19号(1997年6月)


TIN News Update, 27 Mar 1997,
Tibetans Sacked After Visiting India

インドを訪問したチベット人たち解雇さる

ラサの政府で働いているチベット人60人以上が、政府から許可を得ずにインドを訪問 したとの理由で職を失ったと、チベットの首都からの非公式情報は伝えている。昨年チ ベット自治区政府は、チベット亡命政府の所在地であるインドを訪問して、帰国したチ ベット人の締め付けを強化し、12月に発生した爆弾事件も彼らによるものだと非難し ている。

そのチベット人たちは、全員がラサの観光ガイドとして働いていたが、今月初旬にガイ ド許可証の更新が許されないことを知らされた。許可証は3月31日までに、発行され なければならないものだった。この措置によって、これまでに69人のチベット人が影 響を受けたと報告されている。その全員が過去2年間にインドを訪問していたと、ラサ の非公式情報筋は伝えている。

チベット観光局の副局長ゾウ・リーゾンは、電話で接触したラサのTINの職員に対し て、チベット人観光ガイドが職を失ったとの報を否定も肯定もしなかった。

独立要求運動に心情的に理解を示すチベット人たちが、地方のチベット人たちや外国人 観光客と接触するのを心配した政府は、この措置をホテルの従業員に対しても拡大する ことになるだろうと、未確認情報は伝えている。1993年インドから帰った観光ガイ ドが、国家的な秘密を盗んだ容疑で8カ月間拘束され、国際的な圧力でようやく解放さ れたという事件が起こった。また昨年は、亡命チベット人音楽家のガワン・チェペル が、チベットに帰った後に、スパイ容疑で18年の刑を言い渡されている。昨年12月 25日、ラサ市政府の建物の外で大きな爆破事件が起こったが、チベット・ラジオはこ の事件を、ラサ市内のダライ一派が起こしたもう一つの反革命爆弾事件と報じていた。

ラサの観光ガイドは、許可証を更新するためには全員が、3月10日から30日までに 2週間の講習を受けた後に、試験を受けなければならないと、先月になって言い渡され た。政府の説明によれば、新たな規則が導入されたので、それを学ぶ必要があるとのこ とであったと、3月にラサを訪問した西洋人観光客はTINに語った。

過去2年間にインドを訪問したことのあるガイドたちは、この新規則を知らされずに、 2月に登録料として800元を支払っている。その後、彼らは観光ガイドとして登録す ることも、またホテルで働くことも許されないと言い渡された。現在では、彼らの内多 くの者は、家族に依存しなければ生活できなくなっていると、許可証の更新を認められ なかったガイドの2人は、西洋人観光客に語った。その内の1人は、非合法的にインド に旅行し、1年間亡命チベット人の学校で学んだ経験があると、匿名希望の観光客に語 ったという。別の観光客は、不許可のガイドの数は70人を越えると、今日語った。

69人の観光ガイドに対する措置は、インドの亡命チベット人社会を訪問したいという 他のチベット人若者の願いを打ち砕くことも、狙いに入っているのであろう。彼らがイ ンドで、チベット文化や英語を学べば、それがチベットの観光産業では1つの特権とな っていた。しかし、インドで学んだガイドよりも、中国で学んだか又は中国から連れて 来られたガイドの数を増やそうとする傾向も、顕著になっている。

未確認情報ながら、登録の更新を認められなかったチベット人ガイドの穴埋めとして、 より多くの中国人ガイドが指名されることになろうという。過去3年間、チベットを訪 問する内地の中国人および海外の華僑の数は増大している。ラサのホリデイ・インは、 1995年から96年にかけての12カ月間で、2万9千人(海外の華僑を含む)の外 国人の予約受付の記録を作った。また同期間に国内からは、9千人の予約があった。中 国人観光客の増大は、中国人ガイドの需要も増大させることになろう。1980年代の 後半チベット自治区政府は、ラサの中国人ガイドの比率を高めようとしたことがあっ た。しかし、西洋人観光客に不人気で、この計画は中止となった。

西洋人観光客は、チベット人ガイドを好む。一般的にチベット人の方が、文化に関する 知識が豊富だからだと、チベットに団体旅行を案内したことのある、旅行社の西洋人添 乗員は語った。中国人のガイドは、観光案内書に書いてある基本的な事実以上には、何 も学ぼうとはしないようだ。彼らチベット語も話せず、英語も話せない者もいる位だ。 しかし現在では、チベット人ガイドはインドで勉強をすると職を失い兼ねないのだか ら、チベットとその文化に対する彼らの知識も衰退して来ることになるだろうと、この 添乗員は語った。

