30号(1998年9月)

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 共産党の管理強化、チベットの田舎でも治安強化さる


TIN News Update, 20 August 1998 ,
More Party Control, Tighter Security in Rural Tibet,

地方の『草の根』組織を強化するためのキャンペーンが、チベット自治区で推し進めら
れている。共産党の地方レベルの、管理強化のためであることは明らかだ。草の根段階
の管理強化政策は、総合的な治安強化戦略の一部であり、分離主義を根絶し、ダライ・
ラマ法王とチベット亡命政権を支持しようとするチベット内部の勢力を一掃するのが、
その狙いである。この政策は、忠実な幹部を地方の重要な地位に就任させ、共産党を支
持する非共産党員組織である中国人民政治協商会議の委員たちを追放することが、その
中心となっている。


過去2カ月間に発表された、幾つかの演説と新たなる複数の記事が、草の根組織の強化
に焦点を絞っている。このことは、地方レベルで共産党の権力を確立するために、19
91年から92年に打ち出された様々な政策は、チベットから『分離主義』を根絶やし
にすることができなかったことを示している。7月15日付けの人民日報の記事は、チ
ベット自治区の地方幹部に異動があったことを報じている。これは、町村の共産党委員
会の『修正』の一環であり、地方の『草の根』組織の強化を目指すものであるという。
この記事に具体例として取り上げられているのは、中央チベット、シガッツェ地区のパ
ナム県である。『弱体化しマヒ状態に陥った』草の根組織を、再活性化するために幾つ
かの措置が取られたという。この県の村々にも共産党の支部が設立され、都市部から幹
部が派遣されて来たという。人民日報の記事は、1995年以来チベット自治区は「6
50の町々の共産党委員会および3602の村々の共産党支部を修正して来た」と報じ
ている。この手法は、目に見えた治安強化の形跡を残さずに、地方レベルの管理を強化
して、チベット人の間に分離主義が広がるのを監視しようという、政府の強い意志を反
映するものである。

草の根治安強化政策は、元々は僧院や尼僧院における反政府運動に対抗することが目的
であった。1992年の新総合治安政策に関する演説の中で、チベット自治区政治司法
委員会の書記ツルティム(中国名=次成) は、次の様に語った。「現在発生している
不安定な状況の原因は、少数の寺院の極く少数の僧侶や尼僧である」 そしてツルティム
によれば、第2の原因は亡命チベット社会から送り込まれた『スパイや怪しげな人々』
であるという。この演説は、チベット自治区総合治安管理委員会の、1992年9月4
日付けの内部文書に掲載されたものである。ツィルテムはまた自治区共産党の副書記でも
あり、治安問題には直接的な責任を背負っている。

中国の他の地域でも、草の根監視政策が強化されるという、同様な動きが見られる。し
かしチベット自治区とは違って、公式な声明が発表しているのは、これは政治的なもの
というよりは社会的なものだということである。草の根監視政策に関する声明は、犯罪
に対する戦い、地域行政のための管理、および社会秩序維持のためだということを、こ
の運動を展開する動機として挙げている。張り巡らされた草の根組織が、中国において
は数百年間も、監視と調査および警察活動を受け持って来た。しかし彼らの思想的な力
も、1980年代にトウ小平が、改革開放政策を実施してからは弱まって来ている。

今年3月、中国中央政府は全ての『社会組織』に対して、共産党の公式な組織を形成す
るように通達を出した。この新規則に明記されているのは、常任委員として3人以上の
共産党員が務めているいかなる組織も、『草の根共産党組織』を設立し、共産党の方針
・原則・政策を実行し、国家の法律および規則に従わなければならないと言うことであ
る。

幹部の政治思想、調査さる

チベット自治区で出された最近の声明は、幹部や共産党の地方指導者の中に、草の根治
安強化運動に積極的でない者がいると批判している。また自治区全域で幹部の移動が行
われ、草の根レベルで共産党の存在が余り顕著でなかった問題地域に、幹部が送り込ま
れることとなった。共産党の公式機関紙である人民日報の7月15日付けの紙面によれ
ば、チベット自治区のパナム県が特に集中的な批判を浴び、現在ではパナム県の113
の村落全てに共産党の支部が結成されたという。「草の根組織が修正され再建された地
域では、安定と発展が著しく向上した」と、同記事は述べている。

国家主席の江沢民は最近、共産党に不統一の危険性があると警告を発し、幹部の政治思
想を批判した。「現在多くの問題が発生している。特に重大なのは、共産党の指導的な
立場にある高位の幹部らの間で、思想の真の統一性が達成されておらず、真に団結ある
行動が取れないことである」と江沢民が述べたと、7月1日付けの香港の雑誌『争鳴』
誌が伝えている。江沢民のコメントに続いて人民代表大会では、2人の常任委員
が共産党の秘密を漏洩し、国家主席であり共産党の指導者である江沢民の地位を脅かし
た、として批判された。

チベット自治区では、特にダライ・ラマ法王に忠実であることが判れば、その幹部の政
治的な姿勢に対して政府は強硬路線をとって来た。1月10日と11日に、チベット自
治区の会議でチベット自治区人民大会の主席熱地(ライディ)は、幹部らの間の『問
題』は「ダライの分離主義的声明や活動に心情的に同調している」人々によって引き起
こされて来た、と語った。この発言が意味するところは、幹部たちは分離主義的傾向が
あるとの疑いを懸けられてもならないということである。

中国人民政治協商会議の3人の委員、チャバ・ケルサン・ワンドゥ、チャバの妻のソナ
ム・ドルカル、そしてゴンパサル・トゥプテン・ジグダすなわちゴンサル・リンポチェ
は、ここ数カ月の間に相次いで強制的に引退させられたか、或いは病気で休養を取らさ
れたと、非公式情報は伝えている。チャバはチベット自治区政治協商会議の副主席であ
り、妻のソナムはラサ市政治協商会議の副主席であり、またゴンサル・リンポチェは1
992年から97年まで委員会の副主席を務めていた。政治協商会議の現在の副主席の
リストには、これら3人の氏名は見当たらないが、政治協商会議から完全に外されたの
かは今のところ確認できず、公式な発表も今のところない。

今年前半に、他の2人のチベット人がチベット自治区政治協商会議委員会から、正式に
追放された。この事実は、チベット自治区政治協商会議の主席、パグパラ・ゲレック・
ナムゲルが主催する4月27日の会議で発表された。ドルジェ・ダムドゥルは、政治協商
会議地区委員会および常任委員会から、またプンツォクは政治協商会議地区委員会から
追放された。彼らが、「チベットの安定に障害となる」活動に加わり、「政治協商会議
の規則を著しく犯した」からであるという。政治協商会議からの追放は、極めて異例の
ことである。委員会のメンバーは、社会の特権階級であり、生涯その地位に就くことが
通例である。

この追放劇は、分離主義とダライ・ラマ法王への支援に対する強硬政策が、チベット自
治区では現在も続いていることを示すものである。また草の根治安強化政策にさらに力
が入れられていることは、共産党の政策を地方に及ぼし、特に僧院や尼僧院の中にまで
拡大しようということである。

