15号(1996年9-10月)


TIN News Update, 7 September,1996
Re-education Campaign Extended to all Tibet Region

再教育キャンペーン、チベット自治区全域に広がる

チベット人僧侶を再教育するキャンペーンは、中国政府が認めているように、ラサの主だった僧院で実行されていたが、今やチベット自治区の全ての僧院に拡大されていると、再教育工作班が提出した文書が明らかにしている。

キャンペーンの公式目的は、僧侶に愛国心を教育するためとされているが、独立運動への支持を根絶することを狙っており、亡命中のダライ・ラマ法王に対する直接的な反対を表明する等の、5項目の宣言を僧侶らに要求していると、僧侶らは語っている。

ある大きな僧院では、再教育期間中に『悪い態度』を取った僧侶は僧院から追放する、との文書も確認された。

「学習態度の悪い者、成績の悪い者、また意図的に学習を妨害しようとする者は、厳しく糾弾され、僧侶としての権利を剥奪されることになろう」と、セラ僧院の各僧侶に手渡された公式通告は告げている。セラ僧院では、6月中旬から再教育工作班が活動をしていた。

先月ある役人は、僧侶を政府の方針に従わせるために暴力は使われていない、と語っている。「僧侶を追放するか否かというような問題ではない。法律の範囲内で、彼らは宗教活動をすることを許されている」と、8月16日にラサの外交部の役人はAFPに語っている。

「チベット自治区政府は、僧院で愛国主義教育を始める決定をした」とその役人は語り、キャンペーンが実施されている僧院として、ガンデン僧院、デブン僧院、そしてラサのジョカン寺の名を挙げた。

1996年7月15日付けのセラ僧院の文書は、「次のステップとして、僧院に在籍する僧侶の数を固定化するためには、大規模な政治教育キャンペーンが重要なその手段となる」と述べ、どの僧侶が僧院に残ることが許されるのか、各グループが決定するように命令を出している。

「政治教育学習運動で良く学んだ僧侶は、称賛されるだけでなく、将来僧院に残れる僧侶のリストに名前が挙げられるように考慮されるべきである」と、セラ僧院の文書は述べている。同文書は、『セラ僧院工作委員会』の名前で各僧侶に手渡されており、同委員会はセラ僧院管理委員会とつながりがあり、再教育工作班と同義である。

『研修期間中に全てのセラ僧院の僧侶が理解すべき重要項目』と題された文書は、愛国主義教育キャンペーンの目的は、「党の宗教政策を完全にまた正確に実行する」ためであると述べている。また「宗教と社会主義社会が調和して共存する」ためであり、僧侶の意識に「愛国心」と「政府の見解」を植え付け、いかなる独立要求運動にも反対するようにさせるためでもあるという。

この文書は、4種の再教育教材を学び、講義や集会にきちんと出席し、メモを取るように僧侶に命令している。研修会の最中には、音を立てたり、早退したり、また再教育キャンペーンの手順を書き留めたりしないように、僧侶らは申し渡されている。

僧侶らは、また毎日1時間の宿題をし、各宿舎で開かれる個別指導や分科会に出席するように言われている。文書はさらに、学習会においては「積極的に発言をし、参加をして」、幹部に「心の内を打ち明ける」ように命じている。この「心の内を打ち明ける」という表現は、チベット語で「ニン・タム・シェーパ」という言葉が使われており、通常は恋人同士が心を打ち明ける場合に使われる表現である。

先月セラ僧院を訪れた観光客によれば、セラ僧院の再教育学習会は毎日3時に始まり、観光客はそれまでに退出しなければならなかったという。日常行われている仏教問答は、セラ僧院ではもう許されていないと、匿名希望のその観光客は語った。

セラ僧院の僧侶らが学習しなければならない4種の再教育教材は、『チベット自治区全僧院の愛国教育の解説と宣言』と題された本で、No1からNo4までのシリーズ本となっている。僧侶たちは、『チベットの歴史』、『分裂主義に対する抵抗』、『法律知識』、『宗教政策』の各教材について、それぞれ『宣言』を出す形式になっている。

