22号(1997年8月)


TIN News Update, 28 July 1997
Re-education of Monks is a "Basic Policy", says Chen

僧侶の再教育は『基本政策』と、チェン語る

チベット最高位の中国人役人が、現在行われている僧侶や尼僧の再教育キャンペーン は、自治区における共産党の基本路線であると宣言した。この声明の結果、キャンペー ンに対する批判は全く許されないこととなった。

この声明は、1年に亙って続いているキャンペーンを緩和するように、チベット自治区 の指導者たちは指示されたとの、これまでの報道に反するものである。このキャンペー ンでは、党の幹部によって構成された工作班が自治区内のすべての僧院・尼僧院を訪 れ、亡命中のダライ・ラマ法王を批判するように要求していた。

「僧院内で、精神文明の建設および愛国教育に成功することが、『中国的な特色を持っ た社会主義建設という沛ャ平同志の理論』を実践する際の、チベットの基本的な基準で ある」と、チベット自治区共産党書記のチェン・キュイエンが語った。

この基準は、「党の基本路線の根幹を成す」と、チェンは語る。彼は、キャンペーンに 対する批判は「本質的にダライ一派に歩調を合わせよう」との行為であると評してい る。この言葉の意味する所は、キャンペーンに対する批判は犯罪行為と見なすというこ とである。

この声明は、今年9月に北京で開催される15回共産党大会に出席する、チベット自治 区共産党の代表者たちが集合した、6月18日の重要な会議で発表された。

この声明の要旨は2日後に西蔵日報に掲載され、その中では「異なった動機を持ったあ る種の人々」が、「僧院内で精神文明を建設し愛国教育を実施しようという、自治区の 指導を悪意を持って攻撃して来た」と述べている。

党書記は、「この政策に対する批判は、外国人および『国内の敵対勢力』から発せられ て来た」と語っている。このことは、再教育キャンペーンという自治区の強硬路線が、 内部からも支持されていないとの報告を裏付けている。

チェンはさらに、共産党幹部はダライ・ラマに対する姿勢によって判定されることにな ると述べており、このことは共産党指導層の間でも不一致があることを示している。

「あらゆる階層のチベットの指導的幹部にとって、彼らの政治的強固さを試す試金石 は、ダライ一派との闘争にある。これが、共産党員の党員精神を試す基本中の基本だ」 と、チェンはこの会議で述べた。

「もしこの障害を越えられないとしたら、彼らの強さは本物ではない」と彼は続け、 「最大の力点を政治に置く」のが党の路線だと述べた。

昨年12月チベット内部から非公式情報があり、1996年5月からチベット仏教寺院 内部で実施されている、反ダライ・ラマ・キャンペーンに対する度を越した熱意の故 に、チェン書記が非公開の共産党会議において批判されたという。4週間前にAFP通 信社の記者として、公式にチベットを訪れたフランス人記者は、チベットの再教育キャ ンペーンを統括する役人が、キャンペーンが暴力的過ぎると北京が判断したため、中国 に召還されたと伝えていた。

チェンの強硬発言を西蔵日報が大きく取り上げたということは、再教育キャンペーンに 対する主導権を彼が回復し、自治区における彼の地位を確保したことを意味している。 発言の中の幾つかの見解は彼の個人的な意見と言われてはいるものの、西蔵日報は紙面 中央に彼の写真を掲載しまた発言の要旨を伝えており、チェンの権力復帰を印象づけて いる。彼の写真は、これまでは集合写真以外は掲載されたことはなかった。

言語と文化が戦場となる

次回の共産党会議に参加する自治区の代表団は、チェンから「ダライ分裂主義一派に対 する激しい闘争」を展開するように言い渡されている。ダライ分裂主義一派は、「民族 宗教の衣に隠れて邪悪な分裂主義的策略」を遂行しており、「封建的な奴隷社会の再 建」を夢見ている、とチェンは語っている。

しかしチェンは、チベットが中国の他の地域とは別の範疇で扱われるべきであると、主 張をする党員たちに対して最も激しい言辞を使っている。

「内に敵意を秘めて、チベットの特色ある自然と解り難い制度とを、言わば混同して強 調し、ダライ・ラマを神と見なそうとする人々がいる」と、チベットは『特色』のある 地域だから『柔軟な政策』を採るべきだと主張した、1980年代の穏健なチベット人 指導者たちに言及している。

チベットの『特色』を認めようとする見解は、1992年チェンがこの地域の権力の座 に就いてからは、公の場から姿を消してしまった。またチベット共産党内の『特色』容 認派も潰滅状態となっている。

1992年のチェンの穏健派に対する攻撃は、チベット経済を中国人事業家に開放する ことに反対する勢力に焦点が絞られていた。しかし6月18日付けの演説は、チベット 文化に関する現在の政策を批判する勢力に向けられている。演説の中でチェンは、「民 衆を欺く精神のアヘンであり現代社会には適用できない、旧チベットの習慣や伝統を敬 意を込めて扱おうとする」党員たちを特に取り上げ、彼らの動機を「非常に凶悪」だと 評している。

昨年9月から中国全土で実施されている『精神文明』キャンペーンは、幾つかの古い習 慣や伝統を根絶やしにすることを呼び掛けている。しかし、どの習慣が抹殺されるべき かの判断は、中国の各省や各自治区によって様々である。

今月チェンは、独立運動グループが文化問題を反中国感情を掻き立てるために利用して いると、非難した。AFPの報道によれば、チェンが「ダライ一派と分裂主義者たち は、文化と教育を我々を攻撃する突破口にしようとしている」と語ったと、7月14日 付けの西蔵日報の社説は伝えている。「彼らは、民族紛争を引き起こす口実に、言語や 文化を使おうとしている。彼らの狙いは、チベット民族を他の(中国の)民族から分離 し、いわゆる『漢文化』に対抗して『チベット文化』を確立しようとするところにあ る」と、彼は語った。

6月18日のチェンの演説では、政治においても経済においても社会発展の面において も、チベットと中国内地とを区別すべきではないと語っている。「実際に、チベット族 と内地の民族との基本的利益と繁栄発展の道筋は同一である」と、チェンは会議で語っ ている。この見解は、チベット自治区で現在実施されている発展計画に対応しており、 この計画はまた、チベットと内地の省との経済的な結び付きの強まりに対応しようとい うものである。

チベット政策の2つの目的は、独立運動を封じ込めることと、中国で起こっている経済 的・社会的な変化にチベットが取り残されないようにすることであると、彼は述べた。 「我々は、チベットが偉大な祖国の家族から分離されることを絶対に認める訳にはいか ない。また長期的にチベットが取り残されることも、認める訳にはいかない。この2つ の文脈が、第3回工作会議の精神の核である」とチェンは述べて、チベット自治区の長 期的な政策を確立した1991年の会議に言及した。チェンは、「この2つの目的を達 成するために、長期的な闘争」を呼びかけた。

