20号(1997年7月)


TIN News Update, 14 June, 1997
Leading Religious Teacher Dies

高位の宗教指導者死亡

チベットで最も高名な僧侶の1人である、ガワン・プンツォク師75才がラサの彼の僧 院で亡くなった。一般的には、『ラムリン・ゲン』つまり『ラムリンの先生』として良 く知られていた。長く病床に伏した後に、5月28日午前8時35分、デブン僧院で亡 くなった。

師が亡くなったことは、チベットの公式報道機関では未だ報道されてはいない。これは 師がいかなる公職にも就かず、政府から提示された名誉職には一切就任しなかったため であることは明らかである。

4月14日、師は治療を受けるために中国西部の都市成都に、飛行機で搬送された。報 ぜられる所では、過去50年間でラサを離れたのは始めてであったと言う。しかし治療 は成功しなかった。

『ラムリン先生』は、1959年にダライ・ラマ法王が他の指導者と共にインドに亡命 した後にもチベットに残留した、ゲルーク派の指導者の中では最高位の僧侶の1人と見 なされていた。師は、学識と、文化大革命の最中にも仏道修行を止めなかったこと、ま た神秘的な力、そしていかなる政治的役職も拒否し続けたこと等によって、尊敬を集め ていた。

師は、文化大革命の最中にも僧侶であり続けることができた、数少ないチベット人僧侶 の1人であった。1976年に文化大革命が終わった時には、中央チベットに残ってい た僧侶はわずか970人であった。これは中国の公式統計に基づく数値で、中国が中央 チベットで民主改革を始めた1959年には、11万5千6百人がいたとされており、 1976年にはその1パーセントにも満たなかったということになる。1983年まで には、デブン僧院のおよそ70人の僧侶は結婚して家族を持っていた。『ラムリン先 生』は、チベット人からも中国人からもこれと対照的な、宗教的純粋性の典型と広く認 められていた。

ガワン・プンツォク師は、生まれながらにして『トゥルク』すなわち転生ラマと認めら れた殆どの高位のチベット人僧侶とは違って、利益だけを考える立場には立っていな かった。「師は転生ラマではなく、勉学に励んで学識を身につけたのです」と、ラサの 1人のチベット人は今日語った。

ガワン・プンツォク師は、カンパすなわち東チベット人で、現在では雲南省のニクシと 呼ばれている町の近郊の貧しい家の出であった。そこは伝統的なチベットの領域の最南 東の位置に当たり、町の名も元はニシャルで、そこの近郊のギャルタンのロンユル地区 の出身であった。

ギャルタンで10才のときに正式に得度し、ザンブン・リンポチェとクショ・アブの下 で仏道修行を積んだ。その後1943年にラサに出て、22才の時にチベットで最も有 名な僧院の1つであるデブン僧院に入った。

師は、ゲルーク派の『ラムリン』すなわち『道次第』の修行法の指導者として有名に なった。師が説いた仏教教理に基づいて、ラサの人々は師を『ラムリン・リンポチェ』 とあだ名した。チベット人特にラサの人々の間での師の名声は、中国の支配が始まった 当初に師が投獄された際の、半ば神秘的な現象によってさらに増幅されることとなっ た。1959年の決起の後、ダライ・ラマ法王はインドに亡命した。『ラムリン・リン ポチェ』は、ラサの南西30kmに位置するニェタンに籠もって瞑想していて、こう いった事態を知らなかった。中国政府が、僧院にいる僧侶だけでなく行場に籠もってい る僧侶までを逮捕し始めたとき、師はデブン僧院に帰るように忠告を受けた。そして即 刻、中国政府によって逮捕されてしまった。

師は、タリン家の邸宅を仮の監獄にした施設に、約2年間拘置されていた。タリンは、 チベットの元の貴族で、彼の邸宅に収容された仲間の囚人たちの日々の食料の殆どを、 差し入れたと言われている。師が、共産党の役人の間でさえも伝説的な人物となったの は、『デュチェレン』という文字通りの意味は、「砂利をシャブって栄養を得る」とい う神秘的な行法を行じて、生き延びたためであると言われている。また、僧院を巡回す る時にも意志次第で宙に浮き、逮捕を逃れるために壁を通り抜けたこともあると言われ ている。

師は文化大革命の間、人民公社に改編された僧院の紡績工として働いていた。師は戒律 を守り続け、僧院の宗教的文化財が政府に没収されないように、その多くを隠したと言 われている。師は、成人になってからは菜食主義を通した。チベット人には非常に珍し いことである。

バラの押し花のような甘い声

1980年に入って、チベットの各地で宗教活動が再開された。そして4年後、『ラム リン・リンポチェ』は仏教の公開講座を許された。それから引き続き5年間、春と秋の 年2回ラムリンについて1カ月の講義をし、数千人の僧俗のチベット人が集まった。し かし1987年、デブン僧院の21人の僧侶が独立要求デモを実施し、以来チベットに 新たな逮捕の波が押し寄せることとなった。この逮捕劇がその後の10年間に、少なく とも160件の抗議運動を生み出す契機となり、およそ4000人の逮捕者と100人 の死者を出す切っ掛けとなった。

21人のデブン僧院の僧侶らは全員35才以下で、『ラムリン・リンポチェ』によって 得度を受け、僧名を授けられ、僧院の中では一番修行の進んだ人たちであった。ゲルー ク派の次世代を背負うべき、宗派の学僧の中核を成す人々であった。

21人の僧侶の逮捕に抗議して、他のデブン僧院の僧侶200人が僧院の外にデモ行進 を始めたが、先生の呼び掛けに応じて僧院に帰った。「師は、我々はまとまっていなけ ればならない。国と仏教の利益のために勉学に戻るべきだ、と言われた」と、今週よう やく亡命を果たした僧侶の1人は思いでを語っている。21人の僧侶は、3カ月半後に 暫定的な恩赦で釈放されたが、大半は1年後に再逮捕され、僧院内に独立要求派を形成 し新聞を印刷した罪で、平均15年の刑を受けた。その年は、ラサ市政府は軍政下に置 かれていたためか、『ラムリン・リンポチェ』の公開講座は認められなかった。

年に2度の師の講義は、1990年に再開を許された。条件は、師が許可を申請するこ と、また講義の間に政治的な抗議運動が発生した場合には、師が個人的に責任を取ると いうものであった。

