28号(1998年7月)

 中国最高位のチベット人役人、パンチェン・ラマの報告を批判


TIN News Update 6 April 1998
China's Top Tibetan Official Criticises Panchen Lama Report

中国最高位のチベット人役人ガポ・ガワン・ジグメは、TINがパンチェン・ラマ10
世の7万字の請願を出版したことに反応し、正確さに欠けるとの強い否定の姿勢を見せ
た。88才のガポは、1951年に交わされた『チベットの平和解放に関する17条の
協定』のチベット側の署名者であり、この協定は中国の支配に合法性を与えようと意図
したものであったことからも、北京政府にとっては象徴的な重要な人物である。彼のコ
メントは英国の記者との対談の中で出て来たもので、中国政府がこの本の出版を認識し
ていることを示している。この文書は以前は共産党の内部文書で、外部では全く見るこ
とができなかったものである。ガポが示した歴史観は共産党の公式見解に沿ったもの
で、彼のチベットに対する立場は変化していないことを示している。

対談の中でガポは、ダライ・ラマ法王が1995年にパンチェン・ラマ11世と認定し
た、ゲンドゥン・チェーキ・ニマ少年の所在に関して、さらなる暗示を与えた。「彼は
勉強しています。おそらく甘粛省で」と、ガポはサウス・チャイナ・モーニング・ポス
ト紙のジェスパー・ベッカーに語った。これまでの報道では、彼は北京かあるいは彼の
故郷のチベット自治区ナクチュのラリ村にいると言われていた。

1959年にダライ・ラマ法王が亡命をして以来、パンチェン・ラマ10世はチベット
に残った最高位の宗教指導者であり、またチベット政府の首班でもあった。1961年
彼は、秘密報告書を中国の最高指導者らに提出し、1959年の決起後のチベット人の
大量逮捕、過度の処罰、処刑を報告した。この請願の中で、大躍進運動として知られる
中国の政策によって、1960年代の初頭に東チベットで飢餓が広まっていたことを、
目の当たりに見るように記述している。「所によっては、食物が無くなって多くの人間
が餓死した。その結果すべての家庭の家族全員が、死滅してしまった地域もあったくら
いである。これは食物不足によって引き起こされた不自然死であって、全員が餓死者に
数えられるべきものだ。現在のチベット人の人口は、明らかにまた極端に減少してい
る」と、彼は請願の中で書いている。

ジェスパー・ベッカーとの対談の中で、ガポ・ガワン・ジグメは次のように主張してい
る。「私は確実なこととしてあなたに申し上げるのだが、チベットでは唯の1人も餓死
した者はいない。青海省では何人か餓死したと聞いてはいるが、それもどれ位の数なの
かは知らない」。彼がチベットと言うときには、チベット自治区だけを指している。中
国政府はこれまでも、青海省と四川省の一部が飢饉に襲われ、チベット自治区は飢饉に
襲われなかったと述べて来た。

チベット人難民や他の情報源によれば、当時は飢饉がチベット自治区全体に広がらなか
ったとは言え、多くの人々が餓死している。自伝『雪の下の炎』の中で、65才の僧侶
パンデン・ギャツォが、ラサのドラプチ刑務所の思いでを書いているが、当局者は餓死
者が出たことを認めようとはしなかったと言う。囚人が餓死した場合には、唯単に「息
が絶えた」と表現されたと、パンデン・ギャツォは述べている。北京の経済制度研究所
が1980年代の初頭に出した報告書によれば、パンチェン・ラマの故郷の青海省では
飢饉で90万人が死亡し、これは人口の45パーセントに当たる。またジェスパー・ベ
ッカーの著書『餓鬼』によれば、四川省では900万人が餓死した。ガポ・ガワン・ジ
グメの息子ジグメ・ガポは、13年間前に亡命し現在は米国に住んでいるが、彼の父は
飢饉を過小評価していると語っている。「飢饉の公式統計数値を得るのは難しいが、飢
餓によって多くの人が亡くなった」と、自由アジア・ラジオのチベット語部門の局長で
ある、ジグメ・ガポは語った。

飢饉に関するガポのコメントは、パンチェン・ラマの請願に盛り込まれた内容を批判す
るものであったが、請願の正当さを否定するものではなく、またその出版を批判するも
のでもない。彼はまた、パンチェン・ラマにその報告書を書かないように促したと、主
張している。この請願が恐らく、彼を政府の攻撃にさらすことになりかねないからであ
ろう。

「もしチベット政策に何か不満があるのならば、中央政府の指導者たちに直接会って口
頭で表明すべきだ。そんな報告書を書けば、彼らに攻撃の口実を与えるだけだ、と私は
彼に言った。私は極めて率直に忠告をしたのだが、彼は聞く耳を持たなかった」と、ガ
ポは語っている。

ガポは共産党員として知られているが、会見の中では党員であることを彼は否定した。
ガポは、文化大革命の最中も共産党員であり続けた数少ないチベット人の1人であり、
共産党員だけで構成されているチベット革命委員会の委員であった。現在彼は、中国人
民政治協商会議の副主席である。政治協商会議は、共産党を支持する非党員組織の代表
らによって構成されている組織で、ガポは特権と社会的な名声を獲得した代表的な人物
であるが、実際には僅かな権力しか持ってはいない。

ダライ・ラマ法王『法を犯す』

チベット語で行われた会見の中で、ガポはダライ・ラマ法王とチャデル・リンポチェの
両者を批判した。チャデル・リンポチェは、新パンチェン・ラマの探索チームの団長
で、1997年に6年の刑を受けて投獄されている。ガポは、彼がリンポチェにダライ
・ラマ法王と接触し、候補者を選ぶようにと助言したことを認めた。「しかしダライは
突然、彼の候補者がパンチェン・ラマの真の転生者である、と発表をしてしまった。こ
れは完全に法に反している」と、ガポは語った。チャデル・リンポチェは、1995年
5月に直ぐに拘束された。昨年伝えられた非公式情報によれば、リンポチェは四川省成
都の北西250kmに位置するロチュの、高官向けの特別刑務所に収監されているとい
う。

