16号(1996年11-12月)


TIN News Update, 5 November, 1996
Power Supply to Surge in Bid to Expand Tibet Industry

チベットの産業興隆に追い付かぬ電力供給

チベット自治区の産業および電力供給部門は、同地域の急速な工業化計画の一部として、5カ年の内に規模を2倍にすることを決定したと、自治区政府は発表した。チベット自治区における電力供給の増加率は、中国のエネルギー部門が同じ期間に設定した増加率のおよそ6倍に当たる。

目標は、2000年までに電力供給量を223パーセントに増加することに設定されており、今年6月に発表されたが、公式な報道発表に誤訳があったことから注目されてはいなかった。TINがラサから入手した国内向けの発表では、同地域の長期計画の詳細を述べており、電力供給量は25年間に渡って同率で増加させるとしている。

公表されてはいない長期計画では、電力供給量は2020年までに現在の規模の23倍に増加させるとしている。チベットの第2次産業は、同期間に現在の規模の14倍に拡大されるという。

年間の電力供給量は、昨年の5億2千万kwhから、2020年には120億kwhに増加させる予定だと、同文書は述べている。同期間の中国における電力供給量の増加を6倍と設定している、北京の計画であっても野心的であるのに、その計画さえも小さく見せる程の目標値となっている。

来年からの5カ年計画で電力供給量を2倍にしようとの試みを実現するには、年間の電力供給量の伸びを17パーセントにする必要がある。ちなみに同地域の過去10年間の増加率は、7パーセントであった。また中国全土の過去10年間の増加率は、9.5パーセントであった。

25年で産業を14倍に増大

チベット自治区の電力供給量を増加させることは、同地域の5カ年間の第2次産業の成長率を15.5パーセントにするための最重要課題となっており、それが達成されれば工業生産高が昨年の6億6千万元から、2000年には13億4千元に飛躍することになる。同文書によれば、2020年までには95億元に達すべく、政府は急速な成長を持続させて行く予定であるという。

加工や生産、鉱業を含む第2次産業は、現時点ではチベットの年間生産高のわずか15パーセントを占めるに過ぎず、過去数十年の間、割合においては同程度を維持している。しかし5年以内に第2次産業は、チベット地域における可能発電量の半分を消費すると予想されており、10年後には全エネルギー量の73パーセントを消費するとことになると思われる。

TINが入手した資料は、『チベット自治区国土計画委員会』がチベット自治区経済企画委員会と共同で、昨年作成したものである。この資料は、1994年7月に中国の国務院が高位の政策会議として招集した、『第3回チベット工作会議』の結論を初めて詳細に明らかにしたものである。同資料によればこの会議の結論は、同地域が農業と牧畜に必要以上に頼り過ぎていると見ており、同地域の政治的また経済的な問題を軽減するためにも、急速な工業化を命じたという。

「チベットの国民総生産高に占める第2次産業の割合は、将来増加することになろう。それによって、異常な産業構造は変化するであろう」と、第3回工作会議は結論を下したと、当時の中国の公式紙人民日報は伝えている。その新聞は、鉱物資源、森林、畜産物の「三大資源は開発され、利用され、チベットの中心産業に育成されることになろう」と、報じている。そしてチベットは、確実に年率10パーセントの経済成長率を目指して行くとも報じている。

経済全体の長期的な成長の目標は、年率7.5パーセント位に設定されており、これはチベットの経済全体が25年後には現在の規模の6倍に成長することを意味している。そして同時に、第2次産業の生産高は14倍以上に増加し、第1次産業の生産高は3倍以下に抑えられ、チベット国内の生産高に占める割合は、現在の45パーセントから2020年には20パーセント程度となる。

観光、商業、サービス業等の第3次産業は、現在チベットの総生産高の3分の1を占めており、この25年の期間に7倍に増加させる計画である。それによって、第3次産業が経済を左右するようになり、同地域の年間総生産高の半分を占めるようにする計画であるという。

電力供給量は5年で230パーセントの増加

昨年チベットで産出された電力量は、1990年と比べて49パーセントの増加となっているが、同地域の産出電力量は人口一人当たり年間217kwhで、中国の一人当たりの産出電力量の3分の1以下で、世界平均の9分の1に過ぎない。これは、米国の一人当たりの産出電力量の15分の1に当たる。エネルギー供給量の不足は、木材や家畜の糞を燃やしたり、年間13万トンの石油を運び込むことで補われている。

チベットにおける電力の配分は公平なものではなく、80パーセントの人口が暮らしている農村地帯には、4パーセント以下の電力しか届いていない。資料によれば、大部分の電力がラサに送られているにもかかわらず、そこでは時に40パーセントの電力不足が起きている。

第3回工作会議は、10年後にはチベットの発電能力を、現在の193メガワットから450メガワットに233パーセント強化することを求めている。これは、過去5年間に達成された成果の10倍に当たる。発電能力の強化は21世紀まで同率で持続し、2020年には2580メガワットに達するという。

チベットの計画の成否は、現在再発動されたラサの南西100kmに位置するヤムドク湖の水力発電計画が成功するか否かに掛かっている。この計画が完成すると、90メガワットの発電機が、年間2億kwhの電力を供給するようになる。これは、同地域が計画している供給増加量の3分の1に当たる。しかしヤムドク湖開発計画は、昨年の大きなトンネル崩壊事故で既に、スケジュールより数年遅れている。9月にはこの開発計画地区を地域の責任者が訪問し、最近のプロジェクト一覧にもこの開発計画は含まれている。しかし同地域の発電所計画に関する、中国の新聞の最近の報道にはその名前が入っておらず、稼働させるためのコストは3倍掛かっていると思われる。

チベットの開発可能な水力発電の電力量は、6万メガワットを推定されているが、この地域の発電所建設費は手が届かない程に膨大である。またチベットの川の多くは他の国々に流れ込んでおり、その完全な開発は政治的にも複雑な問題を孕んでいる。第3回工作会議の目標がいかに達成されるかは、不明なままである。

現在の第9期5カ年計画において必要とされている電気需要の増加量15パーセントは、既に建設済みの17カ所の発電所によって対応可能であり、さらに1994年の第3回工作会議で打ち出された62の開発計画にも対応できる。17カ所の発電所は中国の基準からすると数が少なすぎるし、おまけに発電容量はわずか39メガワットである。さらにコストが、12億元(1億4460万米ドル)掛かるという。これは、チベット発電コストが1キロワット当たり3700米ドル掛かるということである。

これらの17カ所のプロジェクトの予算は、北京の中央財団によって賄われている。言い換えれば豊かな沿岸地方、例えば福建省がコンポのメンリンに建設中の1.6メガワットの発電所の費用、4000万元(480万ドル)を負担している。これは、キロワット当たり3000ドルの電気を発電していることになる。また上海市は、チャムドのテンチェンに1.2メガワットの発電所を建設する費用、2400万元(290万ドル)を負担し、こちらはキロワット当たり2400ドルに相当する。リャオニン(Liaoning)市は、ナクチュのニェロンに建設中の0.96メガワットの発電所の費用、4670万元(560万ドル)を負担している。キロワット当たりの単価は5860ドルに当たり、小規模の水力発電所の平均値のほとんど倍になる。

ヤムドク湖のトンネル崩壊事故は公式にはまだ認められていないが、その事故以後中国の公式報道機関はヤムドク湖の発電所について言及するのを避けている。その代わりに、ラサの北西100kmに位置するリグンに建設中の発電所を集中的に取り上げている。しかしその能力および費用については、これまでの所、一切触れてはいない。

発電所建設のための外国資金

中国政府は、中国内地の省政府または市政府が保証して、チベット開発のために発行する外債を増やしている。既に14の省または都市が、「チベットの7つの地方自治体と提携して、正規に援助をしている」と、昨年8月新華社は報道している。中国人の目から見ると、チベットは安全な投資先と期待されているようで、外にも提携関係に参加しようという地方政府は多い。

