29号(1998年8月)

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 ラサで爆破事件、ダプチ刑務所でさらなる騒動


TIN News Update, 1 July 1998
Lhasa Bomb ; More on Drapchi Disturbances

ラサで爆破事件、ダプチ刑務所でさらなる騒動

チベットの首都ラサの中心部で、爆破事件が起こった。TINに届いた報告によれば、
爆発は米国大統領ビル・クリントンの中国訪問の前夜、今から1週間前に発生した。し
かし、ダプチ刑務所内のデモとそれを鎮圧するために囚人を銃撃した事件が、2カ月前
に発生して以来、ラサ市内の警戒が厳重なために、爆破事件の損害と負傷者の有無は確
認されていない。

5月1日と4日にダプチ刑務所で発生した事件に関する情報は、錯綜する内容となって
いるが、現在ダプチ刑務所に収容されている囚人たちが書いたという手紙が1通、チベ
ットの首都からTINに届いている。チベット語の手書きの手紙で、2度のデモがどの
ように発生し、刑務所当局が如何なる対応をしたのかが説明されている。

6月24日(水)の夜10時か11時頃に、ジョカン寺の北方およそ1kmに位置す
る、市公安部の建物の近くで爆弾が破裂した。この爆弾音は、近所のラモチェ寺の窓ガ
ラスを振動させ、市南東部にあるチベット大学でも聞こえた。

3人かあるいは4人の負傷者がでたとの報告があるが、確認されてはいない。爆発が起
こった時間から判断して、過去2年間に起こった幾つかの爆破事件と同じように、標的
は人間ではなく建物であった。標的となったのは公安局の建物であったと思われるが、
最大の被害を被ったのは、窓ガラスの全てが爆風によって破壊されてしまった、公安局
の南側に建つ複数の建物であった。

この地域には通信施設の建物もあり、周辺の道路は翌朝まで通行止めとなった。6月
25日には6台のトラックに分乗した治安部隊が配置されていたが、それを除けばこの
地域は交通遮断はされていなかった。

以前の爆破事件

これまでもチベットでは何回かの爆破事件が起こっていたが、中国政府が爆破事件を初
めて認めたのは1996年のことであった。1996年1月13日、チベット北部のナ
クチュ地区ソグ県で爆破事件が起こり、2軒の店舗に被害を与えた。インドに亡命した
若い僧侶が後に関与を認め、中国が選定したパンチェン・ラマの転生者を即位させたこ
と、および中国人回教徒の移住に抗議したと語っている。

1996年1月18日、パンチェン・ラマの後継者問題で親中国派の指導者の立場にい
た、僧侶でありまた政治家でもあるセンチェン・ロプサン・ギャルツェンの自宅で、爆
破事件が起こった。この事件で1人が負傷したと言われている。1996年3月18
日、ラサにある中国共産党チベット本部の外で爆弾が破裂した。過去9カ月間で、6番
目の爆破事件であったと報告されている。一連の爆破事件で、最初の明確な政治的標的
であった。

1996年5月11日、政府は初めてチベットで爆破事件が起きていることを認め
た。『ダライ一派』の仕業であると非難したが、詳細には触れていない。9日後の19
96年5月20日、同月初旬に開始された『打破(取り締まり強化)キャンペーン』の
一環として、「爆破事件や暗殺事件を敢然として取り締まる」と発表した。

1996年12月25日、再度爆破事件が起こった。ラサ市政府の役所の建物の外で、
爆弾が破裂した。政府は爆破事件が起きたことを認め、チベットの爆破事件としては初
めて詳細を発表した。チベット人居住地区では、1軒1軒シラミ潰しの捜索が行われ、
翌日ラサを離れる車両は停止させられ、シガツェまでの間に少なくとも6カ所の検問
所が設営された。

この事件の後は事あるごとに、政府は爆破事件に対する警戒を厳重にし、事件は『ダラ
イ一派』の仕業であると非難を繰り返して来た。しかしながら2カ月前のこと、ダライ
・ラマ法王は2週間の米国訪問を開始したばかりであったが、インタビューに答えて、
中国が良い方向に変化をしていると感じられる時期に、軍事行動を取ることは危険であ
ると、警告を発した。チベット人たちは不満を抱いており、感情的になっていると法王
は語り、暴力の代わりにチベット人に提供する代替物が必要であると述べた。「昨年、
チベットで9件の爆破事件が起こった。建物に爆発物が仕掛けられたもので、人間を標
的にしたものではなかったが、危険な兆候である」と、法王は語った。

ダプチ刑務所騒動当事者の報告?

ダプチ刑務所に収監されている政治囚が書いたという手紙が、TINに届いた。デリー
で行われている亡命チベット人のハンガーストライキに、支援を表明する言葉で手紙が
始まっていることから、ハンガーストライキが5月15日に中止させられる以前に書か
れたものであることを示している。5月1日にダプチ刑務所で起こった抗議運動に関し
ては、『メーデー』を祝うために囚人たちは集会に参加させられた、と述べている。
「刑務所当局の計画は、刑務所の良好な雰囲気を撮影して、ダプチ刑務所を訪問するこ
とになっていた欧州連合の大使クラスの代表団に証拠として提出するつもりであった。
そのために囚人たちは良い待遇を受けていた」と、手紙は語っている。

集会が始まり、撮影が始まった途端に、カム(東チベット、現在は四川省に併合されて
いる)のゴンジョ出身のカダーという名の囚人が、『チベットに自由を』と叫んだ。少
なくとも10人の囚人が参加してスローガンを叫んだため、集会は中止となり、カダー
を含めて参加した囚人たちは、「独房に入れられ、拷問を受けた」と、手紙は述べてい
る。

