26号(1998年3月)


TIN News Update, 4 February, 1998
Refugees Charged by Indian Police for Lack of Papers

チベット難民書類不備でインド警察に告発さる

インドにいる21人の難民が、正式な滞在許可証を所持していなかったために、インド
政府によって投獄された。その中には元政治犯として投獄されていた人も含まれている
と、インド北部のダラムサーラからの報告は伝えている。

拘束された人々は、過去5年間にインドに難民申請をした1万2千人を越えるチベット
人たちと、同じ状況にあった。インド政府から合法的な書類を受け取っていた人々は、
ごく僅かしかいない。今回ダラムサーラで逮捕者が出たということは、インド政府が無
制限にチベット難民を受け入れる積もりはないことを示す、信号ではないかと思われ
る。

過去5年間、毎月平均200人のチベット人が、ネパール経由でインドにたどり着いて
いる。その殆どが、青年か僧侶である。難民の流入が、チベット亡命政府の財政を肥大
させていると言われている。亡命政府は、ニューデリーの北西420kmの元の山岳避
暑地ダラムサーラに拠点を置き、ダライ・ラマ法王と7千人のチベット人が暮らしてい
る。その中には、インドで勉学を済ませて故国に帰ろうという、新たにチベットから
やって来たチベット人たちも多く含まれている。

ダラムサーラで拘束されている21人の人々は、外国人法14条に違反し、正規の書類
を所持せずにインドに入国したとして告発された。もし有罪となれば国外追放になるで
あろうと、この地域に拠点を置くチベット人権擁護団体は語っている。このチベット人
は全員が最近チベットに到着したばかりのチベット人たちで、最近のインドの姿勢から
判断しても、滞在可能となるような書類を合法的に入手することは困難であったのであ
ろう。

拘束された人々の中には、22才の元僧侶ロプサン・ルントックがいる。彼は、中国が
チベット文化を破壊していると、中国を非難するポスターを学校の壁に張り、18カ月
間投獄されていた経歴を持っている。彼は、チベットでの刑期を終えて6カ月後の
1997年6月に、インドに逃れた。

彼は今年1月4日に、ダラムサーラで拘束された。インドの刑務所の待遇は悪くはない
と言われている。しかし彼の友人たちは、彼が拘束されたことも知らされなかったし、
また拘束されて20日過ぎてもまだ面会が許されないと語っている。

拘束された人々は、2月2日と3日に裁判所で事情聴取を受けることになっていた。し
かし、事務手続き上の理由で延期されることになった。法的な申し立ては、チベット亡
命政府によってなされている。亡命政府の内務大臣は、状況が明らかとなると即座にイ
ンド政府の役人と会見し、協議に入った。

「チベット亡命政府は、彼らが釈放されるようにインド政府に働きかけている」と、亡
命政府外交情報部の長官テンパ・ツェリンは語った。

ダラムサーラに拠点を置くチベット人組織『チベット人権民主センター』は、ロプサン
・ルントックの即刻釈放を訴えるアピールを、同市の判事に向けて発表した。「もしロ
プサン・ルントックがチベットに送還されることになれば、彼は再逮捕され投獄される
ことになろう」と、同センターの所長ロプサン・ニャンダックは語った。「彼は最近チ
ベットからやって来たばかりで、インドに滞在するための正規の書類を手に入れられな
いのは明らかだ」と、彼は語った。

1995年12月、3人のチベット人難民がダラムサーラで逮捕され、中国のスパイと
して告訴されたときには、町には緊張感が漂っていた。また昨年12月、1人の男がダ
ラムサーラの通りで、あるチベット人によって射殺された。このチベット人はラサの犯
罪組織に雇われていて、チベットの首都で犯罪組織の一員を殺して亡命しようとした男
に、復讐をするために追って来たのであった。しかし、先月のロプサン・ルントックを
初めとする難民たちの逮捕は、全く寝耳に水で、ダラムサーラでの彼らの活動に問題が
あった訳はなかった。またロプサン・ニャンダックは、逮捕者の中にはスパイの疑いの
ある者は1人もいないと、断言している。

亡命政府の役人たちは、インド政府に対する基本的な感謝の姿勢を強調しており、難民
の多くにチベットに帰るように促していると伝えられている。1997年8月14日の
インド独立50周年記念日には、ダライ・ラマ法王は次のように語った。「インドが独
立を果したこの50年の内、38年間は我々チベット人がインドを第2の故郷として来
た。我々は喜んで迎えられ、世話をしてもらい、この偉大な素晴らしい国の国民と全く
同等の待遇を受けて来た。このことに我々は深く深く感謝する」