平均およそ100ページの各教材は、1996年6月に『チベット自治区全僧院愛国教育推進委員会』という、以前は聞いたこともない名称の役所から出版されており、現在進行中の運動が自治区全体で展開されるものであることを示している。

チベット自治区の公式新聞は、既に2週間前にキャンペーンが自治区全体に適用されることになることを示唆していた。AFPとロイターの報道によれば、西蔵日報は8月23日付けの社説において「わが自治区の僧侶たちは愛国教育を受け、ダライ反動勢力に騙されている若い僧侶たちを解放しなければならない」と報じていた。

シガッツェ近郊のシャル僧院、および中央チベット、ギャンツェのパルデン・チェーデ僧院、サキャ僧院を訪れた観光客らは、3カ所全ての僧院に再教育工作班が駐在していたと証言している。サキャ僧院では、毎日午後3時から7時まで4時間再教育学習会が開かれ、またギャンツェでは、週に3回、月曜日と水曜日そして金曜日に学習会が開かれていたと、観光客の1人が語っている。

再教育学習会を実施している工作班は通常よりも大規模で、平均4人の僧侶に対して1人の役人の割合だと見られている。僧侶の数およそ20人のシャル僧院には、5人の工作班が駐在し、僧侶の数60人のギャンツェには15人の工作班、僧侶の数80人のサキャには20人の工作班が駐在している。ラサ近郊のセラ僧院には、以前の報告で150人の工作班と伝えられていたが、70人であると思われる。400人から500人の僧侶がいるデブン僧院では、料理人から運転手まで含めると180人の役人が駐在している。

工作班は各僧院に3カ月間滞在すると見られており、キャンペーンの期間中僧院の施設内に駐在することになる。役人の位も通常よりは高位であり、デブン僧院には郡レベルの役人が4人、県レベルの役人が40人が含まれていると、同僧院の情報筋は伝えている。そういった高位の役人が参加をしていることは、政治勢力の姿勢を表すものであるが、最高指導者たちはキャンペーンの日々の活動に加わることはなく、僧院に駐在することもないであろうと、その筋の観察者たちは見ている。

系列の僧院の僧侶たちも、再教育学習会に参加するために本山に集合しなければならないと、ラサからの報告が伝えている。僧侶たちは、各学習会に参加したことを証明するために、参加証明書を保存しなければならない。

セラ僧院の僧侶逮捕

7月にセラ僧院で逮捕された3人の僧侶の氏名が、ラサの非公式情報筋によって確認された。20才代の僧侶の氏名はガワン・エーセルと云い、独立要求文書の作成および配布の容疑で逮捕されたと思われる。30才代の僧侶ノルブは同僧院の師家であり、また副経頭(読経の読み出し役)を務めている。最近インドの亡命チベット人社会を訪れ、書物やテープを持ち帰ったとして拘束された。3番目の逮捕者はケルサンと云い、25才で、セラ僧院内のセラ・メ学堂に所属している。チベット史の本を印刷した罪で逮捕された。彼は、ニェモ郡のルカン村の出身で、木版の技術に秀でており、セラ僧院の印刷部門で働いていた。

彼の氏名はケルサン・プンツォクだと思われるが、逮捕されたのは2度目で、以前にも政治犯罪で逮捕されている。『チベットは独立国だ』、『チベット人の人権を守れ』等のスローガンが書かれたチラシを配ろうとして、1991年8月4日にラサで逮捕されたものである。そのチラシを配った罪で、グツェ刑務所で3年の刑を努めたと思われる。

セラ僧院の3人が逮捕されたのは、7月1日頃であったと思われる。7月の中旬には、セラ僧院でさらに4人から5人の逮捕者が出ているとの報告があるが、これはまだ確認されていない。

注:次の文書のコピーは、TINで入手可能。『重要項目』に関するセラ文書。再教育学習教材の内の3種。1991年当時のケルサン・プンツォクの写真と、当時彼が配布したチラシ。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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Appendix to TIN News Update 7th September 1996
Sera Monastery Re-education Instructions : Translation