この状況説明は、5月1日の事件に関するこれまでの報告ともほぼ一致する。以前の報
告では、カルマ・ダワという名の13年の刑を受けて収監されている非政治囚が、抗議
運動を始めたと伝えられていた。カダーという名は、この名前の変形であろうと思われ
る。彼ともう一人の囚人のカルマ・ソナムが、音頭を取ってスローガンを叫んだとい
う。スローガンの中には、中国国旗に代えてチベット国旗を立てろというものまであっ
た、と伝えられている。

この手紙が、最近の報告(必ずしも信頼できるとは限らない)と際立って違っている点
は、5月1日に治安警察が銃撃したことに全く言及していないことである。最近の報告
の中には、警察は囚人の頭上に銃撃を加え、20才代中頃の僧侶が撃たれて死亡したと
伝えているものもある。ロプサン・ゲレックあるいはテンジン・チュペル(この名前は
ロプサン・ゲレックの俗名かも知れない)という名の僧侶であって、首都の北東に位置
するラサ地区ダムシュン県の出身であるという。両方の名前が、1995年4月14日
にラサのバルコル広場でデモを行い、チベットに自由をと叫んで逮捕された4人の僧侶
のリストには載っている。全員がダムシュン出身で、20才前後であったという。

幾つかの情報源から確認可能と思われるのは、5月1日以降にカダー(あるいはカルマ
・ダワ)が死亡したことである。非公式情報が伝える所では、刑務所当局は彼が毒を飲
んで自殺したと見なしているという。

手紙はさらに続けて、「政治囚たちは、『若者の日』である5月4日には、再び集会に
引っ張り出された」と述べている。今度は、8つの収容施設から代表者たちが選出され
たという。第5収容施設に収監されているのは、60人の僧侶で、全員がデモに参加し
たことのある僧侶たちばかりだと、手紙は伝えている。全部で500人を越える囚人た
ちが、刑務所中庭の集会に呼び出され、その中には老若の尼僧も数多くいたという。

もう一度撮影班がカメラを回し始めると、囚人たちは突然『チベットに自由を』と叫び
始めた。「抗議の叫び声は、刑務所中に響き渡った。叫び声が余りにも大きかったの
で、治安要員の1人が群衆に発砲した。1人の僧侶が即座に射殺され、もう1人の僧侶
は胸を撃たれた。彼が生き延びられる可能性は少ない」と、手紙は述べている。数発が
撃たれた後に、この治安要員の近くに立っていた囚人たちが、彼を襲って「激しい殴打
を加えた」と、手紙はさらに述べている。

手紙によれば、抗議運動には非政治囚も参加したが、これは刑務所内の待遇の悪さが原
因であるという。また彼らの抗議の叫び声が、刑務所の壁の外にも聞こえたのは、政治
囚たちの意志と決意と、さらにはデリーのハンガーストライキへの支援を示している。
抗議の叫び声が聞こえるや、獄内に残っていた他の囚人たちもこれに呼応して抗議の叫
び声を挙げた。

「現在では、ダプチ刑務所の囚人たちが置かれている状況は危機的であり、抗議運動に
参加した囚人たちは全員独房に入れられ、日常的に拷問を受けている」と、この手紙は
述べている。ダプチ刑務所だけでは暗い(窓のない)独房が足りなくて、囚人たちは独
房が空いている他の刑務所に移された、とも伝えている。

「中国人たちは、囚人たちの勇気に驚いた。公安局は、抗議運動のニュースが壁の外に
漏れるのを恐れて、看守らに何日間も帰宅を許さなかった」と、手紙は結んでいる。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 チベット人音楽学生、控訴後も拘束さる

TIN News Update, 16 July 1998
Tibetan Music Student Held in Shigatse after Appeal

チベット人音楽学生、控訴後も拘束さる

亡命チベット人の音楽家で元フルブライト留学生であったガワン・チュペルは、199
6年に『スパイ罪』で18年の刑を受けて、シガツェのニャリ強制収容所に収監され
ている。元囚人が伝えるところでは、彼は控訴をして結果を待っているという。ガワン
・チュペルの所在は、1995年夏に31才の音楽家が行方不明となって以来、中国政
府が今年5月になって初めて認めたものである。

ガワン・チュペルは、伝統的なチベットの舞踊をビデオに撮影し、ドキュメンタリー映
画を制作するためにチベットを訪れていた。彼は判決に対して控訴しており、控訴に関
する『2度目の聴取』が1997年2月に行われたという。「ガワン・チュペルは、判
決に対して高等裁判所に控訴しており、2度目の聴取が行われている」と、昨年2月5
日付けの新華社電は伝えている。中国では有罪判決を受けると、10日以内に高等裁判
所に控訴することが認められている。しかしチベットでは、控訴が成功した例は今まで
のところ知られていない。

昨年釈放後亡命をした元囚人が語るところでは、1996年12月ガワン・チュペルは
7人の他の政治囚および21人の非政治囚らと共に、シガッツェ市内あるいは近郊の盛
り場を隊列を組んで歩かされ、その情景が後に中国のテレビで放映されたという。ガワ
ン・チュペルと他の囚人たちの罪状が、その場で読み上げられ、その後7人の他の政治
囚たちはラサ市内のダプチ刑務所に送られたと伝えられている。ガワン・チュペルが、
なぜニャリ強制収容所に収容されたままなのかは不明である。そんなに長期の刑期を言
い渡され、また広く知れ渡った人物を地方の強制収容所に置いておくのは、通常ないこ
とである。