チェン・キュイエンは、1992年3月チベット共産党の指導者に指名された。彼は 1941年中国東北部のリャンニンの生まれで、これまでは中国内地で働いて来た。ま た1989年からは、内蒙古自治区の共産党委員会の一員であった。その後、チベット に移動するまで内蒙古自治区の副主席を務めていた。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 31 July, 1997
Rural Monks Reject Patriotic Education

地方の僧侶ら愛国教育を拒否

中央チベットの少なくとも3つの地方僧院の僧侶が、先月政治再教育工作班に協力する ことを拒否したと、同地域からの非公式情報は伝えている。

再教育工作班は、昨年5月に始まったプログラムの一環として、全てのチベット僧院に 3カ月間逗留し、『国を愛し、宗教を愛する』というスローガンの下、僧侶や尼僧に愛 国教育を実施して来た。

ゴンカル郡では、数人の僧侶がダライ・ラマ法王を非難する書面の提出を拒んで、再教 育集会を混乱させたとの罪で、その内の1人の僧侶が逮捕された。またニェモ郡では、 協力を拒んだ僧侶たちが、少なくとも3週間僧院内に缶詰状態となった。ツェタン郡で は再教育班の要求に抗議して、僧侶たちが僧院から出ていってしまったために、小さな 僧院が閉鎖された。

今年に入ってからネパールやインドに亡命した僧侶や尼僧の数は300人を越えてお り、昨年同期に比べてもおよそ3倍に達する。現在再教育工作班の中には、武器を所有 する者もいると報告されており、彼らの要求を拒絶するために多くの僧侶が亡命をして いる。

昨年政治再教育工作班に抗議して拘束された僧侶の中に、20才のジャムペル・テンダ ーがいる。彼は、ロカ県ゴンカル郡のチェーデ僧院の僧侶であった。

ジャムペル・テンダーは、ラサ南方60kmに位置する僧院の周辺に手書きのポスター を貼ったことで、6月16日に拘束された。ポスターには、ダライ・ラマ法王への支持 とチベット独立要求、さらにチベットでは禁止されているチベット国旗が書かれていた と、この地域からの非公式情報は伝えている。

ゴンカル・チェーデ僧院の78人の僧侶たちが再教育後の試験を受け、中国の宗教政策 を支持しダライ・ラマ法王を批判する声明を書かされていた時に、同僧院の僧侶らがこ の試験は妨害した。ジャムペル・テンダーは、その後ポスターを貼って回ったという。

地元の共産党の幹部から成る28人の工作班が、数カ月に亙って同僧院に滞在し、試験 問題に対する正答を僧侶らに教えていた。

僧侶に提示された24の問題の写しによれば、第2問目が僧侶に要求しているのは、 「中国の宗教局長官であるリー・リューヘン同志が定義した、ダライの4つの面」を列 挙することである。

TINが入手した試験問題の写しは、5月25日にロカ地方の再教育工作班が出版した もので、僧侶が記憶しなければならない解答も含まれている。第2問に対する正答は、 ダライは「蛇の頭である。つまり、チベットの独立を画策する分裂主義者たちの首謀者 である」、「中国に敵対する国際勢力の忠実な道具である」、「チベットの社会的不安 定さの根本原因である」、そして「チベット仏教の秩序を回復するのに最大の障害であ る」というものであった。

今年の初め非公式情報ながら、ダライ・ラマ法王個人を批判させるという要求は、チベ ット人を追い詰め過ぎないようにという請願が出されて、取り下げられたと報告されて いた。

ゴンカル・チェーデ僧院の僧侶たちは、ダライ・ラマ法王を非難する代わりに法王のた めの祈願をし、中国が宗教の自由を認めていることを否定し、国家が僧院の再建に経済 的な援助をしていることを否定した。僧侶たちは、宗教的自由は仏陀によって認められ たもので、中国人から認められるものではない、と反論したと伝えられている。また同 僧院は、中国政府の命令で破壊された後に、地元の人々の寄付で再建されたと主張した と伝えられている。

少なくとも15人の僧侶が、政治的再教育集会の場で抗議に参加したが、事件の詳細は 判明していない。

ジャンペル・テンダーは俗名をミクマルと言い、1晩僧院内で拘束され、6月17日の 朝ロカの県庁所在地であるツェタンの刑務所に移された。これは、彼の事件が重大な犯 罪と見なされていることを示している。

ゴンカル・チェーデ僧院は、1464年に創建されたサキャ派の拠点僧院で、30年前 に破壊され1980年代の末に一部が再建された。16世紀に始まったケンリ派と呼ば れる仏画の様式の発祥の地として名高い。サキャ派の僧侶たちが抗議に参加したという ことは、ダライ・ラマ法王への支持が法王が深い関りを持つゲルーク派だけでなく、も っと広がりを見せていることを示している。

ガンデン、デブン、セラ、チャムド、ダヤブ、サキャといった大僧院の僧侶たちも、再 教育キャンペーンに抗議して昨年来拘束されている。その内少なくとも4件の事件で、 僧侶が拘束中あるいは逮捕時に死亡している。

僧侶ら抗議して僧院を出る

ゴンカル・チェーデ僧院のジャンペル・テンダーの逮捕から2日後に、ロカ地方の別の 僧院の僧侶およそ20人が政治再教育工作班の要求に抗議して、僧院を閉鎖し隊列を組 んで僧院の外に出たと、同地域からの別の情報は伝えている。

ロカ県のツェタン郡に位置し、ゴンカル・チェーデ僧院の85km東にあるサムドゥブ リン僧院では、6月18日工作班が再教育の授業を始めると、僧侶全員が外に出て行っ てしまった。

地方共産党の幹部が、ダライ・ラマ法王を批判し、独立運動を非難するように要求する と、僧侶たちはダライ・ラマ法王を批判する位なら家に帰った方が良いと宣言をして、 僧院を閉鎖してしまった。法王に反することは、『戒律』に背くというのだ。チベット 仏教の伝統では、師・先生に対して『帰依の祈り』を日々捧げる。これは忠誠を誓うの に等しい。

僧侶たちがまた工作班に対して主張したのは、ラサの南東90kmに位置する彼らの僧 院は、政府の資金に因らずまた援助も受けずに再建したと言うことであったと、匿名希 望の情報提供者は伝えている。この僧侶らの主張が示していることは、再教育工作班に 対する反発は、政府の援助を受けている僧院よりは、自力で再建された非公式な僧院で の方が大きいということである。

同情報筋によれば、この事件は高位の政治家の関心を呼びそうだという。チベット共産 党副書記長のテンジンが、ロカ県政府から同事件発生の報告を受けて、同地域を訪れた という。

テンジンは、チベット自治区の政治宣伝および教育問題担当の、共産党幹部である。彼 は多くの役人を引き連れてやって来て、僧侶らは僧院に帰らなければならないと宣言し たと、同情報筋は伝えている。この情報はまだ確認されていない。