チベットの社会基盤整備のために、中国は他のアジアの国々の資金に期待をしているようであり、実質的な優遇策を提示していることは、昨年8月にチベットの首都で開催されたラサ経済交易展での様子からも伺うことができる。

ラサ県だけの同展覧会で、代表団に提示された39のプロジェクトの内の2つは、発電所であった。メルロコンガルの『シガ』発電所の改修プロジェクトが、70万ドル掛かるとの見込みで、一方タクツェの『シャジャオ』発電所の建設プロジェクトが840万ドルで、これまででも2番目に大きな規模のプロジェクトとなっている。

ラサ交易展の内容の一部は、展覧会の前に英文の記事で紹介されていたが、同展開催以後は公式の報道機関は全く関連記事を掲載していない。昨年同展に参加した代表団の報告によると、殆ど全ての代表団は中国内地や海外の中国人またはチベット人たちであり、そのために英文の資料は作成されなかったと言う。このことは、主催者も西欧の投資家の意欲をそそれるとは考えていなかったことを示している。

今年政府は、対象を再び内地および海外の中国人たちに絞り始めている。しかし同展開催の初日に、日本と韓国の団体がチベットを訪問しているとの発表が行われた。このことは、チベット開発特に社会基盤整備のために、アジアの国々が標的になって来たことを示している。

韓国の訪問団は、文化的な交流事業を装っていた。しかし公式新聞が伝える所では、チベット自治区政府主席は日本の代表団に対して、チベットの新開発計画は経済改革を呼び起こし、チベットと日本の『協力』の基盤を強化するであろうと述べたと伝えている。

「様々な分野で、チベットと日本の関係が発展する可能性が大きい。特に日本の友人たちが、チベットの資源の豊かなことを理解し、中央政府によって優遇政策が実行されたならば、その可能性は大である」と、ギャルツェン・ノルブは日中友好協会の代表団に対して語ったと、8月12日付けの新華社電は伝えている。

日本とチベットの会談は、チベットの社会基盤および電気の供給力を高めるための投資をしてもらうように、日本の政府を説得しようということに重点が置かれていたようである。日本の代表団の団長は、「日本政府の資金が、チベットの社会基盤および電気の供給力の整備、そして文化遺産の保存のために投資されることを望む」と、語ったと新華社電は伝えている。日本は既に、新彊省の石油・ガスの探査および採掘に関わっている。

近年北京は、中国のエネルギー開発計画に外国の資金を導入することに成功して来た。そして1994年末までには、64カ所の大規模また中規模の発電所プロジェクト(250メガワット以上の)に外国資金が使用され、総額では140億5000万ドルに達していると、昨年9月のファイナンシャル・タイムズは伝えている。

7月28日付けの公式新聞『人民日報』に掲載された一覧表によれば、ラサ交易展で投資を求めた総額は、比較的に少額で6500万ドル程度で、1カ所のプロジェクト当たり170万ドルであった。しかし、かつて中国がチベットで重工業を発展させようとの目論みを持っていたのに対して、現在は発電所への投資がそれに取って代わったようである。

2カ所の水力発電所建設計画の他に、37カ所のプロジェクトに投資が求められている。その内の28カ所は、第2次産業分野のプロジェクトである。その大半が、基礎および中間段階の生産分野に関するものであり、6カ所の化学工業プロジェクト、4カ所のセメント工場のプロジェクト等がある。最も高額な2つのプロジェクトは鉱業に関するもので、『ジャマンド』における不特定の『希少金属』の採掘と、『ティアンゴン』における銅の採掘事業に対して、各々723万ドルの投資を期待している。この2カ所の鉱山は、外国資本に全面的な所有権を付与する15カ所のプロジェクトの中に含まれている。

代表団らは、7カ所の食品工業のプロジェクトに対しても投資を求められた。チャンスルの魚の養殖場、ダムシュンの魚加工工場等に対するものであるが、チベット人は殆ど魚を食べない。他に投資を求められている軽工業は、絨毯、衣類、羊毛製品、動物の角製の櫛、線香の生産事業等である。第3次産業分野のプロジェクトはわずか4カ所に留まり、3カ所の大卸売市場と『ダムシュン郡ナムツォ湖の観光地化』開発計画で70万ドルが予定されている。チベットでエネルギー、通信、および農業分野の大・中規模のプロジェクトに投資をする場合には、国から最大限の優遇策を受け、最初の6年間所得税を免除され、次の4年間わずか5パーセントの所得税を払えば良いという。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 9 Nobvember, 1996
Leading Dissident Under House Arrest

指導的反体制活動家、軟禁状態に

チベットの指導的反体制活動家が、実質的な軟禁状態に置かれていた。これは明らかに、2年前にチベットを訪問した国連の人権調査団に話をしたことに対する処罰である。世界中の宗教迫害を調査している、国連人権調査団の団長は今日声明を発表し、この報告には重大な関心を払っていると語った。

このニュースは、先週3人のヨーロッパ議会の議員がラサを公式訪問し、68才になるチベット人僧侶(ラマ、師家)ユーロ・ダワ・ツェリンと10分間面談をした直後にもたらされた。この僧侶は27年間投獄され、2年前に釈放されていた。

「彼は何らかの拘束を受けているようであった。家を出たり入ったりする自由を持ってはいなかった」と、同僧侶に会った議員団の一員であるアイルランド議員の、バーニー・マローン女史は語った。「彼は仮出所の身であると、役人たちは言っていました。しかし会って見ると、我々の常識で考えるような仮出所の状態ではないということが解って来ました。彼は自分の行動の主人ではないのです」と彼女は付け加えた。

この報告は、ユーロ・ダワ・ツェリンがラサの収容施設に移動させられ、定期的な警官の監視または訪問を受けているという、これまでの非公式情報を裏付けるものである。

西蔵大学の哲学教授であった同僧侶が、外国人と会ったのは1994年11月以来の事であった。国連の宗教迫害の特別調査委員であるアブデルファタ・アモール氏が、中国とチベットの宗教的自由の調査に訪れた時、同僧侶に会って文書による声明を受け取って以来のことであった。

「ツェリン氏の事例には、私は無関心ではない」と、今日アモール氏は故郷のチュニジアから語った。「宗教的自由が侵害されていれば、それがどこであっても私は調査を続行する。それが特にチベットであれば、その報告には重大な関心を払わざるを得ない」と、彼は付け加えた。

写真撮影は許されず

ヨーロッパ議会の議員団による積極的な交渉の結果、先週厳重な警備の元、同僧侶との面会が可能となった。「役人たちは、私たちを彼から遠ざけて置きたかったようです。それは間違いがない」と、マローン女史は語った。「彼に会うことは、とても困難なことでした。役人たちは、彼に会わせようとはしなかったのです。しかし最後に彼らも折れました。何故なら私たちは、とても執拗だったからです。私たちと彼の間には、既にある種の関係が出来上がっていました。私たちは、彼の招待により、彼の客として訪問していたのですから」

訪問最後の日、3人のヨーロッパ議会の議員団は何の前触れもなく、名前も知られていない拘留施設に連れて行かれた。ラサの西方郊外に位置するホテルであった。「ジェームズ・ボンド張りのセキュリティー・チェック」の後に、ようやく建物に入ることが許されたという。これは明らかに、地元民が施設の位置を確認できないようにするためであり、訪問者の後を付けることがことができないようにとのためであった。

面会は、ユーロ・リンポチェ(チベット人は彼のことをこう呼んでいる)の写真を撮らないように、との条件で許可された。そして面会時間は、最大限10分間だけだと言われた。