この匿名希望の旅行社の添乗員が語るところによれば、外国人観光客がチベット人ガイ ドを好むので、旅行代理店の中には積極的に中国人ガイドよりもチベット人ガイドを使 用しようとしている会社があるという。チベット自治区当局も、この方針はこれからも 許されると本日語った。チベット自治区の観光局副局長のゾウ氏が、西洋人観光客がチ ベット人ガイドを雇うことは問題ないと、TINに語った。

観光ガイドが安全保障問題に関わる危険性

昨年の初頭、当局によって20日以上もの期間、チベット人ガイドは試験を受けなけれ ばならなかった。その試験は、北京の武装警察と北京とチベットの観光局の役人によっ て実施されたものであった。試験問題には、トウ小平の思想に関するものや、チベット は独立国かというような問いもあった。観光ガイド全員が試験に通り、許可証を授与さ れていたので、今年も許可証の更新を申請する必要があるとは予想もしていなかった。

1994年6月チベット政府は年次報告を発表し、観光ガイドの中には外国人観光客と 協力をして国家の安全を脅かす行為をする者がおり、観光ガイドは監視をされなければ ならないと述べている。少なくともそれ以来、チベット政府の当局者は、外国人観光客 と接触をするチベット人が関与する危険性のある安全保障問題に関心を払って来た。

インドで生まれあるいは教育を受けたチベット人ガイドは、1994年5月の一時期、 団体旅行を引率できなかったことがある。これは明らかに、安全保障に関する彼らの過 失を予防するためであった。毎年、秘密裏にインドを訪問するチベット人の数は200 0人を越え、その多くがチベット亡命政府があるインド北部のダラムサーラで、英語と チベット文化の教育を受けて帰国する。インド旅行は秘密裏に実行されているが、過去 2年間国境警備が強化され、ほとんど全員の帰国者が警備隊に見破られ、3カ月間は拘 束され取り調べを受ける。

中国の現在のチベット政策を決定したのは、1994年に北京で開催された第3回チベ ット工作会議であった。その報告書の中では、我々の地域に侵入して来るダライ一派の 悪巧みを阻止するために、国境警備に力を注ぎ、国境管理を厳しくしなければならない と述べられていた。同工作会議は、亡命政府が俗人や僧侶をチベットに送り込み、民族 主義的な思想を広めようとしていると告発しており、この戦略に打ち勝つために反諜報 活動の強化を呼びかけている。全地域において反諜報活動を強化し、反撃をし、取締り と同時に予防手段を講じて、先手を打たなければならないと、95年3月10日付けの 西蔵日報は報じている。

昨年7月、チベット・ブータン国境のヤートンで氏名不肖の僧侶が拘束され、諜報活動 の容疑で告発されたと、西蔵日報が伝えている。記事は容疑の詳細には触れておらず、 同僧侶の所在も明らかではない。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update / 6 May, 1997 / total no of pages: 2 ISSN 1355-3313
- Policy Shift in Teaching in Tibet -

- チベットで教育政策に変化 -

公式発表によると、チベット自治区当局は、小学校においてチベット語を唯一の教育言 語とすることをやめ、1年生から中国語を導入することになった。この決定は、チベッ ト語教育の振興を監督する委員会が閉鎖されたという未確認報告と符号するものだ。

学校教育において早期から中国語を導入するという発表は、実用的な理由により多くの チベット人に指示されるであろう。この発表はまた、学校によっては小学校の授業で教 育言語としてチベット語のかわりに中国語を使うようになるところもあることを示して いる。

この決定は、1987年に可決されたチベット語に関する一連の規定の一部を覆すものとし て、ある党高官が作案したものである。1987年制定の規定では、1993年までにチベット 自治区にチベット語で教育を行なう初級中学校を創設することと、2000年直後には「大 部分の」大学の課程がチベット語で受けられるようにすることが約束されていたが、こ れらの計画は実施されなかった。小学校で2つの言語による教育を始める今回の決定は 1987年の政策が放棄されたであろうことを示唆している。

小学校教育における変化は、5月17日、チベット自治区を2日間訪問したアメリカの在 中国大使James Sasserとの会談の席上で、チベット自治区共産党委員会副書記テンジン によって明らかにされた。