セラ僧院再教育学習教材:翻訳

TIN 資料番号:21(VG)
資料記載日付:1996年7月15日
入手した日付:1996年9月3日
頁数:2、一枚の紙の片面に
記述言語:ウチェン(文語体のチベット語)
原本:大きさ不明の白い紙。風景画の表紙が付けられ、中央で縦に折られている。TINによって1、2と頁数が付けられた。肉太の字で表題、次に導入部の文章、それから1から6までの文章によって成り立っている。発行部署を示す一重の円形の赤いスタンプが、日付と2頁目の部署名の上に押されている。
対象:僧侶各位
表題:セラ僧院の僧侶たちが再教育学習会において学習すべきこと
発行部署:セラ僧院工作班およびセラ民主管理委員会
主題:愛国主義再教育キャンペーン
資料形式:公式指示

21(VG)翻訳

学習会においてセラ僧院の全ての僧侶が理解すべき重要な点

セラ僧院の全ての僧侶に

セラ僧院において愛国主義教育が、総合的な政治宣伝教育という手段によって、実施される時が来た。この学習会を実施する目的は、宗教に対する党の政策を完全にそして正しく遂行し、法に基づいて宗教問題を管理し、宗教と社会主義が調和を持って共存するための努力を開始するためである。また僧侶たちに愛国主義的思想を喚起し、政府の見解すなわち、政治的見解と法的な見解とを植え付けるためである。またこのキャンペーンは、祖国を分裂させようとするいかなる活動にも、完全に抵抗するように(僧侶たちを)教育するためでもある。

したがってこの学習会の目的を達成するために、以下の特別指示が推奨される。

1) 以下の資料は、既に全員に配布されているが、政治宣伝教育に使用されるもので ある。
『チベット史に関する簡略な説明と宣言』
『分裂主義に抵抗するための簡略な説明と宣言』
『法的知識に関する簡略な説明と宣言』
『宗教政策に関する簡略な説明と宣言』

以上の本は、これから始まる長期の学習会の主要な教材でもある。したがって字の読める者は誰でも、十分に学習しなければならない。全員が細心の注意を払ってこの教材を大事にしなければならず、破ったり、書き込みをしたり、汚したりしてはならない。

2) 全員が時間に正確に授業に出席し、報告や講義また個別指導に耳を傾けなければならない。授業中は行儀を良くし、注意深く耳を傾け、筆記をしなければならない。早退することも、音を立てることも許されない。授業に関係のないことをしてはならず、授業中にいかなる妨害もしてはならない。

3) 学習の方法は:会議で基調演説をし、小グループに別れて講義をし、宿舎で討議をする形である。自分自身で学習をするだけでなく、個別指導を受けたり、報告を聞く等の補足的な活動もある。宿舎の討議や小グループでの学習時には、個々人の心を打ち明けて(ニン・タム・シェーパ)話をする等の活動もある。

4) 僧侶たちは、討議に積極的に参加し、活発に発言し、貢献しなければならない。僧侶工作委員会の委員に会い、心を打ち明け、個別指導を受けることは、歓迎される。

5) 総合的政治宣伝教育期間には、個々の僧侶は自分のスケジュール表を作り、毎日継続的に1時間宿題をしなければならない。

6) 総合的政治宣伝教育は、僧院に残れる僧侶を選別する次の段階の、非常に重要な手段である。したがって学習の期間中に、時間を取ってでも僧侶の数を確定する作業を行う委員会を構成しなければならない。良い学生は誉められるだけでなく、僧院に残れる僧侶のリストに名前が入るように、考慮されるべきである。学習態度の良くない者、成績の良くない者、また学習の妨害を意図的に行う者は、厳しく批判され、僧侶の数に残る権利を奪われることになろう。

発行者:
セラ僧院工作委員会
セラ僧院民主管理委員会

1996年7月15日

押印

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 18 September 1996,
Re-education Drive : Sera Monks Issue Statement - Arrests Rise to 13