1994年にユーロ・リンポチェが国連の人権調査団と会った時とは違って、3人のヨーロッパ議員団との面会は役人の立ち会いの下で行われた。しかも2人の通訳を経てであった。1人がチベット語から中国語に通訳し、さらにもう1人が中国語から英語に通訳したのである。チベット語から英語への通訳は準備されてはいなかった。

議員団は、同僧侶の健康状態は比較的良いように見えたが、彼の現状は「監獄に捕らわれているよりも良い程度」であったと報告している。役人たちは、状況が非常に緊迫しているので、僧侶との間で余計な話を出して欲しくなかったのだと語っている。

ヨーロッパ議会の外交問題委員会副委員長であるマローン女史は、イアリア議員のルイギ・カラジャンニ氏とスペイン議員のコロン・ナバル氏と共に、チベットと中国を訪問していた。議員団は、ヨーロッパ議会の社会主義者グループの代表団であって、中国共産党の客として旅行したので、友好組織として通常の議員団よりも優遇された条件を与えられていた。

ガンデン僧院の元僧院長であったユーロ・ダワ・ツェリンは、1987年に独立運動が再開して以来、刑罰を受けた最初のチベット人であった。その年の12月、6カ月前にイアリアの観光客に食事の席でチベット独立について話をした罪で、拘束され10年の刑を受けた。

1994年11月4日、国連の人権調査団が訪問する3週間前に、中国政府の手によって彼は仮釈放された。彼が「罪を認め反省の姿勢を見せ、社会復帰後は中国共産党を支持すると約束した」からであると、中国政府は公表した。

その月の末に、中国政府はアモール氏を団長とする国連の調査団に、僧院長に会う許可を出した。僧院長は「国際社会に知られているチベットの歴史に関して、懸念」を表明したという。これは恐らく、チベットが中国の一部であるとの北京の主張について語ったものであろう。彼はまた、「政治的な理由」で逮捕されたものであり、さらに彼が「良い態度と罪を認めたこと」によって釈放された、との公式声明を否定した。

ヨーロッパ議会の代表団は、先週の面会の結果いかなる行動を起こすのか明らかにしてはいない。しかし「独立要求運動に対する抑止政策の一環として、中国側が善意の姿勢を示すために」面会は実現したと、カランジャニ氏は語っている。

ヨーロッパ議会の社会主義グループは、「議会において人権問題を採り上げる手続きを厳しいものにする」見返りとして、北京と対話を始めたい希望を持っている。他の政党が、中国の人権問題を非難する緊急決議を出す回数を制限する計画を、ヨーロッパ議会の社会主義グループは持っていると、マローン女史は語っている。

「発達段階の違いと貧困」の故に、同地域における人権問題の定義は難しいとの理由で、マローン女史は直接中国の人権問題には言及しなかった。

「ダライ・ラマ支持派の人々による意見は片寄った情報に基づいており、一面だけを見てそれを触れ回っている」と、彼女は2日間の旅行の後で語っている。彼女は、ラサの醜さにショックを受けたと言う。それは、近代化の建設ラッシュが続いているためであり、軍隊の存在によるものであったと言う。

「ラサには巨大な軍隊が駐留しており、それに付随した巨大な売春婦の群れが存在していた。僧院の再建に中国がお金を投じているというのは本当のことであり、全ての表示は2カ国後であった。しかしそれが十分なものであるのか否かは解らなかった」と彼女は語った。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update / 18 November, 1996 / ISSN 1355-3313
- Nun Sentenced to 9 Years for "Not Standing Up" -

- 尼僧、「立ち上がらなかった」ために9年の刑 -

 チベットの非公式情報筋によると、チベットで服役中の尼僧が、刑務所職員が部屋に入ってきたときに立ち上がらず、寝具を片づけず、また罰を受けている間にスローガンを叫んだために刑期を9年延長された。この尼僧については、国連の委員会が元々の刑が非合法的だと裁定し、中国政府に釈放を要求した後に、刑期が8ヶ月延長されたこともあった。

この尼僧は19歳のンガワン・サンドル。ラサのダプチ刑務所で展開されている再教育キャンペーンの間、刑務所の女性職員の目の前で立ち上がることを拒んだ。匿名希望の情報筋によると、尼僧は後に、他の女性受刑者とともに部屋の掃除を拒んだ罰として雨の中で立たされている最中に、「FREE TIBET」と叫んだという。

複数の報告が、この事件で今年7月31日、彼女は9年の刑を受けたと伝えている。刑は8年だったとする報告も1件ある。

ラサの北5キロにあるガリ尼僧院出身のンガワン・サンドルは、すでに服している2つの刑に加え新たに今回の刑が加算されることになる。2つの刑は、1992年に独立支持デモに参加したための3年と1993年に刑務所内で民族主義的な歌を歌ったための6年である。

ンガワン・サンドルの計18年という刑期は、チベットの女性政治囚の中では最も長いものになり、1960〜70年代の「強硬路線」時代にチベット人たちが服した刑期に匹敵する。彼女は2010年、33歳で釈放されることになるが、そのときまでに人生の60%を鉄格子の中で過ごすことになる。すべて1980年代後のリベラル路線の時代に行った政治的抗議行動のために。

彼女は刑務所の寝具の片づけや部屋の掃除を拒んだ多くの女性受刑者の一人だった。これはあきらかに、中国当局が指名した6歳の少年をパンチェン・ラマ10世の転生だと認めさせることを要求する再教育キャンペーンへの反抗として行われたものだ。パンチェン・ラマ10世は、1959年にダライ・ラマがインドに亡命した後、チベットにとどまった最も重要な指導者だった。昨年11月、中国当局はその少年を転生に指名したが、それに先だって行われていた亡命中のダライ・ラマの承認と対立する結果となった。

この女性たちは、パンチェン・ラマ再教育キャンペーンに対する非公式の抵抗として、刑務所の小さな規則を多く破った。刑務所にきわめて近い筋によると「カンド・ジャンペ隊長が部屋に入ってきたが、ンガワンは立ち上がらなかった。その結果、カンド・ジャンペは立ち去った。」という。

その情報筋によると「各隊から部屋がきれいかどうかを調べるために職員が派遣された。その部屋はきたないと告げられ、罰として、女性受刑者たちは雨の中で立たされた」。また、匿名のその情報筋はこのように伝える。「このときにンガワン・サンドルは『Free Tibet』と叫んだ。ジャンペ隊長は即座に多くの兵士を呼びつけ、ンガワン・サンドルと他の3人の尼僧、プンツォ・ペマ、ノルズィン、ダムチュ・ギャルツェンはひどくぶたれた」。

1988年にチベット自治区労働改善局が交付した「受刑者に対する文明的態度と礼儀に関する規則」の第5項によると、受刑者は「同志に接するときには立ち上がらなければならない」。「必須十項目」として知られる別の規則によると、受刑者は「祖国を愛し、祖国統一と民族団結を堅持しなければならない」、そして「中国共産党の計画、政策、方針を支持しなければならない」とされている。

- 減らされた食糧配給 -

女性囚らの抗議行動と4人の尼僧への殴打事件は、今年3月に起こったと思われるが、確かな情報は、今週はじめにチベットから逃れてきた元政治囚である別の尼僧を通して、いまようやく表に出たばかりである。

この亡命者は、ンガワンが再判決を受けたというチベットからの先の報告を確認し、3月以来、彼女は選別されて厳罰を課せられていると語った。「彼女は青ざめて、やせ衰えていた」。自身も有名な未成年政治囚で、ンガワンに4ヶ月前に会った16歳のギャルツェン・ペルサンはこう語った。

8月には、ンガワン・サンドルはダプチ刑務所で窓も明かりもない監禁室に入れられ、1日2回わずかな食事しか与えられない食事制限を課せられているという報告があった。この報告はこれまで確かなものではなかった。