ロプサン・ルントック:ポスターに詩を書いて18カ月の刑

ロプサン・ルントックは、彼の故郷のレコン(中国名:トンレン)の町に独立要求のポ
スターを張って、1995年6月に投獄された。レコンは、現在は青海省となっている
チベットの北東部、アムドに位置している。

彼は、「民族の統一を妨害する目的で、反革命のプロパガンダ」を流した罪で、199
6年8月に有罪判決を受けた。

「僧院の様々な伝統も貴重な文化も破壊されている。我々チベット人は、平和を愛する
仏教徒で、平和に静かに暮らしていたのに、中国人は武力や暴力を使って、多くのチベ
ット人を殺しまた投獄した。中国人たちは、我々の貴い文化を抹殺しようとしている」
と、有罪とされたポスターに書かれた詩は語っている。

裁判で、レコンにあるロンボ僧院に所属していたこの僧侶は、彼がこのポスターを書い
たことを認めた。しかし、内容が非合法であることは認めようとはしなかった。「私は
彼らに、ポスターは間違っていないと言った。真実を書くことが、反革命罪になるとは
とても思えなかったが、判決は彼らの手中にあるのです」と語っている。彼は18カ月
の刑を受け、1996年12月にこの刑期を終えた。

ロプサン・ルントックは、取り調べで受けた殴打の後遺症と、獄中で罹った病気によっ
て体調を崩している。獄中では食事を与えられなかったこともあると、報告されてい
る。

ロプサン・ルントックや他の元政治囚を援助しているフランスの支援団体は、ダラムサ
ーラでの逮捕事件をフランス政府が取り上げて、インド政府と協議をするように働きか
けると語っている。「ダラムサーラに逃げて来た人々は、故国で教育を受けることがで
きなかったか、あるいは税金が高くて商売ができなくなったか、または監獄から釈放さ
れても仕事が見つからなかったのだ」と、フランスのチベット人救済委員会のジャン・
ポール・リベスは語った。

昨年は、2200人以上のチベット人がネパールに逃げて来た。1995年度に比べる
と、ちょうど1000人が増加したことになる。ネパールにたどり着いたチベット人の
内、国連高等難民弁務官のカトマンズー事務所が本当の難民と認定した人は、インドに
送られることになる。しかし、インドに行ってからの彼らの資格が曖昧なままである。

1959年に中国がチベットの支配権を握ると、インドは8万人のチベット人を受け入
れ保護した。しかし、インドは国連難民協定の調印国ではない。したがってインドにい
るチベット人たちは、事務手続きの上では、難民の立場を明確に与えられていない無国
籍人ということになる。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 12 February,1998
Secret Report on 1960s Tibet Published

チベット1960年代の秘密報告書出版さる

120ページに及ぶ内部資料が、中国から持ち出された。これには1960年代初期の
中国の政策が、チベットでの大量逮捕、政治犯の処刑、広範な飢餓につながったと書か
れている。

この秘密報告書は、チベット人が『7万字の覚書』と呼んでいるもので、パンチェン・
ラマ10世によって書かれたものである。ロンドンに拠点を置く独立情報組織である、
チベット・インフォーメーション・ネットワーク(TIN)が、本日刊行した。

この報告書は、チベットの現代史を知るうえで最も重要な資料であると考えられてお
り、今回始めて原文の中国語に英語の翻訳付きで、初めて出版されたものである。この
資料は、中国共産党の内部で閲覧されて来たもので、ほんの少数の写本しか存在しない
と思われる。

「現在のチベット人の人口が、極端に減少していることは明白なことだ」と、1962
年に書かれたこの報告書は述べている。飢餓、処刑、大量の獄死が、「チベット民族の
存続にとって大きな脅威となっている。今やチベット民族は、瀕死の状態にある」と、
報告書は述べている。

この報告書を書いた当時、パンチェン・ラマ10世はチベット政府の主席であり、また
その3年前にダライ・ラマ法王がインドに亡命してからは、チベットに残っている宗教
指導者としては最高位の地位にいた。そのパンチェン・ラマが、当時の中国の政策が将
来には宗教を根絶やしにし、チベット人が民族として存在すること脅かすことになるだ
ろうと、危惧している。

1989年1月にパンチェン・ラマ10世が亡くなると、ダライ・ラマ法王と中国政府
の間で論争が始まり、両者は1995年にそれぞれ違った子供を、パンチェン・ラマの
転生化身として認定した。