その年の師の春の講義が始まる数日前に、デブン僧院の中でも『最優秀の僧侶』と見な されていた37人の僧侶らが、政府によって理由も述べられずに僧院から追放された。 5月の末60人の僧侶たちは、追放された僧侶らの復帰が認められなければ僧院を出 る、との決意を盛り込んだ請願に署名した。しかし後に、『ラムリン・リンポチェ』の 働きかけによって、彼らは行動を思い止どまった。

「ラムリン・リンポチェは、チベット仏教徒からは聖人だと見なされており、最高の尊 敬を受けている。毎日、僧院最大のお堂で、数千人の仏教徒に対して法を説いている」 と、1990年11月の講義風景を新華社電は報じていた。当時のラサの「のどかで明 るい雰囲気」を伝えている。

翌年以降の師の公開講座は、団体旅行の観光客の訪問を受け、また中国のテレビ取材班 の取材を受け、師が政府のプロパガンダに利用されることを容認しているとの批判が、 チベットの民族主義者から出される結果となった。「観光客は全てデブン僧院に連れて 行かれ、我々が宗教的自由を持っていると思っていしまう。ラムリン・リンポチェは、 中国の傀儡になってしまった」と、ラサのあるチベット人は1992年に語っていた。 1995年の講義は、ダライ・ラマ法王の誕生日にデブン僧院の僧侶らを、ラサ市の外 に隔離して置くために使われる結果となった。また1996年の講義では、その終了直 後にダライ・ラマ法王の写真を僧院内に掲げることを禁止するとの、通達が出されるこ とにもなった。しかし殆どのチベット人は、仏教の講義を聞くことが出来てとても喜ん でいた。

「ラムリン・リンポチェが、眼鏡のツルの代わりに付けられた汚れた紐を耳に掛ける と、途端に雰囲気が詩的になります。そして押し花のバラの花のような甘い声で、若い 人々に智慧を授けるのです」と、1995年7月の師の講義風景を参観した、ロンドン に拠点を置く新聞社ガーディアンの英国人記者は語った。

ラムリン・リンポチェは、個人的な弟子や学生を受け入れようとはしなかったが、多く の僧侶や尼僧を得度させた。その内の数十人は、後に逮捕される結果となった。198 7年あるいは1990年の僧侶の大量逮捕追放事件の後も、デブン僧院に残っていた四 百数十人の僧侶の中から優秀な僧侶を集めて特別なクラスを維持することができたかど うかは、明らかではない。1996年、公認されないままにデブン僧院にいた、およそ 180人の18才以下の修行僧が強制的に家に帰された。僧院の政治的再教育運動の一 環であった。しかしおよそ200人位の非公認の修行僧たちが、政治活動には一切参加 しないことを条件に、僧院に残って学習することを許された。

管長職は許されず

1996年の政治的再教育運動では、180人の役人と警官から成る工作班が僧院内に 泊まり込んで、5カ月に亙って毎日政治思想教育を実施した。工作班は同時に僧院の大 改革を実施し、僧院の屋上に毎日中国の国旗を掲げることを命じ、それまで僧院の指導 者に選ばれていた僧侶たちを解職した。昨年の12月11日、軍隊の幹部の列席の下、 元の指導者の役職は俗人に率いられた委員会に引き継がれた。その委員会が選挙によっ て選ばれたものでないことは、言うまでもない。

ラムリン・リンポチェは、選挙された委員会にも選挙されていない委員会にも所属して いなかった。それは1987年に中国政府が通達を出し、師を管長職あるいは委員会の 一員に選ぶことを禁止していたからである。最も優れた高僧を、1987年以来選挙か ら除外していたことによって、中国の改革に対して大きな不満と幻滅を抱く人たちは、 高僧方の間にも多かった。

ラムリン・リンポチェは、1980年に中国仏教協会と政治協商会議の役職に就くよう に請われた。政治協商会議は、中国の政策を支持する高位の人々の集まりで、宗教の指 導者は殆どが参加をしなければならないものである。師の類い希な名声が、この要求さ えも拒否することを可能にした。宗教実践に専念したいからという理由で、師はこれを 断った。

師は、対決よりも『タブケ』つまり『方便(優れた手段)』の唱道者として知られてい たが、同時に政治的な役職を断り続けたことでも称賛されている。「政治に関わること によって、身を守ろうとする人たちがいた」と、師をよく知るチベット人たちが語って いる。「もし師が、文化を守り続けることができれば、特に宗教の生命を保ち続けるこ とができれば、人々はチベット人としても精神を失うことはないであろうと思う」と、 彼は続けた。

師は、時には自分の僧院の指導者らの政策に干渉することもあった。1995年2月、 僧院の小学校の教師3人が生徒を僧院の勤労奉仕に派遣するのを拒絶して僧院から追放 された時、師は3人の教師を支持する側に立った。

「ラムリン・リンポチェは、生徒たちにとっては勉強することの方が大事なのだから、 彼らを僧院の中で働かせてはならない、と指導者らに語った」と、当時のことを知る情 報筋は語った。3人の教師たちは、職場に復帰することができたと言う。教師の1人、 ドゥンドゥプ・ツェワは、その後自殺をしてしまった。これは明らかに、彼が僧院の公 安関係者の監視下に置かれたためにであった。

師が亡くなったことでによって、師の名声はさらに一層高まったようである。今週ラサ 在住の信者の間で語られている話では、師は死後数日間禅定に入ったままの姿勢でいた と、言われている。これは仏教徒の間では、特別な成就者の印であると見なされてい る。またある筋の話では、最後の年には師も落ち込んでいたと言う。5カ月間に亙って 政治再教育工作班がデブン僧院に滞在したこと、また師の病気が師のような立場の人に は珍しいこと、等を気にしていたと伝えられている。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 19 June 1997
Historic Lhasa Palace Demolition

歴史的なラサの宮殿取り壊される

17世紀に第6世ダライ・ラマによって建てられ、ラサに残っている最も重要な歴史的 建造物の一つとみなされている、宮殿の取り壊しが今週から始まったと、チベットの首 都からの非公式情報は伝えている。

中国政府から保護を約束されていた、トゥムスィカン宮殿を取り壊すとの決定は、ユネ スコや文化財保護の専門家が中国に対してアピールしていた要請に反するものである。

トゥムスィカン宮殿は、旧市街の中心部にある4つの建物の一つで、この地域の市街地 開発計画でも『文化財としての厳しい保護』の対象になっていた。1994年に発表さ れた内部資料の、『ラサ・バルコルの開発計画』にもそう書かれていた。

取り壊しは、5年にわたって実行されているラサ近代化の一環で、40年前に中国人が やって来た時に旧市街に建っていた建物の内、昨年末までに350棟から600棟の歴 史的建造物が取り壊されている。今年の1月以降は、この地域で28棟の歴史的建造物 が取り壊された。その内の15棟は、先月に壊されたものである。

