17号(1996年12-1997年1月)


TIN News Update, 26 December, 1996
Bombing in Sog County ; " Strike Hard " to Continue

ソグ郡で爆弾破裂、『犯罪撲滅キャンペーン』続く

概要

1993年から中国人および回族の移住者に対する抗議運動が散発的に起こっていた、 最貧困地域である北チベットの村において、1996年の初頭に中国人と回族の所有す る複数の店が爆破されていたことが、同地域からのチベット人の証言で判明した。現在 続行中の『犯罪撲滅キャンペーン』は、これまでに少なくとも34人が処刑されてお り、主に独立運動に関連した爆弾事件に焦点が絞られている。

爆弾事件はラサの北方340kmに位置する、ソグ郡のツェンデン村で今年1月に起こ った。この事件の主犯はチベット人の僧侶で、「自分たちの自由回復のために」行った と言っていることしか、今の所判っていない。

「爆弾事件に対する中国人の報復がチベット人にもたらした苦しみの方が、爆弾が彼ら に与えた被害よりもずっと大きかった」と、後にこの僧侶はインタビューに答えて語っ た。

ソグ郡の爆弾事件は、今年チベットで発生した3番目の爆弾事件であり、昨年は少なく とも4件の同種の事件が起こっている。またソグ郡の事件は、犯人が犯行を認めた唯一 の事件でもある。チベット在住の中国政府筋は、今年30件の爆弾事件を『撲滅』し、 今年の夏からでも2000ポンド以上の爆薬を押収したと言っているが、これら事件の 殆どは政治活動とは何ら関係がないようである。民族主義者による暴力と爆弾事件がチ ベットに広まっているという主張は、詳細が判明したことがなく、誇張に過ぎないもの のようだ。

ソグ郡に軍隊が展開しており、中国人の役人の数も増加しているという僧侶の報告は、 今年6月11日から20日まで、チベット人としてチベット共産党の最高位にあるライ ディが、同地域を訪問した際の公式コメントからも裏付けられる。彼は、同地域に不安 定な兆候が顕著であると語っている。

詳細

「ソグ郡の全般的な状況は安定しているが、幾らか問題が存在している」と、ライディ は同地域の軍事、警察の指導者に語ったと、6月24日の西蔵テレビは例になく率直な 報道を行った。ソグ郡政府は、「軍隊および武装警察部隊の強化に意欲を示し、駐屯に 関わる現実的な困難を解決する援助をし、分裂主義者たちの破壊活動を断固として撲滅 しなけらばならない」と、彼は付け加えた。

ライディは、もっと多くの中国人の役人が既に同地域に送り込まれていると語ってお り、チベット人役人に対して、入植中国人との関係を向上させるように呼び掛けてい る。「漢族の役人の多くは、到着したばかりであり、生活環境や言葉に慣れるには時間 が掛かる。チベット人の幹部は、率先して彼らに配慮を示さなければならず、もっと援 助の手を差し延べなければならない。我々は、分離主義者に付け込まれるような隙を見 せるべきではない」と、ナクチュ地区出身のライディは語った。

チベットの『犯罪撲滅キャンペーン』は政治運動を標的に

この事件は、中国全土で展開されている犯罪撲滅キャンペーンを、チベット在住の中国 人当局者が、独立要求運動グループによって起こされたと思われる爆弾事件に対するキ ャンペーンに、いかに変更したのかを幾らかは説明することができよう。中国内地で は、犯罪撲滅キャンペーンは殺人や婦女暴行、銃撃事件等の一般的な犯罪に向けられて おり、政治的な犯罪に対応してはいない。

「この地域では、まず第1に分離主義者による分裂活動や破壊活動に対する闘いに重点 を置く必要がある」と、8月6日付けの西蔵日報第1面の記事は報じている。「我々は 犯罪撲滅キャンペーンにおいて、常に分裂主義に対する闘いに優先権を与えるように主 張して来た。犯罪撲滅キャンペーンの一環として、分裂主義者による爆弾事件を粉砕し なければならない」と、チベット自治区主席のギャルツェン・ノルブは、BBCが傍受 した8月14日の西蔵テレビで声明を出した。

キャンペーンの1カ月目でチベット政府は、34丁の銃と3724ポンドの火薬を押収 したと、6月初旬の検察日報は伝えている。7月20日までに30件の『爆弾事件』を 解決し、925kgの爆薬、2008個の信管、465mの導火線を押収したと西蔵日 報が報じていると、9月15日にロイター電が伝えている。他の報告書の示すところに よれば、これらの事件は道路工事用の部品や、非政治的な理由で盗まれた狩猟用の武器 を押収したもののようである。

政府関係者は、爆薬事件に関連して処刑された者がいると語っているが、詳細には触れ ていない。「判決が出された事件を振り返って見ると、死刑判決を受けた犯罪者は殺人 者、強盗、爆弾事件に関与した者、大盗賊、婦女暴行者である」と、チベット自治区高 等裁判所の長官バイ・ザオが語ったと、6月17日付けの西蔵日報が報じている。「も し死刑にしなかったら、人民が満足しないであろうし、怒るであろう」と語り、政府は 「テロリスト対策で成果を上げた」と付け加えたが、詳細には触れなかった。

チベット自治区の『犯罪撲滅キャンペーン』:34人処刑さる

検察日報によれば、キャンペーンの最初の月に、チベット自治区で187人の人々が逮 捕されたという。そして10月のラジオ・ラサの報道によれば、キャンペーン期間中に チャムド県だけで164人が拘束されたと、チベット亡命政府筋は語ってる。その内 29人は、チベット自治区の犯罪撲滅キャンペーンの期間中の処刑者のリストに載って おり、その中の18人はチベット人であった。4人が5月11日にラサで、8人が5月 27日にシガッツェで、4人が7月12日にニャトリで、9人が7月9日にラサで、そ してさらに4人が8月6日にラサで処刑者として公表された。また非公式情報によれ ば、9月11日にツェタンで1人のチベット人を含む5人が処刑されたと言う。

チベット自治区における処刑者の数は、中国の犯罪撲滅キャンペーンにおける処刑者の 数、少なくとも2200人に比較すれば少ない。しかし人口比にすれば、6万5千人当 たり1人になり、中国全体の人口比の8倍に当たる。

これらの事件の詳細は殆ど判っていないが、しかしその大多数が非政治的な犯罪で、わ ずか6人が政治的犯罪者と公式に認められているだけである。彼らは5月後半に、シガ ッツェで5年以下の刑の判決を受けている。