再教育キャンペーン:セラ僧院の僧侶声明を出す−逮捕者13人に上る

チベットの僧院における再教育キャンペーンの期間中に、逮捕された者の数は13人に上った。ラサの主要僧院の僧侶たちは、政府の要求に応ずることは拒絶する旨の声明を出した。政治宣伝工作班は、過去2カ月以上も毎日再教育学習会を強行し、僧侶たちに独立要求運動とその指導者ダライ・ラマ法王を非難し、チベットが中国の一部であることを受け入れるように、仕向けて来た。

今日ロンドンで入手した4頁の声明は、今年8月末に、ラサの北方3kmに位置するセラ僧院の、匿名の僧侶グループによって書かれたものである。同声明は、6月17日以来僧院に駐在し、400人を越える僧侶たちに『愛国心』を教育しようとしている、70人の政治宣伝工作班の圧力に屈してはいない、と語っている。

「我々、セラ僧院の僧侶は、我々の主張を保持し続けており、団結している」と同声明は述べている。「だからこそ、あなた方に挨拶を送っているのだ」と結ばれており、明らかに外の世界に向けらたものであることが判る。

チベットから外の世界に持ち出されるまでに、およそ1カ月掛かった手書きの宣言文は、セラ僧院の僧侶たちがダライ・ラマ法王を非難するようにという要求を、今まで拒絶しているとの旅行者の報告を裏付けるものである。

セラ僧院における再教育キャンペーンは、公式には愛国教育学習会あるいは『祖国を愛し、宗教を愛す』学習会と称されており、今週終了する筈であった。しかし僧侶たちが、独立要求運動に反対する5項目の宣言を今だに拒絶しており、僧侶たちは僧院に残る許可を得られないことが予想される。

「僧院の僧侶数は、限定されることになろう。そして、殆どの僧侶がその選に漏れることになろう」と、僧侶らの声明は述べている。

同様に3カ月間の再教育キャンペーンが、チベット全土の僧院において強行されており、セラ僧院のものは最初に終了することになっていた。

再教育キャンペーンが始まってからセラ僧院で逮捕された僧侶の数は、今までの所10人であると、チベットからの複数の報告が伝えている。セラ僧院の声明から、7人の逮捕者の氏名が確認された。その内3人は既に判っていた人々で:ガワン・エーセル、独立要求のチラシを書いた罪で6月28日逮捕:ノルブ、別名ロプサン・シェラップ、同チラシ作成に関与した疑いで6月30日に逮捕:ケルサン、別名ケルサン・プンツォクまたはロプサン、僧院の木版技術者、同様のチラシを印刷した罪で7月9日に逮捕されたものである。ケルサンは、同様の罪状で3年の刑を終えて、前年に釈放されたばかりであった。

2番目の木版技術者は、名前をブ・ゾンと言い、ケルサンと同じ晩に逮捕されたと伝えられている。僧院の近くに住む2人の一般人の女性と一緒に逮捕されており、これは明らかに同様な事件に関与したと思われる。女性たちの氏名は、まだ判明していない。

8月15日の午後11時15分頃、セラ僧院でさらに4人の僧侶が逮捕された。1人は、ロプサン・ニマ、セラ僧院のタムリン堂の堂守役の僧侶であった。他にタシ・ペルタル、僧院のセラ・メ学堂の師家であった。他にブ・ツェリンという名の修行僧、そしてロプサン・サムテンという名の僧侶であった。

セラ僧院の僧侶の声明によれば、8月15日の4人の逮捕は「ダライ・ラマ法王の写真が取り外されようとしている時」に起こったと言う。しかしそこにはそれ以上の説明はない。中国政府は今年4月4日、亡命チベット人の指導者の写真を掲げることを禁止した。そして、禁止令を実行しようとする初期の試みが混乱を引き起こし、ラサ東方40kmのガンデン僧院では、小規模な抗議運動を展開した僧侶を懲らしめるため、5月6日に警官隊が僧侶らに対して発砲し、少なくとも1人の僧侶が死亡した。