ラサの町は少なくとも1300年の歴史を持っているが、1950年に中国人がやって 来た時にはその広さは3平方kmに満たないものであった。しかし現在では、54平方 kmを占めている。元々の『旧市街』は、今日ではラサ全体の2パーセントを占めるに 過ぎず、ほとんどが近代的なコンクリート製の建物となっている。

縦60m横40mのトゥムスィカン宮殿は、ラサの中心ジョカン寺の周囲を巡る巡礼道 であるバルコルの南面に位置しており、したがって『第1級』の保護区域の中にあっ た。しかしながら、この地位は自治区政府が認めたものであり、北京との協議を経ずに ひっくり返される可能性があった。ラサにおいてはポタラ宮殿とジョカン寺だけが、国 家レベルの保護の対象となっている。

宮殿の後側の、きゅう舎や使用人たちの宿舎に使われていた区画は、先週金曜日から取 り壊しが既に始まっている。そして母屋の取り壊しも今週に行われる予定であると、本 日付けのラサからの情報は伝えている。

「トゥムスィカン宮殿は、バルコルに残された建築物の中で最も優れたものであり、外 見的にも非常に美しいと、評価の高い建物だ」と、パリ大学チベット学科の主任教授 Hather Stoddard は語った。「旧市街に残っている文化財を救うための、国際的な基金 の設立が急がれる」と、Stoddard 教授は続けた。同教授は、チベットの建築物を救お うというノルウェーのプロジェクトと協力し、チベット文化遺産保護基金の設立者の1 人となっている。

ラサの歴史的建築物の保護と記録のために、政府や国連と協力して活動をしている、チ ベット・ノルウェー大学協力機構の会長を務める Jens Braarvig 教授は、取り壊しの 報を聞いて懸念を表明し、ラサの協力者と連絡を取って即刻この問題を取り上げたいと 語った。

ユネスコの関係者は、組織としてもすぐに中国政府に手紙を書くと語った。「こんなに 多くの中国の都市の歴史的な区域が、破壊されていることは恐ろしいことだ」と、南中 国の昆明のもっと深刻な破壊にも触れて、この職員は付け加えた。

1994年12月中国政府は、トゥムスィカン宮殿を含むラサ旧市街を、世界文化遺産 に指名することを考えていると発表した。これに指名されていれば、歴史的建築物とし て破壊を免れていた筈である。昨年遅く、中国政府は旧市街の指名に好意的な姿勢を見 せた。「チベットの文化遺産の保護は、中国が最優先することの1つである」と政府当 局者が語ったと、ユネスコの報告書には記されている。

ダライ・ラマ法王の元の住居、ポタラ宮殿は旧市街のすぐ外側にあり、中国政府が『世 界文化遺産』として申請し、3年前にユネスコによって正式にこれが認められている。

世界文化遺産委員会は、ユネスコに付属する各国政府間の機関で、ポタラ宮殿や他の世 界文化遺産を保護しているが、ラサ市内の再開発によって引き起こされた破壊に、昨年 言及している。「市街地開発と観光産業成長の圧力が、ラサ市内の歴史的な地域での建 設事業を推し進めている」と、1996年12月に委員会は報告している。また、これ らのことが「歴史的建造物とその貴い価値に、否定的な影響を与えている」とも書かれ ている。

同委員会が言及しているのは、古い建物に取って替わろうとしている建造物のことなの でであろう。その殆どが、チベット風の外見をまねただけのコンクリートの塊だ。

市内で取り壊しが続いていることは、同委員会の要請を馬鹿にしているに等しい。昨年 12月同委員会は再び中国に対して、「世界文化遺産の保護地域をバルコル周辺の歴史 的な中心地にまで拡大するように」要請している。

ユネスコが援助の手を差し延べるには、もう遅いのかも知れない。西洋人のある専門家 は今週、「ユネスコが旧市街を世界文化遺産と宣言するには、余りにも少数の歴史的建 造物しか残っていない」と、匿名を条件に語った。

許可なしの取り壊しは禁止されている

取り壊しが続いていることに対する批判は、1992年から昨年までラサ市長を務め、 現在は市の共産党書記をしている、ロプサン・トゥンドゥプに向けられている。

国際的な懸念に対する妥協として、ラサ政府は昨年9月通達を出し、市政府の許可を受 けずに歴史的建造物を取り壊すことを禁止した。

「ロプサンが市長になってから、本格的に破壊が始まりました。取り壊しの命令を出し たのは、彼なのです。それで2倍の高さの建物を建てることができるようになり、彼ら はお金を儲けたのです」と、市政府と深い関係を持つある人は、匿名を条件に語った。

バルコル地区における土地価格の高騰は、1995年抜本的な市場改革が導入されて始 まった。建物の売買が許されるようになり、1階を店舗にしたり、商店街を作ることが 巨大な利益を生むようになった。

チベットの政府当局者は、住宅施設は慢性的な供給不足に陥っており、旧市街の取り壊 しは必要不可欠であると語っている。「旧市街の90パーセントの建物は、崩壊の危険 に瀕している」と、1995年4月の新華社電は報じている。

「住宅改善の主目的は、住居の建設を促進し、市民の住宅問題を解決し、現存する住居 設備の向上を図ることにある」と、チベット人自治区経済工作班の第12文書は述べて いる。この文書は、1994年の不動産ブームに火を点ける役を果した。同年、旧市街 の『改善監視特別委員会』が、市政府によって設立された。中国の公式文書の中では、 『改善』という言葉が、取り壊しと建て直しを含む意味で使われている。

1993年に行われた西洋人研究者の調査によれば、ラサ市内の歴史的建造物を取り壊 した後に建てられた67棟の建物は、衛生設備、水道設備、電気設備の点で元の建物よ り決して優れてはいなかった。それどころか、気候適応性、断熱性、対地震対策の点 で、はるかに劣っていることが解った。

トゥムスィカン宮殿の外見は、残されることになると予想されるが、内側は4階建の居 住施設となり、上下水道設備の計画は全くないという。その結果、少なくとも40家族 が中庭のたった一つの蛇口に、飲料水を依存することになると、非公式報告書は伝えて いる。

もしこの新建造物が4階建となるならば、ラサの保存条例に違反することになる。この 条例は、伝統的な外見を保存する限り、取り壊しを禁じてはいない。しかし、3階建て のジョカン寺より高くなってはならないと決められている。