分離主義活動の『焦点』移動す

チベット自治区人民大会の常任委員会主席である、熱地(ライディ)は1998年1月
9日の演説で、草の根組織の力を増大することは、地方の愛国的再教育運動の基盤をな
すものであると述べている。「度重なる失敗に直面して、ダライ一派は最近の戦術転換
を図り、分離主義活動の基盤を広大な農業牧畜地域に移している。農業牧畜地域が次第
に、反分離主義闘争の前線となって来ている」と、彼は語った。この演説の中で熱地
(ライディ)は、地方におけるダライ・ラマ法王の影響力を弱めるための、草の根政策
に失敗したことを認めているのである。

彼は、ロカ地区ゴンカル県キムシ郷(村)の例を挙げている。ここでは1993年5月に騒
動が発生し、この地域のスンラブリン僧院を含めて、地域社会全体が関与したと思われ
る。この騒動では、キムシの村々の少なくとも35人が逮捕された。熱地(ライディ)
は、このキムシ事件を「ダライ一派が地方の草の根レベルにまで浸透している典型的な
例だ」と述べている。ラサの南方45kmに位置するキムシの村々は、昨年の愛国的再
教育運動の重点地区となり、特に一般人(非聖職者)を対象とした再教育運動の実験地
区となった。

西蔵日報はロカ地区を『ダライ・ラマの荘園』と評しているが、この地区の95パーセ
ントの農民や遊牧民が、愛国的再教育運動に参加していると、昨年11月28日付けの
同紙は報じている。同紙は続けて、「大衆は4466通の批判文書を書き、273人の
大衆代表らは暴露批判集会において、重要な演説を行った。同地区内の全ての寺院は、
111回の集会を開いて、ダライを暴きまた批判を加えた」と報じている。

僧侶の数も少ない辺鄙な田舎の僧院も、厳しい愛国的再教育運動に従わなければならな
かった。例えば、ロンポ・ラプテンの田舎にある僧院の15人の僧侶が、政府の工作班
が同僧院を訪れたことに抗議して、抗議運動を展開したために逮捕された。ロンポ・ラ
プテンは、ラサの北東400kmに位置し、ナクチュ地区ソグ県の辺鄙な地である。過
去5年間には、1996年1月のツェンデン村の爆破事件も含めて、ソグ県で何件かの
騒動が起こっている。

1992年以前には、民族主義的な活動はラサや他の2、3の都市に限られており、チ
ベット自治区の辺鄙な地域での活動は殆ど報告されていなかった。しかし1992年に
は、地方の町や村々やまた辺鄙な田舎の僧院で、独立要求ポスターが貼られたり抗議運
動が発生して、少なくとも69件の逮捕騒ぎが起こった。西蔵テレビの放送によれば、
これらの逮捕騒ぎ後に、チベット自治区の前主席ギェルツェン・ノルブは、「地方や遊
牧地域において反分離主義闘争を展開するように」共産党に呼びかけたという。それ以
来、チベット自治区の辺鄙な地方において、草の根治安組織の監視や調査を受けて、政
治活動が禁止される例が非常に増えた。

以上

(編集者 小林秀英)
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 中国の洪水で、東チベットの森林伐採禁止へ

TIN News Update, 26 August 1998
China Floods Force Logging Ban in Eastern Tibet

中国政府は、揚子江上流域の東チベットの森林伐採を禁止した。この禁止令は、アバ蔵
族自治州、甘孜蔵族自治州、凉山イ族自治州、攀枝花市、東山市および雅安地区の自然
林に適用される。この地域は、政府が言うところの『四川森林地帯』に当たる。8月
24日に発表されたさらなる声明によれば、四川省西部の主要な揚子江の支流である金
沙江の水力発電所に、建設を進めていた木材を流すための水路も建設中止となった。

森林伐採と木材市場の無条件閉鎖令は、9月1日から発効されると、四川省の省長の宋
宝瑞が発表したと、8月23日付けの新華社電は伝えている。この禁止令は、四川省西
部の54の県で『例外なしに』実施されると、彼は述べた。新華社電によれば、この禁
止令は「洪水発生の危険性を高めている、土壌の激しい流出を抑える」ためであるとい
う。江沢民国家主席の言葉を借りれば、現在中国は「1954年以来で最悪の揚子江全
域の洪水」に襲われている。


「四川省はデタラメな森林伐採を数十年間続けた結果、その森林資源を殆ど完全に失っ
ている」と、四川省共産党委員会の書記・謝世杰(シェ・シージェ)が語ったと、8月24
日付けの人民日報は伝えている。また前日の新華社電は、四川省西部の土壌流出によっ
て消失した自然林は、1950年以来倍増し現在では11万平方kmに達していると報
じている。

8月17日の新華社電の報道内容を分析すると、洪水は揚子江上流の森林伐採が少なく
ともその原因の一部となって発生したと、政府は認め初めているようである。「木材の
デタラメな伐採によって引き起こされて土壌の流出と、上流の植物生育に及ぼした悪影
響が洪水を深刻なものにした」と、新華社電は報じている。

『四川森林地帯』は未使用の森林資源としての指定を受けており、総面積で463万ヘ
クタールに達し、中国の三大森林地帯の一つとなっている。広大な古木の原生林を有
し、揚子江の主要な水源地帯である。この地域で活動する国有の林業公社は70社以上
で、1億2千万立方メートルの木材を切り出し、税金と利益だけでも20億元(340
億円)を稼ぎ出していると、8月24日付けの人民日報は報じている。

現在林業に従事している労働者たちは、植林と樹木育成の責任を今後は果たさなければ
ならないと、宋宝瑞は語った。植林計画の中には、牧草地を植林補助区域として立ち入
り禁止にするとの提案も含まれている。これが実行されると、東カムのおよそ900万
ヘクタールの牧草を食べている家畜が締め出されることになる。政府は現在のところ正
式には、この措置が牧畜に従事する農民にいかなる影響を及ぼすかに言及していない。
甘孜自治州の牧草地が、この立ち入り禁止となる牧草地の61.7パーセントを占めて
いる。そして人口のおよそ90パーセントは、農村部に生活しており、牧畜産業に従事
している。アバ自治州でもほぼ同様で、土地の50パーセント以上が牧草地で、人口の
80パーセント以上が農村部に住んでいる。

植林事業は、中国の憲法にも盛り込まれている優先事項である。しかし、今週出された
命令が示しているのは、森林伐採の脅威を政府は初めて真剣に受け止めているというこ
とである。揚子江上流域の渓谷の広さは、100万平方kmに達し、中国の全領土の
10分の1近くある。この渓谷の上流域の内、およそ35パーセントが「水源と表土の
喪失」に苦しんでいる、と1996年11月の新華社電は報じている。16億トンの土
壌が毎年流出しているという。

中国の科学者たちは、森林伐採がチベット高原の土壌を流出させ、壊滅的な危機が生ず
る危険性があることにずっと昔から気が付いていた。1986年、カトマンズーの山岳
総合開発国際センターと北京の自然資源統合監視委員会は、共同で報告書を発表し、四
川省西部の森林伐採は森林の持つ再生産能力の2.3倍で進んでいると報告している。
同報告書はまた、岷(ミン)渓谷は14世紀に50パーセントが森林であったが、1949年
には30パーセントになり、1985年には18.8パーセントしか残っていなかっ
た、と述べている。「(西四川省の)林業部は、自然原則および経済原則を尊重して来
なかった」と、林業部の副部長のドン・ジーヨンは、この報告書の中で語っている。

