23号(1997年11月)


TIN News Update, 11 September, 1997
Hospital Delays Injured Tourist's Evacuation

怪我をした観光客の退院を病院が遅らせる

ラサのある病院の医療事務官が、8日間の入院費用として1万1000ドルが支払われ るまで、大怪我をしたフランス人観光客の退院を拒んだ。

中国から飛来した緊急医療班は、待機するジェット機を2日間も待たせたまま、 米国内の観光客の友人らが病院の費用支払いを保証するまで、病人を運び出す許 可が得られなかった。

8月20日に緊急医療班がラサに到着したとき、56才の病人アン・シャードは 骨盤骨折で6日間も無意識の状態であった。

無意識状態の病人は、特別な医療施設で治療を受けないと、脳障害や死に至る危 険性がある。特別な医療施設は、チベットにはなかった。また骨盤骨折は、治療 を受けないと致命的な2次障害を引き起こす危険性があると、医者も指摘してい る。

シャード女史は、西蔵人民病院に入院していた。そこはチベット人でも中国人で も、最初に2000元(240米ドル、約3万円)の保証金を収めないと、入院 を許されない。これはチベットの首都の住民の平均年収のおよそ半分に当たる。 都市部の病院では、ほんの数例の治療法だけが政府の補助を受けることができる。 例えば人民病院では、堕胎は僅か10元(1.2米ドル、152円)しか掛から ない。

シャード女史は、彼女の旅行を請け負ったチベットの旅行代理店が事故現場から 彼女を救出し、自主的に5000元(600米ドル、76200円)の保証金を 病院に納めて、ようやく人民病院への入院許可を得ることができた。

今年ラサ第1人民病院に、緊急医療センターが開設された。イタリア政府の援助 で、医療設備、救急車、また医療班の訓練に28万米ドル(3556万円)を要 したという。

「1年に渡って我々の専門家が、地元の医療関係者と一緒に働いた結果、地元の 医療管理部門は支払いよりも医療に優先権を与えることに同意した」と、イタリ ア医療援助チームのジアンルカ・ファルステリは語った。同医療援助チームは、 イタリア外務省が企画したプロジェクトを実行している。「しかしながら、法律 が完全に適用されていないところにまだ問題が残っている」と、彼はTINに語 った。

「私たちは、原則的に地元のチベット人と新たに入植して来た漢民族の両者に利 益が及ぼすプロジェクトを立てた」と、イタリアの海外援助担当部門である、イ タリア外務省の開発協力機構総裁に近い筋は述べた。

「しかし、中央の行政機構を占めているのは中国人であることを考えに入れなけ ればならない。行政機構が資金を使う決定権を握っているのですから」と、彼は TINに語った。

事故

シャード女史は、チベットで短期間の団体旅行に参加した後は、3週間単独で旅 行していた。彼女は、8月13日ラサの北方250kmのナクチュ近郊で、無意 識状態で発見された。彼女は交通事故で怪我をしていた。しかしどういう状況で 事故に遭ったのかは、これまでのところ説明がなされていない。

8月22日支援者らによって入院費用支払いの保証がなされると、彼女は西蔵人 民病院を退院し、直ぐに香港の病院に昏睡状態のまま運ばれて治療を受けた。シ ャード女史は、保険で搬送費用を賄ったが、入院費用は保険が効かなかった。現 在はパリの病院で治療を受けているが、感覚は反応を示すものの、現在も意識は 戻っていない。

「シャードは、強い脳しんとうによって脳に障害を受けており、過去数日に渡っ て殆ど回復してしない」と、8月22日に彼女が到着して以来治療に当たった、 香港の聖テレーザ病院のイェー・テイン・カン脳神経外科医は語った。「現段階 では、彼女の脳神経がどこまで回復するか予測するのは難しい。回復に時間が掛 かるということだけは、間違いがない」と、彼は付け加えた。

彼女の搬送は、フランス大使館の介入によって、アジア緊急援助隊(Asia Emergency Assistance)の手によって行われた。この組織は、中国人民解放軍も 出資する共同ベンチャー企業であるという。「我々はとても心配した」と、アジ ア緊急援助隊のロバート・コンドン医師は語った。彼はシャード女史をラサまで 迎えに行き、成都経由で香港に着くまで機中で治療に当たった。「我々は諸外国 の国籍を持つ人々の搬送を、様々な状況で行って来た。しかし今回は、必要な物 資の補給を受けるという点で、最も困難な事例であった」と彼は語った。

ラサの人民病院には酸素マスクがなく、通常そういう機器はラサの軍事病院にだ け備えられており、酸素は鼻のチューブを通して供給されていたという。

「鼻のチューブを通して酸素を供給するのは、このような状態にある患者には不 十分なのです」と、ケンブリッジのアデンブルック病院の脳神経専門医、ピータ ー・カークパトリックは語る。「このように頭部に重大な障害を受けた患者は、 一刻も早く脳神経専門病院に運ぶ必要があります。治療の遅れは取り返しがつき ません」と、彼は続けた。

ラサ人民病院にはレントゲン装置があったが、全くエックス線を放射しなかった、 とシャード女史を迎えに行った香港の医療スタッフは語る。ラサの医者は、患者 のカルテを全く提供できなかったし、おまけに彼女の荷物も消えていた。