「ジョカン寺およびその周辺地区に適用されている、第1級保護区域の中では、保存の ために特別な配慮が求められている」と、1994年のバルコル開発計画書は述べてい る。「それは全て、伝統的な市街の独特な雰囲気を完全に残すためである。伝統的なチ ベット様式を保存する建物は、基本的に元の様式と一致させ、修復する際にも元の建物 の高さ、大きさ、様式、装飾を尊重しなければならない」と、その計画書は述べてい る。

取り壊し政策を批判する意見は、現在進行中の再開発の波に飲まれて破壊された歴史的 建造物は、既に危機的な状況にあったと抗議の声を上げている。「トゥムスィカン宮殿 は、非常に乱暴に使用されて来たために、恐ろしい状態であった。特に東棟がひどかっ た」と、1992年に非公式に調査をした西洋人は語った。「しかし基本構造自体は しっかりしていたので、修繕が可能だった」と付け加えた。

西洋人がラサ再開発計画の資金を集めることに失敗したことで、彼らを批判する声もあ る。「ラサ政府は、今後の5年間にいかなる歴史的建造物を修復するにも、その修復計 画を実行する白紙委任状を、書面にして我々に差し出していた。しかし我々は充分な支 援が与えられなかった」と、 Stoddard 教授は語った。「チベット文化遺産保護基金 は、これまでに僅か5万2千ドルを集めたに過ぎない。これでは小さな家を2軒救うこ としかできない。トゥムスィカン宮殿はその8倍の規模だ」と、同教授は付け加えた。

「トゥムスィカン宮殿は、もし我々が資金を集めることができていたら、昨年夏に救う ことができただろう。西洋の人々は、我々の計画は素晴らしいと、口々に言う。しか し、それはいつも口先だけで、我々の資金はもう尽き掛けている」と、同教授は言う。 同基金は現在のところ、旧市街にとって緊急に必要な下水道設備の設計で、政府に協力 している。しかし、もう家屋の修復につぎ込む資金はない。

ブータン大使館、中国の宮廷

トゥムスィカン宮殿は、ラサの最も古い通りバルコルに面し、7世紀に建てられたジョ カン寺やスルカンの邸宅の近くにある。スルカン邸は、1993年に大きなショッピン 街に生まれ変わった。

トゥムスィカン宮殿は、18世紀以来町の主要な市場となっていたバルコル広場の南面 に位置し、宮殿の名前の由来は「市場を見渡す建物」から来ている。広場の北側にも、 同じ名前の巨大なスーパーマーケットを擁する区域があり、1400軒の店舗あるいは 売店が入っている。これもまた、幾つかの歴史的建造物の利用して建てられたものであ る。

トゥムスィカン宮殿は中国語でチョンセイカンと呼ばれ、第7世ダライ・ラマ治世の 1740年に、市場を監督する摂政のミワン・ポーラに対する贈り物として建てられた と、住民たちは言っている。しかし歴史書によれば、第6世ダライ・ラマ治世の17世 紀末に建てられ、1704年から1717年までチベットを支配したモンゴル王ラザン カンの住居として使用された。

トゥムスィカン宮殿には、それぞれ中庭を持った4軒の主要な区画があり、その内の1 区画はブータン大使館として使われ、もう1区画は警察署であった。建物の北半分を構 成する他の2区画は、チベット政府の内閣や高位の役所として使われていたが、5年前 に取り壊され、喫茶店や売店に変わった。最近では3階建の建物は、各区画ごとに30 戸から40戸の家族に貸し出されている。

環境保全主義者たちは、この建物が中国と歴史的なつながりがあったことで、ラサの開 発者たちもこの建物を保護するのではないかと期待していた。この建物は、その一部が アンバンと呼ばれた清皇帝の使者に使われたことで、満州邸あるいは清宮廷としても知 られていた。アンバンの内の2人は、1750年にチベット人によって、この邸内で殺 されている。18世紀中頃の清皇帝の指示を彫り込んだ、石のテーブル6脚もまだこの 邸内に保存されている。

「トゥムスィカン宮殿は、私がラサを離れた1992年当時、ラサに残っている最も重 要な一般建築4棟の中の1つでした」と、元この建物に住んでいて現在はインドに亡命 した、高名なチベット人仕立て屋のナムサ・チェンモは語っている。

「ラサにはまだ数軒の古い建物が残っている」と、ゴンガン・ラウターラは語る。彼は 旧政権で、高位の役人であった。役所はトゥムスィカン宮殿の中にあったというが、現 在では亡命をしている。「数年後には、これらの建物も残っていはいないであろう。彼 らは歴史のある建物を全て壊してしまう」と、再開発について語っている。

彼らがトゥムスィカン宮殿のような建物を取り壊す時には、私の両親の世代は心で泣い ているのです」と、元バルコルに住んでいて、現在は亡命をした23才のチベット人は 語る。「しかし多くの若者達は、中国人がそれが進歩だと言うので、喜んでいます。彼 らはラサを新しい香港にしようとしているのです」と、彼は付け加えた。

チベット自治区政府は、1979年から1993年までにラサの住宅施設『改善』のた めに、6100万元(730万ドル)を費やした。そして1994年から1996年ま での2年間では、1200万元(140万ドル)を使った。ラサの再開発は、ラサ不動 産開発公社によって実施されている。昨年11月の新華社電の報道によれば、公社の目 標は『旧市街の古い建物の改善』にあり、1994年以来2500戸の家族が新しい家 に入ったと伝えている。「過去3年間に、延べ床面積で17000平方mの古い住居 が、改善された」と、共産党書記のロプサン・ドゥンドゥプが、自治区政府副主席の肩 書で語っている。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 22 June, 1997
Crime on the Increases in Tibet

チベットで犯罪増加

チベット自治区の刑事裁判の件数が、昨年は30パーセント以上増加したと、今月始め に刊行されたチベット自治区裁判所の年間報告ほ報じている。この報告書によれば、 1996年に政治犯罪によって裁かれた人の数は、98人ということであり、これで過 去9年間にチベット自治区裁判所で裁かれた政治犯の数は、公式統計で593人に達し た。

6月3日付けの公式機関紙、西蔵日報が報ずるところでは、「1996年には、212 6件の犯罪が裁判に懸けられた。前年度比31パーセント増加した」と、チベット自治 区高級裁判所の長官バイザオが語っている。

この数字は、1988年から1992年までの5年間に自治区の全裁判所に持ち込まれ た、犯罪件数の総数を優に上回っている。チベット自治区政府が、凶悪犯罪の『急増』 に最初に触れたのは、1994年のことであったが、この傾向は今も続いている。