中国政府は、59才の僧院長は「国家の統一と民族の団結に重大な脅威を与え、チベッ
トの安定と発展に害を及ぼし、国家を分裂させる犯罪を犯した」と、発表している。ガ
ポは、リンポチェが分裂主義に加担したと直接的に非難しているのではなく、政府の公
式な選定方法である『金瓶籤』を実施することを彼は支持すると発言している。中国政
府は新パンチェン・ラマの選定に『金瓶籤』を実施するように主張し、そうすることに
よって選定手順でのダライ・ラマ法王の役割を否定しようとしている。中国政府がパン
チェン・ラマの転生者として選定した少年、ギャンツェン・ノルブは『金瓶籤』つまり
籤を引くことによって選ばれている。ダライ・ラマ法王は伝統的に、高僧の生まれ変わ
りを選定するのに占いを使っている。ガポはベッカーに次のように語っている。「私は
シーザ(チャデル・リンポチェの中国名)に、完璧にやらなければならないと言った。
彼はダライに手紙を書き、彼に籤を引かせて1人の候補者を選定させるように伝えた。
しかしダライ・ラマは突然、彼の候補者がパンチェン・ラマの真の転生者であると発表
してしまった。これは完全に法に反している。たとえ彼がチベットにいたとしても、そ
んなことをする権威を持ってはいない」

ガポは、彼とパンチェン・ラマは不仲であったとのこれまでの噂を否定するために、パ
ンチェン・ラマとの間には友情があったと語っている。「私は一度も彼を批判したこと
はない。そうする理由がなかったのだ。1964年に、私がチベット自治区設立準備委
員会の主席代理の地位を、彼から引き継ぐ決定が出された。彼らが私の意見を求めた時
に、私にはそれはできないと申し上げた。チベットには僅か2人の活仏しかいないし、
ダライ・ラマはヒマラヤの向う側へ逃げてしまった。パンチェン・ラマをその職から追
放することには、私ははっきりと反対する姿勢を表明した」。ガポはこれまでも、19
62年にパンチェン・ラマが請願を書いた後で、彼がパンチェン・ラマを支援しなかっ
たとの疑いを否定して来た。

ガポは、1950年に中国が侵略を開始した時、東チベット、カムの知事を務めてい
た。チベットを中国人に引き渡した17条協定に調印したことで、チベットの歴史では
評価が分かれる人物である。多くのチベット人は、ハリウッド映画『セブン・イヤーズ
・イン・チベット』に描かれたように、彼を裏切り者として軽蔑している。ハリウッド
映画に対するコメントとして、彼の人間像は『映画制作者のでっちあげ』である、と彼
はベッカーに語った。「私はハインリッヒ・ハラーに、数回しか会っていない。ハラー
がダライ・ラマに英語を教えたことを除けば、何一つとして事実に合致するものはな
い」

『毒矢:パンチェン・ラマ10世の秘密報告書』は、TINで20米ドルで入手可能。
欧州および米国は郵送料金3ドル75セント、それ以外の地域は郵送料金10ドル。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 ドラプチ刑務所内でチベット人に終身刑の判決

TIN News Update, 1 May 1998
Life Imprisonment for Tibetan Sentenced in Drapchi

チベットの高名な囚人2人の判決が変更された、とのニュースがTINに届いた。リン
ジン・ワンゲルは、1995年に政治犯として16年の刑を言い渡されていたが、終身
刑に変更となった。またジャンパ・グドゥプは、民主化要求のデモで拘束されたチベッ
ト人のリストを作成したために、スパイ罪で告発された医師であるが、彼の刑期は3年
間の減刑となった。

チベットからの非公式情報が伝える所では、リンジン・ワンゲルは昨年の10月ドラプ
チ刑務所内において、刑期を終身刑に延長されたと言う。51才のリンジンは、政治活
動に関与した疑いで16年の刑を受け、およそ3年を経過したところであった。現在
は、ラサの東25kmにあるチベット第2の刑務所、ラモ刑務所に拘置されているとの
ことである。その刑務所には、長期判決を受けた政治囚が多く収容されたいると思われ
る。

ダラムサーラのチベット人権民主センターによれば、リンジンの刑期延長の命令は人民
中級裁判所が出したもので、リンジンが高級裁判所に異議申し立てをする前に刑期延長
が認められたと言う。刑務所内でリンジンの刑期変更が行われた理由は判然としないも
のの、政治的な活動を禁止した刑務所の規則を破ったためであると思われる。

国連の代表団がドラプチ刑務所を訪問した直後に、刑務所内で囚人たちが抗議運動を行
ったのと同じ月に、彼の刑期は延長された。1997年10月11日に、国連の恣意的
拘束に関する調査団がドラプチ刑務所を訪問した直後に混乱が発生し、何人かの囚人が
殴打されたり独房に入れられたと言われている。以後ドラプチ刑務所の治安は強化さ
れ、囚人だけでなくチベット人幹部も監視されている。こういった事件が、リンジン・
ワンゲルの刑期延長と何らかの関連があるのかは確認されていない。

チベットの刑務所で政治的な犯罪を理由に、他にも囚人が刑期を延長される事件が数件
起きている。ロレ・ギャッツォは33才の舞踏団の一員であったが、殺人罪で15年の
刑を受けドラプチ刑務所に収監されていた。彼は、1994年3月の刑務所内の抗議運
動に参加して、6年間刑期を延長された。また1990年5月17日、殺人罪で終身刑
を受けドラプチ刑務所に収監されていた2人のチベット人は、刑務所内で秘密の独立運
動組織に加わったとの罪状で処刑された。政府は、ダワとミクマル・タシが逃亡を企て
たと説明をしたが、TINが入手した裁判所の内部文書によれば、政治活動を行ったた
めに死刑判決を受けたものであることが判明した。

リンジン・ワンゲルは、ラサの電気部門の元建設作業員であったが、地下活動を組織し
た疑いで1967年から1983年まで、既に長期に渡って刑に服したことがあった。
後に彼は、チベット語と中国語の能力を買われて、地理部門に職を得た。しかし『悪し
き政治的見解』のために、その職を追われセメント工場の労働者に格下げとなった。1
995年8月に彼は再び逮捕され、1995年9月1日のチベット自治区成立記念式典
を妨害しようとした、政治運動に加わったとして告発された。彼は3カ月後に、判決を
言い渡された。

1996年春リンジン・ワンゲルは、重病でラサ人民病院に入院した妻のソナムに面会
する許可も拒絶された。最近の非公式情報では、彼女はまだ生きているが、健康状態は
非常に悪いと言う。

リンジン・ワンゲルの兄のツェドールは、地下活動を組織したとして告発され、197
0年に処刑された。また彼の義兄カルマ・ゲレックは、1994年以来投獄されてい
る。

