18号(1997年2月)


TIN News Update, 3 February, 1997
Two Children Die in Mountain Escape Bid

山中の亡命途上で2人の児童死亡

13才の少女が、先月チベットから亡命しようとして、寒気のために死亡した。インド 亡命に挑戦すること、3度目であった。また同年齢の少年が、山中走破の途中受けた傷 が元で、カトマンズーで死亡した。毎年500人のチベット人の子供達が、チベットの 中等教育を受けることを望んで、インドに到着している。

少女の名前はデヤン(音楽的な幸せの意)といい、昨年12月19日にチベットからネ パールに抜ける5700mの峠で死亡した。彼女は、他の14人の難民と一緒にカトマ ンズーに向かっていたところであった。チベット人の亡命希望者は、通常カトマンズー からインドへの通過を認められ、亡命中の10数万チベット人の仲間入りをする。

デヤンという名の少女は、グループがナンパ・ラ峠の登りに差しかかった所で、歩行に 支障を来すようになった。その峠は、エベレストの西方100km、またチベットの町 ティンリの南方150kmに位置し、チベット人亡命希望者に最も良く使われている。

グループがナンパ・ラ峠に到着したとき、少女は寒さに震えており、肺炎を起こしてい た。「彼女はとても弱っており、医療を受ける手だてはなかった」と、仲間の1人のラ サ出身の14才の少年は語っている。その後、殆どが僧侶である残りのグループは、ネ パールの首都に到着した。

「彼女は咳をしており、歩くことはできなかった。それで彼女を毛布でくるんで、全員 が交替で彼女を背負った」と、亡命者の一員である農夫は付け加えた。山を越えるに際 して、1人1人が道案内に900元づつ払ったという。農夫は東チベットの甘孜(カン ゼ)出身で、中国の役人がその地域の村人にダライ・ラマ法王を批判し、法王がパンチ ェン・ラマと認定した少年の写真を処分するように言い渡したので、故郷を去ったのだ った。

デヤンのグループの難民たちは、伝統的なチベットの薬と中国の薬とを携帯していた が、これらの薬は彼女の衰弱を止めることはできなかった。グループがティンリから歩 き始めて10日目、ネパールとの国境を越えてから48時間後に、デヤンは死亡した。 遺体は仲間によって埋葬され、僧侶らによって読経がなされた。

そこから一番近い医療施設であるクンデ病院は、3日の距離であった。カトマンズーの 北東140km、ネパールのソロ・クンブ地区のナムチェ・バザー近郊に、エドムント ・ヒラリー卿が設立したものであった。

デヤンがチベットを逃げ出そうとしたのは、これが3度目であった。しかし、それまで はチベットの国境にさえも、到達することはできなった。最初の挑戦は昨年初期で、そ の時はラサから220km離れたシガッツェで警察に逮捕された。そこはネパール国境 への道程で、最初の主要都市であった。2回目の挑戦では、ラサから80km離れたサ キャで逮捕された。そこは国境まで120kmの所であった。

デヤンの父親は、西洋人観光客が良く使用する、ラサ市内の小さなホテルで働いてい る。TINが入手した彼女の写真には、ラサの中心寺院前の広場に置かれたテーブルの 上で、弟と一緒に踊る小柄な少女が写っている。昨年12月5日のガンデン・ガッチ ュ(バター・ラマ祭り)のお祝いで、群衆の喝采を浴びて踊っている姿である。彼女が ネパールへの亡命の最後の挑戦に旅立つ、前夜のことであった。

凍傷の合併症で死亡

12月28日、13才の少年がカトマンズーの病院で死亡した。カトマンズーに到着し てから、6週間後のことであった。ツェリン・プンツォクは、カトマンズーの北西13 0kmのマナスル地区にある、ラルキャ峠でヒマラヤを越えた亡命者の大集団の一員で あった。チベット亡命社会の学校で教育を受ける望みを持って、インドに脱出しようと していた3人の少年の内の1人であった。

少年たちは、アンナプルナの北東55kmの峠で吹雪に見舞われた。彼らは、111人 のチベット人グループに入っていた。ネパールの村に着くまで、腰の深さまである雪の 中を歩いて来た。そこからは地元の警察が安全な場所まで案内し、カトマンズーに11 月16日に到着した。グループの中で、少なくとも43人が凍傷で治療を受けており、 3人の少年たちが最も重症で、つま先や足を切断しなければならなかった。

ツェリン・プンツォクは、東チベットのカムのメリ出身で、切断手術の1カ月後にカト マンズーの公立病院で小さな手術を受け、その直後に死亡した。この病院は外国の医師 団によって管理されており、他の公立病院に比べて概して評判は良かった。ネパールで は公立病院に入院することは大変に難しいことで、ひどい凍傷を負った3人の少年は、 病院の管理者が通常の入院手続きを無視することで、入院が認められ治療を受けてい た。

ツェリン・プンツォクは、つま先切断の手術を受けた後に、感染症とハシカを併発して 苦しんでいた。医師団が感染症の治療を行い、傷口に皮膚の移植を行うため2回目の手 術を実施した直後に死亡した。