再教育キャンペーンに抗議して僧侶が個人的に僧院を出て行き、ダライ・ラマ法王を非 難しろとの要求を多数の僧侶が拒絶したとの報告は、昨年来数多く寄せられていた。し かしサムドゥブリン僧院のように僧院全体が拒絶反応を示したというのは、最初の例で あった。昨年5月再教育キャンペーンが始まってから、政治教育を受けている僧院の数 は50カ所との報告がある。

報告の殆どは、再教育キャンペーンを避けてネパールおよびインドに亡命して来た僧侶 または尼僧によって、もたらされている。今年の前半の5カ月間で、ネパールかインド に亡命を求めた僧侶・尼僧の数は、少なくとも320人に上っている。昨年同期に比べ ても、約3倍となっている。

ラサ西方およそ100kmに位置するニェモ郡では、小さな僧院リンカンの僧侶たち が、ダライ・ラマ法王を非難する書面に署名することを拒否したために、役人らによっ て僧院に閉じ込められたとの報告がある。リンカン僧院は、6月初旬に役人らによって 封鎖された、と同地域を訪れた観光客が伝えている。同僧院はニェモ町の近くにあり、 9人か10人の僧侶がいると、匿名希望の観光客は語った。

リンカン僧院の僧侶たちは、愛国教育の宣言に署名しなければ僧院の外に出ることは許 されないと言い渡されたという。僧侶たちは3日間に亙って僧院に閉じ込められていた が、圧力に屈しなかったと、1カ月前に同地域を訪れた西洋人観光客は、匿名を条件に その状況を語った。

シガッツェの西方100kmにあるジョナン・プンツォクリンでは、地元の僧院でおよ そ15人の僧侶が再教育工作班に協力することを拒否して、僧院を出て行ったと、別の 西洋人観光客が6月初旬に同地域を訪れて目撃した。僧侶らは警察の目を逃れて姿を隠 し、ネパールへの逃避行に入ったという。

5月初旬に同地域を訪れた米国人観光客は、再教育工作班が同地域で活動していたこと を確認している。4人の幹部から成る工作班が、プンツォクリンの南方徒歩2時間の所 に位置する、14世紀に創建された仏塔のジョナン・クンブンに滞在していたという。 この僧院には、およそ10人の僧侶がいる。

ジョナン・クンブンの僧侶たちは、観光客たちが再教育工作班が使用していた教室に近 付くと、「心配して動揺していた」という。「彼らのお客さんたちが、規則を破ったと でも言うように、何かにとても脅えていた」と、その観光客は語った。

再教育工作班の幹部、武装する

幾つかの僧院での目撃談から、再教育工作班は武器を携帯していることが分かってい る。ラサの北東80kmに位置するディグン地区では、政治再教育工作班の役人が僧院 内で武器を携帯しているのを、2人の西洋人観光客が別々に目撃している。

「私は、ラサからやって来たチベット人役人と僧侶たちの会合を目撃した」と、先月デ ィグン・ティル僧院を訪れたフランス人観光客は語った。「少なくとも1人の私服の警 察官が、カウボーイのように拳銃を吊り下げていた」と、匿名希望の観光客は語る。

6月初旬に同地域を訪れた米国の雑誌記者も、僧院内で再教育工作班が武器を携帯して いるのを目撃している。およそ120人の僧侶が集合させられ、座らされており、その 回りを6人から10人位の私服の男たちが歩き回っていたという。

「私たちを除けば、僧衣を着ていないのは、これらの私服の男たちだけだった」と、彼 は語る。「彼らは、ゆったりとした上着を着ていた。1人が名前を呼び上げ、僧侶たち は返事をしていた。それからパンチェン・ラマについて書かれた本と、チベットにおけ る中国の歴史的な役割に関する文書を読み上げ始めた」と、彼は付け加えた。

「彼らは、上着の下に吊した拳銃を隠そうとはせず、再教育集会の間中座っている僧侶 たちの間を歩き回っていた」と、匿名希望の雑誌記者は語った。

昨年も未確認の情報ながら、再教育集会は武器を携帯した私服の役人によって監視され ているとの、報告が幾つか寄せられていた。

ディグン・ティル僧院では、週に3回再教育集会が開かれた。集会は半日続き、役人た ちはおよそ6カ月間僧院に滞在することになろう、と告げられたと同記者は語る。同様 の再教育集会が昨年も同僧院で開かれ、150人の僧侶の内30人が再教育試験に合格 せず、追放されたという。

また近くのテドゥロム尼僧院で、3カ月に及ぶ再教育キャンペーンの結果、昨年12月 に240人の尼僧の内約半数が追放されたとの情報があったが、これも事実であること がこの記者によって確認された。「私たちは、追放された元尼僧と、できるだけ長く話 をした。彼女は12才の時から尼僧としての生活を続けて来たが、28才になって突然 尼僧院から追放され、師僧からも切り離されてしまったのだ」と、彼は報じている。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 4 August, 1997
Leading Scholar Dies, Cultural Criticism Stepped Up

指導的な学者死亡、思想的な攻撃さらに強まる

現代チベットを代表する文化人、知識人であり、中国から『国宝』と認められていた学 者が亡くなった。

ドゥンカル・ロプサン・ティンレイが、7月21日にロスアンジェルスの病院で癌のた めに亡くなった。彼は、優れた仏教学者、マルクシストの歴史家、伝統的な詩の専門 家、現代チベットの教育家・啓蒙家として 知られていた。

この71才の学者は、チベット人知識人の間で幅広い尊敬を集めていたが、死の直前は 中国政府から彼の見解に対する思想的な攻撃を受けており、彼が享受していた特権も剥 奪されていた模様。

7月11日、チベットの主要な新聞が西蔵大学の匿名のチベット人歴史家らに対して、 激しい攻撃記事を掲載した。ドゥンカル・リンポチェは、そこの歴史学の教授であった。

同新聞によれば、「大学の教材から宗教色を取り除いたら、何にも残らない、と言って いる人達がいる」と、チベット共産党書記のチェン・キュイエンが語ったという。「チ ベット文化の研究に携わる同志たちは、そのような意見を聞いて腹を立てるべきだ」 と、宗教的な教材を使って教育することを酷評して、チェンは語った。『権威だと主張 する人々』がチベット研究の中に宗教を取り入れることを支持しているが、これは「言 語と文化を使って、民族の間に紛争と敵対とを生み出そう」とする分裂主義者と同等の 行為であると、チェンは語った。

ドゥンカル・リンポチェは、1987年に国宝(国家レベル)の学者となった。この称 号を受けた4人の中央チベット出身の学者の1人であった。しかし非公式情報によれ ば、昨年彼ともう1人医学者のジャンパ・ティンレイが、この称号を返還したという。 2年前にドゥンカルは、パンチェン・ラマの後継者指名紛争でダライ・ラマ法王を非難 する側に回らず、また昨年は政治再教育キャンペーンにも加わることを拒絶していた。

