21号(1997年8月)


WTN News, Wed, 14 May 1997
Testimony by Jeffrey Bader,
Deputy Assistant Secretary For East Asian and Pacific Affairs,
Before the Senate Foreign Relations Committee

アメリカ上院外交委員会証言

アメリカ合衆国議会上院外交委員会におけるジェフリー・バデル国務省東アジア・ 太平洋担当次官補代理の証言
(参考:アメリカの国務省は日本の外務省に相当するもの。アメリカの議会にお ける「証言」は政府の担当者が政府の立場・見解を議会に示す機会であり、この 「証言」は現下のアメリカ政府のチベット問題への認識や対チベット政策を総合 的に示したものと言える。)

1997年5月13日

議長。
アメリカのチベット政策について証言する機会を与えていただいたことに感謝し ます。この公聴会はさる4月21〜24日にダライ・ラマがワシントンを訪問した直 後という格別なタイミングでもあります。

背景

 中華人民共和国のチベット民族自治区には200万人のチベット民族が居住して おり、これ以外にもおよそ200〜300万人のチベット民族がこの自治区に隣接した 青海、四川省西部、甘粛、雲南といった地区に居住しています。インドやネパー ルには12万5千人のチベット難民及びその子息(注:いわゆる難民二世)が居住 しており、2〜3千人がその他の国に住んでおります。

 チベットに居住するチベット人達にとっては、この50年間は混乱の日々でした。 1951年には中国の人民解放軍がチベットに侵攻しました。1911年の中国の革命( 注:辛亥革命)により中国のチベットにおける実効支配は存在しなくなりました が、この侵攻によって、その期間も終結しました。1951年には、チベット代表に より17ヶ条協約が調印され、人民解放軍が駐屯する道を開きました。但し、これ について、ダライ・ラマとその補佐官達は全面的に賛成していた訳ではありませ んでした。

 中国側が、チベットの伝統的な社会に侵略を行なったことに対して、1950年代 終わりまでには、武力による反対が起こり、1959年のダライ・ラマのインド亡命 につながりました。数年の間、いくつかの地域でゲリラ戦が行われましたが、実 効的に鎮圧されました。

 1960年代の文化大革命については、チベットにおいては早い時期から深刻な打 撃を与えました。中国当局を支持してきたパンチェン・ラマも15年間投獄されま した。数千もの寺院が閉鎖され、破壊されました。チベットの文化はとりかえし のつかない被害を受け、仏教は封建制度の名残として攻撃を受けました。

 文化大革命が終結し、1980年には当時の中国共産党総書記の胡耀邦(故人)が チベットを訪問したことをきっかけにして、チベット政策の見直しが始まり、自 由化政策が開始されました。漢族のチベット流入はゆるやかなものとなり、地区 の政治においても、チベット人が多く登用されるようになりました。チベットの 文化や宗教に対しても一層の配慮が払われました。寺院は再建・再開されました。 ダライ・ラマもチベットに代表団を送り、中国側との対話も開始されました。中 国政府は、一定の条件の下で、ダライ・ラマとその支持者がチベットに戻ること を認める意志があることを表明しました。

 1987年は、中国のチベット政策が大きく強硬路線へと転換した年でした。ダラ イ・ラマはチベットの文化と宗教が衰退してゆくことに反対する人達の支援を集 めるべく、西側との接触を新たに重視しました。この年の後半には、独立支援の 大きな暴動がラサで発生し、この後も数年に渡り暴動が続きました。中国側は治 安政策を強化することで対抗し、寺院への弾圧等も起こりました。戒厳令が公布 された時期もありました。ダライ・ラマの代表との対話も停止されました。この ような強硬策はこの時期から現在に至るまで継続しています。1994年には、「チ ベット工作会議」が開催され、経済発展に重点をおくことが強調され、ダライ・ ラマとの共存やチベット文化の保全は脇に追いやられた形となりました。

 ダライ・ラマに対する尊信はほぼ普遍的なものと言えますが、これはチベット における政治に問題がなかったということではありません。20世紀の間、チベッ トの内であれ外であれ、チベット人達は派閥争い、特定の地域や宗派のひいき、 宗教界と俗界との意見の相違、近代主義者と保守派との争いを起こし、このよう なまとまりのなさ(split)がチベットの政治のあり方に災いをもたらしてきまし た。中国との緊張が最も高まっていた時期であっても、中国人と働いてきたチベ ット人もいます。チベットの権利と地位について、非暴力と中国との話し合いに よる解決の努力を図ることを、ダライ・ラマは明確にまた一貫して支持してきま した。にもかかわらず、今日、若いチベット人達の中には、失望から暴力に訴え ることをもくろむ者もいます。このような考え方の違いはあるにせよ、共通に言 えることは 1)チベットに住む漢族とチベット人の間には相当な反目があること、 2)大多数のチベット人は現在の政治のあり方や政治機構に対して満足していない こと、があげられます。

 これまでの20年間の時期、ダライ・ラマと中国政府は、両者の共存を図るべく 努力してきましたが、それも一旦開始して、また終わるというくり返しでした。 1980年の胡耀邦のチベット訪問から始まった自由化の時期には、中国政府からの 招請により、ダライ・ラマはチベットに代表団を送り、チベットの状況を視察さ せてきました。この後、先に述べた理由により、対話を進めるという雰囲気はな くなりました。ダライ・ラマは、対話の基盤を復活させるべく、1988年にストラ スブールでの演説で、チベットは中華人民共和国の中での自治を行い、中国側は ある程度の防衛・外交の権利を有することとしたいという新しい提案を示しまし た。中国は、この提案はチベット独立の隠れ蓑であるとして拒絶しました。1989 年初頭には、ダライ・ラマは中国政府からのパンチェン・ラマ葬儀参列の招待を 拒否し、この年後半の中国共産党政治局の会合では、強硬政策が決定され、ダラ イ・ラマはチベット問題の解決には参加させないことが決定されました。これ以 降、ダライ・ラマとの対話は実質的に脇に追いやられた形となりました。ただし、 断続的には両者の接触は継続されています。

 この数年の間、中国政府は相当程度の資金をチベットに投入してきました。 1980年の報告書によれば、中国は、1952年から42億米ドルに相当する補助金をチ ベットに支出し、これ以降も24億ドルが支出されていると中国政府は主張してい ます。にもかかわらず、経済面でもまだ相当の問題が残されています。チベット は中国でも最も貧しい地区であり、ここ数十年の間、チベットは相当な経済成長 を遂げてはいるものの、中国の他地域に比べれば、低成長となってます。  中国による投資と、チベットの経済発展について、完全によいことと捉えては いないチベット人もいます。多くのチベット人は、開発のための投資で潤うのは、 多くは漢民族やチベット以外の民族であると主張しています。数十万のチベット 族以外の民族がチベットに流入し、開発プロジェクトや、そこで働く者達のため の仕事に就いています。正規に登録されて人口が40万人のラサで、「でかせぎ人 口」(floating population)は20万人以上であると最近の推計は示しています。 非チベット族の流入はチベット人との緊張を高めるとともに、チベットの独自性 が失われることに対する懸念も高まっています。