ジャンパ・グドゥプ

ジャンパ・グドゥプは53才の医師で、独立要求デモで負傷したり逮捕されたりしたチ
ベット人の氏名を書き写して、1990年に13年の刑を受けていたが、全部で3年間
の刑期が短縮された。このチベット人の医師は、ラサのドラプチ刑務所に拘置されてい
たと思われるが、1999年10月19日に釈放されることになっている。ジャンパ・
グドゥプの刑期短縮の決定は、最初1年間の短縮であったが、その後2年間の短縮が1
995年に出版された公式文書に記載されていた。『反省の姿勢』を示しているためで
あると、同文書は述べている。1995年以来、中国政府は刑期短縮に関しては全く言
及しないと言われて来たが、ジャンパ・グドゥプは高名な囚人であり、西欧諸国政府や
非政府組織が取り上げたためであろう。

彼はラモ・ヤンチェンという名のチベット女性に、1988年3月5日の独立要求デモ
で逮捕された何人かの人々の氏名を伝えて、有罪との判決を受けた。ラモ・ヤンチェン
は外国人であるので、この医師はスパイ行為に関与していると見なされた。グドゥプの
2番目の罪状は、1988年12月の独立要求デモで負傷したりあるいは逮捕された人
々のリストを書き写し、それもラモ・ヤンチェンに手渡したことであった。彼は、19
89年10月20日にラサ警察に拘束され、1990年8月13日に正式に『逮捕』さ
れるまで、10カ月間も告訴されないままに拘留されていた。政府が決定した新たなる
刑期は、1989年10月20日から1999年10月19日までで、逮捕以前の拘留
期間を除いて全部で10年となった。

1995年の公式文書には彼の健康状態は『正常』と記録されているにも拘わらず、T
INがその年に入手した資料では、水分過多によってむくんでおり、刑務所内で受けた
虐待によって身を支えられなければ歩くことはできない。また結核を病んでいると思わ
れる。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 再教育運動に抗議した『反乱僧院』で15人の僧侶逮捕さる

TIN News Update, 15 May 1998
Fifteen Monks Arrested after Re-education Protest in " Rebellion Monastery "

2カ月前にラサの中国軍部隊と役人たちが、チベット自治区ナクチュ県の片田舎の僧院
に派遣された。3月に実施された愛国教育キャンペーン中に、僧侶たちが独立要求運動
を展開したためであると言う。ソグ郡ロンポ・ラプテン僧院の僧侶たちは、ダライ・ラ
マ法王を非難するように強いられたために、それに抗議してデモを行った。その結果
15人が逮捕されたと伝えられている。

ラサから中国軍の部隊と40人以上の政府役人が僧院に派遣されて、チベット自治区政
府の副書記でありまた中国共産党委員会の委員でもある、ソナム・ドルジェを主任とし
た工作班に合流した。僧院は最寄りのロンポの村からでも車で4時間かかり、四輪駆動
の車か馬によってしか近付くことができない。そのような辺鄙な地にある僧院に、派遣
された人数とその地位を見ると、チベット政府がこの事件に対して抱いている懸念の大
きさが良く判る。また中国政府に反抗的と考えられている僧院での、再教育キャンペー
ンの進捗状況も伺い知ることができる。

TINに届いた複数の報告によれば、僧侶たちが役人の幾つかの質問に答えるのを拒否
すると、今度はダライ・ラマ法王に対する意見を個々に問われ、法王に反抗することは
できないと答えると、逮捕すると脅されたと言う。「私は僧侶であって、ダライ・ラマ
法王はチベットの師僧(ラマ)である。僧侶が師僧に反するならば、僧侶の戒律を犯す
ことになる。これは仏の教えに反することだから、私はそんなことをしたくない」と、
1人の僧侶が再教育工作班の役人に答えた。そして、ロンポ・ラプテン僧院の20人か
ら30人の僧侶並びに、ソグ郡の別の僧院ソグ・ツォンデン僧院の数人の僧侶が、僧院
の外に集合してスローガンを叫んだ。「チベットに自由を」とか「ダライ・ラマ法王万
歳」と叫んだと、伝えられている。この事件が起きたのは、3月の第1週と第2週のこ
とであった。

非公式情報によれば、ロンポの僧侶たちは以前に僧院に派遣された工作班が、僧侶の数
を限定したことを認めなかったと言う。1996年5月、政府はおよそ400人の僧侶
の内僅か150人にしか、僧院に残る許可を与えなかった。それ以外の僧侶たちは、僧
院の施設を使うことも、講義に出ることも許されないこととなった。1997年3月、
中国が課した定員をはみ出した、250人の僧侶はまだ僧院に残っていた。「僧侶たち
は(工作班)に対して悪い態度で対応し、中国人役人の講義に耳を傾けなかった」と、
同僧院を去って後に亡命をした僧侶は語っている。工作班はまた、僧院内に掲げられて
いたダライ・ラマ法王の写真を取り除くように、ロンポの僧侶らに命じた。しかし、役
人たちは写真を没収しようとはしなかったと言う。1996年10月、中国人役人たち
が同僧院に戻って来ると、再びダライ・ラマ法王の写真に対する警告を繰り返し、「中
華人民共和国に忠誠を誓う」ように僧侶らに促した。数カ月前、今度のデモが発生する
直前、ロンポ・ラプテン僧院の高僧が逮捕され、1カ月間拘置された。その間も、再教
育キャンペーンは進行していた。

1年前に同僧院を訪れた2人の西洋人観光客は、ロンポの僧侶たちの緊張した雰囲気を
伝えている。観光客は写真を撮ることも許されず、一晩僧院に泊まる許可を持っていた
にも拘わらず、地域の役所によってその許可を覆されてしまった。2人の観光客は、匿
名希望ながらも、僧院の『混乱』した状況に言及している。同僧院は1959年に破壊
され、1986年にようやく再建されたものである。僧侶たちは観光客がいることにと
ても神経質になっているようだった、またその時は僧院内にダライ・ラマ法王の写真を
見かけなかったとも、語っている。

ラサの北西およそ400kmに位置するロンポ・ラプテン僧院は、チベット人には『反
乱僧院』として知られている。1959年数百人の僧侶らが中国軍と戦い、軍用機を撃
墜したことさえもあると言われている。1987年ラサで独立要求デモが発生すると、
予想される混乱を鎮圧するために中国軍部隊がこの僧院に派遣された。過去5年間ナク
チュ県ソグ郡では、どこかで繰り返し混乱が発生していた。1996年1月には、ラサ
の北方340kmのツァンデン村で、爆弾破裂事件も起きている。中国人所有の商店と
回族所有の商店が2軒爆破されたが、犯人として僧侶が逮捕された。「自分たちの自由
を回復するためであった」と、その僧侶は語った。後にこの僧侶は、爆弾事件が中国人
に与えた打撃よりも、チベット人に対する報復が与えた苦しみの方が大きかったことを
認める発言をした。