犯罪撲滅キャンペーンは、3カ月の犯罪対策として4月15日に中国で打ち出され、5 月9日にラサで公開会議が開かれた。「今から3カ月を我々は市全体で、分離主義者の 破壊活動と重大な犯罪を撲滅する期間としなければならない」と、ラサ共産党の書記ロ プサン・トゥンドゥップが語ったと、翌日の西蔵日報は報じている。キャンペーンは、 元々8月初旬に終了することになっていた。しかし10月29日ラサの会議で、チベッ ト自治区警察の副長官のリー・シーウェンは、キャンペーンは1997年の正月が終わ るまで、ということは2月の中旬まで、チベット全体で続くことになろうと述べてい る。12月18日、中国の裁判所長官のレン・ジェンシンは、キャンペーンが成功して いるので、国民的なキャンペーンは来年一杯続くことになろうとほのめかしている。

このキャンペーンは元々4段階が設定されており、各段階はそれぞれ2、3週間続くこ とになっていた。第3段階は、中国では5月27日から6月23日までの予定であった と、香港の新聞チェンミンは報じている。チベットにおいては、第3段階が始まったの は、ようやく8月に入ってからであった。この段階の目標は「前2段階を持続し拡大す る」ことであり、明らかに対政治犯の姿勢を強化する意図がある。「『犯罪撲滅キャン ペーン』の第3段階において、重点目標に焦点を絞り、分離主義者や重大な犯罪人を撲 滅しなけらばならない」と、8月17日付けの西蔵日報は第1面で報じている。

キャンペーンは『素早く、厳しく』という原則に則って、速やかに苛酷な判決が下され ている。6月にチベットの主任裁判官のバイ・ザオは、『基本原則』に則って「細かい ことにこだわらずに」、裁判のスピードを上げるように役人に命令を出した。そしてシ ガッツェで犯罪者が徹夜の取り調べを受けて、最初の公判から10日以内に処刑された 例を称賛した。

爆弾事件の背景

昨年1月のソグ郡の爆弾事件は、2店舗にわずかな被害を及ぼしただけで、負傷者は出 なかったと、氏名や履歴を明らかにした僧侶が事件の詳細をTINに伝えて来た。この 僧侶は、ソグ郡の行政の中心地ソグ・ゾン市の郊外の村ツェンデン出身である。

爆発は、1月13日の早朝4時半に起こった。民衆にパンチェン・ラマの転生者と認め られいる少年を中国が否定した件と、ダライ・ラマ法王の写真が禁止された区域にソグ 郡が含まれる等の、他の宗教政策に対する抗議の意味があったと、事件を起こした人間 は語っている。

「因果の法則(原因と結果、および倫理性)を信じない中国人は、ダライ・ラマ法王の 写真を焼却した」と、犯行を自供した僧侶は陳述書の中で述べている。「彼らは、彼ら が選んだパンチェン・ラマを受け入れるように、我々に圧力を掛けて来た。もし我々が 他の転生者を認めれば、逮捕すると我々を脅した」と、20才代の僧侶は続ける。彼は また、僧侶や尼僧の数を削減しようとする新規則に対しても、また僧院内に中国人の通 報者が置かれていることにも抗議をしている。「中国のスパイは、昼も夜も我々の僧院 の中を走り回っている」と、彼は書いている。

陳述書の中で、同地域に展開する軍隊が増強されたことにも、また中国人移住者による 環境破壊にも苦情を述べている。「そこに長く住んでいる中国人たちは、環境を守って いると言っている。実際は彼らは木を伐採しており、森林を破壊し、野生の生物を殺し ている。しかし基本的には、希望を失ってはいない」と、この僧侶はTINに語った。

爆弾による攻撃は、回族つまり漢族回教徒に対する人種的な反感に動機づけられてもお り、爆破された2店舗は回族の商人の所有である。「私が店を爆破した第3の理由は、 回族がチベット人を侮辱したからだ」と、僧侶は語っている。回族の移住者は最近の経 済開放政策の恩恵を被って、青海省と境を接するソグ郡等の、北チベットの遊牧地帯で 商売をして来た。ラサおよびソグ郡在住のチベット人から得られた少し前の情報では、 回族移住者が汚物で食品を汚してチベット人に毒を盛ろうとしているとか、動物や人間 から血液を盗んでいるとか、偽物のお金を使うとか、チベット人からシラミとか垢を買 おうとしているとかいう話であった。1995年2月ラサの回族の食堂で、食べ物の中 に人間の指が入っていたと客が言たことで、群衆がその食堂を襲った事件もあった。

ソグ郡の爆破事件は、僧侶の個人的な動機によるものであったようだ。彼は、道路建設 用の爆薬から爆弾を作った。彼は地元の労働奉仕で岩を砕く仕事に派遣され、その技術 を学んだという。

事件後に、この僧侶を含むおよそ30人の地元のチベット人が、反中国の疑いで取り調 べを受けた。警察は、犯人が判明したら処刑すると宣言していた。僧侶は、中国の役人 がソグ郡の持場を離れて中国の正月で故郷に帰った隙に、逃げらることができたのだ が、彼が逃げたことが判って多くの人々が短期間拘束された、と彼は語っている。

爆破事件の後、近隣では穀物の販売が停止された。おそらく事件に対する報復であろう と、この僧侶は語る。「1993年以来、中国人は次第に穀物の販売量を減らして来て いたが、爆破事件後に穀物販売を止めました。人々は穀物を買うために、ソグ郡から 200km西に位置するナクチュまで行かなければなりませんでした。余裕のある人し か、そこまで行けませんでしたから、飢えなければならなかった人たちもいたのです」 と、僧侶は語っている。

暴力を使うことは、亡命チベット人指導者のダライ・ラマ法王の指導に反するように思 われる。法王は、もし彼に従う人々が非暴力を捨てるならば、引退すると表明してい る。僧侶は、シュデンと呼ばれる神を崇拝するか否かという最近の宗派間の紛争でも、 ダライ・ラマ法王を支持している僧院の出身であり、法王を強く支持すると表明してい る。この地域では、80パーセントのチベット人が『非常に愛国的』であり、多数の人 々が爆破事件を容認したと、彼は主張している。

過去3年間ソグ郡では、持続的に騒動が起きていた。地元の人々が中国人の店に石を投 げ込んだり、チベット独立を呼び掛けるポスターが貼られたりしていた。1993年7 月の騒動は、ソグ・ゾンの市政府がトリドとヤンネの村人の手で捕まえられ、地元の裁 判所に突き出された10人の中国人を、告訴することを拒んだときに起こった。その中 国人たちが、牛に害を及ぼしたとチベット人たちは告発していた。ソグ・ゾンの東方 85kmのヤグラ地区の村々では、全ての中国人が地元民によって同地域から追い出さ れていた。

中国人所有の18軒の商店が、1993年の抗議運動のときにソグ・ゾンの人々によっ て被害を受けた。18カ月後に、ようやく公式新聞である西蔵日報が『民族主義的分離 主義者』による『重大な暴力事件』と報じた。50人から60人のチベット人が、19 93年の事件かまたは独立要求ポスターに関わった容疑で拘束された。