少年は山中の苛酷な体験によって、切断手術を受ける前に既に、心に大きな傷を受けて いた。「彼は寒さで震えており、重体のようでした」と、彼がカトマンズーに運ばれて 来た翌日に、ツェリン・プンツォクに会った西洋人は語っている。「彼は誰とも話した がりませんでしたし、不安そうで脅えていました」と、その西洋人は語っている。

年間500人の児童が、チベットの教育を求めてインドへ

昨年はインドへの亡命を求めて、2000人のチベット人がネパールに到着した。その 内のおよそ45パーセントが18才以下の青少年であった。また500人以上の子供達 のおよそ80パーセントが、両親に伴われずに山を越えて来た。子供達が、インドにあ るチベット亡命政府の運営する学校で教育を受けられることを願って、親は子供達をガ イドや他の亡命者に託したのだ。

昨年は毎月、20人から80人の子供達がネパールにたどり着き、そしてインドに亡命 した。亡命者の数が最大となるのは冬場で、天候が悪くて国境警備が手薄になることを 期待してのことである。

1984年以降の10年間で、インドとネパールで教育を受けるためにチベットを脱出 した人々は、青年も含めると6000人から9000人に達すると、亡命政府の役人は 語っている。1950年以降では1984年になってようやく、中国国内の旅行規制が 緩和されて、インドへの亡命が可能となったものである。およそ5000人が僧院や尼 僧院に入り、4000人前後の人々が亡命社会の普通学校に入学した。

「(チベットでは)子供達を学校に入れるために、お金を払わなければならない。しか し農作業をするためには、子供達の労力も必要なのです」と、デヤンを助けようとした 甘孜の農夫は語っている。この農夫は、子供たちをインドの亡命社会の学校に送りたい と望んでいた。亡命社会の学校では、『良いチベット語と英語』を学べるし、学費は掛 からない。

デヤンは、ラサのムル小学校の生徒であった。最終学年を終了すると、中等学校へ進学 するための試験を受けるチャンスがある。しかし初等学校を終了する前に、チベット人 児童の80パーセントが就学を止め、中等学校へ進学するのは5分の1しかいない。彼 女も、初等学校を終了しなかったのかも知れない。あるいは両親が、学費を払えないと 思ったのかも知れない。学費そのものは僅かであるが、付随する費用が色々と掛かる。 1994年に調査したラサの45家族の平均学費は、年間1万1千元(1375米ド ル)であると、新華社電は昨年6月に伝えている。

デヤン自身か又はその家族が、チベット人の中等学校で彼女の学業を続けさせることを 望んでいたのかも知れない。チベット自治区では初等教育が終了すると、中国の中等学 校に進学するしかない。昨年夏、政府はチベット自治区内の4校で実験的に実施して来 た、チベット語による中等教育を終了したからである。

1994年にチベット自治区政府は、政府の職員が子供達をインドの亡命社会の学校に 送ることを禁止した。しかし、政府関係者以外の家庭の子供達の流出は、弱まることな く続いてようである。特にチベット自治区の外にある、東チベットからの流出が多いよ うだ。

不法にネパールに脱出する子供達は、病気や高山病の他にも様々な危険に直面する。昨 年3月にTINが実施した調査によれば、18才以下の子供達で強盗に会ったり、暴行 を受けたり、あるいはネパール政府によって強制送還された例が、31例あった。その 内2例は銃撃されて怪我をし、ネパール国境警備隊によって所持品を強奪されていた。

この事件は、1993年6月に起こっている。同様の事件が昨年11月にも発生し、ネ パール警察は9人の子供達を含む難民の群れに銃撃を加え、3人の成人が負傷し、1人 の子供が殴られて怪我をした。1995年には少なくとも20人の子供達が、ネパール 警察によって強制送還され、中国側に手渡された。逃亡を試みて捕まった子供達は、チ ベットで警察によって拘留され、殴打されるとの詳細な報告があるにも拘わらずであ る。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update / 13 February, 1997
Tibet "Spy" Case Goes to Appeal

チベットの「スパイ」事件は控訴へ

 昨年12月にスパイ容疑で18年の刑を宣告された、亡命チベット人音楽教師で 前フルブライト奨学生ンガワン・チョエペル氏は容疑について控訴していると 中国の報道では報じている.

中国の公式報道機関である新華社は2月5日の英文報道で「ンガワン・チョ エペルは判決について上級審に控訴し、2回目の審理が行われている」として いる.新華社はこの情報の出所は中国人権研究会の副事務局長であるTian Dan としている.

 中国で刑事罰の判決を受けた者は10日以内に上級審に控訴できることになっ ているが、チベットでこのような控訴がうまくいったケースはまったく伝えら れていない.

Tian氏はンガワン・チョエペルの事件について、1月30日に発表されたア メリカ政府のチベットと中国での人権に関する年次報告が「根拠なき非難と意 図的なねつ造」に満ちていることの例であると述べている.

 Tian氏は12月26日に発表された政府の声明にくり返し言及した.この声明で は、ンガワン・チョエペルは「1995年7月にダライラマ一味によりチベットの 舞台芸術のドキュメンタリーを撮影すると見せかけて、実はチベットの情報を 収集するためチベットに入国した.」としている.同氏は、チョエペル氏は「 某国により提供された器材」を持って移動していた、との主張も繰り返した. この「某国」は明らかにアメリカを指している.