新華社の報道によるとテンジンは次のように語った。
「『1〜3年生の児童にはチベット語のみで授業を行なうことを許可する』という1987年の決定は児童の成長に何の益ももたらさない」。
テンジンは1987年の政策を「非実用的」であり「チベットの現実にそぐわない」と評し た。

「したがって、自治区政府は1987年の決定を覆した。結果として自治区の学校ではチベ ット語と中国語両方が教えられることになる」。テンジンはアメリカ大使にこう語っ た。教えることじたいが中国語で行なわれることになる小学校もあるだろうと新華社は 伝えている。

この報道についてワシントンのアメリカ政府スポークスマンは「アメリカ国務省はその ような規定に懸念をもつだろう」とTINに語った。

これまでのところ、チベット人児童は6歳から13歳まで、彼ら自身の言語であるチベッ ト語で教育を受け、9歳になってはじめて中国語を学ぶ。その後は、チベット自治区外 にいくつかある特殊な蔵文中学を除き、初級中学に進学する者は中国語教育に切り替え なければならない。

教育言語の潮流が変化し、1987年規定が実施されなかった結果、チベット人は中等教育 や高等教育で力を発揮できなくなった。

昨年、チベット自治区当局は中学校にあったチベット語で教育を行なう4つの実験課程 を突如廃止した。このチベット語クラスは、きわめてよい成績をあげていたが、選抜さ れた中学校における2言語教育を行なう実験課程に置き換えられた。そこでは中国語の 授業もあれば、チベット語の授業もある。

今回の発表は、この2言語による実験が標準的な政策となったことを意味している。チ ベット自治区では、小学校教育はもはやチベット語だけではなく中国語で行なわれるこ とになるのだ。

元ジャーナリストであり、チベット語・中国語両方に堪能な数少ない指導者の一人であ るテンジン副書記は、以前の声明の中で、チベット語を優先する1987年の規定を支持し たこともある。テンジンは、自治区党委員会において教育と宣伝部門での責任を負って いるが、水面下にある政策変更から彼自身が遠ざかるのを避けるため、このような変更 を発表する道を選んだのかもしれない。

民族主義者をも含む多くのチベット人は、学校の初年度に中国語が入る必要性を受け入 れている。今日ではチベット人は中国語に堪能でなくては、職を得るのも、高等教育を 受けるのも困難であるのを知っているからだ。しかし、政策反転ともいえる今回の決定 は、憲法上の法的疑問と地方自治権についても触れており、この決定は言語問題におけ るより広範な政策変更の一部であることを示唆している。

- 言語委員会「閉鎖」 -

1995年10月以降、中国共産党チベット自治区委員会は、チベット語はチベットの経済発 展や、政府の政策を普及させるために不可欠であるというそれまでの議論を覆し、チベ ット語の使用は独立支持の動きにリンクするものだという断を下したと言われている。

1993年3月、「チベット語の口語文語に関するチベット自治区指導委員会」の会議でテ ンジンは次のように述べている。
「チベット語に関連する工作は、政策実行上の課題というだけではなく、チベットの4 つの現代化建設を通して繁栄の道を歩む人民を導く重要な条件であり、現代においても 将来においてもきわめて重要なものである。」
そしてこうも語った。
「チベットの教育の質を向上させ、民族文化の水準を発展させるためには、チベット語 の使用による効果に替わるものは何もありえないという明らかな証拠がある。」

先週の非公式の情報によると、1987年規定の実施を監督するために設置されたチベット 自治区指導委員会は、昨年終わりに解散されたという。この委員会の高官は自治区翻訳 局に異動されたと言われる。

以前あった報告は、この委員会が自治区レベルから県レベルに単に降格されたというも のだった。別の情報によると、少なくとも一つの自治区レベルの役所、自治区農業部が その翻訳部門を廃止し、将来中国語でしか書類が発行されない事態になるのではという 懸念を招いている。

「チベット語の研究、使用、発展に関する規定」は1987年にチベット自治区議会を通過 し、1989年5月に公布された。1989年5月の新華社の報道によると、その規定には次の ようなことが明記されていた。1993年までにすべての初級中学校の生徒(13歳〜15歳) はチベット語で教育を受けるようにせねばならない。1997年までには、高等中学と専門 中学の大部分の授業がチベット語で行なわれるようにせねばならない。そして、2000年 を過ぎた後、高等教育機関における大部分の講義が徐々にチベット語で行なわれるよう にせねばならない。