拘束された者の中で3人は、拘束中に拷問を受けたことが広く報告されている。20才 のニガというチベット人は、1993年に2年の刑を受けたが、「ひどい拷問を受け た」と言われている。タシ・ノルデンは、ダライ・ラマ法王のビデオを所持していたこ とで1993年に逮捕され、ナクチュ刑務所に2カ月収監されている間に、片目を失明 した。クンチョク・テンジンは、1995年2月に逮捕された教師で、ナクチュに収監 されている間に、身体障害となったと言われている。

1993年の事件後、1994年にソグ・ゾン市の郊外に軍事基地が設営され、数百人 の兵士が駐屯していると言われる。同時に地区のチベット人幹部が数人追放され、中国 人がこれに代わったと、6月に同地区を訪れたライディの演説に述べられていた。19 93年の事件のおよそ1年後、回族および漢族の商人たちがこの地域に戻って来た。こ れは、政府が新しい軍事基地を設営し、彼らに特別な保護を与え始めたからであると言 われている。ソグ郡には反中国抵抗運動の長い歴史があり、少なくとも1968年まで はゲリラ集団が活動をしていた。1982年に地元の情報筋は、この地域には50才以 上の男性は一人も生き残っていないと報告をしているが、これはまだ確認されていない。

以前の爆破事件と『破壊活動』

他に2件の爆破事件が、今年に入って発生したことが知られている。1月18日、セン チェンという名の親中国派の僧侶の家が爆破された。そして3月18日、ラサにある自 治区共産党本部の正門の外で爆弾が破裂した。一連の政治的な爆破事件の第1回目は、 1995年6月で、チベット自治区設立30周年の公式式典の準備期間中であった。し かしチベット政府は、犯罪撲滅キャンペーンが始まるまで、チベットで爆破事件が起こ ったことを認めたことは一切なかった。

「ダライ一派は、祖国を分裂させる一連の謀略に失敗して行き詰まり、血迷って再び我 々に攻撃を加えて来た。彼らは継続的に暴力を使用して、テロ活動を行っている。昨年 初頭から、繰り返し繰り返し多くの爆破事件を起こして来た」と、5月11日付けのの 西蔵日報は報じて、爆破事件に言及した最初の新聞となった。

1995年9月、ラサに滞在中のニュージーランドの観光客が、ラサで爆弾が破裂した と家族にファクスを送ったことで、「前以て準備された嘘を言い触らし」、「国家の安 全を脅かした」として告発された。「しかしながら、こういった人々の陰謀は余り賢く はない。中傷や捏造が人を騙すことができるのは、僅かな期間に過ぎない」と、新華社 電はこの事件を報じた。「政治的な噂を言い触らすことは、ダライが重要視する策略で ある。それをせずに、一瞬も彼は過ごすことができないのだ」と、1996年4月1日 当局はコメントを出した。

昨年チベット民族派の人々は、しばしば中国の報道機間から『破壊活動』を行っている と、糾弾されている。しかしこの用語は、中国では非常に幅広い意味で使われている。 中国の国家安全法の適用規則によれば、この用語の公式な意味内容として、「話を作っ たり、事実をねじ曲げたり、文書を発行・配布したり、演説をしたり、ビデオ・テープ や録音テープを製作したり配布したり、民族的な紛争を起こしたり、民族的な分裂を画 策したり」することを含んでいる。この法律は1993年に公布されており、政治犯に 対してこれまで批判の多かった反革命罪を適用するよりは、刑事法の範疇で処理しよう という意図が明白である。

政治的な関連性のある暴力事件に関しては、チベットの公式新聞は最近『分裂主義者に よる積極的破壊活動』という用語を使っている。これには、「爆破事件、殺人、殴打、 破壊、強盗、放火」が含まれていると、6月17日付けの西蔵日報が報じている。また 別の記事では、暗殺事件についても触れていた。

以上 (翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 27 December,1996
18 Years for Tibetan "Spy"; US Implicated (TIN)

チベット人「スパイ」に18年の刑:米国の関与を暗示

ンガワン・チョエペル氏( Ngawang Choephel)は米国においてフルブライト 留学生として研究活動を行っていた亡命チベット人であるが、英国放送協会( BBC)が聴取したラサ放送によれば、チョエペル氏は中国当局によりスパイ 行為で18年の刑を宣告された.ラサ放送によればチョエペル氏は外国の支援も 受けていたとしており、中国政府はこの外国を米国であると別の場で言明して いる.

チョエペル氏(30歳)は音楽教師であり、民族音楽の収集を行っていたが、 1995年9月に初めてラサを訪問した際に逮捕された.この時、チョエペル氏の 訪問の目的はチベットの伝統音楽と舞踊について、個人的にビデオ撮影を行う ためであった.

判決は事前の予想よりも長期なものであり、20年前に毛沢東時代が終わって 以来現在までに、殺人以外の政治犯としてこれよりも長期の刑を宣告されたチ ベット人は2人しかいない.また、米国在住の人権活動家ハリー・ウー氏に対 して下された判決よりも3年長い.この判決を受けての国際的な批判の中で、 ウー氏は昨年米国への帰国が許可された.

また、チョエペル氏への判決よりも長期の判決を過去受けたチベット人は、 ンガワン・プルチュンとジャムペル・チャンチュブという僧侶であり、1989年 にチベットの民主と自由を求める政治文書を印刷したことで19年の刑が宣告さ れた.また、同じく1989年にはその前年のデモで警官を殺害したとして更に2 人のチベット人が終身刑を受けている.1987年以降現在のチベットの政治犯へ の刑期は平均で6.4年となっている.

亡命チベット人音楽教師を裁判にかけ、長期の判決を下すという中国当局の 決定は、西側からみれば挑発とも受け取れ、米中関係にも影響を及ぼす可能性 がある.これの判決を伝えたラサ放送は3回にわたって「ある国」がチョエペ ル氏に金銭と器材を支援して、情報を提供させたと言及した.駐米中国大使か ら米国のジェームス・ジェフォード上院議員に1996年10月にあてた手紙の中で、 中国政府は、この「ある国」が米国であると既に名指ししている.

チョエペル氏は、チベットの伝統音楽と舞踊の撮影に関して米国の財団や個 人から若干の援助を受けている.しかし、前述のラサ放送はチョエペル氏が米 国政府から支援を得ていたと報じている.

チベット亡命政府は、チョエペル氏が亡命政府の為に働いていたことを否定 している.チョエペル氏とチベットを旅行し、その撮影を手伝った欧米人もい るが、チョエペル氏は純粋に舞踊の撮影を行って、いかなる政治活動にも関与 することに神経質になっていたと述べている.

中国当局は、ラサ放送を通じて1996年12月26日にチョエペル氏が、シガツェ において「スパイ行為を行なった」ために刑を受けたと発表した.