デブン僧院で3人が逮捕

デブン僧院でも、3人の僧侶が逮捕されたことが判明した。セラ僧院のキャンペーンが始まって6週間後の、8月初旬にデブン僧院で再教育キャンペーンが始まった。

イェシェ・チャンチュプは8月20日に僧院で拘束され、またガワン・チョペル、俗名ギャッツォは、8月30日に拘束された。両者とも、およそ23才である。

逮捕の理由は明らかではないが、両者がダライ・ラマ法王を非難することを拒否したためだと、複数の情報が伝えている。しかし、その内の1人は僧院の近くの刑務所の政治囚に、密かに僧院の食糧を渡そうとして見付かったためだ、との別の情報もある。

3番目の僧侶は、名をジャンペル・ワンチュクと云い、同時期に逮捕された。おそらく許可を受けずにインドに旅行をし、最近帰って来たためであろうと云う。

デブン僧院の僧侶らも、セラ僧院の僧侶たちと同じ困難に直面している。デブン僧院の僧侶各人にも一連の命令が布告され、その写しが今日手に入った。その命令は、僧侶らに全ての学習会に参加することを義務づけ、講義を筆記し、4つの教材を学び、毎日1時間の宿題をすることを義務づけている。8月21日付けで布告されたこの命令は、再教育学習キャンペーンでの『学習態度が悪く、成績の良くない』僧侶は、僧院から追放されることになろうと警告している。

デブン僧院の命令は、セラ僧院の命令よりももっと注意深い表現が使われており、脅しだけでなく誘惑にも力が入れられている:「本当に一生懸命学習し、態度が良ければ、以前は登録されていなかったにしても、(僧院に残れる)僧侶の名簿に入れられるであろう」と、デブン僧院の僧侶たちは言われている。デブン僧院の命令は、僧侶たちは愛国心の試験を筆記だけでなく口頭でも、受けることになると述べている。

「およそ180人の中国人がやって来て、3カ月間も僧院に駐在している」と、あるデブン僧院の僧侶が今日ラサから届いた個人的な通信の中で語っている。「毎日4時間も、私達は学習し、彼らの講義を聞かなければならない。そして僧侶1人1人が、交替で話もしなければならないのだ」

「彼らの意見に反対すれば、僧院から追放されることになる」と、彼は付け加えている。

9月15日付けの北京発ロイター電が報ずるところでは、役人たちはセラ、デブン、ガンデンの僧院に焦点を絞り、自治区全体の僧院の再編成を目指すための、テストケースにしようとしている、と公式のチベット語の新聞が先週掲載した記事は述べていると云う。

「多くの僧院は、既に分裂主義活動の基地になってしまっている。そして少数の僧侶や尼僧らが、分裂主義者らの中核となっている」と、チベット共産党副書記長のライディは、9月7日付けの西蔵日報に掲載された演説の中で語っている。「我々は、断固としてダライ・ラマ一派の拠点を潰さなければならない」と、彼は付け加えている。

以上

(翻訳者 小林秀英)


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TIN News Update, 5 October, 1996
Secret Report by the Panchen Lama Criticises China

パンチェン・ラマの秘密文書、中国を非難

TINが入手した秘密文書が、大量逮捕、政治的処刑、また1960年代初期にチベットを襲った人為的な飢饉を記録していた。また中国に協力していた高位のチベット人たちが、中国の政策について深い憂慮の念を抱いていたことが明らかとなった。そして最近またその憂えるべき状況の幾つが、再び現れて来ている。

文書は、チベット人を襲った大規模な飢饉は当時の政府の指令によるものだとしており、中国の政策が宗教を根絶やしにすることを目指しており、チベット民族の独自性を抹殺する結果となるのではないかと、既に文化大革命の4年前に憂慮の念を表明していた。

同文書は、共産党内部からのものを別として、同時代に指導者層に提出された文書の中では、恐らく最も本格的な中国共産党批判の書となっており、毛沢東が『反動的封建領主層から共産党に対して射られた毒矢』と評したと言われている。この文書は、1959年にペン・デファイ将軍を失脚させる原因となった、彼の有名な1万字の党批判の手紙を凌ぐと後に評された。