チベット高原の森林伐採に関する政策は、南アジアの国々、例えばバングラディシュ等
に影響を及ぼすことになる。バングラディシュでは、頻繁に洪水が発生しており、チベ
ットの森林伐採によって引き起こされた土壌の流出が原因であると、指摘する専門家も
いる。プラマプトラ川、サルウィーン川、メコン川、黄河、揚子江の源流はチベットに
あり、東南アジアおよび東アジアの殆どの地域の環境問題の鍵を握っているのはチベッ
トである、と見ている科学者もいる。

チベット自治区専門家計画書とは、1990年代の中期に内部発表された、チベット自
治区25年間の計画書で、1996年から2020年までを対象にしている。この計画
書には、次のような懸念が述べられている。森林資源を評価する章では、チャムド、ニ
ンティ、ロカ(中国語ではそれぞれ、昌都、林芝、山南)のチベット人自治地区および
南東チベットの「三川」地区の森林保護の重要性を認めている。この計画書は、「これ
らの森林を保護することは、その地区の水源保護に極めて重要であるというだけでな
く、最も重要なのは水源と土壌を保護し、揚子江と国境を越えて流れる諸河川の洪水防
止をすることにある」と述べている。

チベット人たちは、カム(東チベットを、チベット人はこう呼ぶ。四川省のチベット人
自治州と雲南省のチベット人自治州、およびチベット自治区のチャムドを含む)の森林
伐採と環境破壊に関して、長い間懸念を表明して来た。東チベットで秘密裏に撮影され
た映像を、BBCは1996年5月に放送した。カムのタウ(中国語名・道孚)での
伐採作業と、そこから四川省中央に向かって毎日300台のトラックが木材を運び出す
様子が映されている。個人がこの地域で木材を切ることは、禁止されている。「もし地
元の人間が1本の木を切り倒したら、50元か60元、場合によっては100元の罰金
が課される。しかし中国政府は、どこででも好き勝手に木を切っている」と、その映像
の撮影者は述べている。

今週公布された伐採禁止令は、チベット自治区には適用されない。この映像が示すとこ
ろでは、伐採作業は既にカムからチベット自治区に広がっている。チベット自治区南部
のコンポから木材を運び出すトラックが、何台も撮影されている。トラック1台に、直
径2mから3mもある丸太が、4、5本も積み込まれている。7時間に及んだ撮影時間
内に、70台のトラックが北上して行くのが数えられた、と撮影者は語っている。青海
省のゴルムドを目指しているのだ。そこから中国内地に運ばれて行く。

チベット自治区専門家計画書は、この地域の森林伐採によって問題が生じていることを
認めている。ある地域では「過大な伐採によって、植林が追いつかず、森林面積が激減
している。2000年には、森林面積は66700ヘクタールに満たなくなるであろ
う。年間に消費される森林資源は、200万立方メートル以下に抑えなければならな
い」と述べている。しかしチベット自治区に、この計画を実行する権限があるかどうか
判らない。

水力発電プロジェクトも影響を受ける

四川省西部の森林伐採を禁止するとのニュースに続いて、8月24日付けの新華社電が
伝えているのは、揚子江の支流である雅龍(ヤーロン)江にある二灘(アルタン)水力発電所に、木材を流し落
とすために建設予定であった、水路の設計と建設が中止となったことである。当初の計
画では、年間110万立方メートルの木材を流すことのできる水路を建設する予定であ
った。

この発電所は、世界銀行の融資も受けている中国最大の水力発電所で、四川省南部の攀
枝花および二灘周辺の5つの水力発電所を含むプロジェクトである。木材用の水路
の建設は、「環境保護の一環として中止された」と、この発電所の主任設計士で成都設
計監督研究所の副主任の、チェン・ジーファは語った。8月24日付けの新華社電が伝
える彼の発言によれば、「関連事業の設計」も中止となったという。このニュースに引
用された統計数値によれば、毎年50万立方メートルの木材が、この上流地域で伐採さ
れて来たという。

二灘水力発電所は、330万kwの設計出力を持っており、この地域の鉄鋼産業振
興のための巨大プロジェクトの一環である。現在既に一部が稼動中であり、東チベット
(カム)を含む四川省西部の開発計画には、欠くことのできない計画だと思われる。

二灘水力発電所開発計画には、この地域の林業のための便宜供与は含まれないこと
になると発表された後にも、雅龍江、金沙江、大渡河沿いに21カ所の水力発電所を建設
する計画があると、8月24日付けの新華社電は伝えている。専門家によれば、これら
の河川(すべて揚子江上流でカムを流れている)は、1億2千万kw以上の発電能力を
有しており、中国全体の25パーセントに当たるという。二灘開発計画は、四川省
西部および南部を発展させるために、河川の流域を開発しようという計画の一部である
と思われる。

以上

(翻訳者 小林秀英)
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 チベットの洪水で50人以上が死亡

TIN News Update, 3 September 1998
More than 50 Deaths in Tibet Floods

チベット自治区当局は、チベットにおける激しい洪水によって、過去3ヵ月に50人以
上が亡くなったと認めている。非公式の報告によると、公式報告の少なくとも6週間
前、すでにチベットで深刻な洪水の被害と人命の犠牲がでており、公式発表よりも多
くの人が亡くなった可能性がある。

朱鎔基・中国首相がチベット支援を約束した声明に対して、チベット当局は、揚子江
流域と中国東北部での洪水の深刻さを考慮し、災害を収拾するために北京からの援助
は必要ないと表明した。9月1日の新華社電は名前の明らかではないチベット自治区幹
部の次のような発言を引用している。「中央政府は過去33年以上にわたり、困難な時
期には自治区を決してためらうことなく支援してきた。我々は、今年の激しい洪水に
、我々自身の力でなんとか打ち勝とう」。新華社電によると、チベット自治区の人口
の4分の1が水害との闘いに関わっていると伝えられる。このことは、昨日のチベッ
ト自治区成立記念日が、ラサのポタラ宮広場での国旗掲揚式典を除いては祝われなか
ったことに現れている。



8月27日の新華社電によると、6月半ば以来、チベット自治区の40以上の県を巻き込ん
だ激しい洪水と地滑りで、少なくとも53人が亡くなった。今回の洪水では、ヤルン・
ツァンポ河(ブラマプトラ川)やキチュ河(ラサ)などの河川の水面を記録的水位に
まで押し上げ、8万人以上の人々に被害を与え、4,000頭以上のヤクや羊の命を奪った


非公式の報告によると、シガツェの約100km西にある、ラツェ県(中国語で拉孜県)
プンツォリン村では、洪水と豪雨による地滑りによって9人が亡くなった。この災害
の結果、この地域では100世帯以上が被害を受けたと言われる。さらに、シガツェの1
0km北のドゥンカルにあるリタン村では、地滑りによって8人が亡くなったと伝えら
れる。TINの入手した写真では、谷間一面に大量の丸石が散乱している。シガツェ地
区内で撮られた別の写真には、谷間に流れこんで村の家々を半分覆ってしまった大量
の丸石を移動しようとする兵士が写っている。写真には洪水は写っていないが、雨や
鉄砲水が岩や丸石を流し、下流の谷間に落石や地滑りを引き起こしたのだということ
がわかる。