「私が(シガツェの強制収容所で)彼に会ったとき、ガワン・チュペルは衰弱してお
り、呆然としているようだった」と、元の囚人仲間の僧侶は語っている。彼は、199
6年夏インドからチベットに帰還し、ガワン・チュペルと同じ強制収容所に投獄されい
た。「彼は、他の囚人たちとは様子が違っていた。精神的に参っているようだった。ガ
ワン・チョペルは、秘密裏に取り調べを受けていた。通常囚人たちは、取り調べの際に
拷問を受ける。しかし、彼が拷問を受けたか否かは判らない。ガワン・チュペルはもう
一人の囚人と一緒に、私の獄房から2部屋先の獄房に入れられていた。通常、囚人同士
は互いに近付くことは許されていなかったが、ある日私は彼に話しかけた。私は彼のそ
ばまで行き、新聞を手渡して、気をしっかり持つように話した。間もなく釈放されるだ
ろうから、気を楽にしていなさいと話した。彼は『そうだ、そうだ』と答えたが、それ
が私たちが交わした会話の全てであった」と、元の囚人仲間はTINに語った。

ニャリ強制収容所は、シガツェ近郊のウトゥ村の外れにある中国風の建物である。
12区画に分かれた監獄に、何人の囚人が収容されているかは判らない。幾つかの情報
源によれば、外国に行こうとして捕まったチベット人が多数収監されているという。中
には合法的な中国の許可証を貰って、外国に行こうとした者も含まれているという。ガ
ワン・チュペルがシガツェに拘留されているとの最初の報告は、ドルジェ・リンチェ
ンというチベット人商人によってもたらされた。彼は、1995年9月にそこでガワン
・チュペルに会ったと語っている。ガワン・チュペルはシガツェの盛り場で拘束さ
れ、パスポートや旅行許可書およびビデオカメラと2本のテープが押収されたと、ドル
ジェに語ったという。

ガワン・チュペルは、チベット生まれの亡命チベット人で、2才のときに両親に連れら
れてインドに亡命した。1995年7月に、伝統的なチベットの舞踊と歌を記録し研究
するために、チベットを旅行していた。彼が行く不明になったことを、最初に訴えたの
は母親のソナム・デキであった。彼は12月には、インドに帰って来ることになってい
た。1995年12月26日、ガワン・チョペルが『スパイ行為』を行っていたため
に、シガツェで逮捕され有罪となったと、中国政府は公表した。同日付けのラジオ・
チベットは、以下の様に伝えている。「1995年7月、ガワン・チュペルは某国の金
銭的支援と資材の提供を受け、ダライ一派によって送り込まれた。チベットに入国し、
民謡や舞踊を収集する振りをして、スパイ行為を行っていた」『某国』というのは米国
を指しており、彼はバーモント州のミドルベリー大学で学びまた教鞭を取っていた。そ
の後の彼の研究は、米国の基金からの助成金によって賄われていた。ラジオ・チベット
が報ずるところでは、ダライ一派の亡命政権と某国のある組織のために、チベット滞在
中に情報収集をしていたという。ガワン・チュペルが、判決に対して控訴したことにつ
いては、ラジオの報道は何も触れていない。

彼の逮捕は、西欧では大きな関心を呼んだ事件であり、チベットを訪問した幾つかの公
式代表団がガワン・チュペルの事例を取り上げて、中国政府との交渉に望んでいる。欧
州連合の駐北京大使らが、今年5月1日から10日の間チベットを訪問するまで、ガワ
ン・チュペルの所在も状況も判明していなかった。その時ようやく、中国政府は彼がシ
ガツェにいることを認めた。

中国政府は、5月にチベットを訪問した欧州連合の大使らの代表団に対して、ガワン・
チュペルは1995年9月6日に裁判に懸けられ、1996年11月13日に判決を受
けたと説明した。スパイ行為に対して15年の刑、さらに反革命扇動の罪で3年の刑、
合計18年の刑を受けたという。ガワン・チュペルが収集していたという秘密情報に関
しても、また彼が控訴していることに関しても、代表団は全く説明を受けなかった。昨
年10月1日に発行した新刑法では、これまでの反革命罪が段階的に廃止となり、現在
ではそれに代わってスパイ罪が多用されている。

ガワン・チュペルの刑期を凌ぐのは、最近ではわずかに2人の僧侶ガワン・プルチュン
とジャンペル・チャンチュプの例があるだけである。彼らは、チベットの民主化と自由
を要求する政治的な文書を印刷して、1989年に19年の判決を受けている。ガワン
・チュペルの刑期は、1994年にスパイ罪で有罪となった、3人のチベット人よりも
長期となっている。ルカール・シャムは17年の判決を受け、ツェゴンタールは16
年、ナムロ・ヤクは12年であった。彼らは、公表されている統計資料や書籍また他の
文書を亡命チベット人に送り、また東チベットに「独立要求組織を作ろうとした」とい
う。

スパイ行為に対する長期の刑期は、中国政府が『ダライ一派』および亡命チベット人の
独立要求派に対して、取締を継続していることを表している。「我々はダライを、チベ
ット独立を画策する分離主義者たちの首領だと見なしている。ダライは、反中国外国勢
力の忠実な道具であり、チベットの社会的混乱の元凶であり、チベット仏教正常化の最
大障害である」と、チベット地区中国人民政治協商会議の議長である、パグパラ・ゲレ
ック・ナムゲルは5月17日の政治協商会議において語ったと、ラサ・テレビは伝えて
いる。

以上


(翻訳者 小林秀英)

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 『修行』に打ち込んでいた僧侶、拷問で死亡

TIN News Update, 27 July 1998
Monk "Dedicated to Spritual Practice" Dies after Torture