チベット自治区共産党の副書記熱地(ライディ)は、1996年に同地区を訪れた際
に、ソグ郡の困難な状況に言及している。「全体的に言えば、ソグ郡の状況は安定して
いるが、問題が存在している」と、彼は同地区の軍および警察の関係者に語ったと、同
年6月24日のテレビ放送は報じた。熱地(ライディ)は、さらに多くの中国人幹部が
既に同地区に派遣されており、チベット人幹部は新来の中国人たちと良い関係を結ぶよ
うにと呼びかけた。

熱地(ライディ)は1998年3月北京で記者会見を行い、続行中の愛国再教育キャン
ペーンで、3万5千人の僧侶や尼僧が『矯正』されたと述べた。「教育はとても良い結
果を生み出した」と彼は言い、セラ、デブン、ガンデンの3大僧院の状況は安定してい
ると付け加えた。第6回チベット自治区人民大会の第5回会議において、熱地(ライデ
ィ)は自治区全体の僧院や尼僧院で「広範囲にまた深く」実施されている、愛国教育キ
ャンペーンの指導力を強化する必要があると語った。1996年3月以来、少なくとも
5カ寺の僧院が僧侶自身の手によって閉鎖された。その内の幾つかは、キャンペーンに
抗議するために一時的に閉鎖されたものである。また昨年6月には、中央チベットにあ
る田舎の僧院の内、少なくとも3カ寺が愛国教育工作班に協力することを拒否した。

チベットの僧院に派遣された再教育工作班は武器を携帯している、と目撃者は報告して
いる。ラサの北東80kmのディクン地区の僧院に、武器を携帯した再教育工作班がい
たという目撃談が、別々の観光客から2件寄せられている。また1996年には、再教
育の講義は武器を持った私服の役人によって監視されながら行われているとの、多くの
未確認情報があった。ロンポ・ラプテン僧院に軍隊が派遣されたことは、僧侶らの抗議
運動に対して警戒心が高まっていることと、さらなる反抗にはいかなる手段を用いても
対応しようとの決意を示すものである。デモの後に逮捕された15人の僧侶らの行方
は、判明していない。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 ドラプチ刑務所で新たな抗議運動

TIN News Update, 21 May 1998
New Protests at Drapchi Prison

ここおよそ1年間で4回目になるチベット人囚人の抗議運動が、今月(5月)欧州連合
の代表団が刑務所を訪問する3日前に、ラサのドラプチ刑務所で発生した。この抗議運
動の後に殴打されたチベット人囚人が1人病院で死亡したと伝えられている。この事件
は、5月1日に看守らが挙行していた、国旗掲揚の儀式の最中に起こった。同日、さら
に刑務所内でデモが発生したとの未確認情報もある。これは、5月4日にドラプチ刑務
所を欧州連合の代表団が訪問することになっているためであった。

5月1日は、国際的な労働者の祭日(メーデー)であり、また中国の祝日でもある。こ
の日にドラプチ刑務所の国旗掲揚の儀式の最中に起こったデモは、カム出身のアカと言
う名の非政治囚によって指導されていた。兵士や看守のいる場で、他の囚人たちはアカ
に従って「ダライ・ラマ法王万歳」とか「外人はチベットから出て行け」と叫んだと言
われている。およそ60人の政治囚がこの儀式に参列しており、その内の何人かはこの
抗議運動に参加したと伝えられている。信頼できる情報筋によれば、数人の囚人が殴打
され、その内少なくとも2人が病院に運ばれ、その後1人が死亡したと言う。非公式情
報は、抗議運動を解散させるために武装警官が銃を発射し、刑務所の看守らはこの混乱
が外部に漏れれば、彼らは職を失うことになると語ったとのことである。ダラムサーラ
のチベット人権民主センターは、2人の囚人の氏名を明らかにした。カルマ・ソナムと
カルマ・ダワで、2人ともカムの出身で、デモを扇動した疑いで政府によって告発され
た。1人の名前は、おそらくアカの完全な氏名であろう。

またラサの北東近郊のサンギップ刑務所の一角にある、オートリドゥ拘置所でも5月4
日に2度目のデモが発生したとの情報もある。非公式情報では、ドラプチ刑務所で5月
1日の抗議運動に参加した囚人たちは、欧州連合代表団の訪問を前にオートリドゥ拘置
所に移送されたと言う。ドラプチ刑務所から連れて来られたチベット人囚人たちは、看
守らによって中国国旗の前で五体投地をさせられた。TINの情報筋が伝えるところで
は、五体投地は祖国の指導者とチベット独立のために行ったと、囚人たちが主張したた
めに、囚人たちは激しく殴打された。

チベット人権民主センターによれば、欧州連合代表団が訪問した5月4日にも、再びド
ラプチ刑務所で2回目の抗議運動が起こった。第5区画と第6区画の政治囚80人が、
スローガンを叫び、独立要求のポスターを刑務所のあちこちに貼って回ったと言う。中
国人当局者は、デモを解散させるために銃を発射したと、チベット人権民主センターは
伝えている。

この2度のデモが発生したときに、ラサを訪問していた欧州連合代表団は、欧州連合の
代表とオーストリア、ルクセンブルクの駐北京大使と、現在欧州連合の議長国英国の大
使によって構成されていた。彼らの旅行期間中にデモが発生したことを、代表団の団員
たちは気が付いていなかった。彼らのドラプチ刑務所訪問は、元々5月5日に予定され
ていたもので、欧州連合と中国との『人権対話』の一環として行われたものである。

欧州連合による最近のチベット訪問は、3月に開催された国連人権委員会の会議におい
て、欧州連合が中国非難の決議を提案せずまた指示もしないとの決定を下した後に、認
められたものである。代表団のチベット訪問の日程は、公式報告書が2カ月後に出され
るまで、発表はされないことになっている。

昨年10月、国連の恣意的拘束に関する調査団がドラプチ刑務所を訪問した際とその後
に起きたデモの結果、ドラプチ刑務所の数人の囚人が殴打されまた独房に入れられたと
伝えらえている。囚人たちがスローガンを叫んだ1回目の事件の後、国連調査団が出発
をした後に、2度目の混乱が起こった。

僧侶と尼僧がドラプチ刑務所の抗議運動を展開

昨年の夏以来、さらに2度の抗議運動がドラプチ刑務所の中で発生していたことが、T
INへの情報で判明した。1度は、1993年以来投獄されている尼僧イェシェ・チョ
デン、23才によるものであった。1997年7月、香港返還の記念式典の最中に、イ
ェシェ・チョデンが独立要求運動を展開し、彼女は独房に入れられた。その後、イェシ
ェ・チョデンの仲間の尼僧5人がそれに抗議して、ドラプチ刑務所の中でハンガー・ス
トライキを実施した。しかし5日後に、刑務所当局が介入して、無理やりハンガー・ス
トライキと中止させた。