同放送によると、「ンガワン・チョエペルはある外国から資金と器材の提供 を受け、民族音楽や舞踊についての情報を収集するとの口実によりダライ一派 の手でチベットに送り込まれ、スパイ活動をしていた」と述べている.

更には、「ンガワン・チョエペルは情報収集の計画に沿ってラサ、ツェタン (山南)、ニンティ(林芝)、シガツェに行き、スパイ活動を行い、ダライ一 派政府及びある外国の組織に対して情報を提供しようとしていた」とも述べて いる.

この放送はチョエペル氏の罪状について「このような行為を自白した」こと 以外の証拠は何も挙げていない.

チョエペル氏は1993年に制定された中国の国家安全法により処罰された.こ れは、中国政府が政治犯を処罰するに当たって、国際社会からの批判のある反 革命行為に関する法律よりも反スパイ法を使うケースが多くなっていることの 一環である.

音楽教師であるチョエペル氏は西チベットで生まれたが、2歳であった1968 年に両親とインドへ亡命した.1993年には米国のバーモントのミドルベリー大 学で1年間研究と教育にあたった.通常インド発行の旅券で旅行するチベット 難民ではあるが、チベットに入境するに当たっては、中国政府がチベット亡命 者に発行する特別な書類がなければ入境が認められなかったものと考えられる. この書類の発行に当たっては、書類上は中国人であることを認めることが必要 となっていたと考えられる.

以上

(翻訳者 浅田英克)


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TIN News Update / 28 December, 1996
URGENT !!!
- Major Bomb Blast in Lhasa -

ラサで大きな爆弾事件

12月25日未明、チベットの都ラサで大きな爆発物が爆発、目撃者の談によると、近接す るホテルが被害を被り、少なくとも半マイルは離れた建物が揺れたという。

この爆発事件は後にBBCモニタリング・サービスが傍受したチベット・ラジオの放送でも 確認された。ラジオ放送はこの事件を「ラサ市街でまたもやダライ一派の仕業による反 革命的爆弾事件」と伝え、「重大な反革命的政治事件であり戦慄のテロ行為」と呼ん だ。

当局がチベットにおける特定の妨害工作や爆弾事件の事実を認めたのは今回が始めての こと。爆発の規模が大きく、隠蔽が不可能になったのであろう。

爆弾が爆発したのはクリスマスの午前1時30分直後、中国語で「ラサ城関区」と呼ばれる ラサ市街地の区役所の門の外側だった。城関区オフィスは、ラサ旧市街の北の輪郭をな す大商店街であるデキ・シャルラムと呼ばれる大通りに位置する。

非公式の報告によると、この爆発によって5人が負傷し、そのうち何人かは重症で病院 に運ばれたという。負傷者のうち少なくとも2人は城関区オフィスの夜警であり、他は 近隣に住む中国人商店主たちだと思われる。

今年ラサで起こった3度目のこの爆弾事件は、これまでのいかなる妨害工作の試みと比 べてきわめて大きなものであり、比較的高度な専門的技術が伴ったものだと伝えられて いる。あるTINの情報源によると、この爆弾は遠隔操作装置によって爆発させられたもの で、中国では一般的でチベットでも用いられている道路爆破装置に基づいた爆弾とは異 なったものになっている。

初期の未確認情報によると、半径100m以内のほとんどすべての窓ガラスが吹き飛び、城 関区オフィスの入口に面したバナクショ・ホテルとガンギェン・ホテルが大きな被害を 受け、構造的な損壊も受けたかもしれないと伝えられている。ガンギェン・ホテルの1 階にある中国銀行の支店が大きな被害を受けたと言われている。

爆発はある程度離れた場所でも感じられた。「私は爆発の場所から半キロのところで眠 っていたが、爆発があったとき、部屋の壁が揺れた」と、匿名のラサ市民は電話で語っ た。

爆弾は、ラサの市街区と周辺農業地帯を管轄する城関区オフィスの上階に大きな被害を 与えた。この建物の一部はラサにおける秘密工作の拠点としても使われており、これら が爆弾を仕掛けた者たちのターゲットだった可能性があるという情報もある。この話は 確認されていないが、旅行者たちは、このオフィスの門の前でパトロールに出かける前 の私服工作員たちが集まっているのを目撃している。城関区公安の本部が城関区オフィ スのすぐ後ろにあるが、爆発による被害は受けなかったようだ。

警官や見物人群衆が現場に集まったが、最初の12時間は警備要員による系統的な対応は ほとんどみられなかった。この事件が当局の不意をついたものだったということだろ う。瓦礫や割れたガラスは12月25日の昼間になってもまだ片づけられておらず、自動車 はその日、自由にラサを離れることができた。12月26日の朝までには、自動車はラサを 離れることができなくなり、チベット第2の都市シガツェへの路上に少なくとも6ヶ所 の検問が設けられた。

すべてのホテルは12月25日に警官の訪問を受け、チベット人宿泊客が尋問を受けた。あ る報告によると、特にインドから訪れている亡命チベット人に関心が向けられていた。

爆発から18時間がたった12月25日から26日にかけての夜間、警察当局はラサの旧市街あ るいはチベット人居住区全域で戸別訪問による事情聴取を行なった。すべての若い男性 が、爆発のあった時刻にどこにいたかを訪ねられたという。また、この爆破事件をどう 思うか、将来同じ様な事件が起こると思うかどうか、という質問もなされた。

12月27日、明らかに爆弾事件での失地回復のために特に召集された高レベルの会議のな かで、チベット人党員はこの事件を「ダライ一派」(北インドに拠点を置くチベット亡 命政府を指す中国側の呼び名)の企んだテロ行為だと非難した。チベット・ラジオによ ると、高官たちは「徹底的にダライ一派の正体を暴いて批判し...政情安定を保つための 予防策を強化する全チベットにわたるキャンペーン」の開始を宣言した。ラジオ放送は 会議に参加した中国人高官の名は一人も挙げてなかった。これは、この事件を克服する 政治的支援を組織する際、チベット人党員らが大きな責任を負わされていることを意味 する。

当初ラジオ放送はこの爆弾事件を、「全世界の全国家全民族」が非難しているという別 の国のテロ事件になぞらえた。

ラジオ放送は、チベット自治区政府副主席の一人であるギャンツォの言葉を引用して 「この事件は、ダライ一派がチベット人民に対抗するためにこれまで装ってきたいわゆ る平和的な仮面をかなぐり捨て、土壇場の戦いをいどむ曲面に至ったことを明示してい る」と伝えた。

これまでのところこうした活動における亡命政府の関与については一切証拠はないが、 中国当局はこの爆弾事件を「ダライ一派」の仕業と決めつけた。亡命政府社会の若干の 小グループやチベット本土の個人のなかには、妨害工作や力による対決のための計画や 訓練に興味を示す者もいる。しかしながら、この事件の深刻さは、自身の活動は非暴力 によるものだというダライ・ラマの主張に泥を塗るものとなることであろう。