TINに届いた別の報告によると、シガツェ地区で最悪の被害を受けたのはパナム県だ
という。おそらく、河川がここで溢れて河岸を超え、下流地域で氾濫したのであろう
。先月終わりにチベットから帰国した欧米人旅行者によると、シガツェとギャンツェ
の間のラサ付近や、ツァンポ河沿いでは、多くの畑が水浸しになっていた。「道路は
部分的に通行不可能だ」というこの旅行者は、ツァンポ河沿いの道路で、地滑りを避
けるために泥に浸かった旅行者を目撃した。報告によると、8月終わりの時点で、豪
雨が続いている。

現地からの報告によると、シガツェ地区政府は7月はじめ、洪水からの復旧の努力に
対して、20万元(約$23,500)を寄付した。8月28日の新華社電によると、チベット自
治区政府は、堤防工事や堤防補強、緊急作業をする兵士への支払いに当てるべく「緊
急洪水闘争資金」として100万元($120,000)を割り当てている。8月27日の新華社の
報告によれば、10万人の民間人・軍人が、チベット自治区で堤防を強化したり、洪水
被害者を避難させたりする作業に携わっているという。

昨日(9月2日)の新華社電によると、洪水によって、チベット自治区のすべての道路
が被害を受け、あるいは破壊されたが、現在すべての道路交通は通常に復旧している
。この9月2日の報道は次のように伝えている。「今年のチベットの大洪水は、いくつ
かのルートを寸断し、いくつかの橋を破壊した。洪水で破壊された道路は、チベット
の全道路の10分の1にのぼる。」「国家級幹線道路からローカルな道路にいたるまで
、すべての道路が何らかの程度の被害を受けた」。

9月1日の新華社電によると、多くの人々が水害被害収拾に取り組んでいるため、今年
のチベット自治区創立33周年の記念日は祝われなかった。同報道によると、自治区政
府はまた、いくつかの会議と政府幹部による各種海外視察をとりやめた。政府各部門
はまた、倹約手段として今年下半期の間は新しい自動車を買うことを禁じられた。も
っともこれは、チベットおよび中国での反汚職キャンペーンとリンクしているのかも
しれない。


プロパガンダ、水害救援、そして人民解放軍

今回の一連の水害は、中国各省とチベットの結びつきを強調し、また、災害と闘うこ
とにおける地元住民と軍との団結という考え方を促進する政治的チャンスとしてチベ
ット自治区当局にょって利用されている。非公式の情報によると、すべての公的機関
の職員は、中国内地の水害被害者への援助として最低20元(約$2.5)の寄付を要求さ
れている。チベット内部からの非公式情報の一つによると、「ラサでは、洪水被害者
基金に多額の寄付をすることによって、この機に乗じて政治的資産を獲得したチベッ
ト人ビジネスマンがいるし、中には引退幹部さえいる」。「私たちがこのキャンペー
ンを、各レベルの政府機関による税金の強制と見ようが、純粋に自発的な献身と見よ
うが、あるいは、政治的資産を形成するための経済的投資と見ようが、単に自分の名
前を売りたいのだと見ようが、キャンペーンは大成功している」。この情報源は、チ
ベット自治区のナクチュやシガツェ、そして青海省での豪雪による被害には、このよ
うなアピールはまったくないことにも触れている。

今年1月5日の新華社電によると、昨冬および、地域によっては春の間中続いた豪雪の
とき、当局はまた「中央と地元政府の広範な努力」によって、災害は収拾したと主張
していた。チベット自治区政府は救援基金として27億2500万元(約$338万)を拠出し
、軍は、チベット自治区のナクチュ、ンガリ、シガツェといった深刻な打撃を受けた
地域で、大量のコートやキルトを配布した。ラサの当局は、ラサの北250kmにある救
援活動の焦点となったナクチュ地区では被害者はいないと主張したが、吹雪によって
30人が亡くなったという秘密報告もあった。

中国当局は、解放軍のより肯定的なイメージを示そうと、この洪水を利用している。
これは特に、全国規模の反汚職キャンペーンの一環として営利企業への人民解放軍の
参加を禁じた江沢民による禁止令に続くものだ。チベットではこの禁止令は、司法、
検察、公安組織を代表する幹部らの8月1日の会議によって支持された。8月2日のチベ
ットのテレビ報道によると、軍、人民武装警察、司法、検察、公安組織によるすべて
の営利活動を禁止する中央政府当局の決定は、「新たな状況のもとでの党の建設、政
府の建設、軍の建設を強化するため、そして反汚職キャンペーンを徹底的に実行する
ための重要な手法を示している」と、幹部らは同意した。この禁止令はまた、現在の
経済改革と「国家の安定」という文脈においても非常に重要だとされた。


「悪政」が引き起こした洪水

ニューヨークに拠点を置く組織“Human Rights in China”が受け取った1通の書簡
の中では、中国の309人の反体制者によると、過去数ヶ月で3000人以上の死者を出し
た、ここ44年来中国で最悪の水害は、中国政府の政策が引き起こしたとされている。
中国全土の19の省や市の見識ある学者や活動家を含むこれらの反体制者たちは、この
洪水は、揚子江流域の環境管理の悪さが引き起こしたものだと主張した。彼らは、洪
水についての情報を規制し、そして軍の役割を知らしめようと災害を利用することに
ついて、政府を批判した。

幹部でさえ、政府の環境政策を批判している。黒龍江省出身の全国人民代表大会常務
委員会委員であるアン=チェントン(An Zhendong)は、嫩江と松花江の大洪水の原
因は、上流域での材木の乱伐だと述べた。

朱鎔基首相は、ここ数日の黒龍江省訪問の際、災害は「乱暴な伐採によって引き起こ
された部分もあった」と認めた。彼は、環境に関する政府の政策の実施は「とても満
足のいくものではなく」、見境のない伐採や土地開発は犯罪と見なされるべきだと述
べた。新華社電によると、中国の林業部門当局は、森林資源保護への特別資金として
300億元($3億6200万)を投資するだろうと表明した。

中国当局は先月、揚子江上流域のカム地方東部での森林伐採の禁止を発表したとき、
乱伐と中国の洪水の関連を認めた。8月23日の新華社電によると、この禁止令は「水
害の脅威を悪化させた深刻な土壌流出をくい止める」手段として課せられた。当局が
チベット自治区で同様の森林伐採への規制を実施するかどうかはまだ明らかではない
。森林伐採は、豪雨の際に河川に流れ込む水の量を増加させる要因の一つである。森
林が広がっていれば、水の流れが緩やかになり、吸収されるのだ。大量の流出表土が
水によって運ばれ、湖や河に溜まり、堤防をますます高くしなければならなくなる。

現在アメリカ在住のアムド出身の亡命チベット人によると、チベット人が環境へのダ
メージについて自由に話をすることは好ましいとされていないという。「大森林はマ
チュ(黄河)、ギャモ・ングルチュ(サルウィン河)、ザチュ(メコン)、ディチュ
(揚子江上流)、ヤルンツァンポ(ブラマプトラ河上流)にある。私は個人的に、河
の近くでの大規模伐採を目撃してきた。かつて鬱蒼とした森林に覆われていた多くの
山々が、埃と岩の塊になってしまったのを知っている。私のような地元チベット人は
、乱伐を大変懸念していた。しかし、それについて誰も声をあげられなかった。」