『修行』に打ち込んでいた僧侶、拷問で死亡

政治犯としてチベットの刑務所に投獄され、ひどい拷問を受けた1人の僧侶が死亡し、
また2人のチベット人が精神障害を起こしている。22才のガンデン僧院の僧侶イェシ
ェ・サムテンは、ラサ近郊のティザム刑務所で拷問を受けて、5月12日に死亡した。
彼の肋骨は2本折れていた。イェシェ・サムテンは、僧院生活と勉学に打ち込んだ学僧
であった。ダライ・ラマ法王の写真掲示が禁止されたことに抗議して、1996年5月
にガンデン僧院で抗議行動が発生した。彼はそのとき、他の僧侶らと一緒に逮捕され
た。彼は、1996年7月から最初グツェ強制収容所で2年の刑期を務め始め、今年5
月6日にラサ市の西方10kmのトゥルン県のティザム刑務所で釈放された。彼は、釈放
の1週間後に死亡した。

イェシェ・サムテンは、俗名をテンジン・イェシェと言い、ラサ市のタクツェ県の生ま
れであった。彼は12才のときに、ガンデン僧院で僧侶となった。「彼は、幼いころか
ら僧侶になりたがっていました。勉強熱心な子で、幼い頃から主要な経典は暗記してい
ました」と、現在亡命中の親戚の1人は語った。刑務所から釈放されても、ケガのため
に松葉杖を使わないと歩行できなかった。彼の健康はさらに悪化して、6日後の5月
12日に死亡した。

彼は、ガンデン僧院の僧侶たちが政府の工作班によって、僧院の外に強制退去させられ
た後に逮捕された。工作班は1996年5月6日に、ラサの東方40kmにある同僧院
に到着し、ダライ・ラマ法王の写真を降ろすように僧侶たちに指示を出した。TINが
入手したビデオテープには、数十人の僧侶が僧院の外で叫び声を挙げているのが映って
いる。『ダライ・ラマ法王万歳』とか他のスローガンが叫ばれ、続いて工作班が出て行
った。翌日中国軍が同僧院に到着し、銃撃を開始した。40才のケルサン・ニェンダクが
死亡し、他に5人が負傷した。イェシェ・サムテンを含む60人以上の僧侶が逮捕さ
れ、5月10日以降にさらに25人が逮捕された。後に90人から100人の僧侶が、
ガンデン僧院から追放となった。工作班がやって来る前に撮られたイェシェ・サムテン
の写真には、ダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマの写真を掲げた祭壇の前に立つ彼の
姿が写っている。

事件後に、同僧院は『体制再建・組織再建』のために一時的に閉鎖となった。ガンデン
僧院の再建がなったと発表されたのは、伝統的なバター燈明を500個近い『太陽光電
灯』に置き換え、飲料水を供給する新設備が設置されてからであった、と1997年
10月4日付けの新華社電は伝えている。「修繕計画は、チベットにおいて信仰の自由
政策を堅持しようという、中国共産党の強い意志を示している。また伝統的なチベット
の文化を保護し前進させようとの、共産党の誠意も示している」と、最近チベット自治
区政府の主席に指名されたレチョクが語ったと、1997年10月4日付けの新華社電
は伝えている。

イェシェ・サムテンが何時、特別に苛酷な待遇のティザム刑務所に、1人だけ移された
のかは判らない。彼は労働強制収容所の囚人と同様に、豚の世話とか農作業といった重
労働を課されていたことが判っている。ティザム刑務所の囚人たちの内、少なくとも
50人が政治囚だと思われる。その内の何人かは、最長4年半まで、行政措置として拘
留されている。取り調べに対して答えなかったり、反抗的な姿勢を示した者を収容する
ために、少なくとも8つの独房が使用されている。独房はおよそ2m四方の広さで、窓
はない。独房に収監される囚人たちは、手枷・足枷がはめられる。イェシェ・サムテン
がティザム刑務所から釈放されたのは、5月1日と4日にラサのダプチ刑務所でデモが
発生してから数日後のことであった。抗議運動のニュースがティザム刑務所の中でも広
まったのか、あるいはダプチ刑務所の騒動に呼応しようとした動きがあったのかは、判
明していない。

他の囚人たちにも拷問で精神的な障害

もう1人のダプチ刑務所の囚人、ロドゥ・ギャッツォの精神状況に懸念が生じている。彼
はナクチュ地区ソグ県出身で、舞踏団の一員であった。殺人で15年の刑を言い渡さ
れ、刑務所内で独立支持の散らしを配って、さらに6年刑期を延長された。35才のロ
レ・ギャッツォは、散らしを配った後にひどい拷問を受け、両方の腎臓が障害を受け
た。健康に重大な障害を受けて、さらに精神にも異常を来していると、チベットからの
非公式情報は伝えている。

ロドゥ・ギャッツォの家族が1月に刑務所を訪問した際には、彼は背中に激痛を感じて座
ることができず、面会は許可されないと刑務所当局は語った。「彼は独房に入れられて
いたのだ。今では部分的に記憶を失っており、既に便も垂れ流しとなっている」と、情
報筋は伝えている。

1995年に刑期延長の措置を受けた直後に、駐ドイツ中国大使のメイ・ザーロンは、
ドイツの国会議員らに対してロドゥ・ギャッツォの健康状態は良好であると保証した。
「彼は、政府を転覆させ、祖国を分裂させるために騒動を企み、6年の刑期延長と3年
の市民権剥奪の判決を受けた。彼は現在、チベットの刑務所におり、健康状態は良好で
ある」と、メイ・ザーロンは1995年6月23日に書いている。

もう1人の僧侶、29才のガワン・ジュンネ(俗名はタシ・ツェリン)は、ダプチ刑務
所内で精神障害を起こしていると伝えられている。現在亡命をしている元囚人がTIN
に語ったところによれば、ガワン・ジュンネの精神障害は拷問と長期の独房生活の結果
であるという。ガワン・ジュンネはダムシュン県の出身で、インドから帰国した直後の
1993年1月に、初めて逮捕された。チベット自治区の主要な強制収容所である、ラ
サのセイトゥルに拘留された後に、ダプチ刑務所に収監された。そこで6カ月以上も、
独房に入れられていたと言われている。彼の刑期は、9年である。