 中国側がチベットに認めた自治については、いくばくかの恩恵と特権を生み出 しています。特に、家族計画上の制限の緩和や政府職員の大部分がチベット人で 占められるようになり、全国人民代表大会においても、チベット代表が出席して います。1万人のチベット人が、中国の10の民族学院やその他の地域で、中等・ 高等教育を受けています。

チベットの人権状況についてはかなり不満足なものです。中国当局の人権侵害は 広範なもので、拘留中に死に至らしめたり、拷問、恣意的な逮捕、公開裁判なし の拘留、平和的な手段で自身の宗教的・政治的な見解を示したチベット民族主義 者に対する長期刑、宗教、言論、報道の自由への統制強化といったことが挙げら れます。

当局側は、チベットの伝統的な宗教活動を容認はしていますが、これが政治的な 異議申し立ての手段となることは認めていません。
政府は、チベットの民族主義を育てる土壌となるとして、僧侶や寺院に対しては 密接な監視を継続しています。中国当局は、小学校1年生の段階から、教育にお ける中国語使用を増加させることを狙っていますが、このことは過去にチベット 人達の怒りを招いたことがあります。このような状況は今年頭に国務省が発表し た人権に関する報告に全体がまとめられております。

米国の役割

米国のチベットに対する政策とはいかなるものでしょうか?米国は、チベット民 族自治区(以下「チベット」と呼ぶ)については中華人民共和国の一部と考えて おります。この考え方は長期に渡って維持してきましたが、中国の近隣諸国を含 め、国際社会全体でもこのような考え方を採っております。チベットを主権国家 と考える国は一つもありません。中国側がチベットに対する主権を有していると いう主張については、米国は中華人民共和国成立以前から受け入れおてります。 例えば1942年に、重慶におかれた国民党中国政府に対しては、「いかなる時でも、 (米国は)中国のチベットに対する主権に対して疑義を唱えたことはない」と表 明しております。

 チベットを独立した国家とは考えないことから、米国はチベット亡命政府とは 外交関係を有しておりません。しかし、米国は、チベット問題に関して、中国内 外の各種政治団体の代表と幅広く接触するように努めてきました。これについて は、ダラムサラの人々や米国のチベット人との接触や、北京の大使館や成都の総 領事館の職員のチベット訪問が行われてきました。

 米国は、対チベットの政策策定に当たっては、チベットの独自の宗教、言語、 文化的伝統やチベット人の人権に配慮するよう中国に対して強く求めてきました。 米国は、中国とダライ・ラマに対して、早期の問題解決を図るべく、前提条件な しの真剣な対話を行うよう勧めてもきました。我々は、チベットと、中国政府と の関係に関する問題については、特にダライ・ラマを中心とするチベット人と中 国との直接対話で解決されるべきと一貫して主張してきました。

米国は、世界中において人権の擁護が図られることを支持しており、人権問題は 中国との関係においてもカギとなる課題の一つです。アメリカの政策としては、 チベット民族並びに他の中国人の人権が一層尊重されることを求めることにあり ます。

我々はチベットにおける「良心の囚人」達の釈放を求めて来ました。また、チ ベットにおける平和的なデモ活動に対して武力を使用することを止めることを求 めています。 つい最近には、チャデル・リンポチェとその他2人が有罪判決と 懲役を宣告されたことについて意見を表明しています。これは、チェデル・リン ポチェが、チベット仏教において2番目に高い地位を占めるパンチェン・ラマの 選定に当たり、新しいパンチェン・ラマがダライ・ラマの指名で選ばれたことに ついて、リンポチェが果たした役割について罪を問われたことが明らかです(訳 注:本号掲載TIN5月9日付記事参照)。また、我々は中国に対して、刑務所 の環境を向上し、囚人への虐待・拷問を止めることも求めています。

 我々は、中国との二国間対話においても、一貫してチベット問題への懸念を表 明してきました。オルブライト国務長官は、さる2月の北京訪問の際にはチベッ トを含めた人権問題への懸念を表明し、銭其深副総理がワシントンを去る4月に 訪問したときにも懸念を表明しています。また、国務長官は、中国政府とダライ・ ラマの対話をくり返し求めています。

 北京の米国大使館は、ひんぱんに人権問題への懸念を問題にしています。中国 の安全に対して問題を起こしたとして、昨年末に18年の懲役が宣告された、チベ ットの民族音楽学者ンガワン・チョエペルの件について、これは問題であるとし ており、チェペル氏の活動がなぜ違法なのか公式な説明もないままに、なぜこの ような判決が出されたのか理解できないとしております。北京の大使館及び成都 の総領事館も折りに触れてチベットを訪問し、地元政府と懇談したり、情勢の観 察にあたっております。サッサー駐北京大使も4月16〜18日にチベットを訪問し、 全ての公式な懇談の場において、我々の人権に関する見解を強く表明してきたと ころです。

 チベットの人権問題に関する懸念については、対中国の2国間だけでなく、多 国間の場でも表明してました。ジュネーブにおける国連人権委員会の場でも、チ ベットを含めた中国の人権問題に関する決議を、同じ様な考えを持つ国々と共同 で提出しました。 残念ながら、中国は、決議について取上げない(no-action motion)ということで対抗し、決議に対しての議論と裁決を実質的に封じ込めま した。ただし、決議案を提案したことだけでも、我々の懸念を示したことにはな ります。中国側が決議を覆そうと務めたことは、この問題に関して、中国が意識 を持ち、要注意の問題としていることを示しています。

 チベット外部のチベット人と中国の対話の進展にとって、ダライ・ラマは明ら かにカギとなる人物です。大統領及び副大統領が、ダライ・ラマに対して、ひと りの宗教的指導者として大きな尊敬を抱いていることの証しとして、数回にわた り、ダライ・ラマと会見してきました。ここ最近では4月23日にも会見が行われ ています。

オフブライト国務長官とシャタック国務次官は4月24日にダライ・ラマと会見 しています。この際には、ダライ・ラマは、国務長官の諮問機関「海外の宗教的 自由に関する委員会」の委員が示した見解と懸念に対して賛成する旨を伝えてい ます。

この他の米国の活動

 米国はインドにおけるチベット難民に対して人道的支援を与え、ネパールのチ ベット難民に対しては国連難民問題高等弁務官を通じて支援を与えています。イ ンドのチベット難民の支援に関する米国政府の資金提供については、そのほとん どが米国の民間ボランティア団体であるTibet Fundに拠出され、インドのチベッ ト難民の援助計画に充てられています。援助計画により、受け入れセンター、予 防医学、収入を得られるためのプロジェクト(訳注:職業訓練等が想定される) を支援し、基礎的な食糧、衣服、水が提供されています。

 1990年の「移民法」により、千人の「移住を余儀なくされた(displaced)チ ベット人」に対しては特別の移民ビザを発給しており、米国全土に移住しており ます。米国情報局はチベットの学生や社会人に対して米国で勉強するための奨学 金を支給しており、1988年以降、140人のチベット人が奨学金を得ました。その ほとんどが学業終了を終了した後にインドやネパールに戻り、チベット難民社会 の福祉に貢献しています。