中国語の新聞『南方週末』(8月21日)は「最後の模範林業労働者」、四川省のタン
・ソン(Tang Song)氏のインタビューを掲載した。森林の消滅および今回の伐採禁
止によって、彼は木こりの最後の一人になるかもしれないという。マルカム林業局に
所属するタン・ソンはこう言ったとされている。「私は現在の揚子江流域の洪水にい
くらか関係があるのです。あまりに大きなダメージを与えてきたのですから。昨年、
私は材木伐採と生態系の環境との関係を学びました」。四川省での自然林伐採は、9
月から中央政府および省政府当局によって禁止される。『南方週末』の記事に掲載さ
れた当局者の言葉によると、そうしなければ四川省の伐採可能な森林は、10年か20年
ですべて切り尽くされてしまうことになるという。記事によれば、タン・ソンがかつ
て切った最も太い木は太さ148cmだった。しかし、いまやそんな木はない。8月21日の
記事によれば、「今では、伐る木の太さは普通2〜3cm。そして、それらは公式には保
護地域になっている場所にあったり、以前なら行けなかったような深い谷にある」。「
したがって、タン・ソンは四川省最後の模範林業労働者である。そして、おそらく彼
はまた我が国最後の」。

以上

(翻訳者:長田幸康)
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 今日のチベットにおける刑務所の状況と言語問題

TIN News Update, 11 September 1998
Prison Conditions and Language Issues in Tibet Today

チベットではおそらくかつてないほど締めつけが厳しくなっているおり、チベットに
住むチベット人には、そこで何が起こっているのか公に口にする機会はほとんど、あ
るいは、まったくない。TINは、そこに暮らす人々のおかれている状況を、さまざま
な客観度で綴ったチベット内部からの報告をしばしば受けとっている。今月はじめ、
そういった報告の一つがラサからTINに届いた。それは、刑務所内の、とくに政治囚
についての状況、および筆者がチベット語使用の衰退と見る事実についての、冷静か
つ、あきらかに事情に精通した報告である。TINは、この文書を翻訳し、ときおり寄
せられるチベットからの一連の「個人的見解」の報告の第一弾として、ここに抜粋を
公開する。チベットの政治囚らは日常生活のあらゆる局面で規制を受けているという
ことから筆者は筆をおこしている。



政治囚に対する政治的抑圧と処罰は、彼らに自らの意志や良心に反することを言わせ
る、あるいは、させるという形をとってなされている。例えば、中国の愛国歌を歌っ
たり、親中国スローガンを叫んだり、中国の強制するパンチェン・ラマの転生を認め
受け入れたりせねばならず、そしてまた力を用いて、歪められ中国化された歴史を勉
強し認めることを強いられたりするのだ。

政治囚がこういった押しつけを頑なに拒んだ場合、武装警察が送り込まれ、ときには
凶暴に殴られる。こういった政治囚に対する暴力の結果、サンギェ・テンペル師は亡
くなり[TIN註:ある情報によると、同名の僧は、刑務所で繰り返し殴られ拷問を受
け、その結果1996年4月に死亡した]、一方、ソナム・ワンドゥのような多くの囚人
は手足の骨を折られ、さらに多くが、信仰や想像力を破滅させられるような恐ろしい
傷害を負った。[TIN註:1988年3月の警官の死に関わった嫌疑を受けたソナム・ワン
ドゥは、過酷な拷問の結果、身体が部分的に麻痺したと伝えられる。彼は1993年に釈
放され、車椅子生活を強いられているとされる]。

日常生活を見てみると、生活費のための定期手当は、たったの35元[$4]。薪代をま
かなうのにやっとだった。囚人たちは[食事のために]自分の家族のお金に頼らなけ
ればならなかった。そして、1996年中盤あたりから生活手当は徐々に引き上げられ、
100元[$12]になった。しかし、この時期までに食品の市場価格は倍に上がっており
、したがって囚人らの日常生活[食事]には向上がなかった。[TIN註:筆者は、囚
人たちにどの程度の頻度で手当が支給されるかを特定していないが、月1回のようだ
。罰則の一種として囚人から手当を没収するということもありえるとの報告もある]
。それに加えて、囚人の親類による毎月の定例面会の機会と食料の差し入れが止めら
れたときには、チベット人に不可欠な主食が入手できなくなり、すべての囚人、とく
に病気の囚人にとって、大きな苦痛となった。現時点で、ダプチ刑務所だけで約420
人の政治囚がいる。[TIN註:TINの現在の高精度の推測では、ダプチ刑務所の政治囚
は270〜350人程度である。]最高齢の囚人は82歳、最年少はわずか17歳。囚人の約80
%は、普通は豚肉を食べない僧・尼僧である。しかし、彼ら・彼女らは、生活をつら
くするために、故意に古くなった野菜と古い豚肉を食べさせられている。さらに、日
々の蒸しパンやライスの割当ては生きるのにとても十分ではないというのに、刑務所
は囚人に対し、生活手当の中から貯蓄を確保するように命じている。

文化面では、政治囚は差別されている。刑務所には初等・中等レベルの学校教育の場
が用意されているが、政治囚たちは文房具などの教育設備がより貧弱な別クラスへの
参加を強いられる。チベット文化、そして特に英語の学習に関する教科の学習は禁止
されている。これらの教科に関連する本や辞書はすべて没収され、破られるか焼却さ
れる。これに加えて、これらの本や辞書の入手先を見つけるための調査が行なわれ、
その相手は厳しく罰せられる。刑務所の学校で教えられるのは、中国の視点から見た
歴史と文化の教科である。政治囚の多くが僧・尼僧だという事実にもかかわらず、仏
教やチベット文化といった話題は議論の際にはタブーである。

刑務所での健康・衛生は深刻な問題である。刑務所幹部は、インフルエンザにかかっ
たり、下痢のような胃の問題は病気としてみなされないだろうと明らかにしている。
このような政策の結果、政治囚ラクパ・ツェリンは病いに倒れた。病気やケガが緊急
手術を必要とする政治囚の場合でさえ、術後の医療措置も何らないままにすぐ翌朝に
は刑務所房に連れ戻されてしまう。こういった不注意の結果、多くの患者が、感染症
により傷口が炎症を起こしたり、膿が溜まったりしている。刑務所の病院の医療材料
はまったく不十分なため、さまざまな疾患や健康上の問題への処置に同じ種類の薬品
を使っている。また、医療スタッフの技術や訓練が貧弱なため、患者は彼らの技術を
試すモルモットとして使われている。外科手術のために連れ出されるときは、研修医
の練習として使われる。ときには、1990年のラクパ・ツェリンのケースのように、故
意なのかミスなのか、薬品や注射を誤って使用することによる不慮の死が発生する。
[TIN註:ラクパ・ツェリンの事件は次のように文書に明記されている。:彼はグツ
ァ刑務所でひどく殴られ、腹部と背中に痛みを感じる状態で病院にかつぎこまれた。
そして、2度にわたって注射を受け、結果、1990年12月半ば、吐血し死に至った。]