ガワン・ジュンネは最初に逮捕されたときに、ダライ・ラマ法王を非難することを拒否
して、激しい拷問を受けた。現在彼は、ラサの東方550kmに位置するチベット第2
の刑務所、ポヲ・タモに移されていると伝えられている。この地域は伝統的にはコンボ
と呼ばれていたが、中国人にはリンチ(訳注:林芝)と呼ばれている。「彼は記憶を失い、食事もせ
ず、衣服も着てはいない。ロドゥ・ギャッツォのように、彼の精神はひどい障害を受けて
いる」と、TINに報告が入っている。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 ダプチ刑務所の5月の抗議運動で死者10名

TIN News Update, 4 August 1998
Ten Deaths at Drapchi Prison following May Protests

ダプチ刑務所の5月の抗議運動で死者10名

ラサのダプチ刑務所で発生した5月1日と4日の抗議運動で、少なくとも10人が死亡
したとの報告が、チベットから情報が流出するのをくい止めようとする中国政府の努力
にも拘わらず、TINに届いた。僧侶1人と一般人1人が射殺され、その後さらに尼僧
5人と僧侶3人が死亡したと、非公式情報は伝えている。尼僧のガワン・サンドル、ガ
ワン・チュゾム、ガワン・テンジンそれに71才の師僧のタナク・ジグメ・サンポらの政
治囚は、抗議運動の後に別棟に隔離され、取り調べと殴打を受けた。他にも、32才の
デブン僧院の僧侶ガワン・スンラプや29才の一般人ギャルツェン・チョペル等の、
多くのダプチ刑務所の囚人が重傷を負い、セラ軍事病院や別棟に隔離された。

抗議運動に関する情報は、刑務所内部と負傷者が収容されたセラ近郊の軍事病院の治安
強化によって、外部世界に到達するのにおよそ3カ月を要したことになる。刑務所の看
守たちや釈放された囚人たちも、抗議運動のことをダプチ刑務所の外部の人々に話した
ら厳しい報復を受けると脅されたという。非公式情報によれば、セラで負傷者を治療し
た医師たちも、病院から出ることを禁止された程であったという。

複数の非公式情報が伝えるところでは、4人の尼僧、24才のチュキ・ワンモ、24
才のタシ・ラモ、21才のデキ・ヤンゾムそしてケドゥン・ヨンテンが、抗議運動から1
カ月以上も経った6月7日に、皆同じ日に死亡した。政府の発表では、ペンポのシャル
・ブンパ尼僧院に所属するチュキ・ワンモは、首を吊って自殺したという。首の回り
には紐の跡があったという。タシ・ラモ、デキ・ヤンゾム、ケドゥン・ヨンテンの3人
は、ラサの西方150kmに位置するニェモ県出身で、自分でスカーフを口に詰めて窒
息死したと、刑務所当局は発表した。尼僧たちの身体には外傷は見られなかったが、は
っきりとムクミが現れており、これは内蔵に障害を受けていることを示している。死亡
原因に関する公式発表では、なぜ尼僧らが全員同じ日に死亡したのかを説明することは
できない。彼女たちは、独房に入れられていたとのことであるし、お互いに接触はでき
なかった筈である。この尼僧たちは、刑務所内の抗議運動の首謀者たちと見なされて、
特に苛酷な拷問を受けるために隔離されたのだと思われる。

未確認情報によれば、5番目の尼僧ロプサン・ワンモも、刑務所内の2度の抗議運動の
後で殴打され死亡したという。ロプサン・ワンモは、ルンドゥップ県のペンポ出身だと
思われる。

チュキ・ワンモが最初に逮捕されたのは、1994年6月14日であった。彼女は、
シャル・ブンパ尼僧院の他の4人の尼僧らと一緒に、尼僧院から45kmも離れたラサ
にやって来てデモに加わった。彼女たちは、バルコル巡礼路の北西の角で、独立要求の
スローガンを叫んで逮捕され、グツェ強制収容所に収監された。チュキ・ワンモは後
に5年の刑を受け、ダプチ刑務所に移された。ダプチ刑務所の元囚人で、現在は亡命し
ている人の話によると、彼女が投獄された初期の頃は、激しい腹部の障害に苦しんでお
り、拷問の結果身体にはムクミが出ていたという。彼女は6月11日に、刑務所の外に
埋葬されたと言われている。彼女の葬儀は、先週ダラムサーラ(インド北西部、チベッ
ト亡命政府の所在地)の僧院で挙行された。

ロプサン・ゲレック(僧名はテンジン・チュペルだと思われる)は、5月1日か4日
に銃撃を受け死亡した。24才の僧侶で、ラサ市ダムシュン県のカンマル僧院に所属し
ていた。1995年4月14日、他の2人の僧侶と一緒に、ラサのバルコル広場で独立
要求スローガンを叫んで逮捕された。ロプサンと仲間の僧侶たちは、4月11日護法
尊(仏教守護の神)の神殿に参拝し、ラサでデモを実行するとの誓願を成した。逮捕
後、彼らはひどく殴打され、グツェ強制収容所に連行された。後にロプサン・ゲレック
は、ダプチ刑務所に移送された。今年5月の抗議運動の後、ロプサン・ゲレックの父親
は、彼が自殺をしたとの知らせを受けた。非公式情報によれば、死んだ息子の弔慰金と
して、700元(82米ドル、12000円弱)が支払われたという。