この文書を書いたのは、チベットに留まった最高位の宗教指導者であり、当時のチベット政府の首班であった、先代のパンチェン・ラマであった。パンチェン・ラマは1962年5月18日に、チベット政府首班の地位を中国の首相周恩来に贈った。中国統一戦線部の部長リー・ウェイハンは、およそ3カ月間同文書に盛り込まれた提案を実行すべく、幾つかの試みを実行した。しかし同年8月、毛沢東は階級闘争の中止を指示し、リーはパンチェン・ラマとの結び付きを批判された。同月にパンチェン・ラマは自己批判するように命令され、1年後にはラサで50日間の闘争集会に掛けられ、そして北京に送還された。そこで彼は、その後15年の内の14年間を、拘留あるいは軟禁状態で過ごすこととなった。

パンチェン・ラマが完全復活するのは、1988年になってからのことで、彼が亡くなる1年前のことであった。『7万字の覚書』として知られる彼の文書は、秘密にされたままであり、これまで中国共産党内部以外では目にしたものがいなかった。その公表は、チベットにとって大きな意味を持つことになる。また、パンチェン・ラマが共産党の疑う事なき支持者であった、との主張を揺るがせることにもなろう。共産党は現在、彼らが先代パンチェン・ラマの後継者であると一方的に宣言した、8才の少年を認めるようにチベット人に強制しており、また僧侶や尼僧の考え方を改革しようとの無謀な試みを実行しようとしている。

1962年の『7万字の覚書』に盛り込まれた提案は、1980年に中国の改革者胡耀邦によって実行され、また中国の指導者争いにも影響を及ぼした。そのため胡耀邦の後継者趙紫陽は、北京に軟禁状態となっている。

大量逮捕と飢饉

120頁に及ぶ文書は8項目に分かれており、1961年及び1962年の初頭にパンチェン・ラマが、全チベット人居住地域を調査旅行した時の状況が詳細に述べられている。主要な批判の一つは、1959年のチベット人の決起に対する、政府の過剰な報復的処罰に向けられていた。「どれ位の数の人が逮捕されたのか、知る術もない。各地域で、それぞれ1万人以上の人が逮捕されている。善人であろうと悪人であろうと、無罪であろうと有罪であろうと、皆逮捕されてしまった。世界のいかなる場所に存在する、いかなる法制度にも合致しないことだ。地域によっては、男性の大多数が逮捕され監獄に入れられてしまったので、殆どの仕事が女性や老人また子供によってなされている」とその覚書は述べている。

連帯責任を追求する処罰が、政策として実施されているのではないか、との疑いが提示されており、親戚が決起に加わったという理由でチベット人たちが処刑されていると述べている。また政治囚が死んでしまうように、役人たちは意図的に政治囚を苛酷な環境に追いやっているとも告発している。「反逆者の家族たちも、死ぬように命じられている。役人たちは人々を、彼らが慣れていない環境の刑務所に思慮深く送っている。そのために不自然死が極端に多い」と、覚書は述べている。

北京の指導者を説得してチベット人を餓死させることを止めさせようとする点に、覚書は最も力を込めている。特に東チベットでは、既に集団農場(人民公社)が設立されていた。「特にあなた方は、民衆が飢えて死ぬことがないように保証すべきである」と、覚書は周恩来首相に宛てた最終章で述べている。

「チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった」と、パンチェン・ラマは書いている。「チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる」と、彼は付け加えている。

民衆を公共食堂で食事させるようにとの決定が出された結果、民衆は1日当たり5オンス(180グラム)の、草や葉っぱや木の皮の加えられた小麦の配給を受けることが許された、と彼は記している。「この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている」と彼は書き、民衆特に釈放された囚人たちは強制労働をさせられていると付け加えている。「チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中ででも、こんな恐ろしい飢餓を想像することもできなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く」

その中心的な章においてパンチェン・ラマが明らかにしているのは、これらの死が正式な政策によって生み出された殺戮であったということである。毛沢東が外国からの訪問者に対し主張し、また西洋の支那学者の中にはその主張を認める者もいたが、自然災害によるものでは決してなかったという。「チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった」と彼は述べている。彼は続けて、彼が招集した青海省の集会で村人たちが彼に語った言葉を引用している。「もし国家が腹一杯食べることを許してくれれば」、死は避けられ豊かな収穫も達成できたであろうと云う。