彼の最近の著作は出版が許可されておらず、また彼の死もチベットで公表されたとの報 告はない。これも彼が、地位を失墜していたことの傍証と言えよう。

チベットの教育担当の責任者ヤン・チャオジは、6月23日に65才で死亡した。彼の 死の2日後に、追悼記事が西蔵日報の第1面を飾った。ヤンは、チベット自治区共産党 教育工作委員会の強行派の書記で、自治区教育委員会の委員長を務めていた。したがっ て、西蔵大学の副学長を務めていたドゥンカル・リンポチェと同様に、大学の歴史家や 研究者に向けられた批判に直面していたと思われる。

『言語に固執せよ』

ドゥンカル・リンポチェに疑惑の目が向けられるようになったのは、1992年のこと であった。この時中国の当時の指導者沛ャ平が、チベット人が文化的経済的な自治権を かなりの程度まで主張することを許していた、『特別な』権利を終わりにしようとのシ グナルを発していた。ドゥンカル・リンポチェは、この新政策にはチベットの経済と文 化を完全に中国と同化しようという狙いがあり、チベット人教育家や穏健派の中国人た ちが文化大革命の被害を克服しようと過去15年間努力して来た、その再建の華々しい 業績を台なしにしようという狙いがあると見た。

「教育の方法も方向性もまた純粋性も、ただ一重に民族に特有の言語や文字に依存す る」と、1993年12月に西蔵大学の紀要に彼は書いて、新政策が秘めている危険性 を指摘している。「もし民族が、言語や文字から切り離されてしまったら、他の民族の 言語や文字が教育の基盤となろう。そうすれば大変な困難な結果となろう」と、彼は続 けている。

談話では、彼はもっと率直であった。「我々は、危機的な状況に陥った。今日チベット でチベット語の読み書きのできる人間の数は、消滅仕掛かる程である。過去40年間以 上もチベットで実施されて来た、民族政策に明確に約束されているにも拘わらずであ る。全ての政府の機関でも、会議でも、また公文書においても、第1公式言語はチベッ ト語であると宣言されている。にも拘わらず、中国語がどこにおいても使われている。 チベット人のレベルが余りにも低いので、我々の民族は鼻先であしらわれ、自分自身の 尊厳を示す力もないのだ」と、1992年の談話の中で彼は語っている。

彼は、中国語を教えるだけでなく、チベット語を教える教育施設の設立を優先しようと 考えていた。「この分野こそが、外国が我々を援助することのできる最も重要な分野で あることは、疑いがない」と、彼は1992年に語っている。「我々の将来の全ての希 望、あらゆる進歩発展、文化的自主性、また我々の伝統の保護は、一重にこれに懸かっ ている。あらゆる分野の教育を受けた人々、自国語で自分を表現できる人々がいなけれ ば、チベット人は同化されてしまう危険性がある。我々は危機的な状況に陥っているの だ」と、彼は語った。

1995年10月、チベット共産党書記のチェン・キュイエンは、独立運動はチベット の宗教に基づくものであり、宗教がチベットの文化と強く結び付いているためであるこ とが解ったと、内部の会議で宣言した。この理論はまだ公に発表されていないものの、 チベットの言語や文化研究の発展を共産党が支援しなくなったことを示している。その 後数カ月の内に、チベット語の中等教育の実験的なプロジェクトが中止となり、西蔵大 学の幾つかのチベット語の授業が廃止された。またチベット研究コ−スの新規学生は、 申し込みを受け付けられず、大学の職員はチベット関連コースの教科書を書き換え、宗 教色を薄めるように命令された。

その年ドゥンカル・リンポチェは、チベットの言語政策を担当する、チベット語委員会 の役職を辞した。同委員会は、6カ月後に自治区レベルから郡レベルに格下げとなり、 すでに解散したかも知れない。既に1995年に、チベットの宗教指導者や学者に珍し いことながら、彼はパンチェン・ラマの選定に関して、中国の立場を支持する声明を出 さずにいた。1996年病気を理由に、デブン、セラ僧院に派遣される愛国教育工作班 に加わるようにという公式の求めを、彼は断った。

彼は既に進行性の癌に苦しんでいたとは言え、この拒絶によって彼は、国家レベルの学 者の地位がもたらすごく普通の特権を失った。彼が治療のために北京に移送されると、 友人たちが苦労をしてようやく病室を斡旋する有り様であった。

3カ月前に、71才の老学者は米国に行くことを許可されたが、米国に着いたときには 治療を受けるには手遅れであった。

マルクシズムと伝統

1927年に南チベットのコンポ・ニィントリで生まれたドゥンカル・ロプサン・ティ ンレイは、4才の時に旧政権の下でトゥルクつまり転生化身と認定された。5年後にラ サのセラ僧院に入り、ダライ・ラマ法王の師であるリジャン・リンポチェの下で学ん だ。30才でゲシェ・ラランパの学位を授与された。チベット仏教の僧院制度における 最高位の学位である。

既に20才代で、ラサのギュメ密教学堂のゲコつまり教師に指名されていた。彼は既 に、伝統的なチベット文化の五科学すなわち仏教哲学、論理学、文学と文法、天文学、 詩文の知識で名を知られていた。彼の記憶力は伝説的で、毎晩寝る前に1本の針で突き 通せる分量の経典を覚えたと言われている。

1959年に中国がチベットを完全に支配する以前のことであったが、ドゥンカル・リ ンポチェは北京の民族学院で教鞭を取るために、チベット政府によって派遣された。そ こで彼は、新政権が導入した近代的でマルクシスト的な研究方法を吸収することに没頭 した。文化大革命後も、彼はチベット人学者が就任することが可能なすべての役職を歴 任した。西蔵大学の教授そして副学長、チベット社会科学院の名誉院長、北京の中央民 族学院の教授、北京の中国チベット学研究所の副所長等である。

彼が受けた政治的な報酬は、中国人民政治協商会議の一員となったこと、中国仏教協会 の顧問となったことであった。彼の知識は1987年に公に認められ、『科学に際立っ た貢献をした国家レベルの専門家』の称号を得た。

彼の主要著作は、『チベットの宗教法と世俗法の統一』、『共産主義年代記の注釈』、 『貴重なチベット本一覧』、『チベットの宗派間の闘争の歴史』、およびチベットの詩 と現代教育に関する重要な著作等であった。

彼は、中国およびチベットの外のチベット学者の間では、現代チベットを代表する学者 であると見なされており、1992年にチベット学国際協会の顧問に賛成多数で選出さ れた。求めずしてこの名誉が与えられたために、中国政府は彼の政治的信頼度を調査し 始め、彼の作品の再評価を始めた。

3大学者の最後の1人

彼の死が意味するところは、文化大革命後のチベットにおいて最も偉大な学者とチベッ ト人たちが認めていた3大学者、ツェテン・シャブルン、ムゲ・サムテン、ドゥルカル ・リンポチェが、今では皆亡くなってしまったということである。3人の中では、伝統 的な学問だけでなく近代的な学問においても、優れていたのはドゥルカル唯1人であ る。