8日間の入院費として病院は1万ドル(127万円)を請求し、請求書はシャー ド女史の保険会社ワールド・ワイド・アシスタンスの北京事務所に送付された。 「ラサ人民病院の医療費を速やかに支払うとの保証をしなければ、明日患者を搬 送することはできそうもない」と、保険会社は彼女の搬送の遅れを問い合わせた シャード女史の友人らに回答した。「西蔵人民病院が請求している医療費は、現 在8万元(1万米ドル)である」と、保険会社は8月21日に回答している。

翌日、ワシントンに拠点を置く団体『チベット国際キャンペーン』は、以前彼女 が時々ボランティアとして働いていたこともあり、病院の費用を支払うとの保証 をした。この時、医療費は緊急搬送に応ずるため、1万1千ドル(140万円) に上がっていた。

この団体と彼女の友人たちは、患者をラサの病院まで搬送する費用と彼女が入院 中に受けた投薬の費用として、さらに3500ドル(44万4500円)を支払 い、香港の病院に入院する費用として5000ドル(63万5000円)を支払 った。

中国の最高級の病院で外国人が請求される治療費は、典型的なもので1日100 0元(120ドル、15240円)であると、先月成都の病院に入院していた西 洋人は語った。しかし、集中治療はもっと高いであろうという。

『チベット国際キャンペーン』は、シャード女史のラサと香港の医療費のために 基金を設立し、現在も掛かっている費用に対応しようとしている。フランスと米 国の政府は彼女の搬送に協力し、医療搬送会社も彼女をフランスに搬送する費用 を請求しなかったと、この団体の広報担当ジョーン・アッカーリーは語った。

シャード女史は、米国のバージニアに住むフランス国民で、フランス語と英語の 通訳として働いている。近親者はおらず、長期間の治療が必要と思われる。

観光に潜む危険

チベットを旅する観光客は、特に高山病に罹る危険と事故に遭遇する危険に直面 する。危篤状態に陥った観光客を搬送する手段は確立されていない。

チベット観光を斡旋する西洋人観光業者たちは、急性の高山病で年間1人が亡く なると見積もっている。もし僻地で病気になれば、患者の死亡は避けられないと いう。また地元の医者や観光局の役人が、搬送を厭がる場合も起こり得るという。

「中国の医療訓練は、緊急の場合を想定していないのです」と、チベットから何 度か患者を搬送したことのある、経験者は語っている。「重体の患者に対する対 処法が、存在していないようです。同伴者か地元の友人が、飛行機で搬送するこ とを強く主張しないといけません」と、匿名希望のこの西洋人は語っている。ラ サの主要な病院から観光客に請求される金額は、極端に高額で、1日1000ド ル(12万7000円)位であることが多いと、彼は付け加えた。

1991年8月に、西蔵人民病院に高山病で収容されていた英国人が亡くなった。 彼の場合には、入院していた3週間の間、西洋人の医師が彼を成都に搬送するよ うに要請していたが、病院の医師が脳浮腫を起こす危険性はなく、回復すると主 張して搬送の要請を受け入れなかった。

「彼の唇も、鼻も、爪も真っ青で、喘ぐような呼吸をしていました」と、78才 の患者(彼自身医者である)を人民病院に見舞った米国人観光客は語る。「私た ちは、酸素ンベを調べてみました。既に空でした。看護婦たちにも危機感はあり ませんでしたと、彼女はこの患者のことを語っている。患者は、5日後に脳浮腫 で亡くなった。

急性の高山病は、患者を低地に降ろすことによってのみ治療が可能になる。また 多くの場合、前兆症状が現れるものである。

翌年、スイス人女性が同様に危篤状況に陥った。北京のスイス大使館が西洋人か らこの話を聞き、患者を搬送するために医療チームを送り、地元の病院を説得し た。また昨年11月、同様の状況でドイツ人観光客が死亡した。彼女が加わって いる観光団が、高山病の症状の出ている彼女を、付き添いも付けずに病院に置き 去りにしたためであった。

公式資料によれば、昨年は1万2千人の外国人、および2万人の国内観光客がチ ベットを訪れた。地元政府は、今年は数を倍増したいと願っている。中国の道路 は比較的危険である。1995年に中国で発表された統計資料によれば、交通事 故で怪我をした人の29パーセントは、30日以内に死亡している。その比率は、 インドに比べて59パーセントも高く、また米国の23倍に当たる。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update / 8 October, 1997
- Travel Restrictions Target Americans -

旅行制限アメリカ人を標的に

 アメリカの下院議員が身分を隠してチベットを旅行して以降、現地からの非公 式報告によれば、ラサのあるホテルが外国人に対して閉鎖され、アメリカ人に対 する旅行制限が行われている。

 暴徒鎮圧用の装備をつけた武装部隊がラサの通りをパトロールしていることが、 チベットから戻った旅行者により報告されており、北京で開催された5年毎に開 催される共産党大会の期間中に不穏な動きが起きないように治安体制が強化され ていたことがうかがわれる。先週はラサで大規模な暴動が起きてから10周年を迎 え、チベットでの独立支援運動の動きが再び現われている。

 ネパールの旅行会社からの情報では、ラサのキチュホテル(吉曲飯店)に対し て、9月22日、外国人が宿泊することを禁止する命令が出された。 またラサに 個人旅行者として滞在していたアメリカ人に対しても、9月末までにチベットか ら出るように通告がなされた。この日以降、ラサのアメリカ人旅行者に対しては ビサの延長が行われなくなっている。