ある情報筋によると、判決前の数カ月、ンガワンは特別な罰を受けており、1日に1つの味のない餃子かパンしか与えられなかった。7月のある折、TINのインタビューを受けたこともある支持者が、まともな食事を彼女のもとに送り込むことに成功した。しかし、彼女は生理的にそれを口にすることができなかった。これは重度の栄養失調の証拠である。彼女の現在の様態は明らかではない。

俗名をリンチョというンガワンが始めて逮捕されたのは13歳のとき。1990年8月、かつてのダライ・ラマの夏の宮殿であるラサのノルブリンカで尼僧たちが行った独立デモに参加したときのことだ。判決文によれば、この女性たちは「『チベットは独立国だ』などの反動的スローガンを叫ぶことにより、我々の祖国を分裂するために分離主義イデオロギーを流布した」かどで告発された。しかし、ンガワンは裁くには若すぎると考えられ、9ヶ月後に解放された。

彼女は拘留中にひどく殴打された。元受刑者パンデン・ギャンツォが昨年語ったところによると、そのとき受けたケガたのめにンガワンの両手は永久的な障害を負った。

彼女が釈放されるまでに、母親は亡くなったいた。父親もまた政治的抗議活動のために服役中である。そして、政治囚の罪歴をもった彼女には尼僧院に戻ることが許可されなかった。彼女は、1992年にラサのバルコルで他の尼僧や3人の僧とともにデモを企てて逮捕されるまで、ラサ周辺を転々としていた。1994年の国連に対する中国当局の声明によると、このとき彼女は「政府転覆および分離主義活動の扇動をした」として3年の刑を受けた。

1993年9月、ンガワン・サンドルは16歳のとき、刑務所内で民族主義的な歌をテープに録音した13人の女性囚とともに、ラサの法廷で再び審理された。このため6年の刑が加算された。1995年はじめにダプチ刑務所にいる彼女に接見したガリ尼僧院の仲間は、このときすでに僧院にいたころよりも「ひどく衰弱していた」と語っている。彼女の父親、おじ、そして姉妹の内縁の夫も政治的抵抗のため獄中にいると伝えられている。

1995年11月30日、非合法な投獄の報告を調査している国連の委員会である「恣意的拘留に関する作業グループ」が、ンガワン・サンドルは言論の自由の権利を行使しようとして罰せられており、その継続的な拘留は恣意的なものにあたると裁定した。この委員会は中国当局に「世界人権宣言に謳われている規定と原則に準ずる状況に改善するための必要な手段を講じる」ように要求した。

ンガワン・サンドル判決の情報を今週確認したギャルツェン・ペルサンは、裁判なしに、ほぼ20ヶ月におよんでほとんど独房で拘留された後、1995年2月9日に釈放された。彼女は12歳で、1993年6月にデモを企てて有罪となった尼僧グループ、いわゆる「ガリ尼僧院の14人」の一人として拘留されたとき、チベットで最年少の政治囚だった。彼女は、中国政府が国連とヨーロッパ連合に彼女はすでに釈放されたと告知した後、8ヶ月たってもまだ獄中にいたことがわかって有名になった。

注:ンガワン・サンドルの写真はTINから入手可能。

以上

(翻訳者 長田幸康)


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TIN News Update, 25 November, 1996
Artist Found Traumatised After Alleged Torture

芸術家拷問のために精神障害者となる

ダライ・ラマ法王の肖像画を専門的に描くチベット人の芸術家が、警察の拘置所から釈放された直後に、ラサのバルコルにある公衆トイレの中で、極度のショック状態で発見された、とチベットの非公式情報筋は伝えている。ダライ・ラマ法王の肖像画は、今年4月以来公開が禁止されている。

24才か25才の芸術家ユンドゥンは、発見されたとき「恐怖におののいていた」と言う。明らかに拘置所において拷問を受けたためだと、この事件を直接見聞した情報筋は、今週インドに到着して語った。またこの情報筋は、氏名の公表を拒んだ。

この事件のニュースは、氏名不詳の芸術家がダライ・ラマ法王の肖像画を描き続けたら処罰する、との脅しを政府から受けたとの、先月の未確認情報に続くものである。

10月27日この芸術家は、旧市街にある自宅近くのバルコルの公衆トイレの中で、精神障害の状態で偶然発見された。「彼は友人を識別することもできず、どこの住んでいるかも解らなかった」と、その情報筋は語った。彼は発見されたとき、痩せ衰え、衰弱し、震えていたと言う。

ユンドゥンは、過去58日間、ラサ東方3kmに位置するグツェ拘置所に捕らわれていたと思われる。彼は、ダライ・ラマ法王の肖像画の件で逮捕されたと言う。彼が描いた肖像画の中には、禁止されているチベット国旗を描いたものもあったというが、これは確認されていない。警察は彼の家を捜索し、全ての肖像画を没収したと言う。

チベットにおける拷問の犠牲者は、通常傷が癒えるまで隠されていることが多い。明らかに、警察による虐待の証拠を隠すためである。ただし犠牲者が拘置中に死亡する危険性がある場合には、この限りではない。チベット人知識階級の思想的な犯罪が、投獄や拷問という処罰を受けることも通常はないことである。この種の処罰は、デモの参加者とか亡命政府の手先と疑わしい者、また非公式情報を漏らした者とか、現場の活動家に向けられることが普通である。この事件が確認されれば、チベットの知識階級や芸術分野の反抗に対しても、中国政府が攻撃的な新政策を取り始めたことを示してることになる。

ラサの西方150kmに位置するニェモ出身で、5年前に初めて首都に出て来たこの画家は、治療のために入院し、そしてその後家族の元に帰された。

チベット人芸術家ら写実主義の『危険性』を回避する

ユンドゥンは、チベットの代表的な現代芸術家である、アムド・チャンバの弟子または模倣者であった。アムド・チャンバは1950年代の後半に、ダライ・ラマ法王の夏の宮殿であるノルブリンカの壁に、擁護者であったダライ・ラマ法王の肖像画を、写真を真似た写実的な手法で描いて、チベットの芸術を改革した人である。現在70才台の彼は、写真と西洋の宗教画に影響を受け、今もラサに住んでいる。

1994年から95年の2年間に、ユンドゥンはダライ・ラマ法王の肖像画を描いてラサで有名になった。今年4月5日に、チベット自治区政府がダライ・ラマ法王の写真の公開を禁止する通達を出してから、政治的あるいは思想的な困難に直面したと思われる。

ダライ・ラマ法王の写真公開の禁止令は、今年5月にはラサの東方40kmのガンデン寺の抗議運動で、少なくとも1人の僧侶が死亡する衝突を引き起こした。この禁止令は、今年4月からチベット全土で実施され、公共の建物だけでなく個人の家でも禁止令が適用された地域もある。

チベットにおける殆ど全てのダライ・ラマ法王の肖像画は、インドから密輸入されて来た大量生産のカラー写真であり、描かれたものは極めて希である。1980年代の中期は、比較的開放的な時期で、法王の写真は中央チベットのどこにおいても入手可能であった。そのため『如意宝珠』として信徒から慕われている、ダライ・ラマ法王の肖像画を敢えて描こうというような、画家は殆どいなかった。

「1985年か86年に、私は初めて法王の説法をカセット・テープで聞いた。とても良い印象を受けたので、法王の肖像画を描こうと思った」と、第2世代と呼ばれる現代チベット人画家たちの指導的立場にある、ゴンカル・ギャッツォは語った。「私たちは、それが危険な事だということは解っていました。職を失うことになるかも知れないし、監獄で一生を終えることになるかも知れません。重大な問題であることは解っていましたから、政府を怒らせないように常に注意を払っていました」と、1980年代の中期にラサに『スウィート・ティー・ハウス』という名称のチベット人画家のグループを作ったゴンカルは語った。彼は、1988年に政府から中国人画家をグループに参加させなければいけないと言われて、このグループを解散した。