 ボイス・オブ・アメリカ(VOA)のチベット語放送は、毎日2時間放送され ています。チベット人へのインタビューの放送も多く、ダライ・ラマへのインタ ビューも少なくとも5回はこれまでに放送されています。VOAのチベット語放 送には妨害電波がかけられています。我々は中国に対して放送への妨害を止める よう強く求めており、VOAの放送への妨害に関する問題を解決するための実務 者協議を再開するよう求めてきました、中国側は1994年10月の米中間の人権問題 対話の場で実務者協議の再開に同意したものの、対話と協議はこれ以降中断され ています。

1996年9月29日には「自由アジア放送」(Radio Free Asia)の中国向け北京 語放送が開始され、同年12月2日にはチベット語放送も開始されました。自由ア ジア放送の電波はまずまず、もしくは良好な状態で受信されており、妨害電波は かけられておりません。北京の中国外務省及びアメリカの中国大使館は、この自 由アジア放送が放送を開始した当初、冷戦時代の感覚で中国の国内問題に干渉す るものであるとして正式に抗議してきたことを付言いたします。我々は、自由ア ジア放送はアメリカの非営利団体が、アメリカ情報局の放送関係理事会の補助金 を得て運営しているもので、プロパガンダではなく、正確で総合的なニュースを 提供することが目的である、と回答しています。

結語

証言を終えるにあたり、私の見解を述べれば、中華人民共和国成立以来の48年 間についてみれば、中国政府のチベットに対する扱いは過酷で、国際的な人権規 範に則っておらず、認めることができないものであります。特に1950年代の初め や1980年代の初めの時期には、中国政府が前向き(Enlighted)の政策を取るかに 思われたこともありましたが、このような時期は長くは続きませんでした。 アメリカ政府は中国政府がチベットに対して行っている人権の侵害に対して、公 式に、また内々にも発言を続けてゆくこととしています。

同時に、中国の国家主権に対して疑義を唱えたり、暴力に訴えることが状況の 改善につながることはないと信じております。数世紀にわたり、中国政府はチベ ット独立という考え方を認めようとはしていません。また、将来認められるよう になるといった根拠も見出すことはできません。

ダライ・ラマは、チベットの歴史的地位に関する自分の見解のいかんに関わら ず、チベット独立を主張することが実際的でないとあえて認めており、中国の中 でのチベットの自治を求めております。中国側も、これに応えて、ダライラマが、 独立を唱えず、独立支援の活動もしないならば、対話を行う意志があることを伝 えています。両者の立場の違いは、部外者からみれば乗り越えることが可能だ、 と思われます。我々は、1980年代に行われた、成功につながりそうな対話が再開 されることを両者に期待しています。チベットの独自の文化とっ宗教的な伝統の 保護はまさにこれにかかっています。

チベットの地位向上の恩恵を享受するのはチベット人だけではありません。中 国側も同様に恩恵を受けます。中国の少数民族の基本的な要求を満たすことがで きないならば、安定と公共の秩序が脅かされることとなるでしょう。政府に反抗 する人々を押さえて秩序を維持することになれば、いまだ発展途上にある国家の 貴重な資源を無駄にすることにもなります。

最後に、私が今まで中国の指導者からよく聞かされたことですが、 何世紀も の間、西側諸国に蹂躪されてきた時代が終わり、中国は何よりも他からの尊敬を 求めているとのことです。チベットに対する政策が変更され、もっと前向きのも のとすることで、中国が経済発展を遂げたことにより勝ち得た尊敬をいっそう大 きなものとする長期的な足場となることを中国の指導者は理解するものと考えま す。

(以上)

(翻訳者 TNDスタッフ)


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TIN News Update, 28 June, 1997b
Hong Kong Celebrations Raise Expectations in Lhasa

香港返還式典、ラサで疑心暗鬼を増大

香港返還式典に関連した不穏な動きを封じ込めようとする中国の思惑が、ラサで疑心暗 鬼を生み出しているようだ。香港の返還式典が、中国との再統合を支援する動きを強化 せずに、返ってチベット人民族主義者の決意を強めているのではないか、という疑心暗 鬼がラサでは強まっている。

返還式典の時期に合わせて警備が強化され、香港の中国返還をことさらに強調するプロ パガンダが流されたことは、チベットにおいては返って反感を呼び起こすことになっ た。しかも政府にとって不幸なことに、返還が地震の発生や彗星の出現と重なり合って しまった。両方とも、政治的騒乱の前兆と見なさせている。

香港返還を中国がどの様に宣伝しているかと言えば、外国の占領からの解放ということ である。その見解は、ラサのチベット人にとっても嬉しいものだが、しかし彼らは全く 同じように、自分自身の置かれた立場にもその見解を適用し得る。

「香港が英国のものでないのと同じように、チベットも中国のものではない」と、今週 ラサの反体制グループが発表した声明は述べている。この声明は、昨日インドのチベッ ト亡命政府がコピーを手に入れ公表したものだ。

「中国は、英国の帝国主義的支配から香港を取り戻すことができるのに、なぜチベット における帝国主義的支配を放棄しようとはしないのか」と、この声明は強い調子で述べ ている。この声明の出所を確認することは不可能である。しかし現在チベットで流布し ているチベット人の思いを、最も的確に表現したものであることは間違いが無い。

香港の返還に合わせて、ラサ周辺で通常はないような軍隊の配置が見られ、混乱を避け るために観光客に対する制約が強化される等、警備が急激に強化されたことで緊張は高 まっていた。「我々は、二つの大きな行事、香港の返還と第15回共産党大会を成功さ せるために、最善の努力をして自治区の状況を安定させなければならない」と、5月 14日付けの西蔵日報の記事は報じていた。「混乱を引き起こし問題を生じさせる等 の、破壊活動を防止し、こういった活動を芽のうちに摘み取るために、我々は適切な行 動を取らなければならない」と、この記事は続けている。

地震の警報と壁に書かれた真言

チベットでは、中国軍の存在は目に付かないように隠されているのが常であるが、ラサ 郊外にテントで宿営している一団の部隊が目撃されている。香港返還の『厳戒態勢』に 動員された軍隊のために、兵舎が足りなくなったためであろうと思われる。

チベット人たちの多くは、テントで宿営している兵隊たちを見て、2通りの説明の内ど ちらかをする。地震が同市を襲うかも知れず、差し迫った危険を恐れているのだと云う 説。もう一つは、不穏な情勢があるためであると云う説。

6月2日かあるいは翌日に、政府から軍隊および医療部門、穀物倉庫に対して内部通達 が出された。科学者たちが、地震が近い将来同地域を襲うかも知れないと警告している という。他の役所も、地震に備えて建物の安全性を点検するように指示されたとの、情 報も伝わっている。

その晩は幾つかの地域で、役人たちは家族を屋外に出し、通りや屋上等で寝た。未確認 情報によれば、ラサの西方150kmにあるニェモでは、役人たちは地震がその晩同市 を襲うと信じていて、町全体が屋上で寝たという。

それ以来中国行きの航空便は全て、地震を避けて故郷に帰る中国人兵士や役人の家族で 満席である。地震の警告が出されたというニュースは、現在では一般人にも広まってお り、ラサ市民の多くはベランダや屋上で夜を過ごしている。