ガンデン僧院の2人の僧侶、ケドゥップとガワン・テンヨン(俗名はロプサン・ワンチ
ュク)は、5月1日と4日の抗議運動の後に殴打され死亡した。非公式情報によれば、
5月4日後26才のケドゥップは、ダプチ刑務所からラサ郊外北東部に位置するウディ
トゥ(五治隊)刑務所の窓のない独房に移されたという。ウディトゥ(五治隊)刑務所
は、ラサの郊外北東部に位置する、サンイップ強制収容所の中にある刑務所である。彼
の遺体は家族に引き渡されず、親族は彼が自殺したことを認める書類に捺印するように
強制されたと言う。ケドゥップはラサ近郊のメド・ゴンカル出身で、1994年3月に
逮捕され5年の刑を受けた。ガワン・テンヨンもメド・ゴンカルの出身で、5月5日に
激しく殴打され、その後死亡した。28才のガワン・テンヨンは、1996年5月独立
要求デモに参加して、刑期10年の判決を受けていた。未確認情報によれば、ラサの北
方25kmのナーランダ僧院の僧侶ガワン・テンジンは、6月7日に死亡した4人目の
僧侶であるという。4人の尼僧が死亡したのと同じ日であった。

5月1日および4日の事件の際に、非政治囚と政治囚の間に強い連帯意識があったこと
が、複数の非公式情報によって伝えられいるが、このことが中国政府の不安を煽ったの
だと思われる。中国政府は伝統的に、良心の囚人(政治囚)たちが犯罪者(非政治囚)
たちに政治的な影響を及ぼすことを恐れて、ダプチ刑務所の中でもこの2種類の囚人た
ちを異なった収容施設に収監し、彼らを引き離して来た。男性の政治囚たちは『第5区
』に収監され、また女性の政治囚たちは『第3区』に収監され、注意深く非政治囚から
隔離されていた。「ダプチ刑務所の事件は、自由なチベットを獲得しようという点で、
チベット人政治囚と非政治囚が連帯意識を持っていることを示した」と、ダプチ刑務所
の5月1日と4日の事件では非政治囚たちがスローガンを叫び始めたことに言及して、
TINに届いた非公式情報は伝えている。昨年10月には、ソナム・ツェワンという名
の非政治囚が、国連の恣意的拘束に関する公式調査団の面前で、抗議運動を行った。代
表団が部屋に入って行くと、婦女暴行で有罪判決を受け服役していた、ソナム・ツェワ
ンが『ダライ・ラマ法王万歳』と叫んだ。彼はこの抗議運動によって、殴打され独房に
入れられてと言われている。殺人罪で15年の刑を受け服役していたロドゥ・ギャッツォ
は、1995年に独立要求の散らしを刑務所内で配布して、刑期が6年延長された。

中国共産党政府は、政治囚と非政治囚を引き離すことが必要だとの見解を取っている。
一般社会においても、反体制活動家から一般社会人が思想的な影響を受けないように、
彼らを隔離する必要があると考えている。一般社会に対するこの見解は、1989年6
月北京の天安門広場で開かれた抗議運動に対する対応にも現れていた。政府の目から見
れば、学生達の政治的な主張が一般大衆に受け入れられるのを阻止するために、学生達
は隔離されるべき存在であった。天安門事件のときに共産党が最も心配したことは、学
生達の抗議運動ではなく、中国の一般人民を代表する労働者が運動に参加することであ
った。学生達は、特別なエリート集団だと考えられていた。天安門事件後の懲罰で、参
加した労働者たちは学生達よりも、一般的に苛酷な処罰を受けた。

ダプチ刑務所の5月の抗議運動では、非政治囚が政治囚を支援した。これは、両者の分
離が刑務所においては効果を持ってはいなかった、ということを示している。そのため
に刑務所当局は、政治囚の主張を支援した非政治囚に対して、特別に苛酷な処罰を与え
た。また5月1日および4日の抗議運動に加わった政治囚を、いち早く隔離し取り調べ
を行ったのもそのためである。

尼僧のガワン・サンドル、ガワン・チュゾム、ガワン・テンジンは政治囚であり、抗議
運動の後で激しく殴打され独房に入れられた。ガワン・サンドルは20才代前半であ
り、刑務所内で政治活動を行って、2度の刑期延長の処罰を受け、刑期は9年間延長さ
れた。彼女は、スローガンを叫んだり、ベットの整頓を拒否したり、1996年7月に
は看守が監房に入って来ても立ち上がらなかったりした。後に監房を清掃しなかった罰
で、雨の中に立たされた時には、他の尼僧たちと一緒に『チベットに自由を』と叫ん
だ。ガワン・サンドルは、現在総計18年の刑期を務めている。30才のガワン・テン
ジンは、チベット自治区ルンドゥップ県のギャダク尼僧院の所属する尼僧で、ラサのデモ
に参加して1995年2月15日に逮捕され、5年の刑に服している。チュプサン尼僧
院のガワン・チュゾムは、俗名をパサン・ラモと言い1992年5月21日に拘束さ
れ、独立要求デモに参加した罪で5年の刑を受けた。ガワン・サンドルや他の13人の
尼僧らと共に、チベット独立要求とダライ・ラマ法王を慕う歌を、ダプチ刑務所の中で
テープに吹き込んで、ガワン・チュゾムは刑期延長の判決を受けた。彼女は現在、総計
11年の刑に服している。

老齢の師僧タナク・ジグメ・サンポは、2011年まで41年間を刑務所で過ごすことに
なっている。彼もまた独房に入れられ、拷問を受けていると言われている。ジグメ・サ
ンポ(タナクは家族の苗字)は、彼が開設していた小学校で「反革命思想を子供達の心に
吹き込んだ」罪で、最初に逮捕された。釈放後ラサに独立要求ポスターを貼って、再び
逮捕された。1991年12月6日には、ダプチ刑務所を訪れたスイスの公式代表団の
前でスローガンを叫んで、殴打され独房に入れられた。彼の20年の刑は、この事件で
8年の刑期延長となった。