同様な小グループが、1985年のチベット自治区創立20周年祝典を妨害し、当時の党書記 を暗殺しようと試みたが、その企ては失敗した。このクリスマスの爆弾事件が、仮にチ ベット独立派グループによるものだったとしたら、チベット民族主義者たちは、おそら く1974年にゲリラ戦が幕を閉じて以来初めての大きな事件を起こすために十分なノウハ ウと資金を手することに成功したことになる。

今年ラサでは、これ以前に2つの爆弾事件が起こった。一つは3月18日に、チベット自 治区共産党委員会本部に隣接する自治区人民政府本部の外側で、そしてもう一つは、1 月18日には、昨今のパンチェン・ラマ問題で中国当局を大々的に支持した僧侶センチェ ン・ロサン・ギャルツェン宅の外側で起こった。

以上

(翻訳者 長田幸康)


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TIN News Update, 31 December, 1996
Student Unease at Language Policies in Schools, University

大学、中等・初等学校の言語政策で学生ら不穏な動き

西蔵大学のチベット人学生らは、歴史はチベット語を使わずに中国語で教授されると政 府が発表したことで、今月初旬に危うくデモを実行するところであった。

この発表は、中等教育に中国語を使わずにチベット語を使って成果を上げて来た政策 を、中止するとの地方政府の決定に続いて出されたものである。

全学生がチベット語の入学試験に通らなければならないとの、長く実施されて来た必須 条件も今年は外されることになった。そして、チベット語の使用を優先する政策を実施 する担当部署で、これまで高く評価されて来たチベット語委員会は郡レベルに格下げさ れることとなった。

西蔵大学は、チベット語による教育を発展させるために設立されたという意味合いもあ ったが、チベット語の使用促進とチベット文化の向上に力を入れようとした、これまで の姿勢を現在の中国人指導層が次第に撤回しようとの兆候と思われる。

大学当局は、多くの教員や学生がチベット人であるとしても、チベット史の講座は中国 語で教えられなければならないと語っている。この決定は、非常に矛盾したものを含ん でいる。何故ならば、チベット史の講座はチベット語学部の中に置かれており、政治学 部あるいは歴史学部の講座ではないからである。チベット語学部の講座は、既に大半が 中国語で教えられている。

多数のチベット人学生や教員が、12月3日または4日にラサの南東部に位置する大学 の構内に集まり、チベット史の講座に関する決定に対して公式に不満を表明した30人 の学生らの行動を支持した。抗議集会に参加したのは、使用される言語の変更によって 直接影響を受けた人々であったと、大学の関係者が認めている。殆ど人々が地方の出身 で、中国語が流暢でないと言う。

学生らは請願書を手渡すために、ラサの地方役所まで行進をする予定であったが、大学 当局の役人らが学内問題として処理すると約束をして、構内に留まるように説得をした と、某情報筋は伝えている。

「10人から20人の学生たちが、中国語で教授される講座が多すぎると不満を表明し た」と、リューと名乗る役人が語った。しかし彼は、完全な氏名を明らかにするのを拒 んだ。「学生たちは中国史と述べており、講座で使用される教材は中国語のものだけだ と言っている」と、この役人は報道関係者に語った。

大学当局の役人たちは抗議運動の後に学生らと協議をし、大学でのチベット語の使用を 増加させると約束した。しかしそれを実施するには、10年掛かるであろうとほのめか した。

「協議の結果は、チベット語を使用しようというものであった。学生の80パーセント がチベット人であり、教材はチベット語で与えることが重要だ。しかし教材の殆どが中 国語なのだから、それをするには長く大変な努力が必要だろう。恐らく8年から10年 掛かる。しかし、学生たちの意見を取り入れるために最善の努力をする積もりだ」と、 彼は語った。

中等・初等学校のチベット語教育計画中止させられる

在チベットの中国政府関係者は、チベット語の使用に関して1980年代中期にも同じ ような教育政策を実施していた。しかし、その多くは充分に実施されなかったし、誤っ て実施されることもあった。

1989年に故パンチェン・ラマが中央チベットに開設した中等学校3校を含む、実験 的な4校のチベット人中等学校が現在では閉鎖されるか、新入生の入学が認められてい ない。チベット人がアムドと呼んでいる青海省の、およそ40校の特別な学校以外で は、中等学校レベルのチベット人児童は全て中国語で学んでいる。

チベット自治区の実験的なプロジェクトには、物理、化学、数学をチベット語で教えよ うというものも含まれていた。これは特に評判も良く、1995年には最初の卒業生は 最終試験で特に良い成績を残し、79、8パーセントが合格した。中国語で教育を受け た他の中等学校の学生たちが、39パーセントしか合格しなかったのと対照的だと、チ ベット教育委員会が1995年冬季に出版した報告書『チベット教育』が述べている。

南チベットのロカ第2中等学校は、チベット語による教育を行う実験校4校の中の1校 であるが、38名中で36人が最終試験に合格した。

実験的なプロジェクトの教育を受けた最初の卒業生たち103人は、中国語で教育を受 けたチベット人学生たちよりも、中国語の成績も良い結果を示した。66パーセントの 学生が、中国語の試験に合格したのである。それに比べて、中国語の教育を受けた学生 たちは、61パーセントが合格しただけであった。

中国語の教育を受けたチベット人学生たちは、全国平均よりもはるかに低い得点であっ たので、これまで能力が低いと見なされており、中国政府は少数民族優遇政策の一環と して、彼らの成績に下駄を履かせていた。

「様々な段階の共産党委員会、政府および教育部門の役人はチベット語による実験的な 教育を支持し、大事にしなければならない」と、教育委員会は1995年の報告書で述 べており、地方においてもこのプロジェクトを実施するように呼びかけている。

この実験的なプロジェクトは1年間延長されたが、このプロジェクトで教育されている 次年度の学生たち300人以上が、1996年7月に試験を受けた際にはチベット語で はなく中国語の試験を手渡された。その結果殆どの学生が不合格で、ラサ第2中等学校 の実験クラスの50人の内わずか2人が合格しただけであった。学生らの両親は、彼ら の最終学年のために、中国語で授業をする別の学校を探さなければならなかった。

実験的なプロジェクトの終了は、チベット内の党指導部の分裂を反映していると思われ る。3年前には教育担当副書記のテンジンは、このプロジェクトの強い支持を表明して いた。「教育の平等性と国民の文化レベルの向上のためには、チベット語の使用の効果 に代わるものはないことが、はっきりと証明された」と、1993年3月にチベット自 治区の言語政策を指導するチベット語委員会の会議で、テンジンは語った。「従って、 チベット語による伝達機能をこれまで以上に活用すべきである」と、彼は続けた。