 この制限はアメリカ下院議員フランク・ウルフ氏が、協力者と、チベット語に 堪能なアメリカ人とともに、旅行者として8月9日から旅行者として数日間チベ ットに滞在して物議を醸したことと関連があるものと考えられる。ウルフ氏はラ サ滞在中キチュ・ホテルに滞在し、8月20日にはワシントンで記者会見を開催し、 自分のチベット旅行について発表し、チベットに対する中国の政策を批判した。

 中国の公式報道機関は、ウルフ氏のチベット旅行について、少なくとも8本の 記事を配信し、「中傷屋」と彼を呼び、人権侵害に関する批判を「悪意の攻撃」、 「センセーショナルなウソ」、「はったり」等と述べている。

 8月23日、新華社が伝えるところでは「共和党の下院議員のフランク・ウルフ は最近旅行者を装ってチベットに潜入し、チベットの4日間の滞在について、セ ンセーショナルな発表を行い、チベットが中国に『飲み込まれ』つつあり、たく さんの人が逮捕され、暴虐な抑圧が行われ、チベットの言語や文化が破壊されつ つあるのを自分は見た、と述べた」となっている。

 先週、外国人滞在禁止により、キチュ・ホテルから出てゆくことを余儀なくさ れた旅行者は、これがウルフ下院議員の問題と関連があると確認しており、キチ ュ・ホテルは向こう3ヶ月外国人滞在が認められないだろうとのことである。

 匿名を希望するある欧米の旅行者は「ウルフ下院議員のチベット訪問で、ホテ ルは閉鎖された、と伝えられた」と述べている。

 ある西洋人旅行者は、2人のアメリカの映画撮影者が、旅行者としてチベット を旅行していたが、2週間前にキチュ・ホテルにやってきたことから、状況がや やこしくなった、と述べている。公安は、キチュホテルに外国人滞在禁止を申し 渡す前の日の深夜に手入れを行ったが、これは明らかに旅行者としてチベットに 入域した映画撮影者を疑ったものである。

 少なくとも欧米から6つのグループがチベットを訪問し、チベットの状況につ いてのヅキュメンタリーや特集フィルムを撮影したことが知られており、ダライ・ ラマの家庭教師、ハインリッヒ・ハラーについてのハリウッド映画が今日公開さ れ、この点に関する商業メディアの関心の波が一部続くことものと考えられる。

 過去4年間に数回にわたりラサを訪問している欧米からの旅行者は「ラサでは 特にアメリカに対する反外国人感情が強くある」としている。「当局はホテルに とまらせないとか、ビサの規定を変更するとかして、締め付けを強化するように なっていると言えると思う。通りには公安や武警があふれている」とも述べてい る。

 外国人に人気のスノーランド・ホテルにも先週深夜公安の手入れがあった。 「公安局が先週金曜日の夜11:30にスノー・ランドホテルに来て全ての部屋を検 査して、全員のパスポートをチェックしていった」と、チベットから帰ってきた 旅行者がカトマンズから話してくれた。

 他にも、北京で中国共産党大会が開催される9月12日前後から暴徒鎮圧用の装 備をつけた公安が夜間パトロールをしているのを目撃している欧米からの旅行者 もいる。3週間前にラサにツアーを引率したヨーロッパ人観光ガイドによると、 「公安は6人一組でパトロールしており、ヴァイサーをつけた固いヘルメットを かぶり、自動小銃を携帯していた」と述べている。

「公安は、これまで見たことがない赤いバンドを腕にしていたが、これは共産党 大会の開催と関係があると考えられる」とこのガイドは述べている。1990年代初 めから当局は公安活動が目立たないように努めてきており、ラサで武装した公安 のパトロールは異例である。9月27日前後には1987年のラサ独立運動蜂起記念日 として、警戒が強化されていた。

 この時にはラサの中心部で小規模な抗議活動をして21人の僧侶が公安により殴 打され、その後の9年間に発生した160以上の独立支援運動の引き金を引いた。

 別の旅行者によると、遅くとも9月16日から、ダライ・ラマの住居であり、街 の最大のシンボルであるポタラ宮の頂上に中国の五星紅旗が掲げられた。

ある9月18日にラサにいた英国人旅行者によると、「第15回中国共産党大会の開 催を宣言する垂れ幕がポタラの中国国旗の下から下がっていた」とのことである。

 1995年9月には中国当局はポタラ正面に大きな集会場を整備し、そこには掲揚 塔が立てられて中国国旗が翻っていた。しかし、これはポタラそのものに中国国 旗が掲揚された最初のケースとされている。昨年8月には政府当局者がラサから 6キロ西にあるデプン寺に赴き、国旗掲揚塔を立て、ガンデン・ポダンの上に中 国国旗が翻ることになった。ガンデン・ポダンは17世紀にポタラ宮に移動するま で、チベット政府がおかれたところである。

アメリカ人は旅行で「問題」に直面

 2週間前に、カトマンズの旅行代理店にラサの代理店から伝達された指示によ ると、アメリカ人は個人でチベットに入域することが許可されない、となってい る。

 今年6月から、香港返還期間内に騒動が起こるのを避けるための新たな措置と してネパール・チベットの国境では、個人旅行者のチベット入域が禁止されてい た。しかし、外国人については、成都やカトマンズでラサのチベット旅行局発 行の特別許可を料金を支払って取得すればチベットの個人旅行は可能である。

 しかし、このような許可は現在アメリカ人には発行されず、当面のところ、予 めスケジュールが決まっており、現地ガイドがついて、厳格な旅行日程に沿った (注:現地で変更が難しいということと考えられる)団体ツアーでしかチベット 訪問ができない状況である。