デブン僧院のガワン・スンラプも殴打されており、ダプチ刑務所の事件のときに銃撃
を受けたとも言われており、現在の状況は判っていない。ガワン・スンラプは、4月
初旬独立要求スローガンを叫んだと伝えられている。ダプチ刑務所の抗議運動の1カ月
も前のことであり、刑務所の集会のときであったという。この結果、5月1日と4日の
抗議運動のときには、1人隔離されていたのであろう。ガワン・スンラプはペンポ出
身で、1991年にラサで独立要求デモに参加して、10年の刑を受けた。

インドのダラムサーラに拠点を置くチベット人権民主センターは、一般人のギャルツェ
ン・チュペルは、5月の抗議運動の後に4人の尼僧が自殺したとの公式発表に疑念を
表明して、激しく殴打されたと語った。ギャルツェン・チュペルは、1988年3月
のデモの際に、中国人警官を殺害した事件に関与したとの容疑で、15年の刑に服して
いる。彼はガンデン僧院の僧侶バクドやロプサン・テンジンと共に、有名な見せしめ裁判
に懸けられて判決を受けた。自白を引き出すために数週間にわたって、6人の被告たち
が拷問を受けていたことは、その裁判の判事にも良く判っていたという。

ギャルツェン・チュペルの一族は、中国の支配に対して抵抗を続けて来た歴史を持っ
ている。彼の母親はアマ・プルプとして知られているが、ラサの独立要求デモで亡くな
った参加者たちを悼む記念追悼集会を組織して、1989年に3年の刑を受けたことも
ある。アマ・プルプのもう一人の息子は、1991年春の活動家の疑いのある者の一斉
摘発で、短期間拘留されていた。また彼女の夫、つまりギャルツェン・チュペルの父
親は、政治的な犯罪で投獄されたことがある。

欧州連合の三頭代表、ダプチ刑務所を訪問

ダプチ刑務所の5月1日の抗議運動は、看守らが国旗掲揚の儀式を始めようとした時に
始まった。この国旗掲揚は、欧州連合の三頭代表団の刑務所訪問に備えてのことであっ
た。ダプチ刑務所の囚人たちは、5月1日から10日までの間に、三頭代表団がチベッ
トを訪問することになっているのを知らされていた。そして、それに添って抗議運動が
計画された。一般人で非政治囚のカルマ・ダワ(別の情報では、カダーと呼ばれている
)が、国旗掲揚の儀式の際に、ダライ・ラマ法王支援と独立要求のスローガンを叫び始
め、他の囚人たちがそれに加わることになった。刑務所の看守たちは威嚇射撃を行い、
囚人たちを殴打したと伝えられている。カルマ・ダワは事件後2週間の間に、他の3人
の犯罪者たちと一緒に処刑されたと、複数の情報筋が伝えている。また彼は、その抗議
の場で射殺されたと伝えている情報もある。

5月4日の抗議運動は、欧州連合の三頭代表団のダプチ刑務所訪問と、時を同じくして
起こった。しかし、抗議運動が代表団の訪問の前に起きたのかあるいは後に起きたの
か、まだはっきりしていない。刑務所当局は、60人以上の僧侶を含めて、各収容施設
から代表を選び出し集会を開催した。すると突然囚人たちが、『チベットに自由を』と
いうスローガンを叫び始めた。未確認情報によれば、近くの監房に収監されていた政治
囚たちも、呼応して叫び出したという。看守たちは、政治囚たちを特に激しく殴打し、
また参加した囚人たちを独房に隔離して報復した。囚人たちの中には、ケドップのよう
にウディトゥ(五治隊)等の他の刑務所に移送された者もいた。ダプチ刑務所の独房だ
けでは数が足りなかったからである。

欧州連合の代表および北京駐在の英国大使、オーストリア大使、ルクセンブルク大使か
ら成る欧州連合の代表団は、5月4日の午前中遅くダプチ刑務所を訪問した。欧州連合
の代表団は、ダプチ刑務所訪問中には抗議運動に気が付かなかった。彼らの公式報告に
は、「緊張した警備の気配も、また特に多くの看守も見受けられなかった」と記されて
いる。彼らは訪問の前に刑務所の内門の外側で各種の説明を受け、刑務所の入り口近く
の監房地区に入って「比較的快適な施設」と評価を下した。その監房地区には、囚人は
全く収容されていなかったが、教育棟や絨毯工場では何人かの囚人に会っている。代表
団は、ツェリン・プンツォクという名の囚人と話をすることを許されたが、彼はデモで
チベット国旗を振って13年の刑を受けたと語った。「彼は大変に不安そうで、最初は
いかなる質問にも全く答えようとしなかった」と、1998年6月に出版された代表団
の報告書には記されている。代表団が話をした囚人は、政治的抗議運動に関わって13
年の刑を受け、1990年にダプチ刑務所に収監された、パンコル・チューデ僧院の僧
侶であると思われる。「代表団が見かけた囚人たちは、全員が比較的健康そうに見えた
」と、報告書は述べている。

欧州連合代表団の報告書が6月17日に発表されると、チベット人権民主センターは代
表団のダプチ刑務所訪問を批判する声明を出した。「ダプチ刑務所の2つの事件を代表
団の目から隠してしまったことは、このような訪問に対する中国の厳しい取締が、如何
に効果を持っているかを示すものだ。欧州連合代表団の報告書が提示しているのは、こ
のようなチベット訪問が如何なる意味を持っているのか、また中国を『対話路線』に引
き込むことができるのか、重大な問いかけを成しているということだ」と、チベット人
権民主センターは語った。