6人の尼僧は、イェシェ・チョデン、24才のチミ・ワンモ、24才のペンドル、24
才のヤンドル、27才のイェシェ・チェザン、24才のイェシェ・クンサンで、全員が
ラサの南西60kmに位置する、ロカ県のシュクセプ尼僧院の出身である。彼女らは、
1988年に発生したデモの記念日でありまた世界人権デイの前日に当たる、1993
年の12月9日に独立要求デモをシュクセプで実施し、12月11日に逮捕された。6
人の尼僧の内5人は、1997年12月に釈放されたと言われているが、イェシェ・チ
ョデンは刑期延長をされたのか否か判明していない。

1993年の尼僧らの抗議運動は、シュクセプ尼僧院の政治的再教育キャンペーンに引
き続いて起こった。この尼僧院は、歴史的に中国に対する反抗的な姿勢を持っている。
1993年4月、シュクセプで再教育を実施している工作班は、わずか130人の尼僧
だけが尼僧院に残れるとの決定を下した。それは70人の尼僧が、出て行かなければな
らないことを意味していた。1993年12月にインドに到着した尼僧はが伝えるとこ
ろでは、シュクセプ尼僧院の尼僧たちは、政治的再教育キャンペーンの受け入れがたい
非人間性に対して抗議することを決定した。「彼らは、ダライ・ラマ法王を侮辱する文
面を私たちに手渡しました。しかしその年は、以前よりももっともっと厳しかったので
す。私たちは抗議を続けて来ました。とくに3月10日(1959年の決起記念日)に
は、強力に抗議しました。その結果集会のときに、彼らは私たちの先生にもう宗教を教
えてはいけないと言ったのです。彼らと軍隊が言ったことしか、教えてはいけないと言
ったのです」と、思い出を語っている。

今年の2月、ドラプチ刑務所で2回目の抗議運動が起こった。2月27日が今年のチベ
ットの新年に当たっており、チベット人囚人もテレビを見ることを許されたのであっ
た。非公式情報によれば、1人の僧侶と2人の尼僧が仲間が集合をするこの機会を利用
して、スローガンを叫んだ。この抗議運動を展開した3人の囚人は、刑期延長をされた
ようだと、非公式情報は伝えている。米国の宗教家の代表団が、4日間に渡ってチベッ
トを訪問し、ドラプチ刑務所で囚人たちとも面談をしたが、彼らがチベットを出発した
翌日にデモが発生した。しかし、この2つの事件に関連性があるか否かは判っていな
い。

ドラプチ刑務所内の事件の後に、刑期延長の判決を受けた囚人は、ここ数年でも他にも
何人かいる。1993年6月には、幾つかの尼僧院出身の14人の尼僧たちが、密に刑
務所に持ち込まれたテープレコーダーに歌を吹き込んで、刑期を2倍あるいは3倍にさ
れた。歌はダライ・ラマ法王を賛美するものと、家族に宛てた内容であった。尼僧の1
人ガワン・サンドルは、役人が部屋に入って来た時に立ち上がらず、ベットを片付け
ず、懲罰の最中にスローガンを叫んで、9年間刑期を延長された。ガワン・サンドルの
刑期は、全部で18年間となっており、2010年に33才で釈放されることになる。

1991年28才の僧侶イシェ・ガワンは、5年間の刑を受けてドラプチ刑務所に服役
中であったが、刑務所の状況を書き記した手紙をを親戚に手渡そうとして捕まり、9年
間の刑期延長となった。ドラプチ刑務所に収容されていた他の囚人によれば、彼は事件
の後に『激しい拷問』を受け、親戚も外に連れ出されて殴打されたと言う。34才のデ
ブン僧院の僧侶ガワン・ペルカルは、囚人の詳細なリストを作成し、釈放されるときに
それを持ち出そうと準備していて捕まり、6年間の刑期延長となった。

以上

(翻訳者 小林秀英)

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 チベット政府指導部の再編:政協委員除名さる

TIN News Update, 4 June 1998
Reshuffle in Tibet government: committee members expelled

先月(訳注・5月)の第7期チベット自治区人民代表大会後のチベット自治区におけ
る指導部の再編で、ギャルツェン・ノルブにかわって、54歳のチベット人レグチョが
、チベット自治区人民政府主席に就任した。レグチョの起用は、チベット自治区人民
代表大会常務委員会主任に再選されたライディの主導権をさらに強化するものだ。66
歳のギャルツェン・ノルブが公職を退いたのか、あるいは別のポストに転任すること
になるのかは明らかではない。

4月にチベット自治区中国人民政治協商会議(CPPCC)から2人のチベット人委員が
除名されたことは、ライディの「あらゆる階層の党員と幹部を浄化」するキャンペー
ンの継続と、個人的な意見でさえも考慮に入れられるだろうという他の公務員・党員
に対する警告であると見られている。ドルジェ・ダムドゥルとプンツォは「チベット
の安定に害を為し、政協会議の規則に著しく反する」とされる活動のために政協会議
から除名された。


新しいチベット自治区人民政府主席レグチョ(中国語で列確[リェチュェ])と、60
歳のライディの親密な関係は、1980年代に2人が自治区政府の「組織」部でともに働
いたときに深まった。この重要な政治的部署は党員や幹部の記録を監督しており、当
時の部長というライディの地位と、レグチョの副部長という地位は、2人が党の全面
的な信頼を得ていたことを示している。以来、先月の昇進にいたるまで、レグチョは
中国共産党チベット自治区委員会副書記およびチベット自治区人民政府副主席を勤め
ている。

チベット自治区のギャンツェ出身のレグチョは、年長で老練なライディよりも11年遅
れて1971年に共産党に参加した。それまで彼はギャンツェで小中学校の教師を7年間
務めていた。その時期のほとんどは文化大革命期間中で、大学は閉鎖されていた。学
校はまだ開いていたが、1966年から1976年にかけての文化大革命の間、学校で教えら
れていた科目は事実上政治学習のみだった。

1973年から1975年まで、レグチョは中国共産主義青年団のギャンツェ支部で書記を務
めた。彼の重要な2つの昇進は、チベット自治区党委員会組織部の監督部門の書記に
任命された1975年と、同部組織部門のトップ補佐に就いた1980年にやってきた。1986
年から1991年、彼の肩書きは、チベット自治区共産党委員会組織副部長であり、1991
年から1994年には、共産党委員会ラサ市委員会の書記であった。

