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1929年、ラサから東へ200km、シガツェの北にあるナムリン県グチョク村に生まれる。家畜の世話をして一生を終わるような生活に違和感を感じ、文字を習いたいと思い始めるが、付近に学校はなく、家庭もそのような環境ではなかった。 舞踏団での訓練はひたすら厳しく辛い思い出ばかり。下宿先では奴隷同然の扱いを受け、何度も逃げ出した。しかし、ラサの有力な僧官のお稚児さんになり(宮廷舞踏団の男の子を囲うこと、ラサの僧官たちの一種のステイタス・シンボルだった)、そのコネでポタラの財産管理の下級役人となることができた。役所勤めにいそしむ日々の中、商人たちからインドやイギリスの話を聞き、英語の習得を志す。役所を休職して行商をして金をため、1957年にインドに渡り、カリンポンで英語の勉強を始めた。 そうこうしている内に1950年、チベットに中国軍が侵攻。1959年にはラサ蜂起が起こり、ダライ・ラマ14世の後を追って十万人のチベット人が難民としてインドに脱出。インドにいたタシ氏は、ダライ・ラマの兄ギャロ・トゥンドゥプの下で、チベット難民の支援や、国際社会にチベット問題をアピールする仕事に奔走した。 しかし、ギャロ・トゥンドゥプやその取り巻きが体現するチベットの上流社会と、貧しい村から奴隷同然にラサに来た自分の間のギャップが、まさにチベット伝統社会の問題ではないかと感じ、チベット社会を変革する意識を強くする。 1960年、シアトルのワシントン大学に留学。チベット学者Melvyn Goldsteinが同窓生であった。 |
1985年、バナクショー・ホテルの部屋で夜間英語学校を開講。外国人教師を招聘し大人気となる。大いに儲けるが、この年、故郷グチョク村を訪ね、私財で学校を建てることを決意。1986年に、1つめの学校を完成。 1988年、『英蔵漢対照詞典』(民族出版社)仕上げのため北京へ。大学を辞職し、英語学校も閉校。 1991年、ナムリン・カルツェ村に2つめの学校を建てる。資金調達のため、海外とのコネを利用した民芸品などの貿易を手がける。これが当たった。日本との取引もあった。 1995年、ラサに戻る。 1997年、自伝“The Struggle for Modern Tibet”がアメリカで出版された。ラサの新華書店などでも売られている。 1998年、「ナムリン・プロジェクト」のドキュメンタリー番組が西蔵電視台(チベット・テレビ)でチベット語と中国語で放映された。 2002年、教師などをめざしてラサで学ぶナムリン出身の学生らのための寄宿舎“ナムリン学習基地”を新ショル村に設立。彼らのための基金「T.T. Fund」(農牧区奨学基金会)を創設。エマガン職業訓練学校が開校。 2003年10月、“The Struggle for Modern Tibet”の編者のひとりであるWilliam R. Siebenschuhによる“The Struggle for Education in Modern Tibet: The Three Thousand Children of Tashi Tsering” (Mellen Studies in Education)が出版される。 2003年現在ナムリン県などに建てられた学校は65。 2005年9月、中国の国営テレビ・中央電視台(CCTV)で、タシ氏の人生を綴った50分間のドキュメンタリーが放映。英語・中国語でDVD化。 自伝“The Struggle for Modern Tibet”の中国語版『西藏是我家』(中国藏学出版社、ISBN7-80057-687-7、2006年7月)が出版される。 ラサのジョカン寺前のファーストフード店Dicos隣にある、昔ながらのチャン屋に奥さんら家族と住む。 |
2014年12月5日、逝去。享年85歳。 |