 今日カトマンズの旅行代理店の社長からTINが聴取したところでは、「現在、 チベットを旅行するアメリカ人が多くの問題にぶつかっている」とのことである。 先月、カトマンズで14人のアメリカ人団体客がチベット入域を拒否されたが、こ れはツアー客の一人が申請書に間違ったパスポート番号を書いたため、とされて いる。「最近は、チベットに行きたいと思っているアメリカ人がたくさんカトマ ンズで泣いている」とのことである。

 アメリカ人に対する個人旅行許可に関する制限は商用や公的な招聘状があるア メリカ人には適用されないが、ビジネスマンやその他ラサ居住者についても、こ こ最近特に厳しい対応がなされていると伝えられており、公安に履歴書を提出す るよう求められた者もいるとのことである。

 ウルフ下院議員は最新のこのような報告に対してコメントを拒否しているが、 ワシントンのウルフ議員事務所のスポークスマンはウルフ議員のチベット訪問が もたらしたこのような悪影響について何も情報がない、としている。今週金曜日 には「ウルフ議員が行ったことで、誰か他の人に対して悪い問題を引き起こした ということはなかっただろう」とのことである。

 未確認情報であるが、ウルフ議員のチベット訪問の手配を行った旅行会社がそ の後短い期間ではあるが当局により閉鎖されたとのことであるが、これについて はTINでは確認できず、また、ウルフ議員の事務所はこの情報を強く否定して いる。

 チベットの旅行代理店は、ジャーナリストや外交官の旅行手配を受けつけたこ とで閉鎖されることがしばしばある。1994年5月には、ラサの林芝旅行会社が営 業停止となったが、これはツアー客の中にアメリカの外交官1名が含まれていた ことによるものである。同月には通達が全ての旅行代理店に出され、ツアー客に ジャーナリストや外交官がいたと判った場合には店が閉鎖されるとのことであっ た。

 ウルフ下院議員のチベット訪問に応えて発表された新華社の声明により、チベ ット自治区の政治犯の新しい情報が明らかになった。8月30日の配信記事によれ ば、自治区には3つの刑務所があり、1700〜1800人の受刑者がいるが、そのうち の9%(約155人)が国家の安全を脅かしたことで有罪とされたとされている。

 最近まで、中国政府はチベットには1つしか刑務所はないとしてきた。「刑務 所」と中国政府が言うときは有罪と決定された受刑者のための労働改造施設であ り、これ以外の留置施設には使用されていなかった。

 10月1日の国慶節に合わせて中国全土で治安体制が強化された。先週木曜日に は香港の雑誌が新疆や内モンゴルで「比較的大規模な武装蜂起」が「国慶節の少 し前」に発生したと伝えた。東洋日報はこの事件についての詳細は報道していな いが、9人の政府関係者が殺害されたと伝えている。この報道は未確認である。

以上

(翻訳者 TNDスタッフ)


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TIN new Update, 7 Nobember, 1997
17 Years Sentence for Tibetan "Spy"

チベット人スパイに17年の刑

公式裁判記録によれば、28才のチベット人が情報を収集し、独立要求派の秘密 組織を作った罪で17年の判決を受けた。このチベット人は、中国の書店で一般 に販売されている歴史と経済に関する書籍を外国に送ろうとしたことが、罪に問 われたものである。

ルカール・シャムと2人のチベット人は、統計資料と他の資料を亡命チベット人 に送る計画を立て、東チベットに独立要求派の組織を作ったことで、合計45年 の刑を受けた。

3人が受けた判決は、非暴力的な政治犯罪を犯したチベット人に対して過去20 年間に出された判決の中では、最長の部類に属する。ルカール・シャムの判決を 凌ぐものは、1989年に民主主義に関するパンフレットを印刷した、ラサの3 人の僧侶が受けた判決と、1995年にビデオ・カメラを持って旅をして捕まり、 18年の刑を受けた民族音楽研究家の亡命チベット人、ガワン・チョッペルだけ である。

当時25才のルカール・シャムと友人のツェゴンタールとニャムロ・ヤクの裁判 は、1994年7月に開かれていたが、詳細が外部に判ったのは今月になってか らであった。この地域からの亡命者が、逮捕の情報を既に寄せていたが、刑期は TINが今回入手した公式文書よりもずっと短いと報告されていた。

事件は青海省で起こった。チベット人はこの地域をドメ、あるいはアムドと呼ん でおり、旧チベットの東北地域であったが、中国政府はここをチベットの地域と は認めていない。逮捕された3人のチベット人は、青海省南部のツォルホ県(中 国語ではハイナン)の出身であったが、デリンガの監獄に収容され、そこで裁判 を受けた。デリンガは、隣接するハイシ県にある軍事都市で、人口の83パーセ ントは中国人である。

この地域の情報を得ることは非常に難しくなっている。この事件の詳細を知るこ とが遅れた事は、この地域においては従来認識されていたよりも、政治的な反体 制運動が活発であることを示しているのかも知れない。

中国の資料によれば、ルカール・シャムはハイナン県シンハイ郡出身のリー・ケ シアンと記録されており、『スパイ罪』で8年、『反革命組織を組織し指導した 罪』で10年の刑を受けた。彼の刑期は合計で17年に減刑されていると、TI Nが入手したハイナン県中級人民裁判所発行の『刑事裁判記録 No19(1994)』 には記されている。