1995年、暴力犯罪がさらに増加した。前年度に比べて、殺人が20パーセントの増 加、銃を使った犯罪が54パーセントの増加となった。1997年の裁判所の年次報告 書は、各種の犯罪ごとの数値を提示してはいない。

『治安上の脅威』となるような事件の数は900近くあり、役人の腐敗に関連するもの は44件で、7800万元が回収されたという。

1988年以来判決の出た政治犯罪件数は593件

昨年チベット自治区の裁判所に告訴された事件の内、47件が『国家の安全を脅かす』 ような事件であった。これらの事件は、正式には『反革命罪』と呼ばれる犯罪である が、中国政府は最近ではこの用語を好んで使う。47件の事件で判決を受けた人の人数 は、98人であったと同新聞は伝えている。自治区全体で昨年逮捕された政治犯の数を 示す、最初の報道である。

1995年に適用された反革命罪の公式件数は、明らかになっていない。しかし、19 94年には44件の裁判が執行され164人に判決が下ったと、裁判所の報告書が記し ている。1993年には同罪を適用された犯罪人は、85人であった。

TINが入手した内部資料によれば、1988年から1992年までの5年間に、反革 命罪で裁判に懸けられた人の数は247人で、同期間内の全犯罪数のおよそ10パーセ ントに当たる。つまりこれは、1988年からの8年間にチベット自治区で政治犯とし て裁判に懸けられた人の数は、少なくとも593人に上り、しかも1年間全く数値が判 明していない年がある。

政治犯として拘束されている人の数は、この数字をずっと上回る。何故なら、裁判を受 けずに行政拘置所や労働改造収容所に送られている人の数、および判決を待って拘留さ れている人の数が含まれていないからである。

昨年判決を受けた政治犯の1例では、彼らは刑事犯罪人として処理されたのであろう。 6月3日付けの西蔵日報に掲載された裁判所の報告によれば、ガンデン僧院の14人 の『犯罪者』が「僧侶を扇動して、反動スローガンを叫び、非合法的なデモを組織し、 警察の派出所を襲い、国家公務員を殴打し、頑固にダライ一派に従い、祖国を分裂しよ うという試みに失敗した」という。

この事件は、ダライ・ラマ法王の写真を撤去するよう命じたチベット人役人に、僧侶た ちが抗議したことから発展した昨年5月6日の事件を指しているが、先程取り上げた報 告書では47件の政治犯罪には含まれていない。

僧侶たちが受けた判決の詳細には、報告書は触れてはいない。しかし、中国全土で展開 されチベット自治区でも昨年5月から開始された、『犯罪撲滅キャンペーン』の方針に 従って、速やかに厳しい判決が下されたと報告書は述べている。

「ラサ中級裁判所は裁判手続きの要綱を改正し、分裂主義者の目に余る傲慢さに容赦の ない一撃を加えるために、この事件に速やかな判決を下した」と、ガンデン僧院の事件 に言及して、年間報告書は述べている。『犯罪撲滅キャンペーン』の間は、役人たちは 法的な簡易手続きを使って、より厳しい罰を与えるように指示されていた。

「『反分裂主義キャンペーン』および『犯罪撲滅キャンペーン』は、目に見える成果を 上げ、チベットの社会的また政治的な安定を守った」と、自治区の主任検事のトゥプテ ン・ツェワンは語った。彼の年間報告書もまた、6月3日付けの西蔵日報に掲載されて いる。彼はまた、「ダライ一派の政治的、思想的、文化的な浸透に」対して、警官と検 事は守りを固めなければならないと付け加えた。

「我々は決然としてまた法に従って、国家の安全を脅かし分裂活動に加わるような、犯 罪分子を処罰しなければならない」と、バイ・ザオは演説で語っている。

1996年の犯罪撲滅キャンペーンは、チベット自治区だけで1293人の逮捕および 裁判に結び付いた。その内の1173人は、「公共の秩序に大きな脅威」を与えたとし て裁判に懸けられた。国家の安全を脅かしたとの罪状で判決を受けた97人の内、75 人は犯罪撲滅キャンペーンの最中に裁判に懸けられている。

裁判所の報告には、1996年に処刑された7人の判例が上げられている。全員が、強 盗、殺人、あるいは両者の罪状で死刑となっている。ラサのソナム・チェーデンとラサ ン、ティンリのテンジンとトゥンドゥプ、そして4月21日にゴンカル空港で発生した 事件でチェン・ゾーデ、グオ・ジャングー、リャオ・デンフーであった。「社会のあら ゆる階層の喝采を受け、我々は決然と法に従って、最も恥ずべき無謀な犯罪者たちに死 刑判決を下した。彼らは、社会的な害毒であり不正に染まっている」と、バイ判事は 語っている。

年間報告書に上げられている7件の死刑判決は、昨年の判例から選び出したものであ る。何故なら他の公式機関紙は、チベット自治区で昨年29件の死刑が執行され、少な くとも18人のチベット人が処刑されたと報じている。非公式情報によれば、他に5人 が処刑されたことが解っている。処刑された人の中で、政府や情報筋が政治犯と認めた 者は、1人もいなかった。

最近西側の報道機関が、チベットで政治犯10人が処刑されたと報じていたが、これは 6月3日の記事を誤読したことが原因であり、正しいものではなかった。

無罪放免の比率、低下

昨年裁判所に告発された1853人の犯罪者の中で、8人が無罪となったに過ぎない。 無罪放免率は、0.43パーセントであった。他に25人の被告が、処罰を受けずに釈 放された。報告書によれば、5年以上の刑を受けた人の比率は、60パーセントに達す る。

ソナム・チェーデンとラサンによる強盗殺人事件は、『犯罪撲滅キャンペーン』が始 まってから最初の事件であった。それで新たに強化された手続きに従って、判決が下さ れた。

「ソナム・チェーデンとラサンを告発する(公安当局の)求めに応じて、ラサ検察局は 法に従って2人の被告の刑の査定に2時間を掛けただけだった」と、主任検事のトゥプ テン・ツェワンは年間報告書で述べている。2人の姉妹による殺人事件は5月4日に発 生し、6月3日には死刑判決が下されたと、西蔵日報は報じている。

「『犯罪撲滅キャンペーン』の間は、自治区検察局は法と『2原則』に従って、『速や かに厳しく』との政策に徹した」と、トゥプテン・ツェワンは語っている。「自治区は 昨年、『攻撃と防御を同時に、また症状と病根の両方を癒せ』という政策を採用した。 こうして総合的な治安政策に力を入れた」と、裁判所の報告は述べている。