英国外交部の広報官は、事件後にも中国政府に対していかなる懸念を表明するつもりは
ないと語った。「チベット問題に関する持続的な解決の道筋は、チベットと中国の対話
によって最も良く達成される、との我々の考えは変わってはいない。我々は何時でも対
話促進に協力したいと考えている。また人権侵害に対する懸念は、単独ででもまた欧州
連合の国々と共にでも、表明して行きたい」と、広報官は語った。チベット訪問の際に
は、英国が欧州連合の代表権を持っていたが、現在ではオーストリアが握っている。

クリントン、中国の新たなる『寛容政策』を予告

非公式情報によれば、5月4日の事件の際に囚人に対して銃を発射しなかったという。
5月1日の混乱の後、北京の中央政府はラサの刑務所当局に対して、このような事件が
起きても銃と電気ショック棒を使用しないように命令を出した。特に6月25日の米国
大統領ビル・クリントンの中国訪問まではそうだという。

天安門事件以後初めて中国を訪問した米国大統領クリントンは、中国の新たなる『寛容
な』雰囲気を予感したと述べた。「我々は、『人権問題』に関してかなりの部分まで、
公開性と正直さが可能であるとの雰囲気を感じた。人権問題に関する法律と考え方に、
我々の間で違いがあるものの、進歩が見られると思う」と、6月27日北京で開催され
た記者会見で彼は語った。

しかしながら、ダプチ刑務所の主要な政治囚に対する、殺害、殴打、虐待のニュース
が、チベット自治区政府によって抑圧されていなかったら、クリントンの中国訪問に衝
撃を与えたか否かは明確ではない。

クリントン大統領が言うところの公開性は、ラサの状況には当てはまらないようであ
る。5月1日と4日の抗議運動の結果、ラサ市内特にダプチ刑務所では、監視が強化さ
れた。ある非公式情報は次のように伝えている。「5月1日と20日の間、通常の作業
は中止となり、囚人は1人1人取り調べを受けなければならなかった。親族が囚人を訪
問することも、一切禁止となった。抗議運動のニュースが外部に漏れでないように、監
視は一層強化された」このような監視手段の一環として、囚人が釈放された際に情報を
漏らせば報復されるとの脅され、また看守たちも外部でこの話をしたら処罰を受けると
脅されたという。

先週中国政府は、22才の僧侶イシェ・サンテンがティザム刑務所で拷問を受けて死亡
した、とTINが報じたことに対して、『捏造』『真っ赤な嘘』と評した。ガンデン僧
院の僧侶イシェ・サンテンは、俗名をテンジン・イシェと言い、2年間の刑期を終えて
釈放され、6日後に死亡した。釈放された時には、彼の肋骨は2本折れており、松葉杖
を使わなければ歩くことができなかった。TINの報道に応答して、チベット自治区の
司法部門の高官が匿名でロイター通信社に対して、ラサ近郊には刑務所はないと語っ
た。これまでは、公式に設営された刑務所が3カ所あり、その内の2カ所はラサ市内に
あると認めていたにも拘わらずである。

欧州連合代表団の報告書は、司法部門は3カ所の刑務所の名を挙げたと記している。ダ
プチ刑務所、チベット自治区で一番大きな刑務所。2番目はポヲ・タモ刑務所、ラサの
東方300kmにある。3番目は、ラサ市刑務所。ラサ市刑務所とは恐らく、ラサ市内
の囚人を受け入れる、ウディトゥ(五治隊)刑務所のことであろうと思われる。ダプチ
刑務所とウディトゥ刑務所は、ラサの中心地であるジョカン寺から5kmも離れていな
い。司法部門の高官は、ティザム刑務所の存在にも言及している。これは強制収容所と
して知られている『労働改造収容所』のことで、1992年2月に設立されたもので、
ラサ市の西方10kmのトゥルン県に位置している。

司法部門の高官は、ガンデン僧院にはイシェ・サムテンという名の僧侶はいないとも語
っている。このことは、イシェ・サムテンが政府の認定を受けた僧侶ではなかった、と
言うことなのであろう。再教育キャンペーンの際に、僧院に課された定員を越えた僧侶
たちは、認定されないままに僧院に留まっていた。一般的に言って、僧院の講義や食事
・宿泊に同等の権利を持ってはいないものの、外部の援助を受けて僧院内に留まってい
る。イシェ・サムテンは、ガンデン僧院の非認定の僧侶であったと言われている。中国
政府は、そのような僧侶の法名(僧名)を認識してはいないようだ。逆に彼の中国名な
らば、中国政府も確認できるのかも知れない。

また中国政府の高官は、昨年10月の国連人権委員会の恣意的拘束に関する調査団が、
チベットを訪問した前後に講義運動が発生し、囚人たちが殴打されたり独房に入れられ
たという、TINの報道も否定した。囚人の中には、「調査団と面接したために、その
報復を受けた者も、殴打された者も1人いない」と、ジュネーブ駐在の中国大使は調査
団に当てた手紙に書いている。

囚人に対する最近の虐待事件を公式に否定する行為は、虐待の事実を外部に漏らした者
に対する苛酷な報復と一体を為しており、チベットの刑務所において抗議運動が持続的
に発生していることに対する、過剰なまでの政府の不安を示すものである。最近ダプチ
刑務所で発生した抗議運動に対する苛酷な処罰はまた、政治囚と非政治囚が協力し会う
という事態に、政府が全く準備ができていなかったことを示している。今後主要な政治
囚を隔離することが、刑務所内における彼らの影響を排除するための手法になるのであ
ろう。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。
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