ハイシ検察局が裁判所に告発した罪状は、ルカール・シャムと2人の仲間はルカ ールがインドから持ち帰った「不法な文書4点を配布」し、「8つの自治県の統 計資料および我が地域の各郡等の、30点以上の書籍や資料を購入」し、さらに 8点の「秘密資料や最高秘密文書」を入手した、と述べている。

検察局が証拠として裁判所に提出したのは、『国内経済に関する統計資料と、教 育制度に関する統計便覧』であった。

各郡の紹介本と統計資料は、チベットや中国各地の書店で販売されているもので あり、また西欧の専門的な図書館にも収蔵されているものである。しかしこれら の書籍は、外国人向けに販売されているものではないのも事実である。

ルカール・シャムは、ルカール・ギャプともルカール・チャムとも書かれること があるが、1991年にチベットからインドに逃げ、チベット亡命政府の学校で 18カ月間教育を受けたことがある。彼は1992年11月に非合法的にチベッ トに帰り、アムドのチベット人に宛てた手紙を14通持ち帰ったと思われる。彼 の仲間は、その内の4通を届けた。

検察局は、彼が『外部の非合法組織』によって青海省に派遣されたと、裁判で告 発した。これは、勿論チベット亡命政府を指している。彼は、「通信文を届け、 情報を収集し、『チベット独立』というような反動的な意見を吹き込んで回った」 と、検察局は述べている。

1993年3月、ルカール・シャムが2度目のインドへの旅をしようとして、事 件は発覚した。彼の故郷のアムドから2000km離れたティンリで、彼は国境 警備隊に捕まった。ネパールとの国境から僅か50kmの所であった。警察は、 彼が携帯していた亡命政府に宛てた2通の手紙と幾つかの秘密文書を発見し、国 家公安部の取り調べを受けるために彼を青海省に送り返したと、裁判記録は述べ ている。

彼が携帯していた2通の手紙は、ハイベイ県カンツァ郡(中国語ではガンカ)の 警察高官であるツェコンタール(33才)が書いたものと、ハイナン県ツィゴル タン郡(中国語ではシンハイ)の教育高官のナムロ・ヤクが書いたものであった。 2人は、1993年3月、手紙が発見されて2カ月後に逮捕された。

ツェコンタールはハイナン県グイデ郡の出身で、中国の裁判記録ではカイ・ゴン ジアと表記されており、懲役16年の判決を受けた。また28才のナムロ・ヤク は、シンハイ郡の出身で中国名をアン・レイェと云い、手紙を書き、秘密文書収 集に協力し、ルカール・シャムの秘密組織に加わった罪で12年の刑を受けた。 また別の情報では、ナムロ・ヤクは別名リクロ・ヤクであるとも云う。

4番目のチベット人はシェラップ・ドゥンドゥプで、中国名をシウ・ドンヅィと 云い、独立支援組織に参加した罪で告発された。しかし、裁判記録には彼の判決 の記載がない。おそらく裁判当時彼は18才以下で、別に判決を受けたのであろ うと思われる。

4人のチベット人は、『アムド青年自己犠牲団』という『反革命組織』を作り、 「反動的な散らし」を印刷したという。その結果この組織は、「民族紛争を作り 出し、民族分裂を扇動し、国家の安全を脅かした」と、裁判記録は述べている。 3人のチベット人は裁判所に対して、彼らはチベット独立運動を支持したことも なければ、スパイ行為を働いたこともない、書籍は全て一般に販売されているも のだと主張したが、その主張は「嘘で、法に違反している」と退けられた。

他にも逮捕事件、江沢民のチベット訪問と関連

ルカール・シャムの逮捕は、1993年の6月と7月に、青海省のツォルホ(ハ イナン)県およびその周辺で、28人のチベット人が拘束された事件と関連して いるものと思われる。これは、中国の国家主席江沢民がこの地方を訪問する直前 であった。

拘束された人々は、7月16日から21日にかけての江沢民の訪問と、8月3日 の蔵族自治県としてのハイナン県命名40周年記念日に関連して、独立要求の散 らしを配布したとの容疑が掛けれている。

被拘束者のなかには、有名なチベット人ジャーナリストのメルハ・キャブ(別名 メルハ・チャ)もいる。彼はツォルホ出身でコメディアンでもあり作家でもある が、6カ月後に釈放された時には、投獄によるショックで精神的な障害を起こし ていたと伝えられている。逮捕されたチベット人の中でもう1人の有名人はサン ドゥップ・ツェリンで、西寧の民族学院の研究員で1993年6月に逮捕されて いる。その1カ月前に彼は、西寧近郊にチベット語を使用する保育園を開設して いた。彼は「反革命扇動」で5年の刑を受けた。この罪状は、独立支援の散らし を配布した者に対して使われる用語である。

この組織に関係のあった知識人としては、外にハイナン県出身の作家でもあり教 師でもあるドゥカー・ブムがいる。1993年に他の人々が逮捕された時期には、 密かにインドに旅行をしていてこの地域にはいなかった。しかし1994年9月、 帰国すると同時に逮捕された。彼が地下組織とつながりを持ち、またインドにお 金を運んだとの容疑で、彼は現在7年の刑を受けて獄中にある。

逮捕された者の多くが社会的な地位が高く、例えばツェゴンタールが警察高官で あったり、ナムロ・ヤクが教育者であったりすることは、アムドにおける反体制 活動はチベト人知識人や役人の間で活発であることを示している。