「1994年には政治的な状況は余り悪くなかったので、法王の写真はどこででも手に入りました。またツェタン近郊の幾つかの僧院で、玉座の上に法王の肖像画が置かれているのも目にしています。私は本当に驚きました」と、ゴンカルは語る。彼は2年前に亡命し、現在ロンドンの聖マーチン芸術学院の奨学金を得て、そこで学んでいる。

「それらの肖像画は、アムド・チャンバの作風を真似た極めて写実的なもので、正確にそして詳細に描かれていました」と、彼は語る。作品は大作であることが多く、ガラスで覆われたフレームに入っていて、伝統的な『タンカ』のスタイルではなかった。西洋の肖像画の様で、大抵無地の背景でチベット風のテーブルに着いていた、と彼は思い出を語っている。

ユンドゥンは恐らく、高度の訓練を受け、国家の保護を受けたグループに所属していなかったのであろう。通常は『タンカ』を描いたり、室内装飾の仕事をしながら、組織的なつながりもなく独学したか、自分で先生を探して学んだかした、非公式な画家あるいは職人の仲間だったのであろう。

「前者の芸術家のグループは、チベットの状況に関心を持っているが、表立って何もしない人達である」と、ゴンカルは語る。このグループの人達は彼も含めて、自分の家族や自分の名声を守ろうとして、政治的な問題に関わるのを避けようとする。「私達と違って後者のグループは、もっと自由で危険を冒すことも厭いません。しかし、芸術家が中国人と重大な政治的問題を引き起こしたという話は、耳にするのはこれが初めてだ」と、彼は語った。

「私がラサにいる時、芸術家や作家は様々な禁止された政治問題に首を突っ込まないようにと、常々彼らは言っていました。しかし現在では、そういった圧力はもっと強くなっているようだ。今年のラサの様子は最悪のようだ」と、彼は語る。

スウィート・ティー・ハウスの芸術家たちは問題を起こさないようにしていた、と現代チベット芸術の専門家である、英国の東アングリア大学講師のクレアー・ハリスも証言する。「アムド・チャンバが1950年代に広めた写実主義は、公認されていましたし、保護を受けていました。しかし現在では、その写実主義を使うことは、大変に危険になって来ています」と、彼女は語る。

「スウィート・ティー・ハウスの芸術家たちは、政治的な観点からは直ぐに解らないような抽象性を使っていました。例えば、シルエットの仏陀の姿のような、抽象化された仏教徒のモチーフや像を使い、ダライ・ラマ法王を表現するといった直接的な攻撃的姿勢を見せなかったのです。作品の写実性を抑えることで、彼らはこの男が陥ったような危険を回避しようとしていました」と、ハリス博士は付け加えた。

1987年以来、政治的な犯罪で投獄されたチベット人画家は、6人を数えている。その中で、ラサのタルポ・リンカ出身のイェシェー25才は、ラサの刑務所に5カ月間拘置された後に、1989年8月22日に亡くなった。拷問あるいは殴打が原因であった。これらの伝統的なタンカを描く画家あるいは室内装飾の職人たちは、独立要求デモに参加した訳ではなく、絵を描いたことによって投獄されたのである。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 27 November, 1996
Expulsions, Arrests, Death Reported During Re-education Drive

再教育期間中に追放、逮捕、死亡者続出

チベットの僧院の政治的再教育運動は、現在までのところ少なくとも150人の僧侶が追放される結果となっている。その他、20人が逮捕され、1人が拘留中に死亡したと思われると、チベットからの非公式情報は伝えている。

『寺院の総合的愛国教育プログラム』は、今年の5月からチベットの僧院において実施されている。チベット共産党書記の先週の発言によれば、「ダライ一派によって毒された、封建的で、愚かで、時代遅れの状態を一掃する」ための政府の運動の一部であるという。

3カ月間の教育期間が終了する際に、中央チベットの大僧院の僧侶たちは、彼らの政治的な信条について筆記試験を受ける。その中には、亡命チベット人指導者のダライ・ラマ法王を非難する項目も含まれている。

試験に正しい解答を出さなかったことで、既に多数の僧侶が自分の僧院から追い出されている。ラサ東方40kmに位置するガンデン僧院では、8月30日と31日におよそ150人の僧侶が正式に追放された。彼らが『国家に反抗した』からであると言う。農夫や商人になれと言われた92人の僧侶たちは、ダライ・ラマ法王の4つの『帽子』つまり罪状を書き記すように要求する筆記試験によって、選別された。

1980年以来、中国政府はダライ・ラマ法王に対する個人攻撃を控えていた。文化大革命中に一般的に使われた、法王を非難する公式用語の『帽子』という言葉を使って、罪状を挙げさせることもなかった。現在の状況は、過去15年間で前例のない事態である。

今年5月にガンデン僧院で、ダライ・ラマ法王の写真を撤去するようにという命令に実力で抗議して、拘束された90数人の僧侶の内26人が釈放されたが、少なくとも15人は現在も拘束されており、およそ45人は行方が解らない。

ラサ西方6kmのデブン僧院では、少なくとも1人の僧侶が政治委員と口論して3年の刑を受け、他に4人が年数不明の刑で投獄されている。ガワン・タルチェン21才は、デブン僧院の講義を妨害したとして、先月3年の刑を受けた。チベットが13世紀以来中国の一部であったとする説を、『嘘の歴史』と評したためであった。

ラサの北方3kmのセラ僧院では、9人の僧侶が逮捕された。再教育運動を批判するパンフレットやポスターまた文書を所持していたためであった。

シガッツェの南西100kmに位置するサキャ僧院では、9月14日に郡刑務所で1人の僧侶が死亡した。再教育期間中に逮捕された2週間後のことであったと、同地域の非公式情報は伝えている。この逮捕の正確な理由は判明していない。しかしこの27才の僧侶、テンチョク・テンペルは、逮捕の直前再教育研修の役人と口論していたとの報告がある。地元の人々は、刑務所内の虐待で死亡したのであろうと言っている。

ガンデン僧院からの追放

ガンデン僧院の最初の大量追放は、8月30日に発生した。同僧院では政治的再教育運動は、他の僧院よりもおよそ1カ月早く、5月に始まっていた。僧侶たちはギュカンつまり密教学堂に集合するように言われ、そこで追放者の氏名が公表されたと、21才のガンデン僧院の僧侶ソナム・チャペルは語る。彼は、その後インドに逃れた。「彼らは誰がいないかを確認するために、一人一人名前を呼んだ。それから我々は、腰を下ろした。およそ200人の兵士が我々を取り巻き、銃を我々に向けていた」と、彼は語った。

92人のガンデン僧院の僧侶の氏名が、読み上げられた。その中には、5月6日の抗議運動の後に投獄された15人の僧侶も入っていた。15人の内少なくとも11人は、その日(8月30日)にグツェ拘置所から釈放されていた。その中には、軍隊が5月の抗議運動を鎮圧したときに、大腿部を撃たれた15才か16才のゲレック・ジンパという見習い僧や、脚を撃たれた17才か18才の別の見習い僧も含まれていた。

「彼らは追放の理由を、一切挙げなかった」と、東チベット・カムのタオウ出身のソナム・チャペルは語った。「(僧院の民主管理委員会の指導者の)ナムギェルが氏名を読み上げ、呼ばれた僧侶は立ち上がって既に呼ばれた僧侶の仲間に入る。我々は列に並ばされ、我々が国家に反抗したとの説明を受けた。そして写真を撮られたのです」

僧侶たちは、ラサからやって来た役人たちの責任者プンツォクから、彼らはもういかなる僧院にも所属することはできないと申し渡された。またラサ出身の者以外は、ラサに行くこともできないと言われた。