チベット高原には地殻構造線が走っており、地震に対する恐怖には十分な根拠もある。 5月16日には、ラサの東方500kmのパショ郡の北部を、マグニチュード5.3の 地震が襲った。またラサの北西1500kmに位置する新彊省南西部のカシュガルで は、6月以来地震が連続して発生しており、最近の大規模な地震は6月24日にカシュ ガルを襲い、マグニチュード5.1であった。

地震に対する不安がラサで大きいのには、根拠がある。同市の伝統的な建物は、殆ど近 代的な中国建築に建て替えられており、細い梁の上に乗ったコンクリート製のブロック で出来ている。従って地震に対する強度は不十分である。またチベットの伝統的な建物 は、強度を増すために、上の階ほど小さくなっているが、近代的な建物は垂直な壁で出 来ている。

しかし中国政府にとっての真の問題は、神秘的な力を信じ、吉凶を信じる人々の存在な のだ。チベットの占いでも中国の占いでも、地震は政治的変動の前兆と見なされてい る。勿論変動には良いものも、悪いものもある。1950年に中央チベットが侵略され る前にも、また1976年に毛沢東が死亡する前にも、地震が発生している。1987 年9月に一連の独立要求デモが始まったが、これもまた前の週にラサ近郊で3回の地震 が発生したことが、引き金ともなった。

今年6月の地震警報は、ヘールボップ彗星の出現から僅か数週間後のことである。この 彗星はラサでもはっきりと目視でき、これもまた悪い前兆現象と見なされている。

6月中旬、ラサの幾つかの壁に『真言』すなわち『密教の呪文』がペンキで書かれた。 仏教の守護神であるパドマサンバーバに、地震から人々を守って下さるように願うもの であった。パドマサンバーバのことをチベット人は、グル・リンポチェと呼ぶ。8世紀 のインド密教の巨匠で、チベットで実践されている特色ある仏教を伝えた方である。悪 鬼や大地の精霊を抑える力を持っていたために、地震を撃退することができると信じら れている。

昨年9月以来、中国は『精神文明化』運動を実施して、迷信を信じまた実践することを 根絶しようと訴えて来た。6月初旬ラサのテレビ局は、うわさを無視するように人々に 訴えた。亡命中のダライ・ラマ法王のシンパが、地震に対する不安を煽り、騒動を起こ そうとしていると言うのだ。

しかしラサは、地震と彗星の予言的な意味についての噂で、持ち切りである。役所に勤 める教育のあるチベット人たちは、太平洋でアメリカか台湾と戦争が起きると語り合 い、チベット人の中でもどちらかと言うと伝統的な人々は、チベット・中国間の紛争が 深刻化すると噂している。

「グル・リンポチェが目を覚まして、チベットを見つめている。何か我々のためにして 下さるのだ」と、ラサの老人は語った。「誰もが、何かが起きるのを待っている。チベ ットのために、何かが起きるのを待っている。ダライ・ラマ法王のお陰で、私たちの太 陽が輝き出した」と、その老女は続けた。

ラサのチベット人の中には、最近亡くなった2人の高僧の死にさえも、事態好転の重要 な兆しを読む人々がいる。5月28日にラムリン・リンポチェが亡くなり、チベットの 元の摂政を務めたレティン・リンポチェの転生化身が2月13日に亡くなった。この2 人の高僧は、チベット民族の『悪業』すなわち蓄積された悪運をご自分の身に引き受け られて、亡くなったのだと受け止められていると、伝えている情報がある。

「地震と香港の返還が、人々を神経質にしている。人々は、何か特別なことが起きるの を待っている。何か人々にとって望ましいことが」と、匿名希望のラサのチベット人は 語った。

「緊張感をひしひしと感じた」と、今週チベットから帰って来た観光客は語る。「およ そトラック100台に分乗した軍隊が、武器や食料を持って、隊列を組んでいるのに出 会った。部隊はテントで宿営していた。我々の推察では、香港返還に伴う被害妄想によ るものだろうと言うことだった」と、サンフランシスコのチベット語を話せるアメリカ 人講師は語った。「返還式典に関心を示すようなチベット人はいませんでした」と、彼 は語った。

政府に務めるラサのチベット人たちは、ポタラ宮殿の正面の新広場で7月1日に開かれ た式典に、参加することが義務づけられていた。各役所ごとに、歌を歌ったり踊りを踊 ったりするチームを出さなければならなかったと、地元の情報筋は伝えている。政府の 職員には全員、香港返還を記念するボーナスが支給されるだろうという。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 1 July,1997
China Gathers Support on Tibet, Opens New Phase in Anti-Dalai Lama Campain

中国チベット問題で支持を集める
反ダライ・ラマ・キャンペーン新局面に

中国は香港返還を、チベットに対する外交的な不信感を植え付ける絶好の機会と捉え、 チベット問題にこれまで全く関与したことのない6カ国の支持を獲得したと、中国の公 式報道機関は伝えている。

この外交的な成果は小さいものだが、それに続いて亡命チベット人指導者(ダライ・ラ マ法王)を攻撃するキャンペーンの主導権を北京が握り、「彼は平和主義者、宗教的な 指導者、中国との妥協点を探っている」と、嘘を付いていると非難し続けている。

先月、メキシコ、カンボジア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタン、キルギスタン の国々は、中国支持の表明をしたか、あるいはチベットに対する中国の姿勢を支持した ことに対して、中国政府から正式に感謝された。

近年中国は、外国政府がチベットにおける人権侵害を非難するのを待ち、外国政府に圧 力を掛けて、チベットの主権を中国政府が持っていることを認める声明を出させて来 た。明らかに人権侵害を非難したことに対する補償という意味合いであった。

香港が返還された現在、北京の外交官たちは領土を回復したことに対するお祝いの声明 を要求するだけでなく、台湾・チベットに対する政策でも支持の声明を獲得する絶好の 機会であると捉えている。これまで中国を批判してこなかった国々との間で、敢えてチ ベット問題を議題として取り上げ、チベットと台湾を一括りにして議論をしようとする ことは、余り見られなかった外交姿勢である。このことは、チベットが中国の外交問題 の中でも大きなテーマとなっていることを示している。

各国との会議の結果を報道する中国の報道機関は、新彊省での支持を得たか否かについ ては何も語っていない。新彊省でも、中国の主権が問題となっており、事態はチベット 以上に深刻である。しかも、キルギスタンやカザフスタンと国境を接している。

中国の国防大臣チー・ホーチァンは、6月2日ミンスクを訪れ、ベラルーシの大統領ア レクサンドール・ルカシェンカから「台湾・チベットおよび人権問題」で支持を得た と、新華社電は翌日に報じた。旧ソ連領内の国々を歴訪する20日間の旅で、チー大臣 は「台湾・チベット問題に対する中国政府の立場」の支持を、ウクライナ、カザフスタ ン、キルギスタンから獲得したと、6月21日付けの新華社電は伝えている。