 米国国務省の人権年次報告を非難する中国人学者のセミナーが2月5日に北 京で開催されたが、Tian氏はこの席上で 「国家の安全を脅かし、スパイ活動 に従事しているチョエペルのような犯罪者は健全な司法制度を有しているいず れの国でもそうであるように、法律によって処罰されよう」と述べている.

 セミナーに出席した学者達はこのアメリカの報告書について「悪意があり、 根拠薄弱で」か陳、西側報道機関の報告や海外の5ヨヘャ活動家」の発表、中国 政府の発言の歪曲に基づいている、と述べたと、新華社は報道している.

 また、セミナー参加者はチョエペル氏はドキュメンタリー撮影者ではな]{ 癒パイだとしているが、このアメリカの年次報告書におけるこれ以外の誤りを 挙げていない.例外は、中国の反体制活動家の王丹は「人権についての調査を 行なった」ので有罪判決を受けたのではなく、「政府を転覆する陰謀をめぐら せた」ために有罪となったと述べたことである.

 実際のところ、アメリカの年次報告書はチョエペル氏の有罪判決について、 判決にコメントもせず、疑義も呈することなく、中国の主張をただ1文だけ記 述しているだけである.1月11日のアメリカ政府の声明では、「ンガワン・ チョエペル氏が自分の専門分野である音楽とダンス以外の活動を行っていたと いう情報は持っていない」としたが、即刻釈放すべしと求めたわけでもなかっ た.

 新華社の発表はチョエペル氏の身分について法技術的に議論があることを伺 わせる.アメリカの年次報告書ではこの事件はチベットにおける外国人につい てのセクションで扱われている.チョエペル氏は、2歳の時に亡命してからイ ドで育ったが、国籍なき難民となっている.ただし、他のチベット亡命者と同 様にチベット入境の許可を得るためには中国市民であることを認めざるを得な かった.

 Tian氏はチョエペル氏の容疑理由についての新しい情報は何も言及していな い.同氏の18年の懲役について、「自分の犯罪について自白した」とした以前 の公式報告を繰り返すだけであった.中国はチョエペル氏が収集しようとして いた情報が何であったのか何も説明していない.中国の国家安全法は「流説を 作ること」や「事実を歪曲すること」は「破壊行為」であって、スパイ罪とな る.また、「国家機密」を規定する法律によると、刑務所にいる人の名前を明 らかにすることもまた、犯罪である.

中国側は、チョエペル氏の旅行予定が「情報収集の概要」となっているとし ており、また、彼はチベット難民や外国の組織に情報を提供しようとしたため 逮捕されたとしか述べていない.このことから、チョエペル氏は実際にスパイ 活動をした、というよりはこれを行なおうとしたとされたために有罪となった と伺われる.

 今年になって、中国はアメリカから出される人権関連のコメントに対する批 判を強めており、Human Rights Watch (1月17日), ニューヨークタイムス( 2月5日)、フィラデルフィア・エンクワイヤラー(2月6日)に対しては個別 に非難している.

チョエペル氏の懲役については、チベットにおけるチベット人亡命者の独立 運動に対処する中国当局の方針の一環と思われる.昨年、チベットにおける裁 判所と司法当局は「『厳打』闘争においては反分裂闘争を最優先事項とする」 とし、加えて、今年になって「反分裂闘争と安定確保に対しての政治的責任を 明確に持つ」べしと指示された、という記事が1月16日の「西蔵日報」に掲載 されている.(BBCモニタリングサービスの翻訳による.)

 同紙でチベット自治区検察司法委員会のツルチム書記が述べるところでは「 我々はダライラマ一味の浸透と破壊に対してはしらみつぶしの戦いを展開し、 ダライ一味の分裂の陰謀を完璧に潰さねばならない」としている.

 国連が火曜日(訳注2月13日)に発表したところでは、人権担当高等弁務官 のホセ・アヤラ・ラッソは中国政府からの中国訪問の招待を受けた.同氏は3 月10日から開催される国連人権委員会の年次委員会開会よりも前に訪中するも のと見込まれる.この訪中は、アメリカの人権関連団体Human Rights Watchか ら批判されてり、同団体は、昨日、訪中は委員会の後に延期されるべきであり、 また、アヤラ・ロッソ高等弁務官に対しては中国やチベットの全ての政治犯が 釈放されるよう要請すべしとしている.

(注:ンガワン・チョエペル氏に関する情報はTINの1996年12月27日付けニュ ースリリース”18 Years for Tibetan Spy"参照.翻訳は本紙No.17に掲載)

以上

(翻訳者 浅田英克)


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TIN News Update / 15 February, 1997
- Three More Die in Escape Attempt -

亡命試み、さらに3名が死亡

亡命を求めるチベット人が先月また凍死した。チベットのシャルグン・ラ峠で亡くなっ たのは2人の子どもを含む計3人。国連が安全なルートを確保してチベット難民をイン ドのチベット人亡命社会へ合流させているネパールのカトマンドゥへ逃れようとしてい た。同じグループの24人の生存者はカトマンドゥにたどり着いたが、その道中でネパー ル警察によって身ぐるみはがれて略奪をうけていた。

昨年12月には13歳のチベット人少女が近くのナンパ・ラ峠を越えようとして死亡。その 6週間前には同じ年齢の少年がラルキェ・ラ峠を越えたときに重度の凍傷にかかり、カ トマンドゥの病院で亡くなった。