1993年7月21日付けの新華社電によれば、江沢民は青海省のチベット人地 区の「村々や遊牧民地区に深く入って」視察した、そして「沿海部や他の地域の 故郷を捨てて、青海省の経済社会開発に貢献している役人たちを称賛した」とい う。

アムド地区で最近逮捕された政治犯の中には、甘粛省南部のラブラン僧院の5人 の僧侶たちが含まれている。1995年5月同地域に独立要求ポスターが貼られ、 その後この僧侶たちは逮捕された。また青海省西寧近郊のラブラン僧院の25名 の僧侶も、1996年5月に逮捕された。政治的なポスターと非公認の雑誌を発 行したためであった。これらの僧侶が受けた判決は判明していない。しかし19 95年6月、蘭州民族学院のドルカル・ギャプという名のチベット人学生が、 「政治的な理由」で逮捕され7年の刑を受けたと、非公式情報は伝えている。

以上

(翻訳者 小林秀英)



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TIN News Update, 13 November 1997
Nepal Incursion by Tibet Police

ネパール人、チベット警官に襲撃さる

中国の警官が先月国境を越えてネパールに侵入したことで、北京に対して正式抗 議をするようにネパールの主要新聞の1つがカトマンズー政府に要求している。

事件は中国全国人民大会の副議長であるチェン・ムーハが、ネパールを訪問する 数日前に起こった。中国側は副議長の訪問に際し声明を発表し、ネパール首相の スルヤ・バハドゥール・ターパはネパールと中国は「相互の間に何の障害も持た ない友好的な隣国である」と語ったと、11月11日付けの新華社電は伝えてい る。

ネパールへの侵入は、10月19日に発生した。その日チベット国境の町ダム (中国名はザンムー)の武装警官は、ネパール・中国国境の友誼橋を越えて、国 境から南に5kmのタトパニの家を襲い家宅捜索を行った。

警察は、ネパール人の商人バカタ・バハドゥール・シュレスタを探していた。シ ュレスタがダムの商人に支払っていない負債を取り立てるためであった。

ネパールの情報筋は、警察はネパール人商人を発見できなかったので、彼の妻を 手荒く扱い、彼女をその場に軟禁状態に置いた。しかし地元民が彼女を救出した と、カトマンズー・ポスト紙は伝えている。翌日人民武装警察と思われる一団は、 再度タトパニのュレスタの家を襲い、拳銃を突き付けて金を要求した。

シュレスタは、14万6千ネパール・ルピー(2600ドル、33万円)をダム の商人に支払わなければならないという。彼は前日ダムに行っていて、中国人の 商人らに捕って、数時間も縛られていたと説明した。前日警察が来る2、3時間 前に解放されて、ようやく家に帰って来たという。

この問題は、ネパールの役人と中国の役人が数度に渡って会談し、10月24日 に決着を見た。ネパール人商人は、お金を支払わなければならないことになった。

10月30日付けのカトマンズー・ポスト紙に掲載された長い社説は、この事件 は「いかなる状況であっても」正当化されるべきものではなく、「国際慣行のあ らゆる基準」を逸脱しており、また国境近くの地元政治家は『明らかな侵略だ』 と評していると、伝えている。

内務省の役人は、非合法的な中国官憲の侵入は無かったと述べている。カトマン ズーの入国管理局の局長クルチャンドラ・シュレスタによれば、中国とネパール の相互協定によって、両国の市民も役人も国境から35kmまでは往来を許され ているという。

ダムでは数多くの紛争が起きているとの報告があり、ネパールの車両がダムの警 察に押収される事件にまで発展しており、侵入事件は1件だけではないとタトパ ニの役人は語っている。そんな「事件は、ここでは珍しいことではない」と、タ トパニの地域開発委員会の委員長アムリト・クマールは語った。またこの事件に 関して、ダムの役人は回答を寄せなかった。

中国人、交易関係を再確約

チェン・ムーハがネパールを訪問したということは、中国がチベット問題で引き 続きネパールの支持を受ける確約を得たということであると、中国政府は述べて いる。

ネパールの首相スルヤ・バハドゥール・ターパはチェンに対して、チベットは中 国の自治区であると述べ、ネパールの国土が「チベットを中国から分裂させる非 友好的な活動」に使用されることにも「強く反対する」と語ったと、11月11 日付けの新華社電は伝えている。

チェンの訪問は、中国国家主席の江沢民とビレンドラ・ネパール国王が、過去1 2カ月の間に相互訪問したことに続くものである。

インドと中国の経済関係が余り発展しない一方で、チベットとネパールの経済的 つながりは重要性を帯びている。チベットの輸出品の90パーセントは、ネパー ル向けである。またネパールとの貿易額は、過去5年間平均14パーセントの割 りで増加している。

チベットは、軽工業品、電気製品、機械類、織物、農業製品、乳製品等をネパー ルに輸出していると、9月9日付けの中国の半官半民の通信社ゾングー・シンウ ェン・シーは伝えている。

ネパールはチベットの28件の企業や共同プロジェクトに参加し、投資総額では 1億300万元(1250万ドル、約16億円)になる。しかし対中国貿易では、 輸入超過となっている。ネパールの1995年の対中国の輸出額は、470万ド ル(約6億円)であったが、輸入額は5700万ドル(72億4千万円)に上る。 江沢民主席は1996年11月のカトマンズー訪問に際し、中国との貿易不均衡 を是正するために、市場性の高い製品を製造しチベットに輸出するように促した。 しかし1995年のネパールと中国の貿易額のわずか37パーセントを、チベッ ト自治区が占めているに過ぎない。