カンボジアの2人の首相の1人、フン・センは「カンボジアは『1つの中国』政策を堅 持する。台湾もチベットも中国の不可分の領土である」と強調したと、6月14日付け の新華社電は伝えており、これは明らかにチベットと台湾を関連した問題と捉えている ことを表している。中国の新大使がプノンペンに着任し、新大使との会談の席でフン・ センはこの見解を述べた。

中国の議会、全国人民代表大会の代表団がメキシコ訪問中の6月10日に、メキシコの 大統領エルネスト・ゼディロから「台湾、チベットおよび人権問題」で支持を獲得した と公表した。

人権問題で少しでも北京を非難した西欧諸国に対しては、謝罪としてチベットの主権を 中国が持っていることを認める声明を出させるという戦略も、過去10年間に外交的に 成功を収めて来た。

多くの西欧諸国は初めて、主権を認める声明を出さざるを得なくなったが、チベット が『中国の自治区』であると言るか否かは、疑問の余地があると含みを残した声明も幾 つかある。英国政府は、1947年以前チベットと外交関係を持っていたことで、この 問題に対しては責任ある立場を有しているが、チベットを『自治区』と認めており、中 国がチベットに対して『特別な地位』を有していることを認めている。

反ダライ・ラマ・キャンペーン、新局面に

中国は、チベットの独立運動に敵対するキャンペーンとして、西欧の政治家の間にダラ イ・ラマ法王を攻撃する4つの記事を配布しており、彼らのキャンペーンも新局面に入 った。これらの記事は、「これまで一般に知られていなかった数々の事実を暴露する」 ために、5月に中国大使館から英国やドイツの国会議員らに配布された。

4つの記事は、4月17日および22日に新華社電が発表しのだが、そのイデオロギー 的な重要性は5月まで認識されなかった。5月になって西欧の国会議員らに配布され、 チベット自治区共産党の幹部学校が、「4つの記事を学ぶことによって、『ダライの犯 罪』を集中的に暴露し批判する」会議を開催したと公表して、ようやくその重要性に気 が付いた。共産党幹部学校の会議報告は公表されることが稀であり、それだけにこの報 告がイデオロギー的に重要な意味を持っていると推察される。

「記事の公表は、ダライの犯罪を暴露し批判する分裂主義との闘いが、新局面に入った ことを示している」と、幹部学校の副校長ヤオ・ジャンは語ったと、5月14日にBB CのSummary of World Broadcastsが傍受したテレビ放送は伝えている。

4つの記事は、ダライ・ラマ法王に疑いを抱かせるために、これまでの声明よりももっ と詳細なことを挙げており、ダライ・ラマ法王に対する個人攻撃が再発動されたことを 示している。しかし今回は、合理的な証拠を使用して、口汚い言葉を避けている。中国 の最高指導者たちは、1994年7月反ダライ・ラマ・キャンペーンを発動するように 呼びかけていた。

これらの記事は、署名のない『論評』形式で、ダライ・ラマ法王に関する4つの質問に 答える形で始まっている。「彼は真に交渉を呼びかけているのですか、それとも交渉を する振りをして分裂主義を画策しているのですか」、「宗教的な指導者ですか、それと も宗教的秩序の障害ですか」、「平和の擁護者ですか、それとも騒乱の扇動者ですか 」、「チベット人民の代弁者ですか、それとも西洋の反中国勢力の忠実な道具ですか」

記事は全て、ダライ・ラマ法王の『本当の顔』あるいは『中国を分裂』させようとの意 図を暴くために、彼の主張が不正直で誤りに満ちていることを示す歴史的根拠を挙げて いる。

「ダライ・ラマは、チベットと仏教を破壊するために、数多くの活動に従事して来た。 彼は一度も、チベットの僧侶や一般人の利益になることをしたことはない」と、記事の 1つは述べている。「『チベット独立』という彼の政治目的を実現するために、ダラ イ・ラマは嘘をつき、様々な民族の間に敵意を作り出して来た。そして、チベットで繰 り返される騒動を扇動して来た」と、別の記事は述べている。

第1番目の記事は、ダライ・ラマが交渉に関心を示していることは『トリック』に過ぎ ないと述べている。その証拠に、1988年中国と相談せずに、外部に交渉に関する情 報を公表をした。1989年、パンチェン・ラマの葬儀に参列する招待状を出したが、 これを拒絶した。さらに彼の兄は、1992年と1993年に北京で交わしたオフレコ の会談内容を公表した、と述べている。

後にチベット亡命政府は、インドの根拠地からこれらの言い掛かりに反駁する詳細な声 明を発表し、『国際世論を誤った方向に導こうとする巨大な事実歪曲』と反論した。

2番目の記事は、ダライ・ラマ法王の平和的な非暴力の姿勢は『仮面』であると述べて いる。その証拠として、法王が1960年代チベット人ゲリラ組織を作り、法王の支持 者たちが1970年代にはチベットにラジオ・放送局を持ち込み、また法王自身が「チ ベットで騒動を起こすためにでき得る限りのことをした」、と述べている。しかしなが らこの記事は、ダライ・ラマの支持者たちがチベットで爆弾事件を起こしたとの、最近 公表された幾つかの記事が取り上げていた非難を繰り返してはいない。

3番目の記事は、ダライ・ラマ法王が宗教指導者であるとの主張を、「祖国を分裂させ ようとの政治戦略を覆い隠すためである、と非難している。その証拠として、1995 年に中央政府の承認を得ずに新パンチェン・ラマを選んだこと、宗教的な説法といっし ょに政治的演説を放送していること、日本のカルト集団の麻原と交流があったこと、1 年間に4回もカラチャクラ(時輪タントラ)の仏教儀式を実施しているが、実際は1年 に1回しか許されない等と述べている。

4番目の最後の記事は、ダライ・ラマ法王がチベット人民の代表者であるとの主張に反 論しており、実際は『西欧の反中国勢力の道具』に過ぎないと論じている。その理由と して、1959年上流階級の起こした反乱に失敗した後で逃亡したこと、中国がチベッ トの教育また寺院の再建に関与することを非難していること、また西欧諸国の中国批判 に同調していることを挙げている。

中央の関与は政治対立を暗示する

4つの記事に共産党幹部学校が言及したとのテレビ報道は、これらの記事が北京の中央 政府によって発表されたものである点に焦点を絞り、「共産党中央委員会の、最も明確 な立場、最も権威ある声、最も毅然たる決意」だと述べていた。

中央の関与を強調することは、地元の共産党指導者らの間で意見の不一致が生じてい て、そのどちらの側かに北京が支援を与えようとしていることを示している。チベット 共産党の書記チェン・キュイヤンが、ダライ・ラマ法王の個人攻撃に焦点を絞り、19 96年に僧院内で再教育キャンペーンを実施したことで、昨年10月以来過激左派と批 判されているとの噂が広まっていた。

北京の一部勢力が、チベットにおける強硬政策を批判したとの噂がある。彼らは、中国 の民族宗教政策担当の最高責任者で、共産党の序列で6番目の地位あるリー・リューヘ ンの仲間であるという。昨年9月、スイスでダライ・ラマ法王が注意深く発表した声明 に対して、彼は北京の政策を比較的穏やかにして反応した。