6年前、レグチョは党の主要課題について次のように発言した。「我々は、指導力を
強化し、思想教育、規律、行政、法政および経済といった多くの手法を用いるべく結
集しなければならない」。1992年1月27日、チベット自治区およびラサ市政法委員会
が開いた会議で語ったものである。『西蔵日報』の報道によると、彼は次のように続
けた。「国際事情の変化のため、敵勢力は我が国での“平和的転覆”の実行を急いで
いる。チベットは分裂主義に対する、そして『平和的転覆』に対する闘争の最前線で
ある。したがって、我々は分裂主義活動を厳しく攻撃する効果的な手法を採らねばね
らない」。

レグチョは、今年5月18日にラサで開かれた引継式典で、チベット自治区政府の新主
席として初の演説のなかで、経済問題に的を絞った。彼は、ギャルツェン・ノルブ(
中国語では江村羅布[ジャンツン・ルォブ])を、その指導のもとで「開放と社会主
義的改革」において成し遂げた自治区政府の偉業ゆえに称えた。レグチョの前任者の
指導下における自治区政府による最も重要な成果は、13.2%という平均年間経済成長
率だと彼は語った。チベット・テレビ(西蔵電視台)によると、レグチョは次のよう
に語った。「チベットの農民は連年豊作で、国庫歳入は安定して増加、インフラ設備
は飛躍的に進歩し、人民の生活水準は大幅に向上している」。去りゆくギャルツェン
・ノルブは、新たな指導者に対する通例の祝辞の中で、「革命における勝利を達成す
る基本的な保証」として団結の重要性を強調し、次のように述べた。「自治区政府の
新指導部は、指導部内部の団結を大いに育まねばならない。」

以来、レグチョは、チベット自治区におけるインフラの発展の緩慢さを批判している
。5月23日の中国新聞社のインタビューで彼は次のように語っている。「その地理的
条件ゆえに、チベットのインフラ建設はいまだ緩慢であり、チベットは、資本や優れ
た人材の不足という基本的な問題を抱えているのだということを、我々は(中略)理
解しなけ6czぅclい」。「したがって、人民の生活水準の向上や、持続的で迅速、
健康的な経済・社会の発展は、長い時間のかかる難業でありつづけるだろう」。今後
5年間の目標を述べるなかでレグチョは、いわゆる「3つの基本」すなわち「農業・
牧畜業、基本産業およびインフラを強化し、国営企業、政府組織、および広範な支援
改革の実行という3つの分野での改革を促進することに焦点を合わせた。彼は精神文
化の問題ついては、経済に関する主張の後、演説の最後に追いやり、副次的な重みし
か置かなかったようだ。しかし、分裂主義者に対する思想闘争のチベット自治区当局
にとっての重要性については、中国人民政協会議を含むどの公的機関もが強調した。


政協会議、「有害な活動」のためチベット人を除名

中国人民政治協商会議(CPPCC)チベット自治区委員会からの2人のチベット人の異
例の更迭は、再選された自治区政協主席パグパラ・ゲレー・ナムギェルが主任を務め
る常務委員会の4月27日の会合で発表された。ドルジェ・ダムドゥルは、政協自治区
委員会とその常務委員会から、プンツォは政協自治区委員会から除名された。この除
名の特定の理由は明らかではないが同委員会による政治的説明は、この2人は「チベ
ットの安定に害を為し、政協の規律に著しく反する」活動に関わっていたというもの
だった。

近年例のないこの除名は、当局が幹部の政治的姿勢について強硬な態度を維持し、党
に対して暗に不忠な態度を示す可能性のある、その他の自治区公務員に対する見せし
めを探していることを示している。最近の政協からの最高位で除名されたのは、パン
チェン・ラマ11世探索チームのトップで、後に「国家分裂を企んだ」として告発され
たチャデル・リンポチェだった。1996年5月22日、チャデル・リンポチェは、第6期
チベット自治区政協から追放され、副主席の座を追われた。彼は、6年の刑を受け、3
年間政治的権利を剥奪された。この事件に巻き込まれたチベット人実業家サムドゥプ
も、自治区党委員会常務委員会委員とシガツェ地区共産党委員会書記の地位を失った
。サムドゥプも投獄されたが、非公式情報によると、すでに釈放されたようだ。

今年初頭にラサで開かれた地方組織および専門家工作に関するある会議での演説の中
でライディは、私的にダライ・ラマを支持する幹部の引き起こす「問題」について警
告した。1月10日と11日の会合で彼は、これらの「問題」は、「ダライの分裂主義的
な言葉や行動に心の中で共感して支持する(略)」一部の人々によって引き起こされ
、「あるいは彼らは党員であったり、指導的幹部でさえあるにもかかわらず、心の底
から宗教を何か神聖なものとして、ダライを崇高な人物として尊重している」。1月1
2日の『西蔵日報』で報道されたライディのコメントは、彼が昨年末に打ち出したダ
ライ・ラマに対する「全面戦争」の最新の行動だった。1997年11月26日にチベット・
テレビ(西蔵電視台)で放映された演説で彼は次のように語った。「チベットの最も
異常な状況は、ダライ一派に対する闘争の存在にあることを、我々は理解せねばなら
ない。(中略)我々は全面戦争 −思考と理論、そして思想領域において− をダラ
イとその分裂主義勢力に対して宣言せねばならない。これは、チベットが新たな世紀
に進むための思想的政治的基礎である」。1週間前、11月20日の第5期チベット自治
区共産党委員会の会合において(11月26日の『西蔵日報』にて報道)、自治区規律委
員会書記であるプチュンもまたダライ・ラマに与する幹部を批判していた。

パグパラ・ゲレー・ナムギェル率いるチベット自治区政協会議は、ダライ・ラマを弾
劾してその最近の会合の幕を閉じた。5月16日のチベット・テレビの報道によると、
四川省出身の58歳のチベット人パグパラは次のように語った。「政協委員およびチベ
ットのすべての階層の組織は、ダライ・ラマの正体を暴き批判し続けることにおいて
、明確な態度をとるべきである。ダライ一派の作り出すごまかしと幻想を見抜くよう
幹部や大衆を教育すべく、ダライ一派の反動性を暴く宣伝の指揮を執る党委員会と政
府を支援するために、政協会議の強さを活用すべきである」。

パグパラはまた、中国によるチベットにおける政治政策すべてを明確に支持すること
を期待されている政治協商会議が、チベット自治区の改革と発展において、より積極
的な役割を演じるべきだと述べた。彼は会合の中で、すべてのレベルの政協委員会は
、チベットの経済的民主的発展において積極的な役割を演じるべきだと述べた(5月1
7日新華社電)。