9月にラサで開催されたチベット・ネパール貿易展には、66件のチベットおよ びネパールの企業が参加した。30の業種から100点の製品が出品され、この 地域の国境貿易の拡大を目指していると、9月15日付けの新華社電は伝えてい る。貿易展は、牧畜や食用茸の養殖、カシミヤ羊毛の生産、繊維製品や栄養食品 の生産といった、プロジェクトの共同事業に焦点が当てられていた。

ネパールは、チベットとの貿易という点では、インドの持つ競争力に大きく劣っ ている。しかし北京とニューデリーは、シッキムの首都のガントクに近い、ヤー トンに関する紛争に決着をつけてはいない。ここは、かつてインドのチベット貿 易の拠点であった。シッキムからヤートンへのルートを使うと、カルカッタとチ ベットの間を3日から6日で物資を運ぶことが可能になる。これはチベット経済 に革命をもたらす可能性を秘めている。1962年の中印戦争の結果、ヤートン が閉鎖されたとき、インドとチベットの相互貿易の額は年間330万元(367 0万ドル、46億6090万円)の上っていたと、1996年8月の新華社電は 報じている。

ヤートンを再開することは、現在中国が進めているチベットの5カ年計画にも取 り込まれており、間もなく再開されると度々発表されながら、現在はまだ閉鎖さ れたままである。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 16 November, 1997
Power Struggle in Tibet Party ; " Hidden " Enemy Targetted

チベット共産党内部の権力闘争;『隠れた』敵を標的に

チベット在住の中国人最高指導者が、この地域の指導者間の権力闘争に初めて公 開の場で言及した。

この演説が示しているのは、この地域在住の非チベット人の指導者が、北京の完 全な支持を奪い返し、今やチベットを完全支配下においたということである。そ してさらにチベット人の中の『隠れた』新たなる敵に、特別な警戒をせよと呼び かけている。この演説の中では、チャデル・リンポチェがその敵の具体例として 挙げられている。チャデル・リンポチェは、チベットで最も高名な宗教指導者の 1人であるパンチェン・ラマの転生者の探索を指導した、元僧院長である。

中国の文化政策を批判することは、これらの『隠れた』敵によって政治的な破壊 活動を仕掛けれているのだと、指導的な立場にある学者や僧侶のグループは警告 を受けた。また文化政策を攻撃することは、隠れ蓑を使った独立運動であると政 府は見なす、との警告が出された。

11月9日にチベット・ラジオで放送された演説では、チベット自治区共産党書 記のチン・クイエンは、自治区指導者層内部の権力闘争を否定し、「現在のチベ ット自治区の指導層が交替させられ、自治区共産党委員会の委員はチベットを去 ることになろう、との風評が流されている」と、チンは演説の中で語っている。 これは風評として流されている批判が、チベット外部から来た指導者つまり中国 人を標的にしていると、ほのめかしているのだ。「これは完全に根拠のない噂話 だ」と、彼は語る。

「共産党中央委員会は、自治区共産党委員会を信頼しており、安定を保つように 支持を与えている」と彼は語る。

共産党内部の紛争を否定したり、逆にほのめかしたりする声明が突然出されたり することは、中国においては極めて稀なことである。また自治区共産党の活動に 中央が介入したのを認めることは、指導者の間で分裂があったことを示している。

「指導層の同志は全員一致団結し、同じ目的のために全身全霊を捧げ、共産党中 央委員会の支持に決然として従っている」と、演説は述べている。この演説は元 々は、11月7日の『非共産党員の愛国人民集会』に向けて発表されたものだっ た。

昨年11月の非公式情報では、チベットの僧侶や尼僧全員に宗教指導者としての ダライ・ラマ法王を批判させようという、僧院の政治的再教育運動が過激すぎる として、チンが共産党内部の穏健派から批判されていると伝えられていた。

今年6月、フランスAFP通信の記者がラサの役人複数に会見する許可を得て、 「高官からの情報」として再教育運動は「北京で暴力的過ぎる」と判定されたと 伝えた。また昨年別の情報源が伝えるところでは、中国の民族宗教担当の責任者 であり、共産党の序列では第4位の地位にある李瑞環が、チベット自治区の強行 派を批判したとのことであったが、これは確認されていない。

昨年年末に、政治再教育工作班とラサの3大僧院の間で妥協が成立したとの報道 もあったが、依然として自治区全土での再教育運動は弱まる気配を見せていない。

『隠れた反動主義者』に対する階級闘争

11月7日の演説で、チンは北京の支持を獲得しているとほのめかしており、彼 の指導方針の大きな目標は「安定を覆そうとする全ての要因を除去し」、「社会 主義の近代化という最終目標を達成する」ことであると述べている。

これは階級闘争を通してのみ可能であると、チンは語る。彼は演説の中で11回 も、『階級闘争』あるいは『階級対立』という言葉を使っている。「もし我々が、 現実生活の中で階級闘争や階級対立に適切な対応ができなかったら、チベットの 安定を維持する保証は存在しない。そしてチベットの改革も発展も順調に行かな くなるであろう」と、彼は『非共産党員の愛国人民集会』で語った。そこには、 知識人や学者、僧侶、元貴族で、共産党員や政府の高官になっていない人々が集 っていた。