文化大革命後には、チベット仏教の思想とマルクシスト的な分析法を交配させたり、社 会の発展と教育の進歩のための啓蒙運動を行ったりして、チベットの言語や文化を近代 的な言語や文化として再構築するするために主要な役割を果した。

彼は、近代的な教育をチベット発展の鍵と考えていた知識人たちの1人で、その中でも 特に名前の知られた存在であった。チベットに大学を設立する運動を展開し、1985 年にチベット語を使って、近代的な研究および伝統的な研究をする高等教育機関を設立 した。「チベット語の発展が、チベットの経済発展の重要な基盤である」と、彼は19 95年に語っている。しかしこの大学は、今ではチベット語のいかなる近代的な講座も 開講してはいない。

彼の教育者としての大きな影響力は、1970年代末に北京の中央民族学院に移ってか ら発揮された。彼は、敦煌文献の研究とチベット人の若き研究者の教育を、結び付け た。この研究成果は後に別の学者たちによって、彼の業績に一言の言及もないまま出版 された。彼が育てた研究者の中には、東チベット人の作家ドゥンドゥップ・ゲルがい る。彼はチベット人の若者に人気の有る詩集『青い湖』を著し、1980年代初期のチ ベット文学復興の担い手となっている。

他の学生たちの中には、元のチベット自治区主席の息子、ジグメ・ガポがいる。彼は現 在、ワシントンに拠点を置くチベット語放送『自由アジア・ラジオ』の局長を務めてい る。「ドゥンカル・リンポチェは、文化を次の世代に伝えようとした、彼の世代では数 少ない人の1人であった。与えられた状況の中で、最善を尽くして、この為に尽力し た」と、ジグメ・ガポは語った。

ツェテン・ワンチュックは、現在では米国の放送局『ボイス・オブ・アメリカ』のチベ ット語部門の優れた記者である。彼もまた、1980年代の初頭、ドゥンカル・リンポ チェの下で学んでいた。「先生は、1978年以降特に、教養あるチベット人の間で非 常にユニークな役割を果した。北京とラサで先生の薫陶を受けた人々の中から、チベッ トの若い知識人たちが育って来た。その人々が、チベットで重要な役割を果している」 と、彼は語った。

1980年代のドゥンカル・リンポチェの授業には、学生達ばかりでなく先生方も聞き に来ていた。授業内容は、古典文学、宗教哲学、天文学、チベット詩歌、チベット語文 法等で、伝統的なチベット文化の研究に焦点を絞っていた。彼は1984年、西蔵大学 の歴史学教授としてラサに帰って来ると、稀に公開授業を行うことがあったが、大学当 局と個人的に衝突することに辟易としていた。しかし幅広く学生達と接して激励し、個 人授業で研究者たちを育てた。たった一人の学生にでも個人授業を行い、また有名な宗 教学者のボーミ・リンポチェや故イェシェ・ワンチュクらとも交流を持った。

彼はラサに帰って来ると、チベット社会と文化の維持発展により力を注ぐようになっ た。チベットの中等教育充実のためのプロジェクトに深く関与し、チベット語教育のカ リキュラムを開発し、チベット語教科書の標準版を作成した。またもっと政治的な色彩 を帯びた計画としては、中央チベット、カム、アムド方言の独特な言い回しを取り除い て、標準チベット語を作ろうとしていた。彼の方針は、常に現実的であった。彼は、 1995年ロンドン大学の講演で、「チベットの子供達は、学齢の1年目から、チベッ ト語だけでなく中国語も教えられるべきである。その方が現代社会に適応し易いからで ある」と述べている。この政策は、現在実行されている。

しかし1980年代の中期には、彼の公の発言は次第に先鋭的になり、彼が言うところ の中国的すなわち物質主義的なチベット研究をする学者らに対する、痛烈な批判を展開 するようになった。ツェテン・ワンチュックが今でも覚えているのは、1984年の会 議においてチベット文学は、神秘的な主張を額面どおりに受け取らなければならなくな ったとしても、『チベット人の思考法』で研究されるべきだと主張したという。この見 解は、以前の彼のマルクシスト的な手法とは、明らかに矛盾するものであった。「彼は 同種の発言を、ラサで他にもしていて、しばらくすると人々は彼を招待して話をしても らうことを怖がるようになったのです」と、ツェテン・ワンチュックは思い出を語って いる。

20年前には、ドゥンカル・リンポチェは中国の協力者だと思われていた。「彼は、中 国人に対しては上手に取り繕っていました。それで同じ階級出身の我々は1人も、彼を 信用していなかったのです」と、元のチベット貴族の1人は語っている。この人は、ラ サ近郊のテルン強制労働収容所に9年間収容され、水路を掘り発電所を作っていたとい う。

「階級闘争の集会で、彼は共産党のために良いことをして来たと言った。そして彼も我 々と同じ階級、地主階級の出身でありながら、他の人々を非難したのです」と、現在は インドに暮らしているチベット人は語る。

1970年代の後半でも、彼は信用されていなかった。ツェテン・ワンチュックは、ラ サの人々が大きな書店に行き、僧院が政治に及ぼした影響をマルクシストの立場から批 判した、彼の評論書『チベットの宗教法と世俗法の統一』を買って、それを大通りで破 り捨てていたのを目撃している。10年後、同書は歴史書としての価値を認められ、チ ベット亡命政府の手によって再出版された。

ドゥンカル・リンポチェの亡くなる10日前に、高名な宗教指導者ゲシェ・イェシェ・ ワンチュックがコンポで交通事故で亡くなった。69才のゲシェ(仏教学博士の意のチ ベットの称号)は、中国仏教協会のチベット支部の副部長であった。雲南省北部のチベ ット領域の出身であった。中国がチベットを侵略する前年に16才でセラ僧院に入り、 後に1年間を獄中で過ごした。1986年彼は、1959年以来最初のゲシェ・ララン パの称号を授与され、チベットに残っている宗教指導者の中で重要な地位に就いた。彼 は1982年にインドを訪問したが、チベットでの宗教指導を続けるために帰国するよ うに、ダライ・ラマ法王に説得されたと言われている。

昨年2月、チベット最高位の高僧の1人が、49才の若さで亡くなった。名前はテンジ ン・ジグメ、第6世レティン・リンポチェである。彼は、『内ホトクト』の地位にある 高僧で、伝統的なチベットにおいてはダライ・ラマ法王が幼少時に摂政を務める資格を 有する、小人数の1人であった。彼は中国政府によって、多くの名誉職の地位を与えら れていた。そのために、中国政府の立場を代弁する声明を出さなければならないことが 度々あった。

彼は、文化大革命の直後から精神異常を発病し、完全に直ることはなかった。彼は、 ドゥンカル・リンポチェと同じ強制労働収容所に収監されていた。しかし、彼の地位と 故パンチェン・ラマとの関係から、他の収監者とは違って8週間の闘争集会 で激しい拷問を受けた。