昨日の新華社電が報ずるところでは、中国政府によってパンチェン・ラマ11世と認定
された子供は、昨日北京の僧院を訪問した。10世が死去した1月28日を記念し、ま
た2月13日がこの子の誕生日に当たり、この子が8才になることを印象づける例外的
な行事となったものである。ダライ・ラマ法王に認定され、また大多数のチベット人に
よって支持されている子供は、1995年5月に中国政府に拘束され、それ以来行方不
明となっている。


『毒矢』

1962年の『7万字の覚書』は、最も広く知られた共産党の内部批判文書である。毛
沢東はこれを評して、「反動的な封建領主から共産党に対して放たれた毒矢」と語った
そうである。共産党の批判文書としては、ペン・ドゥファイ将軍が1959年に失脚す
る原因となった、有名な1万字の手紙を凌ぐ内容と後に判定をされている。

「1949年に中華人民共和国が成立して以来、いかなる中国人もまた少数民族のいか
なる指導者であっても、中華人民共和国の内部でこれ程までに完璧に共産党の政策に挑
戦した者はいない。1962年と1987年に、パンチェン・ラマはこれを成し遂げ
た」と、チベット史と第3世界の民族主義の権威である、ダワ・ノルブ教授はこの本の
序文で書いている。「共産主義時代の後に来る時代を予測する上でも、またチベットの
将来を予測する上でも、この本は重要性を増している」と、彼は付け加えている。

パンチェン・ラマは、この覚書を24才のときに書いた。彼の先生や顧問たちは、この
文書を提出しないように助言をしたが受け入れられず、どうにか共産主義思想を称賛す
る長い文章を付け加えて、批判を和らげるように説得したという。この文書の残りの部
分は、1959年の決起の際にチベット人が無差別に殺戮されたこと、また労働収容所
に数千人のチベット人が投獄されたこと、大躍進政策の結果チベット人が飢餓に苦しん
だこと、また中国の政策によってチベット仏教とチベット文化が脅威にさらされている
こと等を批判する内容となっている。

「(宗教的な教えの)甘露は干上がり、知識は伝えられず、若年層に教育が施されてい
ない。その結果、チベットで栄えていた仏教が、死に絶えようとしている。これは、私
もまた90パーセント以上のチベット人たちも、耐えられない事態だ」と、彼は文書の
中に書いている。

この報告書が提出されてから2年後、パンチェン・ラマは裁判にも懸けられずに、党と
人民の敵と断罪された。そしてその後の14年間、投獄あるいは軟禁されることとなっ
た。

彼が獄中から釈放されて9年後の1987年、チベット人学者たちの内輪の会議で、
『7万字の覚書』では残虐行為の規模を少なめに見積もった、と彼は語っている。「私
は覚書の中で、人口のおよそ5パーセントが投獄されたと述べた。しかし、当時私が得
ていた情報では、人口の10パーセントから15パーセントであった。もし私が本当の
数値を述べていたら、おそらくタムジン(批判闘争集会)で殺されていたであろう」

チベットにおける中国の政策に関して、論争は今も続いている。多くのチベット人たち
は、今度は近代化と漢民族移住を推進する国家政策によって、彼らの言語や習慣が脅威
にさらされていると主張している。「もし民族言語や他の特徴が存在しなければ、民族
の存続も発展もないであろう」と、1962年にパンチェン・ラマは書いている。

パンチェン・ラマは25年前に、チベットではチベット語を公式言語とする、との法案
を通過させるのに成功した。しかし昨年の報告では、役人たちはチベット語とチベット
文化に優位性を与える政策を撤回しようとの動きを強めているという。

『毒矢:パンチェン・ラマ10世の秘密報告書』は、中国語の原文と英語の完訳版を含
む352ページの本である。歴史面ではダワ・ノルブ教授が序文を書き、さらにパンチ
ェン・ラマの生涯年表と、同時期の政策理解の補助となる幾つかの歴史的に重要な文書
を70ページの付録として添付している。

『毒矢』は、1冊12ポンドでTINから販売されている。

同本購入希望の場合は、チベット・インフォメーション・ネットワーク(TIN)に連
絡を取られたい。電話:44-171 814 9011、 Fax:44-171 814 9015. TINの新しいE
メール・アドレスは、< tinadmin@tibetinfo.co.uk > である。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 13 March,1998
Tibet Snowstorm : Aid Agencies and Soldiers Tackle the Crisis