フランスの通信社AFPの記者が、先週チベットで政府高官にインタヴューする許可を 得て、「再教育キャンペーンは、北京では暴力的過ぎると評価された」との言質を得た と報じている。

「ダライ・ラマの写真を掲げている寺院があることは、知っている。しかし人々の精神 を変えるには時間が掛かることも、分かっている」と、チベット自治区政府の宗教局長 官トゥプテンは、AFPの記者に語った。「民衆に彼の肖像を拝むのを止めるよう、説 得するのは我々次第だ」と彼は続け、力の行使を止めることをほのめかした。

チベットの役人たちは、ダライ・ラマ法王の写真の禁止令を実行する手を緩めたと、幅 広く報告されている。しかし4つの記事の中には、強硬策緩和の兆しは他には余り見ら れない。

チェン・キュイヤンは昨年12月から3カ月を北京で過ごし、地位から失墜したとの噂 が流れていた。しかし今年3月ラサに再び姿を現し、地位に止まっていることが確認さ れた。

今年の冬、少なくとも他の2人のチベット人指導者が、個人的な再教育のために北京に 6カ月間呼び出された、との非公式情報があるが、詳細は解っていない。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update / 9 July, 1997
- Tibet Marks Hong Kong Return with Celebrations and Film -

チベットは香港返還を祝賀式典と映画で祝福

 先週(訳註・本記事は7月9日付)ラサで行なわれた香港返還を記念する公式祝賀 行事に1万人が参加した。この行事は、香港返還をチベットにおける独立運動の敗北 に結びつけるスピーチに満ち満ちていたと中国の報道機関は伝えている。

 「広場の周りには色とりどりの旗が翻り、五つの星を擁する鮮やかに彩られた紅旗 が、広場の中心に高々と掲げられ、ラサの青空と白雲に輝きと美を添えていた。」― ―7月1日の朝ポタラ宮殿前の真新しい広場で開催された主要式典を新華社電はこう 伝えた。

 新華社電によると、ポタラ宮は「チベット独特の方法で」この行事を記念すべく色 とりどりのリボンで装飾がなされ、1997年にちなんで、1997羽の鳩と1997の風船が放 たれるなか、「香港同胞の母国の胸の内への帰還」を祝う中国の国家が斉唱されたと いう。

 しかし、チベットの都ラサからの非公式情報によると、政府職員が香港返還を祝っ て歌やダンスを披露することになっていた集会には、保安上の懸念から、土壇場にな ってようやくゴーサインが出されたにすぎなかったという。

 「ポタラ宮やジョカン寺を含むほとんどすべての屋根には中国国旗が見られた。し かし、祝賀式典は保安上の懸念からほとんどがキャンセルとなり、2時間も続かなか った」と匿名の情報提供者は伝えた。

 同情報によれば、「居民委員会役員が家々をまわって、適当に人を選んでいた。そ して、その人たちが祝賀行事への参加を義務づけられた。」という。この報告は未確 認である。また、同じ情報源によれば、別のラサ住人からの未確認情報として、香港 返還が目前に迫った当日の午後8時から、ラサにおいて半公式の外出禁止令があった という。しかし、この規制は公式に告知されたものではなく、緩やかに課されただけ だったとしている。

 7月1日付新華社電は次のように伝えた。「ここ数日というもの、ラサはお祭り気 分に浸っている。」「街路はランタンや色とりどりの横断幕で飾り付けられ、老いも 若きも陽気に歌い、語り、笑った。香港復帰慶祝、祖国再統一護衛、民族団結強化を 謳ったスローガンを配したポスターが大昭寺(ジョカン寺)の門に掲げられて人目を 引いた。」

- 香港:独立運動が敗北する証し -

 返還時期にチベットでなされた中国人・チベット人指導者のスピーチも、ほとんど が香港返還をチベット独立運動に対する闘争と結びつけるものであり、治安問題を強 調していた。

 6月初めの党会議では陳クイ元=チベット自治区党書記が、ラサにおける香港関係 スピーチでは最も勝ち誇った様子で「30日以内に、我が国は香港での主権の行使を回 復するのだ」と語った。

 6月20日付西蔵日報によると、陳はこう続けたという。「チベット人民を虐殺し祖 国の大家族からのチベット分離を企て、中国人民を抑圧し中国の領土を占領した歴史 をもち、中国人の夢を挫いた、旧時代の旧路線の英帝国資本主義者たちは、永久にい なくなるのだ」。

 他の高官らは、香港返還は「欧米反中国勢力」による中国分断を支援するダライ・ ラマの企てに敗北をもたらすことになる歴史的一段階の証しであると述べた。

 ギャルツェン・ノルブ=チベット自治区政府主席は7月1日の集会で、次のように 語った。「香港の1世紀におよぶ国土・領海交渉は真に困難で険しい道のりであり、 中国はそれを通して面子を回復しえた。」「祖国の再統一とその繁栄は、中国の基本 的な国家利益が依ってたつところであり、中国諸民族人民の共通の要求であるという 揺るがしようのない真実を、歴史が証明したのだ。」

 6月18日付のロイター電によると、西蔵日報の記事(日付の記述なし)は次のよう に伝えたという。「欧米の反中国勢力は、祖国統一という歴史的潮流に逆らう能力は 持っていない。ダライ・ラマもまた同じだ」。

 同記事はまた次のように書く。「ダライ・ラマの唯一の出口は、祖国統一の歴史的 潮流を受け入れ、祖国分裂などという考えを全面的に放棄することだけだ。」「祖国 統一の歴史的潮流は覆すことはできない」。

 パサン=自治区党副書記も先週、同様の警告をもたらした。7月5日付西蔵日報を 引用したフランスのAFP電によると、彼女は「香港復帰は(……)分離主義者ダラ イ・ラマ一派に対する闘争を終結まで完遂することを、我々に約束するだろう」と語 った。

- チベット映画が「愛国心旋風」を巻き起こす -

 ラサでも、中国の多くの地方でも、政府職員すべてに、ある中国製映画を観る無料 チケットが配られた。英国の侵略についての映画であり、あきらかに香港返還にあわ せて計画されたプロパガンダ政策の一環である。

 上海映画スタジオが制作し、制作者によると全編チベットで撮影された初の映画と いう「赤い川の谷」は、独立して制作されたものではあるが、中国政府当局と国営報 道機関の熱烈な支援を得ている。

 「赤い川の谷」は、1904年の英国によるチベット侵攻を背景にしたラブ・ストーリ ーである。この侵攻は、フランシス・ヤングハズバンドの指揮のもとで行なわれ、ヤ ングハズバンド自身があげた数によると、少なくとも2,700のチベット人虐殺をもた らした。この遠征は、実際は存在しないロシアによるチベットへの影響力拡大政策を 制止するために計画されたもので、英兵の死者は40人未満であった。

 この映画のほとんどすべての役柄は、人民解放軍の中国人兵士がチベット人兵士、 僧侶、英国軍の衣装を着て演じており、監督もプロデューサーもすべて中国人である 。Nick LoveとPaul Kerseyという2人のアメリカ人俳優が英国官吏として出演してい る。そのうち1人は、英国のチベットにおける行動を批判することになる。