「1カ月か2カ月、彼は日中は独房に入れられ、夜になると闘争集会に引きずり出され ました。彼が気を失って床に倒れていたのを、私は覚えています。彼の意識が戻るよう に、下水が彼の体に掛けられました」と、収容所の元の仲間の女性は語った。「旧社会 で過ちを犯し、人民に対して罪を犯したと、彼は認めました。しかし、他の人々の批判 は一切しませんでした」と、彼女は付け加えた。そのとき、レティン・リンポチェは 16才であった。その後3年間監獄に送られ、釈放されたのは1977年になってから であった。

「彼は、もうリンポチェではないと常に言っていました。何故なら、結婚していたこと があるからです。しかしそれでも、彼はとても愛されていました」と、彼を知るチベッ ト人は語っている。「多くのラサの市民は、目立たぬように彼を敬っていました。政治 的な役割を負っていたとは言え、深い精神性を持った方でした」と、彼は語った。彼の 死によって、中国政府はジレンマに陥っている。ダライ・ラマ法王に頼る事なく、彼の 転生者をいかに発見し、また権威を与えるかという問題である。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update / 15 August, 1997
- Cultural Policy: History Book Banned,
Tibetan Culture Declared "Non-Buddhist" -

- 文化政策:歴史書が禁書に、
 チベット文化は「非仏教的」と宣告される
-

 「社会主義文学・芸術を繁栄させよう」という新たなキャンペーンの前段階におい て、ある演劇作品が上演禁止に、1冊の本が回収された。このキャンペーンは、チベ ット人文筆家に、労働者階級の視点を反映し、チベット文化を非仏教的なものと再定 義し、チベットにおける中国文化の影響への反感を攻撃するように強いるものである。

 17世紀のチベット史を題材としたこれら2作品が禁止になった事実は、7月11日に チベット自治区党書記が行なった文学キャンペーン発動のスピーチの中で公に非難さ れたことで明るみに出た。

 チベット大学のチベット人歴史学者や研究者を攻撃目標とするこの新たなキャンペ ーンは、チベット大学で宗教を教えることを非難し、チベット史やチベット文化の研 究に仏教を含めることを非難している。

 禁止された書籍と演劇はどちらも、かつてラサのダライ・ラマ政府の拠点であった ポタラ宮殿についてのものであり、ポタラ宮殿の大部分の建設の任を負った、ダライ ・ラマ5世(1617-82)の摂政サンギェ・ギャンツォについての記述を含んでいる。

 先週BBC Monitoring Serviceが翻訳を発表した7月16日付の官報「西蔵日報」掲載 の記事によると、7月11日、陳=党書記は次のように語った。
「文学や芸術作品の政治的傾向や思想的内容が、厳密かつ正確に管制されていない」

 陳は次のように続けた。
「少数ではあるが、文学や芸術作品の中には、物事を逆さまに見て、誉めるべきでな いものを誉めたり、あろうことか分裂主義者の首領・第巴桑結嘉措(訳註・サンギェ ・ギャンツォの中国語表記)に手放しの賛歌を献じるものさえある」

 中国がサンギェ・ギャンツォを「分裂主義者」の指導者として批判したという報告 はこれまで知られていない。しかし、中国の公的な歴史は、1693年、北京でのある会 談の折に、清の順治皇帝を欺いて、実際はすでに11年も前に亡くなっていたダライ・ ラマ5世の親書を手渡して称号を授与したことを理由に、サンギェ・ギャンツォを非 難している。皇帝は1695年にダライ・ラマ5世の死を知ったが、そのときまでには、 サンギェ・ギャンツォが中国に知らせることなくダライ・ラマ6世の認定をすませて いた。当時、サンギェ・ギェンツォは順治皇帝からの要求をさらに拒否した。その中 には、当時のパンチェン・ラマを北京へ派遣せよといった要求もあった。

 上演禁止となった劇「ポタレェ・サンダム」(ポタラ宮秘話) は、1996年にラサ 劇団によって制作され、昨年終盤、特定されない「政治的理由」によって当局が禁止 するまで、中国全国を巡業していた。この劇作品は、少なくとも6年前に禁止になっ た同劇団制作の映画に基づいている。その理由は、映画の中で、1652年に順治皇帝に 謁見したダライ・ラマ5世が叩頭の礼をしなかったからだと伝えられている。

 回収された書籍は、学者トゥプテン・ギャルツェン氏編集によるポタラ宮の財宝と 歴史についての豊富な図版を用いた解説書であり、中国語・チベット語・英語の解説 がついていた。この本は、おそらく当局非公認のサンギェ・ギャンツォの肖像画が掲 載されていることが理由で、昨年12月に回収された。

- チベット文化は「非仏教的」だ -

陳=党書記のチベット人学者への攻撃は、特に「チベットの民族文化とチベットの宗 教を同一視し、チベット民族文化はまさに仏教文化であり、仏教文化なしにチベット 民族文化はありえない」といった視点を非難する、チベット文化についての新たな思 想的定義づけの一環である。

「仏教は外来文化だ」。陳は、チベット文化が仏教文化だという意見を「まったく馬 鹿げている」と述べた。チベット文化は、8世紀に仏教が導入される以前に、1000年 以上にわたって繁栄していた。

「仏教文化をチベット文化と同一視するような視点は、現実に即さないだけではなく 、チベット民族の祖先を過小評価するものともなり、チベット民族そのものを卑下し たものだ」と陳は述べた。

このスピーチの中で陳は「大学の教材にもし宗教が含まれていないなら、まったく無 意味だ、とか、もしそうなら、大学は本当の大学ではなくなる、などと言う者もいる 。そんな主張の根拠はどこにもありはしない」と非難している。この攻撃は、チベッ ト学研究から宗教部分を減らそうという計画に対して不満を洩らしていたラサのチベ ット人大学関係者のことを指すものと思われる。

陳は名指しはせずに「真実と虚構を混同するこのような恥知らずな主張」をする「自 称権威者たち」を非難し、続いて、彼らを独立運動へと結びつける。

「チベット文化の研究に携わる同志は、このような主張に憤慨すべきだ。分裂主義者 たちは、宗教を政治の分野に利用することによって、チベット文化を宗教で覆い、言 葉や文化を利用して、民族間にいさかいと対立を起こそうと企てることに、やっきに なっている。」と陳は言う。「これが事の核心だ」。

- 中国化は不可欠だ-

チベット文化に対するこの新たな思想的立場は、外来の、主として中国の影響が、文 化の強化を確実にするためには不可欠だとも断言している。「自覚をもって文化の発 展に奮闘する同志はすべからく、文化交流を歓迎し、この点での牽引車となるべきで ある。」と陳は述べる。この見解によれば、中国化に対するいかなる反対も 、社会の進歩と発展に対する反対と見なされることになるだろう。

「種々の民族間における文化交流は、絶対的に必要であり有益なものだ」と陳は説く 。「ダライ一派による文化的分離の主張は、政治的分裂主義を目指す、為にする主張 である。」