チベット雪害:援助団体と兵士らが危機に対応

西欧の複数の援助団体は、チベットでの救援活動を大規模に展開するように中国政府か
ら依頼を受けた。これは激しい雪嵐に襲われて、数千人の遊牧民や牧童たちが餓死の危
機に瀕しているためである。チベット自治区のナクチュ県に支部を置いているヨーロッ
パの慈善団体は、この地域の20パーセントのヤクが死亡し、数百人のチベット人が病
気や雪盲や凍傷に苦しんでいると推定している。

政府筋の情報では、ナクチュでは苛酷な天候にも拘わらず今のところ死者は出ておら
ず、家畜の被害も対応可能な状態だという。3月4日付けの人民日報は、「共産党中央
と国務院の深い配慮により、また人民と各地に展開する人民解放軍の支援のお陰で、被
災地の人々は自力救済に立ち上がった。そして現在では、人々は災害との闘いに勝利を
得た」と報じている。

ベルギーの慈善団体メディソン・サン・フロンティアズ(MSF)は、2月12日から
14日までアムド地方のナクチュ県で調査を実施し、その結果を月末に発表した。「中
央政府と地方政府および軍隊からの大規模な救援にも拘わらず、今後のことを考えると
救援は十分ではない。我々は苦労の果てに、ようやく被災地との連絡が取れた。何が必
要なのかを我々自身が判定するという条件で、小規模な救援活動を実施しようと考えて
いる」と、同団体の広報官は語った。苛酷な気象条件で同地域に医薬品を運ぶ馬が次々
と死に、その結果医薬品が極端に不足している事態に対処すべく、MSFは援助の手を
差し伸べる計画であるという

90万人の人々が暮らすチベット自治区の40の郡は、昨年9月から今年2月まで続い
た激しい雪と、マイナス30度から40度に達する極寒に大きな被害を受けていると、
チベット自治区の民生部は報告している。3月2日付けの人民日報は、次のように報じ
ている。「北チベットの牧草地の内、40万平方km以上が雪原となった。1030の
村々に居住する260万人の遊牧民が、雪に閉じ込められ、困苦極まっている」

ナクチュ県の6つの郡は、17万人から18万人の遊牧人口を擁していると推定されて
いるが、今回の災害では最悪の被害を受けた。この地域およびガリ、シガッツェ、ラ
サ、そしてロカでは、雪嵐が通常よりも1カ月早く始まった。この結果、遊牧民や牧童
には冬の準備をする時間がほとんどなかった。大部分の人々が遊牧生活のテント暮らし
の最中で、燃料や食料や防寒具を十分に持っていなかった。遊牧民が生活の糧としてい
る、ヤクや羊や山羊は、牧草が深い雪に覆われて、餌を食べることができなくなってい
る。

2月にこの地域を旅行した西洋人がTINに語ったところでは、遊牧民たちは人民解放
軍の救援活動に感謝しているという。しかし必要な救援活動の規模は、地方軍隊の能力
では対応し切れないのではないかと、彼は見ている。「我々は遊牧民たちと言葉を交わ
した。我々の通訳が、彼らのヤクが餓死したなどと言うな、と言ったことに対して、彼
らは怒りをあらわにした。政府が被害を低く見積り過ぎていると、彼らは感じていたよ
うだ」と、彼は付け加えた。同時期にナクチュを訪れた2人目の西洋人は、災害の規模
を考えると西欧の援助団体の救援が不可欠だ、との意見を述べた。

救援、ようやく被災地に届く

2月24日付けの新華社電は、新たに公刊された白書『中国のチベット自治区、人権擁
護を新たに促進』に基づいて、中華人民共和国中央政府は今年1月までに既に、救援資
金として4200万元(490万米ドル、637億円)を計上している、と報じてい
る。また2月21日付けの新華社電は、中国が指名した11才のパンチェン・ラマ、エ
ルデニ・ロプサン・チャンバ・ルンドゥプは、3万元(3500米ドル、45万5千円
)を雪害に苦しむ北チベットの人々を支援するために寄付した、と伝えている。

ラサに支部を置くスイス赤十字は、雪害に襲われた遊牧民たちに、2月に食料と燃料を
配給した。一方、地元の地方政府はイタリアの非政府組織 Comitato Internazionale
per lo Sviluppo dei Popoli(CISP)に救援活動を依頼した。CISPは通常、ラ
サ第一人民病院の緊急医療部門の医療器具の補充と職員の教育を担当しているが、実質
的な欧州連合の救援資金を受けて、雪害の被害に遇った地域に食料と燃料を補給するこ
とになっている。この救援資金が認められたことは、ラサにおける非政府組織の医療活
動を中国政府が認めた兆候と思われる。