1959年から1961年の中国の飢饉

パンチェン・ラマが覚書の中で述べている飢饉は、1958年の大躍進運動の結果、中国全土に広がった。毛沢東は、楽園としての共産主義を実現するための政策を、極端に加速させるために、農民に集団農場の設立を命じていた。1959年8月に開催された共産党会議までには、劉小奇や沛ャ平に率いられた実務派の指導者たちは、毛沢東の計画の実行を抑制し始めていた。しかし飢饉は、さらに2年間中国に広がった。『7万字の覚書』は1962年にはまだ青海省に飢餓が存在していたことを示している。また他の証拠が示すところでは、四川省内の隣接するチベットの領域であるカム地方では、1965年まで飢餓が続いていた。

1981年に出された共産党の記録『党史の結論』では、大躍進運動は「重大な過ち」であったと公式に認められている。しかし飢饉については全く触れられておらず、ただ「我が国と国民に重大な損失を与えた」と述べられているだけである。公に入手可能な中国の公式文書は、この問題に言及することを避けており、詳細に触れずに遠回しに『苦難の3年間』と述べているだけである。

1989年に中国の社会科学院が出した内部資料では、飢饉で死亡した国民の数は『内輪の見積で』1500万人と述べている。西洋の学者、例えば人口統計学者のジュディス・バニスター等は、飢饉による死亡者の数を3000万人と見ている。

北京の経済制度研究所が1980年台の初頭に出した報告書では、この飢饉の時にパンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45パーセントに当たる90万人が死亡したと公表している。そしてこの飢饉に関する大部の著書を今年発表した、ジャーナリストのジェスパー・ベッカーの研究によると、四川省では900万人が死亡したという。「中国のいかなる民族も、この飢饉によってチベット人程の苛酷な苦難に直面した人々はいない」とベッカーは語り、その後20年間中央チベットには風土病として飢餓が残ってしまったと付け加えている。

ベッカーや他の研究者の論点は、飢饉の間も中国は時には食料を輸出しており、飢饉を起こした真の原因は、中国の極端な秘密主義と、西洋の学者やジャーナリストまた政治家の中に、例えば有名なフランシス・ミッテランのように、「問題は自然災害とソ連の援助が中止されたために起きた」とする、中国の主張を喜んで受け入れる人々がいたためであるという点にある。「飢えによる死は、中国では収まった。食糧不足や又その程度のひどいものは起こったかも知れないが、決して飢饉という程のものではなかった」と、影響力のある英国のジャーナリスト、フェリクス・グリーンは、1960年に中国旅行から帰って書いている。ちなみに彼の兄弟がBBCを経営している。

ベッカーや他の研究者は、中国が大躍進運動後もずっとこの人為的な飢饉のことを隠し続けて来たことを発見したが、パンチェン・ラマの覚書はこの事実を裏付けているように思われる。覚書はまた、チベット人亡命者が当時申し立てていた事実、その申し立ては最近まで西洋社会では大っぴらに物笑いにされて来たことであるが、その事実をも裏付けている。法学者国際委員会が1960年にまとめた報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族滅亡を意図する大虐殺)があったとの明らかな証拠があると述べており、覚書はその見解を裏付ける結果となっている。

宗教と民族への脅威

法学者国際委員会の報告書は、グリーンや他の研究者によって幅広く批判された。しかしパンチェン・ラマ自身が、中国の政策がチベット人の民族としての生存を脅かしているのではないかとの懸念を、覚書の中で表明していた。「チベット人の人口は、極端に減少してしまった。これはチベット民族の繁栄に影響を及ぼすだけでなく、チベット民族の生存をも脅かす重大な脅威であり、チベット民族を息も絶え絶えの状態に追い込み兼ねない」と彼は書いている。この章は、周恩来によって強く拒絶されたと言われている。