また次のような記述もあった。チベット人は重要な、大規模な会議においてチベット語 を話すべきである。チベット語に堪能であることは、公職への就職や昇進の条件の一つ である。1990年終わりまでには、すべての公的書類は「第一に」チベット語で書くよう にならねばならない。すべての公印、証明書、掲示等はチベット語・中国語の両方で書 かねばならない。市民は、訴訟・弁護・警察上の手続きにおいてチベット語を使う権利 を保証されねばらなない。このうち実施されたのは最後の2つの要求のみであった。

1988年7月、チベット語はチベットにおける公用語であると宣言された。そして、 1989年には、パンチェン・ラマが中央チベットの中学校で4つのチベット語実験クラス を創設した。1995年までには、実験クラスの学生の合格率が、中国語で教育を受けたチ ベット人学生の2倍にもなり、この年のチベット自治区教育委員会の報告は郊外の中学 校へもチベット語による教育を徐々に拡大することを要請している。この実験プロジェ クトは1996年、チベット語教えることのできる教師の一般的な不足を理由に廃止され た。

テンジン副書記はアメリカ大使との会談の中で、チベットの小中学校ではチベット語で 授業が行なわれ、中国の少数民族地方自治に関する法律に沿って、あらゆるレベルの公 文書はチベット語・中国語両方で書かれていると述べた。そしてテンジンは「この法律 は、少数民族がそれぞれの独自の言語を受け継ぎ、持ち、発展させる権利を中国が完全 に保証したものだ」と述べた。

以上

(翻訳者 長田幸康)


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TIN News Update / 9 May, 1997
Senior Lama Sentenced in Panchen Lama Serch Dispute

パンチェン・ラマ転生霊童探索に関して、責任者であったラマに判決下る

 チベットの法廷で、タシルンポ寺(注:チベット自治区・シガツェ)の元管 長、チェデル・リンポチェに対して懲役6年の判決が下された。2年前にはパ ンチェン・ラマの転生霊童探索に関して、リンポチェは指導的役割を担ってい たが、この探索の活動が「祖国を分裂させる」罪にあたるとされたものである。

 チャデル・リンポチェは過去15年の間にチベットで政治犯とされた人の中で、 最も高位のラマであり、また政治的にも最も高位にある人物と考えられる。

 新華社が5月7日に伝えるところでは、このチャデル・リンポチェ(58歳) 並びにもう一人の僧侶とビジネスマンの合計3人のチベット人について、「外 国の分裂勢力と結託し」、「国家の統一と民族の団結に深刻な危機を与えた」 ことで罪に問われた、とされる。

チャデル・リンポチェの活動の補佐役のチャンパ・チュング(50歳代)は4 年の刑の判決を受け、また、タシルンポ寺付属の交易会社の職員サムドゥプ( 30歳代)も懲役2年の判決を受けた。

 チャデル・リンポチェが公式の場から姿を消してから2年がたつが、この判 決の公表により、中国側がリンポチェが拘留されていことを初めて認める形と なった。リンポチェが1995年5月に姿を消してからの最初の5ヶ月間、中国政 府は、リンポチェは病気で病院で療養中と述べていた。その病院の名前は明ら かにされていなかった。

 1995年11月になって、中国政府当局はリンポチェとその仲間について、「仏 教徒にあるまじき者」と、非難を公然と行なった。しかし、リンポチェと今回 判決を受けた2人のチベット人を拘留していることについては明らかにしなかっ た。

 1995年に新華社の報道で明らかにされた公式の非難声明によれば、リンポチェ はパンチェン・ラマ転生霊童探索の責任者であるにもかかわらず、「内政干渉 と破壊工作」及び「宗教の儀式の形式を踏みにじった」ことが非難の対象になっ ている。リンポチェは転生霊童探索の手順について、わざと遅らせたり、改変 したりしたことにされている。

 リンポチェの転生霊童探索の手順の中で問題になったことには、政府関係者 に相談もなく、聖なる湖(注:転生霊童探索で予言が現れる湖のことと考えら れる)に行ったこと、「米の塊による予言」の結果を改竄したことがあげられ ている。

 また、1994年12月に、亡命中のダライ・ラマに対して書簡を送ったことも非 難の対象になっている。この書簡ではパンチェン・ラマの転生霊童の候補とし て、公式の探索チームが認定した25人のチベット人少年の名前が明らかにされ ている。