英国政府の国際開発部門は3月12日に声明を出し、遊牧民や農民に食料や医薬品を供
給する補助として、25万ポンド(550万円)をベルギーの慈善団体メディソン・サ
ン・フロンティアズ(MSF)に寄付した。英国の寄付金は、青海省の省都西寧からお
よそ100km離れた玉樹(ユシュー、ジェクンド)県の6つの郡で、救援活動を展開
するMSFの資金の40パーセントを賄う。この地域の人口のおよそ60パーセントが
被害を受けており、MSFは食料の配給と医療に重点を置いた緊急援助活動を展開して
いる。1月26日付けの新華社電によれば、玉樹地区では30万頭以上の家畜が死に、
およそ1万人の牧童が極寒のために負傷あるいは病気に罹っているという。

中国の雪害対策

中国の報道は、災害に立ち向かう地元社会の強さと団結に注意を向けている。3月2日
付けの人民日報は、ナクチュの牧童や遊牧民は3000以上の『自助組織また互助組
織』を設立し、アムド郡の5つの村では6軒ごとの家々が『互助会』を組織して、燃料
やワラを節約するために一緒に住み出した、と伝えている。「チベット人は自信に満ち
ており、生産活動を回復し、家屋を修復し、美しい春の到来を待っている」と、同新聞
は報じている。

政府にとっては、雪害も地方政府や軍隊に対する支持を獲得する絶好の機会なのだ。
「災害に見舞われた地域を命懸けで救援する軍人精神は、チベット人の大衆の心を捕ら
えた。チベット人大衆は、心中では彼らにとって大切な人々(人民解放軍)を深く愛し
ていることを、態度で示している」と、3月2日付けの人民日報は報じている。人民解
放軍の兵士らは、酸素の欠乏、寒さ、飢え、疲労にも拘わらず、冬の間中チベットに駐
屯していると、同新聞は伝えている。兵士全員が程度に差はあれ凍傷に罹っているが、
軍が交替の兵士を送っても帰りたがる兵士はいない、とも伝えている。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN Profile, 17 March 1998
Profile : HU JINTAO

胡錦濤の横顔

中国の新国家副主席胡錦濤は、元チベット自治区共産党書記で、チベット独立を求める
デモの鎮圧に指導的な役割を果たし、1989年にはラサに戒厳令を施行した。198
9年1月に彼がその役職に就いて以来、在職中の4年間に、彼は「一方では分離主義を
弾圧し、他方では経済建設を推進する」政策を実行した。これは現在でも、チベットに
対する基本政策となっている。彼がこの期間に示した資質が、彼の破竹の昇進をもたら
すことになったのであろう。

胡錦濤は55才にして、最年少で中共中央政治局常務委員となった。現在では中国共産
党の序列で、第5位に位置付けられているようである。1998年3月16日、全国人
民代表大会で副主席に選出されたことは、江沢民主席の後を継ぐ『第4世代の後継者』
となり得る、との示唆であると解釈されている。

元々は中国東部の安徽省の出身で、共産党青年同盟で政治活動を始め、1984年11
月にはその最高指導者に登り詰めた。当時は、彼は「柔軟で力づくでなく、むしろ開拓
精神に欠ける」との評価があった。しかしながら、穏健派と見なされていた保守派の長
老・宋平や胡耀邦に、彼が好印象を与えたことは明らかである。胡耀邦と喬石の支
持を得て、1985年9月には中共中央委員会の常任委員に昇進した。またその年に弱
冠42才で、貴州省の共産党書記に抜擢され、1988年末にチベット自治区の共産党
書記の座が空席となるまで、その役職に就いていた。

共産党中央は、当時のチベット自治区の共産党書記伍精華の後継者をどうする
か、暫く前から考えていたようである。伍精華は、チベット自治区の漢族幹部の
数を減らしてチベット人幹部を増やすという、胡耀邦の政策を忠実に実行していた。し
かし、1987年9月と10月にラサでデモが続発し、さらに1988年3月にもデモ
が発生した。チベット独立運動が高まりつつあることは明らかであった。これは胡耀邦
の期待を裏切る結果であった。伍精華は、1988年6月心臓発作で倒れた。老
齢に鞭打ち、酸素の少ない高地で過重な労働を続けた結果であり、彼は北京に帰ること
となった。