パンチェン・ラマが覚書を書いたのは、民族統一戦線のリー・ウェイハンに励まされたからであった。リーはまた直接沛ャ平に報告書を書き、パンチェン・ラマの覚書が中国全土を覆った極左派に対抗する資料として、使われることを願っていた。しかし他のチベット人指導者は、ガポ・ガワン・ジグメも含めて、パンチェン・ラマにそれを文書で提出したりしないように懇願していたと、1989年にチベット学者のジャンペル・ギャッツォが北京で出版した伝記は伝えている。当時僅か24才であったパンチェン・ラマは、共産党員ではなかったし、大変な危険に直面する虞れがあった。特に前年、比較的自由な雰囲気が既に弱まりを見せていた。またパンチェン・ラマは毛沢東に対して直接、多くの不満を申し立てたことがあり、それを公にしようとの準備を進めることは危険であった。しかしそれでもパンチェン・ラマは、飢饉と大量逮捕の事実だけの報告に留まらず、中国の政策を批判する文書を書くことを決意した。

こうして覚書は、中国の民族・宗教政策を強く攻撃する形となった。チベット人自身が、民族としてのチベット人を消滅せることも可能である、とも述べている。「ある民族の言語や衣服、また習慣を取り去ってしまったならば、その民族は消滅し、別の民族に変化してしまうであろう。チベット人が別の民族に変化しないと、どうして我々が保証できようか」と彼は問うている。

覚書のこの部分が、宗教政策に対する彼の批判と共に、最も危険な部分であると見なされた。パンチェン・ラマは、僧院を改革する運動については全面的に支持をしたが、北京の指導者の指示に従わない地元の左派を悪用することについては、共産党が宗教を消滅させようとしていると強い非難を表明した。彼は、宗教は絶対的に正しいものであり、それを完全に消滅させようとすることは、反乱にまでは至らなくとも、重大な不安定状態を生み出すことになろうと言っていた。

「(現在チベット自治区となっている地域には)かつて2500カ寺の僧院が存在していたが、今では70カ寺が残っているだけであり、93パーセントの僧侶・尼僧が追放された」と、文化大革命の4年前に彼は書いている。しかし通常は、チベットの僧院を閉鎖したのは、文化大革命であったと言われることが多い。

「共産党の幹部たちは、少数の人々を使って宗教を非難し、それがチベット大衆の意見であるとの誤った見解を導きだし、宗教を抹殺する時機が到来したとの結論を出す。そのために覚醒を生み出す仏の教えは、チベット全土で栄えていたが、今や我々の目の前でチベットの大地から消し去られようとしている。私を含めた90パーセントのチベット人は、これには決して耐えられない」

覚書は、その時代の重大な争点にも関連性があった。1980年パンチェン・ラマは中国人の改革者、共産党総書記の胡耀邦に会った。そして胡耀邦がその年に、チベットで導入した開放政策に祝いの言葉を述べた。「パンチェン・ラマは、胡耀邦の改革にどれほど感動したかを、彼に告げた。そして『7万字の覚書』の中でパンチェン・ラマが提案したことが、もしその時に実行されていたら、チベットの問題はもうとっくに存在していなかったことであろうと述べた」と、現在米国で仕事をしているチベット人ジャーナリストのツェテン・ワンチュクは回想している。彼は、1980年に胡耀邦とパンチェン・ラマが会った時に、その場に同席していた。胡耀邦の改革に対する共産党の批判によって、1987年に彼は失脚し、それがその年と1989年の中国の重大な混乱に結び付いた。

パンチェン・ラマの1962年の覚書は、政策決定者はチベットの特殊性を考慮に入れるべきである、との前提に基づいていた。この前提は、1980年台の胡耀邦の政策の核となっており、パンチェン・ラマがチベットで様々な自由化を進めることを可能にしていた。1992年初頭、共産党は『チベットの特殊性』に対する配慮を撤回し、宗教活動を制限する現在の状況を生み出し、政治的に忠誠心を持つ僧侶を僧院の管理委員会に選出し、チベット語教育に制限を加え、パンチェン・ラマの求めに応じて胡耀邦が導入した、宗教と文化の自由化の流れを逆転させてしまった。

以上

(翻訳者 小林秀英)


英語の原文はTibet Information NetworkのホームページまたはWorld Tibet Network Newsで読めます。

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