自警団による暴力に6700ドルの補償

2人チベット人が自警団に暴力を振るわれた事件で、ラサ警察は補償として5万6千 元(約6700ドル)を支払った。ジャムヤン・ドルジェとタシ・ドルジェの2人 は、『統一新村警察分署の連帯保安隊』を『行政上の人権侵害』で告訴したと、年間報 告書は述べているが、事件の詳細には触れていない。

連帯保安隊とは地元の有志によって結成された自警団で、警察の下部組織として運営さ れている。この保安隊に対する告訴が成功したことは、市民が行政上の不当な権力行使 を告発することを許している中国の法律が、この地域においては効果的に運用できるこ とを示している。

1992年ラサ市は、184チーム988人から成る連帯保安隊を発足させ、制服警 官(公安)の補助をさせている。4つの最大規模のチームは、71人の無職の青年達に よって構成され、推定するところでは制服を着ずにラサのバルコル周辺で活動している と、先月の西蔵日報は報じている。1990年中国全体では、200万人の連帯保安隊 が存在していた。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 26 June, 1997
Tibet-Nepal Trade Drops After Chinese Police Assaults

チベット−ネパール間の貿易、中国国境警備隊による嫌がらせで激減

ネパール人貿易商が中国国境警備隊に嫌がらせを受けているため、国境越えの貿易額が 激減しており、関係改善のために高位の外交措置が取られる見込みだと、この地域から の報告は伝えている。

先週ネパールの首相は中国人民解放軍の将軍らの代表団と会い、2カ国の国境警備隊の 間で定期的に会合を開くことになったと発表した。

東チベットおよび中央チベットを管轄する成都軍区の代表団7人は、2カ国および両軍 の理解と友好増進のためにネパールを訪れたと、6月13日付けの新華社電は伝えてい る。

この訪問は、中国国境警備隊の態度が原因で、国境の町ダムにおける主要交易品の物量 が過去10カ月間で20パーセント減少したと、ネパールの新聞が報じた直後に行われ た。ダムとは、チベットーネパール間の主要な国境の町のチベット名である。ネパール 人はこの町をカサと呼び、中国人はザンムーと呼んでいる。

「小規模なネパールの貿易商に対する中国国境警備隊の嫌がらせによって、カサにおけ る輸入品の物量は過去10カ月間で20パーセント激減した」と、5月27日付けのカ トナンズー・ポスト紙は伝えている。商品の品質の悪さおよび『中国役人の友好的でな い態度』が、輸入量の減少の原因であると、同記事は付け加えている。

今年3月、ネパールのトラック運転手たちは2日半に亙って、チベットの国境警備隊の 施設の周囲で、抗議のデモを繰り広げた。ネパールのタクシー運転手を、国境警備隊員 が痛め付けたことに対する抗議であり、運転手たちが集団行動を取ったのはこれが初め てである。昨年8月には、チベット人の若者が中国公安の暴力によって死亡し、中国側 の国境警備隊に対してチベット人たちが抗議のデモ実施していた。

ネパールのトラック運転手らのデモは、報告されるのも初めてのことであるが、ダムに おけるあらゆるチベット・ネパール間の交通および物流を、およそ60時間に亙って停 止させ、両国の高官による緊急会議が開催されてようやく収まった。

騒動は、ネパールとチベットで車両通過可能な唯一の国境である、友誼橋で起こった。 3月3日の正午、人民武装警察の中国人隊員が、橋から8km北にあるカサの町までミ ニバスに乗せるように要求した。

町まではおよそ30分の距離であるが、運転手のタシ・ギャルツェン・シェルパは、中 国人隊員に後部座席を提供した。しかしこの警備隊員は、前の座席の乗客に席を譲らせ ることを運転手が拒否したというので、運転手を引きずり出し殴打した。

タシ・ギャルツェンはネパール国籍を持つシェルパ人で、友誼橋からチベットのダムの 町の税関まで約8kmの中国の領域で、タクシーの営業を許されている。友誼橋の中国 側のチェックポイントとダムの税関は、両方とも中国人民武装警察の管轄下にあるが、 両者の間には中国人のタクシーもチベット人のタクシーも存在していない。全ての個人 経営のタクシーは、ネパール人の所有である。

トラック運転手たちのデモは、2時間半後に、タシ・ギャルツェンへの支持を表明する ために始まった。彼は殴打されるとすぐにミニバスを友誼橋まで反転させ、抗議のため に橋の中央部に斜めにミニバスを止めて、交通を遮断した。ネパールとチベットを分け る線のすぐ脇の所であった。

トラックの運転手たちは、次々と車をミニバスの脇に止めて、国境警備隊がミニバスを 撤去できないようにした。車の列は、南の方向に7kmも国道を塞ぎ、ラルチャにある ネパール側の税関を越えてもまだ先につながっていたと、事件の直後に運転手たちと話 をした1人のネパール人は語った。

ミニバスの運転手は、それ後国境から50km南にある州都のチャウタラに行き、仲間 の運転手たちからの請願書を添えて、ネパール政府に公式な告発をした。

請願書には、これまでも度々人民武装警察隊員から暴力を振るわれたこと、国境を越え る際に100元の賄賂を要求されることが記され、彼らの抗議を真剣に取り上げるよう に要求していた。

請願者たちは、ダムの税関の施設内に駐車すると中国人の役人に駐車料を徴収されるこ と、また中国人の役人たちが無賃乗車を要求し、さらに食料品や酒、生鮮野菜やポルノ ビデオを要求することにも抗議していると、非公式情報筋は伝えている。

「抗議運動は、全く予期せぬことであった」と、友誼橋で働いたことのある、ネパール の元税関職員は語った。「中国人役人の賄賂要求や暴力に対する、ネパール人運転手た ちの不満は前からあったことで、これまで彼らがそんな行動に出たということは1度も 無かった」

中国側の代表がネパール側の役人と緊急の会議を開き、今後はいかなる問題も調査し、 法を犯した国境警備隊員に対しても必要な行動を取ると約束をするまで、運転手たちは 車を移動させなかった。

この約束は、ザンムー(ダム)の地域役所の責任者、およびザンムーの税関・入国管理 局、またシガッツェから派遣された役人や軍人の高官にも伝えられた。シガッツェはこ の地域の州都であり、ダムを管轄する責任を有しており、この事件が発生してシガッ ツェの高官らがこの地域に派遣されたと見られる。