陳はやがて、その交流とは主として中国となされるべきだと明らかにする。彼は自分 の好きなチベットの歌について述べる。「これらはチベット族と漢族同志が文学・芸 術集団において、お互いに学びあい、努力しあった結果として、共につくりあげたも のだ」。

「チベットの文学・芸術作品は、他民族の文化と交流し溶けあわないわけにはいかな い。不可欠の大前提は、チベット民族は中国という国家の56民族の中にあって立って いられるのだということだ」。陳はこう述べ、チベット帝国が8世紀に栄えたのは、 当時の中国の首都・長安にチベット人を留学させたからだと主張する。

全国規模のこの文学キャンペーンの主目的は、「外国文化に関する研究や活用」にお ける取捨選択を奨励することであるが、チベットにおけるキャンペーンでは、中国文 化からの選択的援用については触れられていない。

チベット文化を均質で主として仏教的な文化だという見解への陳の攻撃は、このテー マについての見事に現代的な知識、すなわち、文化は外界の影響を吸収して進歩する という彼の見解に歩調を合わせたものである。

- 脅威 -

チベットの文化についての「進歩主義的」かつ非宗教的定義は、チベット問題におけ る中国の思想統制が、ますます洗練されてきたことを示している。しかし、この新た な見解を批判する言論における暗黙の脅威は、チベット人知識人の間に深刻な懸念が 生じさせている。

「そのような恥知らずな見解をとるのはダライ一派だけだ。国際的な敵対勢力から支 援を得るためには、ダライは、わが国とその政策を中傷する作り話をして、嘘をつか ねばならないのだ」。陳は、チベット文化が危機に瀕しているという説についてこう 述べた。「注目すべきは、この国の内側に、そのような説にこだわる者もいるという 事だ」と陳は続ける。

党書記は、このスピーチの中で17回「ダライ」に言及し、文化に対するこの新たな見 解からのいかなる逸脱も、この亡命中の指導者そして独立運動への支持とみなすと述 べた。独立運動への支持は、チベットでは犯罪行為である。

「後退的、前時代的なマルクス主義だ」とカナダ人社会学者でチベットの専門家であ るロナルド・シュワルツ教授は述べる。「中国政府はチベットの文化をきわめて深刻 にとらえていて、中国人文筆家がなけなしの手段を尽くしてもそうは感じなかっただ ろうほどに、政権への脅威と感じているのだ。」

「解放以来、チベットには、少なくとも自分たちの役割はチベットの文学・文化の保 護をすることだという理由から、傍目には政策からは遠ざかって存在していた知識人 のグループがある。」とシュワルツ教授は語る。「10年以上の間、彼らは学生を補充 し、講義を保つことができた。そして、陳が今やっているのは、これまで攻撃を免れ ていたこのグループを攻撃することだ。」

党指導者がこれらの見解を利用している事実は、中国が最近、仏教以前のチベットを 研究する一流チベット人あるいは西側知識人の活動を奨励してきたことに現れている 。チベットが中国と政治的関係をもっていない仏教以前の時代の研究は、これまで学 術研究者たちが、北京政権の主張への支持者を探している中国人政治家による勧誘を 避ける手段として知られていた。

このキャンペーンの論調は、チベットおよび中国でのチベット語出版の昨今の減少に 拍車をかけるであろう。チベット自治区には、完全に稼働しているチベット語新聞は 一つしかなく、1992年以来、学術的・文学的出版のための出資を得るのは困難になっ ている。

- 国家規模のキャンペーン -

中国の各省・自治区では、5月に開始された「中国的特色をもった社会主義文学を推 進し繁栄させよう」という国家規模のキャンペーンの、それぞれの地域版が展開され ているようである。このキャンペーンは、昨年12月の、文学と芸術の推進についての 江沢民首相による演説が基調となっている。

この全国キャンペーンは、欧米に感化された退廃−−おそらくは、現在中国の小説に おいて顕著になっているポルノグラフィーのこと−−の中国芸術への借用に終止符を 打ち、より芸術的な創造性と議論、同時に文化における古典的マルクス主義理論の研 究を要求している。文筆家や芸術家らはまた、もっと「人民」と交流し、社会主義に 奉仕せよと告げられている。

チベット版のキャンペーンでは、芸術的創造性と議論には触れていないし、あるいは 、昨年12月の文化についての江沢民による元々の演説を支配していたスローガン「百 の花を咲かせ、百の考え方を競わせる」も主張されていない。

チベット版キャンペーンの演説では、明文化された国家の演説とは異なり、陳=党書 記はチベット文化に階級分析を適用し、労働者階級の文化と支配者階級の文化とに区 別している。

労働者階級と支配者階級の文化の区別を無視することは、チベット文化が脅威にさら されているというダライ・ラマの主張に等しい、と陳は言い、この主張は、チベット には単一の文化のみが存在し、ダライ・ラマおよびその奴隷すべてが同じ労働をして 同じ文化を共有していたという仮定に基づいている、と指摘する。「彼(ダライ)が 伝統宗教、文化、歴史の復興と呼んでいるものは、端的にいえば、国家統一のシステ ム、寺院、そして農奴制の復興のことである」と陳は述べた。

陳による労働者階級文化の定義は、宗教にはまるで触れておらず、宗教や「支配階級 の文化に貢献した、上層支配階級の享受したもの」は、現代チベット人に引き継がれ てはならないと強調する。

江沢民首相による演説と人民日報の論評は、階級分析を避け、労働者階級には触れず 、賞賛すべき芸術の形態として、美術、写真、文学、映画、書道を挙げた。

チベット党書記は、労働者階級成員が創造した「民間舞踏、詩歌、歌、郷土舞踏」と 彼が定めた「労働者人民」が創造した芸術を推薦した。彼はこれらの芸術形態を「我 々が受け継ぐべき民族伝統文化の無尽蔵の源泉」と述べた。この表現は、陳の他の主 要な論点、すなわち伝統文化の最高の面以外は、拒絶し根絶すべきだということを表 わしている。「文化を継承するにあたっては、それを分析し、無価値なものを捨て、 よい部分を前進させることが必要である。民族文化の発展とは、『有用な、あるいは 健康的なものを発展させ、そうでないものを捨て去る』結果の一つである」。陳=党 書記は、毛沢東を引用してこう述べた。

チベット版キャンペーンで例として取り上げられた作品は、主として社会主義歌謡や 舞踊であり、特筆すべきは1950年代の3つのチベット歌謡−−「北京の金の山の上で 」(北京的金山上)、「共産党が来て、辛苦が甘味になった」(共産党来了苦変甜) 、および「解放された奴隷は歌う」(翻身農奴把歌唱)である。

「壁造りの歌」と呼ばれる現代作品も賞賛を得た。「労働者人民の人生について」の 作品であり、「大衆の喜怒哀楽を思想的にも感情的にも反映している」からである。 陳の直属の補佐役であるライディは「解放された奴隷、大学へ行く」という最近の舞 踊作品を賞賛したとして引き合いにだされた。