レーニンや毛沢東、沛ャ平の言葉を引用しながら、経済発展のためにはチベット語が不 可欠であることを、彼は力説した。「改革、開放、経済建設をこれまで以上に促進する ためには、チベット語の口語や文語を使って仕事をすることができるようにして、我々 の文化に対する国民の知識レベルと高めて行かなければならない」と、彼は委員会に語 り、同委員会の役割も拡大され強化されるべきであると付け加えた。彼はまた、独立要 求派からの批判に打ち勝つためにも、チベット語の使用は拡大すべきだと主張した。

1996年春、テンジンの演説から3年が経過していた。チベット語委員会は自治区レ ベルの組織であったが、中国の組織図から言えば2階級下の、郡レベルに格下げとなっ た。数人の高位のチベット人学者が、委員会から引退した。高齢のためということであ るが、言語政策の変更に抗議して引退したとの報告もある。

大学は『チベット文化の中心施設』として設立された

西蔵大学におけるチベット史の授業は、中国語とチベット語のどちらで行われるべきで あるかの論争は、1985年に設立された大学の本来の目的に帰することになる。

公式にはチベットの経済発展を促進する人々、その中には漢人幹部も含まれているが、 彼らを教育するために大学は設立された。しかし設立当時は、チベット文化の興隆にも 大きな比重が置かれていた。「チベットにおける高等教育は、チベット文化の維持発展 に向けられなければならない。特にチベット語での教育が、行われるべきである」と、 大学設立3年前の設立趣意をリストアップして、『北京レビュー』の1988年11月 号は述べている。

チベットに大学を開校しようとの計画またその目的は、故パンチェン・ラマによって立 てられた、と1988年の『北京レビュー』の記事は述べている。パンチェン・ラマ は、1989年に彼が亡くなるまでの10年間、チベット文化の復活運動の中心的な存 在であった。また1年前には、彼の後継者選定問題が大きな紛争を呼び起こした。

大学の17学部の内、1学部を除いて後の全ては、主として中国語で教えられていると 思われる。また、初等・中等教育のチベット語の教科書を作成して来た学者たちは、高 等教育レベルの教科書も準備中であるが、資金面や許認可手続きで多くの困難に直面し ている。チベット医学はチベット語で教えられているが、既に大学の学部ではなくなっ ている。

大学の前学長は、短期的な経済的な目的と長期的な文化的目的とを区別していた。「大 学教育の重点は、チベットの経済発展に寄与する人材を養成することにおかれている」 と、1994年まで学長を務めたチベット人のツェワン・ギュルメは、共産党による教 育機関の意義づけを度々引用して語っていた。「我々の最終的な目的は、中国における チベット文化の中心施設を作り、世界中のチベット文化の一流の研究者を育てる場にす ることである」と付け加えていた。

ツェワン・ギュルメは1996年に学長の座を退き、チベット語を話せない中国人の役 人がこれに代わった。1989年以来チベット教育委員会の委員長を務め、また大学の 副学長も務めている、強力な指導者ヤン・チャオジも中国人である。

1995年9月、大学設立20周年記念式典に列席した共産党副書記長のテンジンは、 チベット語政策については何も触れなかったが、政治理念を達成し高揚する必要性を語 った。「西蔵大学は、新たなる優れた革命の建設者たちを育てて来た」と彼が語った と、西蔵日報は伝えている。

ツェワン・ギュルメの願いにも拘わらず、西蔵大学は現在2つの分野の研究しか行って いない。また、7つの学部の内の1学部だけがチベット語の研究をしている。

美術学部は、チベット美術についての研究の場を提供するというのが、以前の歌い文句 であった。チベットの『タンカ(仏画)』を描くコースもあり、教員が2人また通常は 学生が5人で構成されている。しかし、チベット美術の歴史あるいは理論の教授は全く 行われていない。

「西蔵大学は、チベットあるいは中国でチベット美術を教えている唯一の教育機関であ るが、主に技術だけを教えている。私がチベットを去る時まで、チベット美術史を学ぶ 場所も、描くこと以外のいかなる芸術形態を学ぶ場所も、中国にもチベットにもなかっ た」と、1985年から1992年にインドに亡命するまで西蔵大学で中国美術を教え ていた、チベット人芸術家のゴンカル・ギャッツォは語った。

「今では、西蔵大学はチベット文化の中心的な施設ではないと、私は確信している。教 育レベルが低いということ以外は、中国の大学と何ら変わるところはない」と、現在英 国で研究中のこの芸術家は語った。

大学の美術の講座を中国語で教えていたゴンカルは、チベット語で教えることを困難に している現実的な障害について、次のように語る。「数人の中国人の学生がいるため に、チベット語で全ての授業をすることはできない。それに学術語は中国語であること が多く、チベット語にはそれがない。そういった理由で、中国語で教えざるを得ないの です」と、彼は説明している。

「もしチベット語で完璧な授業をしようと思うならば、政府は莫大なお金をつぎ込む必 要がある。大学だけでなく教育制度全般に渡って、それが必要です。たくさんの本や辞 書を翻訳しなければならないからです」と、彼は指摘する。1994年に開催されたチ ベット政治協商会議の報告書によれば、1993年に西蔵大学の予算は20パーセント 削られたという。ゴンカルがチベットを去った翌年のことであった。

1995年には西蔵大学には、1334人の学生がおり、その内の70パーセントがチ ベット人であった。また教職員は597人であった。

チベット語は『公用語』

1988年7月、チベット語はチベット自治区の公用語と宣言された。その8カ月後、 自治区議会は『チベット語の使用、研究と発展に関する法令』を発布し、高等教育機関 の『ほとんど』の講義を『次第に』チベット語に置き換えることを奨励した。この法令 はまた、重要な会議においてチベット人がチベットを使うべきこと、公式文書並びに看 板は中国語とチベット語で表示すべきこと、チベット語に堪能であることが政府の雇用 条件の1つであることを宣言していた。

チベット語使用の促進に対する攻撃は、1988年3月、元チベット自治区共産党の書 記長ウー・ジンファによって『左翼による妨害』と評された。彼自身も、イ族の出身で あった。「我々は、チベット語を学習し使用する作業に真剣に取り組み、チベットにおけ る真の主要言語にして、各民族自治区における党の政策を実現しなければならない」 と、ウー・は語った。彼は、1カ月後『右翼逸脱』の理由で、解雇されたと伝えられて いる。

それ以来、チベットにおける一般的な意見は変化した。現在では、将来の雇用は中国語 が流暢でないと不可能であると思われている。その結果、毎年中国の中等教育機関に進 学できる1600人の枠に入れてもらうために、12才か13才の子供を持っているチ ベット人夫婦たちの間で過当な競争が起こっている。「子供の教育に対するチベット人 の態度が、急激に変化しており、積極的になっている」と、チベット教育委員会の中国 人委員リュー・ボーキンが語ったと、1996年7月18日付けの新華社電は伝えてい る。「チベット人は今では、子供を内地の学校に送るためなら何でもする」と、新華社 電は付け加えており、この見解はチベット人の報告からも裏付けられている。