ネパール側を代表してこの会議に臨んだのは、シンドゥパロック地方の知事、地方裁判 所の判事、税関の役人と警察の高官であった。

会議に参加した高官たちは、事件を詳細に調査すること、両国の役人のいかなる不正も 処罰することを保証したと、ある情報筋は伝えている。タシ・ギャルツェンを殴打した 国境警備隊員は、既に移動させられたという。

「この事件が起きてから、中国人警備隊員の態度が良くなり、嫌がらせも少なくなった ということです」と、ネパールのトランス・ヒマラヤ交易協会の職員はTINに語っ た。

しかし、この約束に対する懐疑を表明する役人たちもいる。「ネパールの貿易商たちの 問題は、公式に担当部署の役人らに取り上げられたので、彼らも約束せざるを得なかっ た。しかし約束が実際に実行されたことは、これまでに1度も無いのです」と、友誼橋 の税関の主任であるケムラジ・バッタライが語ったと、5月27日付けのカトマンズー ・ポスト紙は伝えている。

チベット人ダムの警官に殺される

ネパールとの国境から少し北に位置するチベットの町ダムでも、人民武装警察隊員が国 境で犯したのと同種の事件が、警官によって起こされていた。

昨年8月、ツェリンという名の28才のチベット人が、ダムの警察署に拘置されて死亡 した。警官の暴力による結果であると思われる。

若者は、酒を飲んでいた食堂から出て行くようにとの警官の命令に従わず、拘留され た。2人の警官が彼の両手を縛り、ライフルで殴打して、警察に引きずって行ったと、 目撃者はTINに語った。ツェリンは、同日の夕方あるいは翌日の8月24日に、警察 署内で死亡した。死因は自殺であったと、発表された。

8月25日チベット人の一団が警察署を取り巻き、事件の調査をさせるように要求し た。死亡した青年の父親は、地方の高官でロプサンという名であるが、彼が抗議に集 まったチベット人たちに解散するように求めたと、非公式情報は伝えている。後に30 00元が、葬式費用として家族に支払われたという。

1994年8月にも、ダムで2人のチベット人が警官によって刺され、チベット人貿易 商たちが警官の暴力に抗議する事件が起きている。国境をネパール側に越えようとして ネパール警察に捕まり、強制送還された難民がダムの国境警備隊員にひどい目に遇って いるとの報告も多い。「彼らは拳で私の顔を殴り、電気ショック棒を顔や胸に押し付け ました」と、ダムシュン出身の19才のチベット人ニマは語る。彼は、1994年3月 に国境を越えようとして捕まった。

今年1月の事件では、友誼橋の中国側にある人民武装警察の施設に拘束されていた、チ ベット人難民にお茶を上げようとしたネパール人が、中国人の警官に殴られている。目 撃者がTINに語ったところでは、「5人か6人でそのネパール人を殴り、彼は3度も 倒れていました」と、彼女は匿名を条件に語った。

国境の貿易額減少

今年5月までの10カ月間に、ダムを通過したネパールの輸入品の額は、前年度の同期 に比べて17パーセント減少した。ネパールがダム経由で輸入する主要10品目、木綿 の布地、靴、毛布、上着、懐中電灯、ラジオ等の総額は1億8千5百万4千ネパール・ ルピー(330万ドル)で、20パーセントの減少となっていると、カトマンズー・ポ スト紙は伝えている。ネパールの主要な輸出品である絨毯の原材料である、チベット産 の羊毛も大量にダムを通過している。しかし1970年代の初頭から、もっと安いオー ストラリア産とニュージーランド産の羊毛が、チベット産の羊毛に取って代わってネパ ール絨毯の原材料として使われるようになって来ている。

ネパールは、小麦粉や野菜、バターランプに使う上質のバター油、ビスケット、麺類、 他の食品を、ダム経由でチベットに輸出している。小麦粉とバター油の今年の輸出量 は、それぞれ62パーセントと27パーセントづつ増加している。

ネパールは中国に対して貿易赤字を抱えており、1995年7月中期までの12カ月間 で、470万ドルを中国に輸出しただけで、5290万ドルの赤字となっている。これ は前年同期と比べても、21パーセントの赤字増加である。ネパールの対中国貿易の 37パーセントが、チベット自治区とのもので、輸入額は2160万ドルである。19 94年度の2国間の貿易額は4200万ドルであったが、ネパールからの輸出は200 万ドルに過ぎず、3800万ドルの赤字となっている。

カトマンズーとネパール・チベットの国境の町コダリを結ぶ114kmの道路は、19 66年中国の援助で完成した。ネパール人運転手たちは、特別な許可証があれば国境を 越えてダムに行くことができる。しかし、1994年に中国とネパールが協定を交わ し、その年の6月にはカトマンズーとラサの間の道路を開放し、直行便を運行しようと の申し合わせがあったにも拘わらず、現在ネパール人運転手たちはダムの町から先には 行けない。

1995年5月、ネパールとチベットの運輸関係の役人は再度会合を開き、翌月には公 共バスおよびトラックの運行を始めようということで意見が一致した。「道路輸送の直 行便を運行することは、貿易を増進し、観光事業を促進し、雇用を増加させる」と、ネ パール労働運輸省のスポークスマン、デビ・プラサド・バストーラはその時語ったと、 ロイター電は伝えている。

ネパールの役人たちは、中国からチベットに送るよりももっと安く、建設資材をチベッ トに輸出することができると主張しており、1995年4月にはネパールの大蔵省の役 人が、東ネパールのサンクワサバ地方と西部の王国ムスタンの2カ所で、チベットとの 交易路を開けるように中国政府に求めた。

これまでのところ提案は受け入れられておらず、国境越えのバスもトラックも存在して いない。ネパール側からの全ての車両は、友誼橋を渡ってチベットに入っており、ラサ 向けの荷物はダムで降ろされ、中国側のトラックで800km北東のラサに向かう。

中国国家主席の江沢民は、1996年ネパールを公式訪問し、貿易不均衡是正のために もチベットに輸出する商品をもっと生産するように、ネパールに促した。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update 28 June 1997:
Tibet Closed Off During Hong Kong Hand-over

「チベットは香港返還の間封鎖」

個人旅行者に対しては、香港の返還行事期間の間、治安対策の強化によりチベ ット入域ができない状況となっている。
チベットおよびネパールからの情報によれば、6月の第1週から、チベット自 治区に旅行者として入域できるのは団体に限られており、自治区の外国人居住者 についても、自分の職場からの招聘状がなければ再入域できなくなっている。

すべての外国人個人旅行者はまったく入域が許可されず、また、ほとんどの亡 命チベット人については、華僑扱いの旅行証(注:中国政府が発行するもの)や 外国のパスポートのどちらを提示しても同様に入域が許可されていない。