今回亡くなった3人は、21歳の尼僧、14歳の少年、そして8歳の少女。ヒマラヤの峠(チ ベット語で「ラ」と呼ぶ)を越える途中の1月20日ごろ、吹雪で立ち往生した際に寒さ と空腹で命を落とした。

詳細:

21歳の尼僧タシ・チュドゥンは、ラサの南西60kmのチュシュル県にある有名なシュプセ の尼僧グループの一人だった。

シュプセ尼僧院には中国支配に対して抵抗する伝統があり、1年前にはラサの主要刑務 所に、独立要求デモに参加したために22人のシュプセの尼僧が入っていた。この刑務所 で長期の刑を受けている女性政治囚の10%にあたる。チベット仏教ニンマ派(古派)に 属するシュプセ尼僧院には先月から政治教育チームが駐在し、非公式情報によれば、 250人の尼僧のうち半数の追放を求めるといわれている。

亡くなった子どもはラサ出身のクンガと呼ばれる14歳の少年と、ラサの南西40kmにある ニェタン出身のカドンという8歳の少女だった。

昨年、インドの亡命政府の学校や僧院に入るためにチベットからネパールに逃れた14歳 未満の子どもは400人以上だった。亡命している学齢期児童の就学率は、チベット語では 初等教育しか行なわれていないチベット本土の3倍以上である。

犠牲になった3人は1月9日に案内人とともにラサを発った27人のチベット人グループ のメンバーだった。トラックで南チベットのティンリの街へ向かい、そこからネパール へ向かう100kmの徒歩の旅を始めた。彼らはこの旅のために、一人あたり500元(US $60)から850元 (US $100)を案内人に払っていた。これは農村部チベット人の平均月収 6カ月分にあたる。

5日間歩いた後、約16,00ー2Bー轤゙シャルグン・ラ峠を登り、ネパールとの国境に到 達するまでの数日間、ヒマラヤの雪線よりも上を歩いた。

「ラ(峠)を登っているときに、雪崩と吹雪の突風があった。」
カトマンドゥにたどり着いた生存者の一人はTINにこう語った。
「子どもは背中に背負っていた。しかし、28人のグループのうち3人が凍死した」

この目撃者によると、グループは遺体を雪の中に残して移動を続けたが、一人が暖をと るためにクンガ少年の衣類を持ち去った。24人の生存者と案内人は1月22日頃、カトマ ンドゥの北東100kmにある北ネパールの集落、ラマ・バガーとしても知られるチョグシャ ムに着いた。

- 警官による略奪 -

生存者たちはチョグシャムで地元の警察署に1日拘留された。その夜ここで12人の警官 は、難民たちにすべての衣服を脱ぐように命じた。そうやって警官は現金や貴重品を探 したようだ。

「警官たちは私たちの体中、そしてあらゆる荷物を調べ、私から300元を奪った。」
難民グループの一員がTINにこう語った。他のメンバーによると、この夜警官たちが 押収したのは一人平均320元、合計8000元(US $1,000)だったという。

難民グループは峠に引き返してチベットに戻るよう命じられた。そして、ネパール語を 話すある難民は、女性の一人を警官とのセックスのために調達するのなら滞在を許可す るだろうと告げられた。難民らは協力を拒み、翌朝、解放するように警官を説得した。

難民らは再び逮捕されるまでさらに3日間ネパールを歩いた。このときの警官は、要請 に従ってカトマンドゥまで同行し、国連難民高等弁務官の現地事務所に引き渡すという 正式な手続きを踏んだ。

カトマンドゥからの報告によると、多くの生存者は凍傷の手当を必要とし、3人ないし 4人は手術が必要だった。

昨年11月には、この地区の中心地チャリコットから30km北にあるラマ・バガーの同じ警 察署の警官が、32人の難民グループに向けて発砲。3人を負傷させ、他の数人をひどく 殴打した。

「再教育キャンペーンとダライ・ラマ法王への攻撃によってチベットは非常に緊迫して 危険な状態にある。だから、よりよい教育を受け、法王の祝福を授かるために、インド へ逃れるのが賢明なのだ。」
亡命の理由を尋ねられた生存者の一人はこう語った。

「私がインドに来た大きな理由は、セラ僧院に入り、よりよい教育を受けて、チベット の自由を勝ち取るために働くことです。」
同じグループのメンバーで、東チベットのチャムド僧院の27歳の僧侶ジャワンはこう語 った。昨年8月に彼の僧院に再教育部隊が到着し、2カ月を費やして政治的・法的知識 を矯正する集会を行なった。再教育部隊が、僧侶らを「よい」「悪い」に分類すること になると告げた後、彼は僧院を離れた。

「私たちの僧院にはインドから帰国した僧侶が50人ほどいた。どうやってか中国当局は それを知り、昨年さまざまな機に彼らを逮捕した。彼らは拷問を受け、広範囲に取り調 べを受けた。今ごろは釈放されたに違いないと思うが、一人も僧院に帰ってこなかっ た。帰ってきても、僧院に入ることは許可されなかっただろう。」

ジャワンはこう語った。 ジャワンは、チベット第2の街シガツェに近いラツェで中国の警察に捕らえられたこと がある。昨年12月に亡命を試みたときのことで、このときは警官に3600元(US $400)を奪 われ、5日間拘留された。

以上

(翻訳者 長田幸康)


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>>TIN News Update / 24 February, 1997
>> - Officials Silent Over Deng's Death; Tibetan Allowed to Speak Out

[登B]氏の死に際しては公式には沈黙.しかしチベット人は発言が許される

先の水曜日(注:2月19日)に死去した[登B]小平氏に関して、中国全土の 地方政府幹部には本件に関する発言を許可していないと思われるが、チベット においては例外であり、政府幹部が[登B]氏への支持を発言している.