先月、チベット自治区政府は西蔵大学のチベット語の単位を、政府の役職に就く有効な 資格として来たが、これを段階的に廃止するとの噂が流れた。しかし、これはまだ確認 されていない。

チベット語は現在のところ、さらなる抑圧に直面している。何故ならば、目下力を入れ ている独立要求運動抑圧のキャンペーンと、伝統的な信仰を根絶やしにしようという国 民的な『精神文明化』キャンペーンを推し進める上で、チベット語を格好の標的と見な している人達が指導者の中にいるからである。

「チベット語を知っている人々が、(民族主義的な)活動に加わることが極めて多いの で、政府は言語を政治的な感覚で考えている。チベット語は、封建的な奴隷制度を維持 する道具であると、政府は考えている」と、いつも議論を呼び起こす発言の多いチベッ ト人教育者のパルデン・ニマは、甘粛省蘭州の北西師範学校の新聞で説明している。同 新聞は、現在役人の中に復活して来ている見解を、既に以前から予測していた。

「また多くの人々は、チベット語は仏教ためだけの言語だと考えている。従って、チベ ット語は迷信と深い関係があると思われている。言語と宗教は同じものだと見られてし まい、だから政府はチベット語の振興に二の足を踏むのだ」とロkリア07 愨チ}は、現 在の進行中の『精神文明化』キャンペーンにも言及して、書いている。

1995年10月、チベット自治区共産党の指導者らは、分裂運動は余りにも多く宗教 を教えている学校によって起こされている面がある、との文書を配布したと言われてい る。これはチベット語教育のことをほのめかしているのだと、非公式情報筋は伝えてい る。

1988年12月、西蔵大学のおよそ300人の学生らが、文化的宗教的な自由およ び、教育者の場や公官庁においてもっと多くのチベット語の使用を求めて、デモを呼び かけたことがある。運動に参加した人々は、独立要求スローガンを掲げることを避け、 無事にデモを実行する許可を得た。

「様々な分野に教育を受けた人々がいて、自分たちの言語で自分自身を表現するのでな ければ、チベット人は消滅してしまう危険性がある。我々は、既に危機的な局面に到達 している」と、指導的な立場にあるチベット人が1992年に、オフレコで語ってい る。「我々の未来に対するあらゆる希望、我々の伝統を維持するためのあらゆる擁護 が、それに懸かっている」と、彼は述べている。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 15 January, 1997
EC Tibet Project Should Exclude NGOs, says China

欧州連合のチベット・プロジェクトから非政府団体は除外する、と中国語る

大規模なチベット開発プロジェクトに対して、資金を提供する欧州連合委員会は、外国 の非政府団体を除外すべきだと、中国政府の担当者は語った。

非政府団体の職員が個人資格の顧問として活動することを北京が認めるならば、欧州連 合委員会は、この中国の要求を受け入れることになろうと、同委員会の役人は語った。 欧州連合委員会は、ラサの南西200kmに位置するパナムの『田園総合開発5カ年計 画』に、760万エク(942万米ドル)の資金提供を申し出ている。

このプロジェクトは欧州連合議会の議員から批判されており、1995年5月議会は決 議を通過させて、欧州連合委員会はパナム・プロジェクトの資金を、非政府団体によっ て計画されている小規模な地域プロジェクトに振り向けるよう求めた。諸外国の非政府 団体は、長期に渡ってチベットと接触を持ち、また開発事業等で経験豊富な専門家を有 しており、パナム・プロジェクトの信頼性を構築するためにも、必要不可欠な要員であ ると見なされている。

パナム・プロジェクトを非政府団体のプロジェクトにするよりも、北京との相互協定と して提案しようとの1994年の決定は、欧州連合委員会が中国政府に対する立場を向 上させるために、プロジェクトを組んだのではないかとの批判を生み出していた。これ までのところ欧州連合委員会の資金は、チベット中央部の非政府団体のプロジェクトに のみ渡って来た。政治的に微妙な問題を秘めた地域においては、正当な形であった。

欧州連合委員会のプロジェクトの最初の提案は、『政治的な動機に基づいた』、『お笑 いぐさの』『恣意的な』交渉だと、欧州連合議会の議員たちが批判して2年前に保留と なった。1995年12月欧州連合議会は、パンチェン・ラマと認定された行方不明の チベット人少年が中国側の拘束から解放されるまで、プロジェクトを停止すべきである との決議を通過させた。

プロジェクトの再検討提案書は、まだ公開されてはいないものの、欧州連合委員会の副 委員長レオン・ブリトンが昨年11月北京を訪問したとき、署名のために中国側に手渡 された。文書は署名されないままに、欧州連合委員会に返されて来た。欄外には、「経 験豊かな非政府団体の専門家の参加は、よく考えなければならない」と記されていた。 外国人の専門家らは団体作業に対する反対分子なので、「中華人民共和国との交渉の後 に」のみプロジェクトに参画させる、との合意が既に出来上がっていると同文書は述べ ている。

欧州連合委員会は現在のところ、チベットの保健衛生および開発に関する知識を持った 専門家の諮問を受けて、プロジェクトが実行されるように望んでいる。欧州連合委員会 の職員によれば、それには経験豊かな非政府団体の専門家の助言が求められることにな ろう、と言う。しかし、そんな専門的な知識を持った団体には、どのようなものがある のかも判っていない。

詳細:欧州連合議会からのコメント

パナム・プロジェクトは、潅漑設備を向上することによって、チベット第一の穀物生産 地帯の生産額を飛躍させることを目的としていたが、英国紙の『オブザバー』と『イン ディペンデント』が1994年12月に報じた記事、および欧州連合議会の議員らの質 問によって、1995年1月31日に保留となった。

欧州連合委員会の委員は、『幾つかの僅かな問題』が解決されれば、プロジェクトは前 進することが期待される、と語っている。「我々は署名の準備ができているし、いつで もそれが起こり得ると期待していることを、100パーセント確約したい」と、ある委 員は語った。

欧州連合委員会は今週、再検討された提案に対する批判に反駁した。「このプロジェク トによって、チベット人に利益を供与できることは明らかだ」と、外交部門の極東地域 担当部長のグイロム・ホフマンは語った。「我々は、議会のあらゆる意見を考慮に入れ ている。私の知る限り、議員からの反対は1件もなかった」と、彼はTINに語った。

「最初の提案に強い反対運動を広げて来た我々にとっては、委員会がこのような形で後 退することは受け入れられない」と、欧州連合議会の議員グレンズ・キノックは報道さ れている妥協案に対するコメントを述べた。「もし、このプロジェクトが地元の人々に 利益を及ぼすためならば、この分野に関連した仕事に経験のある外国人専門家を入れる ことは不可欠なことだ」と、欧州連合議会の開発委員会の委員であるウエールズ人議員 は語った。