 この映画では、まず平和な外国人に友情を示し、やがて外国人侵略者に対して抵抗 を示すなかで、チベット人と中国人の団結が強調されている。新華社電は次のように 伝えている。「この辺境を自分たちのものだと主張したがる英植民地主義者から祖国 を守るため、漢族とチベット族は団結した」。記事はこう続く。「映画ファンは、チ ベットの青い空、澄んだ河、雪に覆われた高原に魅せられ、チベット人の独特の風習 にも触れられる」。

 「チベットは、さらに偉大な国の一部なのだ」――映画の終わりに英国人官吏は後 悔してこう結論づける。そして新華社によると、次のように続ける。「この決して屈 服せず、決してなくなることのない民族。その背後には東洋が、我々の決して征服で きない土地がある」。

 4月4日付新華社電は次のように伝えた。「『赤い川の谷』は、チベット人と漢人 、そして19世紀後半の英国による侵略に対する戦いのときに彼らの示した愛国心を描 いている」。さらに以前、3月7日の新華社電はこう伝えた。「この映画は、外国の 侵略に対する戦いにおける中国人民の粘り強い精神を讃えているという、現地映画専 門家たちの好意的な評価を得た。」

 監督のFeng Xiaoningは、この映画の主題は愛国心であると述べた。彼は「愛国心 は、国家が危機にあるときはもちろん、あるいは、国家が繁栄にむけて歩んでいると きに、国家にとって非常に重要なものだ」と新華社に対して語った。

 この映画は、孫家正=国務院ラジオ・映画・テレビ部長の「私がこのポストに就い て以来観た最高の映画」とのお墨付きも得、4月に新華社が伝えたところによると、 「中国で愛国心旋風」を巻き起こしているという。新華社によれば、英仏豪やワーナ ー・ブラザーズや20thセンチュリー・フォックスをはじめとするアメリカの企業が、 配給権獲得のためにプロデューサーにコンタクトをとった。

 この映画に投じられた制作費用は1000万元とも1500万元とも言われているが(訳註 :1元=約15円)、新華社によると、中国映画史上最も高価な映画の一つである。ロ ケ撮影は主に昨年8月にギャンツェ付近で行なわれた。撮影クルーは60人強で、これ に人民解放軍現地部隊から兵士100人ほどが加わり、エキストラとして出演したり、 爆薬や特殊効果を提供した。

 6月17日の人民日報によると、ギャンツェの現地当局は100万元を費やして、1904 年の英国との戦いの主要舞台となったギャンツェ城塞を修復した。当局は1994年12月 、英国侵攻に関する博物館などのギャンツェの建物を開発・修復し、「これらを愛国 教育の重要な基礎とする」と表明した。これらの施設は、「ダライ一派の政治的背景 や旧チベットの封建農奴制の暗部を暴くために」有用であるだけでなく、「中国の近 代・現代史教育や、若者に対する愛国心教育のために、貴重な施設であり教材でもあ る」と当時の西蔵日報は報じている。

「赤い川の谷」は4月下旬に中国で公開され、香港記念にあわせてもう一つの作品が 封切られるまで6週間前上映された。6月9日、北京の人民大会堂で孫家正と銭其深 =外交部長を前に初演を迎えたその映画『アヘン戦争』は、1842年の英国への香港割 譲へとつながるアヘン戦争での中国の敗北を描いている。「香港人民が知らねばなら ない歴史の全て」と広告が打たれたこの映画は、謝晋が監督をつとめ、制作費用は10 00万ドルにのぼった。『Far Eastern Economic Review』誌によると、すでに、シン ガポール、韓国、日本、タイ、台湾に配給権が買われている。

以上

(翻訳者:長田幸康)


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TIN News Update, 18 July, 1997
1997 Plan for TAR : Agriculture, Industry and Re-education

1997年のチベット自治区の計画:農業、産業、再教育

1997年のチベット自治区の政策は、特に農業地域を中心とした経済建設に力点 が置かれ、4年連続で10%の経済成長を目指すことが、先週ロンドンに到着した チベット自治区政府年次作業報告(以下「報告」という)で明らかになった。

自治区においては、「5つの基幹産業」(鉱業、林業、観光、建設等)の発展 を加速させ、また、これに付随して、国営企業の社会保障機能をとりやめ、チベ ット域外から民間企業を誘致し、チベット中央部に至る鉄道を建設する計画を継 続することとなっている。

僧及び尼僧に対する再教育については、彼らは社会の安定を乱す者達との理由 で、昨年の「実験」を継続し、寺院の機構改革や未承認の寺の建設も差し止める こととなっている。

報告では、自治区の生産額は昨年10%の伸びを見せ、穀物生産は7.9%伸びて 77万トンとなった、としている。都市部ではより大きな経済成長があり、都市部 の平均収入は25%伸びて、一人当たりでは5、030元(600米ドル)となった。

この収入の伸びにより、ラサ住民の平均収入は中国の都市部住民よりも高いと いう結果になった。(中国都市部の昨年の平均収入は4、300元または518米ドル相 当)また、自治区の都市部住民の収入は昨年公表されたばかりの第9次五ヶ年計 画で示した2000年の目標を既に16%上回っている。

都市部での収入は農村地区に比べて既に5倍となっており、伸び率も2倍であ る。昨年農村部での収入は11%伸びたが、それでも975元(117米ドル)に過ぎず、 これは中国の農村部の半分でしかない。チベットの都市部と農村部では急速に格 差が拡大していることが明確になってきている。

産業(注:農業を除いた鉱業・工業等と考えられる)は10.4%伸びて自治区の 域内総生産のシェアの1/6を占め、そのシェアの伸びは19%であった。1996年の インフレ上昇は収まったとされるが、報告では失業率やインフレ率のデータは示 されていない。

―― 経済計画:農業を強化 ――

報告では、自治区では今年も経済建設を「作業の中心」とすることとしている。 1997年の経済成長率の目標は、現行の五ヶ年計画で示されたとおりの10%となっ ている。しかし、穀物生産高は年末までに82万トンが目標とされ、これは5.5% の伸びとなっている。経済発展はまず「経済の基礎」たる農業の強化に焦点が当 てられているが、工業部門が経済成長の大きな部分をになうとされている。 なお、この報告はチベット語で5月29日に公表され、6月に英国放送協会の” Summary of World Broadcasts"に翻訳が掲載された。

「政府の各レベル(注:自治区、市、郷等)においては経済関係の業務にあた っては断固として農業を最優先事項としなければならない」と報告は述べ、「チ ベットは穀物、食物油、肉を自給することが目標である」としている。 政府は 農業に対する投資を引き続き増加させ、農業技術の進歩のために灌漑や農民によ るダム建設(注:報告のママ。原文でも疑義を示している)を促進するとともに、 高収穫型の種子を導入するとしている。牧畜についての言及が通常のものに比べ て少ないが、自治区担当者によると、家畜の数は管理され、屠殺率も高まってい るとしている。これは家畜の数が過剰であることが、経済の停滞とチベット高原 の草原の荒廃の主因であるからとのことである。