BBC(注:英国放送協会)のモニタリング・サービスによると、この件に 関する主要な地方幹部によるコメントで、全国で最も早く報道されたものとし ては2月21日の夜にチベット電視台に登場した(注:チベット自治区)党副 書記のテンジンの発言であったとしている.

この夜の放送で、テンジン副書記は、チベットにおいては[登B]氏によっ て形成された路線の実行を継続すべきであるとし、放送は死去した最高実力者 への支持を表明する一般の兵士や公安のショットで締めくくられた.

北京や上海以外の地方政府幹部で、[登B]氏死去に関する発言が公式に報 道されたのは、先述のテンジン氏に加えて、[登B]氏の生地である四川省の 党書記以外には、新疆ウイグル自治区主席のアブドゥラハト・アブドゥリシッ トしかいない.

テンジンも、アブドゥリシットも[登B]氏死去の6時間後に新華社で「 [登B]小平同志葬儀委員会」委員への任命が発表されている.テンジンはチ ベット自治区共産党委員会での序列は第6位に過ぎないことから考えると、こ の任命は、このチベット人テンジンを重視しているためと言える.

これ以外には中国の省レベルの地方政府の省長や政府幹部からは[登B]氏 の死去について全く発言は行われていない.また、テレビやラジオも6日間の 追悼期間の中の最初の4日は、一般市民や中央からの署名なしの公告、[登B] 氏の記録映像といったものしか放映されていない.

中央レベルの高級幹部も発言は行っておらず、江沢民国家主席、李瑞環全国 政治協商会議主席、呉儀貿易大臣から特に発言があったのみである.

中国の地方政府はいかなる中央の決定であれ、即座にそれを支持するよう発 現することとなっているのが通例である.

例外的に発言を行なったのは軍隊関係であり、特に、済南の地方部隊から[ 登B]氏への支持を表明する発言があった.2月22日の土曜日には、中国の 全ての軍区や軍種(注;陸軍、海軍、空軍等)の長から[登B]氏の路線を支 持する大規模な発言が行われた.山東省の規律検査委員会(実質上は共産 党内の監察機関)からも支持の発言が行われた.

追悼期間の最初の4日間の、この異例の沈黙については[登B]氏に関して は公式な発言をしてはならないという詳細な指示があったのではないかと思わ れるが、この例外が軍隊関係とセンシティブな国境沿いの2つの自治区と言え よう.

この公式なコメント差し控えの指示は、大規模な追悼集会が騒動へと変わる ことがないようにという中央の決定によるものではないかと考えられる.1976 年の周恩来死去、1989年の胡ヨウ邦の死去に際しては、それぞれ大規模な集会 があり、これが政治の改革を求める機会へと転化したことがある.

[登B]氏の死去に関しての発言をさせないという決定の適用の例外は、軍 隊関係と西部の自治区であった.これの背景には、中央政府が新しい指導者が 軍からの支持を受けていること、また、中国で最も情勢が不穏な地区について も、その支配下にあることを示す必要があったものと思われる.

[登B]氏死去に関する公式な声明は、この声明が人口の91%を構成する漢 族だけでなく、中国の「全ての民族」に対して向けれたものであることをくり 返し強調している.香港の「星島日報」は木曜日(注;2月20日)には、特 に新疆とチベットでは、軍が完全な出動準備体制にあり、警察も「緊急体制」 となっていると報じているが、これについての確認は出来なかった.

昨日(注:2月23日)になって、公式な追悼集会は執り行わないという決 定が少なくとも四川省では明らかになった.BBCによれば、四川省の公安が 追悼の集会等をいかなるものであれ禁止し、数百人の人が市街に集まり、記念 碑に花輪を捧げる順番でケンカとなったため、何人かが逮捕されたと報告して いる.

中国全土での職場単位においては、その内部のみでの「学習会」が開催され ており、水曜日(注:2月19日)夜に発表された「全国の全党、全軍、全民 族への書簡」というタイトルの[登B]氏に関する公式の賞賛文を購読する等 している.このような職場単位は国営企業の勤務者がメンバーとなっており、 これ以外の人は通常通りの生活を続けるよう言われている.但し、地方によっ ては酒場や娯楽施設が閉店しているところもある.

中央政府は追悼行事には外国人を招待しないと発表しているが、木曜日( 注:2月20日)には、海外の中国大使館には「追悼の場」を設けて哀悼の意を 表するようにしたとした.このような場所が中国国内で設置されたかどうかは 定かではない.

[登B]氏の家族からの書簡では、哀悼の意は「全く簡素に、おごそかに」 表明されるべしとしているが、これは[登B]氏の死去に関して静かに対応す るという態度を示すために公表されたものである.しかし、香港のある新聞は この手紙は中央の指導者達から家族に押し付けられた、でっちあげの手紙だと している.

