について調べられることになる。
“都市及び農村建設における環境保護のためのラサ城関区党委員会”の“党指導グル
ープ”が作ったこの指示の反腐敗の部分は、まずチベット人を狙ったもののようだ。
なぜなら、中国人幹部はチベット自治区に家を建てることに関わる可能性は低いから
である。ダライ・ラマの写真の掲示およびインドの学校からの子弟の引き上げに関し
ては、党員は非党員幹部と同じ条件を満たすよう要求される。

ライディは、10月26日および27日にBBC Monitoringが訳出した演説の中で、最近の思
想的キャンペーンは「自宅に祭壇を築いたりダライ・ラマの写真を掲げたりさえする
若干の党員や少数の指導的党職員たち」の信仰を排除することにおいて成功していな
いため、より強固なアプローチが必要であると認めた。

このラサの指示は、県レベル以上の党員である指導的幹部は率先して「問題を報告す
る」よう要求されると明記している。8月17日にラサ城関区調査指導グループが出し
た指示は「もしダライの写真を掲げた党幹部がいることが発見されれば、彼らは党か
ら追放されるだろう。そして、ダライの写真を掲げた党員でない幹部あるいは職員も
厳しく調査し処罰されるだろう」と述べている。このグループはチベット自治区当局
の中では比較的低レベルの組織であり、この組織の件の指示における意図は、ライデ
ィによる、中央政府の政策に忠実な演説の趣旨を受けることである。この指示が「全
レベルの党と政府組織、全レベルの幹部、特に党員である指導的幹部は、江沢民・胡
錦濤同志の著した指示およびチベット自治区党委員会のライディ同志の演説の趣旨を
入念に学習し、深く理解すべきである」と明記していることからそれは明らかである。

この指示に示された反腐敗キャンペーンは、中国の江沢民国家主席が「誠実な政府を
建設する」という意図で始めた政策に従ったものである。北京政府は、党の規律を向
上し、公務員の昇進を調べるために、12省を調査する監査グループを起ち上げた。こ
れらの省の「無作為抽出検査」は「ある場所および部門は、さまざまな程度の不健全
な職員の傾向と腐敗に陥っている......いくつかの場所では、公職ポストをめぐる融
通が深刻で、ポストが売買されることもある」ということを示している。

チベットにおいては、党員の間での腐敗に対する闘いに、反ダライ・ラマのキャンペ
ーンに直接リンクしているという政治的次元が加味されている。ライディは、「経済
基盤の弱さ」と「分裂主義に対する闘い」を、チベットにおける社会問題を引き起こ
している2大要素として指摘した。ライディは、7月29日に『西蔵日報』が伝えた基
調演説の中で「ダライ・ラマのグループがあらゆる社会問題を扇動し仕組むために、
ありとあらゆる手段に出るなか、チベットは分裂主義に対する闘いの最前線にある。
したがって、我々の全党員、特に指導的党幹部たちは、腐敗と堕落に抗する能力を入
念に強化するために.....確実に自己を厳密に律することが必要だ」と語った。

同じ演説の中でライディは、強化された反ダライ・ラマキャンペーンのより広い政治
的な意図は、「全中国の統一と安全」を守ることになると述べた。北京指導部にとっ
ては、チベットは「中国の南西の門」であり、その安定は防衛および戦略目的のため
に不可欠である。ライディはその集会で「チベットは、中国の政治的・経済的・文化
的発展全般において重大な地位にある。中国の主要防衛前哨基地および戦略地点の一
つであり、ヒマラヤは自然の要塞となっている」と述べた。「したがって、チベット
の統一された安定した秩序を守るために経済的・社会的発展を加速することは、国家
の安全にとって必須の重要性をもっている」。


チベット人は「ダライ一派闘争」を恐れている

チベットではないところからTINが受け取ったある手紙には、チベット人の反ダライ
・ラマ政策への懸念が現れている。匿名の手紙の主は次のように書いている。「外側
では彼ら(中国当局)は非常に賢く、ダライ・ラマとの対話をするだろうとか、祖国
へのドアはいつも開かれているなどと言っている。しかし、(チベット)内部では、
幹部が仏壇やダライ・ラマの写真をもっているのを見つかると、職場を自発的に辞め
たと見なされることになろう、などと言っている。彼らが言うには、中国とダライ一
派の闘争は実行されねばならない長期事業なのだという。これは、江沢民がクリント
ンに言ったことと矛盾するし、私たちの希望とも矛盾するものだ。今や大勢のチベッ
ト人たちは、家々にある仏壇やダライ・ラマの写真を再び片づけなければならない」。

クリントン大統領は、6月の訪中の際の公開記者会見の席上、江沢民にダライ・ラマ
との対話に入るよう促した。今週のダライ・ラマのクリントンとの会談の後、中国側
報道は対話問題についてはあいかわらず批判的であり、中国当局者は、対話を進める
前に、ダライ・ラマはチベットと台湾が中国の一部であることを認めることを求めら
れると語った。11月12日の『China Daily』は「ホワイト・ハウスの政治家たちとの
「立ち寄り」会談といういつもの筋書きのもとでアメリカで演じられたダライ・ラマ
・ショーは、欧米狂乱メディアの欺瞞と空威張りにもかかわらず、宣伝用の茶番にほ
かならない。」と伝えた。

「ダライ・ラマは、祖国を分裂して、チベット独立を支持するという彼の活動を悔い
改めたことはない」と、外務省スポークスマンのチュー・パンザオ(Zhu Bangzao)
は11月10日の報道関係者のためのブリーフィングで語った。実際は、ダライ・ラマと
亡命政府は、チベットの「純粋な自治」のみを求めており、独立は求めていない。ダ
ライ・ラマはを、クリントンとの会談に続く11月10日の公式声明で、このことをあら
ためて強調した。

ライディは演説の中で、チベットにおける反ダライ・ラマ政策は北京の中央政府によ
って示された政策に基づいているということを強調するのに熱心のようである。彼は
「我々は、民族の統一、国家の安全、そして社会の安定を守るという高い見地から、
ダライ・ラマのグループとの闘いにおける中核によって練られた政策を固守して、進
む必要がある」と『西蔵日報』が7月29日に伝えた会議のなかで語った。ライディは
チベット人幹部たちにさらなる警告をした。そこで彼は「我々はここでもう一度特に
強調しておく必要がある。それは共産主義者は(宗教の)信者であってはならないと
いうことだ。これは分裂主義に対する徹底的な闘いにおいて大衆を導くために必要と
されることであり、さらにすべての党員にとって党の組織において明白に要求される
ことである」と述べた。彼の言葉は、今日のチベットにおいて、党への個人的な忠誠
心には、たとえ党員ではあっても、まだ疑問があるということを示している。

チベットからのTINへの非公式情報は、北京の最高指導部はこのキャンペーンの開始
に直接関与してきたことを示している。そのチベット人は「私たちが聞いたところで
は、江沢民は、チベットに経済的な不正や腐敗があることや、さらに多くのチベット
人(幹部)がいまだにダライ・ラマや仏教への信仰心をもっているということを知っ
ている」と語った。「江沢民はこのことに大きな関心を払っていた。彼はこれを中央
の政治局にいる胡錦濤に伝え、胡錦濤はチベットの党指導者である陳奎元に調査を実
行するように指示した」。

以上

(翻訳者 長田幸康)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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