同じ演説のなかで陳は、小学校において中国語教育が増加している問題について答え た。この問題は3ヶ月前に彼の補佐約の一人が最初に持ち出したものだ。「チベット においては、『自治区民族自治に関する法律』の規定に従って、2言語教育を精力的 に推進するのが実用的であり適切である。」と陳は述べ、ふたたびこれを「敵対勢力 によって植え付けられた不和と妨害工作」との闘争と結びつけた。4月の声明と同じ く、この演説でも、中国語学習に割く授業数が増えるのか、中国語を用いて授業がな される教科が増えるのかは、不明確であった。

以上

(翻訳 長田幸康)



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TIN News Update / 23 August, 1997/
- Tibetan Sentenced to 9 Years for Prisoner List -

- 囚人リスト作成のチベット人に9年の刑 -

チベット人仕立屋が、4年前に政治囚のリストを作成した罪で懲役9年の判決を受けた。

裁判の判決文によると、ショル・ダワとトプギェルの2人は「我が自治区の服役中・ 釈放済みの政治囚の名前のリストを共謀して収集した」ことが裁判で明らかになり、 それぞれ9年と6年の刑を宣告された。

ルンドゥプ県ツァンド村出身で、58歳のラサの商人であるトプギェルはまた、60歳の 仕立屋ショル・ダワに渡した3通の「反動的な書簡」を書いたことも明らかになった。

TINが参照した判決文によると、この書簡は「政治囚の名前のリストが添付され、彼 ら自身が作った牛頭のスタンプが押してあり、ダライ一派への報告書として外国に送 られるはずだった」。

この裁判は1996年8月8日、ラサの中級人民法院で行なわれたが、公式な判決文書は これまで見出されなかった。今月、チベット難民からこの文書が得られてはじめてこ の判決が明らかになった。

2人はこの名前のリストを国外に送ろうと意図したためにスパイの嫌疑を受けた。こ れは、今年10月1日に施行された新しい法律によって段階的に廃止されることになっ ている、かつての反革命罪にかわって、現在の中国で広く用いられている罪状である。

「ラサ刑事裁判所法廷文書 No48 (1996)」として発行された判決文で、「この法廷は 、被告ショル・ダワとトプギェルが、社会主義制度と人民民主独裁を転覆する目的を もって、特に外国敵対勢力により任ぜられた使命を積極的に受け入れ、国境において 我が国についての種々の情報を積極的に収集し、国家の治安に危険をもたらす犯罪活 動に関わったとを判決する。」と3人の裁判官が裁定した。

これ以外に文書で言及されている行動もしくは事件は、インドを拠点とするチベット 女性協会(Tibet Women's Association)のメンバーからの書簡に関するもので、こ の書簡にはこの組織の3人の新会員についての詳細が書かれていた。判決文によると 、ショル・ダワは1994年の某日、別のチベット人にインドに届けてもらうために「そ の書簡を渡した」という。

判決文によると、2被告は、2人の元囚人ドゥンドゥプ・ドルジェとラトゥ・ダワに 囚人の名を思い出して書いてくれるように頼んで、囚人のリストを得た。ドゥンドゥ プ・ドルジェはラサ皮靴帽子工場の元運転手であり、ラトゥ・ダワはラトゥ僧院の僧 侶であるが、両名とも政治囚として4年の服役の後、1993年に釈放され、2年後にイ ンドに逃れた。ドゥンドゥプ・ドルジェは数週間のうちにチベットに戻り、1995年8 月に短期間拘留されたという報告もある。

ショル・ダワとトプギェルは、彼らが告訴され嫌疑をかけられている事件から2年間 以上たった1995年8月14日と11月12日に逮捕された。囚人のリストを作った罪が明ら かになったとすれば、警察がショル・ダワとドゥンドゥプ・ドルジェを含む少なくと も11人の元活動家のグループを取り調べたときのみであろう。非公式情報によると、 このグループは1995年8月、その年の9月1日に行なわれたチベット自治区創立30周 年の記念行事の混乱を防ぐために逮捕されていた。

60歳の仕立屋ショル・ダワの名は、出身地ラサのショル村にちなんで名付けられた。 ラサの活動家のなかでは良く知られた人物だ。彼は、1980年代にリベラル路線が導入 された後に逮捕された最初のチベット人の一人であり、かつての2つの罪状によって すでに6年間服役している。いずれも「反革命宣伝を広めた」罪である。

1981年9月29日、ショル・ダワは、1987年に獄中で亡くなった著名な反体制学者ゲシ ェ・ロサン・ワンチュクがショル・ダワの依頼によって書いた「悲劇的経験の20年」 と呼ばれるチベット史についての謄写版パンフレットを260枚刷った罪で逮捕され、 後に2年の刑を宣告された。この仕立屋を裁決した1982年の裁判文書は「ダワはまた 、チラシの冒頭にチベット国旗の図案を印刷した」としている。

チベット亡命政府が入手した1995年の判決文によると、1985年11月8日、「『600万 チベット人の生活条件の悪化とチベットへの外国の宗教的侵略』を非難するチラシを 10枚ほど手書きで」書いた罪で逮捕され、4年の刑を宣告された。

「中国は、とくに人々が中国人政権への嫌悪を露にするときに、人民裁判を仕立てて 、でたらめにチベット人を逮捕・投獄して、無実の罪をなすりつけている」。1995年 10月、ショル・ダワの娘ニドゥンは、父親の釈放のために国際社会の支援を呼びかけ るインド発の声明の中で、こう述べた。

「この瞬間にも父は耐え難い残酷な扱いを受けている一方、私たちダワの子どもは悲 嘆にくれても、父の苦しみを和らげるために何もできない。」と彼女は語った。ショ ル・ダワの妻は1987年、彼が獄中にいるときに亡くなり、ニドゥンとその2人の兄弟 は亡命している。

現地当局の報告によれば、ラサの政情は現在安定している。ラサ市長ロサン・ギェル ツェンは8月8日、日本人報道陣に対し「ここ数年、情勢は穏やかだ」と語った。6 月には3名の欧米人ジャーナリストがチベット入りを許されたし、8月31日のラサ貿 易見本市の開会にあわせて、8月末には10名以上の海外報道陣がラサへ護送されるこ とになっている。

「ラサは発展のための歴史上最高の機会を迎えている」。貿易見本市についての8月 19日付人民日報の記事で、ラサ市長は書いている。42のラサを拠点とする企業がラサ 地域における、鉱山、肥料生産、材木伐採、食料加工、商店、旅行業の開発のため、 6700万ドルの国外からの投資を求めている。昨年チベット自治区全体での外国の投資 額は916万ドルに達した。

スイス政府の使節が3人のスイス人ジャーナリストを伴って、教育と健康管理を視察 するためラサに今日到着した。また、ドイツの議員団が来週、現地の人権状況を調査 することになっている。

以上

(翻訳 長田幸康)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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