 リンポチェは、転生霊童探索の手順で、ダライ・ラマからの要請に従ったこ とを特に非難されているが、先に述べた公式の非難声明を見ても、「分裂活動」 やチベット独立支援の活動については何も言及されていない。

 未確認情報によると、リンポチェは昨年、四川省の黒水(成都から200Km北 西)にある政府高官用の特別刑務所に拘留されていたが、現在の消息は判らな い。

−−−− シガツェにおける裁判 −−−−

 新華社が伝えるところでは、リンポチェを含む3人の判決言い渡しはシガツェ の中級裁判所で4月21日に行われた。この言い渡しは非公開にされたが、これ は事件が国家機密に関連することであるから、とのことであった。

 リンポチェとチャンパ・チュングについては弁護人が付けられなかった。リ ンポチェを含む、この3人のチベット人は判決に対して控訴しなかった。これ は罪状に関して規定された最低の懲役年限よりも、実際の判決の方が短かくて 済んだからである。

 リンポチェは国家機密漏洩で懲役2年の判決を受けたが、これはインドのダ ライ・ラマ宛に転生霊童の候補の名前を送ったことによるものと思われる。 これに加えて、祖国分裂を企てたとして懲役5年の判決で、この2つの罪の合 計で懲役6年に減刑された。3人のチベット人は「祖国の統一と民族の団結に 深刻な危機を与え、チベットの安定と発展に打撃を与え、祖国を分裂するとい う罪を犯した」ことで有罪とされている。新華社の報道では、これら3人のチ ベット人がどのような政治的活動を行っていたのかについては触れていない。

- 「輝かしき模範」 -

 リンポチェがパンチェン・ラマの転生霊童探索で目指していたことは、政府 関係者と仏教関係者が同じ一人の子供を転生霊童と認定することを合意させて、 将来のもめごとを防ぐことにあった。

 リンポチェはダライ・ラマと協力することを決定したが、これについて中国 政府当局からの支持を受けており、1993年7月には、リンポチェに対して、ダ ライ・ラマに 書簡を手渡し、転生霊童探索を手助けすることを公式に認めて いた。

 しかし、中国政府当局は宗教上の問題でダライ・ラマに接触することについ て態度を変え、1994年7月には「ダライの宗教の仮面の下に隠された、本当の 政治の顔を明らかにせねばならない」と明言した。1995年3月にはTVで「ダ ライは宗教上の精神的指導者とまだ言えるのか?」と題された番組が放映され た他、1995年12月からは、報道でもダライ・ラマについて「もはや宗教的指導 者ではない」と重ねて言及している。これらのことから、宗教上の問題でダラ イ・ラマと接触することを許可するという立場は採られなくなった、と言える。

 拘留がなされた時点で、リンポチェは中国人民政治協商会議のメンバーであ り、またチベット自治区政治協商会議の副主任であったが、1996年5月22日に は「愛国者という政治的立脚点を失った」ことでこれらのポストから解任され ている。

 1994年10月にはリンポチェは地元政府から大きな表彰を得ている。これはタ シルンポ寺について、「愛国精神の発露により祖国の統一を擁護する輝かしい 模範」にしたとの表彰である。

 リンポチェは、このような表彰を受けた最初の人物であるが、公表された表 彰の言葉には「リンポチェはいかなる人物であれ分裂主義者は支持せず、祖国 の統一と民族の団結に反対するような言葉を口にしない、ことを強調した」と ある。また、「愛国の印を高く掲げ、愛国の立場を持つタシルンポ寺は、分裂 主義者にとって嫌悪の対象である」とも述べている。リンポチェはタシルンポ 寺管長代行及びタシルンポ寺運営委員会の地位を1995年7月に解任されている。

 チャンバ・チュングはリンポチェの補佐役であり、シガツェのタシルンポ寺 の側にあるパンチェン・ラマの邸宅の副責任者であった。サムドゥプはシガツェ 出身で、タシルンポ寺付属の交易会社の剛堅公司のダム(中国名:ザンムー) 支社の総責任者であった。