チベット入りする新たな幹部たち

621人の中国人幹部が、チベットでの3年間の任期を終えて内地に帰っていく。5月28
日の新華社電によると、彼らは637人の公務員からなる次の一団と入れ替わることに
なる。新たな幹部らは、チベット自治区の44の市あるいは県で3年間働く。山東省や
上海からの幹部がすでにシガツェに到着している。

最初の一団の幹部らは、昨年のある会議(1997年3月25日)でライディによって「若
く、高い教育を受け、政治的に良質」と評された。1997年4月24日の『西蔵日報』報
道によると、彼はこの幹部たちを「チベットの諸階層の幹部たちに新鮮な血を注ぎ、
新たな活力を与えた」と評した。ライディによれば、1995年から1997年の間、研修の
ために中国の各省に受け容れられたチベット人幹部が507人だったのに対して、615人
の専門家がチベット自治区に送り込まれてきた。ライディは新たな幹部たちの配置を
目的とした会合で次のように語った。「チベット人民が発展し進歩し繁栄することは
、中国の大家族の中で兄弟の民族と堅く団結することによってのみ可能になる」。「
チベット統治と国境戦略のための党の総合的計画を実現するためには、まず幹部・職
員・労働者のチベット導入を実行し、漢族や他の民族の幹部・職員・労働者の、チベ
ットにおける長期赴任と安定した派遣を確保することが重要である」。

内地の政府機関から幹部をチベット自治区のさまざまな地方に一定期間赴任させる公
式の計画は、1994年7月に北京で開かれた第3次チベット工作会議で練られた。この
計画の主な目的の一つは、チベット自治区内での団結を強め、チベットと他省の関係
を深めることだった。5月27日の新華社電によると、1951年以来、11万人以上の幹部
が「チベット支援」の任務に参加した。

以上

(翻訳者:長田幸康)

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 重要な信仰の場を破壊:僧・尼僧、追放さる

TIN News Update, 11 June 1998
Demolition of important religious sites: monks and nuns expelled

現地を訪れた旅行者によると、チベットのラサ近郊の著名な巡礼地で、建物が当局の
正規の許可を受けていなかったと役人に裁定され、中国当局によって寺院と修行場が
破壊された。10年にもわたってそこで暮らしていた者を含む約50人の尼僧と、1人の
仏教の師およびその弟子数人が、破壊作業の間にその場から去るよう命ぜられた。

宗教施設が取り壊されたのは、ラサの北東30kmにあるダク・イェルパでのこと。今年
4月はじめ、タクツェ県人民政府の命令で地元の人夫が作業を行った。その寺院と周
辺の僧院は、僧・尼僧の住む少なくとも6棟の建物からなり、1996年以来、アゾム・
ペロ・リンポチェによって建立されていた。チベットの最も重要な巡礼地の一つサム
イェ・チンプーの修行洞窟群も破壊されたという未確認の情報もある。そして、TIN
はさらに3つの僧院・尼僧院が閉鎖されたことを確認した。


主にカムのゴンジョ出身の多数の弟子をもつチベット仏教ニンマ派の重要な師である
アゾム・ペロ・リンポチェは、その僧院で暮らしていた少なくとも50人の尼僧および
未知数の僧侶らとともに、ダク・イェルパの地を追われたと伝えられている。

アゾム・リンポチェの建てた建物は、1959年に中国がチベットの統治権を握る前に古
い寺院・僧院が存在した正確な場所に建っていなかったために、非公認と裁定された
。未確認情報によると、チベット当局は歴史的な由緒のある場所に建っていない他の
宗教施設についても、許可を取り消しかねない。チベットからの情報によると、中国
当局は、いくつかの僧院について、歴史的起源の形跡を調査している。現在は亡命中
のあるチベット人は次にように語った。「僧院が長い間あったものなのかどうか、そ
して、歴史史料にその名前があったのかどうか、役人が聞いて回っている」。「役人
たちは、当局の僧院再建の許可があるかどうかを知りたがっている。もし許可されて
いないと認めれば、そのときは建物を壊すつもりだ。」

アゾム・リンポチェの寺院は、ある外国人の資金援助を受けていたために、特に反感
をかっていたと言われている。その外国人は、この地域で働いていたことがあり、友
人らから資金を調達した。

アゾム・リンポチェ師は、フルネームをジグメ・トゥプテン・ギャンツォといい、現
在は中国四川省の一部になっている東チベット・カム地方の出身である。チベットの
伝統では、カムの僧侶らは中央チベットを訪れて、由緒ある場所に小規模な僧院や修
行場を設けることで知られている。しかし、1996年以来中国当局は、僧院に入門する
のは地元住民のみに制限するという政策を強いていると伝えられる。

ダク・イェルパ現地の写真には、瓦礫の山、部分的な石壁の跡、仏像、師の肖像写真
、そして瓦礫のなかに明らかに寺院の一部が見られる。破壊が行なわれる前に、住人
たちが重要なものを持ち出す時間も与えられなかったことがわかる。寺院の主要な3
体の仏像である、かの外国人らが寄進したシャキャムニ、観音菩薩、パドマサンバヴ
ァの像も破棄された。しかし、匿名を希望する旅行者によると、その後3体の仏像は
、当局の許可を得ているダク・イェルパの別の寺院に移されているという。

ラサから歩いて1日のダク・イェルパは、8世紀の神秘的存在パドマサンバヴァとそ
の明妃イェシェ・ツォギェル、および10世紀の学僧アティーシャが瞑想をした洞窟が
あることで有名な田園地帯である。それら洞窟群は1959年までは使われており、当時
は、チベット仏教ニンマ派およびゲルク派の信者によって建立された20以上もの僧院
・寺院があり、300人ほどの僧・尼僧を擁していた。

1980年代初頭、中国当局が宗教活動の復活を許した後、一連の小さなラカン(寺院)
とともに、ゲルク派僧によって15人ほどの僧侶を擁する小さな僧院が再建され、主に
ニンマ派の僧・尼僧によって、修行場として使うために64の洞窟があらためて作られ
た。ダク・イェルパとチンプーは伝統的な聖地であり、それぞれの修行場で仏教の修
行をする一人一人は、組織だったグループの一員だった。