各省の共産党委員会及び政府のトップ及びナンバー2が「葬儀委員会」の委 員となっている.委員会は420人の男性及び25人の女性がメンバーで、2月25 日朝10時から「極めて大規模な追悼大会」が開催され、「人民」はラジオや テレビで聴取するよう命じられている.

チベット自治区の党書記陳クイ元と3人の常務副書記の内の2人(ライディ とギャルツェン・ノルブ)が、テンジンとチベット軍区の政治委員 Geng Quanliとともに葬儀委員会に参加している.

パパラ・ゲレク・ナムギャルとンガポ・ンガワン・ジグメは全国政治協商会 議や全人代で名誉職的といえる地位を与えられていることから、葬儀委員会の 中でも高い地位が与えられている.これ以外に葬儀委員会委員で明らかにチベッ ト人と判るのは国務院民政部長のドルジェ・ツェリンのみである.

チベット自治区共産党副書記テンジンは[登B]氏の路線を継続するよう呼 び掛けたが、これは複雑な意味合いがある.[登B]氏の改革路線は1989年の 民主化運動抑圧までは一般的にはリベラルなものと見られてきたが、この路線 は、チベットでは歓迎されなかった.比較的穏健路線をとっているテンジンで さえもそのような立場である.

1970年代末の[登B]氏の路線では、チベットの「特殊事情」を認めること を許し、文化的にも経済的にも広範な自由化が進められたが、1984年になり、 第2回チベット工作会議の席上、[登B]氏は、チベットは中国のその他の地 域に対しても開放されるべきだとした.

チベットの政府幹部はこのような政策を取れば、中国人の商売人の流入が起 こり、中国文化の影響がチベットに対して一層強くなるとして反対していたが、 [登B]氏はこのような反対意見を退けた.当時中国共産党総書記であった胡 耀邦 はチベットに対して漸進的に政策を進める意見を支持していたが、これ はチベットを過剰に優遇するものと批判され、3年後には総書記の辞任に追い 込まれた、

チベットやその他中国全土における[登B]氏の開放路線は、1992年の中国 南部の視察により急速に進められた.これによりチベットの「特殊事情」の考 慮がいきなり打ち切りとなり、(注:漢人である)陳クイ元がチベット自治区 の党書記に任命されるとともに、チベット文化の復活が徐々に先細りとなっ ていった.

[登B]小平氏は1950年代のチベット侵略と併合に対して指導的な役割を果 たした.また、これ以降もチベットの政策課題について直接関与してきたと言 われている.[登B]氏の配下にあたる陰法唐は昨年9月16日の「西蔵日報」 に「[登B]氏は日々政務がおびただしくあるにも関らず、チベットの革命と 建設の運動を常に気にかけていた」と書いている.

1950年に、[登B]氏は第二野戦軍の第18軍の政治委員であり、党西南局書 記であったが、この時、[登B]氏はチベット解放について、直接毛沢東から 作業を委任されていた.

先の陰氏の記事においては、「チベットの平和的解放、チベットにおける反 乱の鎮圧と民主的改革の実現における[登B]小平同志の偉大な功績と格別の 貢献は世界の屋根において刻印され、また、チョモンラマの頂が雪をいただく が如く、ヤツツァンポのさざなみの如く、永遠にとぎれることはないだろう」 としている.この記事では、多くのチベット人の暴虐や数千人にも及ぶ死につ いてのエピソードも盛り込まれている.

[登B]氏は、1959年の暴動に対しては「極左」強硬的な態度を取ることと し、18軍から[登B]氏が任命した軍人や、チベット軍区司令官張国華や同地 区の政治委員譚冠三のような個人的に繋がりがある者達が実際の行動を起こし ている.

[登B]氏は、当初チベットの問題は軍事的な側面よりも政治的な側面にあ るとしていた.「チベットの問題については、政治的配慮が第一であり、軍事 的な配慮よりも優先されねばならない」と[登B]氏は述べたと、1997年2月 21日の人民日報に掲載されている

中央チベットへの侵略から1ヶ月が経過した1950年11月には、重要な政治文 書が出され、「新中国に新チベットを建設する」としており、これは香港に対 する「1国2制度」の原形にもなっていると考えられる.この声明はおそらく [登B]氏により書かれたものであろう.

この政治文書には「チベットにおけるいかなる改革に関する事項全てはチベッ ト人民の望むところに完全に則ることとし、また、チベット人民とチベットの 指導者との協議により実施されることとする.」としている他、軍隊は「全て の宗教施設と宗教関係者の生命と財産を守り、全ての僧院や寺院を守る」とし ており、これは後に1951年の17ヶ条協約により正式なものとなった.

1957年には、[登B]氏は「反右派闘争」を実施した.この時、党の路線へ の抵抗が東チベットや中央チベットにおいて激化した.この時には18軍の宣伝 部長ババ・プンツォ・ワンギャル氏が解任されている.ワンギャル氏は共産党 において高位にある唯一のチベット人であったが、「地方ナショナリズム」 を唱えたことを非難されたものである.[登B]氏は後になっても、ワンギャ ル氏の名誉回復の支援を拒絶しており、また、「反右派闘争」を開始したこと や、これが犠牲者を出したことの責任も決して認めようとしていない.