病気が重く、緊急の医療措置を要する囚人が、刑務所内に延々と放置され、容態が救
いようもなく悪化すると、治療のため刑務所から出されることがある。しかしながら
、その時になっては、すでに命を救うには遅すぎる。こういった怠慢によって起こっ
た死亡事件は数多い。例えば、ケサン・トゥトプ師や[TIN註:TINが受け取った2つ
の報告が、1996年6月はじめに死亡した同名のデプン寺の僧侶にふれている。]尼僧
ギャルツェン・ケサンの例である。容態の悪い政治囚や他の囚人は、現在なお治療の
ために病院に連れて行かれない。一方、囚人たちは、おそらく病気を悪化させかねな
い食事を食べさせられている。病気になった政治囚のこういった虐待の結果を予測す
るには、さほど想像力を必要とはしない。[TIN註:チベットからの報告によると、
ガル尼僧院の20歳代の尼僧ギャルツェン・ケサン(俗名ケサン・ドルマ)は、ダプチ
刑務所での2年の刑期の間に急激に身体を壊したのち、1995年2月20日に自宅で亡く
なった。彼女は、1993年6月14日の独立支援デモに参加して、他の11人のガル尼僧院
の尼僧らとともに逮捕された。]

労働搾取:女性の政治囚は、ほとんどが尼僧だが、ウール4ギャマ[TIN註:2kg。
1ギャマは500グラム]の生産を日々の目標として課せられている。羊毛を洗浄して
選別し、紡いで糸にしなければならない。彼女たちはわざわざ炎天下の中で作業をさ
せられている。そして、朝から夕方まで10時間続くこともある、いわゆる「体育科」
がある。これは行進と隊列訓練からなっており、一日が終わるまでには、ミスによっ
て多くの罰則と暴力にさらされる。男性囚もこの訓練を受けることを要求され、軍人
教官の気まぐれや思いつきで袋叩きにあうことになる。

政治囚は、刑務所敷地内にあるいわゆる「セメント工場」での労働に就かされること
もある。そこでは、基本的な労働や安全への配慮が最低限もしくは不十分である。そ
こで働くことは非常に辛いというだけでなく、非常に危険でもある。飛び散る火花で
の火傷や、機械に手足を傷つけられたりといった事故によって、亡くなったり深刻な
ケガを負ったという囚人の報告は多い。受刑者たちが生命を危険にさらして、そして
額に汗して稼ぎ出す収入は、看守や警備員の給料、囚人たちへの月々の手当、そして
、司法当局の給料や褒賞金などに使われる。刑務所の保安職員による暴力によって命
を落としたり、ひどい傷害を負ったという事件は数多いが、当事者の職員たちは、犯
罪的行為として告発されるどころか、口頭で叱責されることさえない。実際、彼らは
同じ地位と給料を維持しているのだ。

端的にいえば、刑務所で行なわれていることは、1994年12月30日に出版された『中華
人民共和国の刑法と刑務所規則』という名の書の条文に完全に違反している。比較し
て言うなら、本書で示されている刑法の条文は、刑務所で実際に行なわれていること
に比べたら、寛大で合理的である。この本はただ国際社会を欺こうとしたもので、掲
載されている条文のうち、刑務所で実際に運用されているものは一つだってありはし
ない。したがって、ことわざに言うように「百聞は一見にしかず」、刑務所を訪れる
ことができたなら、かなりましなのであるが。もっとも、過去にいくつかの海外の使
節が刑務所訪問を行なったが、彼らの多くは、政治囚が捕らえられているところには
まったく近寄れなかった。

ある視察者が雑居房視察に連れて来られたが、政治囚たちは労働用地に無事連れ去ら
れた後だったという事例があった。したがって、今のところ海外使節による効果的な
訪問は一つもなかったと言える。私の希望そして提案だが、これからの訪問使節は、
自前の通訳を連れて来て、病院、食堂、雑居房、労働用地、教室に視察場所を絞るこ
とである。訪問使節にとって私が特に非常に重要だと思うのは、言論の自由のある環
境のもとで受刑者の感情や思いを知るために、囚人個人との一対一のインタビューを
アレンジすることである。

[チベット語]

目下、中国の政策のうち最も懸念される点は、チベット人の民族意識と文化の中核を
なすチベット語に対して、その研究と使用、そして普及を衰えさせることによって行
なわれる攻撃の再開である。先代10世パンチェン・ラマは、毅然として熱意に満ちた
態度で、チベット語の研究と使用、そして普及を促進することを訴え[TIN註:中央
政府に対して。1997年12月にTINが出版した“A Poisoned Arrow”参照]、チベット
人全般やチベット人学者たちはよろこんで協力した。パンチェン・ラマの指導のもと
、「チベット言語作業委員会」[bod kyi skad yig las don mdzub‘khrid au yon l
han khang](訳注:チベット語で“チベット言語工作指導委員会”)と呼ばれる部
門[があった]。当初彼らは、チベット語を教育言語として用いてチベット語や他の
教科を教える、実験的な中学レベルのクラスを4クラス設置した。これらのクラスは
すばらしい成績をおさめ、チベット語を使用した教育を採り入れるクラスの数は徐々
に増え、チベットのさまざまな地域で160を超えた。

しかし、1995年、このチベット語を使用した教育の制度は、「民族主義」[ミリク・
リンルゥ]を助長するとの非難のもとに中止され、雑誌『チベット語工作』[bod ky
i skad yig las don]の発行は禁止された。「チベット言語作業委員会」も虹のよう
に消滅した。[TIN註:ある非公式情報によると、この委員会は1996年終盤に解散さ
せられた]。

中国内地(訳注:漢人居住地域)の学校にある、いわゆる「チベット人クラス」では
、1997年以来、チベット語は一言たりとも教えられていない。さらに、この年[1998
年]を境に、チベット大学がチベット研究の諸学部への学生の登録をやめている。昨
今、チベット自治区全体で通信に用いられるのは中国語のみである。村[郷]レベル
以上のすべてのオフィスで、公的な通信でのチベット語の使用は禁じられている。こ
の政策の結果、中国語の読み書きができない高学歴のチベット人が職を失い、中国語
教育を受けた者が職を得るのは比較的用意ということになっている。この政策は、チ
ベットへの中国人入植者の流入を奨励し促進することが狙いだ。チベットに流れ込む
中国人入植者がなぜこうも膨大なのかという主な理由はこれである。

中国人がチベットに押し寄せる現象や、学校でチベット語やチベット文化を教えるこ
とがなくなった事態に直面し、チベット人の親たちは、チベット文化を学び守ってい
くため、子どもたちを僧院に入れることを始めた。しかし最近、いわゆる愛国教育計
画のもと、工作チームがこういった若い僧・尼僧を僧院・尼僧院から追放し始めた。
親たちは窮地に追い込まれている。