4月10日に破壊作業が終了し、約50人の尼僧らが修行場から追放されたにもかかわら
ず、ダク・イェルパにはまだ11人の年輩の尼僧が残っていると伝えられている。チベ
ットからの未確認情報によると、追放された50人の尼僧のうち4人は、そこに留まる
ことが許されないのなら自殺するだろうと言っていたという。中国当局は、外界から
はプラスティックのカーテンで守られた尼僧らの洞窟に、車を送り込んだ。「彼らは
、尼僧たちの手をつかんで洞窟から引きずりおろして車に押し込んでいた」と、TIN
に対して名前を明らかにしたチベット人は語っている。そのチベット人によると、僧
と尼僧らは、中国人当局者に対してサムイェ・チンプーに残らせてくれと頼んで殴打
された。サムイェ・チンプーは、チベット南部ダナン県サムイェの北東約16kmの山間
部の頂上付近にある修行地群である。最近の手入れがあるまでは100人ほどの僧・尼
僧がいたチンプー洞窟群は、中央チベットで最も重要な修行地の一つとされている。
そこは、密教の師グル・リンポチェが魔術的な力を用いてボン教の精霊や土着の妖魔
を調伏した「8つの最高の聖域」の一つである。

同じチベット人によると、3月15日、僧らがサムイェ・チンプーとダク・イェルパか
ら追放された後、2つの聖地の多くの僧・尼僧は、都ラサの聖なる巡礼路リンコルに
詣でるためにラサに向かったという。

ダク・イェルパの15人のゲルク派僧のうち5人は、チベット国旗を所持したりデモに
参加したなどという政治的活動のために1993年以来投獄されており、3人はいまだに
獄中にいると伝えられている。ニンマ派の尼僧の1人トゥプテン・ヤンゾムは、1993
年のデモに参加し、2年の刑に服した。

尼僧が愛国教育作業部隊のために道路工事を強いられる

昨年12月、政治再教育チームがダク・イェルパに2週間滞在したが、形式的な宣誓文
に口頭で同意することしか求めなかったと伝えられている。3年目を迎えた昨今の
愛国教育キャンペーンでは、ほとんどの僧院で、すべての僧・尼僧に文書での宣誓が強
要されている。

僧・尼僧らは、愛国教育キャンペーンが始まる前に、僧院を離れることは許されなか
った。そして、作業チームが到着する前に、僧院に通じる道路を補修する肉体労働を
強いられたのである。

中国当局は、20年前、文化大革命後に宗教施設の建設が再び許されて以来、僧や宗教
施設の数につねに制限を設けてきた。しかし、1994年に開かれた重要な政策会議が「
寺院・僧院の無秩序な建設」をやめさせるよう指示し、それが1996年と1997年のチベ
ット自治区人民政府の年間作業報告に課題として掲げられるまでは、これらの制限は
厳密には適用されていなかった。「第3次チベット工作会議」として知られる1994年
の会議の報告には次のように述べられている。「現在、我々の自治区の僧院・僧・尼
僧の数は民衆の宗教活動を満たすのに十分であり、この事情にかんがみ、我々は忍耐
強く作業すべきであるが、野放しにすべきでない」。

再教育キャンペーンによって、最近さらに3つの僧院・尼僧院が中国当局により閉鎖
されている。チベット人権民主センター(Tibetan Centre for Human Rights and De
mocracy :TCHRD)によると、ラサから12km、トゥルン・デチェン県にあるラコル(
ラゴ)尼僧院が閉鎖された。ラコル尼僧院は、昨年3月17日に、愛国教育集会を指揮
する作業チームが来た後、閉鎖された。TCHRDの報告「門戸を閉ざす:チベットにお
ける宗教弾圧(Closing the Doors: Religious Repression in Tibet)」(1998年5
月22日)は次のように述べている。「1997年3月17日に愛国教育集会を指揮すべくこ
の尼僧院に到着した作業チームの指示に従うことを拒否したため、80人すべての尼僧
が追放された」。

ラツェの町から61km、ブラマプトラ川南岸にある西チベットのジョナン・クムブム僧
院も、愛国教育キャンペーンによってその前年に閉鎖されている。インドのチベット
語放送を聞いているか、「ダライ一派」を知っているか、ダライ・ラマの写真を見た
ことがあるかと、17人の僧侶が僧坊で作業チームの尋問を受けた。現在は亡命中のあ
るチベット人は「僧侶らは尋問され、ダライ一派を批判させようと頭にピストルを突
きつけられて脅迫された」と語っている。未確認情報によると、シガツェ地区にある
ションチェン尼僧院は、尼僧院として4年間機能した後に壊された。中国当局は、19
96年9月に尼僧院を壊すよう命令していたと言われている。この尼僧院は、現地の村
人の寄進によって、村人および尼僧によって建てられたものだった。

昨年11月以来、中国当局は、再建された僧院の数が1959年当時の数を超えていると主
張している。昨年8月8日の国営新華社電は「チベット自治区では宗教は黄金時代を経
験している。僧院・寺院は1781を数え、チベットが平和解放された1951年以前よりも
300以上も多い」と伝えた。しかし、最近TINが発行した内部文書によると、1959年以
前には「チベットには大小2500の僧院」があった。1962年にパンチェン・ラマが書い
た7万語の請願書もまた、1959年の蜂起後に97%の僧院が破壊されたと述べている。

さらなる僧院・尼僧院の閉鎖

チンプーとダク・イェルパの修行者は税金を払わなければならないという、当局が3
年前に出した通告は、多くの修行者に洞窟修行場を去るように強いる手口だったとみ
るチベット人もいる。かつてサムイェに住んでいた尼僧らによると、1996年9月以来
その地域では、僧・尼僧1人から毎月5元(約1ドル)の土地税が徴収されていた。
当局はまた、地元以外から来た者に対しては税金が増額されることになると僧・尼僧
らに警告していた。そして、1997年2月には、この修行地の洞窟に住む僧・尼僧らに
対する登録制度が設けられた。チンプーでは当局は、登録目的のために、僧侶・尼僧
の洞窟それぞれに「戸」番号を与えたと言われている。

2つの聖地からの修行僧・尼僧の追放は、先月チベットから持ち出された、「チベッ
トの3省の人民」と署名のある国連宛ての書簡の中でも触れられている。「チベット
の3省」とは、チベットの伝統的な地域区分、ウ・ツァン(現在のチベット自治区に
含まれる)、カム、アムドを指す。書簡は、中国を含む5つの国連安全保障理事会常
任理事国、コフィ・アナン事務局長、および「清らかな意志をもって懸命に働くすべ
ての人々」に宛てられており、「ダク・イェルパとサムイェ・チンプーの修行者たち
が追放された。僧侶や修行者らの僧坊、勤行堂は(どちらも)完全に破壊された」と
記している。

以上

(翻訳者:長田幸康)

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