胡錦濤は1989年1月、チベット自治区の共産党書記に就任した。彼が指名された経
緯については、幾つかの異なった話が伝えられており、彼だけが応募するように促され
たものなのか、あるいは彼を含めて複数の候補者を共産党が立てたのかははっきりしな
い。しかし彼に好意的な解説によれば、この役職に就く意志を『恐れることなく』表明
したのは彼だけであったという。1992年12月に、香港のジャーナリストのタンタ
イが彼を、「戦闘任務を求める兵士のようだ」と評している。この任命が左遷人事だと
見る人達もいたが、勇気を持ってこの任務を引き受けたことが、その後の彼の昇進の基
盤を作ったことは間違いない。

チベット自治区の指導者になった者の中で、民間人出身の政治家は胡錦濤が最初であっ
た。彼は元々、水力発電所の技師であった。中国政府が、仏教僧侶や尼僧を取り締まる
のに、厳格な軍人の指導者を送らなかったことに、驚きを示す解説者たちもいた。当時
のロイター電は、彼を『若き改革者』と評していた。また外交官の中にも、彼が「善良
で人間味豊かな人間であり、とても良い選抜だ」と評している人達もいた。

彼が就任して間もなく、チベット歴の新年に開催される『大祈願祭(モンラム・チェン
モ)』への参加を、僧侶たちが拒否する姿勢を見せた。胡錦濤がチベットに到着した直
後の、1月28日(太陽暦)にパンチェン・ラマ10世は亡くなった。それがデモや独
立要求運動に拍車を掛けることとなった。胡錦濤は、『民族独立運動を厳しく弾圧す
る』との共産党中央の基本政策、および中央の個々の指令を適切にまた決然と実行して
いる、との姿勢を見せた。報道管制が敷かれた。3月5日および6日には、武装警察は
デモの参加者に向けて催涙ガスと銃を発射した。そして翌日の1989年3月7日に
は、戒厳令が布告された。

これらの対応によって次第に、胡錦濤は陳雲やトウ小平に好印象を与えるように
なっ
ていた。1989年5月と6月に、天安門広場で学生達がデモを展開した際にも、ラサ
は厳しい戒厳令下に置かれていた。そして6月4日に天安門広場に戦車が導入される
や、胡錦濤は共産党中央委員会に電報を打って、『戒厳政策』への強い支持を表明した
と伝えられている。

チベットにいる間に胡錦濤は、「一方で分離主義を抑圧し、他方で経済建設を実行す
る」政策を定着させた。1989年12月、チベット自治区共産党委員会の準備会議の
席で彼は演説し、1987年以来ラサで続発しているデモは、「祖国を分裂させ、共産
党に敵対し、社会制度を転覆すること狙った激しい戦闘」であると述べている。彼は続
けてさらに、「チベットは、現在2つの大きな問題に直面している。1つは、分離主義
を抑え込むことが、厳しい状況であること。国際的反動勢力に支援されたダライ一派
は、『チベット独立』に関する大勢の意見を作り上げ、あらゆるルートを利用して自治
区に忍び込み、新たな暴動を画策している。もう一つの問題は、チベットの経済的な基
盤が脆弱であることだ。経済発展に大きく遅れを取ってしまっている。だからチベット
の状況を安定させることが、チベットにおける政治の第1の仕事である」と語ってい
る。

天安門事件の数カ月後、胡耀邦と趙紫陽の政策は共産党内部で厳しい批判に曝され
た。『ブルジョア自由主義』の脅威に対して、姿勢が弱過ぎたというのである。共産党
は現在も、経済再建を最優先させている。しかしチベット自治区では、胡錦濤は分離主
義との対決を最重点課題に据えて、北京の強硬路線派の間では得点を稼いだ。1990
年10月、彼はチベット軍区中国共産党委員会の第一書記を兼任することになった。

胡錦濤がチベットでの役職に就いている間、実際にどれだけの時間をチベットで費やし
たかは明らかではない。彼は前任者たちと同じように、高山病に苦しんでおり、チベッ
トの風土に順応するのに困難を感じていた。1990年10月、彼は北京で生活するた
めに帰還したと伝えられている。1992年3月、彼は幾つかの現実的な理由で、チベ
ット自治区共産党書記の座を現在の陳奎元に譲った。しかし陳奎元は、1992年12
月まで、正式にその役職に任命されなかった。その間に、胡錦濤は既にもっと高い地位
に昇進していた。1992年10月、宋平と喬石の推薦によって、中共中央政治
局常務委員に任命されていた。

以上

(翻訳者 小林秀英)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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