自治区の経済発展戦略の主要部分は赤字の国営企業に対処する方策を見出すこ とにある。このためには証券市場で株式を販売・取り引きしたり、優良企業に赤 字企業を合併させることといったことが考えられ、「最適なものが生き残るメカ ニズム」を形成することとなっている。

自治区の作業報告では「劣悪な管理と遅れた技術しかないため、売れる商品が 製造できず、負債が資産を超えるような企業についての倒産の宣告を試行的に実 施する」とし、このような倒産寸前の国営企業の処理については、ラサを中心に 着手されるとしている。ラサには、資産金ベースでみて、自治区の60%の国営企 業が存在している。

中国本土と同じように、国営企業は社会保障機能を止め、「余剰労働者につい ては、解雇・配転させるよう手配する」よう指示されている。これにより、中国 同様自治区でも失業者が増加することとなるが、高齢者、失業、医療に対する保 障による「社会主義市場経済に適合的な社会保障システムを徐々に確立する」と している。ただし、中国では無料医療や教育については既に実質的に廃止された が、自治区の対応について、報告では何も触れていない。

――5つの基幹産業――

自治区の「経済関係の業務の大きな方向」として、「5つの基幹産業」の発展 があげられている。これは鉱業、林業、農業牧畜及び手工業、観光、建設業であ り、生産を「できるだけ早期に拡大する」ことが計画されている。

チベットの産業発展のカギは鉱業の発展とされている。報告では「主要な鉱山 の建設・管理を進め、小規模なものについては自由化と活性化を進め、鉱物の探 索を進めなければならない」としている。昨年は11万2千トンのクロムが産出さ れたことも特記している。

鉱物や木材の加工についても、未加工の鉱物や材木を域外の加工場に移送する 代わりに自治区域内の加工の促進が言われている。また、「森林の拡大のための 産業のネットワークを調整」することを進め、森林資源の保護も言われている。 昨年、自治区は8774万元(1057米ドル)を林業で獲得した。これは1995年比で 7.6%の増加である。

5つの基幹産業の発展は「チベットの外から民間企業を誘致し、自治区で操業 させ、都市部・農村部で物資の流通を活性化し、人民の生活を豊かにさせるとい う役割を最大限行わせる」ことにかかっているとされる。これは中国人の域内へ の流入を加速し、経済の支配につながるというチベット人の主張に火をつける政 策となっている。

1997年の計画では、ヤムドゥク湖、メンラ、ウォカにおける水力発電所の建設 の加速を求めている。これにより、少なくとも30万Kwの発電能力をもたらし、電 力供給を50%拡大させることになる。また、2年連続で、報告は「チベットに鉄 道を建設するよう準備を完全にしなければならない」としている。1987年には費 用の問題で鉄道建設計画は破棄されたが、1994年には200億元(24億米ドル)の 初期費用が充てられ、机上の計画は復活している。

昨年の報告同様、報告ではチベットの発展を阻害する「矛盾」となる要素を挙 げている。この「矛盾」には産業基盤の欠如、農業部門の弱さ、国営企業の不効 率、過剰な官僚主義、政府収入の伸びの遅さがある。失業や深刻な貧困に対処す る圧力は「甚大」とされているが、1995年には主要な問題とされていたインフレ は今年、問題とはされていない。

―― 導きとなる思想:分裂主義への攻撃――

前回の報告では、チベット経済に関する問題には「西側の敵対勢力に支援され たダライ一派の分裂活動」が挙げられているが、今年はその問題が増大するとさ れている。反分裂主義のキャンペーンは、「今年行う作業を実効的に行うための 導きとなる思想」とされ、1997年には強化されることとされている。

報告では「我々は人民に対して、ダライの政治的反動と宗教による偽善を本当 に理解させねばならない」とし、特に寺院における愛国・イデオロギー教育の必 要性について、報告の3章にわたって記述されている。報告では「僧侶や尼僧が 祖国を愛するようになるべく、愛国教育を一層強化しなければならない」、とし、 更に寺院に関する制度を改革し、「断固として勝手な寺や僧院の建設を止めさせ、 やみくもに人民を僧侶や尼僧として取り込むことも止めさせ」なければならない、 としている。

重要なイデオロギー上の宣言として、漢族以外の少数民族やその文化に関する 政策は経済発展に対して従属的なものとされている。「少数民族に関する政策は、 常に経済建設を核心において遂行されねばならない」との考え方が示されている、 これは報告が下敷きとしている昨年の五ヶ年計画では言及されていないものであ った。また、このような考え方は、現在のチベット政策を確立した1994年の第3 回チベット工作会議での報告やその公表文書においても示されていない。このよ うな考え方は宗教政策に適用され、また、寺院の制度見直しや再教育が必要であ る理由を示すためにも用いられている。

しかし、報告はこれまでの報告で示されたように、チベット語を学習すること、 また、チベット語の利用に関する規則を「厳格に」実施することに留意すべしと の指示が繰り返されている。

―― 中国内陸部からの投資 ――

昨年のチベットの経済は中国の中央政府のみならず地方政府からも相当量の補 助金が投下され、総生産額の半分程度の金額に達している。

報告では「共産党中央委員会傘下の部や委員会、国務院に加え、14の省や市が チベット支援を行い、チベットの援助については重要事項として、自治区に対し てこれまでにない金額の支援を始めた」としている。

3年前の第3回チベット工作会議では、中国の内陸部の省がチベットのインフ ラ整備に資金を提供する政策が打ち出され、投資の計画策定のために関係の省政 府や官庁から約150の専門家チームが自治区に派遣されている。報告によると、 6,688の協力プロジェクトが実施され、8億7700万元(1億500万米ドル相当)が 投下されたが、その多くは14の内陸部の省によるものとされている。

報告によると、14の内陸部の省によって開始された10年計画プロジェクトでは 「網羅的な支援を実施するために、地方政府の官庁や委員会から人材を派遣する」 とされており、1996年には658人の官僚が自治区に派遣されている。なお、昨年 では500人が派遣されていた。

1994年の第3回チベット工作会議で提起された、62の大規模なインフラ投資プ ロジェクトのうち56が完成し、36億7千万元(4億4千万米ドル)が投下された。 報告には「ほとんどのプロジェクトはすばらしいものであった」としているが、 これは全てのプロジェクトが成功したわけではなく、失敗に終わったものもある ことの示唆でもあろう。

自治区に対する内陸部の省からの投資に関する政策は、1980年代頭のチベット に取られたチベット独自の発展を目指すという政策を転換させた、1994年の第3 回チベット工作会議における政策の一環である。チベットの経済改革については、 「祖国の枠組みにおける整合性と中国国内の経済とリンクさせるという原則に則 ったもの」とされており、チベットの経済を中国経済に統合させる意図を強調し ている。

5月15日に報告をチベットの人民代表大会に提出したギャルツェン・ノルブ自 治区主席は「『漢民族は少数民族なくしてやっていけず、また、少数民族も漢民 族なしてはやっていけない』という考え方は人民の心根に響き、歴史に民族の団 結という新しいページが加えられた」と述べている。

(以上)

(翻訳者 TNDスタッフ)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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