チベット人の子どもたちを、学校教育やさらに高度な教育を受けるために中国内地に
ある学校に送りこむという現在の政策は、まず、彼らを中国化させ、自らの文化につ
いて本質的に無知で、民族や民族関係についてのいかなる感情をも奪われた一定の階
層のチベット人を育て上げることを狙ったものである。[TIN註:1998年2月26日付の
中国の「チベットにおける人権に関する白書」によると、当時、中国の26の省・市の
100以上の学校で13,000人のチベット人学生が学んでいた。]チベット人の子どもを
中国に送るもう一つの理由は、チベットの予算から得た資金を使って学校を作って中
国人を雇おうというものだ。[TIN註:チベットの予算は、チベット内部で得られる
財源と、中央政府から与えられる財源からなっている。筆者は、中央政府の資金のい
くらか、あるいはほとんどは、チベット人の子どものための中国内地の学校のために
使われ、還流されていることを指摘している。]

こういった事態から、昨今チベット人は“民族の友好と団結を強化しよう”というス
ローガンを次のような意味に解釈している。「それは、お椀1杯のミルクを大海に注
ぐように、1億2,000万人中国人を600万チベット人と融和させることによって、チベ
ット人が絶滅するということだ」。そうなれば、そのとき、彼らがしばしば繰り返す
スローガン「祖国統一」が本当に実現することになる。

私の意見では、チベットの広範な改革と進歩は、チベット語の研究と使用そして普及
が、適切なふさわしい形で復活させることができるかどうかにかかってくるであろう
。したがって、チベット語と教育についての政策を変えるよう中国に訴え、圧力をか
けることに力を注いでいただきたいと、すべての偏見なき国際社会、国家政府、さま
ざまな組織や個人に強く訴えたい。

以上

(翻訳者:長田幸康)
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 チベット僧、ネパール警察に射殺さる

TIN News Update, 23 September 1998
Tibetan Monk Shot Dead by Nepalese Pliece

国境を越えてネパールに脱出して来たばかりの56人のチベット人集団とネパール警察
が衝突し、チベット人僧侶1人が銃撃され死亡した。またもう1人のチベット人僧侶も
負傷している。ネパール警察は、先週火曜日(9月15日)の衝突で、警官4人が負傷
したと語った。警官らは、難民たちがナイフで攻撃して来たので、自己防衛のために発
砲したと説明しているが、TINが面接した同集団のメンバーたちは、彼らが警官たち
に石を投げ付けた途端に、警官らは発砲したと語っている。2年前に32人のチベット
人難民が国境を越えた直後に、ネパール警察によって銃撃され3人の難民が負傷して以
来の、重大な国境警備隊絡みの事件となった。

ナムチュン・ギャッツォは、東チベットのアムドにあるラギャ僧院の、27才の僧侶で
あった。彼は、ネパール警察がこの集団に発砲した際に、重傷を負った。彼は1時間も
何の手当も受けずに、放っておかれた。その後、7時間は掛かるビラトナガールの病院
に収容されることになったが、その道中で死亡したものである。17才の活仏であるヤ
ーペルも、脚に銃撃を受けて軽傷を負ったが、現在はカトマンズーで回復しつつある。


ネパール警察は、チベット人の暴力にその責任があると語った。事件は、難民たちが逮
捕され、カトマンズーの東方100kmに位置しインド国境にも近い、カタリの村の警
察署に連行された際に発生した。この集団は道案内を含めて56人で、主に東チベット
の様々な僧院の僧侶らで構成されていた。南チベットの国境の町ティンリから、彼らは
21日間旅をして来て、カタリで逮捕され警察に連行された、と難民たちの報告書には
述べられている。この集団のメンバーたちが、後にTINに語ったところでは、逮捕さ
れた時に彼らは10日間も何も食べていなかったという。警官たちが通訳を探しに出掛
けて2時間後、チベット人たちは仲間内で討議し、食物を探しに警察署を出て行くこと
にしたと、メンバーたちはTINに語った。彼らがそうしようとした途端に、再び彼ら
は捕まった。

「我々には、警官たちが何を言っているのか解らなかった。すると1人の警官が竹の警
棒で、集団の一員であった17才の少年の脚を殴り始めた。チベット人たちは、警官た
ちに抗議し、これが喧嘩に発展した」と、難民集団の一員である僧侶はTINに語っ
た。チベット人たちが石を投げ出すと、警官たちは銃を足元に向け、少なくとも3回発
射した、と難民たちは語っている。ネパール警察は、威嚇射撃は8回行ったと語ってい
る。難民たちは、彼らが石だけでなくナイフまで使って警官たちを攻撃した、という警
察側の説明を否定する。「警察は、自己防衛のために銃を発射せざるを得なかった」
と、カタリ警察副署長のカレル・ラメッシュはTINに語った。ラメッシュは、難民集
団のメンバー全員がナイフを所持していたと主張している。そして死亡した僧侶は、警
官を刺そうとしていたのだという。この集団の数人のメンバーは、口々にそうではなか
ったと、この警察側の説明を否定した。

ナムチュン・ギャッツォは、脚に銃撃を受けた。骨は砕け、大量の出血をしていた。警
察が、負傷した2人のチベット人と付き添いのチベット人2人を、病院に移送し始める
までに1時間も放って置かれて、ナムチュンは出血多量に陥ったと、チベット人たちは
語っている。警察側はこの報告を否定する。「4人のチベット人たちは、銃撃事件の直
後に病院に移送された。遅滞は無かった」と、副署長のカレル・ラメッシュは語った。
ナムチュンは、ビラトナガールのコシ・ゾナル病院までの7時間の行程の終わり近くに
亡くなった。同行した2人のチベット人は、彼の遺骨をダライ・ラマ法王のところに届
けたいから、遺体を火葬に付してくれるように頼んだ。しかし病院の関係者はそれを拒
み、遺体は埋葬された。ネパール在住のチベット亡命政府代表は、警察に調査をするよ
うに要求している。

ダライ・ラマ代表が事件の調査を要求

ネパール在住のダライ・ラマ法王の代表者、サムドゥプ・ラツェは、難民たちはチベッ
トに送り返されることを恐れて最初は抵抗した、と語った。「我々は、ナムチュン・ギ
ャッツォの死に関して遺憾の念を表明し、ネパール警察と入国管理局に事件の調査を依
頼した」と、カトナンズーに拠点を置くサムドゥプ・ラツェは語った。カタリ警察の副
署長カレル・ラメッシュは、調査を実行することを約束した。「警察による調査が実行
されるように望んでいる。1人の人間が死んでいるのだから」と、彼は語った。

負傷した17才のヤーペルは、傷口を7針縫い、830ネパール・ルピー(8.5ド
ル、1150円)を請求された。負傷した4人のネパール警察の警官たち、ナレンド
ラ・スッバ警部、巡査部長ドゥラチャン・チョドゥハリィ、そして巡査のキル・バハド
ール・バスネットとチャダマニ・ターパは、『軽微な怪我』の治療を受け、その日の内
に退院をしたと、カタリ警察当局は発表した。

ナムチュン・ギャッツォは、アムドのカワスムド県(中国人が青海省同徳と呼ぶ地
域)セロ村の出身で、僧侶になって6年が過ぎていた。同難民集団の他の僧侶たちからは、
「善良で優しい人」との評価を受けていた。恐らく彼がネパールに出発する前に撮った
と思われる写真では、目立つ僧侶の衣ではなく、白いシャツに気の効いた上着を着てい
る。彼はインドにいるダライ・ラマ法王に会いたくて、チベットを脱出したもので、明
らかに彼の所属する僧院に帰る意図を持っていた。