昨日、カトマンズの旅行代理店に対して、チベットの当局から、6月25日以降 は団体旅行客であってもチベット入域は不可であるとの通告がなされたとの連絡 があった。

亡命チベット人については、1979年から「華僑」としてチベットを訪問するこ とが推進されてきたが、現在、これまでにない厳格な入域制限が行われており、 デリーの中国大使館では8月まで、スイスの大使館では少なくとも7月半ばまで 個人であれ団体であれ、新規の旅行証は発行されないことになっている。

外国のパスポートを持つチベット人については、7月までは中国国内からチベ ット入域が拒絶されている。ただし、元はチベットの領域であった青海や四川省 西部は旅行が許可されている。

未確認情報ではあるが、すでにチベットや中国に滞在していた亡命チベット人 の中には香港返還の期間は国を退去するよう命じられており、中国の大学に在学 するチベット人学生も、香港返還期間の休日中には故郷に帰るよう命じられてい る。

西蔵大学(注:ラサにある)は学期も1週間短縮となって、今週中は休校とな っており、学生も香港返還期間中は故郷に戻るように指示された。他の中国の大 学も休校が早められており、通常より2週間早く、6月28日には北京の人民大学 や中央民族学院が、6月29日には清華大学が夏期休暇に入っている。

「旅行者は帰される」

6月1日から少なくとも50人の外国人旅行者が、有効な中国ビザを持っている にも関わらず、正式な団体旅行者でないとの理由で、ネパールー中国国境におい てチベット入域ができずにネパールに戻されている、と国境の「友誼橋」のネパ ール当局者は語っている。個人旅行者も以前はネパールー中国国境からチベット 入域が許可されていた。

国境の友誼橋での旅行者の話では、中国の国境警備隊から、6月1日から団 体旅行客のみチベットに入域できる旨の書類を見せられたと語っている。この書 類には、この制限が解除される時期は記載されていなかったが、未確認情報では 7月20日には、この制限が撤廃されるとの見通しがある。

これまでの3週間、カトマンズーラサを週2便飛んでいる中国西南航空は、チ ベットに再入域する外国人居住者や商用で入域する外国人については、正式な招 聘状がない限りチケット販売を拒否している。

昨年5月に個人旅行者への発券を拒否するようになっている。これで、今月ま では、カトマンズーラサの航空券を個人で買えるのはチベットで働く外国人か、 正式な商用で入域する者に限られていた。

西南航空は、香港返還期間中に、正式な招聘状がないのにラサまでの便に登場 した外国人がいれば、9000元($1,080)の罰金支払いを命じられているとの未確認 情報もある。

チベット域内でも緊張が高まっている。旅行者からの情報によると、現在、ラ サ以外を外国人が旅行するには、「外国人旅行証」がないと困難になっている。 この旅行証は、元は未開放地域を旅行する個人旅行者に特別に発行されてきた冊 子であったが、現在は、団体で旅行し、公式のガイドを利用する条件でチベット への旅行者に発行されるものである。

今週、チベットから帰ってきた旅行者によると、ラサのコンカル空港では新し い規則が施行され、もし、チベットから離れる際には「外国人旅行証」の提示が ないとひとり10ドルの罰金を払うことになった。この要求は外国人担当の役人と のモメごとになっており、6月14日には、この新しい規則に抗議したアメリカの ツアーの引率者が私服の公安官に銃を頭に突き付けられて罰金を払うように命じ られた事件も発生している。

「1997年には公安の業務は『いっそう厳しく』」

香港の返還は中国当局にとっては、高まりつつあるチベットの独立運動と連関 が明らかにあるものと考えている。5月14日の西蔵日報は、「中国がまもなく香 港に対する主権を回復するのと同じくして、西側およびダライ一味の敵対勢力が いっそう彼らの企む『西洋化』と『チベットの中国からの分離』の動きを強めて きている。」とし、「ダライ一味に対しては、法に則り、その行為には逐一反撃 すべく強力な手段で対抗することのみが、我々の永続的な平和と安定と繁栄と進 歩を確かなものにするための基本的な道である」としている。この記事ではチベ ットの治安状況を「比較的厳しいもの」(relatively grim)としている。

3月2日にラサで開催された会合で人民武装警察チベット部隊の1997年の業務 計画が明らかにされたが、1997年については、香港返還と独立運動の高まりによ り、業務はいっそう厳しいものとなろうと部隊に警告している。

チベット自治区共産党委員会の郭金龍常務副書記は部隊に対して「1997年とい う年は新世紀に向かっての中国の歩みの中でとても重要な年である」と述べてい る。また、BBCのSummary of World Broadcastsが聴取したラジオ放送によれば、 郭常務副書記は「祖国は香港の主権を回復し、また、第15回共産党全国大会も開 催される。自治区の直面する分離勢力との戦いはいっそう先鋭となり、また複雑 なものとなるだろう」と、武装警察に訓示している。

中国の主要都市において、公安職員と軍隊は6月半ばから警戒態勢に入ってい ることが、6月17日の香港紙「明報」により報じられている。また、同紙によれ ば、中国全土で「重要かつセンシィブな地域」においては警察力が強化され、北 京では香港返還においては3万人以上の公安がパトロールすることとなっている。

6月24日にAP電が伝えるところでは、中国の公式報道機関の法制時報が報じ るところでは、過去3ヶ月に59万人が「香港返還の前にトラブルに対して先手を 打つ」ための犯罪に対する大規模な運動により拘留されている、と伝えている。 同紙によれば、公安は23000人の脱獄囚を逮捕し、120万の火器を没収したと伝え ている。

6月26日にSouth China Morning Postが報じた未確認情報によると、政治犯 「数十人」が一時的にチベットおよび新疆の監獄から北京に移送されている。こ れは、香港返還期間における混乱を未然に防止する意図によるものとされている。

チベット自治区政府は、香港に対して 「チベットの各民族により、香港が祖 国の腕の中に復帰することを祝する」ことの証としてタペストリーを贈り、香港 返還を祝した。

6月1日に新華社が伝えるところでは、このタペストリーはチベットの240万 人を代表して贈られたもので、240センチあり、チベット語と中国語で「香港特 別行政区の設立を祝賀する」と刺繍されている。

ラサでは香港返還から1週間の間すべてのオフィスが祝日で休みとなるとの発 表がなされたと伝えられている。情報筋によれば、政府職員の一部に対しては、 公式の祝賀会に出席しないと、その年のボーナスを支給しないとの通告が行われ ているとも伝えられている。

以上

(翻訳者 浅田英克)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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