1966年の「文化大革命」の際には、[登B]氏自身が紅衛兵による批判の対 象になり、1950年のチベット政策に関する文書に見られるように、チベット社 会の上層部と共存する企みにより「階級の敵と妥協した」と批判された.第18 軍は解散となり、第18軍の重要な地位にあった他の中国人軍人と共に職を追放 された.

1970年代終わりになって[登B]氏が権力を回復してからは、自分の盟友で あり、第18軍に在籍していた陰法唐をチベット自治区の第一書記に任命して、 チベットに対する直接のコントロールを再び明確にした.同時に、[登B]氏 は国境地帯の安定を図ることで、「祖国を再統一する」という長らくの目標の 実現に再度着手し、チベット亡命政府との交渉を開始した.

1979年3月12日には、[登B]氏はダライラマの兄ギャロ・トゥンドゥプと 会見し、独立を唱えず、過去の抑圧に対する議論を求めないならば、交渉を開 始できるとした.1984年には交渉は決裂し、以降再開は進んでいない.これは、 [登B]氏はチベットであれ香港であれ、再統一問題を最終的に解決すること なく世を去ったことになる.

中国において、1980年代初頭からの改革と自由化については[登B]氏が一定 の評価を得ているが、ほとんどのチベット人は、これは[登B]氏よりはむし ろ胡耀邦が関与してきたものと見ている.

胡耀邦については、チベットにおける改革路線で咎を受けたが、現在でも胡 氏を高く評価するチベット人は多い.

以上

(翻訳者 浅田 英克)


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TIN News Update, 26 February, 1997
Tibetan Refugee Raped 12 Times by Nepalese Police

チベット女性難民、ネパールの警官に12回の暴行を受ける

昨年12月、22才のチベット女性が警官に率いられたネパール人の集団に、12回も 暴行を受けた。彼女は教育を受ける機会を求めて、インドに亡命をした直後であった と、この事件の犠牲者および彼女と一緒にいた仲間のチベット人たちは語った。

他にも、1人の尼僧を含む3人のチベット女性が、昨年11月の西ネパールの事件で、 ネパール警官によって性的な暴行を受けたと言われている。また先月北東ネパールの警 官が、安全に通行させる見返りとして性的な奉仕を要求した疑いもある。

昨年12月の暴行事件の犠牲者の22才のチベット女性は、7人のチベット人グループ に入り、2月12日に徒歩で国境の町ダムを出発した。このグループは山中を3日間歩 き通し、無事にネパールとの国境を越えた。しかしネパール警察と軍隊の制服を着、警 官の身分証明書を持った、7人のネパール人の男に捕まった。

女性が男たちの要求に応じなければ、彼女も他の仲間たちもチベットに送り返すと言わ れた。

過去2カ月間この事件の調査をしていたネパール内務大臣は、事実関係を明らかにする ことはできなかたが、婦女暴行に加わった警官はいないことは明らかだと、今日語っ た。

「この事件は、警官の過ちではない」と、内務大臣の秘書のパンドレー氏は、カトマン ズーからの電話で語った。「ネパールの警察は、この事件にもまた国境を越えて来たチ ベット女性を襲うというような、いかなる事件にも関わっていない」と、彼はTINに 語った。またネパール警察当局は、昨年10月にカトマンズーの難民施設で発生した、 チベット人襲撃・殺人未遂事件では、まだ誰も逮捕していない。

詳細

22才の女性の暴行事件は、カトマンズーの北東90kmの小さな町バラビサの郊外に ある、人里離れた家で12月15日と16日の2晩に渡って起こった。この町には、国 境の南側では最初の大きな警察署が置かれ、国境警備隊の分署も置かれている。

1人の男性と3人の女性そして3人の子供から成るチベット難民のグループは、案内人 たちが食糧とカトマンズーまでの交通手段を探しに行っている間、その家に隠れている ように言われた。

「夜中の12時頃、その家の所有者である女性が扉を開けると、7人の男たちが入って 来ました」と、犠牲者の女性は語る。彼女の氏名は、プライバシー保護のためにTIN によって秘されている。「1人は青色の警官の制服を着て、肩には2つの金色の星が着 いていました。残りの人々は、カモフラージュした制服を着ていました」と、彼女は語 る。

「彼らは懐中電灯を持ち、警察だと言って、手錠と身分証明書を見ました」と、アムド のガパ(東チベット)出身の遊牧民である、その女性は語った。

そのグループの中では、唯一の独身女性と思われた彼女に対して、警官たちは家の外に 出るように言った。「彼らの言うことを聞かないと、全員をチベットに送り返すと言う のです」と、彼女は語る。彼女は2階に連れて行かれ、制服を着た警官に犯され、それ からカモフラージュした制服を着た6人の男たちにも犯された。

「その後で私は大変な痛みを感じて、めまいがし、立ち上がることができませんでし た」と、彼女はTINに語った。彼女は何人かの男に抱き抱えられて立ち上がり、「引 きずられるようにして、涙ながらに他の人々が待っている部屋に帰った」と言う