「非政府団体が公式にこの計画に関与することが、非常に重要だ。我々はこのことで譲 歩することはできない」と、欧州連合議会開発委員会の前委員長のフランス人議員バー ナード・コクナーは語った。

欧州連合議会は欧州連合委員会に対して、政治的な要求をすることはできない。しかし 欧州連合委員会が計画を保留することに、同意する姿勢を取り続けることはできる。 「チベットであれ又どこであれ非政府団体の参加を求める我々の強い気持ちを、もし中 国人が誤解しているならば、提案は再考のために欧州連合議会に返される必要がある」 と、欧州連合・中国間の議会使節であるエドワード・マクミラン・スコットは語った。

「委員会が中国側の変化を了解しても、議会が認めないのであれば、我々はパナム・プ ロジェクトの予算を凍結できる。これは欧州連合が中国と付き合う際の、付き合い方の 試金石だ」と、外交問題に対する保守側の報道官であるマクミラン・スコット氏は語っ た。

欧州連合委員会の職員らは、『土着の』という言葉に関しても、交渉を続けている。そ れは、中国政府側がレオン・ブリトンの文書から、軽蔑的という理由で欧州連合委員会 に削除を要求している言葉である。委員会は、用語を『地元の人々』に変えようと提案 することになろうと、匿名希望の欧州連合委員会の情報筋は語った。しかしどちらの用 語を使っても、それは問題を孕んでいる。何故ならば、以前の提案の中で使われていた 用語を使っても、利益を享受するのはチベット人であると特定することを、両者が避け ようとしていることである。

「このような文書の用語は非常に重要です」と、欧州連合委員会のプロジェクトで働い ていた農業経済コンサルタントのトビー・ゴッホは語る。「中国人は土着民なのか地元 民なのか、議論の起こるところでしょう。ですからチベット人が援助の対象であるのな ら、文書の中ではっきりと『チベット人』と特定するしかないのです」と、彼は語った。

非政府団体はチベットにとって『理想的』

パナム・プロジェクトに関する欧州連合委員会の以前の提案では、チベットに精通した 諸外国の非政府団体を参画させようという強い意図が示されていた。「この可能性につ いては、地元の役人たちとも議論をした。非政府団体が欧州連合委員会のプロジェクト に参画するのに、反対をしたものは一人もいなかった」と、1995年9月に作成され た報告書は述べている。

欧州を基盤にした非政府団体の内、チベットにおいて最も経験豊富な2つの団体が、 「このプロジェクトに様々な形で関与して来た」と、欧州連合委員会の国外経済部門の スポークスマン、ピター・ギルフォードは1994年に語った。そして、2つの内の1 つの非政府団体の企画作業に対して報酬が支払われていると、彼は付け加えた。この2 つの非政府団体、英国児童救済基金とベルギーのメディスン・サンズ・フロンティアズ は、即座に彼の発言を否定した。

1995年に再検討の末発表された報告書も、この2つの非政府団体が「欧州連合委員 会のプロジェクトを熱心に支援して来た」と述べている。しかし今週両方の団体は、こ の問題に関するコメントを拒否した。

政治的に微妙な地域、人口密度の低い地域、また自然環境が脆弱な地域で、欧州連合委 員会が開発プロジェクトを実行する場合には、通常は非政府団体を通している。「小規 模で多元的なプロジェクトが、チベットのような人口密度の低い地域には適合している ことを、委員会は知っている」と、1995年5月議会に当てた報告書で、欧州連合委 員会は述べている。しかし、パナム・プロジェクトは特別な例だと続けて主張している。

1995年の再検討報告書、プロジェクトを評価

『パナム郡総合田園開発プロジェクト』に対して再検討された予算は、760万エクで 変化していない。再検討報告書によれば、その内で一番大きな割り当ては、プロジェク トの調整・監視費用で約24パーセントを占め、保健・教育関係の関連プロジェクトが 19パーセントである。中期的に評価を下す監査団が設立され、外国人専門家の月当た りの延べ人数も5年間で166人から237人に増加される。これは予算の半分以上が 人件費に当てられることを意味し、一人当たりの月給が16000エク(19800米 ドル)に相当する。また予算の9パーセントが、チベット人を地域の外に研修に送り出 す費用だという。

再検討チームの結論は、プロジェクトが貧困を緩和し、継続的かつ反復的な方法で文化 的統一性を保護し、またプロジェクトがパナム地区に中国人入植者を引き寄せるとの証 拠を発見できなかったというものであった。

プロジェクトが生み出す穀物増産がプロジェクト地区にではなく都市部への、中国人入 植者の数を急激に増大させるのではないかとの問い、また商業活動を始めたチベット人 農夫よりも中国人商人が、有利な市場を押さえてしまうのではないかとの問いに対して は、この報告書は全く答えていないと、欧州連合委員会のパナム地区調査に最初に関わ った英国の開発専門家のグラハム・クラークは語っている。

「問題は、このプロジェクトが国家的なレベルの公共機関の補助金に頼って実現が可能 ならば、プロジェクトを実行することによって中国内地とのより密接な経済関係、また 依存関係を構造的に作り出してしまう点にある」と、クラーク博士は語った。またパナ ム地区全般は決して貧困地区ではなく、既に過去何年も余剰穀物を生み出していると付 け加えた。

外国によるもう一つの、チベットでの巨大プロジェクトは、『世界食料プログラム』に よる『プロジェクト3357』で、ラサ盆地における潅漑設備の建設に力が注がれてお り、1989年9月から始まっている。非公式報告書によれば、潅漑用の水路は既に出 来上がっており、中国人の入植地の方向に延びているという。プロジェクトの殆どの地 域が中国人入植者のためであり、外国人の調査団が来ているときには中国人労働者らは 隠れているという。

1993年5月、7カ所のプロジェクトの内4カ所が「技術的な設計と管理の問題で」 中止となったと、『世界食料プログラム』の複数の職員が述べた。彼らは後に、非チベ ット人が労働者として雇用されていたことを認めた。このプロジェクトはその後続行と なったが、予定よりも2年半遅れている。そこで働くチベット人労働者たちは、主食が 大麦であるにも拘わらず、小麦での支払いが行われているという。

1978年以来、チベットは38件の二国間また多国間の経済援助を受けており、その 総額は4369万7千万ドルに達すると、昨年10月12日付けの新華社電は伝えてい る。これらのプロジェクトには、『世界食料プログラム』の720万ドルのプロジェク ト、ドイツによる皮革工場プロジェクトが980万ドル、ラサの薬品センターにイタリ アが240万ドル、ユニセフがチベットの幾つかの教育プログラムのために439万ド ル、観光調査のために国連開発局の援助が24万ドルであったという。

以上 (翻訳者 小林秀英)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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