追放された僧侶たちは、荷造りに1時間半の時間が与えられた。「それから出身地別に、幾つかのグループに分けられた。各グループは2人の役人または兵士に付き添われて、故郷に連れ戻され、家族に引き渡された」と、ソナムは語った。

どの僧侶が追放されるかは、3カ月間の再教育期間中に政治委員の判断によって決定されたと、ソナム・チャペルは伝えている。「役人たちは僧侶を観察し、僧侶たちが改革されたか否かを、態度やその他によって判断した。僧侶の中には、中国人は良いと言わなければならなかった人もいる。私の場合には、7月に筆記試験を受けた。再教育期間中の2カ月目のことであった。ダライ・ラマ法王の4つの帽子について書くように言われた」と、彼は語る。

「私は、仏教の師僧(ラマ)は政治に関係がない(チベット語で、チェー・キ・ラマ・チャプシ・マレ)と書いた。後で我々は呼び集められ、なぜこのようなことを書いたのかと聞かれた。だから、我々が5月のデモに加わったか否かということよりも、解答の内容が問題になったのだと思う」と、彼は語った。

第7問、「リー・ルーファン同志の表現を借りれば、ダライ・ラマが被っている4つの帽子はとは何か」に対する正答は、「チベット独立を推進していること、国際反中国勢力の道具になり政治集団の指導者になっていること、チベットの不安定さの主要因になっていること、チベット仏教の円滑な活動の主要障害となっていること」だと、インド所在のチベット亡命政府が入手した文書の写しは伝えている。

指導層の中では比較的穏健派だと見られている、中国共産党常任委員のリー・ルーファンが、なぜ政治的な権威として非難合戦の真っ只中に躍り出て来て、強硬派の仲間入りをしようとするのかは解らない。

92人の僧侶が追放された翌日の8月31日、第2の集団が追放された、と報告されている。その殆どが15才未満の見習い僧で、中国の法律に従えば僧院に入れないことになっている。第2の集団の規模は、60人から70人の間だと思われる。ソナム・チャペルによれば、この結果ガンデン僧院にはおよそ300人が残っているだけだと言う。その内90人は、同僧院でガイド、家畜の飼育係、料理人、管理者として働いている人達である。これは、同僧院の400人の公式定員を100人下回っている。これはつまり未登録の僧侶だけでなく、登録済みの僧侶も追放されたことを示している。

ガンデン僧院の85人から91人の僧侶が、5月のデモの後の3日間で拘束された。1カ月後8人が釈放され、7月23日にさらに3人が、そして8月30日に15人が釈放された。今もまだ15人のガンデン僧院の僧侶が、拘束されているのが確認されている。しかし45人の僧侶は、所在不明となっている。

デブン僧院:5項目・2選択

ラサ西方6kmのデブン僧院では、少なくとも16人の僧侶が、ダライ・ラマ法王を非難しなければならない筆記試験を、受験しなかった。この僧侶たちは、公式追放を待つ事なく、10月25日頃に僧院を立ち去るように言われた、と非公式情報は伝えている。デブン僧院の再教育研修は8月第1週に始まり、11月初旬に終わる予定になっている。

チベット自治区政府の役人によって構成されている、デブン僧院の再教育工作班は、『5項目・2選択』と呼ばれる条件を僧侶に提示している。『5項目』とは、チベットを中国の一部と認めること、中国が指名したパンチェン・ラマを認めること、ダライ・ラマ法王を非難すること等である。『2選択』とは、5項目を受け入れて僧侶に留まるか、5項目を拒否して僧院を去るかのどちらかであると言う。

デブン僧院には、この再教育研修が始まって以来主要な建物には五星紅旗が翻っている。そこに留まっている僧侶たちの中で、若い僧侶たちは11月11日に政治試験を受け、年配の僧侶たちは11月12日に試験を受けた。試験に先立って、僧侶たちは問答集を貰った。これは試験が記憶力や理解力を試しているのではなく、僧侶から忠誠心の表明を署名付きで出させたいのだということである。

デブン僧院の試験の内容については確認が取れていないが、僧侶たちは僧侶に要求される政治的な条件を列挙しなければならなかったと、ある情報筋は伝えている。その条件とは、再教育工作班によって決定されており、共産党の指導性を受け入れること、社会主義制度を敬うこと、祖国の統一を守ること、分裂主義に反対すること、デモに参加しないこと、こういった意味で良い僧侶になることであった。

再教育期間中にデブン僧院で、5人の僧侶が逮捕された。その内の1人の僧侶の名前はガワン・タルチェンと云い、高名なチベット人歴史学者による講義を妨害したとして、2週間後に逮捕された。彼は裁判にも掛けられずに、10月25日頃に3年間の再教育労働収容所送りの判決を受けた。彼は、現在ラサ西方10kmのティザム刑務所で、受刑中と思われる。これは再教育研修の結果、申し渡された判決としては、最初のものとなった。

3週間前にチベットを公式訪問したヨーロッパ議会の3人の議員は、ガワン・タルチェンが判決を受けたとの非公式情報を耳にしなかったという。「正式な窓口を通して、この問題を採り上げたいと思う」と、アイルランド議員のバーニー・マローン女史は、ヨーロッパに帰ってから語った。

20才になるもう1人の僧侶ギャルセン・イェシェーは、関連した罪状で同じ時期にやはり3年の刑を受けたと伝えられているが、これはまだ確認されてていない。8月に逮捕されたデブン僧院の3人の僧侶、イェシェー・チャンチュプ、ガワン・チェゲル、ジャンペル・ワンチュックの所在は解っていない。

セラ僧院の再教育研修

セラ僧院の僧侶たちは、チベット共産党副書記のテンジンを長とする役人たちによって、教育を受けており、教育技術の多彩さを楽しんでいる様子もある。僧侶たちは、ラサの軍病院、またポタラ宮殿の修復作業、伝統的なチベット病院の訪問に連れて行かれており、中国による支配の利益を目にするように仕向けられている。また、1956年にダライ・ラマ法王が北京を訪れ、中国のチベットに対する介入を歓迎するとしたときのビデオを、字幕付きで見せられている。その後、僧侶たちはラサの近代化のプロジェクトの見学に連れ出される。

見学の後の研修会で、進歩は文化大革命中に仏像や高価な物品を盗んだことの代償にはならないと、僧侶たちは反論したと伝えられている。上海や北京の近代化の例を、ラサでも実現しろと求めた僧侶もいたが、それは高価過ぎると言われたという。

こういった見学にも拘わらず、再教育期間中のセラ僧院の状況は緊迫したものであったようだ。全研修期間中、武装した役人または警察が、僧院の周囲の建物の屋上に配置されていた。研修期間中に、9人の僧侶が逮捕されたことが解っている。その他に現在解っているところでは、ツェテンという名の女性が1人逮捕された。彼女は、拘束された僧侶の1人と親戚で、再教育研修を批判し独立を唱導するポスターを貼った罪で、他の5人の僧侶と一緒に逮捕された。

チベットの中心寺院と目される、ラサのジョカン寺の僧侶たちは、再教育研修の利益を得ている例である。寺院の商売指向を示すため、観光客向けの飲料の販売所を、再教育工作班の1人が屋上に設置した。これは明らかにお金を儲けて、再教育期間中の商売の落ち込みを補うためであった。

サキャ僧院の『管理強化』

9月14日にサキャ郡刑務所で、テンチョック・テンペルが死亡した。警察の発表では自殺であったという。彼は、9月1日にサキャ僧院の僧侶たちの全体集会の場で、逮捕されていた。遺体は、検死もされずに9月17日に荼毘に付された。

サキャ僧院の再教育研修が原因の逮捕者としては、2人目であった。8月23日、本堂の当番僧である僧侶が、彼の部屋でダライ・ラマ法王の写真やカセット・テープが発見され、その後の集会で逮捕されていた。その僧侶の名前はゲンドゥン・ギャルツェンと云い、金属製の『親指錠』で親指を縛られて、警察に引き立てられて行った。そして1週間後に釈放され、僧院から追放された。