 未確認情報によると、1996年1月までに、少なくとも56人のチベット人がパ ンチェン・ラマの転生霊童探索関連で拘留されている。このうち、19人はタシ ルンポ寺の僧侶で、1995年7月に抗議行動をしたことで拘留されたものであり、 判決もないまま、3ヶ月間刑務所に拘留された後釈放された。別のタシルンポ 寺の僧侶4人は6ヶ月または1年の判決を受けて、現在は釈放されている。も う一人の僧侶ロブサン・テンドールは懲役2年半の判決を受けて現在服役中で ある。これ以外の3人、ギャツル・リンポチェ、プンツォク(レグリン学堂所 属)とチャンパ(テオール学堂所属)は未だ拘留中で判決待ちと伝えられてい る。

以上

(翻訳者 浅田英克)



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TIN News Update, 30 May,1997 Dalai Lama : " Rebirth Outside Tibet "

ダライ・ラマ法王語る:「チベットの外に転生する」

もしダライ・ラマ法王が亡くなるまでに、中国−チベット紛争が解決していなければ、 転生することになろうと、法王は今週の説法で語った。そして紛争が継続するのであれ ば、『間違いなく』チベットの外に転生する、と付け加えた。

これまでダライ・ラマ法王は、現在の法王の後にもう一度ダライ・ラマ法王が誕生する かについて、言明を避けて来た。しかも後継者が何処に生まれるかについては、触れた ことがなかった。

「もし私が亡命中に亡くなり、そしてチベットの人々がダライ・ラマ制度の継続を望む のであれば、私の転生者は中国の支配下には生まれないであろう」と、5月25日の日 曜日、ニューヨーク訪問中のダライ・ラマ法王は亡命チベット人たちの集会で語った。

「第15世ダライ・ラマは、現在のダライ・ラマよりももっと有能で優秀になるであろ う」とも付け加えた。法王自身は、ダライ・ラマ制度を継承する14世であると、チベ ット仏教の信奉者からは信じられている。

「その転生者は、間違いなく中国の支配下には生まれて来ない。チベットの外の、自由 な世界になるであろう。これは、絶対に断言できる」と法王は語った、と米国でチベッ ト語のラジオ放送をしている、ボイス・オブ・アメリカの放送原稿は伝えている。

この声明はダライ・ラマ法王の死に関して、北京が展開している奇っ怪な報道キャンペ ーンに対する、法王の最初の公式反応であると思われる。法王が60才になった199 5年から、中国の高官や報道関係者は法王が次第に高齢になっていることに、焦点を絞 った発言をして来た。

「ダライ・ラマは年を取って来ており、憂いも増えている」と、北京で発行されている 公式雑誌の『中国のチベット』1995年2月号は、見出しで伝えている。「将来がど うなるかを、彼は十分に知っている。彼の死によって、亡命チベット人たちが精神的な 指導者を失い、彼の役割を引き継ぐことのできる者は、亡命チベット人社会に誰もいな いことをよく知っている」と、法王死亡後に亡命社会の運動は統一性を失うことになる と、この雑誌の主要な記事は続ける。

昨年冬同雑誌は、ダライ・ラマは『長寿を望んでおり』、120才まで生きたいのかと 揶揄していた。『ヒステリック』なダライ・ラマは、彼を早死にさせようと密教的な呪 術を使う、インド在住の敵対宗教集団との呪術戦争に忙殺されている、と同雑誌の主要 な記事は伝えていた。

北京の亡命チベット人たちとの交渉が1993年9月に中断して以来、中国政府はダラ イ・ラマ法王との交渉を宙に浮かせ、法王の死を待って紛争を解決しようという意図 だ、との噂をこの記事は補強することとなった。

転生者が権力を継承するというチベットの制度は、次の指導者が選ばれ幼少時から成人 するまでの20年間に、常に不安定な期間を伴うという点で大きな欠陥を持っている。 さらに亡命チベット人たちは、『中国のチベット』が指摘しているような幾つかの問題 にも直面している。法王の役割の一部を肩代わりする世俗の指導者を選ぶように、とい う法王の提案にチベット人たちは賛成していないことである。

もし紛争が解決していなければ、中国が法王の転生者選択を管理することができるとい う、中国の主張に論駁するためにこの声明を発表したと、ダライ・ラマ法王は日曜日に 語った。中国の主張は、パンチェン・ラマの転生者の選択に関する、1995年の騒動 によって現実味を帯びたものとなっていた。『ダライ・ラマおよびパンチェン・ラマの 称号授与』は、『中国中央政府の承認』に基づくとの1792年の協定に従って、チベ ットに残っている最高位の高僧は中国の主張を支持している。

以上

(翻訳者 小林秀英)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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