彼の死亡後、難民集団の残りの54人のチベット人たちは、警察から入国管理局に引き
渡され、カトマンズーに移送された。チベット難民たちはカトマンズーに到着すると、
入国管理局の手を離れて、国連の高等難民弁務官の事務所に移管され、真実の難民か否
かの審査を受け、インドまでの旅を許されることになる。

年間2千人から3千人のチベット人が、チベットを脱出してネパールに逃げ込み、さら
にインドへの亡命を申請している。昨年到着した難民たちの内、およそ500人が14
才以下の子供たちであった。子供たちは、亡命社会で伝統的なチベット人としての教育
を受けさせるために、彼らの家族によって送り出されているようである。

国境地帯で難民たちが、警察による嫌がらせを受けたり賄賂を要求されている、という
報告が多数寄せられている。この中には、カタリ地区での賄賂要求や殴打事件も含まれ
ている。チベット難民が被害者となった事件の中で最も重大なものは、1996年12
月に22才のチベット女性が警官に率いられたネパール人集団に性的暴行を受けた事件
や、1996年11月18日にカトマンズーの北方100kmのラマバガールで3人の
チベット人が銃撃を受けた事件等がある。これは先週の事件と類似した状況下で発生し
たもので、チベット人集団が止まれとの命令に従わず、警官らに向かって石を投げ始め
たので、発砲をしたとネパール警察は説明している。チベット人1人が右側の臀部を撃
たれ、もう1人が膝頭を撃ち抜かれて頭部を殴打された。さらにもう1人が、太股を撃
たれた。この3人を助けたチベット人によれば、負傷した3人は、カトマンズーに着く
まで、全く治療を受けなかったという。このとき負傷した3人のチベット人の1人は、
警官に撃たれさらに殴打されたために、1年以上も記憶障害に苦しんでいると語っ
た。「私は4回意識を失ったことがあります。2回は撃たれたその日の晩で、2回は3
日後のことでした。彼らが警棒で私の頭を殴った後で、頭を触ってみると出血していま
した。そして大変にめまいがしたのです」と、匿名希望のその難民は昨年TINに語っ
ていた。1993年、シャル・クンブからカタリを通って亡命しようとした難民たち
を、4人のネパール人警官が警棒で殴る事件が起きている。そして2年後、亡命しよう
としたチベット人が、警察によってお金を奪われる事件が少なくとも2件起こった。

愛国教育が僧侶や尼僧をチベット脱出に駆り立てる

ここ数カ月間、ネパールに亡命するチベット人の大多数を僧侶と尼僧が占めている。夏
の間だけで、150人以上の僧侶がカトマンズーに到着した。これは愛国教育キャンペ
ーンによる圧力が、僧侶や尼僧に継続的に加えられている状況を反映しているのであろ
う。チベット自治区政府は、愛国教育キャンペーンは成功したと発表している。僧侶や
尼僧がダライ・ラマ法王を非難しなければならないこの愛国教育キャンペーンは、現在
では青海省やチベット自治区の辺鄙な農村部でも実施されている。

ナムチュン・ギャッツォの僧院は、青海省ゴロク自治州マチェン県のラギャ僧院である
が、最近は中国政府に対する抵抗運動で知られるようになっている。この理由で、役人
も僧院内に常駐している。僧侶の数は、数百と伝えられている。

1992年11月16日、高僧の就任式の最中に独立要求のチラシを配って、ラギャ僧
院の数人の僧侶と一般人が逮捕された。『チベットに自由を』とか『中国人はチベット
から出て行け』と、そのチラシには印刷されていた。同年2月28日にダラムサーラに
拠点を置く、チベット人権民主センターが公表した情報によれば、愛国教育を実施する
ために工作班が僧院に到着するや、18才以下の100人以上の修行僧たちが僧院から
追放されたという。この年にインドに亡命して来た複数の僧侶たちが伝えるところで
は、ラギャ僧院には管理委員会という名称の役人たちが常駐しているという。「私たち
には、全く自由というものが存在していない。私たちにが何をしようとも、それは監視
されている」と、現在はインドに亡命しているラギャ僧院の僧侶はTINに語った。

僧院の閉鎖と僧侶の逮捕

最近の公式報告書によって確認できたことであるが、21才の僧侶ジャンペル・テン
ダルが、愛国教育キャンペーンの最中に、彼の僧院内に独立要求ポスターを貼って逮捕
された。彼は、ラサの南方60kmに位置するゴンカル・チェーデ僧院の僧侶で、ダラ
イ・ラマ法王支持とチベット独立要求の手書きのポスターを僧院内に貼って、1997
年6月に拘留された。ポスターの1つには、チベット国旗が描かれていた。チベット国
旗は、チベットでは非合法とされている。ジャンペル・テンダルは、昨年9月1日に懲
役4年と政治的権利剥奪2年の判決を受けた。この判決に関するニュースは、2カ月前
まで全く外部世界に届いていなかったものである。彼の所在は今もって不明である。

TINはまた、ラコル(ラゴ)尼僧院の閉鎖および取り壊しと、ジョナン・クンブム僧院の僧侶
たちが僧院を離れたとの情報を、複数の情報源から確認した。ラコル尼僧院の全員の尼
僧たちおよそ50人が、ダライ・ラマ法王非難表明と法王の『分離主義』政策を批判す
るようにとの工作班の要求を拒絶し、1997年夏に尼僧院を離れた。彼女たちが尼僧
院を離れた後に、工作班は地元の村人たちに命令して、尼僧院の中の居住部分を取り壊
させたと伝えられている。ラコル尼僧院は、ラサから12km離れたトゥルン・デチェン
県に位置している。

ジョナン・クンブム僧院は、西チベットのヤルツァンポ河の南岸の町、ラルツェ県から
61km離れたところに位置している。この僧院は、愛国教育キャンペーンの後で完全
に閉鎖となったと、チベット内部からの非公式情報は伝えている。現在亡命中のチベッ
ト人が伝えているところでは、役人たちは銃を僧侶たちの頭部に突き付けて、ダライ・
ラマ法王を批判するように脅したという。チベット人権民主センターが最近公表した報
告書によれば、昨年ジョナン・クンブム僧院では毎日10時間も休憩なしで、愛国教育
キャンペーンが実施され、今年春に僧院は完全に閉鎖された。「僧院には1人も僧侶が
いない。僧侶たちの部屋は鍵を掛けられているか、あるいはワラや動物の糞置き場と
なっている。おそらく家畜小屋として使われることになるのだろう」と、9月15日付
けのチベット人権民主センターの機関紙ヒューマン・ライツ・アップデイトは報じてい
る。

チベットの多くの僧院や尼僧院には、政府の役人たちが常駐している。セラ僧院、デブ
ン僧院、ガンデン僧院といった主要な宗教施設はおろかラギャ僧院に至るまで、愛国教
育工作班が去った後には、こういった役人たちが監視を受け継いでいる。これらの役人
たちは、これまで僧院を管理して来た僧侶から成る管理委員会に取って代わるもので、
非僧の役人たちだけで構成されている。三大僧院に常駐する役人たちは、無線機やピス
トルを携帯していると、過去3カ月間に三大僧院の全てを訪問した西洋人観光客は報告
している。

以上

(翻訳者 小林秀英)
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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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