20人の役人から成る再教育工作班が、おそそ80人の僧侶のいるサキャ僧院に入ったのが、7月の中旬であった。それ以来通常午後3時から7時まで、毎日4時間の再教育研修が行われている。研修は10月中旬に終了することになっている。

今年6月サキャ僧院の僧侶たちは、チベット共産党書記のチェン・キュイヤンが同僧院を訪問した際に、チベットの政治において「もっと重要な役割を」果たすように、また「僧院管理を向上し、仏教教義を前進させて、分裂主義に反対する」ようにと、呼び掛けられていた。チェンはまた、13世紀にサキャ僧院の指導者たちが当時の中国の支配者たちと同盟を結んだと、僧侶たちに語った。「行儀良くせず、破壊活動をするような僧院は、管理を強化され、仏教に説かれているような平和で静寂な場所」にさせられるであろう、と彼は付け加えた。

またシガッツェの北東50kmのナムリン郡の郡庁所在地である、リンゴンのガンデン・チェコル僧院の衝突で、数不明の死者が出ている。ルントゥプ・パルデンという名の僧侶は、ダライ・ラマ法王が10世パンチェン・ラマの転生化身と認定した子供に長寿の祈りを捧げて、他の少なくとも2人の見習い僧と一緒に逮捕された。2人の見習い僧は、警察から逃れようとして川に飛び込み、溺死したと言われているが、この報告はまだ確認されていない。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 29 November, 1996
3 Tibetans Shot by Nepal Police, 43 Others With Frostbite

3人のチベット人ネパール警察に銃撃さる、43人凍傷に罹る

概要:

亡命を求める3人のチベット人が、11月18日ネパール警察の銃撃を受けて負傷した。32人のグループが、チベット・ネパールの国境を越えた直後のことであった。他に子供を含む数人のチベット人が、警察官に警棒で殴られてケガをした。事件が起きたのは、カトマンズーの北東100kmのラマバガールであった。

この事件の他に、チベット人難民に関しては、ここ数年の内で最大の悲劇とも言える事件も発生した。43人のチベット人が、11月16日およびその後数日の内にカトマンズーに到着したが、3000mの峠を越える際に吹雪に襲われて、多数がひどい凍傷に罹っていると言う。

ネパール在住のチベット人亡命者たちは、凍傷の犠牲者の治療とリハビリのために、各種の財団に経済的な支援を求めている。数人は、今週中に切断手術をしなければならないようだ。

来週、中国の国家主席江沢民がカトマンズーを訪問し、難民受け入れの制限とネパール領土内でのチベット人の活動を制限するために、ネパール政府に圧力を加えようとしている。

詳細:

11月18日の銃撃事件の犠牲者は、32人のチベット人の集団であった。その中には、6才から16才までの子供が9人含まれていた。中国警察の追跡を逃れるために、殆ど知られていないパンデルマ山近くの3000m以上の峠を20kmも迂回して、国境を越えていた。

負傷したチベット人の中には、頭部に負傷した者が2人いて、その内の1人は子供である。恐らくネパール警察によって、殴られたための傷だと思われる。

チャリコットの北方30kmの同地域を管轄する警察は、グループが止まれという命令にも従わず、警察官に向かって石を投げ始めたので銃撃したと説明している。

同グループのチベット人たちは、警察は彼らを引き留めて、いきなり子供まで殴り始めたと言っている。難民の殆どは僧侶であって、殴打を止めさせるために石を投げた者がいると言っている。

ラマバガールから彼らを救い出すために駆けつけたチベット人は、警察も政府の役人もカトマンズーの亡命チベット人に連絡を取っただけで、負傷者の手当をしようとはしなかったのではないかと思われると言っている。「銃撃が終わっても、警察は何もしようとしなかった。治療も医者の手配もしなかった。後に警察は怖くなって、徒歩で2日掛かる同地域の警察署の上司に報告をした。そこの警視がカトマンズーに報告をしたのだ」と、語っている。

同グループは、事件が起きてから10日後の11月27日(水)の夜遅く、カトマンズーに到着するまで警察の監視下に置かれていた。途中の道路が雨で流されていたためと、チベット亡命政府が負傷者を輸送するためのヘリコプターを借り切る経済的な余裕がないために、行程の殆どが徒歩であった。ネパールの救助活動は、通常ヘリコプターが使われているにも拘わらずである。

負傷が最初に痛み止めを貰い手当を受けたのは、同地域をトレッキングしていた米国人登山者と偶然会った時であった。そして最初に治療を受けたのは、昨日カトマンズーのビル病院に着いてからであった。そこで負傷者たちは、致命的な状態ではないとの診断を受けた。「10日間も正規の治療を受けていなかったのに、傷が悪化していなかったのは驚異的なことだ。本当に運が良かった」と、彼らを治療した医療スタッフは語った。

20才のチェニというチベット人は、右の臀部を撃たれていた。銃弾は大腿部の動脈の2インチ脇を逸れて、臀部を突き抜けていた。もう1人の負傷者は22才のサムタで、ひざ頭を撃たれていた。3人目は25才のニマで、大腿部を撃たれていた。

カトマンズー在住のチベット亡命政府の役人は警察の連絡を受け、わずか1日で同地域に到着し、難民たちを首都に移送するように交渉を行った。カトマンズーではチベット人難民は、国連難民高等弁務官事務所の保護下に置かれ、インド亡命が認められることになる。

切断手術

今回の事件が起きた場所から、さらに200km西側に離れた国境でも、亡命を求めるチベット人の大集団が、警察の助けを得て先週カトマンズーに無事到着した。しかし集団の3分の1は、チベットから逃げる途中で雪嵐に襲われ重傷を負っている。

集団の人数は元々105人であったと言うが、現在少なくとも111人が加わっており、その内の43人がひどい凍傷に罹っている。中でも3人は数日の内に、手足の切断が必要な状態である。他にも患者の血行が回復しなければ、切断手術が必要な人が出る可能性もある。

111人の殆どが20才から25までの僧侶だと、ある情報筋は伝えている。数百人の僧侶が、3カ月の政治的再教育運動の結果、チベットの僧院から追放されたと伝えられている。

亡命を図った1つの集団としては最大規模のこのグループは、カトマンズー北西130km、アンナプルナの北55kmに位置するマナスル山のラルキャ峠で雪嵐に襲われた。西チベットのキロン郡の国境を越えた同集団の亡命者たちは、彼らを保護した警察署にたどり着くまで、腰の深さまで雪に埋もれて歩かなければならなかった。

11月17日付けのネパールの新聞記事は、同集団が妨害を受け、地元の政治家の難民を苛酷に扱えという要求で、10人のチベット人が馬の背に乗せられて運ばれたと伝えている。しかし実際は、馬の背で運ばれたチベット人たちは重傷の負傷者たちで、国連難民高等弁務官事務所の求めで、警察と地元の役人が提供した家畜によって運ばれたのだと、カトマンズーからの報告は伝えている。

同集団の殆どの人々は、国境から10日掛かって11月16日、ネパールの首都に到着したが、凍傷で重傷の人々は11月27日現在も続々と首都に到着しいる。

切断手術はネパールでは高価であるので、昨日遅くからカトマンズーのチベット亡命政府の出先機関は、負傷者の治療を行うための緊急募金を実施している。病院の手術代は膨大であり、さらに義手義足、術後の治療、リハビリとさらにお金が掛かることになり、これは亡命社会の能力を超えている。