チンは彼の階級闘争理論を、チベットを攻撃する『敵対勢力』を区分けする手段 として使っている。3種の敵対勢力として、亡命しているダライ・ラマ法王の支 持者、西洋人の支持者、またチベット国内で独立運動や『破壊活動』をする活動 家が挙げれていたことは、良く知られている。しかし彼は演説の中で第4の勢力 を指摘したが、これは初めてのことと思われる。それは、チベット国内の『隠れ た同調者』だと言う。

彼はこの新敵対勢力を、「心底の動機を隠し、正直な人間の振りをして、我々に 紛れ込んでいる少数の危険分子で、自治区に長く隠れ潜んでいた反動主義者」で あると分析している。この第4の敵に対して「我々は特別な注意を払わなければ ならない」と、チンは聴衆に語った。

1991年10月以降、チベット人幹部の中にまだダライ・ラマ法王に対する忠 誠心を持ち続けている者がいることを、中国政府は認めている。1994年7月 に招集された第3回チベット工作会議では、これが大きな問題であることが確認 された。しかし『愛国人民』が、敵になるかも知れない勢力として標的にされた ことは、極めて稀であった。また共産党書記から面と向かって公然と、それを言 われたことはなかった。

チンは、この新種の『隠れた反動主義者』の例としてチャデル・リンポチェがい る、とチベット人たちに語った。師は、シガッツェのタシルンポ僧院の前僧院長 で、1995年に逮捕された。チャデル・リンポチェは今年5月、秘密漏洩と国 家分裂の陰謀で、6年の刑の判決を受けた。パンチェン・ラマ10世の転生者の 探索で、ダライ・ラマ法王に詳細を知らせたとされている。

「シャーザ(チャデル)のように、長年共産党と政府から信頼され特別待遇を受 けながら、重要な時期に党と国家を裏切り、党を背後から刺した人物がいる」と 彼は語り、チャデル・リンポチェは「我々指導者の中の特例ではない」と述べた。

前僧院長を公然と中傷する狙いは、チベットの『愛国人民』の中の反動分子を発 見するキャンペーンで、彼をその具体例として使おうということである。それが チベットの学者や僧侶の間に、一大恐怖を呼び起こすであろうことを見込んでい るのだ。

チンの演説の2時間前にテレビ放送で発表された声明では、共産党書記は11月 1日にタシルンポ僧院を訪れ、特別な調査を実施したという。チンは僧侶たちに、 チャデル・リンポチェが『破壊活動』に加わっていたこと、また僧院で愛国再教 育キャンペーンを展開することは、「宗教的原則を尊重せず、悪しき行為に走る 少数の危険分子」を発見するためには「重要な政策」であると述べた。

「もしあるゆる寺院や僧院の民主管理委員会が、彼らの義務を適切に果たし僧侶 を管理し導いて、仏典の研究に真剣に向かわせ、国家の制度や法律を遵奉させる ならば、政府は工作班を派遣して寺院や僧院で教育を実施する必要はなくなるで あろう」と、チンはタシルンポ僧院の僧侶らを前に語った。

文化政策の批判は、『ダライの陰謀の隠れ蓑』

11月7日の演説の中で、共産党書記が『愛国人民』に明らかにしたもう1つの ことは、新種の『隠れた』敵は、町中で抗議運動を展開したり独立を呼び掛けた りせずに、チベットにおける中国の文化宗教政策を批判するという、新しい手口 を使って活動するということであった。

「我々が注意を喚起しなければならないのは、最近敵対勢力は我々を攻撃するの に、新しい手口を使い出したということである。我々がチベットの文化、宗教、 言語を破壊しようとしていると、我々を攻撃する」と、チンはこれを新たな階級 闘争と規定しながら説明した。

中国の文化政策への批判は、ダライ・ラマ法王と外国の報道機関によって広めら れて来た。しかし『ダライの陰謀』は、チベット内部のチベット人によっても語 られるようになった、とチンは語る。「自治区内部の匿名の手紙やポスターは、 公共の場において我々を攻撃するのに、この捏造した主張を使っている。ダライ の陰謀を変装させて、売り歩いている人々がいる」と、チンは集会で語った。そ こには、彼の文化政策を批判していたチベット人たちもいたことであろう。

チベットの『愛国人民』というのは、全員が『中国人民政治協商会議』という名 の名誉職の団体の一員である。チベットにおける中国の政治政策を、公認するこ とが期待されている団体である。これまでは、彼らには経済や文化政策の細部を 批判することが許されて来た。特に、教育や行政の分野でチベット語を使用する こと等を要求して来たので、初等教育では子供たちはチベット語を使って学習し ている。しかし、チベット語で中等教育を授けようという唯一の試みも、昨年覆 されてしまった。

このような政策を批判することは、ダライ・ラマ法王が「チベット独立を狙って、 民族相互間に政治的な分裂の種を蒔こうとしている」行為に他ならないと、チン は規定する。「我々は彼のこうした戦略をはっきりと気が付かなければならない」 と、共産党書記は語った。

『愛国人民』の忠誠心と政府の立場に対するチベット人の姿勢が、彼らの過去の 言動の中で判定されることになろう、と彼は語る。特に、彼らが最近の歴史の 『危機的な時』と規定する、1995年のパンチェン・ラマの転生者に関する紛 争で、いかなる態度を取ったのかで判定されることになると、彼は付け加えた。 「チベットの危機的な時期に、その混乱と嵐の中で我々を一緒にいた人々のこと を、我々は忘れない。祖国を分裂させようとのダライの陰謀に対して、いかなる 態度を取ったのかで我々は人間を判別するであろう」と、チンは語った。

以上

(翻訳者 小林秀英)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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