翌日の午後11時まで、彼らは水も食糧も与えられずに同じ家に閉じ込められていた。 すると再び前の晩と同じ男が、4人の制服を着た警官を連れて来た。

警官らは、チベット人のグループを村から離れた別の家に連れて行った。そこで彼女は また、5人の男たちに乱暴された。「その後で、私は仲間の待っている別の部屋に連れ て行かれ、警官たちは私達にもう行っても良いと行ったのです」と、彼女は語る。

グループはガイドに引き渡され、ガイドの1人が彼女を案内して、それ以上の災難に遭 わず、亡命政府によって運営されたカトマンズーの難民収容センターに着いた。彼女が 到着をしたのは、12月20日であった。彼女はこの脱出行のために8000ネパール ・ルピー(約180米ドル)を支払うように、ガイドに要求されたという。その後、彼 女はカトマンズーの病院で治療を受けた。

バラビサの警官たちは最初の晩の暴行をする前に、難民たちの所持金を全て要求した。 全額で、5000ネパール・ルピー(約100米ドル)であった。それから身体検査を し、発見した宝石を2つ奪い、おまけに毛布や予備の衣服、懐中電灯まで奪ったと、難 民たちは語っている。

グループの中にいた他のチベット人たちは、事件が起きたときに彼女を守ろうとせず、 逆に警官たちの要求に従うように彼女を宥めたと、伝えている情報もある。

乱暴された女性は、亡命チベット人によって運営されている学校で教育を受けるため に、チベットを脱出したのであった。「私の願いは、教育を受けることです」と、彼女 は語っている。チベットでは、両親が動物の世話をするのに彼女の手が必要で、教育を 受けたことはなかったという。「私は学校に行ったことがないから、チベット語も中国 語も書けません。でも直ぐに、チベット語も英語も学ぶことができるでしょう」と、彼 女は語った。しかし彼女の年令から言って、長期間の学校教育はもう無理のようだ。

公式な調査進まず

ネパール政府は、昨年12月遅くにバラビサの暴行事件を公表し、高官による調査が数 日後に始まった。犠牲者は、暴行した男たちのリーダーを「45才から50才位の太鼓 腹の男」だと証言した。しかし2カ月経っても、警察官はこの事件に関与していないと いうこと以外、いかなる行動も取られたようには見えない。

「もう2カ月が経ったが、警察は犯人を捕えてはいない」と、犠牲者は先週語った。 「警察は犯人たちを捕えても、きっと彼らを釈放してしまうだろうと、私は思ってい る」と彼女は語った。

この事件には、さらに重大な背景が潜んでいる。性的な暴行は、他人に知られたくない だけに、それを報告する女性の数は極めて限られている。さらにネパール警察の暴行事 件は、事件の犠牲者が警察署や村落の特定さえもできない場合がある。

ネパール警察当局は、4カ月前に起こったカトマンズーのチベット難民センター襲撃事 件で、殺人未遂・傷害事件の犠牲者たちが主犯を特定し、その名前を挙げているにもか かわらず、容疑者を拘束してはいない。

難民センター襲撃事件は、昨年10月31日の夜に発生した。水の供給に関する紛争が あり、明らかに地元民によって起こされたものであった。少なくとも2人のチベット人 が、頭部に負傷して重体となった。2人のネパール人が短期間拘束され、警察の事情聴 取中に釈放となった。

ネパール西部で、複数のチベット女性暴行さる

昨年11月、別の事件であるが、42人の難民集団の中の3人のチベット女性が乱暴さ れかかったのを止めようとして、2人のチベット人がネパールの警察官に殴打された。

このグループは、チベットから脱出した後に捕われ、ネパール西部のハムラ地方の町、 シミコットの警察に拘束されていた。2人の若い女性と1人の尼僧が、警察によって仲 間から隔離され別室に移された。そこで後に、警察官によって性的な暴行を受けたと、 同グループの仲間たちは報告している。

暴行は3晩続き、女性たちの叫び声は仲間たちにも聞こえ、また目撃もされたという。 3晩目に、仲間の2人のチベット人が止めようと中に入ると、ネパールの警察官らが3 人の女性の上に乗っていた。しかしこの2人は、制服を着てライフルを持った警察官ら に、ひどく殴られたという。犠牲者の女性たち自身は、この事件のことを話したがらな いと、報告者は伝えている。

また先月チベットを脱出して来た難民グループの1員は、ネパール北東部の警察官12 人によって、カトマンズーに無事に通過させる代償として、グループの中から女性を1 人提供するように言われたと報告している。この匿名希望のチベット人は、1月22日 頃、カトマンズーの北東100kmに位置するラマ・バザールの、チョクサム警察署に 拘束されていた24人のチベット人の1員であった。難民たちは警察の要求には答え ず、その警察官らに8000元(1000米ドル)を支払って釈放された。

チベットにおいては、中国警察による婦女暴行の報告は少ないが、昨年前半にネパール からチベットに帰った女性が暴行されたのではないかとの疑いがある。1996年4月 チベット人夫婦がネパールを訪問した後に、ダム(中国名:ザンムー)の友誼橋の近く の警察に拘束され、この事件が起こったようだ。

ワンドゥプという名の夫は、手錠を掛けられて警察の拘置所に入れられ、妻は2人の中 国人警官によって暴行されたと、未確認情報は伝えている。ワンドゥプは東チベットの アムド出身で、先月もまだダムに拘束されていると言われている。

以上

(翻訳者 小林秀英)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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