「このような緊急事態がなければ、我々はやって行けますが、このような状況では問題はお金なのです。44人の凍傷の患者の殆どが、インドに行く前に少なくとも6カ月間は、ここに滞在しなければならないでしょう。そんなに長く彼らをここで養い、治療を与えるだけの資金が、我々にはありません」と、匿名希望の亡命政府関係者は語った。

カトマンズー郊外でチベット亡命政府が運営している、難民受け入れセンターに収容されている難民たちは、10月31日の夜間に地元民による襲撃を受け、ひどく殴られた。水の供給に関するトラブルであることが判っており、少なくとも2人のチベット人は頭部に負傷をしていると思われる。チベット人たちが反撃しなかったので、事件は拡大しなかった。しかし昨日現在、主要容疑者はまだネパール警察によって拘束されていない。

来週中国国家主席の江沢民がカトマンズーを訪れることになっており、チベット人の政治活動およびチベット難民のネパール入国を制限するように、ネパールは圧力を受けているようだ。

  1月からの新たなネパール駐在中国大使に指名されたザン・ジーウェンは、両国の相互関係はチベットとの国境を越えるチベット人難民によって、障害を受けるかも知れないと警告を発した。「中国は、国民の不法な出国に反対している」と語り、ネパールに下駄を預けた形となった。ネパールはこれまで、亡命チベット人の政治活動に焦点を絞っていた。

今年7月、ネパールの外相プラカッシュ・チャンドラ・ロハーニは、ネパールは中国の国益を害するようなことは何もしない、と約束をした。しかし11月16日コロンで開催されたドイツーネパール親善協会の会議で、チベット難民を国外追放にしないように命令を既に出したと語っている。

中国は、貿易および政治問題の情報交換をし、「相互関係を深める」一助としてネパールに中国研究センターを設立する計画であると、ネパール・中国非政府組織協会が10月30・31日にカトマンズーで開催した最初の会議で発表された。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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チベット人権擁護燈明集会声明

平成8年12月10日

日本国総理大臣 橋本竜太郎殿

 1980年チベットを訪れた故胡耀邦総書記は、チベットの惨状に涙を流し、漢人幹部を叱り付けたと伝えられている。できるだけ早くチベット人の生活レベルを、1959年当時のレベルまで回復すると約束した総書記は、チベットに開放政策を実施した。以来チベット仏教寺院も相当数再建され、僧侶の数も増えた。しかし昨年12月中国政府は、ダライ・ラマ法王のパンチェン・ラマ選定を無視し、チベットの宗教的伝統を破壊して、強引に別のパンチェン・ラマを擁立した。宗教に介入しようとする中国政府の狙いは、植民地チベットの民族と文化の抹殺にあり、その後もそのための政策を立て続けに実施して来た。本物のパンチェン・ラマを拘禁し、ダライ・ラマ法王の写真公開を禁止し、チベット仏教寺院の管理を強化して、チベット人住民と様々な衝突を繰り返している。
 中国政府のチベット仏教に対する迫害は、チベット人に対する民族的迫害そのものである証拠に、最近チベットを旅した日本人旅行者は、多くのチベット人の乞食を目撃したと語っている。子供を背負った母親が物乞いをする姿に、胸が詰まったという。チベット人の家族が彼らの祖国において乞食をしなければならない理由とは、一体何なのであろうか。
民衆がかく迄残虐な治世の犠牲になったことは、中国の歴史には例の多いことではあっても、チベットの歴史にはその記録は残っていない。つまり中国共産党が中国からチベットに持ち込んだ、中国人の悪癖によるものなのである。
 中国政府はチベット人を迫害する一方で、チベットの経済発展のための方策を練り、最近も日中友好協会の代表団を招いて経済援助および投資の可能性を探っている。特に電力開発に重点が置かれ、採算を無視した発電所建設は、西側諸国から不安の目をもって注目されている。近い将来回収不能の投資となって、さらに日本の経済回復の足を引っ張ることにならないように注意する必要があろう。また中国は、我が国の経済力を当てにするだけでなく、我が国固有の領土である尖閣諸島にまで侵略の矛先を向けている。尖閣諸島には民間所有の土地があり、所有者である日本人がこれまで固定資産税を支払って来た経緯がある。税金を領収している日本国政府が、税金だけ取り立てて国民の財産を守れなくなったら、政府としての義務を放棄するようなものである。今後は国民に税の支払いを要求できなくなることは明白なことだ。日本の中には、尖閣諸島問題で中国に義理立てしたような発言をする、愚かな政治家や外交官もいるようである。税の納付者に義理立てせず、中国のような帝国主義国家に義理立てするのは、中国の侵略行為に加担したいというような、何か隠された意図でもあるのであろうか。
 英邁にして気概を持した橋本総理は、毅然として日本国民の生命と財産の保護に力を尽くして下さることを期待する。また同時に、チベット人の自由回復と人権擁護のためにも御尽力下さることを期待する。

チベット問題を考える会代表 酒井信彦

小林秀英

チベット人の人権侵害を憂うる声明


1996年12月10日

中華人民共和国国家主席 江沢民閣下
         首相  李鵬閣下

 昨年12月、中国政府はダライ・ラマ法王のパンチェン・ラマ選定を無視し、チベットの宗教的伝統を破壊して、強引に別のパンチェン・ラマを擁立した。その結果チベット全土(チベット自治区だけでなく青海省、甘粛省、四川省、雲南省に併合された、正規なチベットの全領土)において、チベット人の反中国感情が燃え上がった。唯物論者の中国共産党がチベット人高僧の転生化身を認めること自体が、説明不能の絶対矛盾であり、世界の常識に照らせば噴飯ものの政治劇であった。中国共産党はこの問題で、世界の笑い者になっていることにも気が付いてはいないようだ。
 今年4月5日付けの『西蔵日報』第1面に、ダライ・ラマ法王の写真公開を禁止する旨の告示が掲載された。そして5月6日夜10時、チベットを支える4本柱の1本とチベット人が深い信頼を寄せる、ガンデン僧院は10台のトラックに分乗した人民武装警察部隊によって、無差別の銃撃を受けた。法王の写真撤去を迫る役人たちを、僧侶たちが追い出した日のことであった。600人を越える同僧院在住の僧侶の内、60数名が逮捕され大多数が僧院を逃げ出して、同僧院は閉鎖状態となった。他の僧院においても法王の写真撤去問題で、多かれ少なかれ同様の衝突が起きている。
 また今年5月からはチベット全土の全ての僧院において、3カ月間の僧侶の再教育運動が展開されており、中国共産党派遣の役人が全僧侶の思想点検を実施している。思想点検は『5項目・2選択』と名付けられ、5項目とはチベットを中国の一部と認めること、中国が指名したパンチェン・ラマを認めること、ダライ・ラマ法王を非難すること等であり、2選択とは5項目を受け入れて僧院に残るか、拒絶して僧院を去るかのどちらかであるという。思想点検によって、多くの僧侶が僧院を追い出される結果となっている。中には再教育期間中に、役人に強く抗議して拘束され、獄中で死亡した僧侶も出ている。
 以上述べた僧侶に対する迫害は、決して宗教的な理由によるものではなく、チベット人に対する民族的迫害の一部である。その証拠に最近チベットを旅した日本人旅行者は、多くのチベット人の乞食を目撃したと語っている。子供を背負った母親が物乞いをする姿に、胸が詰まったという。チベット人の家族が彼らの祖国において乞食をしなければならない理由とは、一体何なのであろうか。民衆がかく迄残虐な治世の犠牲になったことは、中国の歴史には例の多いことではあっても、チベットの歴史にはその記録は残っていない。つまり中国共産党が中国からチベットに持ち込んだ、中国人の悪癖によるものだということである。
 論語によれば、過ちを改むるに憚ることなかれと言う。中国人はこの格言に倣って、一刻も早くその大きな過誤を改め、チベット侵略を止めるべきである。

チベット問題を考える会代表 酒井信彦

小林秀英


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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